母語日本語の語彙を習得するのにどのような段階が在るか

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「語彙」が大まかにどんな段階を経て実際に習得されているのか、の假説的な見取り図を、学術的な知見をほとんど知らないのにもかかわらず、やむをえず少しだけ提案したい。かつて書いた、動詞を中心に検討した「子供の語彙習得を俯瞰する」とも関連しあっている。この問題はたぶんすごく難しくて、その解明に学術的な見地から取り組んでいる人はあまり多くなさそうだ。また、学術的であるかないかにかかわらず、自分にわかる一部の面だけを述べている人も居そうだ。私もまた、良くて、そのなかの一人になってしまうだろう。しかし、ともあれ一応何か述べてみる。幼児期や小学校段階もほんとうはもっと細かくみたほうがよいだろう。しかし私にはその自信が無い。

以降、「意味」という語を介在させるメリットがあまり無い気がしたので、「意味」の介在・媒介が不要のときはなるべく使わない方向で考えることにした。

なお当たり前かもしれないが、語彙や文字の習得の際に、多くの場合はそれ自体を目的としていない。「ようし、語彙を習得するぞ」と言って習得する、というプロセスはあまり通常のものではない。文章をたくさん読んだりしているうちに、勝手にそして気まぐれに或る程度の習得をしてしまっている、というのが当人の感じ方である。文章を読んでいてわからない語彙などは気にせず飛ばしているし、わかる気がする語彙も大して確認したり復唱したりしているわけでもない。

小学生の終わり頃まで

小学校に上がる以前の段階の子供は或る時期から、「物体・物質の名前」と「礼儀作法に関する語彙」を次々に、爆発的に習得するようになる。「物体・物質の名前」は「これ何?」といった質問を通じて習得していく。もちろん、その「名前」の属する次元はたとえば「物体を構成している元素」(例:鉄)だったり「その属する類種」(例:家電製品)になるのではあまりなくて、おおむね「手ごろな次元」での名前(例:スマホ)となる。どの次元が「手ごろな次元」になるかは或る程度ケースバイケースだが、或る程度は常識で決まってもいる。他方「礼儀作法」に関しては、養育者等から命令文・依頼文の形で述べられるものに関して、関係する語彙の習得というよりはその実行・遂行自体を習得させられる。「あいさつ」や「お礼」といった語彙を習得するというよりも、実際に「あいさつ」や「お礼」を言う行為自体やその際の典型的な発話内容のほうこそを習得させられるわけだ。また、それ以外でも「○○してはいけません」というタイプの様々な禁止や、時には「おりこうさん」「よくできたね」といった賞賛を通じて、やはり道徳や感情・態度に関するさまざまな言い回しや概念を、養育者に言い聞かされることで、ともあれ習得することにもなる。子供は、もし假に初等教育以降で「事実と意見とを区別せよ」と教育されるならば、その際に「事実を述べるときに使いがちな語彙」と「意見を述べるときに使いがちな語彙」とを区別することにたぶんなるだろうが、その場合ですら小学校に上がる以前の段階ならばその辺りの区別は無いわけなので、とにかく、「物体・物質の名前」と「礼儀作法に関する語彙」とを両極とするようにして、その中間に来るような語彙(例「物体の状態の名前」)も含めて爆発的な数の語彙を習得することになるだろう。「事実と意見の区別」はこの段階の語彙習得では要らない。その際、絵本・児童書・百科事典やテレビ等で、生活世界に用途が無いようなさまざまな語彙もまた習得することが可能である。ただそれはそのようなメディア環境に置かれていて適切なアドバイスができる養育者等が居る子供に限定されるだろう。また、もしこの段階ですでに漢字を習得していればそれを手掛かりに語彙を増やすことができるし、そうなるべき語彙も本当は含まれているはずだが、たいていの場合はまだそこまで漢字は習得していない。

この時期の言語の習得は、多くの子供の場合は音声でのやりとりを通じてのものが中心になる。その際にも、語彙や意味を習得するというよりは、音・声としての側面に関心が向きやすくもなるだろうし、言い回しやメロディ的・リズム的・身振りを伴った歌に似たものとして習得することも多いだろう。「内容」は二の次である、と言っても良い。子供と音声コミュニケーションをとることをしない養育者や不得手な養育者に囲まれてしまった子供の場合、どうやって日本語を習得するのか本当に謎になるほどである。ともあれこの過程で日本語習得が遅れていると、小学校に上がってからもほかの子供から大きく後れをとることになろう。

「自己」と他人との区分などといったタイプの、発達というか世界観の変革が幼児~小学生中学年程度のあいだに起こり得る。そのことも語彙習得・言語習得と大いに関係在るだろう。ただこの点は私はよくはわからない。たとえば語彙で言えば「行く」「来る」「帰る」の使い分けができるようになる、などもその一例だろう。

さて、小学校に上がってからは、語彙の増進に大きく関係するのが漢字の知識である。言語哲学ではまず扱われない話題であるが、「漢字の意味」の把握というものが、語彙力の増進やそのタイプに大きく影響する。ただし例外もたぶん在るのでそれも簡単に言及する。

その特徴をわかりやすくするために、人名に使われがちな漢字の習得に注目しよう。おおまかに言って、「苗字に使われがちな漢字」というものは、幼児のときの「これ何?」によって獲得された語彙力の延長として習得できるものが多い。「山」とか「川」とか「藤」とかだ。もちろん「藤」の場合は単純に植物の名前であるだけでなく、藤原家という「家柄」をも含意しているわけだが、さしあたりその事柄を知らなくても習得できる。「高」や「広」といった漢字もその基核的なイメージを「絵」で提示することもまあ可能であり、それを見れば苗字の言わんとするイメージもまあ伝わる。そういうわけで、「苗字」に使われがちな漢字というグループの漢字の意味は比較的習得しやすいほうになるだろう。絵に描きやすいものや写真で示せるものが多いのだ。

他方、「姓名で言えば名のほう」「下の名前」「ファーストネーム」に使われがちな漢字というグループも在る。この中にも先の「高」や「広」は含まれうるわけだが、むしろ「貴」だったり「隆」だったり「寛」だったり「博」だったりすることが多いだろう。これらの漢字もまた、「高」や「広」の延長線上のものとして習得や把握も可能だろう。その際、「高」という文字の意味を土台にして「隆」や「貴」を把握するというプロセスは、時と場合によっては「具体から抽象へ」と言われることも在るかもしれないタイプのものだ。或いは「犬を電柱に結びつける。」「ボールを掴め。」という文の理解を土台にして「例の一件をこの議論に結びつける。」「勝利を掴め。」という文の理解をするというプロセスとも、類似している点が在る。つまり、物理的・物体的なレベルでの「高い」という状態の理解を土台にして、「地位の高さ」「価値の高さ」や「ものごとが繁栄しているその栄え方(を土の盛り上がった状態に喩える事)」などを或る種の比喩のようにして把握するというわけだ。この習得プロセスが比較的容易に達成されるとすれば、それは幼児期に「ほめる」や「禁止する」などの道徳的やりとりの習得を多少してきたことも大いに寄与しているはずである。人名の下の名前なので、まず間違いなく「ほめる」ほうに偏っているに決まっているわけだが、ともあれ「ほめる」とか「好き」「ほしい」「やりたい」とか「賛成する」とかそういった言語行為とその際の典型語彙・言い回しを幼児のときに少しは経験しているために、「人名の下の名前」の理解のための「引き出し」ができており、そのため位置づけによる理解も進みやすくなっているわけだ。物体の名前しか習得していなければそうは行かない。この幼児期における「人名の下の名前の理解のための引き出し」の形成に関連する可能性の在る文献として清水哲郎『医療現場に臨む哲学II ことばに与る私たち』(勁草書房,2000)を挙げることが可能であろう。本稿より以降に筆者が新たに書いた次のページに、この文献から引き出した内容を記載しておく。併読を推奨したい。「幼児の言語獲得の、汎用性の高いモデル―清水哲郎の著作『医療現場II』に依拠して」。

なお、人名に使って可い漢字が大幅に増加した以降(1981年以降或いは1990年以降)に命名された子供の場合、「貴」「隆」「寛」「博」といったタイプの漢字使用やまして儒教的観念を表す漢字はいくぶん以上少なくなっており、苗字と同じくらいに「絵に描ける漢字」「物質・物体を指し示す漢字」を含む名前がむしろ増えているように思う。たとえば「紗」とか「沙」の字を使った名前や、「大樹」「大河」「大地」「大海」などといったまるで苗字のような「下の名前」が多くなっている印象が在る。この場合、苗字と同じように習得しやすい。

人名に使われる漢字というのは、あくまで漢字のなかのグループに着目してもらうためのものであり、その種のグループだけの習得だと、特に「動詞に使って良い語彙」に使われやすい漢字は欠落しやすくなる。特に「漢字熟語+する」といった動詞は「ちゃんとした日本語」扱いを受けていないためだろうが、学校教育ではほとんど手つかずになり、高等学校の英文解釈や英単語集での訳語として、はじめて集中的に学ぶことになる。特に、「言語を発する行為を指すときに使っても良い動詞」は相当に欠落するし、それを欠落させたまま「マンガのせりふを説明させる作文課題」などで小学生にその動詞を状況に合わせて次々と思いつくことを要求するのももちろん良くない。そんな動詞を小学生は通常全然たくさんは知らないし意味もわからないことも在るし、使いこなせない。さて、そこで使われがちな漢字の知識だが、その習得のためには結局「述語を伴った文章」を大量に文字で読むことしか筆者には思いつかない。そのために、その文章のなかでの「せりふの含有率」の低いものを読むものとして選ぶようにするしか効率の良い方法は思いつかない。「せりふ」だと述語が省略されやすいような気が私にはするからだ。

