高校生向けに推薦してしまう書籍(その3)
ここでは高校生像として二つの面を想定する。一つは大学へ行って、或いは高校生でいるうちから大学生向けの分野をばりばり勉強したいのだが、「何をやっているのか」は何となくわかるけど「どうやってやっているのか」「なぜそのやり方でやるのか」はよくわからない、という高校生だ。高校の先生もそれを教えることはたぶん無理なので、このコーナーで生徒と一緒に勉強してほしい。もう一つはまもなく選挙権を得ようというときに、日本社会がどうなっているのか、何を争点にして投票すれば良いのか、そもそも投票で何かが好転するのか、ニュースやワイドショーや新聞での議題設定が信用できるのかそうでないのか、と思っている高校生だ。で、私は自分のsiblingから聞いてびっくりしてしまったのだが、今の子供に対して「君たちはこれから大変な時代を生きることになる」と言うのは「禁句」なのだそうだ。しかしまず絶対にそうなるので、ここでは悲観的な見通しの図書も含め、社会の在り方に思いをめぐらすための素材になりそうな図書を推薦していきたい。
宇都宮輝夫『宗教の見方―人はなぜ信じるのか』(勁草書房)
(目次等(出版社公式))(amazon)(ブクログ)(読書メーター)
大学の教養部で、多くの学部の学生を相手にして行なった授業の成果を一冊の書籍にしたというものである。多様な学部に属する学生からの質問や意見は、剃刀のように鋭かったり、バズーカ砲のように破壊的だったりして、そのおかげで宇都宮は議論をより精緻化していくことができたようだ。ただし、そういった教養教育としてふさわしい内容であるのは、主に第六章までであるように私は感じた。第七章は「カオスのコスモス化」という問題設定がかなり専門的であると思った。第八章は、先人の著作を批判的に検討することが主であり、その必要が在るのは宗教学・宗教社会学を専攻する学部生の卒論以降の段階でだろうと私には思えた。
この書のうち、特に第七章の「カオスのコスモス化」にかかわる箇所が読むのに苦労した点であり、今でも私はあまり理解できていない。なぜそのようになるかというと二つの事情が候補となる。一つは先人の著作を批判的に検討する場合、どれが先人の言ったことまたはそれの著者なりの言い換えであり、どれが著者自身の見解であるか、というその区別がざざっと目を通していくときに曖昧になりやすい、一読してすらすらと目に飛び込んで来ないという事情が在る。これは本書全体に言えることでもあるし、別の研究者の書いたものでも起こりやすいことだ。これをざっくり解決するためには、文章を減らして「図解」などを増やすことが有用になるだろう。文章という直線的なものだと、ぱっと見てわかるほどにはそういったことを明確化するのは困難だと思う。その事情が特に「カオスのコスモス化」の議題を扱うときに顕在化しやすかったのだ。もう一つ、「カオスのコスモス化」のあたりが判りづらかった事情には、検討されている先人によって用語法が異なっていたり、宇都宮が用いているような用語をまったく使っていなかったりする先人をも取り扱っている事情だ。「コスモス/ノモス/カオス」という概念群と、「聖/俗」という概念群との関係が、先人のあいだで全く異なっており、それを先人ひとりひとり別々に検討していくため、その都度頭を切り替えないといけないのだ。
宗教学という学問はいろいろ固有の事情を抱えているようだと感じた。このあたりは倫理学とも類似しているかもしれない。倫理学もまた「それ自体倫理的である」ような倫理学説に埋め尽くされていた。同様に、宗教学も「それ自体宗教である」ような内容が経験科学の装いのもとに提示されている場合が少なくないようなのだ。そのためだと思うが、宇都宮は「概念的思考」に基づく立論というものを身を以て体現している。脳科学やウィトゲンシュタインの「家族的類似性」について述べたあたりがそうである。私のような読書履歴だといささか「当然だろう」と思ってしまうような立論のしかたを、意識的に提示している。おそらく宗教学にはそのような論じ方というものが根付いていないのだろう。もしそうであるならば、宗教学を専攻し卒論や修論などを書く学生・院生が「ゼロからの構築」をやらされる破目になり、指導教員が理解してくれるとは限らないことになる。そういうときに宇都宮がこの著作で概念的思考や議論の仕方を提示してくれているので、宇都宮のこの書を参考文献にしながら、学生・院生もゼロから出発しないで済むようになるし、指導教員の理解もとりつけやすくなるだろう。そのようなメリットも在るし、大学生が最初に接するこの講義や著作の内容で、概念的思考の仕方を学ぶことも可能になる。同様にして高校生にも推薦しやすくなる。
この書のなかで論拠や結論として述べられていたことを一部でもいいので、少しまとめてみようと思う。この書は「結局何を述べていたんだっけ?」というのが少し曖昧になりやすい気がしたからだ。
- 宗教学のなかには、それ自体が宗教であるような主張や信念や根拠が伏在しているものが在るので、もっと経験科学としての宗教学になるようにしたい。そのようなときに(宗教)社会学(デュルケム・ウェーバー・バーガー・ルックマン)や社会心理学(フェスティンガー)などが役に立つ。また宗教学のなかにはデュルケムの学説を誤解しているものが在る。
- 「宗教的である」のと「宗教である」のとは異なる。しかし政治的な活動に見られる「宗教的である」ような現象と宗教とを明確に区別するのは難しい。
- 宗教とは、自然科学に見られるような合理的な特徴を欠いておりしたがって非合理的である、という見解は、充分考えられたものとは言えない。
- 宗教というのは、特徴づけのくっきりした現象ではなく、「哺乳類」のような家族的類似性のみられる現象だと言える。
そのうえで、国語力・日本語力の向上に資する中高生用のカリキュラムを作成しようというとき、宇都宮のこの書は示唆を与えるものである。「母語日本語の語彙を習得するのにどのような段階が在るか」の最後のほうの高校生の時期にふれた箇所に、片鱗だけ記した。
なお、ミスタードーナツが宗教団体であることも、強い主張性を伴わないまま記載されている。
藤川隆男『人種差別の世界史―白人性とは何か』(刀水書房)
(目次等(出版社公式))(amazon)(ブクログ)(読書メーター)
本当なら上級者向けの書籍である。ただこの分野を学習しようという高校生の場合では、志望校を決めるためにはこういった最先端の話題にも通じていないといけないので、その意味で高校生に薦める。もう一つ高校生に薦める理由が在るが、それは後述する。で、「白人性」という点が最先端なのだ。この書のような内容が人文学の一部では最先端の話題であるがゆえに出版当時に流行していたことは、大型書店の棚を見ていれば或る程度見当はついた。そしてこの書は上級者向けとはあまり思われていないのかも知れない。もし「人種」「差別」「世界史」のうち「世界史」を勉強した高校生を念頭に置けば、確かに「上級者向け」であると捉える必要は無いかもしれない。なぜなら、高校での世界史をきっちりやっていれば「人種差別」や「民族差別」ならば或る程度なじみができているからだ。この場合は、世界史で勉強した内容の理解が先行し、自分の身の周りの関連事項の知識を知ることのほうが後からついてくる。
一方、藤川は自分自身の身の周りの「差別」現象に関心をもったがゆえに、海外での「人種差別」のほうにも関心をもった、というふうな順番で経験してきたようだ。藤川自身の周囲の「差別」というのは、「部落差別」と「在日韓国・朝鮮人差別」の問題である。これらは「人種差別」ではない。「在日韓国・朝鮮人差別」は「民族差別」に近いだろうし、「部落差別」は「身分差別」であるように私は思う。これらのようなタイプの差別は、誰の身の周りにでも在る、というわけではないだろう。また「身の周り」に在っても知らないという人も居るだろうと思う。そうならないように、学校教育で「同和教育」等が行なわれるかどうかも、さまざまだと思う。いずれにせよ、このタイプの「差別」現象はこの書籍で初心者向け・知らない人向けに丁寧に解説されている、というわけではない。
この書では特に触れていないが、たとえばありふれた日本人が「人種差別」とかかわりがあるとすれば、「原爆問題」とでも呼びうるような問題を考えることもできる。米軍が原爆を実際に使用したのは日本人相手であったし、ベトナム戦争でも米軍は原爆の使用を考えていた(が実際には使われなかった)。つまり、米軍は白人相手には原爆を使うことはしないが、有色人種相手なら原爆を使っても良いと考える、という形で「人種差別」が伏在しているのではないか、という疑念である。しかし、こういった問題もまず最初に関心をもつのは「核兵器」等に関心が在る人のほうであって、「人種差別」に関心が在る人が関心をもつのはそれよりは下回るかも知れない。またサンプルが少なすぎて、このような差別が介在しているという証拠が無い可能性も在る。
「ここ十年くらいコンビニの店員が外国人であることが多くなったなあ」という事柄に関心が在る、ということを入口に、人種差別問題に関心をもつことも在り得るかも知れない。つまり「移民」という問題である。「なぜ、日本のコンビニの外国人店員には白人も黒人もめったにいなくて、“黄色人種”ばかりが多いのだろう」などと考えることも良いかも知れない。日本へ来る移民には白人も居るはずなのに、その中でコンビニの店員になるような人種はなぜ黄色人種が多いのだろう」というわけだ。こういうタイプの疑問をもっている人であれば、この書は比較的入りやすいかも知れないので、書いてみた。
この書の根幹の一つであるのは、人種差別の具体的な現れが「移民規制」という形をとっているものだ。これの代表がオーストラリアの「白豪主義」であり、他も太平洋に面した国(アメリカ合衆国やニュージーランドなど)で見られるようだ。「移民規制」に関する話題に大きくページを割いており、人種差別全般に関心が高いというよりは、「移民」という話題に関心が高い読者向けであると言える。ただ歴史学だからしようがないのかもしれないが、史実の記述がとにかく積みかさねられており、「だから何?」というのがそれに見合ったほどには語られない。私は歴史学には全く慣れていないので、そのせいか、この点で多少読むのが大変であった。
先ほど「人種差別」と「民族差別」という言い方をしてきたが、要するに「人種と民族とは違う」ということが前提になっている。この違い自体が歴史を背負っており、人種と民族の区別は現代の目で見るとかなり恣意的であった。藤川はこの著作で、「人種と民族との違い」の歴史を追跡し、これらの違いが恣意的であったことを言わば歴史に語らせるようにして説明している。そもそも「人類」と「人類以外」との区別からして紆余曲折を経て決められてきたのである。
またこの書では人種差別というものが、昔から在るような差別とは異なる、近代以降の現象であると強めに主張されている。たとえば、「苗字」というものを国民がもつようにならないと「黒人差別」のようなことが可能になりにくい。「代々の先祖のなかに黒人がいたかどうか」ということが「黒人差別」の前提には在り、そのことを知るためには、自分の先祖を四代くらいは遡ることができないといけない。つまり「苗字」というものが国民に確立され周知されていないといけない、だからこの差別が「近代以降」のものである、と説明・主張される。
さて、この書を高校生に薦めるもう一つの理由は、「無標」「有標」という切り口の解説がわりときちんとなされていることである。これは「人種」「差別」「世界史」といった話題に関心が無い場合でも、何かしらで役立つ可能性が大きい。主に第三部で解説されるこの種の道具立ては、別にこの書以外でも知ることはできるが、この書でも知ることができ、それは有用であると思う。
この点と「白人性」という話題とは大いに関係する。勝手に私が考えた例で説明してみる。私は以前から思っていたが、「あだ名」のつく人とつかない人というのがいて、ユニークな「あだ名」のつく人よりは、ユニークな「あだ名」を他人につける人のほうが概してユニークである場合が多い、そしてつける人には「あだ名」がつかないことが多い、というものだ。「白人性」という概念もこれと似ているところが在る。「あだ名の研究をします」という人がいたとして、この人がありったけ「あだ名をつけられた人のあだ名」ばかりを研究していたら、全く不充分ではないだろうかと思うことができる。「あだ名の研究をします」というときに絶対に落とせないのは「他人にあだ名をつける者がおり、またそれを多くの人が受け容れる」という事実のほうである。これと同じことが、「人種」や「民族」といった問題を扱うときにも言えるだろう、というわけだ。「在日韓国・朝鮮人問題」ではなく「日本人問題」であり、「アメリカ先住民問題」ではなく「アメリカに移住した白人問題」である、というわけだ。そして、そういった問題を起こしている側が「無標」になっており、特にその側を特殊な理由で強調したいとき以外は、単に「在日韓国・朝鮮人問題」とか「アメリカ先住民問題」といった具合に、「日本人」「白人」がマークされないまま問題として取り上げられるわけだ。すなわちこれが「無標」ということである。
そういった問題を取り上げるために「白人性」という概念を用いて「無標」だった事柄を「有標化」しようというわけだ。とは言え、まだ新しい切り口であったため、いろいろとごちゃついているようだ。もはや現代だと「白人性」「白人らしさ」といったものの一つの要素に「表立っての人種差別的発言・行為をしない事」というものすら候補として挙げることができる。「表立って人種差別をする」人のほうが「白人らしさ」を欠いており、「表立っての人種差別はしない」人のほうが「白人らしさ」を兼ね備えている、ということすら言いうるようになっているようだ。「白人性」を何処まで突き詰めれば良いのか、が今後問題になってくるだろう。
宮台真司・石原英樹・大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体』(筑摩書房)
(目次等(出版社公式))(amazon)(ブクログ)(読書メーター)
