二段階選抜社会だから求められる「青少年の、文章を書く力」:音声の言語と文字の言語

「補論“コボちゃん作文”など止めてしまえ」に少し追記した。(2019.10.14)

日本の学歴社会の重要な特徴の一つに「二段階選抜」という事項が挙げられるだろう。たとえば国立大学は長いこと、「一次試験で受験生を絞り込み、二次試験で学力を本格的に検査し選別する」という二段階選抜を行なってきた。だが、このような表向きの二段階制にとどまらず、実質的にもさまざまな次元での「二段階選抜方式」は散見される。たとえば、時代が就職氷河期に移行する頃から、「一次試験で(志願者には知らせないであらかじめ)高偏差値大学の学生に志願者を絞り込んでおいて、二次試験(受験者からすると一次試験)でコミュニケーション能力や積極性を検査し選別する」といった方式で大企業は入社志望者を選択してきた。その結果として、たとえば「学力を向上させるための勉学で必死のあまり、コミュニケーション能力や対人積極性が未発達のまま来てしまった者」が割を食って失職したり精神を病むなどの「被害」も出たりもした。また、こういう企業の代表者などが「知識だけあってもダメ。コミュニケーション能力や積極性もないとわが社ではやっていけません」というふうに述べるのを、自身が高卒である保護者が聞いて「そうよね、学力だけあってもダメで、やっぱり人間性も大事」と共感して子育てするときにも「被害」が生じている、と言える。というのも、大企業は「学力も大事かつ人間性も大事」も実質的には捉えているのに対して、この高卒の保護者は「学力<人間性」というふうに不等号的に捉えていて、そのような姿勢で子育てをすること間違いなしだからだ。つまり学歴取得をめぐる競争からわざわざ自発的に「降りて」くれること間違いなしだからだ。

これ以外にも「二段階選抜」によって一定の影響を蒙ってきていた側面がある、と言いたいのだ。以下二つの側面について述べる。

「入学試験は文字で行ない、入学後の授業は音声で行なう、という二段階選抜」

日本の学歴社会の、比較的隠れた二段階選抜の方式に「日本語での授業は音声の聴き取りで行なうことがわかっているのに、入学試験での日本語力のチェックは文字の読み取りで行なう」というものがある。授業では「聴き取り」能力が重要なのに、その音声での授業に、ついていけるかどうかを検査するためと称して行なう入学試験は文字の「読み」で検査する、というわけだ。これはれっきとした二段階選抜である。ここで割りを食うのが「文字の読解は得意だが、音声の聴解は不得手」という者だ。

というか事実を直視するなら、「文字の読解はできるが音声の聴解は不得手という生徒・学生」が居る、というふうに捉えるのと同じくらいに「文字での執筆はできるが音声での講義は不得手(しかし自覚無し)という教師」が居る、というふうにも捉えたほうが良い。つまり「音声での講義がちゃんと聴き取られない」というときに、その責任が聴き取る側に属するのか、それとも話す側に属するのか、は判定が難しいが、しかし実際にはその結果(成績が悪いなど)を引き受けさせられるのは聴き取る側のほうなのである。そして、音声の聴解が不得手のため不成績である者は、単に蔑視されたり、あるいは別の原因によるものだと誤解されたりして、今まで処理されてきたことが多いだろう。

この件に関しては、他のページで何度も何度も書いているので、「見逃されてきた日本語講義の聴解の困難」などを参照して欲しい。

この事態は、欧米語にも共通する要因も含まれはするものの、どちらかと言えば日本語固有の要因によって生起させられている。少なくとも「多数の同音異義語の存在」と「述部が一文の最後まで判明しない問題」は欧米語にはほとんど無関係であり、日本語で際立つ問題なのだ。

そして困ったことに、「同音異義語」の聴き取り問題に限って言えば、この「文字の試験で選抜した相手に対して、音声で講義をする」という対処にも、理がかなりあるということだ。というのも、同音異義語というのは「文字で読めても音声だと判別できない」者は居ても、「文字では読めないが、しかし音声ならば判別できる」という者は論理的に居えないからだ。そのため、「文字での選抜が先行する」という順序自体は正当である、という結論になるのである。