「言語を発する行為を指すときに使っても良い動詞」というものの習得は通常困難であり、高校時代の英文解釈等を通じてなんとなくいつの間にか習得してしまっているものである。それで良いとも言えるが、有力な協力者・指導者が居れば小学生のうちでも或る程度補助的な手段は在る。それはたとえば「批判する」という語を習得したいと思ったときに、誰かが発話しているシーンが存在しているところで、そのふきだしを巨大なトンカチで殴る、とでもいった「イラスト」を協力者に描画してもらう、といったことである。この場合に重要なのは、「ふきだしをトンカチで殴る絵」に該当しうるような発文可能動詞というもの自体はたくさん在るのであり、「批判する」だけに限られるわけでは何らないが、しかしその点はあまり気にしないということである。それを気にする段階は中学生以降だと思ってもらうと良い。ひとまず、「批判する」→「ふきだしを巨大なトンカチで殴る絵」という結びつきだけを作っておき、その逆方向の矢印の結びつきを気にしなければ、「批判する」という語を用いたたくさんの文章を受動的になら受け取ることも理解することもできるようになる。比喩の理解とまあ似たようなものだし、実際そのタイプの比喩表現と言い得るものは膨大に存在する。小学生のうちはほとんどの場合そこまででまず良いはずだし、物足りないと思う子供は辞書や事典を調べれば良い。

発文可能動詞に限らず、より一般的に言って、小学生のあいだの語彙習得全般に、この「語彙→意味(のいわばイメージ)」の矢印を片側方向のみ回路をつけられればほとんどの場合良いとするのである。それだと、似たような語彙どうしの区別がつかないことになるが、ほとんどの場合は「そんなことを気にしている暇が在ったら、もっと文章を読み、それらの語を使って良い場面というものに次々に接する」ことのほうが重要である。気になるのならば、繰り返しになるが辞書や事典をひけば良い。

漢字の意味と語彙の意味とは無論異なるものではある。とは言え、私が想定しているのは、多くの場合、語彙の意味の習得もまた、漢字の意味を前提や土台にして進行するものなので、まず漢字の意味の習得が先行するほうが良い、というモデルである。なので、典型的には「知覚」や「異同」などといった「構成要素の漢字の意味の合成としては推し量ることができない」語彙、或いは同じ理由に依り、明治以前から日本語に在るような「親切」や「家来」といった語彙に関しては、構成している漢字の理解だけでなく、さらなる語彙そのものの理解が必要になってはくる(ただし「知覚」や「異同」といった語彙は小学生が習得する必要はほぼ無い)。また、そこまででない語彙についても、結局はそうだ。その語彙そのものの理解という件に関して、さきのような「語彙→意味(のいわばイメージ)」の矢印の片側方向のみの回路づけというしかたでの学習が、いちばん手っ取り早いのである。ただし、「ふきだしをトンカチで殴る絵」といった補助手段を使わないと理解しづらく習得できにくい「批判する」などの語彙の場合は、例外的に、それを構成する漢字の意味を土台に理解することも難しいことが多いはずなので、そこは逆のプロセスにならざるをえなくなる。「批判する」という語彙の理解が先行して、あとから「批」や「判」を理解することになるのだ。しかし今、私は書いてみて思ったが、「批」という漢字の「意味」や「基底的なイメージ」など私の脳内辞書に在りはしない。構成する漢字の意味やらイメージやらなど知らなくても現実的には問題無い場合も意外と在るのかもしれない。その場合でも「“批”の字を使う語なんて、“批判”“批評”“批准”くらいしか思い浮かばないなあ」くらいのぼんやりした連想なら在るしそれで充分だ、とも言える。

さて漢字の知識とは直接の関係は無いが、小学校段階で起こりやすいもう一つの語彙増進のタイプが在る。それは「個別→一般」とか「下位語→上位語」といったタイプの増進のしかたである。これが起こりやすいのは、「辞書的定義」にその秘密が在る。例えば「蟻」という語を辞書や事典で調べた場合、その「定義文」はきっと「〇〇という昆虫。」やそれに近いようなものになっているはずである。定義文の末尾に位置するのは「昆虫」という「上位語」であるように、いわば日本語文法的に決まっているのである。なので、「蟻」という語を調べた生徒は、併せて「昆虫」という上位語を習得しやすくなる。ただし、こういうプロセスが促進しやすいのは、或る程度「客観的」「科学的」に「定義」が決まっている理科・数学関係のものに偏りやすくはある。社会科だと、その定義自体にしばしば「主張」「立場性」が込められていることも在り、事態は理数系ほど単純ではないからだ。またたとえば「政府」や「行政組織」の規定する定義が「正しい」とか「事実である」ともとうてい言い切れないからだ。社会科の場合は、上位語を習得するよりも、むしろ、「固有名詞」がどの上位語に属するのかの知識、つまり人名なのか地名なのか事件の名前なのか、といった知識の習得のほうが当面は重要になる。

小学生のうちは、語彙力を増進させるためには、「漢字力をつける」ということを主目的とし、その漢字習得の過程で付くような語彙力を中心にすると良いだろう。漢字力が中心なのだから、当然それは「文字」を読むことが中心になるほか無いし、それは学校外の時間を削ってやるほか無いのだから普通の子供には負担である。しかし他の方法は無い。学校で音声の授業を六時間ほど受講して疲労していても、そこで鞭打ってでも文字の本を読まないと、漢字の知識に裏打ちされた語彙力はまったく伸びない。字幕の無い音声の会話や聴取ではまったく付かない能力なのだ。もちろんルビはいくら在っても良い。小学生のうちは友達と遊ぶことも確かに大事だが、その時間をとればとるほど、語彙力の無い子供になってしまうことも確かであることは強調せねばなるまい。ちゃんとした語彙力・日本語力をつけさせたければ、小学生のうちは友達との遊びはほどほどにとどめる必要が在る。おけいこごとや塾にも同じことが言える。これらでは所詮、音声面での日本語力しかつかないのだ(もちろん友達遊びやおけいこごとを通じてコミュニケーション能力自体は上がると言えばまあ上がるだろう。だが小学生のうちだと時間が限られているため、語彙力とコミュ力はトレードオフになる)。学校等での授業やテレビ番組が当たり前のように「字幕」を付けるようになる日が来るまでは、そのようにして「自衛」しないと漢字力に裏打ちされた語彙力はまったく付かないのである。

先述したこととほぼ同じ主張になるが、おおまかに言って、小学生のうちの語彙力の増進というものは、「こういう語彙や言いかたが在る」とか「こういう語彙を使ってこういうことを述べることができる」とか「この漢字や語彙のイメージがだいたいわかる」という方向性の習得を中心に構想するのが良い。というのは、そのような「安直な理解」でもって膨大な語彙や漢字を習得していかないと、「次の段階」での習得や理解に支障が在るからだ。「次の段階」というのは、或る程度以上大量の語彙や漢字やまた文章に接した経験が無いと話にならないのだ。はっきり言って「質より量」なのである。ここで邪魔になるのが「質の高いものばかりを読ませたい」と考えるような保護者や教育者となるだろう。読むものの質など相当低くてもいいので、と言っても「通用する日本語」である必要が在るだろうが、とにかく半端ない量に接することが語彙力ということに関してこの段階でいちばん必要なのである。それも現代の日本語でである。その際たいていの場合は、マンガのなかでもあまり品質の良くないものですら、テレビ番組よりはよほどましである。マンガではせりふが文字で書かれていて多くはルビも振ってあるがテレビ番組は字幕が無いからだ。また、どうせ文字の本を与えても読まない子供になら、マンガでもなんでも文字を読む機会を増やすことのほうがはるかに重要である。このようなマンガのせりふの文字読解で漢字力の低下が辛うじて食い止まっていた者も少なくないはずである。ただしマンガでは漢字力以外はあまり保証できない。たとえば「ちゃんとした文章」のもつ文法性などは身につかないだろう。マンガにはせりふしか文章要素が無いからだ。ふきだしの中が二文以上の場合は句読点が明示されているだけ、まだ音声の授業よりはまし、という程度でしかない(マンガのせりふは一文のみの場合だと「。」は記載されないだろう)。いずれにせよ漢字力を中心に据えた語彙力獲得のためには、結局学習者当人が自発的に接したくなるような内容を中心にして語彙力をつけていくのが良い、となるだろう。「音声での授業などを受けている暇が在ったら、マンガですら読まないよりは読んだほうが語彙習得には良い」これなのである。

この段階の漢字習得・語彙習得に親和的な「言語論」が、たとえば石原千秋『評論入門のための高校入試国語』(NHK出版,2005)のp76で述べられるような言葉の意味とは、その言葉が喚起するイメージのことだ「平和」という言葉の意味は、「平和」という言葉によって、僕たちの頭の中に沸き上がるイメージの束ですというタイプのものになろう。理説としてはとうてい維持できないような説だが、また石原のこの箇所の論はそれ自体でもかなり誤謬を含んでいるが、にもかかわらずこれに或る程度近いようなメカニズムが、「小学校段階での漢字学習を中心とした語彙習得のプロセス」では作動している、と見なすほか無いように思う。少なくとも「漢字の意味」や「小学校初期の漢字を通じた語彙の獲得」に関しては考慮して良い見解ではある。もちろん「語の喚起するイメージのすべて・全体・総和が語の意味である」というのならその説は間違いに決まっているが、そうではなくて「語の喚起するイメージのなかの或る種のものは語の意味である、と言って良い」ということにするのである。尤も、学習者サイドから見た場合は、それ以上に、「語がイメージを特段に喚起しない」語は理解や習得が難しい、というのがより実際的な感じ方であろう。また同じようにして「構成要素の漢字が特段のイメージを喚起しない」語もまた理解や習得が難しくなろう。ともあれそういった「理解できなさの体験」が在るために、「イメージを喚起する語というのは、そのイメージによって語を理解することになる」説が特に正しそうに感じられるのだ。

