「慣用表現」の日本語力:コボちゃん作文の「指導者」に必要な認識

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旧稿「マンガ作文の「指導者」に必要な認識」をほとんど別物と言えるほどに書き換えた文章である。多くの事をいっぺんに達成しようとしている文章であるため、少し詰め込み過ぎで落ち着きの無い文章になってしまっている。その点をご承知いただきたい。

「それが慣用表現であると認識されにくい」表現こそが「慣用表現」の典型である

「勝手にしなさい」「そんなことないよ」といったタイプの「前後関係ぬきに、字面だけからでは、その表現に関する知識・経験値が無いとその言わんとする事柄がおよそ推定できそうにない」タイプのパターン化した表現を、私は假に「慣用表現」と呼ぶことにする。知識や経験値が無ければ、「勝手にしなさい」は「命令文であり、もし勝手にしないならば怒られたり非難されたりするだろう」と受け取るしか無いし、「そんなことないよ」は「その表現によって相手の発言や文脈を否定していて、相手自体を否定するために発せられた発言なのだ」としか受け取ることができない。なぜなら「そんなことないよ」が「慰め」や「励まし」や、或いは「執り成し」をするときに相手のために善意で多く用いられるパターン化した表現でもある、という「知識」や「経験値」が無いからだ。で、慣用表現というふうに「呼ぶことにする」という言い方になったのは、検索エンジンで「慣用表現」やその類語で検索しても、それに近そうな語彙が見当たらなかったからだ。「慣用表現」という語を採択したのは、この言い方がいちばん「フワッと」していて概括的でおおざっぱであり、また用法が固定化されておらず、既存の用法に抵触しなさそうだったからだ。積極的な語の選択の結果ではない。つまり、私の言いたいことにいかにもぴったり合致した語彙というのは、日常語としてはどうやら存在していない可能性が高いことになる。

私の云う「慣用表現」は、「勝手にしなさい」「そんなことないよ」といった音声での発話で使われやすそうなフレーズだけでは、別にない。たとえば「二つの事柄を結びつけて考える」の特に「結びつけて」の箇所や、「意外な出来事が待っていた」の特に「待っていた」の箇所もまた、筆者の考える「慣用表現」に該当する。これらは、その言い回しやコロケーション自体を知識として知らなければ、字面や個々の単語の意味の「単純合計」だけでは「その言わんとする事柄が推定できるとは全く限らない」という点では同じだからだ。ただこれらの「結びつける」や「待っている」は、その対象として取りうる名詞が唯一というわけではなくて、一定の許容幅が在る。たとえば「結びつける」のは「事柄」でも「現象」でも「記事」や「論文」でも良い。その点が在るため「慣用表現」として扱われにくいが、しかし「字面からでは推定できにくい」点ではやはり慣用表現以外のなにものでもない。もう一つだけ挙げておくと、私が他のページで多用する「〇〇という事象には××という側面が在る」というときの特に「側面が在る」の箇所も同様に、この種の慣用表現以外のなにものでもない。また、すぐ真上に見える「点が在る」「幅が在る」などもそれと類比的な慣用表現だろう。

「それが慣用表現である」ということが、その表現のパターンを假に知らなくても、推定することならできるかどうか、も重要である。というのも、「この表現は意味は知らないけど、何かの慣用表現であるらしい」とだけは推定できるのと、それも推定できずに「字義通り」「個々の単語の単純合計」として解釈しようとしてしまうのとでは、「著しい誤解」が起きる可能性が大きく違ってくるからだ。「それが意味するところのものは知らないし推定も難しいが、しかしそれが何かの慣用表現であるらしいことだけは推定がつく」というのも、ケースによっては大変重要な態度であり能力であるのだ。

こういった「慣用表現」のなかでは周縁的なものとして、いわゆる「慣用句」や「熟語表現」と呼ばれる多くのものもまた存在はする。或いは定番化してしまった比喩表現もこれに近いものとしてやはり存在する。ただこれらは確かに知識として知らなければ「言わんとすること」を正確には受け取ることができないのだが、同時にまた、知識として習得することが可能性としてなら大変容易でもある。そして知識としていったん習得してしまった者にとっては、慣用句の多くは、字面から意味や含意が推定できないものなのではなくて、もはやそれ自体が字面通りの意味である。たとえば「ありがとう」を「めったにないことだ」というのが字面どおりの意味である、などといまさら受け取る者は居ない。「感謝」というのが言わば最初から「字面通りの言わんとする内容」「字面通りの意味」なのだ。そのことを考えると、単にこれらの慣用句や熟語表現や比喩表現の多くは、「語彙の定義や用法の知識が無いと、その言わんとすることが理解できない」「語彙の定義や用法の知識が学習可能であるように文字化・情報化されている」という点で、一般的な語彙と、もはや変わらないわけだ。前の段落で書いたタイプの慣用表現との違いは、その「学習可能な文字情報がどの程度存在しているか」に主に在ると思う。

ようするに筆者の想定する典型的な「慣用表現」というのは、「あえてそれを“慣用表現”と呼ばないとそのことが多くの人々に意識されないような表現」というあたりに設定しているわけだ。というのも、いわゆる普通の「字面通り・語義通りの意味をもつ」表現だってもちろん「慣用表現」であるに決まっているからだ。またいわゆる「慣用句」や「熟語表現」や「典型的な比喩表現」もむろん、「ほとんど字面通り・語義通りの意味をもつ、と言って良い」ので、やはりこれらも「慣用表現に決まっている」表現だ。「ありがとう」は字義通り・文字通りに「感謝」を意味し、「のどから手が出る」は(学習途上の段階さえ過ぎれば)字義通り・文字通りに「ほしくてたまらない」ことを意味する。ただし、これらはあえていちいち「慣用表現である」と名指す必要性に乏しい。必要性が在るのは「それが慣用表現である」と意識されにくいタイプのものだ。

「それが慣用表現である」度合いが高くなるためには、「別の言い方が可能である」ほうが良い、という点も指摘できる。いわゆる「慣用句」や「熟語表現」や「典型的な比喩表現」のなかでも、「別の言い方が可能であるか否か」の点で差が在る。たとえば「机の脚」とか「パンの耳」とか「時計の針」は「他の表現も現実的に可能である」というケースでは全くないので、本稿での位置づけとしては、慣用表現らしさがだいぶ落ちる、と見なす。これらについては「文字通り・字義通り」にそれぞれの対象を意味していると言ったほうが、はるかに適切な理解だろう。なぜならそれを表現できる平凡な表現のパターンというものが他にほぼ無いからだ。ただし、それと同時にこれらの表現は「分解できない」という事態の認識もまた重要ではある。「机の脚」や「パンの耳」はこれで「一語」なのである。また同じことだが、義務教育がこれだけ普及していて市販の教材も溢れているような日本の場合、想像しにくい事態であるとは言え、「机の脚」のほうを先に学習して後から人体の一部である「脚」を学習してしまうとか、「のどから手が出る」のほうを先に学習して、「シャツの袖から手が出る」といった(慣用性をもたない一般的な)語句のほうを後から学習してしまうケースというものがもし現実的な事態であれば、再考の必要の在る論の立て方であろう。実際、「時計の針」が比喩表現であると言われてそう感じない人も多いと思うが、その一因に在るのは、「針という単語」と「時計の針という語句」とで学習順序の点で多くの人がほとんど同時に学習している、また「時計の針」のほうが「裁縫道具の針」よりもよほど身近である、という事情だ。その点は念のため注意しておく。で、反面「黄色い声」などは、「他の表現も可能である」ものなので、こちらのほうが「机の脚」などよりは「慣用表現らしさ」は高いと(まだしも)言える。ただし、「慣用表現の例として思いつく例を挙げてください」という「アンケート調査」を行なえば、ここで「慣用表現らしさが低い」「他の表現の可能性に乏しい」タイプのもののほうが、「慣用表現の例として思いつきやすい」上位の結果にむしろ挙がりやすいことが多いだろうと推察もできる。この状況も興味深いがここではあまり追究することはしない。「他の表現では替えが利かない」もののほうが使用頻度が高まるから、という要因ならその背景に想定することができる。

「それが慣用表現である」度合いを述べることが難しいタイプの、「慣用句」や「定形的な比喩」のパターンが存在する。それは、通常の言葉遣いで言えば「文字通りの意味」である場合と「比喩や慣用的な意味」である場合と、どちらも可能性が在るタイプのもの、と規定されるだろう。或いは「辞書的定義に在るような文字通りの意味」である場合と、「辞書的定義を知らない人にとっての文字通りの意味」である場合とが両方とも成立する表現のタイプ、とも規定されるだろう。「顔に泥を塗る」とか「骨が折れる」とか「肩の力を抜く」いったタイプの表現だ。筆者の主観的な印象を述べれば、これらのうち前二者は「恥をかかせたり、相手の名誉を損ねたりする」とか「苦労する」の意味で述べられることのほうが多い。ただし「骨が折れる」のほうは「多い」と言っても僅差かもしれない。が、ともあれ「即物的に顔面に泥を塗る」場合や「外科的な意味で骨折する」場合に絶対使わないかと言えばそうとも限らないし、その際そのことを強く注釈的に述べなくてはならないと当然視されているほどでもなく「少々気の利く」人ならそうする程度だ、と言える。まして「肩の力を抜く」という表現になどなれば、即物的な用法か精神的な用法かのどちらが多いなどと、容易にわかるわけもないし、使用頻度の多数少数だけで何かが言えるわけでもないと思う。要するに、これらのタイプの表現は、多義性や慣用性に関して、わりと無防備であり、不用心に使われやすいのである。尤も、多くの慣用句や諺や定形的な比喩表現は、このように「二つの用法のどちらがベーシックなものか」とか考慮する必要はほぼ無い。「糠に釘」とか「焼け石に水」が文字通りであるかどうかは、物理的には全く可能なのに、ほとんどの場合考慮する必要が無い。これらは「辞書的定義」こそがそのまま「文字通り」であると受け取って良いのだ。「実際に、即物的に、焼けた石に水を掛けた」状況などを「文字通り」の受け取りであるなどと想定する必要は無いに等しい。すなわち、上記の「骨が折れる」タイプは慣用句や諺や定形的な比喩表現の一部ではあってもすべてではないはずだ。なお「骨が折れる」に関しては松井智子『子どものうそ、大人の皮肉 : ことばのオモテとウラがわかるには』(岩波書店,2013)のp68に事例への言及が在る。