宮台真司主導で行なわれた大規模調査をもとにして宮台を含む三人によって書かれた、1990年代初頭時点での文化研究の成果である。大規模調査では統計調査のほかに、インタビュー調査や覆面調査も行なわれており、「なぜこんなことが断定できるのだろう」と疑問になるような箇所は、「きっとインタビュー調査や覆面調査によって裏付けられているのだろう」と思うことができる。また忘れてはいけないが、この調査的研究では膨大な固有名に言及されているが、膨大なマンガ家やマンガ作品、膨大なミュージシャンや音楽作品、性風俗に関連する映画や書籍やその送り手なども、調査目的でかどうかは別にして、きちんと内容を確かめられた上で書かれている。これも「調査」に含めたい。で、これを書き上げ公表した時点で1958年度生まれの宮台真司は30代前半、他の二人はさらに若いわけであり、またもやこの世代の強さに驚かされることになる。
この書は、1990年代初頭頃に多くの人々によって感じられていただろう「どうもここ最近、社会のことが見通せなくなった」という不透明感に対応して、その疑問を晴らすようにして書かれている。タレントの宮沢りえのヌード写真が大手新聞に公開された頃である。その一方で、この書を若い人に推薦するとしても、マンガ・音楽の多くの作品名・作者名を知らないか、知ってはいてもピンと来ないことがほとんどだろう。2024年現在の若い人がそうであるのは当然だが、その親世代ですらピンと来るかどうかかなり怪しいほどだ。にもかかわらずこの書を若い人に薦めるのはなぜか。それは、一つはこの大規模調査自体が知る価値の在るものだから、という理由も在る。それに加えて、固有名のイメージが湧かなくてもこの書の分析的な記述を読むだけでも参考になると思える、という理由も在る。この点は次以降の段落で述べる。
大規模調査に基づくこの書は社会学に分類されることが多いだろう。しかし、実を言うと、この書は社会学的な分析である以前の段階で、すでに「勝って」いる。社会学であろうがなかろうが関係無く成しうるような基本的な認識・記述の段階ですでに卓越しているのだ。換言すればこうだ。多くの人は普通、これほど沢山のマンガ作品・音楽作品を享受することができないし、しない。また、それをしたくても入手できない作品も少なからずである。なので、きわめて多くの、そして多種のマンガ・音楽作品に一通り接することができている段階ですでに、凡百の「分析」以上のものが成しうることは明らかである。そういうことだ。
マンガや音楽作品の「分析」は私の見る限り、次のようになされている。まず最初に
「敷居の高い」作品が在る。敷居の高さには二種類のものが在る。一つは、レベルが驚異的に高い作品というものが在り、その高いレベルに見合った者しかそれを享受できない、というものだ。たとえば、荒井由実(松任谷由実)や細野晴臣・大瀧詠一周辺ミュージシャンの作品、或いは、いわゆる24年組(萩尾望都・山岸凉子・大島弓子ら)の作品などがそうだ。ただし荒井由実の場合は、作品のレベルの高さと無関係に享受できる層が膨大であるわけで、その点にも言及され分析されている。
もう一つは、「高度な偶発性」に直面させられるため、多くの者はその不確実さに耐えられない、その意味で敷居が高い、というものだ。マンガの柳沢きみお作『翔んだカップル』や、電話風俗などがそれに該当する。
このように、言わば糸の端点を「敷居の高さ」という点で固定しておいて、それによってその反対側を位置づけるということが、この本で為されている基本的な分析なのである。そうすると、その反対側というのが「短絡」「馴致」「無害化」「落差」「予定調和」「自己韜晦」などのように位置づけられ、膨大な作品群から成る文化事象を記述することが可能になる、というわけだ。その位置づけの段階では社会学は必要でもないし、その段階で勝負はすでに決まっているのだ。
この書の「続編」を求める声も上野千鶴子の書評だけでなく、ネット上だけでも聞こえてくる。そういう声に対しては、この書で述べられた第二次ベビーブーム世代(2024年現在だと50代前半程度)についての素描的な分析に書かれた次の言葉を思い出してほしい。筑摩版でp494。
(前略)まったく偶発的なものであることがちゃんと意識されながら、たまたま自分が生まれ落ちた場所、自分が置かれた仲間関係、自分が享受したメディア世界といったものを、さしたる理由なく「守る」という方向ですね。(後略)
この書のような分析を、1990年代以降特に21世紀に入ってからの時期の文化事象に対して行なわれてほしい、というふうに感じる人には、上掲の引用を思い出してほしい。『サブカルチャー神話解体』という自分が享受したメディア作品を、さしたる理由無く「守」られてほしい、という方向性が見えるのだ。その反応は著者たちによって予期されているそれ自体分析対象でもある反応なのだ。
この書では「コミュニケーション」という語が極めて独特な使われ方をしている。通常ならば「二者が対面してそこで行なわれる何か」を指すのだろうが、この二者が同時・同場面でなく接触する場合も指しているし(それはまだいい)、それどころか「行為」ではなくたとえば送り手・受け手の脳内で起こっている思念や感情をも「コミュニケーション」に含めているように思える。このあたりで躓かないでほしいので注記しておく。
(社会)システム論といった語も要所で使われているが、これはさらにわからない。専門家の間でも、社会システム理論の理解が統一されているのかからしてわからないので、社会学関係者以外はあまり気にしなくて良いと思う。それでも失うものはほとんど無いように思う。ちなみに宮台の最初の著書である『権力の予期理論』を読めばシステム理論という語の使い方がわかるのかもしれないが、私が個人的に聞いた「噂」ではこの『権力の予期理論』は低評価であったので、なんだか食指が動かず、持っても読んでもいない。
竹内俊隆・編著『現代国際関係入門』(ミネルヴァ書房)
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2012年の出版なので、2024年現在だと適度に古くて、「現代史」の本として見た方が良いかもしれない。そうすれば多くの内容は現代でもまだ充分通用すると思う。
私が高校生くらいの頃思っていた疑問に「おとなはどうやって新聞等を読めるようになるのだろう」というものが在る。一度読めるようになった者なら新しい知識を常にアップデートさせていけば良いが、その始めの一歩がどのように踏み出せるのかが疑問だったというわけだ。で、その第一歩にこの書が好適なのではと私は感じる。他の本とかは知らないがこの書はその目的にかなうと思う。この書は、国際関係を専攻する学生向けということではなく、どの分野の大学生でも、或いは何なら高卒で働いている20歳前後くらいのかたにでも、読まれるようにと意図されている。基礎教養だというわけだ。そして実際新聞やテレビなどの報道を理解できるようになるため、役に立ちそうなたたずまいを見せている本なのだ。
この書で扱っている事実というものは、多くは「日本のマスメディアが構造的に報道できないようなヤバい事実」といったものではないと思う。そういうタイプの事実を知りたい場合は、もう少し学術というよりはジャーナリスティックな本を選ぶ必要が在るだろう。そうではない、わりとすんなり受け容れられそうな事実から成る世界の見方といったものを身につけるための書である。おそらく大学での専門の国際関係論もそうなるだろう。ただし、専門ともなれば、たとえば「アメリカでは公開されている公文書」に載っているがしかし日本のメディアは報道できそうにない事実、といったものを扱うことも学術の作法に則っていれば可能かもしれない。ただ、この書に関しては、そこまでのものは少し在るがほとんどはそうではないものだ。
この本のなかに「日本国」について特に取り上げるといった章や項目は無い。もしこの書が「日本国」についてまとまった内容を取り上げているなら、もう少しこの本の位置づけがしやすかっただろう、と私に関しては思う。そういう内容が特に無いので、この本を位置づけによって紹介することが私には難しかった。
しかるべき頭脳の準備ができているなら、中高生でも読むことは可能だと思う。クイズ研究会に所属し世界地図がまるごと頭に入っているという中高生、或いは模擬国連部に入っていて国際的な話題についてスピーチ・ディベートなどできるようにしている中高生、などはその準備ができているためこの書を読むことが容易になるだろう。或いは反対にこの書を読むことで競技クイズの対策や模擬国連大会の対策につなげることもできよう。
この本は、読んでいて「げっ、価値観が違う」「げっ、見かけ倒しでつまらない」といった読後感は起こらなかった。そして、今後情報や知識を増やしていくための準備になってくれそうな感触が在った。また関連する図書の紹介も親切でためになる。残念ながらこの書でなくても通用しそうな書評になってしまったが、以上のような点でこの書は推薦できる。
永井均『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』(筑摩書房)
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この本は大別して次の三種類の読者に読まれるだろう。1)哲学・倫理学専攻の学部生・院生・研究者、2)「倫理学とは何か」に関心の在る人、3)「倫理とは何か」に関心の在る人、である。
この書は主として、1のような専門家とその予備軍に読まれることを念頭に置いている。その際「M先生の講義」と「アインジヒトと祐樹と千絵のセミナー」の二つが交互に並置され、頭から順番に読んでいく、という読み方が推奨されている。で、この「M先生の講義」がかなり凝縮して書かれており速読するのには向いていないので、この書はやはり基本的には1のタイプの読者を想定していると思う。倫理学の教科書を依頼されて書いた書なのだからどうしてもそうなる。
2の典型は、たとえば永井均『<子ども>のための哲学』(講談社,1996)を既読の人がその後の展開を期待して読むという場合に当てはまるだろう。『<子ども>のための哲学』では「私の存在」と「道徳の存在」と二つの問いが別々に提示され、専門家になる以前の段階までの永井の思考が示されていた。で、この二つをどうやって統合していくか、という問題が課題として残されていることが示唆されていた。その二つの統合の一つの成果として『倫理とは何か』を読むという読み方である。この書ではその二つの問いの統合が輪郭がかなりくっきりとしてきはじめていると思うのでお薦めである。で、『<子ども>のための哲学』の中で書かれた永井が倫理学に対して感じた違和感が、ちょうどそのまま『倫理とは何か』ではスタート地点にて登場人物(特に祐樹)の口を借りてあらためて述べられる。このように、「倫理とは何か」を考えるにあたって「既存の倫理学への違和感」をてこにして読むことになるので、「倫理学とは何か」に関心の在る読者(たとえば社会学の研究者や院生・学生)におすすめなのである。
3は全くの一般読者で「倫理とは何か」に関心の在る読者であり、セミナーの中では千絵がその代表のように振舞う場合がたまに在る。千絵は「道徳的な善悪」なんて考えたことも無い、という設定だからだ。法律や校則などとは異なる「倫理」や「道徳」とは何か、モラルやエチケットや良識の支配する世の中でどのように「幸福」に生きていくのか、そんな問題意識をもつ一般読書人もこの書の対象だ。この場合は、専門家や専攻する学生向けに書かれている「M先生の講義」はほどほどにして、「アインジヒトのセミナー」のほうに重心を置いて読むことになるだろう。ただし、多くの一般読者にとっての「結論」がこのセミナーではむしろ「前提」として扱われることが多い。そのこともあり、多くの一般読者は置いてきぼりにされるかも知れない。
倫理学と哲学の関係というのも、一般読者にはよくわからない点だろう。通常の場合、倫理学を研究しているのは哲学研究者である場合が多い。この場合、倫理学は哲学の一部という位置づけになる。なので、猫のアインジヒトが倫理学者の役割を担っているだけではなく、ときどき哲学者の役割も担っているケースが在る。たとえば、プラトンのことを倫理学者としては「黒を白と言いくるめる」連中であると酷評したあと、「しかし問題のありかを明確にしたという点で哲学者としては破格に偉大である」と述べるなどしている。こういうふうに、倫理学者・倫理学説としての評価のなかに、ときどき哲学者・哲学説としての評価が顔を出すという叙述をしているのも、一般読者が躓きやすい点だろう。注意されたい。
この書籍を「M先生の講義」を踏み台にして「アイジヒトらのセミナー」で永井の見解を述べるという論説文的構造を取っているものだと見なしてみよう。実際はこの「M先生の講義」と「アイジヒトらのセミナー」との関係はそう単純ではないのだが、ひとまず「アイジヒトらのセミナー」に主眼を置いた読みを想定する。その場合、中心的な論点・論拠を4つほど挙げておこう。これらの点を先に押さえておくと、読みやすくなるだろうという期待を込めてだ。
1つめは次のアインジヒトのセリフに表われている。筑摩の版ではp226(第四章)のセリフだ。善・悪という語の使い方が通常の場合の多くとは異なることに注意したい。
(前略)もしまったく被害者がいないなら、人を殺す快楽を味わうことそれ自体は、悪ではなく善だ。ひとり自室で殺人シミュレーションに興じるやつを、われわれは恐れ、嫌悪する。しかしそれは、そいつのその傾向性に恐れを感じるだけで、それらをぜんぶ除去して、彼の快楽だけ取り出して考えれば、それは善だと言わざるをえない。繰り返すが、これはまったく自明な事実を確認しているにすぎない。明晰に思考できさえすれば、だれでも賛成せざるをえないはずのことだ。もし反発を感じるとすれば、哲学的議論をその抽象度にふさわしい水準で思考できていないだけなんだ。
2つめは、『<子ども>のための哲学』で別々の問いであった「私の存在」と「道徳の存在」とが関連付けられるように見えるアインジヒトのセリフである。間に千絵のセリフが入っているがそこを飛ばしても読めるので、そのような形で引用する。p300(第六章)である。
(前略)彼は「他人の身になってみる」ことの例として、スミスを拷問にかけようとしているジョーンズが、スミスの身になってみるという場合を論じている。そこでヘアは、「ジョーンズがジョーンズはスミスと同じ状況にあると想像する」ということと「ジョーンズが自分はスミスと同じ状況にあると想像する」ということとは違うと言うんだ。どう違うのだと思う?
