はじめて学んではいけない上級者向け「入門」書:国分良成監修『図解 はじめて学ぶ みんなの政治』

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国分良成監修『図解 はじめて学ぶ みんなの政治』(目次等)(amazon)(ブクログ)(読書メーター

本を読むとき、通常だと「何が書かれているか」をまず知ろうとする。「何が書かれていないのか」を把握しようとするのはそのあとの段階になる。なので、最初の段階で「この本は良い本だ」という判断が生まれたからといって、それが当てにできるものだとは限らない。「何が書かれていないか」に徐々に気づき、特にその書かれなさが「意図的な選択の結果」に感じられたとき、「ああ、この本は思ったよりは良くない本だったな」とようやく感じることができるようになる。国分良成監修『図解 はじめて学ぶ みんなの政治』はそのような経過をたどって、私に受け取られた。

もう一つ重要な点が在る。それはこの本が「はじめて学ぶ」ことをコンセプトにしており、実際にも、インターネット上の書評子には、「この本で学ぼうと思います」といった初心者視点がやや目立つことだ。重要でありながら私にとって盲点だったのは、「まったくの初心者」にこの本がどう映るか見えるか、についてであった。その観点からこの著作を読み直してみると、「初心者を誤誘導しているな」と感じられる箇所が随所に散見される。誰でも気づくのは配色だろう。文字とその背景色とは、どの記述も対等というわけではない。文字が見えやすい箇所と見えにくい箇所とが、色彩的に作られている。こういった作為が、色彩だけでなく、記述の内容自体にも散見されるのだ。ただその点に気づくためには、「まっさらな素人」という読者層を想定できる必要が在る。

私は或る時期までは、この著作に対して多少の違和感等は性善説的に解釈していたが、途中から性悪説的に受け取るようになった。そういうことになる。

では少し検討してみよう。読んだかたがたには周知のとおり、この著作は、原著者が何者なのかをほとんど記載しない。原著の監修者が、ケンブリッジ大とニューヨーク大の教授であることすら、扉にしか記載が無い。日本語版を出すにあたっての監修者である国分良成という人の名前をひたすら前面に出している。この、原著者に注意が向かないように作っている点をまず押さえておこう。この本を「国際的」と感じる読者もいるかもしれないが、要は英語圏の超大国の教授が監修である。その超大国というのは国連の常任理事国であり、だから核兵器所有国であることにもなる。核兵器を所有する英語圏の、共産主義や社会主義でない国家に対しては、日本人はまずもって無防備だろう。全面的に好意的に受け入れる読者が大半であるに違いない。つまり、それは「国際的」とか「中立」といった受け取りかたになるかもしれない。しかし、たかだか米国と英国の教授が監修しただけで国際的だったり中立だったりするわけもなく、むしろその反対だと言ったほうが良い。これは特定のタイプの国家の政治観に彩られている。その最たるものが「核兵器についてはとにかく言及しない。見なかったことにする。」というものだ。この著作は、核兵器に全く言及しないというしかたで、明確な特定の政治的立場を保持している著作である。まずこの点をよくよく押さえておこう。

この言わば「偏った立場」の本が、「みんなの政治」をタイトルに掲げ「はじめて学」ぶ者を想定読者にしているらしい点をまずきちんと追及しておこう。その際に、原著者・原著監修者の情報は伏せられており、日本国の国分良成という人物を監修者として前面に出している日本国の出版物としてこの著作を診断するのだ。そして、この著作は日本国の初心者が「はじめて」学ぶのに適しているものだろうか、と問うてみよう。私の答ははっきりと「否」である。それは「左派と右派」という用語らしきものを述べるときに現れる。日本の「左派」は、その多くは間違い無く核兵器や原子力発電に反対の立場である。だが、そのいちばん肝腎の点が、この本では「絶対にその話題に触れない」と原著者たちが決定済であるためだと思うが、触れられない。すなわち「日本の左派」とは何かということを説明するときの、最重要事項のうち一つの要素がこの著作では「タブー」なのである。そのため、この著作での「左派と右派」の説明は、日本には的外れ過ぎるものになる。

