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『ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集[小学生版ベーシック] 』(福嶋隆史,2017,大和出版)の最初の章「パートI 言いかえる力」を一瞥してみたら、誤りが散見された。その誤りは、もし或る程度賢い子供であれば、それに気づいてしまい却って混乱させるに足るだろうものであった。だが、この著者の著作の評判は悪くない。つまり誤りを指摘されている形跡は見られない。なので、手遅れかもしれないがこの著作の誤りを簡単に指摘しておこうと考えた。今回、あまり周到な論を組み立てている時間が無さそうなのだ。
抽象だの具体だのという問題に関して私がすでに書いたものは以下なので、あらかじめ参照しておいてもらうと良い。「00年代の国語力革命は評価語ばかりのずさんな掛け声で動いていた」・「半側評価語の見分け方とその意義」。ただし、ふくしま式には独自の問題点が在り、これらの立論だけでは不足である。福嶋の著作に特化した対策がどうしても必要である。
福嶋はパート1の扉から「抽象化→つまり」/「具体化→たとえば」であるかのように記載し、次ページからの演習問題もその定式化の中に在る。このことによって、著者福嶋は実は問題を抱え込んでしまったのだ。それは「つまり」が多義的であることによる。接続語の問題は接続語が主題的に扱われている書を参照するのが良い。そこで野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書,2006)を参照すると、次のようだ。「つまり」という接続表現を含むグループは「解説」というグループに含まれ、それは少なくとも次の三つのはたらきをもつようだ。
- 要約:それまで述べてきたことをまとめて述べる。
- 敷衍:まず、大づかみに示しておき、それからその内容を詳述する。
- 換言:理解を助けるために表現を変えて説明したり、より印象的な表現に言い換える。
最初の二つを見てほしい。「要約」と「詳述」とではほとんど正反対である。そのどちらをも同じ「つまり」等の表現はできてしまうのである。それ自体はそれで良い。問題は、この「つまり」という語が行なう言語操作を「抽象化」と福嶋が呼んだことだ。では、と思って中身を見てみると、確かに、「要約」の「つまり」も「詳述」の「つまり」も在るわ在るわ、である。「詳述」の「つまり」はたとえばp17などがそうだと見なしうる。福嶋はこの件に関して『論理トレーニング』と共通するような扱いをしたが、しかしただひとつ同様に振舞わなかったのが、そこに「抽象化」という名前をつけて主題化したことなのである。国語教師の典型ではあるだろう。しかし、「要約」も「詳述」もどちらも「抽象化」であると言われたところで、生徒は混乱するに決まっている。まとめよう、福嶋は「抽象化」ということを述べるときに「つまり」という接続表現と一体のものとして、教材として提示した。そのことはいろいろな困難を抱えることになるが、そのことに気付いていなかった。これがこの教材の抱える問題その1である。
ちなみに「たとえば」であるが、『論理トレーニング』では次のように述べられている。
例示は、典型的には「たとえば」で表わされる接続関係であり、具体例による解説ないし根拠づけとしての役割をもつ。具体例による解説なのか根拠づけなのかは一般に明確ではなく、むしろ、解説と根拠の中間的な、あるいは両方にまたがる位置にあると考えられる。
この述べ方からもわかるように「つまり」と「たとえば」とは対立項であるとは言い切れない。「要約のつまり」と「たとえば」ならそうも言えるかもしれないが、「敷衍のつまり」と「たとえば」ならむしろ同じ方向性の記述だと言えるだろう。ともあれ、「つまり」が「要約」のみに特化した使い方ができない以上、「つまり」と「たとえば」とは「正反対」「二項対立」などといった関係に在るとは断定できないものになったのである。この福嶋の教材が、「抽象化→つまり」/「具体化→たとえば」と定式化し、その二つを逆向きの言語操作であるかのように図示したことからしても、この点に気付いていないのだろう。「みかん、リンゴ、バナナ、つまり果物」という言い方も可能なら、「果物、つまり、みかん、リンゴ、バナナ」という言い方も決してできないわけではない、ただ「たとえば」のほうが良いから通常そう表現している、ということなのである。
「具体化(比喩)」という書き方を福嶋はしている。しかし、これは、「抽象」という語を辞典・事典で調べたことの在る者からすれば意想外のものである。たとえば「ふわふわしてやわらかそうな雲」を「わたがしのような雲」と換言することを考えてみよう。福嶋にとってはこれは「具体化」なのだそうだ。だが「コトバンク:抽象」の諸定義をみればわかるように、むしろ「わたがしのような」という性質を抽出している、「抽象化」のように見えてくるはずだ。比喩というのは、もし分類したいのならむしろ「抽象化」と言ったほうが良いものなのだ。
なぜ、このような不具合が起こるのだろうか。その答はわりと簡単だと思う。「抽象化/具体化」という言語操作と、「抽象的/具体的」という特徴付けとを、並行的・同一的に見なすことによるものなのだ。「抽象的/具体的」ともなると、ほとんど「哲学用語」などでもなく、むしろ日常的に頻繁に使われる語彙になる。その用法は日常に根ざしたものが強硬である。速い話「わかりにくい→抽象的/わかりやすい→具体的」に近接してくるのである。これでいけば、「わたがしのような」という比喩は「具体的」ではあろう。だが、それは「具体化」という操作を経たものではない。