「慣用表現であると意識されにくい」タイプがどういうものに該当するのか、も単純ではないだろう。一方では「音声での日常会話やそれを描写したフィクションで多用されがちな表現」や「擬音語・擬態語」などに該当するものが多いと言えるだろう。たとえば「なんでそういうことするかなあ?」という慣用表現とか「そんなことしなくていい」という慣用表現とか「バキバキ」「ズケズケ」「ガミガミ」というオノマトペといったものである。これらは、ハイカルチャー(学術的・芸術的)からやや遠いため、扱われにくく注目されにくいといったものだろう。他方で、学術的・評論的・ジャーナリスティックな文章の中にも、或る意味では「慣用表現であると意識されにくい」タイプの表現が頻発している。ただしこれらの中でも、「その表現を知識として知らないと著しい誤解をする」可能性の高いものと低いものとが在る。また、「その表現箇所を理解できないと、全体の理解に大きな影響を与える」度合いの高いケースと低いケースとが在る。たとえば評論のなかで「意味をもつ」という表現が使われていて、その「もつ」を著しく誤解する可能性というのはやや低い。初めて見る表現だったとしてもそれなりにまずまずの理解ができてしまうケースが多いだろう。またたとえばマンガの中の擬態語などは、假に理解できなかったり誤解していても、作品全体の理解にそう大きな影響を与えないケースがほとんどだろう。このようなやや錯綜した事情も在って、これらを一括して「慣用表現」の問題として論じたり言及することがやや難しい状況であると筆者は思う。

ここまで述べた事柄を少し整理してみると、こんな感じだと思う。

こうして論点を羅列してみてあらためてわかることは、「慣用表現に習熟する」ことから生じるパラドクスの存在である。もし、言語行為を一方的に受け取る(読む・聞く)だけの立場に徹するのなら、慣用表現というものは習熟すればするほど、理解すればするほど良いものである。単純明快だ。その場合の習熟とか理解というのは、要するに「それが慣用表現である」ことを忘却し、「文字通り・字義通りの意味である」と感じるようになるまで感受性を変革することにほかならない。「それが慣用表現に見えている」ようではまだまだなのである。しかし、言語を発信する側(書く側・話す側)に回ったときには、まったく別様の態度が要求されることになると、私は思う。そこでは、慣用表現にまだ習熟していない立場の受け手のことを意識することが、重要になってくる。慣用表現は慣用表現であることをよく意識したうえで、「それは文字通りの意味ではない」と受け取るような受け手や、またとりわけ「文字通りに受け取った場合には誤解する」ような受け手を想定して誤解を防止するべく使用することが望ましいものになるのだ。そのためには、自分自身がその表現を使えるようになったプロセス自体を、或る意味で「無かったことにする」「それ以前の状態をいつでも復元できるようにする」知的操作が必要にもなるだろうと思う。「その慣用表現を知らなかったときの自分」と「その慣用表現が使えるようになってそれが慣用表現であること自体を忘却してしまった自分」との両方を二重化させたうえで発信することができるようになるということだ。とりわけ、言語を教える側に回ったときには求められて良い態度である。

たとえば「AをBに結びつける」という例で検討してみよう。これを理解するというのは、まずもって「犬を電柱に紐で結びつける」という用例と「先ほどの発言を例の一件に結びつける」という用例とで、「この二つの“結びつける”は違った意味である」と受け取ることがはっきりできることである。と同時に「しかし、まあその二つは似てはいる」と感じる感性のようなものをも獲得することである。とは言え、これはまだ初心者の感じ方であって、習熟するというのは「もはや違った意味であるという受け取り方が想像もできない」となるほどにまでなることなのである。しかも、それは「初心者の誤解のような受け取り方」を指すわけでもないのだ。「“先ほどの発言を例の一件に結びつける”とおっしゃるのなら、そこでどんな紐を使ったのですか。証拠として見せてください」などというふうに受け取ることが「違った意味であるという受け取り方が想像できない」在り方というのではない。そうではなくて、「物理的に結びつけるのも、物事のあいだに関連をつけるのも、どちらも同じ“結びつける”ではないか。どこにも違った点など無い」と心から感じるようになることなのだ。しかし、そのような「正しい習熟のしかた」どまりである限り、言語の受け手にはなれても、発信する側の能力としては不足である。まして教える側の能力であるならなおさらだ。

「誇大表現」「有徴表現」という、慣用度の少し落ちる表現のグループ

先に述べたような「AをBに結びつける」といった慣用表現は、それなりに多くの要素をAやBに代入可能である。そのため慣用表現としては少し慣用度・定形度が落ちる。このようなタイプの「慣用度・定形度が中くらい」程度のもの、またはそれよりもさらに「定形度」が落ちる、「パターンとしてなら共通項が在る」という程度のもののなかに、筆者は一つのグループを見出している。ここではその「慣用度」は「同じような語句を使っている」というものよりももっと大まかなレベルでの慣用性しか無い場合が多い。それを今假に「誇大表現」または「有徴表現」を含む「準慣用表現」とでも、名付けておこう。この延長に「断定できないはずのことを断定する」表現という類型も位置づけて良い。

「誇大表現」タイプの準慣用表現の代表的な一つに、全称命題タイプのものが有る。泉麻人『東京23区物語』(新潮社,1988、ただし初出は1985,主婦の友社)の「葛飾区」の章から引用する。p212-213。

常磐線からも総武線からもはずれた葛飾区の中央部、堀切や青砥、立石、高砂の人々は、京成電鉄の開通によって、上野や浅草などの都、そして千葉、成田方面へのレジャーに出かけてゆけるようになった人々です。区を縦に分断するように、荒川、中川、江戸川が流れ、文化の流入は閉鎖されていました。

よって、区中央部をX線型に走り、いろいろな知らない土地に連れて行ってくれる京成電鉄には、計り知れない感謝の念、があります。それは、ある種「信仰」に近い意識と言ってもさしつかえないでしょう。

青砥や高砂の子どもたちは、あの「ビュンビュン京成……山だ 海だ ふもとだ 谷だ」という京成電鉄のCMソングを口ずさみながら、川の向こうの都や千葉の海へゆく夢をはせながら幼年期を過ごし、いまは惜しむらくつぶれてしまった京成百貨店が上野にオープンしたときには、すべてをかなぐり捨てて飛んでいった人々です。

この最後の箇所のすべてをかなぐり捨てて飛んでいったという箇所が、私の考えるところの「全称命題」タイプの準慣用表現である。といっても、前節までに検討したような、語彙や語句のレベルでの慣用表現というほどではない。ただ「すべてを」という大げさな形容と、それに後続する「かなぐり捨てて」「飛んでいった」といったこれもまた「誇大表現」「意味在りげな有徴表現」であるような語句が連続することで、全体として「全称命題タイプ」の極端なパターンの一つの可能な表現になっている。そのように私は思う。ただ、このような誇張表現が、「何を意味するのか」「何を意図しているのか」というのは、一般化はまったく難しいしおそらく不可能である。言えることはともかくこのような誇張表現というものは、「それを素直に受け取ってはいけない」「文字通り・字義通りとは全く保証されない」ということだけをひたすら提示しているということだ。その上で、あとはケースバイケースで見ていくしか無い。「この表現は意味は知らないけど、何かの慣用表現であるらしい」とだけは推定できることが慣用表現の場合重要になるのと同様に、この場合も「この表現が何を言わんとしているかはともかくとして、とにかく字義通りに素直に受け取っては何かいけなさそうだ」ということだけは推定できることが重要になる、そして素直な受け取りは良くなさそうな状況だけを提示しそれ以上の受け取りの方向性を指示しないような表現手法であると言える。このケースに限定して述べるならば、まずそれが「文字通りの事実」であるはずも、その真偽を著者が知るはずもないことも、すぐにわかる。そこから判断すると、この箇所が伝えようとしているのは「軽い揶揄」「ちょっとしたからかい」「おかしみ」、そんなところではないかと思う。この著作は、ほぼ全編敬体文で書かれており、そのことが軽い「慇懃無礼」感をまず提示しており、それに乗った形でこの箇所も書かれている。

全称命題タイプの類似系統として最上級タイプというものも想定できる。これもこの著作に見出すことができる。「港区」の章、p42-44。

青山、現在の町名で言うと北青山、南青山、そして西麻布、渋谷区の神宮前といった地域には、オリンピック後、「東京でひと花咲かせよう」という野心を胸に秘めたブルーボートたちが押し寄せてきました。

昭和40年代前半に流れついた初期のブルーボートたちは、原宿表参道を日本のシャンゼリゼにする等の事業に務め、現在、その中の何人かの人はデザイナーズ・ブランドのオーナーやアパレル業の中枢の地位につき、代々この土地にいるような顔をして界隈を歩いています。

(中略)

ブルーボートたちの出身地は、北関東から東北南部にかけての地域に集中しています。上尾、高崎、前橋、小山、那須、土浦、秩父といった町は、ブルーボートの特産地として有名なところです。

(中略)

さて、ブルーボートたちが世の中でいちばん嫌いなのは、「買い物客として青山に出て来た地方出身者たち」です。自らは「生まれたときから青山にいる」と暗示をかけながら暮らしているので、五年前の自分を彷彿させるような垢抜けない観光客を見ると、イライラとストレスがたまります。

彼らにとって大切なのは、「現在、どこに住んでいるか?」です。元は筑波のガマの出る山奥でも、現在の住民票が港区北青山ならばそれでいい、ということです。

(中略)

以上のように、ブルーボートたちには「青山に暮らしてからの歴史」がありません。彼らはそういった歴史づくりのために近所から近所へ短い間に引越しを繰り返します。

「参宮橋→神宮前→北青山→広尾→東→西麻布→南青山……」といった具合に、「前は広尾、その前は北青山に住んでたの……」と、あたかもズーッと以前からこの辺にいたように、何層も何層も引っ越しのオブラートを被せていくわけです。

