マンガ作文の「指導者」に必要な認識

「補足1:複文に関して」を追加しました。(2018-11-15)

氏を知らない人は読まなくて良い前書き

マンガ作文という教育「方法」を開始した工藤順一氏が、言語行為論(や会話分析)といった学術的知見をまったく顧慮しなかったことには理由があると思う。それはマンガの中の「会話」というものが、リアルの会話に比べてよほど単純化されているということだ。そのため、マンガ作文というものはマンガのセリフと同程度の「難易度」しかない易しい課題である、と軽く見ることになった。そしてそれがマンガ作文の「暴走」を招いたと思う。

マンガ作文の暴走とは、セリフの部分を「“Aさんが○○と言った”というふうに書いてはいけません」という教育的措置の氾濫のことである。その禁止の理由にあるのは、そのような書き方は機械的に何も考えずにただ羅列していくことができる記述方法であるため、「マンガに対する生徒の理解度」が教育者に把握できない、ということだ。それを教育者が嫌うため、生徒は「AさんはBさんに感謝した」「AさんはBさんを非難した」のように書くことを余儀なくされる。しかしたとえば、こういった「感謝した」「非難した」というタイプの動詞を人間がどのように使えるようになるか、など現段階では学術的にも何も明らかになってはいない。にもかかわらず、マンガ作文を生徒に教えている指導者の多くは国語科教員と同程度の知識しかないため、このことが生徒に強いている「難しさ」を理解していない。国語教員にわかるのは「非」「謝」といった漢字が小学校低学年では習っていない難しい漢字である、ということだけだ。

工藤順一氏がこの「方法」を紹介した『国語のできる子どもを育てる』(1999,講談社)は、読んだことが無い人は読む必要など全く無い本である(資源のムダ・時間のムダ)。ただ、不幸にも読んだことのある読者もいると思うので、その方対象にあと一言二言書いておく。工藤氏はマンガ作文に関して「視覚的情報を文字の情報に翻訳する」(p17)という言い方で言及している。このようなタイプの言及が二箇所ほど散見される。なので、状況次第では工藤氏自身はマンガ作文をそのような課題だと説明することができる(しかし別の状況になれば全く別様に説明することもできるような、異なる見解も書かれている。要するにどうとでも言い逃れることも強弁することもできるように書かれている)。マンガ・マンガ作文の特徴を「視覚的情報」という点に見いだして、そしてその点をそれ以上全くつきつめていないことこそが諸悪の根源である。第一に「会話というものがもつ構造の理解」という点がまったく顧慮されない可能性を残すことがある。実際そうなった。そして、第二に、「そんなことを言ったら文字の本の文字だって視覚的情報だ」ということが言える時点で、「視覚的情報」という概念が無効化するということがある。実際その程度に無効化している。

あともう一点。工藤順一氏がマンガ作文を開始するにあたって、言語行為論の学術的知見をまったく顧慮しなかったことの証拠だけあげておく。『国語のできる子どもを育てる』では、(言語学の、だが)言語行為論は、高校生が学校制度とは別に学ぶべき学知として紹介しているのだ。p141には「また、英語圏での言語行為論、コンピュータにも絡んで厳密科学としての言語学なども学んでおくべきです。」とある。なので、工藤氏はマンガ作文の指導者に対して「言語行為論の知見を全く参照する必要がない」と宣言したも同然なのである。なぜならマンガ作文の紹介には言語行為論的な見方がまったく援用されないばかりか、あまつさえマンガを「視覚的情報」などと規定しているほどなのだからだ。また他方で、言語行為論を学ぶべき学知として挙げる際にも、マンガ作文との内容的に密接である関連について一言もふれていないからだ。要するに、工藤氏にとっては言語行為論は「高校生が学ぶ“だけ”のもの」であって、「マンガ作文に活用される知見」などではなかった、と言うか、そんなこと思いつきもしなかった、というものでしかないのである。その程度に工藤氏は知性が混濁した人物であり、その程度の混濁した意識で書かれた書籍でしかないのである。また、氏にとって学問とは所詮その程度の虚飾、人に見せるための単なるアクセサリーでしかないものだったのだ。

工藤順一という人物は逝去したが、不幸なことに、このマンガ作文は頑強に生き延びている。そのことを、筆者は個人的な知人の範囲だけでも複数見聞した。そのため、その葬送をもきちんとしておいてほしいがために、この文章を書くことにする。

マンガ作文の「指導者」に最低限必要な認識

マンガ作文の「指導者」に必要な認識は既発表のマンガ作文・テレビ作文における間接的言語行為のキモで、かなりわかりやすく披露したつもりだ。人間の発話は、発話内容の文意とは明らかに異なる内容を提示しうる、それがマンガ作文に最低限必要な認識の第一歩である。「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」という発話が感謝を常に意味するとは全く限らない。文字通りには感謝の文のようであるが、ほとんどの場合にはそうではない。ただし感謝の意を伝えるときに絶対に使えないか、というとそうとも限らない、…と、そういう認識が必要なのである。同様に、疑問文の発話が常に質問を意味するとは限らない。「ちょっとティッシュペーパー持ってる?」と言われて「はい、持ってます」と答える“だけ”の人物がいたら、たいていの場合、それは非常に気の利かない人だと思われることになるだろう。「ちょっとティッシュペーパー持ってる?」というのは、質問することが主目的の発話なのではなくて、ほとんどの場合依頼することが目的の発話なのであり、発話自体が依頼を意味していると言いうるほどなのである。だからこの場合、「はい、どうぞ」といってティッシュペーパーを貸与する可能性が強く期待されているケースがほとんどである。同様に、敬語を使った発話が常に敬意を意味するとは限らないし、命令文の発話が常に命令を意味するとも限らない(例「勝手にしなさい」等)。こういった「発話がその文の文意と明らかに異なる内容を含意している」ケースというものに少し鋭敏になることが、マンガ作文の「指導者」に最低限必要な態度となる。少なくとも、「Aさんは○○と言った」という書き方を生徒に禁止するのなら、そうだ。そしてその際に、言語行為論の議論や知見に「指導者」が慣れていることが、いくぶん有効だったりすることもある、というわけだ。