参考までに、この二段階選抜を可視化してみる。その題材として筒井康隆『大いなる助走』(1977)の一部の箇所を用いてみる。文春文庫版だとp105-106の「牛膝」のセリフの一部である。「音声で行なわれる講義を聴き取って理解する」というのは、次のような変換が即時にできることと、大まかに言えば、等価である。

次のような、音声での講義が行なわれたとする。

そもそもしょおせつおかく とゆうのわじぶんいがいのたにんによませるためにかくのであって そおでないのならかくひつよおわありませんね じぶんひとりのためにかくのならにっきでいいことでなにもしょおせつとゆうけえしきにするひつよおわない しょおせつとゆう じぶんいがいのたにんにとってにっきいじょおにわかりやすいけえしきでかいたとゆうそのことがすでに たにんによんでほしいとゆうがんぼおのあらわれなのですからこのてんでぎろんのよちわないとおもうんです そのしょおこにかんけつしたしょおせつのげんこおおそのままだれにもみせず じぶんひとりでばかみたいにかかえこんでいるひとわあまりいません いてもそれわはっぴょおするきかいがないか いずれかきあらためよおとしているかのどちらかであって ときおりとりだしてじぶんひとりでよみかえしてないたりわらったりかんどおしたりして それでまんぞくしているきちがいみたいなひとわいません はっぴょおするにわみじゅくではずかしいからとゆう げんだいでわかずすくないそおいったおくゆかしいひとでさえ ちじんのだれかにわよんでもらっているはずです したがってさっきおっしゃったよおな じぶんのせかいのかくりつとかじぶんとのたたかいとか またわかくことがすなわちいきることだといったよおなものわしょおせつをかくどおきとしてわすべて たにんによませたいとゆうどおきにつぐにじてきなものです それらわみなどくしゃがそんざいするとゆうぜんてえじょおけんによってせえりつするどおきだからです しょおせつおかくいじょおあくまでどくしゃがいちばんじゅうよおなもんだいであって さくしゃいぜんにどくしゃがそんざいするといっていいくらいです とおぜん さくしゃがどくしゃおえらぶのでわなく どくしゃがさくしゃおえらぶのです おれわどくしゃおえらぶなどとゆうさくしゃがいますがなんせんすです そのどくしゃわえらばれたのでわなくあべこべにさくしゃおえらんだのです ゆうしゅうなひとにぎりのどくしゃでまんぞくだとか すうにんのあるいわたったひとりのどくしゃのためにかくのだ などとゆうことばもなんせんすで これわそのさくしゃおえらんだのがすうにんのあるいわひとりのどくしゃにすぎなかったとゆうことにすぎません そのどくしゃたちがほんとおにすべてゆうしゅうであるかどおか これだってじぶんのどくしゃわすべてゆうしゅうだとおもいこみたいさくしゃのよまいごとで さくしゃにそんなことがわかるはずわなく もともとさくしゃにわかんけえのないことで どくしゃがたまたまゆうしゅうであろおがてえれつであろおがそのどっちでもなかろおが さくしゃにわもんくわいえないのです