というこのなかの世の中でいちばん嫌いなのはという最上級表現のあたりが、「誇大表現」の一つのパターンになっていると言える。まずこれが文字通りに事実であるはずがないし、假に事実であるとしても著者がそれを知る手段が在るはずはない、というそういう最上級表現であるわけである。そのことで「これは文字通り・字義通りに受け取ってはいけない」サインである、というふうに、それだけは伝達されるようになっている。あと、ついでながら特産地という箇所の「特」なども少しその最上級表現の延長的な表現のようにも思える。というのも、「産地」という語彙は普通に存在しているが、「特産地」という語は今検索しても出てこなかったからである。こういった「誇大表現」が「何を言わんとしているか」は一般化はできないと思うが、この引用箇所であればやはり先と同様に、「軽い揶揄」「ちょっとしたからかい」「おかしみ」(そして「哀しみ」)、そんなところではないかと思う。

「誇大表現」や「断定できないはずのことを断定する表現」と受け取りうるものを、もう少し見渡してみよう。同じような作風の著作『金魂巻』すなわち、渡辺 和博とタラコプロダクション『金魂巻―現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造』(1984,主婦の友社)ではたとえば次の箇所がそうであろう。「カメラマン」の章、p102-103。この著作では或るタイプの金持ちを「マル金」と呼び、〇の中に「金」の文字が入った形で表記する。同様にして「マルビ」というのは、或るタイプの貧乏人のことを指し、〇の中に「ビ」の文字が入った形で表記する。その表記がウェブでは難しいためここでは()に入れて代替的に表記することにする。

ゴールデン街で「今の日本は腐っている!」と大声を張り上げている30代後半の男性を見かけたら、それは(ビ)なカメラマンか映画関係者なので、ケガをしないために近づかないようにしましょう。

同じ場所で同じような行動を他の職種の者がとっていてもおかしくないわけだが、その可能性に言及しないことによって、「断定できないはずの事柄を断定する」表現のパターンを構築している。ただし、文意が全体としてそうなっていても、そのような表現がひとまとまりのものとして提示されている観はあまり無い。それを考慮すれば、この引用箇所は、「誇張表現」「断定できないはずの事柄を断定する表現」の実例というよりは、そのすぐ外側に位置する「それらの延長線上の表現」といったほうが良いのかもしれない。ともあれその表現によって行なっていることは、やはり同様に「軽い揶揄」「ちょっとしたからかい」「おかしみの提示」、そんなところであろう。

もう一ヶ所、「エディター」の章の、p47。

そして、出版界の約99%は(ビ)に侵略されていますから注意してください。

残り1%の(金)とは「なにか、知的で華麗なことがしたいから、お父さまにお願い」して、大手女性誌の編集部に無理やり入社した、偏差値64以上の大学出の女性編集者です。

ここでも、特定のタイプの出自や履歴である、1%の出版関係者以外、つまり出版関係者の99%、つまりほとんど全員というのは(或る種の)「貧乏」であると「誇張」しており、また「侵略」といった「有徴表現」「いかにも意味在りげな表現」を用いることで、その「誇張」を補強している。…といった文章が構築されている。その表現によって行なっていることは、やはり同様に「軽い揶揄」「ちょっとしたからかい」「おかしみの提示」、そんなところであろう。

ナンシー関『何様のつもり』(世界文化社,1992)からも二ヶ所みてみる。まず「朝番組と“さわやかさ”」という1990年の文章から、p84。

しかし最大の原因は司会の松沢一彦だ。この男、朝のさわやかさを醸し出すのに最も重要な「当たりさわりのないやりとり」「肯定こそ正義」に順応しようとしないのである。朝の顔に最も不向きな“底意地の悪い男”なのだ。塩田丸男にひとしきり喋らせたあと、薄笑いを浮かべた「そうとも限らないと思いますがね」の一言で、塩田の努力を一瞬にして無にしてしまう。(後略)

「誇張表現」が使われていたのは一瞬にして無にしてしまうの箇所である。「揶揄」や「からかい」というほどではなく、普通の描写説明に近く、またどちらかと言えば「比喩」に近い表現である。この言い回しは「慣用表現」度がけっこう高くもあり、或る程度類型的な表現だと思える。

もう一ヶ所、「断定できないはずの事柄を断定する」と見なしうる箇所を挙げる。「競艇にオンナコドモが飛びつくのか」というやはり1990年の文章から、p117。

昔「ママは卵の黄身でオロナミンセーキ」というオロナミンのCMがあったが、世間はあのCMを生理的に拒否して、卵やミルクとオロナミンCを混ぜて飲むことを試そうともしなかった。競艇がトレンドだ、というのも、このオロナミンCと同じくらい無理のある提案である。いくらなんでも競艇は流行らない、と信じたいものだが。

「世間は試そうともしなかった」という内容が提示されている点で、「誇張表現」の延長に在る「断定できないはずの事柄を断定する」表現に近い。ただし、文意が全体としてそうなっていても、そのような表現がひとまとまりのものとして提示されている観は無い。それを考慮すれば、この引用箇所は、「誇張表現」「断定できないはずの事柄を断定する表現」の実例というよりは、そのすぐ外側に位置する「それらの延長線上の表現」といったほうが良いのかもしれない。

次のようなタイプの表現も、ここまでみてきた「誇張表現」や「断定できないはずの事柄を断定する」表現のグループに入れても良いだろう。

「うちの学校には、家でゲームばかりして予習復習をしない生徒など、居ないはずだ」

こういう表現を、その「家でゲームばかりして予習復習をしない」当の生徒に対して教師がなせば、それは独特の言語行為を構成するだろう。そして、その言語行為がどんなものになるかは、文脈や状況によって或る程度変わってくるだろう。ともあれ、ここで表現されている事柄が「望むことはできても断定はできないはずの事柄を、事実を断定する場合と区別できないような調子で述べて、それを当の相手にわざわざ聞かせる表現」であるように思える、ということにポイントが在る。

「假人称発話」という見方の有効性

このような準備をしておいたうえで、橋元良明『背理のコミュニケーション―アイロニー・メタファー・インプリケーチャー』(勁草書房,1989)の検討を兼ねて、この書からいくつかの例をここまでの立論につなげてみよう。私は、この橋元のこの著作の「I アイロニー」の章の「結論」にはわりと賛同できるのだが、その一方で、必ずしも賛同できない箇所もこの著作全体のなかには在る。その一部を紹介しつつの検討ともなろう。

「誇張表現」や「断定できないはずの事柄を断定する」表現のグループに入りそうな事例として、たとえば次の二ヶ所がある。

(前略)また、「私ごとき浅学菲才の身において」というような謙譲表現が、使用者によってはかなりアイロニカルな調子を帯びるという事実も、「仮人称発話」としてみれば、容易に説明がつく。(後略)

「私ごとき浅学菲才の身において」というのはそれこそまずは慣用表現であり、語句レベルですでに定形的でもあり、また、「字義通りの意味」を伝える表現というよりは、学識に関する単なる謙遜・謙譲表現である。或いはむしろその「学識に関する謙遜の意の表明」というのがこの表現の字義通りの意味だと言ってもいいくらいには、紋切型であろう。と同時に、これが「誇張表現」の一種であることもまた指摘可能な事態であろう。謙遜の意を表明するにしては少し表現が強すぎるわけだ。ただそのことが表現自体の定形性によって少し意識しづらくなっているのだ。たとえば「愚息」「愚妻」といった謙譲語は、現代人がみれば「かなり強すぎる」と感じる場合が多いだろう。これらは現代ではもはや定形的ではほとんどないため、そのことが意識されやすい。それと同じことが「浅学菲才」にも実は言えるだろうというわけだ。そうすると、他の「誇張表現」「断定できないことを断定する表現」に広く見られる「字義通り・文字通り受け取ってはいけない」サインをこの表現に感じることは正当であることになる。のみならずこの表現のほとんど「字義通りの意味」に近いのが「学識に関する謙遜の意」といったものなのだから、その「字義通りの受け取り」ではいけないかもしれない、つまり謙遜なんかではないかもしれない、ということにもなる。使用者によってはかなりアイロニカルな調子を帯びるという事実の背景に在るのはおそらくそういう事情だ。

同じことは当然、「過剰な尊敬語」の場合にはなおさら言えてしまう。それなら橋元の論と整合する。ただ、謙譲語のケースのほうは、必ずしも整合していない。少なくとも次の箇所とは整合しえていない。p69。

第三に、旧語用論的解釈ではアイロニーの「非対称性」が説明できない。I・1でも触れたとおり、アイロニーに評価語を含む場合、ほとんど「いい意味」を発話で用い、それによって結果的に「よくない意味」を相手に伝える。「かしこいね」で「なんて間抜けなんだろう」という含みをもたせることはできても、その逆に「間抜けだね」という表現で「かしこい」を含意することは皆無に近い。実際、この「逆皮肉」の例を見出すのは至難の業である。(後略)

…、と説明されているが、「浅学菲才」がアイロニカルになりうるという件は、ふつうに素朴に考えれば、この「逆皮肉」のケースそのものではないかと言えてしまうので、その件についての更なる説明や位置づけ直しが必要になるところだが、橋元はそれを特にしていない。

さてその件はおそらく、公刊されてすぐにでも、有識者が指摘したりさらに議論になったりしたに相違ないので措いておくとして、もう一ヶ所、「誇張表現」の例と思える箇所を指摘しておく。p38。

(前略)呼び名はともかくこの種の表現法が西洋に限らず、古くから我が国を含む東洋にも存在していたことは和漢の古典を紐とけば瞭然である(たとえば、『史記』「滑稽列伝」には、人より馬を愛するあまり愛馬の死に国葬をもって報いようとした王に、「それは本当に御立派な所行です。ついでに国政も馬にお任せになればいかがですか」と言う家臣の話がでてくる)。