(中略)
「私」と「ジョーンズ」とは同じ人物を指しているのに、二つの表現の間には違いがあるんだ。違いは、ジョーンズが「ジョーンズがスミスと同じ状況にあったなら、ひどく苦しむだろう」と言うことと、ジョーンズが「私がスミスと同じ状況にあったなら、私はひどく苦しむだろう」と言うことの違いだ。ジョーンズがスミスと正確に同じ状況にあるなどということはありえないことだけど、それにもかかわらず、ジョーンズが「私がスミスと正確に同じ状況にある」と言えるような状況はありうる。なぜなら、ジョーンズやスミスはそれぞれ固有の性質を持つけど、「私」はそういうものが何もないからだ。
ある人のことを「ジョーンズである」と言うなら、その人がある一群の客観的性質を持つということを言っていることになるけど、ある人のことを「私である」と言うときには、その人がある特定の客観的性質を持っていると言っているわけではないんだ。したがって、私自身が他のだれかの身になってみるということは、私自身が相反する二組の性質を同時に持つということではなくて、私が一組の性質を失って別の一組の性質を獲得することだ、というわけだ。
3つめは、利己主義ならぬ「利今」主義として述べられるものだ。p76-77(第一章)ではまず次のようにアインジヒトのセリフで述べられる。
自分というものは、時間的連続体なんだよ。だから、長期的観点から見れば、自分の幸福にとって結局はよくないとわかっていることでも、短期的観点からは自分にとってよいと思えることはいくらでもある。タバコを吸うことが気持ちがいいけど、肺ガンで死にたくはないと思っている人にとって、どちらの観点が優位に立つかは決定できない。それを調停できるさらに上級の審級は存在しないからね。
と一旦は述べられたものの、後になって少し変わってくるようだ。p243(第四章)では次のようにアインジヒトは述べている。
俺は、俺であるというまさにそのことによって、ほかのやつが否定するであろう行為理由を最優先すべき理由を持っている。今の俺は、今の俺であるというまさにそのことによって、他の時点の俺が否定するであろう行為理由を最優先すべき理由を持っている。どちらも全体の視点から見れば不合理かもしれない。しかしそんなことは俺や今の俺の関心事ではない。(後略)
4つめは倫理学というよりは哲学全般に関係する論点であり、永井の他の著作にも顔を出す考え方だ。p118(第二章)では「対比の拡張」と呼ばれている。
- 祐樹
- 「対比の拡張」って?
- アインジヒト
- a対bの対比があるとき、そのaとbをいっしょにして大文字のBと置いたときに、同じ言葉を使って、A対Bの対比も表現される、といったことだな。契約前と契約後のホッブズ的な対比は、この小文字のa対bにあたる。しかし、そのaとbは、両方ともじつはもうすでに契約後の大文字のBの内部にあるんじゃないだろうか。
- 千絵
- じゃあ、大文字のBの成立よりもっと前の大文字のAがあるというわけ?
と説明されるが、具体的にはたとえばp116でアインジヒトが述べているような内容だ。
しかし、驚くなかれ、じつはわれわれはみんな契約後の存在なんだ。だから、その魔術にもうかけられてしまっているんだよ。むしろ問題は、もうかけられてしまっている観点から契約前のことを理解しようとしても、それは本当はできないということにあるのかもしれない。契約前と契約後を対等に見通すような観点に立つことはできないのかもしれない。
というふうに述べられている。以上の4点をあらかじめ押さえてから読むと、読みやすさが上がると期待できる。
この書は、倫理学史のメインストリームが「それ自体が倫理的であるような倫理学説」によって作られてきたことへの、異議として書かれている。出版当時は画期的であったことだろう。倫理的であることをまったく推奨しない倫理学というものの読者の需要というものはやはり在っただろうからだ。既存の倫理学に満足のいかない読者の最後の行き場になっていたことだと想像する。そして今、最初からこの本で学ぶことができるようになったし、私もそういう読者を想定して書いた。倫理的であることを全然推奨しない倫理学のテキストは、おそらくその後倫理学の書を多数読まなくてはならない専門家やその候補の人にとってはまたとない読書機会であろうし、まったくの一般人の読者にとっても、いささかの驚きとともに好意的に受け取ることができるように思える。そして永井によればこの書のなかには、言いっぱなしになって回収されていない論点がいろいろ残っているらしいので、そういう論点を探して突き詰めていく楽しみも残っている。
まったく個人的なことを述べれば私はこの書から宮沢賢治の『貝の火』を連想させられた。まったくの個人的な『貝の火』観に基づく感想ではあるが、いちおう記しておく。
小坂井敏晶『社会心理学講義 ─〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩書房)
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この本を高校生に薦める理由はとてもシンプルだ。高校生がもし小坂井の他の著書を先に読んだら、その読者の中からきっと「小坂井先生のような社会心理学者になりたい。こういう著作を書きたい」と思う者が必ず出てくる。だから、そういうことがきっと起こるから、私はこの書を薦める。すなわち「日本の大学はもちろんのこと、アメリカ合衆国だろうがフランスだろうが、“小坂井氏の本を読んで社会心理学を専攻しようと決めました”という志願者の行き場は無い、ということがこの書でよくわかるから」だ。もし小坂井の著書に心酔して研究者になりたいのなら、その行き場は自分で開拓するしか無い。その場合多くは、モスコヴィッシ(小坂井の学問上の恩師)の想定するような少数者として、相応に苛烈な生き方になることを覚悟せねばなるまい。ただ、もう一言だけ言っておくと、「分裂した心理学と社会学の止揚」といったことは、西阪仰や大澤真幸といった社会学者の著作で、事実上なされているように私には思われる。ただこれらの社会学者はもう定年とかだったりするので、これらの社会学者に好意的である中堅・若手社会学者のいる大学を目ざせばいいと思う。
社会心理学は当然のようにして心理学実験を研究のほぼ唯一のツールとして用いる。なぜだろうかと推測するに、社会心理学者を志す者の多くが「なぜ人は迷信深かったり、他人の影響を受けやすかったり、非科学的・不合理的だったりするのだろうか」というタイプの問題意識をもっているからだろうと推察できる。そのため、信用できる社会心理学であるためには、それは科学的でなくてはならず、したがって心理学実験こそが信用できる知識を産出するために唯一使うことができるツールである、となるのだ。ところが社会心理学者はそこで、心理学実験それ自体を他の手法と比較したうえでの考察や解明の対象にはしない。そこは証明抜きなのだ。なので、社会心理学の知見それ自体を用いて社会心理学実験を解明する、という循環的な議論・理論化も行なわれないし、或いは、いかに実験的手法がすぐれているかという議論をしたりもしない。そういう議論(思弁と呼ばれることが多い)は、科学的でないばかりか、哲学に「退行」してしまうので、議論(思弁)もしたくないのである。したがって、社会心理学は理論も議論も無く、実験結果の羅列になる。社会心理学の知見からおのずと実験的手法がすぐれているというふうに論証されるのではなく、社会心理学を専攻したときの「初心」から実験的手法がすぐれていると無条件に信仰することが結果するのである。その姿勢が、社会のつかない心理学のメインストリームと相性が良いため、社会心理学は心理学の軒先で営業する、心理学の一部門となるわけだ。
小坂井の恩師であるモスコヴィッシは、社会心理学の実験は「証明」の道具ではなく、「発見」の道具である、と位置づけているらしい。その点では、他の社会心理学者と異なることになるのかもしれない。だが、知覚や認知の心理学実験と異なり、社会心理学の実験は、その場合であっても、大きな困難が待っていることには変わりないと私は思う。社会心理学の実験というのは一人に対して、最多で一回しかできない、ということが重要だ。どういうことか。被験者は、社会心理学に関してまったく無知でなくてはならない。社会心理学を大学で概論として学んだことの在る人というのは、社会心理学実験の被験者にして良いわけがないだろう。普通に考えてそうだ。そして、一度社会心理学の実験で被験者になった経験が在る者も、同様に、二度目はもう被験者としては使うことができないことも明らかだろう。何であれ、素朴に、素直に振舞うということはもう無いからだ。そして、ここからが重要なのだが、昔なら「どっきりカメラ」、最近だとたとえば「ロンドンハーツ」といった番組では、それこそ社会心理学そこのけの「仕掛け」やら「サクラ」やらが存在するような状況を作り出し、それに騙される(騙されたフリをする)芸能人などを見て、笑いものにするわけだ。だから、そういうタイプの営為というものが、多くの人にとって「常識」になっている。そういう番組を見慣れてしまった人が、社会心理学実験で心理学者の望むように振舞うとは、私は信じない。また、その点を深く悩むことなく設計された社会心理学の実験での「反応」やら「結果」などというものも私は信じない。実験社会心理学というのは、だから、小坂井が全盛期だと位置づける1960年代までなら有効だったかもしれないが、ちょうど「どっきりカメラ」が始まった1960年代末期頃からは、もう有効ではなくなり始めていた、と私は思っている。参考:ドッキリ - Wikipedia。
この本は、中盤少し過ぎまでではモスコヴィッシをはじめとする社会心理学研究に対する教科書的説明の誤謬を批判しつつ、何人かの社会心理学者を中心に、大脳生理学の驚異的な知見も踏まえ、紹介的に議論や叙述が行なわれる。その中では「社会心理学の教科書の説明は誤りである」といったフレーズが頻発する。だが、最後の章のほうになり、社会心理学者小坂井自身の研究の紹介が中心になっていくにつれて、社会心理学実験の話題は急速になりをひそめていく。つまり、大量の社会心理学実験を精力的に行なってきたモスコヴィッシたちのことを敬愛しつつも、自分自身はほとんど社会心理学実験を行なっていないらしい様子が窺えてくる。私が上のほうの段落で書いた件、社会心理学実験の困難という件に対する小坂井の「回答」がこういうことなのではないかと私には思える。ここでは、小坂井は問題の解明そのものに集中し、そのための発見の手段としても実験的手法は特に用いられない。むしろ歴史的事項を参照し、史実から知見を引き出そうとする印象が強い。
日本の心理学は長いこと、実験や統計的調査のような統計学を用いる研究は「文学部」で、質的研究を中心とするフィールド的研究は「教育学部」で、というふうに棲み分けていた。フランス在住の小坂井の最初の著作が日本で出た頃、日本国では佐々木正人・編『心理学のすすめ』(出版社紹介ページ)が出版され「これからの心理学は、実験室を退出して、野に出て質的研究をやろう!」という意気込みが述べられた。その成果とも言える、状況論3部作『状況のインターフェース』(出版社紹介ページ)・『認知的道具のデザイン』(出版社紹介ページ)・『実践のエスノグラフィ』(出版社紹介ページ)が出版されたものの、重要な心理学者が何人か亡くなったことも相俟って、その後あまりめぼしい動きは見られなくなったと思う。その空白を埋めるようにして、小坂井敏晶の著作が次々と出版・文庫化され知名度もいきなり上がって、読者の裾野が大幅に拡がっているという状況が現在である。
小坂井のこの著作の中盤前後は、主に社会心理学全盛期を作った大物たちの、影響研究の話題が中心に在る。で、私は悲観的な人なので、このままいったらいずれ「文系の学問」は一般の大学生は学べなくなり、政府によって厳重に隔離された場所で、一部のエリート学者だけが内密に行なうものになりかねないと思っている。そこでの研究の中で、中心となるものの一つが実験社会心理学であり、国民を支配しコントロールする技術として研究が進められ、その技術によって日本国民は統治・支配され、飼い馴らされることになるだろう。なので、そのような時代が到来してしまう前に、小坂井の著作によって社会心理学の知見を勉強しておくことは、その「支配」に対抗できるだけの自衛になると思っている。政府に「支配」されたくないという人にもこの書を含む小坂井の著作をお薦めしたい。
児玉聡『功利主義入門 : はじめての倫理学』(筑摩書房)
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この書は「入門書の入門書」とでも言うべき位置に在る。巻末の文献案内で少なからぬ数の入門書を推薦していることからも、そう位置づけうるはずだ。そして、倫理学に入門するのにはまず功利主義から学ぶのが良い、ともよく聞くように思う。そういうわけで、この書は読者の裾野が広い。そして、確かに読みやすい。この書を高校生に推薦するのも、その点を考慮してのことだ。で、この書が功利主義の入門としてどれほど適しているかどうかの判断は私にはつかないので、以下、この書に書かれている功利主義が功利主義の典型であると見なし、コメントすることにする。