或いは石原的な「喚起するイメージ」とはまるで異なるものであるが(「イメージ」という語の意味からして違っている)、言語哲学で誤謬とされる、語の「イメージ説」もこの局面では多少好意的に考慮に入れてもよい。指示対象の視覚的・聴覚的その他の「イメージ」を経験的に知らないならば、それを意味する語彙もまた知らないと言って良い、ということが妥当するような語は一定程度存在するはずだからである(例:色名)。ただ、視覚的その他のイメージを経験として知っていればそれでその語を理解したことになる、という方向での根拠づけはとうていできない、という話なのだ(と思うことにする)。言語哲学での「イメージ説」は筆者は青山拓央『分析哲学講義』(筑摩書房,2012)の、読後の雑な印象で述べている。青山は、「語の意味は指示対象のイメージである」という説は、指示対象説ではなくイメージ説のほうとして位置づけている。

中学生の初め頃から

中学生以降、と決められるものでもないだろうが、或る程度大量の語彙を習得して「こういう言い方もできる」という語彙知識を獲得した段階を経ると、次の段階ではまったく別種の発達的課題が控えている、と私は思う。その課題とは「この述べ方はよく在るタイプのものだ」「こういう言い方は普通はしない」という認識の獲得である。すなわち「これはよく在るタイプのものだ」「普通はこうである」という認識が可能になってくるのである。この「普通」というのは、単なる頻度に関するものであるというよりも、もう少し規範的なものである。またもちろん、当人が感じるその「普通」が誰がみてもそうだと思えるような「普通」だともまったく限らないし、誰もがその「普通」判断が一致するわけでも無論ないだろう。だがともかく、こういう事が言えるためには、まず相当の量の日本語の文字に接し、日本語の語彙を習得できていなくてはならないのである。

ウィトゲンシュタイン的な観点についての補足的言及

この下位の節では、ウィトゲンシュタイン的な観点或いは初期の永井均の説明というものに対して、一定程度言及をしておく。これはおそらく多くの読者には、寄り道というか回り道であるので、たぶん飛ばしても大丈夫だ。これらに関心の在る人やかつて悪影響を受けた人が居るかもしれないので書いただけだ。

さてこの点に関して、私の立場からは非常に気になる事柄を、永井均は『ウィトゲンシュタイン入門』(筑摩書房,1995)で述べている。上記の「普通」認識というものを、「慣用」や「規則」という語で述べているように思える。そして、その述べている内容は、筆者のような凡庸な論を唱える者が存在することを想定して、まるで先回りして封じているかのようにも思える。その内容が、「ウィトゲンシュタインの書いたものからはこう読み取ることができる」という主張なのか、永井本人の積極的な主張なのかが多少識別が難しいが、少なくとも前者ではある、とまず捉えれば良いと思う。第5章「言語ゲーム―後期ウィトゲンシュタイン哲学」のp148とp149。

この問いに対する本当の答えは、彼はそのように訓練され、そのような慣習を生きている、というものである。しかし、そうであるにもかかわらず、彼自身が「私はそのように訓練された」とか「私はそのような慣習を生きている」といった答えを語ることはできない。なぜなら、彼はそれを生きているからである。それは彼の生き方に示されることであり、彼が語ることではないのだ、人は、自分が生きている当のものを語ることはできない(もし語ったとすれば、それを語るという行為の内に示されるそれとは別のものを、彼は生きているのである)。そして言語ゲームは、けっして語られることのない、このような対象化されざる生活形式の中にのみ、基盤を持つものなのである。

果物屋が「赤いリンゴ五個」という言葉の意味を理解したということは、彼が子供に五個の赤いリンゴを売ったことの内に、そしてそのことの内にのみ、示される。「言葉の意味とは、言語におけるその使用である」(『探究』四三節)とは、そういうことである。このように見られた場合の「使用」(独…Gebrauch'、英…use)説は、けっして「用法」や「慣用」ではない。なぜなら、言語ゲームの主体(言葉を使う当人)は、その言葉の用法や慣用を理解しているがゆえに、それをそのように使うのではなく、根拠なしに、盲目的に――つまり他の可能性を思いつくことなしに――それをそのように使うからである。彼が用法や慣用――つまり規則――の視点に立たないということこそが、言葉の用法や慣用――つまり言語ゲームの規則――を初めて成立させるのである。その際、彼が「赤」でどんな色を念頭に描き、「五」という数の意味をどのように理解しており、「リンゴ」の概念をどう把握していたか、といったようなことは、いっさい問題にならない。

これらから判断すると、「この述べ方はよく在るタイプのものだ」「こういう言い方は普通はしない」というような認識は通常はしないものだし、もしそれをする場合が在ったとしても、それは何か高次・メタレベルの特殊な行為になってしまう場合に限られる、というふうにウィトゲンシュタインが述べている、というふうに思えるし、実際たぶんそれに近いのだろう。これらの箇所は次の箇所と併せて見たほうが良い。p169。

しかしまた、逆に言えば、実践プレイ規則ルール化がどこまでも可能であるということが、言語ゲームを単なる自然的反応ではなくまさに言語ゲームたらしめてもいる。その意味で、このゲームには底がない。実践の内に示されていることは、どこまでも――可能的には――語りうることなのである。われわれはいわば岩盤を砕く鋤をも手にしうるのだが、にもかかわらず底に達することはできないのだ。底なしのこのゲームには「限界」もない。だから、底の底まで進もうとする「根拠を求める」哲学は、空無(存在しないもの)を存在すると信じるにいたるしかない。だが、求めれば底のないこのゲームは、われわれの実践を不可能にはしない。なぜなら、われわれの実践は根拠に基づくものではないからである。

哲学の述べていることを受け取るためには、幾何学と同じような態度で臨むことがおそらく良いのだと思う。幾何学で云う「線」には「幅が無い」ことになっているが、それは現実とは異なるけど、現実を把握し理解するのに有益である。理論物理学の初歩(というか高校レベル)にも同じことが言えるだろう。哲学が何かについて「不可能性」を提示・開示するときにも、多くの人はそれを「線」や「質量」などを理解するときと同様、適宜ごまかしながら受け取るほうが良いだろう。そのような受け取り方が有効である場合のほうが多分多い。

さて、上掲の引用に在る実践の内に示されていることは、どこまでも――可能的には――語りうることなのである。という箇所である。多くの人が、言語の習得という話題に関してこの著作から何かを受け取るときには、「人々は言語の使用に際して、慣用に従っていると言いえないのだ」「言語を使用する規則なんて結局は無いのだ」というふうに受け取るよりは、人々の言語実践において暗に示されている「慣用」なり「規則」なりを、明示的に言語化して語ることそれ自体は可能なのだ、と受け取ったほうが良いように思う。ただ、その「示されていることを語ること」には究極的には終わりは無い、ただ通常そんなことまで考えなくて良い、ということなのだと捉えると良いだろう。

同じことは永井の次の著作での「ことばの意味」についての言及箇所にも言える。いちおうそれを引用しておく。永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み─哲学的諸問題へのいざない』(ナカニシヤ出版,1995または筑摩書房,2007)、筑摩のほうのページ数だとp186-187。

(前略)でも、意味ってもののとらえがたい秘密はね、よく知っているつもりで、毎日使っているもっとやさしい言葉でも、自分が使っている言葉の意味なんてほんとうは知らないからなんだ。よく国語の試験でさ、何々って言葉の意味を掛けってのあるけどさ、あれはね、かんたんな言葉ほど難しいだろ?たとえばね、『感じる』って言葉の意味を言えっていわれたら困らないか?『青い』や『小さい』や『気持ち』だってそうだろ?でも、ぼくらは毎日のように、そういう言葉をちゃんと使ってるんだよ。」

「そう言えばそうだね。どうしてなんだろう?」

「どうしてかって言えばね、言葉の意味なんてものは、ほんとうはないからだろうな。始めから言葉で定義された難しい言葉は別だよ。科学用語とか、法律用語とかね。そうじゃなくて、自然に身につけて使えるようになってきた言葉にはね、本来、意味なんてないのさ。国語辞典に書いてあるのはね、あれはこじつけ。ほんとうの意味じゃないんだ。ほんとうの意味ってものがあるとすればね、それは実際に言葉を使っていることの中に示されているだけなんだ。そこに示されているものを、自分が語るなんてできないのがあたりまえなのさ。」

というこの箇所は、まあ「国語のテスト」等での「語の定義等を書け」というタイプの設問を相対化する用途くらいにとどめておくのが良いと思う。通常、まったく知らない語の場合はとりわけ国語辞典を活用せざるをえない。或る程度なら国語辞典だって役立つに決まっているのだ。ただ「ことばの意味はこうだ」式の述べ方を議論で正当化することには不可能性・無根拠性がつきまとうのだ、くらいに思っておけば良いと思う。

私の感じ方では、永井自身も「慣用」や「規則」を明示化して語ることが在る。たとえば『<私>のメタフィジックス』(勁草書房,1986)での「I 独我論ソリプシズム―<私>の形而上学メタフィジックス」「二 感覚の文法」の章で永井は、「感情」を表す語と、「感覚」を表す語とを対比して検討しているが、その際、とりわけ「感情」を表すとされる語(或いはむしろ概念)を分析するときに、中核的な要素周辺的な要素という言い方を用いている(p32)。この「中核的/周辺的」という区別における「中核的な要素」というものが、語の使用における「慣用」や「規則」と同タイプのものであることは確かだろう。

(前略)では、辞書の定義にそのことが考慮されていないのは欠陥と言うべきか。そうではあるまい。私はここで言葉の意味に関して、より中核的な要素とより周辺的な要素とを区別すべきだと思う。哲学的な目的のためには、懐疑的な思考実験を通じて、もはや疑うことのできない意味の核を求めることもありうるが、辞書編纂者は周辺的な要素をも適度に包括した穏当な定義をもとめるべきであろう。(後略)