というこのケースにおいて、ついでにという「有徴表現」「意味在りげな表現」を伴いつつ、国政も馬にお任せになればという、「誇張」というか「強すぎる表現」が登場することで、このメッセージが「字義通り・文字通りに受け取ってはいけないかもしれない」サインを発している、と受け取りうるわけだ。そしてそう受け取ると、先行する文の御立派なという箇所も「過剰な尊敬語」のようにも受け取れてくる、ということにもなっているわけだ。

橋元がこの論考で扱っているアイロニーは、日本語で云う「皮肉」全般ではないように思える。たとえば、先述したすべてをかなぐり捨てて飛んでいった世の中でいちばん嫌いなのはといった箇所もまた「揶揄」や「からかい」とも呼べるが同時に「皮肉」と呼んでも良いように思える。しかしこれは橋元のこの論考では扱われていないタイプのものである。ほとんど「いい意味」を発話で用い、それによって結果的に「よくない意味」を相手に伝えるという条件にまったく合致していないからだ。つまり「いい意味」を発話で用いているわけではないからだ。これらの事例は伝統的な意味での「アイロニー」ではないということかもしれない。その一方で、橋元自身が挙げている私ごとき浅学菲才の身においてやまたとりわけそれは本当に御立派な所行ですは橋元が述べているアイロニーに該当し、後者は自身が与えたそ特徴づけにも合致している。

橋元がこの種のほとんど「いい意味」を発話で用い、それによって結果的に「よくない意味」を相手に伝えるアイロニーについて、「メンション・セオリー」と「假人称発話」という道具立てで説明している。先に假人称発話のほうから確認する。ただしこれはアイロニーでも何でもない、まったくの「善意」の発話にも見られないわけでは無い。むしろこちらのほうが最初に理解するのには良い。橋元自身の説明を引用する。p86-87。鈴木孝夫『ことばと社会』(1975,中央公論社)、久野すすむ『談話の文法』(1978,大修館書店)に言及しながらの箇所である。

(前略)たとえば、小さい子供に向かって大人が、「僕、道に迷ったの?おじさんが一緒にお家を捜してあげようか」というような言いかたをして、相手を指呼するのに一人称の「僕」を用いるケースがある。鈴木はこれを「心理的同一化(empathetic identification)」によるものとみなし、当該の発話者が、相手に立場を同調させ、相手からみた自分という立場で対人関係を設定するからだと説明している。

単に呼称レベルで心理的に相手に同一化するだけではなく、自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を荷わせて発話行為を遂行する場合が存在するとして、それを今かりに「仮人称発話」と呼ぶことにする。ただし、この場合の「視点」とは久野(1978)らがいう「外的世界の事態に対する一種のカメラ・アングル」としての「視点(empathy)」ではなく、発話行為の人称設定にかかわる「発話視点」を意味するものとする。アイロニーの正体とは、結局、字義通りの発話が可能な立場の人間に視点を移し、結果的に「言及」とみなしうる陳述行為を行なうという一種の「仮人称発話」なのだというのが本稿の結論である。(後略)

橋元が述べるこの結論には私もまた特に反対する理由が無い。すなわち賛成して良いように思う。それでこの「假人称発話」の假説に有利であるような事例を一つ、確認しておこうと思う。岩明均『寄生獣』というマンガ作品のなかで、不良高校生の集団が特に不良でない高校生を暴行する場面が在るが、そこでの発話である。たとえば2003年講談社から出版された版でいえば「2巻」のp32である。不良たちの度重なる暴行に対して屈服しない高校生に対して、この不良高校生がやや落ち着きを失って発話する場面だ。

さもないと?なんだよ……ママに言いつけちゃうか?

このママに言いつけちゃうという発話は、典型的な「假人称発話」である。つまり「小学生程度以下の子供」の立場・視点を採って、その立場・視点での発話をいわば「引用」している、と見なしうる。その「假人称発話」によって同時に「アイロニー」を構成しようとしている発話であるわけだ。

先述した私ごとき浅学菲才の身においてそれは本当に御立派な所行ですというアイロニカルな発話にも、同じ「假人称発話」を見出すことができる。これらは“その発話を文字通りに発言する”者の行為をいわば“擬態”“物まね”することでアイロニーを構成している、と見なすことが可能なのだ。もう少しはっきりした事例としては、やはり先述した『金魂巻』での記述にそれが在る。再掲する。ただし「假人称発話」であることをここぞとばかりに強調しているというほどではない。

そして、出版界の約99%は(ビ)に侵略されていますから注意してください。

残り1%の(金)とは「なにか、知的で華麗なことがしたいから、お父さまにお願い」して、大手女性誌の編集部に無理やり入社した、偏差値64以上の大学出の女性編集者です。

この中の知的で華麗なお父様お願いといった箇所が假人称発話になっている。つまり、この「女性編集者」がまるで実際にそのように発話したことが在る、と思わせるように書かれている。彼女らの視点・立場で発話されたものの「引用」である、というわけだ。特にお父様お願いのその丁寧語の「お」がそれらしさを提示している。

それに対して、同じ箇所の侵略されていますや、前掲のすべてをかなぐり捨てて飛んでいったといった揶揄やからかいには、この「假人称発話」的な要素は感じにくい。これらには「誇張」や「断定」のもつ独特の効果は在っても、「他人の発話の引用性」は特に見いだせない。その一方でやはり既出の世の中でいちばん嫌いなのはという箇所になると、「假人称発話」としてはその中間的なゾーンに位置するように思う。「他人の発話の引用」の要素が少しは在るが、もしこれが「忠実な引用である」とすれば却って文章のもつ味わいが半減する、というような箇所だと思うからだ。

ただしこれらにも橋元が紹介・支持する「メンション・セオリー」なら適用できるように筆者には思える。次のような仕方で表記することが可能である、ということが、「メンション・セオリー」の適用範囲内であることを示唆しているように思うからだ。

「【僕】、道に迷ったの?【おじさん】が一緒に【お家】を捜してあげようか」

「さもないと?なんだよ……【ママ】に【言いつけちゃう】か?」

「それは本当に【御立派な】所行です。ついでに国政も馬にお任せになればいかがですか」

「私ごとき【浅学菲才】の身において」

塩田丸男にひとしきり喋らせたあと、薄笑いを浮かべた「そうとも限らないと思いますがね」の一言で、塩田の努力を【一瞬】にして【無】にしてしまう。

そして、出版界の【約99%】は(ビ)に【侵略】されていますから注意してください。

さて、ブルーボートたちが【世の中でいちばん嫌い】なのは、「買い物客として青山に出て来た地方出身者たち」です。

上尾、高崎、前橋、小山、那須、土浦、秩父といった町は、ブルーボートの【特産地】として有名なところです。

青山、現在の町名で言うと北青山、南青山、そして西麻布、渋谷区の神宮前といった地域には、オリンピック後、「東京でひと花咲かせよう」という野心を胸に秘めたブルーボートたちが【押し寄せ】てきました。

青砥や高砂の子どもたちは、あの「ビュンビュン京成……山だ 海だ ふもとだ 谷だ」という京成電鉄のCMソングを口ずさみながら、川の向こうの都や千葉の海へゆく夢をはせながら幼年期を過ごし、いまは惜しむらくつぶれてしまった京成百貨店が上野にオープンしたときには、【すべて】を【かなぐり捨て】て【飛んでいっ】た人々です。

「メンション・セオリー」というのは、これらと、言語哲学での「“使用”と“言及”との違い」とを同列に解する、という理論である。言語哲学での場合を、丹治信春『クワイン ―ホーリズムの哲学』(講談社、1997;または平凡社、2009)のp18-22の箇所に示された例を勝手に書き換えると、次のようになるだろう。

富士山は日本一高い山だ。

【富士山】は漢字三文字から成る。

2/3と4/6とは等しい。

【2/3】は既約分数である。

【4/6】は既約分数ではない。

さて、橋元の著書に戻ると、「メンション・セオリー」の有効性を検討している次の箇所が、さらなる検討をしても良い箇所のように見えてくる。p82。

第一に、明らかに社会的な期待を反映する命題の「言及」であっても、必ずしもアイロニカルな含みを持たない、というケースが存在するという事実である。たとえば、「オレなんかよう、馬鹿で遅筆で、なんの取柄もないから、一生人のカバン持ちでいいや」といじけている友人に対して、「クラークいわく、『青年よ、大志を抱け』だよ」という発話があったとする。この場合、発話者自ら「引用」を明示しているから、言語の「言及」的使用の一種である。しかも、その命題は社会的期待を反映している。しかし、通常の状況では、当該の発話は、或る種の「励まし」に類する発話行為であり、アイロニカルな響きを含まないとみなすのが自然である。したがって、アイロニーとして了解を得るためには、単に「言及」であることが認知されるということの他に、何か別の機制が仕組まれているとみなさなければならない。すなわち、「言及」は、必ずしもアイロニーであるための十分条件ではない。

この例はあまり活用されなかったように思えるので、勝手に少し補足する。「クラークいわく、『青年よ、大志を抱け』だよ」という発話は、橋元が示すように「励まし」に用いることももちろんできるし、ちっぽけな「志」を抱いている者(「今度こそ百点をとるぞ」「この夏で5キロ痩せてみせる」等)や、または「中年」「老人」に対してその引用発話をぶつけることで、状況次第・やり方次第ではアイロニーを構成することも可能である。またアイロニーではなくても、軽いおかしみや揶揄を構成することも、より一層可能である。大きく言って、「クラークいわく、『青年よ、大志を抱け』だよ」という発話をする者が冷淡・傍観者的であり、その発話を投げられる側が本気・必死であればあるほど、つまり「温度差」が在れば在るほど、そこには「アイロニー」や「揶揄」「おかしみ」が構成されやすくなるように思う。二人がほとんど同程度・同レベル・同方向であるときには、おそらくそうはならず、橋元が示したような「励まし」などの通常のコミュニケーションが構成されやすくなる。「温度差」が顕在化するような発話というのは、結局、クラークの引用のなかにさらなる「真の引用」的なものが感じられるというしかたになるだろう。たとえば次のように聞こえる場合に、「アイロニー」や「揶揄」「おかしみ」が構成される場合も在ることになろう。【】のなかを、ゆっくり引き延ばすように強調して発話してみる場合や或いは反対にひどく真剣な調子や陶酔したような調子で発話する場合を想像すると良いかもしれない。