そのうえでまず気になった点を挙げる。それは「そもそも倫理学に入門する」とはどういうことか、という点と関係している。児玉は、p60-61にかけて映画「シザーハンズ」を例にとって次のように述べている。
(前略)しかし、社会生活を営んだことのないエドワードは、子どものように純粋な心を持つ半面、何をしてよくて何をしてはいけないのか、つまり倫理のルールがわかっていない。そのため、知らず知らずのうちに犯罪行為の手助けをするなど、さまざまなトラブルに巻き込まれてしまう。エドワードの今後を心配したキムの父親は、一家での夕食中に、エドワードに次のように言う。
よし、ちょっと倫理の勉強だ。君が道を歩いているとする。するとスーツケースいっぱいに詰まった札束が落ちているのに気づく。君は一人きりで、あたりには誰もいない。さて、君はどうするべきだろう?A.お金を自分のものにする。B.そのお金で友人や大切な人にプレゼントを買う。C.貧しい人にあげる。D.警察に届ける。
読者もお察しの通り、模範的な解答は「D.警察に届ける」である。自分なら実際にはAを選ぶかも……と思った人も少なからずいるかもしれない。正直でよろしい。だがこれは「自分だったら実際にどうするか」という質問ではなく、「倫理的に考えてどうすべきか」という質問であることに注意してほしい。
引用のなかの「半面」はママ。「反面」がおそらく正しい。で、この父親が教えているのは「倫理」なのだろうか、という疑問が私は起こってきて止まらないのである。私の感覚では、この父親が教えているのは、「合法性」でしかないように思えるのだ。「C.貧しい人にあげる」と「D.警察に届ける」のどちらが、「最大多数の最大幸福」(not 多数派の最大幸福)に寄与するかなんて、そんな容易に答が出せるものではないだろう。ここでは「合法性に叶っていることこそが“最大多数の最大幸福”に寄与する」という暗黙の判断が行なわれているとしか思えない。
つまり、どういうことかと言うと、「倫理学」に入門するにあたって、読者や学生がまずしなくてはならないのは、「合法性」と「倫理」とは別物である、ということを認識することであり、その重要な最初の手続きがこの書ではショートカットされてしまっている、ということなのである。「合法性」のほかにも、「倫理」のライバルがいる。「校則」や「社規」や、日常に現れる「儒教的規範」(例:年上には敬語を使え)や「暗黙のタブー」に抵触しないこと(例:天皇を崇拝せよ)や「政府の決定」に従う(例:緊急事態宣言)といったものたちだ。こういったものを相対化することなく、いきなり倫理学を学ぶことはできないだろう。最初からいきなり倫理学を学んでしまうことは、しばしばそういう日常の平凡な人々の習性を忘れることにもなりかねない。日常の平凡な人々は、合法的であることや儒教的規範を守ることを「倫理的」として扱うことが多いからだ。なので、児玉のこの書が功利主義の入門書(の入門書)としてすぐれているとしても、それ以前にやっておくべきことが読者や、倫理学専攻の学生には在る。そのことを専門の倫理学者・哲学者は忘れていることが在るのではないだろうか。なので、この書を推薦する以上、私はまずそのことに注意喚起したうえでにしたいのだ。
あともう一点だけ、疑問を挙げさせていただきたい。この書を読んでいて、何度かお目にかかるフレーズが在る。(洗練された)功利主義者が別の立場の倫理学者等に批判された際に、功利主義者は、しばしば次のように答えるのだ。「短期的には確かにそうだが、長期的に見たときにはそうならない。私の言うようになる。だから私の説が正しい。」というようなものだ。しかし、私の経験からすると、「未来予測」を論拠にするというのは、論争が平行線をたどり膠着するときの典型的なパターンだ。「長期的にはこうなる」と言われても、言われた側はそれでは納得できない。「長期的にそうなるなんて、どうして言えるんだ。私はそうは思わない。」となるだけだ。たとえば「拾ったスーツケースいっぱいの札束を、貧しい人々に配るのは短期的には“最大多数の最大幸福”を満たすように思えるけど、長期的にはそれはマイナスであり、むしろ合法的に拾ったお金を警察に届けるほうが、長期的には法治国家への信頼を保つことになるため、“最大多数の最大幸福”を満たすのだ」と言われても、私を説得するには充分ではない。
倫理学は現実に役立つことを目指しているためか、道徳心理学や脳科学といった実証科学の知見を援用する。ところが、「未来予測」をちゃんと論拠を挙げながら行なおうと思ったら、他にもたくさんの学問を援用する必要が在る。社会学・政治学・歴史学などなどである。これらから得られる知見は、科学性という点では少し劣るかもしれないが、少なくともすぐれた頭脳をもつ倫理学者の単なる「思いつき」よりは論拠として使うことができるものを持っているはずだ。なので、直感的な「未来予測」は、上記のような学問の知見をもまた援用されたうえで述べられるのが望ましいだろう。そして、倫理学のみの専門学者はどうかわからないが、哲学者を兼ねている倫理学者なら、そういったいろいろな学問の知見を援用することはむしろ得意であるはずだ。バージョンアップした倫理学はおそらく総合科学のような外観をもつようになるはずだ。そのことを述べておきたい。
この書は、倫理的な倫理学説を紹介している。すなわち、それを提唱したり学んだりする者が、倫理的に振舞うことを期待している倫理学説である。そうではない倫理学もまた在るようだ。そのことさえ踏まえておけば、あとは安心してこの本を高校生に推薦することができる。
木村大治『括弧の意味論』(NTT出版)
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括弧について一冊の本をまるまる使って真正面から考察しようという、世界初の試みである。まずその点に敬意を表したい。この本を書評している人のなかには、この本が世界初の内容とそれに見合ったサイズであることを忘れている人が多いようだ。産みの苦しみがわかっていない書評子が目立つ。単発的にちょろっと括弧について考察したものなら誰だって書ける。一冊の本を割いて、しかも考察する括弧の題材がこれだけ適切であり、それなりに充分な理論装置も自前で準備して、ここまで書けるというのは、驚嘆するべきことであると思う。高校生に推薦する理由もほぼそれに尽きる。
永井均や大澤真幸の初期の著作を読んだことのある私のような読者ならわかると思うが、彼らの初期著作は鉤括弧と山括弧とを厳格に区別しながら読まないと、内容が理解できない。或いは少なくとも山括弧の有無にだけでも注意する習性が無いと読めない。永井均の論文である「魂に対する態度」と「<魂>に対する態度」とは、いずれも「超越論的なんちゃってビリティ」が登場する文章と同じ本に収録されたものだが、当然この二つは別の論文として区別する必要が在る。
或いは、例えば、大澤真幸『身体の比較社会学I』p106から引用する。
(前略)「自己」なる身体は、決して「他者」ではありえないこと、「他者」との間の立場の完全な交換はありえないこと、を認知していなくてはならない。「自己」にとっては、まさに「自己」のみが、最終的で直接的な志向作用の帰属点なのであって、「他者」に帰属する志向作用は、ただ、「自己」に帰属する志向作用の内部で二次的に把握されるだけである。「二次的な把握」とは、「類推」や「感情移入」のような方法のことを言う。「類推」や「感情移入」を行うためには、「類推」という操作そのものや移入されるべき「第一の感情」がまず特定の身体――「自己」――に帰属していることが前提になる。だから、「自己」が成立しているときには、もはや他の諸身体(「他者」)は、<他者>ではない(→2【3】)。なぜならば、<他者>であることは、<自己>であること――求心点であること――を排除しないのだから。
上掲の引用を読む際には、自己・他者が山括弧入りなのか鉤括弧入りなのかの区別にきわめて注意する必要が在ることがわかる箇所だ。なお、ここでの「二次的な把握」
という箇所の鉤括弧の用法は、木村の著作であまり気にされていないように思えるが、しかしわりと見かける用法である。ただその点は今後考えれば良いだけだ。
そういうわけだから、読書人の少なからずは、少なくとも山括弧の有無や鉤括弧との相違に関しては自覚的であるはずだ。それに、大学在学中にレポートや論文で必要に迫られて彼らの初期著作を参考文献に使っている人口だって決して少なくはないはずだから、日本人の大卒のうちそれなりの人数が、括弧に関して自覚的な一面をもっているはずである。この二種類の括弧の区別が、木村のこの著作の註のなかでごく簡単にふれている宮台真司他著『増補 サブカルチャー神話解体』での鉤括弧と山括弧との使い分けの基準と同じなのかどうかわからない。しかし私はまあ同じだと思って永井・大澤の著作を読んでいたことが今回わかった。ただし大澤の引用箇所に関して言えば、<他者>と「他者」との違いは山括弧と鉤括弧の相違ではなく、どちらも山括弧的な用法なので、むしろ《他者》と<他者>と把握したほうが良くて、それらと他の通常の鉤括弧とをむしろ区別した方が良い。大澤の上掲書を読む際にはその点に注意されたい。
さて、木村のこの著作では、山括弧と鉤括弧の区別などという問題にはふれてはいない。そちらの方向から攻め落としていくことも可能かもしれないが、そのようなルートは木村はとっていない。まず、よく見かける週刊新潮の車内広告と「現代思想文」を、ついで、括弧は使っていないものの、括弧的とも思えるような諸現象をともかくも列挙することから始めている。そして、次にほとんど明らかになっていなかった括弧の歴史をできる限り調査し、それをたたき台として提示している。この面での研究も追加修正が在れば今後行なえば良いことだ。
さて、このあと木村は、主に言語哲学における「使用/言及の区別」という論点や、デリダ=永井均の「超越論的なんちゃってビリティ」という概念を使って、「論理階型をずらす」ことが括弧の機能だ、という暫定的な結論に着地する。しかし、これは「定義が緩いのでいろいろなケースが簡単に説明できてしまう」(大意)として自身で暫定的なものとして位置づけてしまい、さらに考察を進めていく。なお「使用/言及の区別」という論点に関しては、デイヴィドソンの揶揄するところによれば「使用と言及の区別をつけていない者に対してはその罪に対して哲学者が厳めしい説教をする」(大意)とのことであるが、私自身が「ふくしま式の誤り:抽象&具体「ベーシック編」」において「厳めしい説教」をしてしまっているので他人事ではない思いがした。
そのあと、木村は「投写」という概念を用いて、5種類に分類された括弧の用法に対して一通り説明をしてみせる。そして「モレなくダブりなく」を満たしているかを自身でチェックして「満たしていないが、でもそれで良い」というふうな結論に達する。言語学で云うプロトタイプと同様であるからだ。でそのあとさらに、括弧の用例が1970年代以降のポストモダンや「虚構の時代」(1970年~1995年)に特有のものかという問題に対して、「そう簡単には肯んぜられない」とでも云ったような回答を提出する。
自分で問題を見つけ出して、三種類ほどの問いを立てて、それに対して一定水準の回答を与える、ということをそうとはっきりわかるように行なっており、学術的問題解決を学ぶときのお手本のような本である。一貫校の中高生が、特に中学卒業の頃に中学卒業論文課題といったものを書かされるという学校も、21世紀の或る時期以降増えている。そういう学校の生徒さんや、またそれ以前に課題の指導者の教員たちにもお薦めである。で、この著作にももちろん不充分な点や修正したい点が無いわけでもないだろうが、それは後発の者がその有利な立場を使って行なえば良いことだ。著者は専門は文化人類学であり、言語学ではない。その立場が却って有利となり、括弧の議論を意味論さらには語用論ときて、行為論にまで推し進めた。この展開は不可逆であり、今後後進がこの問題を主題的に論じるときに、大した準備も無いまま行為論から退却することは許されないだろう。
西阪仰『分散する身体 : エスノメソドロジー的相互行為分析の展開』(勁草書房)
(目次等)(amazon)(ブクログ)(読書メーター)(細馬宏通氏書評)(樫田美雄氏書評)
高校生の手の届くところに「本物の学問」を置いておきたくて、この書を推薦した。というのも、私自身が大学に進学する際に、大学での学問の多くは「少し子供だまし」レベルのものなのではないだろうかと危惧していて、その予感は大外れではなかったからだ。とは言え私は恵まれていた。「少し子供だまし」のレベルの学問が在る一方で、「きちんとした学問」も在ることを知ったからだ。その延長上に、たぶん最高峰に、西阪のこの書が在る。まがいものでも子供だましでもない、本当の学問であり、しかも語の使い方も大変正確であり、安心して読むことができる。で、この著作でたぶん一度も使っていない語を使って言うならば、この書は「コミュニケーション」についての書である。西阪はそれを「相互行為」と呼んでいるのだ。