これ(「牛膝音声」と仮に名づける)を次(「牛膝文字」と仮に名づける)のように即座にその場で変換できることが、「音声での講義を理解する」ことの中核にある。

「そもそも小説を書く、というのは自分以外の他人に読ませる為に書くのであって、そうでないのなら書く必要はありませんね。自分ひとりの為に書くのなら日記でいいことで何も小説という形式にする必要はない。小説という、自分以外の他人にとって日記以上にわかりやすい形式で書いたというそのことがすでに、他人に読んでほしいという願望のあらわれなのですからこの点で議論の余地はないと思うんです。その証拠に完結した小説の原稿をそのまま誰にも見せず、自分ひとりで馬鹿みたいにかかえこんでいる人はあまりいません。いてもそれは発表する機会がないか、いずれ書き改めようとしているかのどちらかであって、時おり取り出して自分ひとりで読み返して泣いたり笑ったり感動したりして、それで満足している気ちがいみたいな人はいません。発表するには未熟で恥かしいからという、現代では数少いそういった奥床しい人でさえ、知人の誰かには読んでもらっている筈です。したがってさっきおっしゃったような、自分の世界の確立とか自分との戦いとか、または書くことが即ち生きることだといったようなものは小説を書く動機としてはすべて、他人に読ませたいという動機に次ぐ二次的なものです。それらはみな読者が存在するという前提条件によって成立する動機だからです。小説を書く以上あくまで読者がいちばん重要な問題であって、作者以前に読者が存在するといっていいくらいです。当然、作者が読者を選ぶのではなく、読者が作者を選ぶのです。おれは読者を選ぶなどという作者がいますがナンセンスです。その読者は選ばれたのではなくあべこべに作者を選んだのです。優秀なひとにぎりの読者で満足だとか、数人のあるいはたった一人の読者の為に書くのだ、などということばもナンセンスで、これはその作者を選んだのが数人のあるいは一人の読者に過ぎなかったということに過ぎません。その読者たちが本当にすべて優秀であるかどうか、これだって自分の読者はすべて優秀だと思いこみたい作者の世迷いごとで、作者にそんなことがわかる筈はなく、もともと作者には関係のないことで、読者がたまたま優秀であろうが低劣であろうがそのどっちでもなかろうが、作者には文句は言えないのです。(以下略)」

もちろん、「本物の音声での講義」には「声の強弱や表情、高低や速度」といった情報が伴うので、上記のようなひらがなの羅列よりは情報量が豊富である、と言いうる面もある。しかしそれは講義での「発音」「発声」が相当に明晰であった場合の話であり、実際には「教師の発音が悪いので、今“ぎもん”と言ったのかそれとも“いろん”と言ったのか、識別できなかった」ということも起こりうる。大いに、そして頻繁に起こりうると言いたいところだ。なので、反対に上記のような「すべてひらがなで記載した」講義録ですら実際の講義での音声よりも情報量が豊富で親切である、と言いうる面もある。平均すれば「差し引きゼロ」であると言えるのではないだろうか。

またこれももちろんのことだが、日本語でも欧米語でも共通である要因によって音声での講義の聞き取りが困難になる側面も多々ある。その側面とは、音声には「段落」「改行」「句読点」「括弧」などといった要素が無いため、音声での「談話の構造」が文字の読み取りに比較して著しく困難になる、というものだ。この点は、音声であれば成立する分かりにくさなので、講義に限らず、日常会話や会議・対談などでも同様である。たとえば文字だと「lx-{m(a-b)/n+pc/m}(d-ey)」などといった「談話の構造」を読み取ることが、比較的容易にできるが、他方、音声で同じ構造・内容を正確に聴き取ってノートにとることは大変に困難である。括弧の箇所が、教師の発音が悪くてよく聞き取れなかったり、どこまでがaでどこからがbなのかがはっきり聞き取れないなど、実に頻繁に起こっている現象であろう。なので、文字の読み取りに比較すると「(A説に対する学者Mの批判およびB説に対する学者Mの批判に対する学者Nの反論)は私は正しいと思い、また、(C説に対する学者Oの批判に対する学者pの反論が誤っているという、その誤りが生じた原因とD説に対する学者qの批判が誤っているというその誤りが生じた原因と)に共通する事情があると私は考えるが、その事情を私が考慮することによって、今回の新説E説を唱えることとなったが、特にここで強調しておきたいのは、この新説の意義は、(C説に対する学者Oの批判とB説に対する学者Mの批判に対する学者Nの反論)とに共通して看取される構造と完全に同形であることであり、ここが私の学者としての手柄であるのだよ君たち、おっほん」といった「談話の構造」を音声で聞き取ってノートにとることは大変に困難である。ただしこれは欧米語にも共通に存在する要因なので、今回のこの文章では重視しないことにする。

ともかく、入学試験は「牛膝文字」のような文字列の読み取りだけで行なわれるにもかかわらず、それで選抜された者には、「牛膝音声」→「牛膝文字」の変換能力こそが入学後の授業で常に要求されることになる。このような二段階選抜を行なっていることが、日本の学歴社会の裏の大きな一面なのである。