著者の福嶋自身がこの日常的な用法から自由ではない。「わからないときはくりかえし立ち返る」ページと規定しているp9によれば、
- 具体的……絵にかきやすい(絵が浮かんでくる)様子。
- 抽象的……絵にかきづらい(絵があまり浮かんでこない)様子。
と記載しているからだ。この定式化が「具体化(比喩)」の原因になっているだろう。だが、この「的」の性質規定は、やるからには徹底しなくてはならないものであり、おざなりのものであることは許されない。たとえば「果物」が絵に描きづらいなんてことはないことは明らかである。果物屋の中の風景を描けば良いからだ。都合の良いときだけこの定式を持ち出してくるのが、この教材の要修正の点なのである。
具体的・抽象的の立ち返るべき規定が徹底していないのは、この規定では解けない出題があることからもわかる。「パート9 仲間はずれをさがそう2」のページにその種の設問がやや目立った。まず、p26の1ー3。「ア 友だちとの関係が濃くなった。」「イ 友だちとの関係が深まった。」「ウ 成功の喜びを友だちを分かち合えた。」「エ 気持ちが友だちと近づいた。」の中から「抽象度」という点での仲間はずれを選択せよ、という設問である。だが、ここで絵に描きやすいかどうか、という点で考えてほしい。「仲間はずれ」など無いだろう、つまりどれも絵にかきやすさは同程度だろう、ということになるのだ。絵の描きやすさだけではない。「喜びを分かち合う」というのは、「関係が深まる」と比べて特に「抽象度」が違っていたりはしない、と私は感じる。少なくとも誰もが抽象度が異なっていると感じるわけではない。もし「喜びを分かち合う」のほうが「具体的」であると感じる人がいるとしても、「それは人それぞれでしかない」と私なら答える。同じようなことが隣のページの2-5にも言える。だが、こういうタイプの出題は「おとな」であれば出題者の意図を忖度して「正解」を「当てる」こともできる。賢い子供もそうしているだろう。だが、これは出題者の意図を忖度しているだけであって、それ以上のものではない。
p38にも、奇妙な操作を強いる出題がみられた。「ピアノをひいた。」の「ピアノ」と「ひいた」とを「抽象化」せよという例題なのだが、「ピアノ」が「楽器」となるのはまあいいとして、「ひいた」が「演奏した」になるというのは、いかにも奇妙である。だって「ピアノをひいた。」と「ピアノを演奏した。」とで「抽象度」は異なっているだろうか。「いない」と私なら感じる。そして出題としては少し不格好になっても「ピアノの鍵盤をたたいた(又は押した)」などを「抽象度の低い側」の例文として持ち出すだろう。要するに「身体動作」で表現するべきである。それが無理ならこの方向での出題自体を止めたほうが良い。
言語哲学における「使用」と「言及」という概念対である。この点に関しては丹治信春『クワイン ―ホーリズムの哲学』(講談社、1997;または平凡社、2009)が筆者の知るすべてである。講談社のほうのページ番号で言えば、p18-22の箇所である。この説明にしたがえば、「富士山は日本一高い山である。」という文においては「“富士山”という単語」は「使用」されている、と規定できるのに対して、「“富士山”は漢字三文字からなる。」という文の場合は、「“富士山”という単語」は「言及」されている、というわけだ。この二つを混同すると、誤謬推理ができてしまうので気をつけたいところだ。
ところがふくしま式のこのパート1の19においては、この混同に注意深くない出題がなされている。賢い生徒ならすぐに気づくだろう。そして「これは今までのものとは違う」と感じることだろう。今までのものは「使用」の水準で行なわれていた。それがこのコーナーだけは「言及」の水準で行なわれている。「トラベル」を抽象化すると「外来語」になるとか、「速度」を抽象化すると「漢語」になる、というのは、「言及」の水準によるものである。ならば、「みかん」を抽象化するときに「和語」とかやってもよいことになる。しかしこれは今までこの教材で行なってきたこととは明らかに異なる水準の話だ。
「りんご・みかん・バナナ」と「果物」という語の関係を、哲学ならば「個別・個別概念/一般・一般概念」というふうに呼ぶことが多いと思う。言語学ならば「下位カテゴリー(下位語)/上位カテゴリー(上位語)」などと呼ぶことが多いと思う。この場合、結局は専門家のやるようにやっておくほうが、「安全」なのだ。そう私は思う。だが、国語教師はほんとうにふしぎなことに「具体/抽象」のほうを好む。そして一貫性や妥当性を欠いたカリキュラムを作ってしまう。また、それ一つで何でも切れる万能ナイフのような道具に仕立て上げようとする。だがそういうことは止めたほうが良い。それがこのふくしま式の教訓だろう。
ふくしま式やそれに類似した認識に基づく教材・教育ですでに「学習」してしまった人も少なくない。なので、これが「正解ではない」と言われても全く納得しない人もいることだろう。のみならずそういう人が国語に限らず教師をやっていることもあるだろう。というか、たぶん国語教育はずっとそうやって来ているのだ。だから、国語という教科の中に、このふくしま式を不適切な内容だと見なす見方が存在しない。それを学習した教師もそうは見なさない。そして、くどいようだが、哲学や言語学を専攻した専門家は国語科の教員にはなれない。そういうことも影響していよう。
あわててふくしま式を読み、あわてて書いた文章である。なので、いろいろと不備もあろう。良い所に全くふれないのもフェアではないかもしれない。ただともかく、こういう指摘が世の中に出回っていないのはいかにもまずい。なので、とりあえずあわてて書いた。少しでも世の中に広まって議論を喚起してほしい。