もう一つ重要な点を挙げておこう。この著作の原著監修者のうち一人は米国の大学教授であった。米国というのは、周知のとおり、マッカーシズムによって国内から共産党員・支持者はほとんど「狩られ」ており、その結果として、日本での典型的な「左派」(共産党員)がほぼ存在しない国なのである。なので、米国の大学教授が説く「左派」というものは、日本の「左派」とは似ても似つかぬ点をいくつももつものに、成り果てている。自国内に「左派」が居ないので、左派的特徴をもつ他国を見てその国家の特徴を挙げているようなのだ。それが全面的に間違いだというのではない。しかし日本の読者にいちばん重要な点をいくつも失している。そうなった根本原因は、この著作が「核兵器」に言及すること自体を意図的に回避しようとしていることに因っている。米国からすれば、右派だろうが左派だろうが、超大国は核兵器をたいがい保有していて左右の違いと関係無いと思うだろう。だが、日本の読者は違う。日本の場合、核兵器に賛成か反対か、あるいは「どちらでもいい」という賛成も含め、そここそが左派と右派の違いの一つの重要ポイントだ。核兵器に賛成の日本の左派なんて聞いたことがない。假に居たとしても例外中の例外にすぎない程度だろう。或いは昔は居たとしても、東西冷戦の終結とともにそういう左派は存在意義を失っただろう。

この著作の重要なポイントの一つは、「左派」「右派」というカテゴリーを、「相手をけなすためのもの」から「自称するためのもの」へと変換するという離れ業を試みていることかもしれない。現在でも日本では特に「左派」は相手を貶めるためのレッテルやラベルであって、自称することはほとんど無い。自称するとすれば、政党名からして左派的である議員等の場合だけだ。ところが、この著作が出ることによって、それまで「右派」とラベリングもされず自称もしなかった政治関係者たちが「私は右派です」と名乗ることができるようになった。それはこの著作での「右派」の扱いが、著者の印象操作も手伝って「そう悪くない」ものになっているからだ。もし初心者がこの著作で「勉強」した場合、日本で今まで一度も「右派」を自称したことの無い議員や政治評論家を「右派」だと名指すことにもなるだろう。初心者だから、従来の語用論的な規則を知らないためだ。そして、この著作で「勉強」した場合、「右派」は若干ほめ言葉に聞こえるほどに学習させられていくからでもある。日本にはそれとは別に「右翼」という語が在り、こちらはけなし言葉というか相手に貼るラベルのような使い方がけっこう定着している。なのでこの本で「学習」した読者は、「右派」と「右翼」とを使い分けることによって、今いる政治家や評論家をつぎつぎと「右派」の側に分類していくことも在りうる。その程度には「ほめ言葉」になりうる用語に生まれ変わっているからだ。

この著作は「左派」「右派」という語に対して、初心者が「うっすらとした偏見」をもつように印象操作している。この著作でいちばん最初にその語が登場するのはp59である。その箇所が与える第一印象とは次のようなものだ。左派の考え方とは何をおいてもまず税金は高く!とくに金持ちの人たちからは多く取るべきだ。である。以下の叙述もすべてこの「第一印象」の上に上書きされるものになる。この箇所を日本の通常の高校生などが読んだときに、「左派とは消費税率を50%くらいにせよ、と言っている人のことだろう」と誤解するだろうが、その理由はそういう誤読をはっきりと誘発するように書かれていることに在る、と言える。そして、にもかかわらず、この説明自体はそう間違っているものではないのが問題なのだ(もちろん実際には「消費税率を上げろ」などとは言っていないし書いてもいないのだから、間違っているわけではない)。と同時に、日本語版を監修した国分良成という人は、この書き方によって日本の高校生や初心者をミスリードできる可能性を十分考慮して、この書き方を追認したのだと言えるだろう。

p59の叙述は他にも多数問題を抱えている。「少なくとも日本では明確にミスリードである」箇所がいくつも在る。「右派」の考え方として、政府は、国民生活にあまり干渉するべきじゃないわ。というものが挙げられている。英米では或いはそうなのだろう。だが日本の「右派」にはこれはまったく当てはまらない。たとえば、特に中学生に対して無駄に厳格な校則や規律を強要してきたのは「右派」の一部であり、反対してきたのが「左派」の一部であった。のみならず、現在の日本の「右派」の政府と結託した一部勢力がほとんど洗脳教育のようなものを子どもに行なおうとしていた/いることもすでに周知の事実である。また、もし今後日本が「徴兵制」に移行すると假定したときに、「左派」と「右派」のうち、どちらがそれを支持し実行しようとするかは、明瞭である。「右派」のほうなのである。日本国では、国民生活に干渉するのは「右派」であるほうが度合いが強いのだ。単に右派のほうが企業の経済活動にあまり干渉しない、というだけの話なのだ。だからこの箇所は「日本の右派」の説明としてははっきりと読者をミスリードする。