そしてこのような、比較的隠れた二段階選抜は、いっけん全然異なる問題と「同じ形」をした問題であると言ってよいのだ。それは「大学生や小学生がちゃんとした文章を書けない」問題である。これもまた別種の二段階選抜の一側面なのだ。そのことを次に述べる。

「授業は音声の聴き取りで行ない、レポートや試験は文字の筆記で行なう、という二段階選抜」という見方が通常あまりされない事情

今しがた述べたように、「文字を読み取る」ことよりも「音声を聴き取る」ことのほうが日本語に限って言えば、明らかに高度なスキルである。欧米語なら、音声での講義を聴き取ることのできる者が、文字で書かれた同内容の文章を読めるとは限らない。文字が読めないだけで音声でのやり取りはできるという者が必ず一定数いるからだ。だが、その事態は日本語では成立しない。だから日本語の講義を聴き取ることの充分できるという者は、文字で書かれた同内容の文章はより容易に読み取ることが必ずできるのである。だが、これは「聴き取り」や「読み取り」といった「受信型」の能力に関してである。そうではない「発信型」の能力である「話す能力」や「書く能力」に関しては、同じ関係が成立するとは、決して言い切れない。それどころかそこには、別の種類の「二段階選抜」が成立する余地があるのだ。ただそのような見方は通常されない。まずその点を述べる。

レポートや試験での文章の書き方というのは、マナーや形式・格式に小うるさいと思って良いだろう。書店に行けば大学生用の「レポートや論文の書き方」本がたくさん売っているのも、一つにはそれが「まずマナーや格式にうるさい」課題だからである。何よりもまず学術論文がおおむねマナーや形式・格式にうるさいのであり、そのことがレポート課題にも波及しているのだ。そしてその「マナーにうるさい」という点がさらに、大学生の課題だけでなく、入学試験での答案の書き方にまで及んできていて、それもあって、高校生以下の学齢にある者ですらも従うべき規範になりうるわけだ。

レポートや試験答案などの書き方の一大特徴というのは、「もし他の要素を付け加えること無く、それだけを全文、音声で人前で発音し続ける者がいたならば、他の者には異常者や不審者としか受け取ることができない。そのくらいに異様な聞こえ方になる」というものだ。つまり、「レポートの書き方というルールに忠実に従った文章」が忠実に音声化されて身近で見聞される、ということはまず絶対にないのだ。たとえば次(これを「牛膝文書」と仮に名づける)のようになる。

そもそも「小説を書く」というのは自分以外の他人に読ませるために書くのであって、そうでないのなら書く必要はない。自分ひとりのために書くのなら日記であれば良いのであり、何も小説という形式にする必要はない。小説という、自分以外の他人にとって日記以上にわかりやすい形式で書いたというそのことがすでに、他人に読んでほしいという願望のあらわれなのだから、この点で議論の余地はないと思う。その証拠に、完結した小説の原稿をそのまま誰にも見せず、自分ひとりで馬鹿みたいにかかえこんでいる人はあまりいない。もしいてもそれは発表する機会がないか、またはいずれ書き改めようとしているかのどちらかである。時おり取り出して自分ひとりで読み返して、泣いたり笑ったり感動したりして、それで満足している気ちがいみたいな人はいない。発表するには未熟で恥かしいからという、現代では数少ないそういった奥床しい人でさえ、知人の誰かには読んでもらっているはずである。したがって、「自分の世界の確立」とか「自分との戦い」とか、または「書くことが即ち生きることだ」といった、一部の読者が以前述べたようなものは、小説を書く動機としてはすべて「他人に読ませたい」という動機に次ぐ二次的なものである。それらは皆、読者が存在するという前提条件によって成立する動機だからだ。小説を書く以上、読者があくまでいちばん重要な問題なのであり、作者以前に読者が存在するといって良いほどである。そして当然、作者が読者を選ぶのではなく、反対に、読者が作者を選ぶのである。「俺は読者を選ぶ」などという作者がいるが、それはナンセンスである。その読者は、選ばれたのではなくあべこべに作者を選んだのだ。同様に「優秀なひとにぎりの読者で満足だ」とか「数人のあるいはたった一人の読者のために書くのだ」などということばもナンセンスであり、これはその作者を選んだのが数人のあるいは一人の読者に過ぎなかったということでしかない。次に、その読者たちが本当にすべて優秀であるかどうか、という問題である。これにしても自分の読者はすべて優秀だと思いこみたい作者の世迷い言なのだ。そんなことが作者にわかるはずはなく、もともと作者には関係のないことである。読者がたまたま優秀であろうが低劣であろうがそのどちらでもなかろうが、その点に作者は文句を言えないのである。

