古い書評:野矢茂樹『入門!論理学』:知的自衛のための武器:相手の論理ミスを見つける能力を高める

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この本は、問題を解いて解説を読むことを中心にして読むと良いと思う。その際わかるところだけ相手にすることを高校生には薦める。そのくらいで全然違う。「少しは読んで、少しはわかった」のとそうでないのとで、すごく差が在る。なぜか。日本の大学では論理学の講座がちゃんとした形で整備されていなくて、だから論理学の「初歩だけ知っているアマチュア」の層が薄いからだ。だから、この本を少し読んで少しだけこの本を吸収すると、とても効果が在る。

日本は論理学が制度的に重視されている国ではない。なので、日本の大学では論理学の専門家を輩出する部門はほとんど無いに近い。その結果として、著者の野矢も含め、論理学関係の著者のほとんどは論理学の専門家ではない。彼らの過半数は哲学研究者だ。ただ、彼らが研究している西洋の哲学者には論理学者の兼任者が多いのである。そのため日本の哲学研究者のいくらかは、否応なしに論理学の内容にも通じることになる。そのため日本でも論理学に詳しい有識者として選ばれることになり、論理学の書籍の執筆の出番が回ってくる。まずこの状況を押さえておこう。念のために言っておくが、この状況自体には問題は全く無い。問題はここからだ。

日本に論理学の専門家を輩出する制度が整っていないことから、次のような事態が生じる。まず論理学という学問の存在を知らない人が多い。次に存在は知っていても、それをどこで教わるかを知らない人が多い。内容自体を知らない人はもちろん多い。と言うか、知っている内容は在ってもそれが論理学のコンテンツであることを知らない場合が多いのだ。反例として、20~30年ほど以前に、日本の読書人層の間ではゲーデルという論理学者の名前が流行ったことが挙げられる。しかしもうその時代もかなり過去だし、影響が在ったのは論壇で話題になるような本を読む層に限定されている。それに論理学者というよりは一般的な数学者だと思った人も多いはずだ。要するに、学歴が高くて偏差値が高い人であっても、論理学を論理学として知っている人は限られている。文系はもちろんだが、理系であってもなじみのある人は少ないだろう。このため、論理学の初歩を知っていれば防げるような論理ミスをする人は少なくなくて、それは学歴不問・偏差値不問なのだ。

この本の中でも私が見たとき、論理ミスに近いように感じる箇所が一つだけ在った。p11で、「論理的な人は非常識だ」の対偶を「常識的な人は非論理的だ」と著者の野矢は断定的に書いている。しかしこれは少しアウトのように感じる。「論理的な人は非常識だ」の対偶は「非常識ではない人は、論理的というほどではない」くらいに留めておくのが良いと思うからだ。これは日常言語の感じ方・使い方によるし、状況にもよる。ともかく、対偶は即「常識的な人は非論理的だ」になる、と断定するのは筆が少し滑り過ぎだろう。このようなタイプの論理ミスや断定し過ぎは、他の有識者が書くものの中にこそ時々見受けられるものだ。

論理学に高校生が少しだけふれた方が良い理由は、論理ミスを防ぐことにまずは在る。まず他人の論理ミスに気づき、それに惑わされないようにできる。学者の書くものや偏差値の高い人の書くものであっても、論理ミスをしている可能性は充分在るから、これはぜひ必要だ。次に、自分の論理ミスを防ぎ、他人から突っ込まれる余地を減らすことができる。その結果ついでに数学の成績が上がる可能性も在る。そして、その目的のために野矢のこの著書を最初から最後まできちんと精読して、自家薬籠中のものにまでする必要は、全く無い。世の中の多くの人は論理学の初歩すらもほとんど知らないのだから、そこまでやる必要が無いのだ。そうではなく、全然やらないよりのに比べて少しだけは齧るということがとても有益なのだ。

この『入門!論理学』には大別して二種類のコンテンツの系統が在る。「問題」とその解説を中心としたコンテンツと、「証明」とその解説を中心としたコンテンツと、だ。この二つは全くタイプが異なるコンテンツだと私は思う。難易度も違うと思う。「問題」を解くときに使った法則を、「証明」では真偽不明のものとしてあらためて証明し直すのだ。この二つの系統ではいわば「次元」が違う。なので、多くの読者は最初に読むときは、「問題とその解説」を中心に読むと良い。その段階でまず問題に正解することを目指して解き、そして読む、ということをすると良いと思う。この段階で止めても、読んだことは無駄にならない。

この段階での読みに関して、一つだけ注意しておきたい点がある。この本の第4章は「ならば」という論理語を扱っており、ここで対偶・逆・裏を取り上げている。高校1年生の数学でおなじみである人も多いだろう内容だ。ところがこの「ならば」は野矢が強調するように、なかなか曲者であるようだ。p116にも書かれているように、少なくとも「この電車に乗り遅れるならば遅刻だ」というような原因と結果の関係を表す「ならば」には、標準的な論理学は適用できない。たとえば「対偶をとれば良い」という方策が通じない。だから、対偶をとれば真偽が判明するような「ならば」はかなり限定的な種類のものに限られるのだ。これはむしろ理系の内容が得意な人向けの注意事項であろう。論理学は因果関係の分析にはまだ使える武器になっていない。このことを少し強調しておく。