相互行為の分析というものが目指しているのは、彼の他の著作に書かれているのと同様に、未知の法則を発見するといったものではなくて、当たり前のよく知っているはずの事柄を思い出させる、というものだろう。この書のどこかに「リマインダー」という言い方で書かれていたと思う。だから、この著作は、高校生が読んでも知らない事柄がずらずら書かれていてわからない、ということは起こらないはずだ。また、この著作で積極的に目指されているものは、「よく知っているはずの事柄」というものを浮き彫りにするために、特定の箇所を切り取って、特定の順番や配置で並べることによって、より明確なものにしていく、というものでもあろう。私はこの書に関して、「なぜこの順番で、この配置で、書かれたのだろうか?」という問いに答えられるほどには理解していない。それが理解されていないというのは書評を書く者としては致命的かも知れない。が、ともかく順番や配置に関してかなり意識的な書であることは確かだ。そういう仕方で「当たり前のよく知っているはずの事柄」を思い出し、取り戻そうというわけだ。
この著作も含めた西阪の著作が「当たり前のことを思い出させる」ものであることと関係が在るだろう特徴が一つ在る。それは理系の実験レポートなどの対極に在るものだ。実験レポートの場合「実験結果」と「考察」とは截然と分けて書かなければならない。そしてその分離分割は可能である。さらには「実験」だけでなく、「観察」であってもおそらくそのルールに則って書くだろう。ところが、この著作をはじめとする西阪の著作はそうではない。だからそういう書き方になじんでいる人が西阪の著作を眺めたら驚くはずだ。すなわち「観察結果」と「議論」とが分けられることなく、同列に、混然一体となって書かれているのだ。もしこの書き方になじんでしまえば、「理系のレポート」に見られるような「結果と考察の分離」のほうが何やら人為的なものだったな、というふうに感じ方そのものに変革が起こるかもしれない。本書のそういった特徴も、「未知の法則を発見するために人為的に計画された実験」と「当たり前のよく知っているはずの事柄を思い出させるために記録された、観察された相互行為とその記述」との違いに対応しているだろう。
ただし第三章の補論だけは例外的に、読むのが難しい箇所だ。この箇所は「この著作での分析が何でないのか」を書いたものだからだ。言わばこの著作の「外部」である。そういうものが著作の理解を深めるのかどうかはわからない。しかし、世の中の読書人のなかにはそういった論が好きである人がいることは確かだし、その需要に応えているような書籍も世の中には在る。だからそういう読者にとっては、この補論が在ることによって安心するのかも知れない。
さて、西阪のこの分厚い著書を恐れることなく読んでいくためのエネルギーとなる候補の一つが「好奇心」というようなものだろう。そういうわけで、この著作で紹介・分析されているなかで、初心者や高校生でも比較的、好奇心をそそられやすそうな箇所を二ヶ所ほど簡単に紹介しておこう。
一つめはp122-123に記録されたような会話とそれへの分析である。妊婦が超音波検診を受けようという直前の会話である。リンク先の画像はその引用である。分散する身体:会話データ2-1
この会話データの10行目での医師の発話はうん.そう.お腹のそ- 皮膚.脂肪.=
というものである。この箇所がいかに秩序だった発話であるか、という主張のために、西阪は三種類ほどの仕方で立論をしている。そのうち、二番目のものだけ引用して紹介する。p140。
09行目でクライアントは、医師の「外側」という表現(07行目)を、語尾の音調を上げながら繰り返していた。クライアントにとって医師の「外側」という表現が聞き取りもしくは理解のうえで何らかの困難を伴うものであったことが、明らかにされる。もちろん、実際、その困難がどのような困難であったかは、明確ではない。単によく聞き取れなかっただけかもしれないし、医師が言い間違いをしている可能性を示唆しているのかもしれないし、「外側」が何の外側のことなのかわからなかったのかもしれないし、「外側」ということの意味がわからなかったのかもしれない。興味深いことに、医師の10行目の返答は、このすべての可能性に応接している。すでに注記したように、「うん.」は、とりあえず、クライアントの質問に、単純に肯定的に答えているし、「そう.」は、「外側」であることが正しいと主張することで、自分が言ったことの確認を与えている。また、「お腹のそ-」は、おそらく、何の「外(そと)側」であるかを明確化しようとしていたのであろうし、「皮膚」「脂肪」は、「外側」の意味を、別の表現に置き換えることで明らかにしている。
他の二つの立論やこの相互行為データの他の箇所の分析はお楽しみにとっておくことにしたい。
もう一つは、p321-322に記録されたような会話とそれへの分析である。婦人科外来の医師と患者のやりとりであり、不妊という主訴に対して、患者の夫の検体の検査結果を告げているやりとりの一部である。分散する身体:会話データ4-11
この13行目と20行目での患者は「じゃあと入れ」「入れると」という発話をしており、それが医師の発話とまったく同時になされていて、発話が重なっていることがわかる。p344。
何度も聞き返して書き起こしたものだが、これを見ていただければ、13行目と20行目における患者の発話が、いかに精確に医師の説明と同期しているかわかるだろう。たしかに、13行目で患者は、医師の「ふりかけ」という表現は予測しきれず、「入れ」という表現が用いられている。しかし、それでも同じ動詞表現であること、さらに動詞表現のなかでも、動きを含意し、かつその動きの結果としての接触を表現するものであること、この点において、「ふりかけ」と「入れ」は同等である。
発話が医師と患者との間で同期していることのこのような指摘のあと、西阪は問いを提出し、それに答えを与えている。p344-345。
(前略)それにしても、なぜここで、患者は自ら予測できたことを、実際に言い表さなければならなかったのだろうか。予測が可能であることと、それを実際に口に出すことは、まったく異なることである。第一に、患者は、それによって医師の説明をよく聞く者として自らを提示することができるだろう。これは「説明をする/聞く」という現在の活動にとってきわめて適切な振舞いである。第二に、患者は医師の説明をよく聞いているだけでなく、的確に理解もしていることを表示、もしくは主張できるだろう。とりわけ、あえて声を重ねることで、そのときに行なわれている身振りの意味を、自分はすでに(医師がすべてを語る前に)理解できるということ、このことを示すことができるだろう。第三に、たしかに、いま述べたように、発話のデザインも、十分な予測を可能とするように構造化されている。けれども、あのような精確な重なりのタイミングは、語句が実際に配列されていくのを聞くとともに、とりわけ、右手が左手に接近していく、その動きを見ることによって可能になるだろう。つまり、患者と医師の発話の同期は、単に医師の身振りの意味の理解を表示しているだけではなく、その身振りを精確に観察していること、このことを示している。言いかえれば、患者は、医師の手の動きを緻密に観察する者として自らを提示している。患者は、単に医師の身体に志向するだけではなく、医師の作り出した想像の対象に対して(医師とともに)志向する者として、医師の説明を聞いている。(後略)
これに後続する箇所で、向かい合って対面している医師と患者とのその配置があらためて重要になってくる。その配置において、患者は医師の身体動作を鏡像的に追尾している点が指摘されるのだ。つまり、医師が左手で行なっていることを患者は右手で、医師が右手で行なっていることを患者は左手で追尾している。この事態は上掲の箇所に後続して説明されることで一層の説得力をもつと思うが、そのあたりのことはお楽しみにとっておこう。関心の在るかたはこの著作を参照していただきたい。西阪は一通りの位置づけを行なっているが、もしかするとさらに踏み込んで考察する価値が在るかもしれない箇所だ。
この著作は、西阪が渡米し、マニー=シェグロフに出会い、その分析技術に圧倒された体験がもとになっている。データからこれだけの事柄が引き出せるのかと思い、自身がそれまでやってきた会話分析が「いいかげん」と思えるほどに強い影響を受けて、日本に帰って来た。そのような前史が在って書かれたこの書も、気づけば発行されて15年になる。発行されてすぐに購入したが、そのほとんどの期間、私はこの書を積読にしており、長いこと手をつけられずにいた。そういうわけで、見た目の敷居も高いし、慣れるまでに時間もかかるこの書だが、いつでも気軽に自分の能力や経験値に合わせて読んでもらえればいいと思う。この本は今でも依然名著の扱いだと思うが、いつまでもそのままで良いわけではないだろう。この書を凌駕する書がいずれは出てこないと、ジャンルは死んでしまう。そのためには、まず「読み手」が層として存在するようになることが必要である。そしてそのような読み手が存在するためには、「データ分析の他の手法」に失望する体験をした人の層もまた必要になるのかもしれない。そういう人のたどり着く終着点として、この書を含む、相互行為分析・会話分析が存続すれば良いと思う。
松井智子『子どものうそ、大人の皮肉 ―ことばのオモテとウラがわかるには』(岩波書店)
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著者の専門は、心理言語学と発達心理学であるが、ここでの発達心理学は実験心理学である。その実験心理学の手法のCPUになっているのが心理言語学の生成文法論と関連性理論である、という構図だ。で、それだけで書ききってしまうとかなり窮屈な印象にもなるのだが、著者の息子さんのエピソードや何かで、それを緩和している。私が用いている人間諸学の概念セットでいけば、実験発達心理学や心理言語学の枠組は「Bセット」であるのに対して、息子さんのエピソードや語用障碍の人の紹介などはいくぶん「Aセット」寄りであり、それでバランスをとっている感じである。この本を薦める最大の理由は、語用障碍の人々がいることを知ってほしいことに在る。特に当人自身に知ってほしいことに在る。と同時に、この種の分野に進学希望する高校生に、「Aセット」と「Bセット」の読後の感触の違いを経験しておいてほしい、という希望も在る。
人間諸学の概念セット
大分類 |
Aセット |
Bセット |
|
行為 |
行動・反応 |
|
理由(自身がコントロール可能) |
原因・要因(自身がコントロール不能) |
|
規則 |
法則 |
|
(理由-帰結関係) |
因果関係 |
語用障碍の理解は、通常の人文書であればいわゆる言語行為論を通じて行なうことになると思うが、松井のこの著作では参考文献等にいっさい挙がっていないようだ。とは言え、ポイントは外していないようにも思う。私がかつて書いた「コミュニケーション可能場面における、話者の発話自体への応接という要素:飯野勝己著『言語行為と発話解釈』への補足修正の提案」で書いたように、飯野は言語行為における二つの水準「執行的意図」と「コミュニケーション的意図」を指摘することはできているのだが、なぜか後者がその後忘れられてしまったかのような展開に飯野の著書は、なっている。その「コミュニケーション的意図」のほうを、松井は見逃していない。検証するべき課題としてきちんと認識している。この点に期待したい(飯野のほうにも期待したい)。
20世紀の1980年代頃だろうか、仲真紀子や無藤隆といった、どちらかというと実験的研究ではないようなフィールド発達心理学研究を行なう人たちによって、日常言語学派哲学の言語行為論が注目されていた時期があったはずなのだが、その後あまりめぼしい成果が挙がっていなかったようだ。松井の研究で言語行為論に対する言及が特に見られないのも、その「発達心理学史の断絶」と無関係ではないだろう。
同じことは「皮肉」という言語現象についても言える。私がかつて書いた「「慣用表現」の日本語力:コボちゃん作文の「指導者」に必要な認識」で中心的な話題を提供している、『背理のコミュニケーション―アイロニー・メタファー・インプリケーチャー』という著作を書いた橋元良明はこれを書いた時点では社会学者であるという自己認識だったと思うのだが、その後社会心理学者に転向した。なので、心理学で皮肉を扱うときには橋元の研究に何らかの形で言及しても良いように思えるが、松井のこの本ではそうなっていない。やはり、橋元もその後「皮肉」というテーマに関して、心理学者としてあまり目ぼしい成果を挙げられなかったのだろうか、と思う。その「皮肉研究の心理学史での断絶」を松井のこの本に私は見る。つまり、「橋元の継承」という形への展開を期待してしまう。そして「発話が皮肉であることのサイン」の研究という形で部分的にはその期待に応えているとも思える。
「4年後には卒論を書く」という立場に在る高校生にとって、本当に重要な情報を与えるようにして、この著作へのコメントをしてみた。大学を選ぶというときに、こういった情報が無い状態はほとんど致命的だと思うからだ。そのうえで、非常に丁寧に良心的に書かれているこの松井の著作を、限定的ではあるが評価している、というふうに紹介した。心理学は実験的な手法や統計的な手法を使うものばかりではなく、フィールド研究的なものもかつて在り、前者は「文学部」で後者は「教育学部」でというふうに棲み分けていたが、フィールド研究は今は低調であるらしいことも示唆した。これをきっかけにして、コミュニケーションという話題に関心の在る高校生が、自分の好みに見合った進路を見つけてほしいと思う。そして、進路が合わないと思ったら転向もできる、ということも上掲の先達が証明している通りなので、あきらめないで欲しいと思う。