また、先の『ウィトゲンシュタイン入門』の次の箇所も、この論脈だと多少気にしておいて良い。「言語ゲーム」に関説するドイツ語の語彙に関する話題である。p153-154。

「ゲーム」といえば勝負のことだと思う人が(とくに日本には)多いようだが、これは誤りである(『探究』六六節)。だから、このゲームの背後には勝利への意志などは存在しない。「ゲーム」はドイツ語では「シュピール(Spiel)」だが、シュピールとは遊戯であり「プレイ」と英訳されてもよい言葉である。「シュピール」という比喩の焦点は、外部にある何ものの像でもないということ、つまり意味の源泉を外部に持たないということである。(後略)

この引用箇所のうち特に、「ゲーム」といえば勝負のことだと思う人が(とくに日本には)多いという箇所が、「慣用」に言及した箇所である、というように私は位置づけたい。「日本の多くの人が「ゲーム→勝負」という言語規則に従っている。」という内容だからだ。こういった言語規則への言及を、人々は言語実践のなかで通常しないものだし、それは究極的には不可能である、とウィトゲンシュタインが述べているのかもしれない。だが、この種の「示し」を「語る」という語り方は、ウィトゲンシュタインが想定しているよりははるかにありふれていると思う。また、別に哲学者の書いたものにしか登場しないわけでもない。もちろん、こういう語りがさらにまた示しているものという次元も在るのであり、そうやっていくと無限後退のようになるのだろうが、しかし「ことばの意味の習得や発達」について検討するときに、そこまで考える必要はほぼ無い。というか、国語教師等の特に小中学生相手の教育関係者平均の絶望的なまでの理解能力の低さを考慮すると、そのように注釈をつけておかざるを得ない。

これは多少余談だが、同じ趣旨で書いておく。中学二年の国語検定教科書(学校図書社)に採択された永井の『子どものための哲学対話』(講談社,1997または2009)の該当箇所「言葉の意味はだれが決める?(1)(2)」の「執筆意図」は上掲の『ウィトゲンシュタイン入門』を経由しないとおそらく本当には理解できていないことになるだろう。特に検定教科書では、「執筆意図というものがどうやら在るらしい」ことを暗示する箇所をほとんど削除して掲載しているようなので、なおさらである。『ウィトゲンシュタイン入門』をものすごく久しぶりに(部分的に)再読してあらためてそう思った。講談社2009年版のページ数だと、p50-51。「言葉の意味はだれが決める?(1)」からである。

ペネトレ:
たしかにね、地球が丸いか丸くないかとか、そこにいるその鳥が青いか青くないかなんてことには、客観的事実ってものがあるけど、言葉の意味には、客観的事実なんてないからね。言葉をつかっているぼくらの側が勝手に決めているだけなんだ。だから、みんながそうだと思ってつかっている意味が正しい意味だってことになるね。でも、だからといって、多数派のほうがいつも正しいとはかぎらないよ。やっぱり、ほんとうの意味がわかっている権威者ってものがいるからね。
ぼく:
どうして、そんな人がいるのさ?
ペネトレ:
その言葉がどうしてそういう意味を持っているのかっていう、意味の由来や根拠を知っているからだよ。由来を知っているってことは、そのことで過去の人々とつながっているってことだから、歴史的な観点から見れば、権威者はけっして少数派ではないんだ。だから、そういう由来も根拠も知らないで、ちがう意味でつかっている人は、いまたまたま多数派であっても、まちがっていることになるんだよ。このことは、言葉の意味の問題だけじゃなくて、ほかのいろいろなことについても、言えるんじゃないかな。

文科省や、掲載箇所をこの箇所周辺に限定したらしい国語教科書の編集者の編集意図と、永井の執筆意図とはまあ、この箇所に関してまったく異なっていると言って良いように、先の『ウィトゲンシュタイン入門』を一瞥する限り、思える。なので国語教科書のこの箇所だけで永井均という人物のイメージを形成した学習者が突然『<私>のメタフィジックス』の「二 感覚の文法」を読んだら、あまりの違いに仰天するかもしれない。後者では「ことばの由来」に触れてなどおらず、また辞書の定義文をも相対化しているからだ。それで「どうしてこんなにもかけ離れているのだろう?」と疑問を感じたときに、『ウィトゲンシュタイン入門』の言語ゲームの章を読むと、そのかけ離れ方の理由がうすうすわかってくるし、教科書に「全文」が掲載されていたわけではなかったことも理解できるようになってくるだろう。そう思う。また併せて『ウィトゲンシュタイン入門』では「言語ゲームというときの“ゲーム”という語の本場ドイツでの『本当の意味』というのは“遊戯”である」という「ことばの由来」を持ち出した説明図式もちゃんと使われており、少し安心するかもしれない。

あとほんとうに蛇足だが、日本語の語彙は「由来」などと言ってもせいぜい明治時代までしかさかのぼれないものがほとんどである。言及されている例が「ことわざ」「慣用句」の類に偏っているのもおそらくそのためである。ただし「漢字」の由来ならさすがに文字が存在しはじめた時代にまで下手するとさかのぼれると思う。

「普通はこの語彙はこう使う」というタイプの理解

話を戻す。小学校のあいだはおおむね「こういう漢字や語彙や言い方が在る」という理解や「この漢字・語彙の意味やイメージがまあわかる」という理解を中心にしていれば良かった。というよりも、そういうふうにハードルを安直にしておかないと、必要な膨大な語彙の習得も、日本語の文章にともあれ触れた経験も、まったく不足してしまうのだ。そこが不足しているうちは、「先」に進めないのである。この期間には、細かい丁寧な理解や触れる文章の品質などにあまりこだわってはいられない。また、子供を取り巻く種々の環境からしても、そのコントロールは絶対に不可能である。だからとにかく「量」をこなすしかない。

ところが、大まかな目安として中学生くらいになると、それとは別のタイプの発達課題が要請されてくる、と私には思える。それが「言語使用における普通」の認識の獲得である。「普通この語の意味はこうだよね」「普通こういうことを伝えたいときはこう言うよね」「普通こんな言い方はしないよね」といったものだ。子供が文字で接した日本語の量や獲得した語彙の量が少なすぎるうちには、こういった「普通」の認識は可能でもなく望ましくもないことは言うまでもないだろう。或る程度の大量の「獲得したり文字で接したりした日本語の量」はこの前提だ。だが、それにしても、だ。その時期が中学生のときでなくてはならない、という必然性は在るのだろうか。

はっきりとは言えないが、現実的な小中高の12年間という期間を鳥瞰すると、少なくとも英語学習が中学校から開始していた過去の時代に関して言えば、「中学校以降は、現代の国語や日本語を今さらもう勉強するという期間ではないから」という事情が浮かび上がってくる。中高の6年間は、「日本語力に比べてひどく劣らない程度の英語力」を可能な限りつけることが、社会的に強く要請されている期間なのだ。日本語をもうあまり仕入れたりしている余裕は無い。またその時間が在るなら数学でも勉強するか体でも鍛えなさい。…と、そういう話になっているのである。その要請がおそらく帰結したものでもあろう。中学以降というのは、「新しい日本語の知識」を仕入れたり、本格的に日本語の文章を読むという時期とは通常は位置づけられていなくて、そのことも在って「すでに獲得してしまった日本語」を土台にした知的躍進が現実的に可能な選択肢になってくるのである。その「知的躍進」にもっともふさわしいのが、「言語使用における普通」認識の獲得なのである。

上記の理由はいささか消極的なものだが、もう少し積極的な理由も想定できるだろう。それは「言語使用における普通」という水準がもともと言語使用の成立の中核に在るはずだ、という認識である。この見解を提示しているのはたとえば野矢茂樹だが、それはディヴィッドソンのいささかアナーキーなコミュニケーション観への修正案として提示された理説に連接させるべく提案されたものだ。

「言語使用における普通」は大別すると「どういう場面や文脈で語や文を適用するかという普通」と、「どういう語や文と連接して、語や文を使用するのかという普通」とになるだろう。野矢の指摘は前者に照準しているものだと位置づけよう。後者はのちほど大野晋の述べているものを検討するなかで扱う。

引用するのは、野矢茂樹『哲学・航海日誌』(春秋社,1999または中央公論新社,2010)である。特に「常識という神話」という文章がこの件に直接関係している。春秋社版でp349-351およびp353-354から引用するが、基本的にはこの文章の全体がその話題である。

大人が子供に言葉を教える場面を考えてみよう。例えば、「犬」という語を教えようとしてみる。どうするだろうか。

前章で論じたように、語は部品にすぎない。そこで大人は、その部品(「犬」)を用いた道具=文をさまざまに使ってみせるだろう。例えば、「犬がいるね」「ほら、犬が寝ている」「いま隣の犬が吠えた」「その犬はこわくないよ。なでてごらん」、等々。ただし教育の初期の場面では、大人はあくまでも標準的使用を示さねばならない。ノコギリの使い方を教えるのに、いきなりそれを楽器として演奏してみせる大人はいないだろう。教育用の発話は、少なくとも最初の内は嘘であってはならないし、あからさまに偽であってもならない。あるいは嫌味や比喩であってもならない。ごく素直に、正直に、かつ適切に、描写し、命令し、問いかけるのではければならない。

そうした教育上の制約のひとつとして、私は、一見さして重要とも思えないかもしれないことを指摘したい。それはこうである。

いかにも犬らしい犬を話題にせよ。

子供に「犬」という語を教えるとき、あまり犬らしくない犬でもって教えようとはしない。例えば、夏に暑さ負けしないようにその胴体の毛を刈ってしまったチャウチャウ。その情けないライオンのような姿にもかかわらず、それは確かに「犬」であり、「犬」以外の何ものでもない。しかし、「犬」という語を教えるときにはもっと個性的でない犬を話題にしたほうがよい。あるいは、何かのかげんで尻尾の先が二本に分かれているような犬。あるいはまた、ニャンと鳴く犬を話題にすることも避けた方がよい。さらには、警官を指差して「犬」という語を教えようなどはもってのほかである。