「クラークいわく、『青年よ、【大志】を抱け』だよ」

「クラークいわく、『【青年】よ、大志を抱け』だよ」

この場合、もはやクラークの発話の引用であるという性質よりも、その中に潜む別種の「引用的な要素」のほうが発話のタイプを決定している。そもそも引用的な在り方と引用として述べるというのとで、すでに次元が異なっていると見たほうが良いくらいだろう。アイロニーというのは、引用としてはっきり述べる在り方ではなくて、そう述べないで実質的に引用的に述べるものにこそ生まれるのだ、と見たほうが良いように思う。いずれにせよ、【】内もまた「誰か他人の発話」(たとえばその受け手)の引用というふうに思える状況ならば、それは橋元の説明するアイロニーの枠内に入るだろう。そのように補足説明できると思う。また、【】のなかの箇所が単に「引用的な在り方」をしているだけで、それが「誰か他人の発話のように聞こえる」度合いが乏しければ、少なくともアイロニーを構成はしたりしないだろう。【大志】の箇所を、間延びしたようにして「たーーいし」などとわざと発音して述べれば、「誰か他人の発話」の「物まね」のように受け取りやすくなるし、反対に過剰に真剣な表情や或いは陶酔したような調子で述べれば「クラーク自身の物まね」のように受け取りやすくなるだろう。後者の場合はクラークを引用すると明示したうえで物まね風に発話することで、あえてクラーク自身をもアイロニーの対象にしているというわけだ。他方で「誰かの他人の発話のように聞こえる」度合いが乏しい場合でも「揶揄」や「おかしみ」を構成することができる場合は在るかもしれない。そのようにまとめておく。

何が言いたかったのかというと、橋元の云う発話者自ら「引用」を明示しているから、言語の「言及」的使用の一種であるという箇所に対して、私には疑義が在るのだ、ということになろう。発話者自らが引用であると明示する場合は、言語の「言及」的使用の一種と見なさないほうが良いのではないか、つまり、その明示引用のタイプはアイロニーの説明として想定される、言語の「言及」的使用という要因からは除外したほうが良いのではないか、という疑義である。

前節では「誇大表現」「断定できないはずのことを断定する表現」「有徴表現」といった、或る種の慣用的なパターンの表現が存在することを指摘し、この節では、「仮人称発話での言及(引用)表現」というパターンの表現が存在することを指摘した。これまた、或る種の慣用的なパターンである。その両者を特に満たしているのが「私ごとき浅学菲才の身において」というタイプの、謙譲表現を装ったアイロニカルな発話というパターンであることを述べた。もちろんこのフレーズを使えば必ずアイロニーになるというのでは全くなく、様々な文脈・状況の中にはそうなりうるケースも在る、ということであった。橋元の与えた説明図式は全体的には筆者も賛同できる。で、ここで橋元が述べた今一つ重要な点をここでも確認しておこう。次の点が相当に重要である。それは「反語信号」の存在がしばしば識別の決め手になる、という点だ。「文字通り」何を言っているかでは必ずしもない、というわけだ。p77-79、p71-72。

結局「言及」であることを告知する装置は、従来のアイロニー論では付随的にしか扱われていなかった「反語信号」(Weinrich,1967)以外に考えられない。アイロニーの伝達には、必ず何らかの反語信号をそれにともなう。よくいわれる特殊な音調・強勢の存在、ウィンク、咳払い、微笑等の随伴のみならず、表現の反復等も反語信号の一つである。(後略)

また、日本語の場合、「表現内」のものとして、「随分」「ほんとに」等の副詞や、「何と」「さぞや」等の感嘆詞あるいは不必要な敬語の使用なども一種の反語信号として機能する。条件の統制上、明からさまに音調的な反語信号を随伴させることがあまり好ましくない実験状況では、たとえ「場面的状況との齟齬」が明白であったとしても、これらの表現内の反語信号が存在しなければ、著しく皮肉としての認知率が低下することが、やはり橋元・村田・広井の一連の実験過程から示唆されている。一般的に、欧米文化圏と比較して、日本語のほうがアイロニーの装置として「表現内反語信号」を多用する傾向にあるのは、抑揚・強勢その他の音声的側面で、変化に乏しく平板であるという特性をもつためであろう。書記テキストの場合には、さらに引用符あるいは字体の変更(欧米語であればイタリック体の使用)等が反語信号として重要な役割を果す。そもそもシグナルとして引用符が用いられるという事実が、まさしくアイロニーは「言及」であることの一つの証明である。したがって、音調・表情・身振りなどの言語付随的要素は、アイロニーであることの補助的確認標識として機能するのみで、必ずしもその成立には必要でない(安井,1978)とみなすのは誤りであり、アイロニーは常にそれが「言及」であることを告知する何らかの反語信号を伴い、かつその事実によってアイロニカルなコミュニケーションの成就が約束される、とするべきであろう。そして、反語信号の現われ方には、一定のパターンがある、という意味において、アイロニーにも慣習的要素が介入する。

(前略)しかし、実験(橋元・村田・広井,1985)による知見は、子供の発達段階において、アイロニカルな含意は「全く理解不可能か、さもなくば端的に理解されるか」であり、「字義から論理的に推論をめぐらすことにより理解する段階は存在しない」ことを示唆している。すなわち、含意の理解能力は、平均的にみて、九歳(小学校三年生)前後を境として飛躍的な増大をみるが、理解可能な段階に達した児童の了解構造を調べてみると、「字義通りの解釈では文脈上不整合であるから、含意の存在を推測する」という論理的判断に基づいて推論がなされることは皆無に近い。むしろ、日常の経験的知識(アイロニカル・パターンとでも呼ぶべき特異な言語使用の様相に関する知識)を基礎として、いわば直観的に含意の方の意味を了解するのである。旧語用論的解釈ではみな、まず発話の字義通りの意味の認知があり、それが何らかの適切性条件を満たしていないことを基礎として、含意の存在認知ならびに含意内容の同定にいたる、という筋書であるから、実験結果はその仮説を支持していないことになる。(後略)

ここで筆者が注目したいのは、アイロニーではもちろんのこと、言語に「付随」するものでしかないようなウィンク、咳払い、微笑等の反語信号や或いは言語の「内容」からすると二次的でしかないように思える、特殊な音調・強勢の存在といった特徴こそが重要な役割を果たすのだが、にもかかわらず日本語の場合だと、むしろ「表現内反語信号」つまり「言語の内容それ自体」によってもまた、反語信号が提示される場合がやや多いということのほうである。たとえば「随分」「ほんとに」等の副詞や、「何と」「さぞや」等の感嘆詞あるいは不必要な敬語の使用といった特徴を橋元は挙げている。この事態が言えるからこそ、「誇張表現」や「断定できないはずのことを断定する表現」「有徴表現」といったパターンのなかにも、アイロニーと相通じる「揶揄」や「からかい」「おかしみ」といった特徴がしばしば見いだせるのであった。…とそのように言いうると思う。なお、「誇張表現」や「有徴表現」の一部に入れても良さそうな例を橋元は、「I アイロニー」の章ではなく、「III メタファー」の章の「諷喩」(p150)の箇所で扱っている。「わが家に革命が起きた。何と娘が家事の手伝いをするというのである」というくだりである。ただ、このタイプについては、アイロニーではないことや、一種の假人称発話による発話行為であることを、橋元は述べるものの、それ以上の分析などは特にしていない。この種のものについては、橋元のこの著作ではあまり扱われていなかった、と判断して良いだろう。

「ありがとう」の語用論

不必要な敬語の使用がアイロニーを提示しうることや、過剰な謙譲語や尊敬語が「誇張表現」の類を構成しうることを考えると、より一般的に言って、定型化した儀礼表現は全体として、そういった「字義通り・文字通りに受け取って良いという保証が無い」表現に活用されやすくなるだろう、と推察できる。その代表と思えるのが「ありがとう」である。もちろん「めったに無いことだ」が字義通りの意味なのでは全くなく、「感謝」が字義通りの意味なのである。そのうえで、その字義通りの意味・了解を活用・便乗する形でさまざまな表現ができてしまう。

橋元の著作では、「顔に泥を塗ってくれて、ありがとう」という発話がアイロニーになりうるものとして言及された。その箇所をみてみよう。p91-92。

この仮人称発話説をとれば、その他のメンション・セオリーの難点も解消される。単なる名言の「引用」が、アイロニカルな含みをもたないのは、そこには発話視点の仮設がなく、発話者Aが、現実にある位置から「言及」を行なっているに過ぎず、また評価レベルで下方向への視点移動を伴っていないからである。「言及」がすべて視点の仮設を伴うわけではなく、たとえ「仮人称発話」であっても評価レベルでの視点移動がなければアイロニーにはならない。「言及」の対象が曖昧であった「顔に泥を塗ってくれて、ありがとう」がアイロニーになり得るのは、実際「ありがとう」といい得る状況を仮設して、感謝の言葉に「言及」しつつ、あくまでその発話視点が現実を乖離をもつことを認識させるからである。この場合、発語内行為としては当然「感謝」ではなく「陳述」である。ただ、潜在する人称構造が通常の発話行為の場合と様相を異にするのである。したがって、アイロニーの発話行為上の位置、という問題も同時に解決される。

引用箇所だけでこの説明がわかる必要は無いように著者は思うし、私もあまりわかっていないと思う。わかるのは「ありがとう」という言葉を述べることが「言及」という形の言わば「擬態」「演技」である、ということである。それを「文字通りに」述べる人物を擬態し演技しているというわけだ。間違いかもしれないが、それでひとまず充分だ。文字で書くと次のような表記になりうる。