他に重要な点を述べる。二点めはこうだ。以前もどこかに書いたと思うが、マンガ等のフィクションのなかでの「セリフ」の中にはリアルの会話とは異なるタイプのものがある。それは、読者や視聴者に説明することを主目的としたセリフである。なので、これらのセリフは「AさんがBさんに言った」というふうな形をとらない。単に「Aさんが言った」なのである。かといってそれはそのフィクションの中で「ひとりごと」として成立している、というわけでもない。フィクションのなかで「ひとりごと」と規定されることなく、単に結果的にひとりごとに近いような発話になっているだけなのだ。これらと、通常のせりふとは異なる。通常のせりふは、せりふを差し出された相手というものが存在する。単に相手に聞かせることだけが目的のこともあれば、相手が応対する(話し手を見つめるなど)ことやさらには相手が応答することまでが目的に含まれていることもある。いずれにせよ、この種の通常の会話と同種のせりふの場合「Aさんが○○と言った」という形式にはならない。「AさんがMさんに聞こえるように○○と言った」であったり「AさんがMさんに○○と言って話しかけた」であったりする。なので、これらの様態の違い方をきちんと考察することが可能である。そうであるなら「Aさんが○○と言った」というふうにセリフをそのまま引き写す書き方が、マンガを理解していないから禁止する、というふうに否定する筋合いはないことになる。

「○○と言った」を禁止するような「指導者」は、「言った」に代わる動詞をたくさん生徒に教え済みの状態を事前準備しておく必要もあるだろう。その際に筆者は子供の語彙習得を俯瞰する程度の認識を「指導者」がもっていることは、当然視したい。また、マンガ作文という「方法」の意義のようなものがもしあるとすれば、それは先のページで云う「発文動詞」を理解し習得することの意義と、ほぼ同じものになるだろうとも思う。だから、そういう意義付けができないような者は、マンガ作文という「方法」をあまり偉そうに行なうべきではない。

いずれにせよ、次の点を確認しておきたい。マンガ作文というのは、会話というものの描写がその根幹の一つである。だから会話というものに生徒がある程度通じている必要がある。だからつまり、他人との会話というものがまだじゅうぶんに達成できないという者が、マンガ作文の生徒になってもまず「教育効果」は期待できない。それは、サッカーをしたことが無い者に、サッカーの試合を見させて実況中継させるようなものだ。そこには「自分がやる側に立ったとき」の理解は伴わない。では、会話というものに生徒がある程度習熟してくるような段階というものがあるのか。それは筆者にはよくわかならない。多かれ少なかれ子どもの暮らす環境は子供向きに設定されている。子どもがおとなとの会話ができるというのは、おとなが子どもに合わせている度合いが強いだけかもしれない。またその一方で、子どもとの会話というものを好まないおとなが子どもの暮らす環境に多い場合もある。この場合、命令などの一方的な発話に対応させられるだけで、基本的に自分からは話さないという子どもになるかもしれない。子どもの暮らすコミュニケーション環境はさまざまである。その差異をくつがえすような力が、マンガ作文という「教育方法」にあるのか、と言えば、その答は「無い」となるに違いない。

補足1:複文に関して

なお、マンガ作文を書くためには名詞節などを使った複文が構築できる必要もあるだろう。そのために、名詞節をはじめとする日本語文法の理解がどのように教育されれば良いのか、という問題意識もありうるわけだ。が、そのような問題意識もマンガ作文を推進している側が特にもっているということは、なさそうである。他方、公教育も日本語文法の習得は放棄しているので、この問題も小さくはない。有識者のリアクションが待たれるところだ。

補足2:飯野勝己氏の著書の問題点:『言語行為と発話解釈―コミュニケーションの哲学に向けて』

言語行為論を理解しようと思って飯野勝己『言語行為と発話解釈―コミュニケーションの哲学に向けて』(2007,勁草書房)を手に取る奇特なかたがいるかどうかわからないが、念のためこの書の議論に発見した「不備」を一つだけごく簡単に指摘だけしておく。

前半で、コピーをとってくれと上司に言われて無言でコピーをとるという社員という事例が挙げられた。この場合にも、上司は不満であろう、なぜなら、コミュニケーションにどう対応するかという意図もまた、上司はもっているからである、というわけだ。要求だけが満たされれば良いのではなく、発話それ自体にも対応してもらいたい、ということになる。より一般的に言って、たいがいの発話というものは、発話内容とは独立に、発話それ自体への対応というものも多少は期待されているものだ。だがその考慮が、後半の議論の総まとめの段階には消失していた。したがって、発話解釈のプロセスには、「この発話自体にどう対応するか」という選択肢がまず必要になる、と言えるのだ。ただし、この観点を忘却したままでも、行為の記述にはあまり影響がない。たとえば依頼なのか命令なのかの違いにはそれほど影響しない。