同様にして、「右派」の考えとして挙げられている急激な社会変化はよくないわ。きちんと伝統を守るべき。という箇所もミスリードである。日本国でここ5年あまりの間に、「急激な社会変化」としての法制度の変革を強硬に推進してきたのは「右派」の国会議員のほうであり、次々と強行採決を繰り返して立法府の存在意義を骨抜きにしてまで、法制の急激な変化を進めてきた。急激な社会変化はよくないわ。という主張をしていたとすればそれは、日本の場合「左派」と呼ばれる議員たちのほうであった。ただしここでの「伝統」はマジックワードである。このワードを使って言うなら、「右派」は100年くらい以前の「伝統」に引き戻すために(も在って)「急激な社会変化」を推進し、「左派」はこれまでの50年くらいの「伝統」を守るために「急激な社会変化」に反対してきた、という言い方になるのがまずは妥当な見方だろう。「伝統」という語が何を指しているのかを不問にふすことで、読者をミスリードする箇所である。

その他、四点ほど、この著作に見出した、代表的なミスリードな箇所を指摘しておく。

一点めは、p50の「国際連合の権限」の箇所だ。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の5ヵ国が常任理事国である、という説明は良い。だが、この5ヵ国に「国際連合安全保障理事会での拒否権」があることは全く書かれていない。また、この5ヵ国がすべて「核兵器禁止条約」に不賛成の国であることや、「核拡散防止条約」ではこの5ヵ国のみが核兵器を保有して良い(それ以外の他の国は核兵器をもってはいけない)とされていることには、いっさい触れていない。こういった状況を、ほかの加盟国よりも強い権限をもっているなどというぼやかした言い方で曖昧にし、そのことで初心者をミスリードしかねない箇所だ。再度書いておくが、この著作の原著の監修者はアメリカとイギリスの大学教授なのであり、当事国そのものである。「中立」などというものからほど遠い著作なのだ。

二点めは、p25の「権利の章典」の箇所だ。基本的人権をもつ「国民」のなかに黒人奴隷やネイティブ・アメリカンはふくまれなかった、ということが書かれているのは良いことだろう。しかし、ネイティブ・アメリカンというのがそもそも何者なのか知らない読者は、ここで簡単に信じ込んでしまう。何も知らない読者は、「白人アメリカ人」というのを、イギリス人などの西洋人が、アメリカ大陸に人が住める「空地」を見つけてそこに移住した人々だと思い込んでいるだろうからだ。だが、そうではない。白人アメリカ人というのは、そこに昔から住んでいたネイティブ・アメリカン(インディアン)と呼ばれる人々を虐殺したり追放したりして、そこを「乗っ取った」連中なのである。その連中の作った権利の章典の「基本的人権をもつ国民」のなかに、ネイティブ・アメリカンが含まれていなかった、という話なのである。どうだろう。誤誘導されていた読者も多いのではないだろうか。この点に関連したミスリードはこの本の中に溢れているようにも思える。

三点めは、p99の湾岸戦争の説明だ。この説明だけ読むと、フセインという国家元首が勝手に、アメリカ合衆国を含む他国と無関係に、何やら宣言を起こしてそれを抑えるために多国籍軍が解決に乗り出したように解しうる。何も知らない読者は、まさかそのフセインのことを、それ以前から冷戦がらみでアメリカ合衆国がフセインを支援し、武器を提供し、独裁者として育てた、などという前史が在ったことなど想像もしない。言うなれば湾岸戦争は、「トカゲのしっぽ切り」とか「人が上った梯子を外した」とでもいうのに近いものだったようなのだ。このあたりのことを知るためには、何でも良いが、たとえば早尾貴紀『国ってなんだろう?: あなたと考えたい「私と国」の関係』(平凡社)(amazon)のp173あたりを併読することを勧めたい。

四点めは、p90「南スーダンの新国家」の箇所だ。この箇所は、假に書かれていることがすべて事実であったとしても、なお、読者をミスリードする箇所だ。詳しいことは小川真吾『ぼくらのアフリカに戦争がなくならないのはなぜ?』(amazon)のp118~133などを併読してほしい。そうすれば、アメリカ合衆国を始めとする、南スーダンの石油を狙っている強国の都合というものが先行しており、南北スーダンの統一を目指していた指導者が「事故死」するなどの出来事も起こっていることがわかり、民衆が分離独立を望んでいたから独立国になったなどという単純な話でないことが充分推察できる。

このように読者を誤誘導しやすそうな箇所を一瞥してみると、この著作がp61で選挙年齢の引き下げを主張している理由もよくわかる。そうなのだ。低年齢の者が選挙権をもてばもつほど、知識のないまま、教師の教えるままに投票先を決めてしまう層が増えるから、為政者や既得権益層にとって得なのだ。日本の場合、それにプラスして2020年度から開始するとされている新教科『公共』がその件に寄与することにもなるだろう。そして、この国分氏の監修本もおそらく、同様にしてその既得権益層の票を増やすことに貢献することになるに違いない。この本はほんとうは「はじめて」学ぶためのものでは全くなくて、「上級者向き」の本だったのだ。