「犬」という語を外延的に規定するならば、「……は犬である」を真にするような対象を指定することによって規定されると考えられるだろう。いわば、犬の集合である。だが、日常語の「犬」はたんなるのっぺりした集合ではない。そこには「犬らしさ」という構造が導入されねばならないのである。

まず、順当に犬らしい犬、すなわち犬のプロトタイプから始め、しかるのちに、多少変わった犬について「あれ犬なのだ」と教えていく。そこにおいて子供は、たんに何が「犬」と呼ばれうるのかを学ぶだけではなく、どういうのが「ふつうの犬」であり、どういうのが「変な犬」なのかも学ぶのでなければならない。ある概念の習得において、何がその概念のもとに落ちるのかを学ぶだけでなく、そこにおいて「ふつう」と「変」という評価軸を正しく設定することも要求されるのである。(いわゆる「充足」(satisfaction)は「ふつうの充足」と「変な充足」という下位区分をもつことになる。)

これは、たんに統計的な事実ではない。すなわち、犬の集合において多数派と少数派をただ数において区別するようなことではない。「ふつう-変」という評価は、それが「何として」捉えられているかに依存している。例えば、ある人物について「市民としては変な人だが、哲学者としてはふつうだ」のように言われるかもしれないように。つまり、「ふつう-変」という評価は、アスペクト依存的なのであり、たんに外延的な数量の評価ではなく、内包的性格を有しているのである。

そこで、外延的にはまったく同じ了解をしながら、「ふつう-変」の評価が異なるために、異なる概念を習得していると言わざるをえないようなケースも出てくることになる。実際に、尻尾の先が二本に分かれている犬に対して、「どうだい、いかにも犬らしい犬じゃないか」と言う人がいたとしたら、その人は私と異なる「犬」概念をもっていると言うべきだろう。

このような野矢の提案に私は反対する理由をまったくもたない。賛同していると言って良いと思う。で、子供の(小学校入学以前から小学校中学年程度までの)言語習得の期間で、こういった「語が普通に適用されている」場面ばかりでの習得になっているか、と言えば、答は「違うこともけっこう多い」とおそらくなるだろう。子供の言語習得では「普通」の把握にあまり成功していないことも多いだろうと想定されるのだ。まず一つその想定して良い理由としては、野矢のモデルは直接対面している会話での習得となっていて、のみならずその相手は信頼できる養育者であるわけだが、そんな状態での語彙習得ばかりであるはずがない、ということが挙げられるだろう。さらに子供が語彙を習得する場合、その多くはフィクションを通じてであるはずだ、という現実的理由も挙げられる。その場合、たとえば語の標準的な使用と変則的な使用(たとえば比喩的使用)とが、まったく等価に提示されていたりすることも在ろう。フィクションでなくても在りうるケースとしては「時計の針」の「針」のほうが標準的な用法で、「裁縫道具の針」の「針」のほうが比喩であるというふうに習得してしまう、というのと同型の語彙習得の失敗が、フィクションだといろいろと起こりうるのである。テレビCMなどでも同じことがやはり言えるだろう。また別の理由として、乳児や幼児が「ブーブー」とか「ワンワン」という、結局は(フィクション等以外では)使わないことになる語をいったんは習得してしまうのと同様のことが、小学生段階でも起こりうる、というのも在る。そこでは「教育用」の特殊な語の使用のほうが、標準的な語の用法よりも優先的に刷り込まれてしまうことが在るのだ。たとえば「基礎」という語を「もっとも容易である段階」「学習の初歩の段階」という意味でまず先に理解し刷り込まれてしまう、などの例が挙げられる。この用法が標準的であるのは学校的な環境のなかだけである。こういったことは「基礎」という語以外にもさがせばいっぱい在るはずだ。そんなこんなで、子供の語彙習得が「標準的使用」からまず先に習得して、あとから「変則的使用」の習得に移行する、などという、理想的プロセスをたどることばかりになるはずはない、と言い切れるのだ。あともちろん、「そもそも誰がその標準的使用や典型性というものを、述べたり決めたりすることができるのか」「誰がそれの専門家なのか」問題も浮上せざるをえないが、現時点では「国語教員がそれである、とは到底言い切れない」くらいのことしか言えない。(なお、語彙のなかでも「心的状態語」や「心情語」と呼ばれるタイプのものについては、フィクションがもつ効用と限界に関して「心的状態語・心情語の児童期での獲得におけるフィクションの絶大な効用」をその後新たに書いた。併せて参照することを勧めたい)

余談だが、標準的使用と周辺的使用・変則的使用という区別をつけておけば、石原千秋『評論入門のための高校入試国語』第2章で、言葉の意味に関して、石原が力説していた「嘘をつくことができる」といった議題設定を軽くあしらうことも可能になる。「嘘」に限らず、比喩や皮肉や…といった表現と標準的使用とを等価に論じようとするから妙な方向に説明が逸れてしまうのであって、まず標準的使用とそれ以外とで区別するようにすれば良いだけだからだ。文学研究者はそもそも文学作品という「言語の変則的な使用」を多大に含みうるもののほうが研究対象であり、そのバランスの悪さもまた、この説明のまずさに影響していると思う。

私がなかば直観的に、中学生の時期を言語使用・語彙の使用における「普通はこうである」認識の獲得の時期と見なしたのは、「言語発達の初期段階」における環境条件が決して特にそれ用に整っているわけではない、ことと関係が在ると思う。語彙習得・言語習得の初期において、語の標準的な使用から周辺的・変則的な使用へと順番に習得していくという理想的なプロセスをたどることばかりになるはずもないために、習得のどこかの段階で、それを補正する過程が在って良いように思えたのだ。

今一つの、中学生ころがその時期に該当すると思える理由の一つは、少なくとも「普通はその語をそうは使わない」という認識のほうは必要であるばかりか、その時期以降になら可能だ、と思えたことが在る。生徒の言語環境は、中学生以降であっても無論、さほど理想的に整えられているというわけではない。そのなかには、かなり的外れな言語使用や作者が間違えて使っている言語使用のケースも含まれるに違いない。そういったものを、中学生程度にもなれば、或る程度自力で「その用法は普通ではない」と識別できてきてほしいのである。またそれが可能である場合も多い。そのように私が思ったからである。

ここでちょっとした論理上の難題が控えているように思う。こういうことだ。人が接する言語というのは通常、「このように使われている」という用例ばかりである。「このように使うのは誤りである」という用例は通常存在しない。実際に使われている用例ばかりに接している限り、習得されるのは「普通はそのように使う」という認識だけになるはずであり、「普通はそのように使わない」という認識ではないはずだ。そうなるとしたらそこには論理の飛躍が在る。だが論理の飛躍がいくら在ろうが、実感的に言えばやはり、「このように使われている」という用例の経験を積み重ねるだけで、なぜだか「このように使うのは普通ではない」という認識が獲得される。…と、そのように思えるのである。これはひょっとすると専門家からみるとありふれて凡庸な問題設定なのかもしれないし、その可能性は充分高いが、筆者はこれについて特に援用・参照できる文献等を知らない。「フレーム問題」の下位の特殊問題であると位置づけることは可能かもしれない。

大野晋の『日本語練習帳』(岩波書店,1999)では、そのような「いっけん論理の飛躍が在るが実感的には正しそうな事」を述べている。p16から引用する。大野のほうは野矢とは異なり、「言語使用の普通」という事柄は「どういう語句と連接して別の語句を使用するのかという普通」についてのものが中心である。

この話題の違い方を次のように把握することもできる。野矢のほうが述べている言語使用の普通というのは、たとえば日本語語彙習得のための例文集のようなものを作ったからといって、それを学習さえすれば習得できるとは限らないタイプのものである。なぜなら、例文や重要語彙を知っているかどうかが問題なのではなく、その知っている例文をどのような場面でどのような対象に適用すれば良いのかが問題になっているからである。適用の「普通さ」が問題になっているのだ。他方、大野が述べているタイプの普通は、日本語語彙習得のための例文集のようなもので習得可能な内容なのである。言うなれば、例文の無い単語集だとダメで、文ごと・例文まるごと覚えていないとダメである、というそういう水準の普通を扱っているのだ。つまり、この語はこの目的語をとりやすい、とか、この語は別のあの語と結びついて合成語を形成しやすい、という、そういうタイプの「普通」が話題になっているのである。その中で述べられた主張が以下である。

言葉づかいが適切かどうかの判断は、結局それまでに出あった文例の記憶によるのです。人間は人の文章を読んで、文脈ごと言葉を覚えます。だから、多くの文例の記憶のある人は、「こんな言い方はしない」という判断ができます。

この件について独自に少しだけ補足してみる。たとえば私にとっての外国語である英語の参考書で昔、綿貫陽『英語語法の征服』(旺文社、改訂版だと1996)というものが在った。これは多分とてもすぐれた内容なのだが、しかし「学習しづらいだろう」と当時思えた。というのは、記載事項の半分程度は「こういう言い方は誤りである」という例文で占められていたからである。もちろん対比して「正しい英文の見本」も提示されている。だが、そのような「誤りの見本」を記憶したり理解したりすればいいのか、しかし記憶してしまったら試験のときにそちらのほうが想起されたりするのではないか、と心配になってしまうような内容であった。実際にこれを使ったという人も暗記したのはきっと正しい例文のほうだけであったに決まっている。一つわかることは、母語の習得のほとんどというのは「こういう言い方は誤りである」ということを記憶し、それを回避するようにして「正しい言い方」を用いる、などというプロセスを踏んでいなさそうである、ということなのだ。そして、それでいながら「こんな言い方はしない」判断もけっこうな精度でできてしまうのである。ただし、この綿貫の参考書の照準しているのは、野矢の言及していた「適用の普通さ」ではもちろんなくて、大野の言及していた「語句どうしの連接性の普通さ」のほうであることは言うまでも無い。