「顔に泥を塗って【くれ】て、【ありがとう】」

この発話表現に関して、私は以前「恫喝」と位置づけた。その理由には、想定していた例では一人称に「俺」を使ったというのも在る。実際には、「顔に泥を塗って【くれ】て、【ありがとう】」は「恫喝」以外にも、それこそ「アイロニー(というかむしろ皮肉)」としても、或いはまた「嘲笑」や「からかい」としても使うことができるし、そのあたりは状況次第、文脈次第である。ニコニコしながら述べるのと、相手をにらみつけるようにして述べるのとでも違うだろうし、話し手と聞き手がそれぞれどんな力関係に在るのかにも相当に依るだろう。またここでの「ありがとう」が括弧入りのものであることを主に示唆するのは、先行する「顔に泥を塗って」の存在である。これがきわめて「有徴性の高い」「いかにも意味在りげな」表現であり、しかも定型性のごく高い(むしろありふれすぎた)ものであること、そのことによって後続の「【くれ】て、【ありがとう】」が括弧入りにものにしか思えないというのも大きいだろう。

もちろん、「…【くれ】て、【ありがとう】」に先行する箇所に何が代入されるのかにも依る。そこにごく普通のありふれた善行や親切が代入されて、普通に感謝を意味する発話になることももちろん在りうる。ただ、「ありがとう」の場合はその定型性や頻度が高すぎるため、「アイロニー」やその他さまざまな素直ではない用法に用いられる機会もまた、きわめて多いことにならざるをえないのである。

次に取り上げたいのは、あずまきよひこ『よつばと!』の5巻(メディアワークス,2006)に掲載の「第30話 よつばとやんだ」からである。p85。「やんだ」という青年が「よつば」という幼稚園程度の年齢の女子の暮らす、その父親である知人の家にあがりこみ、女子のアイスクリームを隙を見て一口食べてしまったりするなどして、さまざまな騒動(いわば攻防戦)を起こした(繰り広げた)後の去り際の会話である。

やんだ
じゃまた飯食いに来ます
よつば
くんな!やんだくんな!
やんだ
あ よつば アイスクリームくれてありがとう
よつば
やってねーーー!!かえせーーー!!
やんだ
じゃーまたなー
よつば
くんなーー!!くんなーー!!

よつばのほうはずっと怒り続けているのに対して、やんだは「さわやかな笑顔」ですらある。このときのやんだのあ よつば アイスクリームくれてありがとうというせりふは言わば括弧つきに「あ よつば アイスクリーム【くれ】て【ありがとう】」とでも表記可能だろう。先の「顔に泥を塗って【くれ】て、【ありがとう】」から可能な言語行為の平均的な方向性よりは、ずっと余裕綽綽である。そもそもこのやんだがよつばのアイスクリームを食べちゃったのにしても、アイスが食べたいからではほとんどなくて、単にそれがよつばに対する嫌がらせになるからしたに過ぎない(と充分受け取れる状況だった)のである。

後続する事例のために布石をうっておけばこうなるだろう。この時のやんだはもちろん「感謝」などしていない。「嘲笑」とか「からかい」を行なっているのである。と同時に、「怒り」や「憎悪」の感情に満たされているようにもあまり思えない。相手を見下すことのできる立場に立つことで「満足」「歓喜」といった感情を抱いているように見えても良いくらいである。

この例をわざわざ出してきたのは、次のケースが私の頭に在ったからだ。松井智子『子どものうそ、大人の皮肉 : ことばのオモテとウラがわかるには』(岩波書店,2013)である。第三章「語用障害が教えてくれること」には語用障害における例が複数挙げられており、示唆に富むものも多い。そのうちの一つが「ありがとう」という語の理解に関するものであった。p86-87。高橋紗都・高橋尚美『うわわ手帳と私のアスペルガー症候群』の64頁を引用しながら次のように説明されている。

自閉症やアスペルガー症候群の人にとっては、ことばの額面どおりの意味が伝える感情がもっともわかりやすいと考えられる。それ以上の目に見えない感情の理解については、やはり文脈をもとにして推測することが必要になるため、困難がともなうようだ。感情をはっきりとことばにして伝えることの大切さが伝わってくるのが次のコメントだ。

私は、多数派が喜ぶことは何かわかりません。喜んでくれていても、気付かないかもしれません。私は、人の笑顔を見ると、とってもいい気分になります。人を喜ばしてあげたいと思い、いろいろなことをしてきました。例えば、お風呂のタオルを用意して、あがるとドライヤーが用意してある、そんなことをしてみたり。……今度は、お茶を出してみよう。でも出した時に言われたことは、「おっ、何や、ありがとう」でした。

(高橋紗都・高橋尚美『うわわ手帳と私のアスペルガー症候群』64頁)

高橋紗都さんは、「ありがとう」と笑顔で言われても、それを喜んでいる表現だとはとらえていなかったそうだ。「相手に何かしてもらった時のお礼の言葉」と理解していたため、それが喜びの表現になるとは考えていなかったと言う。これは、言われてみないとなかなかわからないことだ。確かに「ありがとう」と言った人が喜んでいるとは限らないだろう。母親の尚美さんによると、喜んでいることを伝えるときは「ありがとう、うれしいよ」ときちんとことばにするとうまくいくそうだ。

本稿がアイロニーに関する論及を通過してきたことを考えると、この指摘にはめまいがする。「ありがとう、うれしいよ」なんて、すぐにアイロニー化したり誇張表現化して、からかいや嘲笑や恫喝にだって使われるに決まっているだろう、としか思えなくなるからだ。特に「悪役」や「性格の悪い役」が登場するフィクションでそうだ。それはともかく、ここでどういったことを受け取ると良いのか、が問題になる。私たちの言語慣習として、「ありがとう」は「うれしい」にそこまで直結する表現ではない。ただ、「うれしい」とかそういう語を濫用することは却って、偽りだったり単なる社交辞令だったりする可能性を想起させるので、使い過ぎないほうが良いという「生活の知恵」も在る。そこでいわばオブラートにくるんだ好意や満足の表明として「ありがとう」が使われやすいという構図も在るだろう。ただ假に社交辞令だとしても「ありがとう」を自分の意志ですき好んで述べる者に対しては「少なくともうれしくない、なんてことはない」くらいには受け取って良い、それが「礼儀」だ、というコンセンサスも成立しているはずだ。「ありがとう」と「うれしい」との間には「同義であると言っても良い」と言っても間違いだし、「全然無関係である」と言っても間違いである、というような、そのようなくらいの関係が成立しているようにしか言えないと思う。普通に暮らしていて求められるのは、「ありがとう」が社交辞令なのかそれとも「本心」なのか、という見極めだろう。それは語用障害の人でなくても人によって「得意不得意」も在り、また「状況によって見極めが難しい」ことも在る。

ともあれ、ここで「“ありがとう”と“うれしさ”“満足”との関係」といった座標軸が登場してきた。振り返ってみよう。「顔に泥を塗ってくれて、ありがとう」の場合、「感謝」も「うれしさ」「満足」もほぼ無いことが多いだろう。一方、「あ よつば アイスクリームくれてありがとう」の場合は、「感謝」はまったく無いに等しいが、「満足」や「うれしさ」なら在りそうだ。「おっ、何や、ありがとう」の場合は、「感謝」も在り、また「うれしさ」もおそらく在ると見なして良いケースなのだが、語用障害の人には、これは「感謝」だから従って「うれしさ」ではない、と推察されてしまった。そういうふうになるだろう。これらとどれも違う「ありがとう」は社交辞令性が高いほど、「単なる感謝」となり、社交辞令性が低いほど、「感謝もうれしさも在る」となるかもしれない。表にしてみる。

「ありがとう」と「うれしい」
行為のタイプ 感謝 うれしさ・満足
社交辞令としての「ありがとう」 儀礼
「おっ、何や、ありがとう」 感謝・好意 △~◎
「顔に泥を塗ってくれて、ありがとう」 恫喝・皮肉等 × ××~△
「あ よつば アイスクリームくれてありがとう」 からかい・あざけり ×

あらためて言うまでもないかもしれないが、念のために書いておく。上掲の表やその他、他に想定できる別種の用法などから「“ありがとう”は多義的な語なのだ」などという結論を引き出すのはもちろん間違いである。語用障害の人ですら、そのように把握しないほうが良いと言える。「意味」や「含意」や「言わんとすること」ごとに場合分けして把握したりするのはまったくの的はずれである。こういうときにいちばん有効だと筆者が感じるのは、野矢茂樹が以前書いた次の内容だ。これがシンプルな原則として有効だろう。あとはケースバイケースで把握していったほうが間違いが少ない。『哲学・航海日誌』(1999,春秋社)、p325-327。強調は原文の該当箇所を、ウェブで表示可能なしかたで表示する。

実際、多くの哲学者はコミュニケーションを規則に従ったものとみなすだろう。例えば、素朴なコミュニケーション観によれば、話し手と聞き手が分かりあえるのは、話し手の発した音や文字を、聞き手が話し手と同じ解読コードで解読するからにほかならない。もしそこに共通の解読コードがないとすれば、コミュニケーションはたえずすれ違ってしまうことになる。もちろん、このコミュニケーション観は素朴にすぎるものではある。しかし、いずれにせよ、何か話し手と聞き手とが共通の規範に従っているからこそ、われわれのコミュニケーションがこのような一定の秩序を実現できていると考えることはごく自然な道であるだろう。その規則を明示的に述べることはなるほど難しい。しかし、それは日本語の熟達者といえども日本語の文法をうまく言えないのと同様である。何か発話を理解するための体系的な規則・規約があるに違いない。

だが、私はここでディヴィドソンに加担し、しかもディヴィドソンより強い否定的議論を提出したい。発話の意味を体系的に引き出してくるような規則は見出せないというだけではなく、そんな規則はありえないのである。

コミュニケーションはなんであれ規則に従った了解を利用し、つねにそこから逃げていくことができる。例えば、簡単のために、発話において手のひらを上にして見せるとそれが平叙文を質問に用いていることになるという変換規則があったとしよう。そして、何もしなければ文はその叙法通りの力で用いられるものとする。さてそこで、私は手のひらを上にして「塩がない」と言う。かくして公式上の発話の力として質問が得られる。それは、「塩はないの?」という文を何もせずに発話した場合と同じものにほかならない。ところが私は、何もせずに「塩はないの?」と発話し、それゆえ公式上その叙法どおりの発話として質問をすることによって、<塩をとってほしい>と依頼することができるのである。同様に、いささか入り組んでしまうのだが、手のひらを上にして「塩がない」と発話し、それによって質問という公式上の力を発動し、それによって塩をとってほしいと依頼することができるだろう。つまり、こうだ。「塩がない」という文は<塩がない>ことを意味する平叙文である。それを手のひらを上にしながら発話しているのだから、取り決めに従ってそれは<塩はないのだろうか>という質問を意味するものとなる。しかるにこの場面で、この私がかような質問を発するということは、塩をとってくれと言っているのだということが分からないのか、うつけ者めが、というわけである。(おそらく妻がフライパンをもって居間に立つのは私のこうした態度の成果であろう。)