これを音読してみればわかるように、レポートや試験の答案で用いることのできる文体は、「そのままの形の音声」としては周囲に存在していないのである。つまり、「音声での講義」をしっかり聴いたとしても、その聴覚体験をそっくり再現するような形で試験やレポートといった課題を遂行することはできない。そこでは、「レポートや試験で許容される文体」への変換が求められるのである。つまり上記の例を用いれば、「「牛膝文字」→「牛膝文書」」の変換である。

とは言え、この変換能力をそのまま「二段階選抜」の二段階目と呼び、かつ、位置づけることには賛意があまり得られないだろう。というのは、「音声の講義」で使われているような文体と「レポートや答案」で使うことが望まれる文体は、そこまでかけ離れているわけではまったく無いからだ。こういうことだ。音声での日本語というのは、喩えて言えば「絵画を額縁に収めたもの」というのに近い、その一方でレポートや答案で用いることが要求されている日本語というのは「額縁なしの絵画だけが転がっているもの」に近い、…と、そのように思えるからだ。要するにこの例でいう「額縁」に匹敵するような言語的要素を除去さえすれば、音声での講義を「お手本」として、その聴覚体験を基にしてレポートや試験答案を書くことも可能だろう、その除去操作はそんなに難事でもあるまい、と思えるのだ。

「レポートや答案」で使うことが望まれる文体というのは、積極的に存在するあり方ではない、と言ったほうが良い。そうではなく「レポートや答案で使うことのできない文体」を頻発しているケースを除外したり、「レポートや答案で使うことのできない文体」の特徴をそぎ落としていくことで得られる消極的にしか規定できない存在であり、言わば「最大公約数的な言語形態」に近い。だから先の「牛膝文書」に見られるような文字列を音声に置き換えたものが、現実に周囲に存在しないと言ったが、それは言わば「額縁抜きで転がっている絵画」が存在していない、という意味であって、「絵画抜きの額縁」ばかりが周囲に存在している、という意味でではない。「牛膝文書」の中からどれか任意の一文を抜き出して、それと同等の音声が存在していないか、と言えばそんなことは無いのだ。ただ音声の形で現実に存在しているときは、そこには何らかの「額縁」すなわち、音声の形で存在しているときに特有の文体や文章が必ず付随・補足されるに違いない、ということなのだ。

論文・レポート・筆記試験の答案で用いることを要求されている文体に関して、「それはマナーやルールの次元の問題である」と捉えている人は多いと思う。実際、それを「従うべきルールや、配慮すべきマナー」として述べている大学生向けの書籍は少なくない。この立場の者にとっては、ここには「二段階選抜」は存在しない。単なるマナーやルールの問題なのだから、守ることも破ることも能力的には可能なのだ。だからつまり、大学での講義を理解しあるいは咀嚼できているかどうかの評価のために、文字での筆記試験やレポートを行なうことは問題視されない。音声で聞き取って理解できることと、文字でその成果を表現することとは、別の事柄とは見なされていないのである。というのも、音声で聞き取ったものから、「音声での言語に固有の要素」をそぎ落としてさえいけば、おおむね良いからだ。そこに高度な能力など要らない、というわけだ。

そのタイプの考えに該当しそうな事例をたまたま一つ見つけたので、以下に引用して示しておく。石原千秋『大学生の論文執筆法』(2006,筑摩書房)(amazon)のp36「話し言葉と書き言葉は違う」より。マナーやルールやそれに近い語彙は一切使っていないが、しかし実質的にはこれはマナーやルールとして述べているのだと筆者は解する。