なお、大野のほうも、「語句どうしの連接性の普通さ」だけでなく、「語の適用の普通さ」に、補足的に言及している箇所が在る。この箇所は、他の解説部分と異なっていることが読者にもわかる。そこまでの説明で述べてこなかったので、あえて一言補足したとでもいった位置づけであろう。注意喚起のために引用しておく。p20-21。

単語を的確に使うということで、大事なことが一つあります。例えば、「臆病な人」を「慎重な人」といったら、それは不的確ということになるでしょう。しかし、「臆病」と「慎重」とではまったく別の言葉で間違えようはありません。不的確な表現になった原因は単語にはなく、事実を見る眼が曇っているのです。ほんとうは「臆病」なのに、それを「慎重」な態度だというのは、あるいは真実を避けて表現しているのかもしれません。「臆病な政治家」を「あの人は臆病だ」とはっきり表現するのは、単に言葉に敏感になるだけでなく、事実そのものをよく見る眼と心とが要ることです。はっきり見てきちっと表現する心がまえがなくては、言葉を的確に運用できないのですね。

この問題圏は、哲学だとたとえば丹治信春『言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ』(勁草書房,1996)に通じるものが在る。大野がわりと簡単に済ませてしまった事柄は、必ずしも簡単にばかりは行かないかもしれない、ということになる。すなわち「事実を見る眼が曇っているから、“臆病”と“慎重”を取り違えているのか、それとも語の意味を誤解しているから“臆病”と“慎重”を用いた文が間違っているのか」はそんなに簡単にきれいに二分できるものだろうか、という問題である。少なくとも他人の発した言語に接する側、受け取る側からすれば、その二つのどちらかなのか判別できないケースはきっと少なからず存在するに違いない。

筆者の提案した「半側評価語」という概念を援用してこの件に関して補足ができるだろう。「臆病」は通常否定的な評価とともに用い、「慎重」はどちらかと言えば肯定的な評価とともに用いる。「臆病」でほめることは通常できにくい。この二語がまったくの並列的な関係にはないこと、両方ともほめ言葉だったりその反対だったり、ではないということも、考慮すべき点の一つである。

ともあれ、その種の識別を中学生が要求される場合というものは在りえ、その時にはやはり野矢の提起しているような「語の適用の普通さ」のほうこそが問題になってくるのである。

難しい文に登場しやすい語彙

中学生になったら新しい語彙の習得という状況は減るだろう、と述べておいてなんだが、中学生や、とりわけまた高校生になってからのほうが出会いやすいタイプの語彙はやはり在る。小学生段階だと読んでいるものが文学作品やフィクション中心である場合も多いはずだが、そういうなかには比較的登場しないような語彙群というものが在ると言えるのだ。それは、大まかにいえば「難しい文」に登場するような語彙だ。その中には、高等学校での英語学習で和訳文に使われやすいタイプの語も大いに含まれている。で、その語彙を構成している漢字になら、小学生段階のあいだになじみが在るという状態にすることは不可能ではない。だから小学生のうちに相当大量に文字の文章に接し、そのことでわかる気がする語彙を増やしておけば、いきなり太刀打ちできないということにはならないものだ。

私は今、「難しい文」と述べ、或いはそのなかに使われているものの一部に対して「難しい語彙」といった特徴付けを今してみた。なんともまた曖昧なことこの上無いが、それ以上の精密な特徴付けをいきなりしないほうが得策である。まず少し観察してみたい。

私が「難しい文」と述べ、そして、できれば中学生時期から触れていったほうが良いように感じるのは、たとえば大学の研究者が書いた次のような文である。もちろん、これは「どの文章のどの箇所を選ぶか」自体がすでに結論を先取してしまっているわけだが、私の言わんとする内容を伝えるためにはこうするしか無い。

宇都宮輝夫『宗教の見方 人はなぜ信じるのか』(勁草書房,2012)p24-26より。一段落めと二段落めの間に注釈的な長い文章が、本文とは独立という形で掲載されているが、それは含めていない。

神々や神霊や呪力といった観念が提示されると、われわれはただちにそれらに「超自然」というラベルを貼る。しかしこれらの諸観念が指し示す諸対象は、たとえばそれを信じる未開人にとって、決して自然の外側にあるもの、すなわち自然を超えるものではない。彼らにとって、それらは世界に内在するなじみ深き存在であり、それらを「超自然」と呼んでいるのは、われわれ現代人である。「超自然」の概念は、事物の自然的な秩序、諸現象を必然的に支配する機械的な法則、といった観念を前提とする。それがあってはじめて「自然の範囲を超えるもの=「超自然」=「秩序・法則に反するもの」という観念も成り立つ。しかし、こうした前提は近代科学が打ち立てたものにすぎない。したがってこの前提が存在していない時、すなわち近代科学の成立以前には、超自然も存在しえないことになる。

とはいえ、原始人・古代人が厳密な意味での「超自然」の概念をもっていないとしても、すなわち機械的自然を越える領域としての「超自然」の概念をもっていないとしても、彼らの宗教は、われわれ現代人から見た場合の超自然に関わっているのではないだろうか。一見もっともらしいが、これは自らを判断の基準に据えるという典型的な自文化中心主義である。というのは、この場合の「超自然」は近代的概念であるがゆえに、現代の自然観が過去から未来に至るすべての人類史を宗教と非宗教とに判別する最後的基準の位置に立っていることになるからである。これは無理であろう。現代人といえども森羅万象の法則をあますところなく知っているわけではない。あり得ないこととあり得ることとの境界、つまり自然・超自然の境界は確定したものではない。とすれば、それに応じて、宗教の領域も動いてしまうことになる。

岩崎美紀子『比較政治学』(岩波書店,2005)p30-31より。

絶対君主制と立憲君主制の相違の1つが、国家元首と統治責任者が、前者では同一人物、後者では異なることである。立憲君主制では、実質的な統治は政府が行い、元首の仕事は儀礼的なものが多く、また首相(政府)の助言のもとで行動するとされる。では元首は、実際の政治にはいかなる影響も与えないのであろうか。

確かに、元首の権限には、形式的・儀礼的なものが多い。しかし形式的ではあっても、その形式を踏まなければ統治の正統性は確保されない。例えば法律は、議会が可決しても元首の署名を得なければ法として執行できない。また、元首は、議会解散や首相の任免など、統治の根幹に関わる権能を有している。しかし権能を有していることとそれを自由に行使することは、異なる次元である。立憲君主制における元首は「君臨すれども統治せず」の原則の上にたっているのである。

君臨と統治の分業をもたらした立憲君主制においても、王の言動が統治に影響を与える場合がある。本来あった権限を切り取られた王が、それを取り戻そうとする動きはある。はじめから王権が制限された立憲君主制であっても、王が国家元首であることをふりかざしその権限の範囲を超える行為に出ることはある。例えばベルギー王国によるコンゴ獲得などである。王の反動は、王の存在を前提とする立憲君主制が潜在的に内包する課題と言える。

立憲君主制において元首に与えられた権能は、それが形式的・儀礼的に行使されることが前提となっている。属人的要素が統治に強く影響しないように制度化されているのである。しかしそれを超えて、政治的に使われる場合も起こり得る。党派対立に巻き込まれた形で、首相解任や議会解散を実行したオーストラリア1975年危機である。これは元首みずからではなく、その代理人である総督により引き起こされている。それでも立憲君主制の意味を考えさせるのに、十分な事件であった。

あらかじめ述べておけば、これらの文章は今引用した箇所だけ読んでよくわからないという場合が在っても、特に問題視するほどではない。やはり、どのような文章の中に埋め込まれたものなのか、その全体を見ないとわからないということが在っておかしくないのだ。ただしそうは言っても、これらの文章がわからないという場合は往々にして、最初から最後まで全文を読んでも、結局わからなさが大して変わらなかった、という事態にもなりうる。また、「わかる」とか「わからない」とか言ってもそれも程度問題である。完璧なわかりかたというものは、特に引用箇所だけでは望むべくもないかもしれない。少なくともこれらの著作が、大学生向けの少し高級な教科書として書かれていることくらいは理解のために押さえておくほうが良いだろう。

まず、私がこの二つの著作から「実例」を選択するにあたって、多少意識していた点を述べてみる。それが結局私の考えるような「難しい文章」の特徴と重なるからだ。

英語の学習の場合では、通常現在形から始め、そののちに過去形や現在進行形や未来を表す文(willを用いた文など結局は現在形と分類されることが多い)を学ぶ。この学習の最初に位置する現在形というのは、現在進行形とは異なる。どちらかと言えば無時間的な内容の文章だ。現在一時的に成立している習慣を表す文も在るし、もう少し普遍的な法則や定義関係などを表す文も在ろう。私がここで(母語日本語の場合に)「難しい文」として想定していたものは、その話からいけば、現在形の文章が中心を占めるようなテキスト、ということになる。それはつまり「出来事」を単に描写や報告した文章が中心ではないということである。それよりはいくぶん、「ものごとの関係や法則性」を説明している文章が中心であるということだ。そして「出来事の描写や報告」をしている文章よりは、「ものごとの関係や法則性」を説明している文章のほうが、おそらくいくぶん難しいものになるだろう。或いは、多少年齢が上がってからのほうが接することになる文章になるだろう。そう想定している。