いくら取り決めを重ねても構造上は同じである。幾重にも重なった規則の結果としてある一定の了解が得られる。しかし、コミュニケーションの実際において話し手はつねにそれを利用しつつ、その公式上の了解からずらされた理解を相手に求めることができるのである。それゆえ、発話がもつ最終的な意味は、もはや規則・規約によって全面的に縛られたものではありえない。

ようするに「通常ひとびとが理解するだろう意味や言わんとする内容」というものが一方では或る程度安定したものとして成立しており、他方でその安定性や流通性をいわば利用するような形での応用編のようなコミュニケーションもまた充分可能なのである。厄介なのは、その「応用編」もまた或る程度普及してしまうと、それ自体もまた「通常のことばの意味」に近づいてしまうことだ。フィクションがこれだけ普及してしまうと、たとえば「ありがとう」は多義語であり、その「通常の意味」のうち一つが「皮肉」や「からかい」である、というふうにすら見えてしまいかねない。またその「皮肉である」用法をさらに逆手にとったコミュニケーションなどもケース次第では可能である。同じことは「ありがとう」以外の同程度にありふれた表現であれば、どれも可能性は在る。こうやって書いてみると確かにとてもややこしいが、それでもこのややこしさ以上にややこしくする必要は無い。たとえば「“ありがとう”は場合によっては“うれしい”を意味することも在る」なんて多義語のようにして把握する必要は無いのだ。

ただそれだけだと語用障害の人にとってはあまりに無策すぎる。その参考に多少にでもなりそうなコンテンツをここまで書いてきたとも言える。「“ありがとう”が時に“うれしい”の代用品として使われる」と言えるとしたら、その背景に在るのは、「うれしい」と単に言うだけであると、基本的にはあまり信用されないという事態だ。稀少性や儀礼性という点でもそうだし、自分の感情をことさらに言語化するのは、アイロニーや誇張表現・有徴表現の方向に往々にして近接してしまいやすくもなる。つまりこうだ。「うれしい」という発話は、儀礼的にも述べられうる。まずこれが一点だ。そして、自分の感情を頻繁に述べすぎると、「ありがたみ」や「真実らしさ」が失われてくる。こういうものはここぞというときにとっておくものなのだ。「ありがとう」という発話は儀礼的である確率や度合いが比較的高いため、その目的のためには却って使い勝手が良いのである。そして、「うれしい」という内容を少し大げさに述べたりすれば、それはアイロニーや「誇張表現」系統の語用に入り込みやすくなってしまうことも在る。

語用障害の人が学習するのが望ましいのは、まず、表現には心からのものと社交辞令的なものとが在るということだ。そして「皮肉」や「からかい」や或いは「レトリック」といった、各種の異化的な用法もまた在り、それは「通常の用法が理解されること」を前提としてそれを「逆手にとる」ような形になりやすい、ということだ。そのため、通常のありふれたコミュニケーションの場合でも、「皮肉」や「からかい」などに転化しやすい表現というのは避けることにもなるのだ。語用障害の人が「わかりやすい」と感じ「だからそのようにぜひ表現してほしい」という表現や言い回しというのは、そのまま「皮肉」や「からかい」などの冷笑的・メタ的」なコミュニケーション、或いは「おかしみ」の醸成や「ふざけ」などの遊戯的なコミュニケーションに転化しやすいパターンと重なってしまいがちだ。そのため通常の場合は回避されやすいパターンとなってしまうことも充分在りうるのである。結局、あまりに輪郭のくっきりとした表現は「まじめで真剣でかつ何気ない」コミュニケーションには向かないのであり、適度にぼやけた言葉を使わないとすぐに別種のものに転化してしまう。と同時に、そのややこしさが語用障害という現象・症状の発生土壌ともなっているのだと言えよう。

言語使用におけるそういった理解の困難が、主として「慣習性」や「慣用表現」をめぐるものだったことは理解されて良い。「通常の用法が理解されること」を前提として或る程度多様な言語行為がされるために、まず「通常の用法の理解」が先行している。その慣習性にも、定形性の高いものと、比較的低いものとが在った。「単語や語句のレベルで同じ形をしている」という慣習性も在れば、「種類として同じような表現」という程度の慣習性も在った。この二つを分けた理由は、前者のほうが対策がはるかに立てやすいというものだ。たとえば、松井のこの著作で紹介されている次の事例も(外国語でのものではあるが)語用障害の人の典型のように見られる。これは「単語や語句のレベルで同じ形をしている」タイプのものだから、対策は立てやすいはずなのだ。p74。

また、ガーランドさんは「お電話番号をおうかがいしたいと思いまして」という質問が「お電話番号は何番ですか?」という意味だとはまったく理解できなかったと書いている。このような間接的な依頼表現を何度聞いても、その経験を生かして遠まわしなものの言い方に慣れるということはなかったそうだ。(後略)

スウェーデン人のガーランドさんの当該言語で「お電話番号をおうかがいしたいと思いまして」が「質問」なのかどうかはわからない。たぶん「文字通りには質問」なのだろう。ともかく、日本語に訳された時点で「お電話番号をおうかがいしたいと思いまして」は「文字通りには質問」ではすでになくなっている。だから日本語を母語とする語用障害の人はまずこれが「質問」であるという認識から、まず始めないといけない。これが「質問」に端的に聞こえるのなら、問題はほとんど解決していることになるからだ。そういうわけで仕切り直しが必要である箇所だ。

日本語の場合、「お電話番号をおうかがいしたいと思いまして」は「文字通りには質問ではない」のだが、その発話で行なおうとしていることは通常「質問」である。つまり、多くの人の脳裏ではこれは「文字通りの質問」に転化している。松井自身もそのような認識のもと書いていることがうかがえる箇所だ。むろん、その了解をさらに逆手にとったやり取りも可能だが、その水準の事態はまずは考えないことにする。この種のものは、いわゆる慣用句や熟語表現などと同じで、「“お電話番号をおうかがいしたいと思いまして”は字義どおりに“電話番号の質問”を意味する」と固定化させて把握したほうが良いくらいのものである。「多義性」に乏しいからだ。で、その理解のために援用される認識としては、まずこれが「儀礼やビジネス」といった「よそよそしい間柄」「間違いがあってはならない事務的場面」「特に詐欺やクレーマーなどと解釈されては困るという状況」で使われるタイプのフレーズであることだろう。親密な間柄で用いる場合も、その事務的な用法の理解が前提になっているからだ。「よそよそしい間柄」においては、「電話番号を教えてください。」という、語用障害の人が「ぜひ最初からそう言ってほしい」と思うような言い方は、まず絶対に使われない。礼節におよそかなっていないからだ。「なんて自己主張の強い人なんだ」「自分勝手」「話のスピードが速すぎてついていけない」などという印象を与えてしまうだけだ。…と、そのようにして語用障害の人には説明すると良いのではないか、と私は思う。

言語使用の「慣習性」がポイントである場合なら、語用障害であるか否かは程度問題でしかないようにも思う。というのも、特段の障害など無くとも、言語使用の経験の乏しい子供だったりしても同じことになるだろうからだ。ただ、語用障害というのは、おそらく「経験を積んだり、知識として学習したり、理路整然とした解説を受けても、なおその用法が納得いかない」というところに位置しているものなのかもしれない。そうであれば、経験や学習さえすれば理解できる子供とは、やはり異なっているということも言えるだろう。

ただ、「経験」とか「学習」とかいっても、実際に世の中で流通しているコミュニケーションというのは、「文字通り・字義通りのもの」も在れば、「文字通り・字義通りの用法をふまえた応用編のもの」も在る。またその「応用編」が固定化して「文字通り・字義通り」に転化してしまった場合も多い。そしてそれらが特にフィクションやテレビCM、バラエティ番組などでは完全に等価なものとして流通している。「文学作品」でもやはりそうなりやすいだろう。「原則」と「例外」とが完全に等価に、下手すると同じくらいの分量で流通しているかもしれないわけだ。なので、そこから「学習」したり「経験」したりすることには困難が在るのも当然である。その点を踏まえると「語用障害」である人と、そうではないがそれに近い人というのの差も、案外、程度問題でしかないのかもしれない。

突然思い出したので、追記しておく。高橋留美子『めぞん一刻』にこれ以上無いというほどの「メンション・セオリー」+「假人称発話」説が妥当して、かつ「アイロニー」ではないだろう、というケースだ。これを読んだことの在る人なら橋元のアイロニーの学説を聞いたときに誰もが思い浮かべると思うが、それは次のようなシーンだった。

一刻館というアパートが在り、その一室を借りている大学生の五代が風邪をひいて寝込んでいる。そこを訪問した知人の三鷹が体に良いと思われる卵酒か何かを作って五代に差し出したときの会話である。

三鷹(という男性)
ありがとう。
五代(という青年)
どういたしまして。

この二人の発話はそろいもそろって【】付きであるようなものだ。三鷹は「ありがとう」という「他人の発話」を引用し、五代もまた「どういたしまして」という「他人の発話」を引用している。その言わんとするところは、三鷹のほうは「“ありがとう”は?(ちゃんとお礼くらい言えよ)」であり、五代のほうは「“どういたしまして”とでも答えたろか(誰がお前なんかに頭を下げるかよ)」といった感じであろう。このやり取りは、おそらく「メンション・セオリー」も「假人称発話」も当てはまるように思えるが、しかしこれが「アイロニー」であるとは思えない。というか、「アイロニーであるか否か」という分類をすることに意義があまり無さそうである。この種の問題を論究するときに念頭に置いておいてもよい事例である。