高畠通敏『平和研究講義』(五十嵐暁郎, 佐々木寛 編)(岩波書店)
(目次等)(amazon)(読書メーター)(参考資料:使用語彙メモ帳)
1991~1997年に立教大学で行なわれた講義の書籍化である。これが音声の講義であることを考慮すると、受講生のレベルとは吊り合っていないという懸念をもった。当時の団塊ジュニア世代(2023年だと40代後半~50歳ちょい上)のお坊ちゃま・お嬢さまがこれを音声のみで聴いてスラスラ理解できたとは思われない。講義の前提になっている知識・認識の多くが、高校を出たばかりのジュニア世代のレベルに共有されていなかったはずだからだ。少なくとも、両親が当時の朝日新聞か毎日新聞か東京新聞等の購読者であり、普段から新聞を両親と一緒に読んでいたような家庭の出身者でないと厳しいだろう。
述べ方のフォーマットについても気になることが在る。この講義が行なわれていた時代には、中堅若手世代(2023年現在だと70代・60代くらいの年齢になる世代)の大学教員には「問いとそれへの答」というフォーマットで述べる者も現れてきていたので、その場合なら聴いてわかった気になりやすかったが、高畠のようなベテラン世代(2023年だと90歳前後)にはそういうフォーマットで述べることをする者は少なかっただろうし、実際この書もそうだ。なので、そういう講義を文字の形で読むことができるようになったことが、ひとまず幸いであると思う。湾岸戦争ぐらいまでの時期に関する戦争研究の総まとめとして貴重である。
世界史の知識などほとんど無い私が読んで、重要だと思えた点を三点述べる。
一つめは、第一次・第二次世界大戦というのは、要するに「経済圏」の獲得・争奪のための戦争にほかならなかった、という指摘である。p34から引用する。
ところが、19世紀の後半、1870年代から1880年代になると、様相はだいぶ変わってきます。先進国間の競争が激烈になり、アフリカやアジアに他の国々が実力で進出し始める。とりわけ、それはアフリカの分割競争に顕著にあらわれたわけですが、アジアでは、明治維新を成功させた日本がその勢いで朝鮮、台湾を植民地化し、中国にまで進出してくる。各国が武力で植民地を囲い込み、そしてそれを「経済圏」と称したのです。経済圏という名の勢力圏をつくって世界を分割する、そういう競争が19世紀末から始まり、それが、第一次世界大戦を引き起こす遠因となりました。第三世界の分割、植民地の争奪、経済圏の自立をめぐって、ヨーロッパのなかではパックス・ブリタニカが続いているようにみえても、第三世界では紛争が始まっていた。アフリカにおいても、中近東やアジアにおいても、小競り合いが起きてきた。その対立関係は当然、本国にはねかえってくるわけです。したがって、第一次世界大戦、第二次世界大戦という二つの戦争の背景にある基本的な原因は、経済圏の争奪だったということができます。
これを読むまでは、私は「何が第一次“世界”大戦だ。欧米諸国だけが“世界”だというふうな驕りではないか」と思っていたが、これを読んで考えを改めた。
二つめは、「解放戦争」という語の理解についてだ。「解放戦争」というものを私は何とはなしに、近代国民国家の形成過程において,民族を外国支配から解放する戦争
(解放戦争(かいほうせんそう)とは? 意味や使い方 - コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)」の解説)というような意味合いで理解していた。しかし、この『平和講義』での「解放戦争」は少しそれとは違っていた。p39とp40-41から引用する
(前略)フランス革命は「自由.平等.友愛」というスローガンのもとに戦われました。民族主義的な運動を背景にメッテルニヒの干渉もはねかえした。ところが、そのあと、革命後の混乱を統一するというかたちで出てきたナポレオンは、その「自由.平等.友愛」の原則で、ヨーロッパ征服戦争に乗り出したわけです。その名目は、“ヨーロッパの他の国が変わらないかぎりフランスの平和はない”“新しい体制は孤立したままでは不安定であるから、同時に世界を変えていかなければならない”というものです。ですから、ナポレオンの言葉を借りれば、それは征服戦争ではなく、解放戦争でした。世界を解放する戦争、要するに“体制を変革するための戦争”という新しい戦争のパターンがこのとき生まれたわけです。政治的な理由から生まれ、しかも、平和な体制をつくりだす理念のもとでの戦争、という逆説が初めて生まれたわけです。(後略)
しかし、ナポレオンがそのような解放戦争を仕掛けたのだとすれば、ナポレオンが敵対したメッテルニヒの抱いていたものも、ある意味での「解放」でした。メッテルニヒは解放という言葉は使いませんでしたが、彼にしてみればフランス革命はテロリズム以外のなにものでもない。メッテルニヒは、秩序を破壊する暴徒たちを鎮圧するというかたちで、フランス革命の干渉戦争を組織したのです。
そこにあるのは、結局のところ「体制」という問題です。国内の政治体制の違い、それが戦争の原因になるのです。しかも政治体制というものは同盟を生む。同じような政治体制が支えあうために連帯を組む。その結果、孤立し、脅威を感じた政治体制が戦争を挑む。ナポレオンの場合もそうでした。実際、ある国で革命が起きた場合、一国で革命を持続できるかということが常に問題になります。基本的に、革命をつぶそうと周囲の国が干渉に乗り出すわけですから、革命を起こした側は、革命の原理を全世界に広めないかぎり革命国家は安定しないと考えるのです。
たとえば、20世紀になってロシア革命がおきたとき、トロツキーは“ロシア革命は一国では完成しない。全ヨーロッパに普及して初めてロシアは安定する”として世界革命論を打ち立て、革命の輸出を唱えました。ロシアからドイツ、イギリスへと革命が広がっていくことに彼は望みをかけたのです。(後略)
私は「解放戦争」という語を先に述べたように理解していたことから想像がつくように、「解放」はしばしば強国の勢力拡大の「口実」だと思ってもいた。まあそういうタイプの「解放戦争」もいろいろ在っただろうとは思うが、しかし、革命の起こった国が在ったら周囲の国が潰しにかかりかねない、という事情が在ることは知らなかった。
三つめは、パワーバランスの問題に関してである。この点について、近現代史を眺めてみると、どうも悪化しているように思えるのだ。19世紀の頃についてはこうだ。p42。
このように、体制間の争いが別の争いを伴うようになり、次第に後者のウェイトのほうが大きくなってきます。これは、「パワー・ポリティクス(power politics:権力政治)という発想がもたらす問題です。別の言葉でいえば「バランス・オブ・パワー(balance of power)」、つまり勢力均衡によって平和が保たれる。勢力の均衡が崩れると戦争が起きるという考え方で、ここにおいては、体制の違いはもはや問題ではなくなります。社会主義国家とファシスト国家であっても、勢力のバランスがとれているかぎり戦争は起きないという考え方です。実際、19世紀のヨーロッパにおいても100年間の平和が保たれました。これについては前にも述べたパクス・ブリタニカという側面もありましたが、他方、当時のヨーロッパは、各国に民族国家が形成され、互いに軍事力を蓄積しながらも均衡を保っているという状態でもありました。つまり、イギリスを除けば各国の軍事力は拮抗しており、それゆえに平和が保たれたとみることもできるのです。
それに対して、核兵器などが開発された20世紀後半だと、均衡という発想は「抑止論」に取って替わられたように見受けられる。p125-126。
その意味では、この無限に続くかと思われた軍備拡大競争のなかで世界が破滅に至らなかったというのは、ただ幸運であったに過ぎないという側面があるのです。こうした軍備拡大、そしてそれをめぐる軍備管理交渉の問題を考えてみると、その基本は、最初にお話しした抑止論、「防止」という思想にあることがわかります。敵に勝る力をもつことによって初めて抑止が可能になる。力で相手の攻撃を抑える、それが平和への道であるという考え方です。敵が攻撃してくれば、やり返して敵を潰す。抑止であるかぎり、自分からは仕掛けない。防御であるわけです。しかしそうなると、向こうからやってくる第一撃の被害を乗り越えて、敵を全滅させる能力をもちたいという発想に必ずなります。つまり、抑止の発想というのは、必ずや無限の軍備拡大の道に入ってゆく、その出発点でもあります。
では、われわれはこの抑止論をどのようにして乗り越えるか、これを乗り越えないかぎり、今日のように技術の無限に発達した状況のなかでは、同じ轍に嵌まる可能性が常にあるといえます。この抑止の思想を、さらにその根本まで遡ってみれば、軍事がしっかりしていないと敵がいつ侵略してくるかわからない、という前提に立っていることがわかります。こちらが隙をみせれば、必ず向こうは力で攻め込んでくる、必ず侵略してみるという思想の上に立っている。われわれは、この前提をまず疑わなければいけません。この前提を信じれば、必ず抑止の思想をとらざるをえなくなり、それは必ず無限の軍備拡大と世界の終末への道をたどることになります。
で、こういった話題が今の私にはどうしても「20世紀までの話」というふうに留保して受け取るほかないように思えてしまう。もちろん、この書で描かれている特に20世紀の問題点の多くは未だに残っている問題である。それに加えていつも私が言うことだが、世界中に存在する核兵器や一世紀かかっても除去できないほど埋まっている地雷をどう処理するのか、という問題が21世紀になってかなりクローズアップされてきている。核兵器がそこまで安全に管理されているのかわからないのは、原子力発電所と同じである。
また、日本国に侵略するメリットが無いように著者は述べているが、これもだいぶ説得力が薄れてきているように思う。沖縄に米軍基地や核兵器が在るのは、米軍にとってメリットが在るからだろう。同じことが日本の「本土」についても言えるはずだ。日本の本土が、米軍が世界のどこかに「解放戦争」を仕掛ける時に、基地や拠点になるかもしれない。また、日本の重工業を担う大企業のいくつかはいつでも米軍のための軍需産業に転向できるはずだし、現在でも部分的にはそうなっていることだろう。それに加えて、日本人はいつでも米軍兵士になれるような準備も着々と進められている。小学校の音声中心の英語教育導入や中学の武道の必修化など、いくらでも傍証を挙げることができる。他の職業につけなかった人や貧しい人が自衛隊に入るしか選択肢が無いようにしてしまうこともできるし、部分的にはもうすでにそうなのではないかとも思う。そして、福島原発の事故がちゃんとした形で「回復」などができるはずもないので、世界の核のゴミ箱として日本国が「便利な」土地として扱われていく未来も、馬鹿げていない想定だ。
この書にはいろいろな平和運動の紹介も在るが、やはりそれは力の点で対等な集団どうしの戦争までしか想定していない。いつのまにか大国の基地・植民地にされてしまっていてそのことに国民が気づいていないような状態を想定した平和運動は、この書に紹介されているものだと厳しいだろう。できることと言えば、遅かれ早かれ徴兵制度が日本国で復活するだろうから、それに備えて今のうちに「良心的兵役拒否」ができるような状態にしておくことが急務だろうと思う。その点ではこの書は役に立つモデルを提供している。日本国の米軍基地化に関しては、阿波根昌鴻のような人物をロールモデルにしたような平和教育が民間で行なわれることが先決だろう。で、市民革命を一度も経験していないことが日本人のナショナリズムへの耐性の無さにつながっている、というような点を著者は何度も指摘している。そのことを直視したうえで、「今がその市民革命を行なう時期なのだ」というふうに私は感じるし、もっともっと多くの人が危機感をもつべきだと思う。その第一歩が米軍基地化への反対運動と原子力発電の中止を訴える運動になると思う。
森岡正博『決定版 感じない男』(筑摩書房)
(目次等)(amazon)(読書メーター)
早いもので、森岡の同学齢の者も、来年2024年には国公立大学の場合、定年退職する時代である。この書は森岡らの世代が或る程度「若手」であった頃に書かれた書籍がベースになっている改訂版である。なので、下手をすると「モーニング娘。」を知らない人がこの書を手に取る可能性も在る。さてこの書は、誰にでもお薦めできるとは言い難い。少し危険すぎるのだ。女性が読んだら驚きのあまりひっくり返ることも起こりうる内容が書かれている。又、あとがきにも書かれているが、この書によって「真実」を知ってしまった女性は、場合によっては「男性の視線」が恐怖の対象になり外出できなくなるかもしれない。問題作なのだ。一方男性はというと、その種の心配は私はしていない。男性読者で異性愛者の場合、どの箇所も全く自分に当てはまらないという者は少ないのではないだろうか。著者の書き方も「私を主語にした」告白という形を取りきれておらず、世の中の男性にはこういう者も多いだろう、という書き方にはっきりなっている箇所も多い。「モーニング娘。」の登場する箇所もそうだ。また、男性のなかには、「自分の恋人や妻にはこの本は絶対読ませられない」と焦る者も多いだろう。恋愛関係・夫婦関係を瓦解させる可能性をこの書はもっている。