その想定で選択してみた文章を一瞥してみて、結果論としてわかったいくつかの特徴を挙げることができる。

ひとつめは、私の分類で言うならば「発文可能動詞」を使った文章が目立つことである。私の分類を説明するのに適しているのは「応える」と「答える」の違いである。「答える」と記述されるならばそこでは必ず言語を用いているケースになる。こういうのは「発文動詞」と分類する。それに対して「応える」ならば言語を用いるときを指しても良いし、そうでない場合を指しても良い。こういうのを「発文可能動詞」と呼んでいる。ただし「発文動詞」は文を発する行為を指すのに使うのだから、結局「発文可能動詞」の中に「発文動詞」も含まれることになる。そのような分類基準で行った場合の「発文可能動詞」というものが引用文に目立つということだ。宇都宮の文章『宗教の見方』で言えば、「観念を提示する」「ラベルを貼る」「諸対象を指し示す」「呼んでいる」「概念は観念を前提する」「観念が成り立つ」「前提を打ち立てる」「前提が存在する」「概念をもつ」「判断の基準に据える」「AとBとを判別する」「境界を確定する」…これらの語句は、言語を用いる・操作するといった行為の記述である、少なくともそういう場合にも使い得るものであるとみて良いと思う。こういうタイプの語群へのなじみ方が、文を受け入れやすくなっているか否かを、多少決定する。なおこの件と多少関係する内容は「あらすじ・アブストラクト・要約」で書いた。私は、もし「どうしてもマンガ作文というものを生徒にやらせたいし、その際にセリフの箇所を“Aさんが○○と言った。”などと書くことはとうてい許せないのだ」という変な教育者が居るのならば、その教育者に対しては「だったらその作文課題をやらせて良いのは中学生以上でしょうねえ」と言うしか無いと思う。その理由は、結局発文動詞や発文可能動詞を或る程度理解し、易しいものなら適切に使いこなせるようになるという中学生以降頃に控えているだろう発達課題を部分的には満たすかもしれないからである。

ふたつめは、いくぶん「比喩」とも呼びうるような表現が使われていることである。典型的な比喩では必ずしもないだろうが、かと言って構成している語の単なる足し合わせでは理解しづらい表現ということである。たとえば、宇都宮の文章では、「ラベルを貼る」「自然を超える」「前提を打ち立てる」「基準に据える」「最後的基準の位置に立っている」「境界を確定する」「領域が動いてしまう」がそれに該当するだろうし、岩崎の文章『比較政治学』で言えば、「形式を踏む」「権限を切り取る」「課題を内包する」は、それに該当するだろう。これらの多くは、より比喩らしくない言い方をしてみても、さらに難しくなるだけだし、適切な言いかえが思い当たらない場合も在るだろう。

三つめとして挙げられるのは、通常の用法からは文意の推定がしにくい語の用法も見受けられることだ。たとえば宇都宮の文章でいえば「機械的自然」というのが特にそうだろう。自然の運行を機械になぞらえるという見方がけっこう当たり前に採択されているという言説状況も知っていないとわかりにくいし、その際に、補助として高等学校の物理や化学などを勉強したほうがまだしも近道であるということも言える。また、岩崎の文章に使われている「反動」という語も、普通に学校の生徒をやっているうちにはおよそなじみが無さそうな用法だ。ほとんどの場合、物理的な意味あいでの「反動」しか思いつかないだろう。そうではないようなこのタイプの「反動」がわかるためには、「歴史というものは、世襲の権力から民主的な権力へと流れていくのが、本来在るべき姿なのだ」といった歴史観を理解している必要が在る。その歴史観で行ったときに、王が権限を超える行為をすることは歴史の流れに逆らっている、だから「反動」である、というそういう見方(だと思う)なわけだ。

四つめとして指摘可能なことは、使われている語彙のうち、どれが専門用語であり、どれが一般的な語彙なのかの区別が難しいということだ。専門用語ならもしわからなければ専門の事典を調べたほうが良いのだが、一般的な語彙なら国語辞典のほうが良いかもしれない。その区別がつかないと、中学生なり高校生なりがこういったタイプの文章を読むといっても、対策が立てにくくなってしまう。たとえば宇都宮の文だと「内在する」とか「必然的に」とか「観念」とかだと私には「どちらで調べたほうがより良い」ということが言いづらい。「自文化中心主義」という語も(前後関係無しに)いきなり登場したらちょっと焦る語彙ではないかと思う。岩崎の文章だと、多くの語はあからさまに専門用語だとわかると思うが、先に述べた「反動」のほか「儀礼的」とか「権限」「権能」「行使する」「党派対立」あたりだとその識別は難しい。というか、事典と辞典のどちらで調べたほうが良いということが言いづらい。中学生だとこれらもひっくるめて全部専門用語だと認識してしまうかもしれないが、今挙げた語群はそうとも断定しづらい。

五つめとして指摘できることは、使われている語彙のうち或る種のものは、「かなり批判的な見方」といったものを、読む生徒がインストールしないと、理解できていないことになることだ。つまりふつうに学校の言うとおりに生活している生徒には難しいし、理解できていなくてもそのこと自体が自覚しづらいのだ。たとえば宇都宮のほうで言えば「自文化中心主義」の語であり、岩崎のほうであれば「形式的・儀礼的」という語である。これらは読む生徒の側からした場合、「自分のなしている認識」のうち何割かが「自文化中心主義」であったり、自分の通っている学校で行なわれている事象の何割かが「形式的・儀礼的」であったりするかもしれない、というそういう語である。そのことが理解できたり自覚できたりするのはかなり知的・心理的ハードルが高いと私には思えるし、わかったからすぐに何かできるというものでもない語でもあるのだ。なお「形式的」だとそうとは限らないが、「儀礼的」や「自文化中心主義」だとおおむね言って、「半側評価語」つまりこの場合「あまりほめ言葉とは言えない」だったり「ふつうはけなし言葉」だったりする。この把握はポイントだと思う。そうするとわかるのは通常は価値中立的であることも多い「形式的」の語も、「儀礼的」と並置されることでその位置づけ(あまりほめ言葉とは言えない)がされていることだ。なおこれらの語彙以外でも、「実際に使うことができるかと言えばそれは無理だ」という語も多い。「実際にどのような状況」がそれに該当するのかの判断が専門的になるタイプのものだ(要するに野矢茂樹が述べた「適用の普通さ」の識別の問題である)。たとえば「どういう事態ならば“党派対立”と呼ぶことができるのか」などは専門的な見方を備えていないと難しいだろう。だとすれば「党派対立」という語を本格的に理解することは通常できにくい、ということになるだろう。「語の意味を知っているとはその検証条件を知っていることである」という「検証条件説」の「対偶」らしき「語の検証条件を知らないということはその語の意味を知らないということである」が当てはまるケースも在ると思うのだ(検証条件説は青山拓央『分析哲学講義』などで参照)。

中学生のうちに「難しい文章」を読み「難しい語彙」を習得することの事例になりそうな文章を挙げて、いくつかの特徴を列挙してみた。これに似たような方策を採ることは現実には難しいかもしれない。その場合、高等学校の英文解釈本の和訳文や、比較的易しい中高生向きの著作のうち大学での研究者と思える作者のものを中心に読むことで代わりになるかもしれない。ともかくこれらを通じて、「知っている語彙」そのものは大きくは変わらないにしても、「どんな語彙が自分が知っている語彙のなかで中心を占めるか」とか「こういう使い方がこの語彙には在る」といった認識はいくぶん以上再編成を迫られることになろう。

固有名詞の知識

典型的にはE.D.ハーシュ『教養が、国をつくる。―アメリカ建て直し教育論 アメリカの基礎教養5000語付き』(TBSブリタニカ,1989)に在るような「どのような固有名詞を習得するべきか」問題というものも、在る。固有名詞の知識は或るタイプの文章の読解力やら理解力やらに影響すると思えるからだ。そして著者はそう述べていないが、実質的に問題になっているのは圧倒的に固有名詞の知識だと思えるからだ。ただし、これはたとえばどのような自国の歴史や政治的立場を教え込みたいかという、そういう党派的な議論にほぼ直結してしまう。私が思うのは、「とにかく進学先の大学を内容で選ぶ」ために有益になるような方向性であるべきだろう、ということだけだ。つまり学問の状況のほうから逆算されるのが筋である、ということだ。高等学校の社会科で教えているような内容は、或る面では細かすぎるし、別の面ではまったく不足であろう。ただ「ではどのような固有名詞が特に重要か」という積極的な知見を私はなんらもっていない。私自身が外国の固有名詞を記憶するのがまったく苦手であることからくる一つの帰結としては、「はじめに固有名詞在りき」ではない学習経路を確保したい、ということだ。まずはじめに国名や人名や事件名を記憶してしまうのではなく、上位概念のほうを先に学習し、その事例として固有名詞を記憶するという経路だ。たとえば「社会主義国」という概念を先に学習しそのあとから、その例になる国名を覚えるというものだ。現在の社会科はほとんどそうはなっていないだろう。その点を今はさしあたり記録しておく。

以下、その問題とは独立に、『教養が、国をつくる。』に少しだけふれておく。この著作に要検討の点が在るとすれば、一つには、「小学校中学年~高学年」程度での達成目標と、高校生・大学生くらいの達成目標との話題が、混乱しているように見えることが挙げられる。たとえば日本でも、「小学校中学年~高学年」程度の時期だと「9歳の壁」「10歳の壁」などといわれる発達上の課題が話題にされることも在るわけだ。だが、その種の話題とハーシュのこの著作での話題とを同一視することはおよそ適切ではない。その同一視を招く原因はハーシュ自身の述べ方にも在る。そのことの確認をしておきたい。おおまかに言ってハーシュはこの著作で、日本で言えば主に社会科(一部は理科やその他の専門分野)の知識および専門用語や固有名詞と、主に国語科(現代文)や英文和訳で使うような一般的な語彙の知識とをまったく区別していない。区別しなさすぎなのである。日本の読者からすれば「それは、特に小学校の国語科の授業で社会科のような固有名詞に依存したような内容を扱わなければいいだけのことではないか、必要なら中学以降の社会科のような内容を扱う科目を設定すればいいだけのことではないか」と思えるのだ。そしてその二種の知識の混同が、「高校生や大学生くらいの知識・教養不足」問題と「小学校中学年以上くらいの読解力不足問題・社会格差が拡大する問題」との同一視という奇妙な結果を招いているのだと、標準的な日本人読者には思えるのだ。p55-57。