蛇足その1:言語学の「無能さ」

ところで、専門的な読者にはこの文章を読んでいて少しイライラした人も居ると思う。その理由は、専門的な読者が使うような、彼らにとってのわかりやすい専門用語をかなり避けたからだ。その筆頭が「メタファー」である。使用を避けた理由は簡単であり、専門家の多くは、「何がメタファーであり、何ならメタファーではないのか」という地点での議論をしないで、突然「Aはメタファーであり、Bはメタファーではない」という「断定」または「書かれざる大前提」からスタートし、そしてより「高次」の「学術的問題」を論じるという傾向が在ると私は感じたからだ。その傾向でいけば、結局どんなに学術的に深く考察しても、当初の「Aはメタファーであり、Bはメタファーではない」という個々の規定や判断によって、その後の考察の程度や方向性が決定されてくるほか無い。それは避けたかった。「メタファー」以外の主要概念にもそのことは当てはまる点が在ると思う。もちろん筆者の敷いた議題設定のレールのほうにも(こそ)同じことを感じる人は居るだろう。だが筆者の敷いたレールのほうは、少なくとも、言語を使用したり受け取ったりする側からすると、かなり本質的なポイントである。筆者はそう信じている。

蛇足その2:コボちゃん作文の「指導者」に必要な認識

四コママンガ「コボちゃん」を読んで、それをもとに作文を書かせるという「手法」が、21世紀初頭前後頃、首都圏を中心に一部で流行していた。特に作文が嫌いな子供に効果的であるという認識がもたれてもいた。だが、その「主流」での思想は、まったく奇妙なものであった。それは「Aさんが“○○”と言った。」という形での書き方を生徒にさせない、という点である。このマンガは多くのマンガと同様に、「セリフ」がコンテンツの一つの中心をなしている。そこを記述説明するときに、その書き方を許容しないわけだ。そこに介在しているものは、結局は「言語観の混乱」というものでしかなかった。言うまでもなく、この思想は、語用障害の子供を「無能な子供」として拒否するものであり、それ自体としても受け入れられない。また、語用障害ではまったくない子供であっても、小学校中学年にもなると、たとえば「勝手にしなさい」という発話が「お前のことを見捨てるという“宣告”」であるなどと認識することを要求され、さらにそれを作文に書くことを要求されるわけだが、それは課題として高度過ぎる。そんなのが「作文の初歩」であるはずなど全然ない。それに言語行為に使い得る動詞をそもそもちゃんと教えてだっていなかっただろう。そういった点を考えてもとうてい受け入れられないものだ。たとえば五味太郎のことばを教える絵本(『言葉図鑑(1) うごきのことば 』偕成社,1985)ではその種の動詞は実にほとんど回避されていることがわかる。要するに絵本において「端的な絵に描けない」タイプの行為なのだ。だが、この手法を推進・支持していた人々の強固な信念のようなものは、そんな指摘程度で変わるものではなかった。その点を少し説明しておきたい。

この手法を推進していた人々の信念に在った言語観というものは、結局のところ「子どもは最初易しい単語やフレーズを使えるようになり、そこから発達して徐々に難しい単語や複雑な文を理解し構築できるようになる」というものであった。これを恰好をつけて「具体から抽象へ」などと粉飾することもしていると思うが、そう粉飾すればするほど、言語使用の実際からかけ離れていくことになる。こんな言語観しかもっていないから、コボちゃん作文などという、その意義づけ自体が根底から誤りであるような教育手法を発明してしまうのだ。どういうことか。コボちゃん作文を発明したり推進・支持している者にとっては、マンガのセリフというものはその「最初に使えるようになる易しい単語やフレーズ」にほかならないのである。そのときに、言語行為論のような観点は全く抜けている。で、それに対して、そのマンガを、第三者に説明できるように書かれた文章やとりわけ言語行為に関する動詞を使うことは、「発達するにつれて使えるようになる難しい単語や複雑な文」なのである。まあ、後者が難しかったり複雑だったりするのは良いだろう。ただそこで、これをまた粉飾して「話し言葉から書き言葉へ」などと謳うこともしているだろう。マンガのセリフが易しいのはそれが「話し言葉」だからであり、それを第三者に説明するものが難しいのはそれが「書き言葉」だからだ、となる。より一般に言って、子どもの言語習得を「音声から文字へ」というふうに、過度に単純化しているわけだ。コボちゃん作文を発明した者や追随する者にとっては、作文を書けるようになることの最初の一歩は何が何でも「音声での発話というものを文字の文章に置き換える」ものになる必要が在ったということになる。だからマンガ作文なのだし、その変換こそが、「作文というスキルの初めの一歩」だからだ。だがここに在るのは概念や思考の混乱でしかない。また「具体から抽象へ」という言い方では、往々にして「抽象とは具体以外全部である」ということになるので、言語行為に使うことのできる言語行為を表す動詞を習得することも「具体→抽象」の枠組の「抽象」のほうに彼らは平然と入れるだろうが、それは彼らが別の時に述べる「具体→抽象」の規定とは似ても似つかないものである。

このタイプの教育者たちに決定的に欠けている認識というのが、「易しい語彙やフレーズを使っていくらでも難しい、高度なコミュニケーションをすることが可能である」というそういう言語観なのである。マンガのセリフは、まずそれ自体として眺めてもさして易しくはないものを含んでいる。それを筆者は「慣用表現」という形で示唆はした。「そんなことしなくていいよ」という発話はきわめて多くの場合に「そんなことをするな」の意味であること、などは知識と経験が無ければ、どんなに頭のいい子供にだってわかりっこない。また、語彙・語句のレベルでの定形性はさして高くはなくても、「コミュニケーションのタイプ」として定形的であるパターンにも扱いが易しくはないものが存在することをも示唆してきた。ここではアイロニーやからかい、おかしみなどのものしか扱っていないが、他にもテレビCMや文学作品にみられる修辞的な数々のパターンも在るに違いない。また、もちろん比喩表現的なものは、学術的な書籍のなかにも溢れんばかりに見られるものだ。私たちが語彙数をそこまで増大させずとも済むためにかどうかわからないが、日本語というのは、比喩表現やらアイロニーや種々の修辞によって、語彙数から想定できるよりもはるかに多様な物事を伝達できるだけの性能を有している言語なのだ。

「易しい語彙やフレーズを使っていくらでも難しい、高度なコミュニケーションをすることが可能である」という認識が欠けている者がコボちゃん作文を推進してしまったために、いくつかの弊害が派生的にも出てきている。まずマンガのセリフがもつ「難しさ」を全く理解していないために、これを「視覚的な表現を、言語化する課題」だと位置づけることも、時と場合によって行なってしまっていることだ。次に、これによって、特にマンガのセリフや、より一般的に言って「日常会話」のもつ構造の理解への道が閉ざされた。たとえば「Aさんが“○○”と言った。」という作文を禁止し、すなわちマンガの中のセリフを「引用」することを禁止することによって、たとえば「AさんがBさんに“○○”と答えた。」という作文をも禁止する可能性をもたせてしまった。この作文例は「Bさんに」向けたものであることや、そのセリフが「答えた」ものであることが書かれており、会話というものの構造性を一定程度理解していることがうかがえるものになるが、こういった作文例を評価する枠組を、コボちゃん作文の推進者・支持者はもたない。そういうことになる。また、マンガやテレビでのフィクションでのセリフの中には、「読者や視聴者に説明する」機能が主目的であり、登場人物を相手に想定した会話としては不自然である、というものも存在する。そういったものの場合、「Bさんに“○○”と言った。」というふうには記述できないことが多いだろう。そのような、フィクション固有の事情が理解・読解できるためにもまた、通常の会話の構造をもったセリフの理解が先決なのである。

作文教師や国語教師が「具体から抽象へ」などという言語観をもってしまうのは、結局のところ「大学入試」がゴールに設定されているからだ。つまり、難解な語彙を用いたがる文芸評論的なものが典型となって、そこに少し学術的な文章(学者が一般読者向けに書く文章)が混ざったものや、或いは書くほうの課題としては大学入試の「小論文」がゴールに設定されているからだ。そこに欠けているのは、「そもそもどうやって志望大学を選ぶのか」であって、「高校生のうちに志望校を決めるために、専門家の書いた書籍等を読む際に、ジャンルごと、学派ごとに“同じ単語”がそれぞれ異なって使われている文章をどう読みどう扱うか」という問題意識なのである(例「問題の所在:「“書き言葉”という単語」を使いたがる人」)。「同じ単語が異なったしかたで使われている」という言語使用の在り方を「対処すべき課題」として認識すれば、結局はそれは身近にいくらでも見られるものであり、「マンガのセリフ」や「日常会話」一つとっても同型の課題が存在していることはすぐにわかる。だが、それへの対処は国語教師や作文教師の任ではないし、そもそも国語教師自身がその種の単語を適切に人々にわかるように使うことができない者だった、というわけだ。コボちゃん作文を考案した者は、自分自身が平易な単語を適切に使う能力が無いがために、まさにその無能力ゆえに、マンガのセリフの単語レベルの易しさから「それらを理解することは誰でもできる容易なものだ」と決めつけた。そしてそのセリフの理解をさらに説明する能力などというものを奇妙な仕方で位置づけてしまった。それは普通に考えて、特殊な専門の文系大学院生レベルの課題になりうるものなのだが、易しい言葉しか使っていないセリフというものは易しいに決まっているとしか判断できない彼らはそうは思わず、それを小学校三年生に平気で要求し、しかもそれが「作文の初歩」だと位置づけた。「マンガのセリフしかわからない」子供を「難しい単語や文法構造の文章を読めるように」することが学習だという言語観しかないからだ。コボちゃん作文という手法そのものは、もう滅びる寸前だと信じるが、同程度の言語観や見識しか無い国語教師はそこらに溢れている。彼らの考えるような教育目標になど振り回されずに、生徒は各自が自分自身で必要な学習目標を堅持してほしい。

なお、コボちゃん作文については、「二段階選抜社会だから求められる「青少年の、文章を書く力」:音声の言語と文字の言語」「子供の語彙習得を俯瞰する」も併せて参照すると良い。