なお、植草一秀氏をこの書はほぼ犯人扱いをしているが、私はその件は保留にしておきたい。というか証拠は別に無いが、氏は冤罪であるほうに私は傾いている。ただ、そうであってもこの書の内容の妥当性はあまり変わらない。植草と同年代、つまり森岡と同世代であって、似たような性犯罪を犯している者はどうせいるからだ。
閑話休題。その一方で、著者の特殊な体験に由来するだろう箇所もまた在る。というのも、著者が大学生になって東京に出てきたら、男性にやたらモテてしまい、男性の痴漢にあったり、ラブレターを男性からもらったりなど、著者が当惑するといった状況が体験されている。その点に由来するだろう箇所は、著者の告白といった形式に適合しやすいだろうと思う。この書を森岡の告白の書たらしめているのは、この点による特殊性が小さくない。
さて、私はこの書を整理して読みたく思ったので、大澤真幸『身体の比較社会学I』が大変役に立った。一つは、「身体の求心化作用と遠心化作用の反転」というもので、もう一つは「フェティシズム」とそれに由来する「否認」というフロイト譲りの論点である。以下説明する。
「身体の求心化作用と遠心化作用の反転」という論点は、大澤の上掲書の前提を占める要ともいうべきものだ。ところで、森岡のこの書のなかには、この上なく、これが表れている箇所が在る。p101-102。
もし少女の脳を、私の脳によって置き換えたら、何がおきるのだろうか。私は、少女の体の中に幽霊のように入り込んで、少女の体を内側から生きることができるようになるだろう。私の体は、少女の体となり、私が自分の胸を触ればそこにはまだ小さい乳房があり、鏡を見ればそこにはかわいい少女の顔が映っているということになるはずだ。私は少女の体を内側から生きることができるのだから、その少女を自分の思い通りに完全に支配し、操作することができる。これが「洗脳」のもっとも完璧な形である。
すなわち、「少女を洗脳したい」という欲望とは、私のこの体を捨て、少女の体の中に入り込んで、そのかわいい体を、その内側から自由自在に操りたいという欲望ではないかと思うのだ。(中略)制服少女写真集を開く男たちのなかには、今日はどの少女の体の中に乗り移ろうかとわくわくしながら、頁をめくっている者がたくさんいるはずだ。
「今日はどの少女の体の中に乗り移ろうか」という表現が、ものすごく言いえて妙である。と同時に、大澤によれば、通常は身体の求心化作用と遠心化作用との区別は安定しており、その安定があるから「自己」というものが存立するわけなのであり、これが揺らぐということはそれほどは起こらない。だが、幼児や分裂病の患者などには、これが不安定であることを体現している者が見られる、ということである。で、この安定がいつでも反転可能になるものとして、或る種の男性はそれを「美少女の画像」を用いて行なっている、ということになるだろう。
もう一つは「フェティシズム」という形で現れる、フロイト=大澤の云う「否認」という認知操作である。「フェティシズム」はときに「フェチ」とも呼ばれるが、森岡も含めた多くの人々が「フェティシズム」・「フェチ」と呼ぶ場合は、「否認」がいっけんしたところ伴わない場合が多いように見受けられる。なので、私自身は性に関する現象を「フェチと萌えとは違う」というふうに把握することにしている。多くの人が「フェチ」という場合は「萌え」にすぎない事が多く、これは健全であり男女ともに理解もでき、女性でもこういう感覚をもっている場合も多い。たとえば「メガネをかけた美少女はかわいい。メガネが在る方がかわいい」なんてのは私の用語法では「萌え」であり、女性もまたそういう感覚をもつ人もいる。「フェチ」ではない。
「否認」が国民レベルで行なわれた例としては、すごく以前に流通した命題に「と或る映画女優はウンコをしない」という文言が在ったが、これこそが典型的な「否認」である。この種の想念は相当歴史をさかのぼっても見当たるものであり、芥川龍之介の歴史物の作品「好色」にも平安時代あたりのものとして独特の形で出ているようにも見える。なのでこれは、森岡の用語法とはずれるのだが、しかし用語法のずれはあっても森岡は「否認」のことは自分事としてちゃんと現象として理解している。また「萌え」と「フェティシズム」の違いも説明すれば通じるだろうと思う。森岡の著作を読んでいて「あ、これは“否認”だ」と思った箇所を引用してみる。p81-82。強調は引用者が行なう。
ではなぜ白パンツが好まれるのだろうか。第一章では、「聖なる色」としての「白」に注目した。ここではさらに、次の点を指摘しておきたい。写真に使われる白パンツは、綿素材が多い。綿のパンツは汚れやすい。制服少女が白いパンツをはいていたら、どうしても多少は汚れてしまうはずである。ところが、写真集の白パンツは、純白に輝いており、まったく汚れてはいない。つまり、普通ならば汚れているはずのものが、実はまったく汚れていない、ということをいちいち確認する作業、それが白パンツのパンチラではないだろうか。私の感覚で言えば、白パンツの向こうにあるべきものは、まったくのつるつるの皮膚、すなわち性器の完全な不在であるように思われる。白パンツの向こうに性器が存在しないから、白パンツは汚れないのだ。すなわち、なぜ白パンツなのかと言えば、「制服少女のパンツの向こうには性器が存在していないかもしれない」という妄想を、純白のパンツがもっともごまかしなく保証してくれるように思えるからである。
おそらく森岡は私と違って、フロイトなどもとうに読んでおり理解もしているのだが、あえて一から自分の体験や想念を自分の言葉で綴ろうとして、こうなっているのだろうと思えた。
この書は森岡の構想する「生命学」という巨大なプロジェクトの一環として書かれたものである。しかし、その代表作とも言える『無痛文明論』は枕になりそうなくらいに分厚い書籍であり、なかなか手が出せない。私もいつかは読もうと思いつつ、結局買ってもいない状態である。その「生命学」への入門のきっかけにもなるし、先のように大澤社会学(こちらも壮大である)の理解の助けにもなる。性については少しくらい深く知りたくても、難解な書籍しかなく、ひと昔前の人々は岸田秀の著作にすがったものだ。そこから時代が経過して、この書のような取りつきやすい書籍が出ているので、この書が好適であることは間違いない。ただし、女性が読むのは種々の意味合いで少し危険である。フェミニズムに深く関与している人が、男性を理解し直すのには良い書であろうが、市井の一般の女性が読むのには、危険が伴う。本人が男性恐怖に陥るかもしれないし、いくつものカップルや夫婦が瓦解するかもしれない。そういうわけで、私としては主に高校生以上くらいの年齢の男子・男性にまずはお薦めする。
伊田広行『デートDV・ストーカー対策のネクストステージ ―被害者支援/加害者対応のコツとポイント―』(解放出版社)
(目次等)(amazon)(ブクログ)(読書メーター)
この本は高校生程度の年代のかたがたにとって、大変有益で実践的に役立つことも多い本だと思う。ただし注意したいのは、「まずそもそも誰かとカップルになる」ということを若いうちにできてしまうような人物のほうが、その後DVを行なうようになる人物である確率が高いことだ。学校の生徒・学生である間に誰かとカップルになる、というのは異性愛カップルの場合、男性の側の相当強い働きかけが間違いなく必要であり、それができる資質というのは、その後DVにつながるものなのだ。DVをしがちなタイプの者のほうがその入口であるカップル成立までにたどり着きやすく、DVをしなさそうなタイプの者はその入口にもたどり着けないことが多い。結婚ともなれば話は全く別であり、現実的な問題を考えないとならないから単純にそうは言えないが、婚前カップルの場合、あまり現実を気にしなくて済むので、立ち回りのうまい人間や態度が強引な人間のほうがカップルを形成しやすい。DVをしなさそうなタイプの者というのは、そこまで熱心に誰かとカップルになろう、と思わない、或いは思っても実行が難しい者が多いからでもある。高校生くらいの年代の読者がこの本を手に取ってまず思うことはそれだと思うので、私も最初に書いておくことにした。しかし結婚するまで一度もカップルを経験したことが無い者にとってもこの著書は心構えを形成するうえで役立つことは間違いない。要は、ここに書かれている「ひどい人間(ほぼ男性)」「悲惨な被害者(ほぼ女性)」というのは、誰かとカップルとなり結婚したあとになって、いつでもなりうる自分にほかならない、というふうに自分事として読むことが重要である。
この本を読みながら、私は遠い昔のことを思い出していた。私は握力が弱く、男性としては最低レベルの弱さだった。ところが、いかにも何かのスポーツで体を鍛えていそうな女性と腕相撲をやったら、一瞬で勝ってしまったのだ。このとき初めて気づいたと言っても良いくらいにはっきりとわかった。男性は相当弱い男性でも、女性の体力・膂力をはるかに上回るものなのだ。そのくらいに、力の差というものがあるので、男性の側が相当に注意していないと、簡単に暴力を発動させることになってしまうことになる。このことがもちろんカップルや夫婦にも言えてしまう。男性のなかにはそのことに気づくチャンスすらない者も多いのだが、「対等な二人」で結ばれたように見えるカップルであっても、体力差はものすごく在り、その点では全然対等ではない。なのでよほど男性が気をつけていないと簡単に身体的な暴力を惹き起こしてしまう。まずこの点を知ることが重要だ。
この書籍は「ネクストステージ」に照準を合わせており、本来なら「ファーストステージ」のほうをお薦めしたほうが良かったかも知れない、とも思った。カップルで一心同体という関係性の危険を中心的に書いているのはそちらのほうだからだ。だが諸般の偶然で、推薦したのは、この「ネクストステージ」のほうになった。要するに、被害者救済と加害者教育の話題が中心である。だが、こちらのほうを高校生に推薦することにも一定の意義が在るな、と思い直した。カップルというものを取り囲む、社会のしくみが一定程度わかるからである。この書籍でも、全方位的にいろいろ書かれている。たとえば、法整備が充分なされていないのでやむを得ず現場の「運用」でやりくりしている面が在るということ、警察の方も失態を重ねつつも少しずつは被害者対応を改善していること、警察が努力しても防げなかったケースも在ったということ(被害者の女性と警察官が重傷を負ったケース)、警察は精神科医を重視するが、しかし精神科医や心理学的カウンセラーでは加害者教育に一定の限界が在るということ、弁護士なども加害者側の弁護士の中には倫理観に問題の在る人物も含まれているということ、いかにもミソジニー的傾向・女性蔑視傾向の在る(と私は感じる)テレビ局がこのテーマに関して問題の在る番組を放映していたということ(この本で扱われたのはフジテレビとテレビ東京)、などいろいろわかる。
なお、我孫子武丸『人形はこたつで推理する』(amazon:『人形はこたつで推理する』)は、なんだか女性に好評のようであり、「とても男性作家が書いたとは思えない。なんでここまで女性の心理がわかるのだろう」という形で一定の評価を得ている。お薦めしておこう。
大澤真幸『身体の比較社会学I』(勁草書房)
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大澤真幸が1980年代に書き上げた修士論文をベースにした書籍の前半部分だ。大作である。参考文献の質と量だけでも圧倒されるし、ドイツ語・フランス語の原語で読んでいる文献も含まれている。まったくのゼロからの理論構築ではなく、或る程度橋爪大三郎等の影響も在っただろうが、ともかく社会学を自分なりにゼロから構築し直します、という内容である。「社会学をゼロから構築し直します」などという不敵な論文が認められるというこの当時の東大社会学科の「自由さ」にはとにかく驚かされる。
この書を貫く問題意識は序文に大澤がすでに書いているので繰り返す必要は無いだろうが、私なりに言い換えるとこうだ。「ごく普通の当たり前」というものが、実はかなり危うい基盤の上に偶発的に成立したものであり、その当たり前が喪われるとどのようになるのか、を解明しようというものだ。「当たり前」の成立を解明するものなのだから、それは「当たり前」に思いつくような理論で解明できるわけがない。難解な理論になるに決まっているのだ。なので、どれが大澤の独自の造語なのかに注意しながら読むことが一つのポイントになる。「なんとか身体」とか「第三者の審級」などは大澤の造語であり、大澤が理論構築をしていくなかで実質的に定義が与えられていくようなものなので、特に注意を払う必要があろう。大澤は自分の理論展開を「演繹」と呼ぶが、私にはなかなかそうは思えなかった。大澤が「この理論は必然的にこうなる」と見なしているものが、私の頭脳では残念ながら「そういうふうに言うこともできるだろう」と受け取るので精一杯であった。
大澤はこの書に限らずサービス精神の旺盛な著者であり、この書でも、幼児の発達心理学や空間認知の心理学、そして、精神分析学や精神医学での症例、ドイツ・フランスの哲学者の理説や身体経験、最後にはサドとマゾに関するフランス哲学での文献研究など、理論展開をわかりやすくするために、様々な題材を事例として挙げている。理論が難しすぎて読めない、という読者はこの種の事例を中心に読んでいくだけでも、いろいろ楽しめることだろう。