小学校入学以前が、国家的な読み書き文化の教育を真剣に始める時点としては特に早すぎるというものではなく、第五学年からではほとんどが手遅れであり、第一〇学年ではたいてい遅すぎる。そんな話は信じられないという人がいたら、第五学年の混成クラスが今しがた読んだばかりの文章を要約しようとしている場面を見ていただきたい。文化について充分な背景知識を有している生徒たちが書く要約文は、背景知識なしの児童たちとのそれとのあいだに予想どおりの落差がある。恵まれていない児童たちは、個々の単語を判読し発音する並みの能力を示すことが多い反面、文章全体の統一的な意味を把握することができない場合が多い。つい、中心となる含意や連想を理解しそこなってしまう。その理由は、読んだばかりの文章を文脈の中に位置づけるのに必要な背景知識が欠けているからにほかならない。聞いていながら聞いていないのであり、見てはいるものの理解はできないのだ。

ところが、生徒たちの家族背景がやはり多様である幼稚園から小学一年のクラスを観察してみると、違う社会階級に属する生徒たちの読解能力に右と同じような差異が見られない。恵まれない一年生でも、中産階級の子弟たちに劣らず文字や簡単な単語を把握する。第一学年と第五学年とのあいだで、成績の平等が消えてしまうような何ごとが起きたのか。この五年間に、何か重大なことが起こったのか、または起こりそこなったのかという印象は、いくつかの異なる国での幼少期における読解能力習得を国際比較してみた調査結果によって裏づけられる。読解技能が解釈的であるよりも機械的である第三学年以前では、アメリカは最優秀国の部類に入る。高学年になるにつれて、読解のためにもっと複雑な内容の理解が必要になればなるほど、他国との比較におけるアメリカの成績順位が落ちてくるのである。アメリカの学校は、初歩的な読解能力を教えることにかけては良い成績をあげているのだが、程度の高い読解で成功するために生徒が有していなくてはならない背景知識を教える段になると他国の学校ほどの成果をあげていないのだ。

アメリカ人の読み書き能力を向上させる必要があることを示す、以上の証拠がいかに重要なものであるかはいくら強調してもしすぎるということはない。初等学年のあいだにアメリカの児童が「能力開発的」な教科書ではなく、文化的な内容をもつ教科書で教えられていたならば、恵まれない児童の知識欠落は克服可能であろう。なぜかといえば、恵まれない五年生の読解能力を、恵まれた生徒たちとくらべた場合に出てくる重大な格差のひとつは、文化常識の格差にほかならないからである。背景知識はひとりでに生じるものではない。読み書きは積みかさねの技術なのであり、読む量が多くなればなるほど、それ以上の読みをするために必要な知識が得られるのだ。

第四学年のあたりで、かなりの読解に必要な初歩的知識を欠いている生徒たちは、もはや追いつける可能性がまったくなく、落ちこぼれてしまう。文化常識を身につけるのがあまりにも緩慢であったために、この種の生徒たちは読解や学習が次第に面倒になり、非生産的にもなれば、屈辱にまみれることにもなってしまう。そこでだが、早いうちから低学年で文化常識を教えることにすれば、全部の生徒の読解能力を向上させるだけでなく、それ以上の成果が期待できよう。つまり、落ちこぼれの原因をひとつ除去することによって、恵まれない児童たちの意欲、自尊心、成績を特に上向かせることができるのだ。

それゆえ、文化常識を教える上での真に効果的な改革は、最低学年から始めなくてはならない。幼少の児童に文字による背景情報を教授することによって一段ずつ成績があがるにつれ、そのたびに高学年になってからの学習に乗数効果がもたらされる。それは生徒たちが高学年になって身につける情報が大きくなるからというだけでなく、読んだことを本当に理解したときに感じる読解・学習への意欲がずっと大きくなるからでもある。

当時の米国での教育事情がどうであったかは私にはわからない。だが、たとえば、ホメロスの詩に関する知識や南北戦争についての知識が無いことによって、高校生以上程度の若者が「読解」になにか支障をきたしている、というこの著作の中心的な議題と、「小学校中学年でついてしまう社会階層上の格差」から生じる読解力の差が出てしまう問題とは、日本の教科設定でなら「別の話題」である。もしそれが「同じ話題」になってしまうなら、それは米国小学校での教科設定や内容のほうにこそ問題が在る。たとえば小学校の国語で「南北戦争」についての知識が在るか無いかで読解に差が生じてしまうような教材を使っている事、それ自体の問題にほかならない。

またこの件に関して、森田伸子『文字の経験―読むことと書くことの思想史』(勁草書房,2005)では、ハーシュを援用してのアメリカの「第四学年の危機」と、フランスにおける「識字困難」問題とを、或る程度並列に紹介しており、それ以上に踏み込んだ関連付けは特に行なってはいない。だが、ここも読者によってはミスリードされかねない箇所だろう。この二つは、どちらかと言えば、あまり大した関係が無い、と見た方が良い。或いは少なくともアメリカのほうはそのために判断できる材料があまり無い、と見た方が良い。フランスのほうの「識字困難」問題は詳細はわからないが、紹介している字面だけみる限り、ひとまず別物のように思うし、どちらかと言えば日本で「九歳・十歳の壁」として述べられる事柄のほうが近そうだ。そして、アメリカのほうでも実はこの要因も関係しているのだが、それはハーシュの著作では取り上げられていない、というようにも思えるのだ。フランスのほうの「識字困難」問題は次のように概括されている。p16-17。

以上のように、フランスにおいても若者を対象とした調査の場合は、文字の解読、単語の理解、さらに文章の文字通りの理解、といったレベルと、それ以上の論理的理解、あるいは内在的な理解との間に識字困難と識字との境界を設定しているのがわかる。成人の場合は、単語の読み取り、簡単なリストの書き取りというかなり基礎的なレベルで識字困難を測っている(これは移民の問題や、年齢の問題など義務教育終了直後の若者とは条件が異なることから当然と思われる)が、それでも、ビクトル・ユゴーのテクストの読解が中間グループの識別に使われていることを考えると、やはり、単なる文字の解読以上の、しかも直接的な理解以上のものをリテラシーと考えていることがうかがわれるのである。

アメリカにおける「第四学年の断絶」、あるいは、フランスにおける識字困難者と識字者を隔てるものは、何を意味しているのだろうか。これはそもそも識字とは何か、という根本的な問いへと私たちを導く。

…とこのように並置されているのではある。だが、読む側は、この両者が別物だったり、アメリカの特にハーシュの著作だけではフランスとの共通要因が浮かび上がってこなかったりするという可能性は充分に想定したほうが良いと言えるのだ。

なお、ハーシュが語の理解として援用する認知心理学的知見は、ここまでだと石原千秋の述べるような「語の意味とはその喚起するイメージ(の総和)である」というのと、共通する部分が在る。ただしハーシュが援用している知見は「語の意味とは、多くの人が共通して喚起されるようなイメージである」と述べたほうがより適切だろう。「多くの人が共通して」というのがポイントだ。またハーシュの場合、その「多くの人」というのは「読み書きをする人」という知識階層でもある。

なお、ハーシュの著作は「多くの人が知っている知識」という次元と「多くの人がそれを知っている、ということを知っている知識」の次元とを区別していないで曖昧にしている。この影響は「読む」能力を検討するときには比較的少ないが、書くとか話す能力を検討するときには影響する。「自分はこの単語を知っているけど、多くの人が知らないと思って使わなかった」というタイプの事柄を考慮に入れられなくなるからだ。その点も付記しておく。

高校生になる頃から

「「同じ単語」が使用者によって、異なった意味内容で用いられる」ことの認識が要請されてくる時期である、と思う。それも典型的な多義語というわけでもない語が、である。特に、「専門用語」が、同じ形をした語が分野や学派によって著しく異なった用法が流通していたり、日常用語のなかに入り込んだ「専門用語」が専門家の用法と異なっていることが、対処できない状況になってしまう。そして、その認識をもち、かつ経験値も積まないと、「卒論を要求する大学を進路に選びたい」場合に、その進路の検討ができないことになる。この件に関しては、現状比較的参考になりそうなのは、大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』(筑摩書房、2003)の第二章「大村はま国語教室の実践」(大村はま/苅谷夏子)に記載された「単元「ことば」ということばはどのような意味で使われているか」だと思うが、この授業に関して筆者は詳しい資料はまったく見ていないで述べている。私の書いたものだと「問題の所在:「“書き言葉”という単語」を使いたがる人」が挙げられる。

ともかく高校生ともなると、本来なら、大学の研究者の書いたものをたくさん読んで、「どこの大学・学部学科・専攻で卒論を書きたいか」を決定する時期である。もちろん現実にはそんな読書プランをこの時期に入れることは無理であり、高校生活と大学受験勉強を大いに圧迫する。高校の教員もまずぜったい奨励しない。その「大学を選ぶための勉強」と「大学受験のための勉強」とは重なるところがほとんど無いことも充分多いからだ。なので、「もう一つのクラブ活動」のようにして隙間を縫って行なうしかない。現在のように「高校生クイズ」にかまけている高校生がこれだけ多いことを考慮すれば、その時間、その労力をまるごとこちらに振り替えることは可能なのかもしれない。そして、そのような読書に基づく決定をしないで大学に入学することは、する場合よりも時間が在り余る分むしろ容易なはずだが、その入り方だと卒論を書く頃に大変な後悔をする結果となる場合も在りうる。

内容が雑然としており不充分ではあるが、現在これらを大幅に越える構想が無いのでここで終わる。