この本のもう一つの系統である、「証明とその解説」といった流れはどうか。このタイプの内容はすでにかなり専門的な問題意識になっている。先に述べた系統のように、論理学の知識を使って問題を解くのではなく、論理学そのものを作る、という問題意識になっているのだ。そこでのプロセスとして証明が紹介されるが、その証明も、問題を解くときにすでに使った法則を、真偽不明のものとしてあらためて証明し直すようなものが含まれる。この系統の内容は、私はまったく必読ではないと思う。明らかに専門的な内容に踏み込んでいるからだ。ただ読んで無駄なわけでもない。その点を次に述べる。

「論理学を作る」というタイプの内容が、高校生にとってもまるきり無駄ではない理由は、ヨーロッパで学問をする場合だとそれが当たり前だろうだから、である。日本でそれに近い内容をやるとすれば中学校の幾何学だろう。幾何学は、定義と証明不可能な公理から証明によって定理を次々に導出して、一つの大きな体系を作り上げていく恰好をしている。この本の第5章で紹介されている論理学の体系作りも、それと同じタイプの知的営為である。ところが、中学校の幾何学でそのような証明に基づく体系作りという知的活動を伝えることをしている学校や教師はたぶんあまり多くない。そうだとすると、定義・公理と証明によって体系を作っていく、というヨーロッパでは当たり前の学問的活動を教わる機会は高校生にはほとんど無いことになる。理系だとまだ物理で教わる可能性があるが、文系にはまず無い。また理系の理論体系は因果関係を含むものだし、実験なしに理論だけで体系を作ることも限られるので、少し違ってくる。そのときに、この論理学入門書の第5章を中心とした「証明による体系作り」の内容は、またとない機会になるかも知れない。西洋の学問というものの、一つのモデルというかイメージを与えるものになるのである。「学問というものは、えてしてこういう方向性を目指したがるものなのか!なるほど」というふうにである。

この本は買ってからおそらく10年くらいになるが、未だにちゃんと理解できていない自信が在る。「家庭教師をして!」と頼まれても教えられない箇所がきっと在るだろう。未だに「論理命題」と「推論規則」の違いがよくわからない。p152に書いてあるにもかかわらず、である。

p146に掲げられた、折に触れて立ち返ると良いとされる「標準的な命題論理の体系」という表の読み方も、今回読み返してようやくわかった気になれた。たとえば選言の除去則「AまたはB、Aではない→B」という関係を、こう読むとわかりやすかった。「XはAまたはBに含まれる、Xが含まれるのはAではない→Xが含まれるのはB」と、こうである。たぶん間違っていない読み方だと思う。

ついでに言えばこの「→」と「ならば」とは一応別物であり、しかし証明によって同じに扱って良いという話になっていたことを、今まで読み落としていた。この「→」は最初p58で導入されるときには「ならば」という言い方を使っておきながら、そこで巧く断定を避けていたのである(「こう書きましょう」(p58)というふうに「書き方は別」という仕方で導入したのである)。

こんな感じで、私はまだまだこの本の内容について初心者クラスだと思うが、それでも高校生に推薦はしておきたい。「論理学をばっちり踏まえた学問」と「論理学を踏まえた上であえて逸脱している学問」とを足し合わせて、西洋の学問の一~二割くらいだろうか。その種の学問には入り込むことができそうだからだ。

最後に一段落、追加する。ここまで「西洋」「ヨーロッパ」と連呼してきたのには少しだけ理由が在る。それは論理学と、「アメリカ」の「経営学」流の「ロジカルシンキング」とは違う、と感じたからだ。つまり「アメリカが起源ではない」ということを主張に含めたいがために「ヨーロッパ」「西洋」と書いてきたというところが在るのだ。さて「ロジカルシンキング」だと論理学とは違うと感じる理由の主なものは、「演繹」のような重要語の使い方が論理学と違うように見えるということだ。「見える」というか、そのロジカルシンキング本の著者によって紹介の仕方がまちまちなのだ。それはまるで伝言ゲームの果てに皆がバラバラの答を述べるような在りさまに近い。経営学的なアメリカの「ロジカルシンキング」は、ヨーロッパの論理学が伝言ゲームによってアメリカに伝わり異なる目的のために使われるようになったその結果、少し変質してしまったようなのだ。ロジカルシンキングも役には立つだろうが、その際にも、先に論理学をさらっと知っておいたほうが良いことはこれでわかる。また、もしかするとあと5年くらいすると、小学校から高校までの教育機関にも「ロジカルシンキングを学んできました」「みんなにロジカルシンキングを授けよう」という人が教師の顔をして現われるようになるかもしれない。そのときにも、先に論理学をかじっておいてからの方が良い。論理学のほうが本流だからだ。世の中には「論理学を源流としている」がしかし、「その源流のことをよく知らない」というタイプの知的活動も多い。そういうものに対しても、高校生が先に論理学を知っておけば何かしら「自衛」に役立つ、そう信じている。