漢検二級程度の漢字力は絶対必要だ。大澤はこの書では、普通の本ではあまりなじみの無い漢語をガンガン使うからだ。漢字のイメージが湧かないとつらい箇所がいくつも在る。あと、本当ならこれが書かれた1980年代頃で云う「現代思想」周辺も少し知っているほうが格段に読みやすくなる。役に立つかわからないが、ウィキペディアにリンクをしておく。Wikipedia:ジークムント・フロイト、Wikipedia:フェルディナン・ド・ソシュール、Wikipedia:エトムント・フッサール、Wikipedia:ジャック・デリダ、Wikipedia:モーリス・メルロー=ポンティ、Wikipedia:ジャン=ポール・サルトル、Wikipedia:ジャン・ピアジェ。ただし大澤のこの書でのピアジェは、その後疑問視されて再検討されているので、現代ではピアジェ理解としては不十分である。あくまで大澤がどのように受け取りどのように理論に組み込んだかという点を注意するべきである。ピアジェに関しては私が書いたものでは「内容面での国語力の要その1:「相手はこちらに教えを乞うているのではなくこちらを試しているのだという理解」→「教科学習だけではつかない国語力」で触れている。
要は、高校生にも「○○学をゼロから構築し直します」的な著作というものが在り、関係者たちに多大な影響を与えてきた時代が在った、ということを知ってもらいたかった。と同時に、学問をゼロから構築し直すために、これだけ大量の参考文献が必要になることも知ってもらいたかった。そういうことで高校生の目の届く箇所にこの本を置いておいて欲しいと私は思ったのだ。
野村甚三郎『国境とは何か―領土・制度・アイデンティティ』(芙蓉書房出版)
(目次等)(amazon)(ブクログ)(読書メーター)
とにかく人がたくさん死んでいるのである。人類の歴史のごく一部しか扱っていない書であるが、しかしその中だけで戦争・紛争・虐殺などで人が何万、何十万、何百万と殺されている。読むほうとしては感覚が麻痺してくるほどに殺されている。それがまず伝わってくる。この書が出版されたのは2008年であり、その時期であってもまたそれ以降であっても、世界のどこかで人々が大量死している点はあまり変わっていないと思う。
この書は三つの章が根幹になっている。まず一つは領土という可視化可能な国境、次に制度という、人やモノやカネの移動での国境、最後にアイデンティティとしての言語・宗教・民族意識という名の国境、というふうにである。で、私は最初読んだときに、第一章と第三章との違いがあまりよくわからなかった。第一章に書かれているようなたくさんの戦争というのもその半分くらいは、王や貴族や軍人や国家元首という人たちのアイデンティティが賭かっているという点で、三章と変わらないではないか、と思ったのだ。この点を少し敷衍してみる。
そういう目で見直してみると、第一章には人名があまり登場しないことに気づく。最初のほうこそ国王や軍人の名前が多少登場するが、歴史が現在に近くなってくるにつれて、いちいち国家元首などの名前が出てこないで、国名・地域名がほとんどになっている。人間と人間が戦争しているというよりも、国と国とが戦争しているような書き方になり、人間不在のまま死者ばかりはたくさん出ているという、そういう書き方になっていく。第一章がアイデンティティの闘争のように見えないのは、その書き方から来るものだろう。ともかく、その書き方によって、国境がやたらたくさん引かれている地域のうち、ヨーロッパとアフリカに関しては私は次のような認識に至る。ロシアも含めたヨーロッパは、数限りない戦争・紛争によって国境が何べんも描いては消し、描いては消し、といったように国境の描き直しを繰り返す歴史をもつことになる。他方、アフリカはヨーロッパによって無理やり人工的に国境が引かれて、その後もその国境を継続させたことにより、民族等が分断され、また異なった民族どうしが同じ国民として共生することを余儀なくされ、そのため、アフリカのどこかでいつも紛争・内戦が絶えない歴史をもつことになる。…とこのようにである。
この野村の著作はスーダンについてページを多少割いているので、検討してみる。南スーダンの独立は2011年であり、この野村の著書は2008年に出版されたので、野村がこの件に関してどのような描き方をするかはわからない。南スーダンの独立に関しては、私はすでに「コメント:小川真吾『ぼくらのアフリカに戦争がなくならないのはなぜ?』」と「はじめて学んではいけない「入門」書:国分良成監修『図解 はじめて学ぶ みんなの政治』」で触れている。つまり、南スーダンの独立が、強国の都合によって行なわれ、国民の都合によって行なわれたものではない疑いが強いと述べた。で、野村のこの本では上掲の小川と国分のどちらの著作とも不整合はきたさない。ただ、野村の著作を読んだあとに国分の著作を読むとあっさり信じてしまう危険は在る。この場合、野村の著作のなかの次の箇所に注意を向けてみることにしたい。p231。
イギリスの植民地統治は、実は独立以降のスーダンに混迷をもたらす遠因となった。統治の方針は「南部政策」と言われるもので、北部と南部を分離することが目的だった。表向きは北部商人の搾取・掠奪・横暴から南部住民を保護するという名目だったが、本心としてはナショナリズムの勢いが徐々に高まっていく北部からの影響を、南部に及ぼさないようにすることだった。
この指摘が在るので野村のこの著は「小川の著書とも整合する」と言えるのである。
この著作は、第一印象では「世界史」「世界地理」の知識が無いと読むのが大変だろう、というものであったが、しかし二度目読み返したらあまりそう思わなくなった。私がそういう知識が乏しいのにちゃんとそれなりに読めてしまったからだ。また金融経済についても詳しい人のほうが第二章は読みやすいだろうが、私のようにまったく知らない者でもそれなりに読むことはできた。著者自身も「高校生にも読めるように」ということを心がけていたようだ。なので、世界史・世界地理・金融経済に関してまったくの初心者であっても読むことはできる。そして、「この内容を自分のものにしたい」とも思うことができる。無駄な読書にはならないし、知っていればそれにこしたことはないという内容をちゃんと含んでいる。…とそのようにお薦めしておく。ただし量は多い。
堀切リエ『阿波根昌鴻 : 土地と命を守り沖縄から平和を』(あかね書房)
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「伝記」という形式での知の伝承形式にこだわってみたらこの著作に出会った。日本で書店に並んでいるような伝記の多くは「少なくとも米国に不利にはならない」という点をクリアしたものである。だが、超大型書店や一部図書館・一部書店などでは、この点をクリアしなかったような「伝記」もまた取り扱っていることが在る。その代表がこの阿波根昌鴻の伝記であった。
日本の教育で行なわれる平和教育や、それを内在させた沖縄旅行教育はおそらく「敗戦前の日本政府・日本軍」を非難し、その犠牲となった沖縄をとりあげて「戦争はよくない」という一般論的教訓を与えて、それで終了ということが多かっただろうと推察する。特に、21世紀初頭くらいまでに知的素養を形成してしまった人たちが「学校」で学ぶものがそうだったろうと推察する。他方、21世紀の最初の10年強のあいだに、自民党が選挙で敗れ民主党政権となり、沖縄の米軍を議題設定にあげた民主党の鳩山由紀夫がすぐにマスメディアによって総理大臣の座から引きずりおろされた。なので、それ以降の時期に知的素養を形成した世代のなかには、上記のような「平和教育」だけでは不足であることに気づいた人もいるかもしれない。
ともあれ、この伝記に書かれているような「敗戦後」の米軍の行動は、或る種の知的基盤をもっている人の間では半ば常識である一方で、学校教育とマスメディアの記事だけで知的基盤を形成してしまっている人のあいだでは、或る時期までは常識とはまったくなっていなかった。つまり、「敗戦前の日本軍・日本政府の沖縄に対する態度はひどかった」止まりになっている人が多かった。そもそもアメリカ合衆国という「国家」自体が、この沖縄に対する米軍のようなやり方を大規模に行なうことによって成立した国家なのだ。なので、米国にとってはこのやり方が常套手段となり、あちこちでそれを繰り返せずにはいられない。米国の宿痾なのである。その一つにこの沖縄への侵略行為も位置することになる。
阿波根昌鴻という人は、戦争に反対するために戦争をする、ということでは何も解決しないことを、どういうふうにしてか知っている人であった。沖縄のガンディーと呼ばれることも在るように、米軍との「戦い」を暴力に訴えることなく、しかし「抵抗」はやめることは無く、忍耐強く耐えた。「非暴力・不服従」の難しさについては、たとえば高畠通敏『平和研究講義』(岩波書店)でも取り扱われている。阿波根昌鴻という人のやり方はそこで高畠が紹介するいくつかの事例と比べても、遜色の無いものである。そのように私は感じる。ただそれを実行できるのは阿波根昌鴻のような根性や忍耐力の在る人だけであるだろう。
注意深く読むとわかることだが、沖縄を統治する政府が「琉球政府」から、沖縄返還によって「日本政府」になってからのほうが、事態が悪化している。というのも、沖縄に米軍基地を作ることを正当化するような法律が日本の国会でいくつも成立しており、それは沖縄統治の主体が日本政府になってからなのである。特に、佐藤栄作が日本政府の中心にいるときに、沖縄に米軍の核兵器が置かれるようになった。そのことをこの伝記は見逃していない。
「伝記」はしばしば、「成功事例」の紹介でもって語り終わることが多く、「その後」のことはあまり触れない。この阿波根昌鴻という人のやり方は「成功事例」と言えるようなおめでたいことにはなっていない。しかしもし沖縄に阿波根昌鴻がいなければ、基地化によって沖縄の人々にはもっと悲惨な状況になっていただろう、ということは伝わる。あまりにひどい状態になることを可能な範囲で精一杯阻止しえた人物であることがわかる。尤も彼が亡くなってからも沖縄には米軍が置かれ続け、戦争基地化はますます進行している。めざましいほどの「成功」には至っていない。その事もこの人の「伝記」を書くことの難しさに関与しているだろう。
この本は小学生でも読むことはできる。できれば高校に上がるより以前に、この書やそれに匹敵する内容を学んで「常識」にしておいてほしい。
西阪仰『心と行為: エスノメソドロジーの視点』(岩波書店)
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2023年、大学での学問が今後ますます貧弱なものになっていき、学問をやるなら大学院から、というふうになりかねないような見通しになってきている。その中でも心理学という学問は、まことに不遇な学問だった。心理学は自ら哲学という知を切り落として成立したのはいいが、かといって理論心理学という下位分類ももたない。CPUをもたない単に実証科学であることのみに自らの存立理由をもつ寄せ集めの学問となった。佐伯胖も波多野誼余夫もとうに引退し、上野直樹や徃住彰文といった理論的な話ができる能力のありそうな心理学者も早逝し、臨床心理学に限っていえば理論性の在ることを書ける下山晴彦も早々に東大を定年退官した。
『心と行為』はそういう心理学の状況に最初の追い打ちをかけた書だと思う。西阪は教育心理学と実験心理学とを別扱いしており、後者に対して容赦なく批判する。こんな批判は心理学内部からは絶対に出て来なかっただろう。心理学を学ぶ学生が感じるだろう違和感を、これでもかこれでもかとばかりに言葉にしていく。この本を読んだら、もう実験心理学は自己改革しない限り、死んでいく、そして実際そうなっているように思える。社会学者である西阪がここまで自分の専門でない分野を批判できるのは、二つのバックボーンが在るからだ。一つは社会学の会話分析やその他の社会学理論の蓄積である。もう一つは「いわゆる心の哲学」というのとも少し違うのだが、ライルを中心とした著名な哲学者らが心について論じた数々の議論の蓄積である。これだけ批判をすれば、「じゃあ、代案を出せよ」という展開になるのが通常であるが、西阪は先に「代案」(会話分析・相互行為分析)を提示している。そのクライマックスに配置したのが「心理学実験の会話分析」である。西阪は心理学実験というものを下手な専門家以上によく理解しており、心理学実験というものそれ自体を会話分析することで、「ぐう」の音も出ないほどに実験心理学の実証性の「正体」を暴いていく。
今では会話分析というのは、心理学もまたツールとして使うようになった、などと聞くとギャグとしか思えない。
心理学にはもう一つ悪癖があって、「実証性」の代償として「操作的定義」というものを多用する。これは心理学だけの悪癖ではなく、社会学者でも同じであり、「実証性」を標榜する学問共通の宿痾でもある。これについては、西阪は奥村隆・編『社会学になにができるか』(1997,八千代出版)で論じている。
心理職に就きたいという高校生もいると思うが、そういう人以外は実験心理学をやる必要はもう無いのではないか。そう思う。そう思って、この書を高校生に推薦したい。重要な著作だから、待っていればそのうち限定復刊するはずだと信じたい。また、都道府県立の図書館レベルならこの書は保管していなくてはならないし、そうだと信じたい。