レポートに「やっぱ」とか「いまいち」などと書く学生が多い。そういう学生には話し言葉と書き言葉は違うものだと教えなければならない。言文一致などというから誤解する学生もいるが、話すように書いたら読みにくい。大学のレポートでは、「やっぱり」ではなく「やはり」、「いまいち」ではなく「いまひとつ」、「ぶっちゃけ」ではなく「率直に言えば」などと書かなければならない。

ただし、この本は「論文執筆法という論文」ではなく「論文執筆法という単なる書籍」なので、この本自身は論文やレポートのルールやマナーを守る必要は無い。なので、次のような話すように書いた箇所も平気で存在する。p55。

ちょっと待って!「はるかに高いことが分かった」という大雑把な結論を出すために、「両方ない人の危険度を一とし」てみたわけ?たしかにその後に何倍危険かが示してあるから、「一とした」こと自体はおかしくないのだが、この文章はおかしい。これは「両方ない人の危険度よりも、食道がんになる危険度がはるかに高いことが分かった」とでもあるべきものだろう。

こんな古いものまで取ってあるなんて、僕は性格が悪いなぁ。それに、ずいぶん熱心に新聞を読んでいるものだ。自分でも感心するほかない。

「論文執筆法という本」でも、またおそらく石原の、実際の音声での講義でも、「レポートや論文や答案でのルールやマナー」の見本がきっちりと体現されてはいないわけだが、でもそれでいいのだ、ということになる。というのも、こういう本を読む者も、石原の講義を受講する者も、言わば「能力」の点で問題を抱えている者は居ないからである。だから石原の受講生のうちレポートのマナーが守られていない者というのは、単に従いたくないから従っていないのに過ぎないのであり、「能力の問題」ではないのだ。…と、そのように言えるだろう。

「授業は音声の聴き取りで行ない、レポートや試験は文字の筆記で行なう、という二段階選抜」という見方も可能である

ところが、それとは別に、論文・レポート・筆記試験の答案で用いることを要求されている文体に関して、それを「マナーやルールの問題」とシンプルに捉えていない人もいる。その場合、「能力の問題」と捉えられているようである。そこでは「レポートや筆記試験の答案を、音声を話すように書いてしまう能力の低い者」という見方が存在する。戸田山和久や石原千秋の「論文の書き方」関連書籍では問題設定の中心をあまり占めていない見方である。

次の論文「短大生の記述力に関する考察」ではそれを「能力の問題」と捉えていると明示されていないし、この著者古田自身はそうではないかもしれない。だがこの論文を読んだ者の中になら、「能力の問題」と見なす者が出てくるだろう。というのは、この論文の表5「年度別の“被服学”答案に見られる誤り例」の中には、「能力の問題」とあきらかに思える「漢字の誤りや不使用」というケースと同列・並列になるように「話しことばの使用例」という項目も列挙されているからである。つまり「音声を話すようにレポートや答案を書いてしまう」ことは「漢字を間違えたりひらがなばかりで書いてしまう」ことと「同列」「同根」であるかもしれない、というわけだ。古田貴美子 「短大生の記述力に関する考察 -「被服学」の試験答案にみられる変化-」)。

ここである種の人が想定しがちな「能力の問題」というのは主に「堅い本や文字のメディアを読んだ経験から来る能力」のことだろう。「堅い本」の中には、レポートや答案で使うことが許されていない「話すようなときの言葉遣い」も無論登場しうるが、同時にレポートや答案で使うことが推奨されているような「儀礼的な文字文章での言葉遣い」もまた登場しうるからである。だから「堅い本や文字のメディア」に接している度合いが高い者になら、両方に接しているのだから文体の選択は自由自在である。それに対して、「堅い本や文字のメディア」に接している度合いが低く、同年代の者と音声での会話ばかりしている者は、「文体の切り替え」をするだけの文字経験が少ないため、その能力が低い、…というわけだ。そして、「文体の切り替え能力」の低さと「漢字を書く能力」の低さとが、同時に発現しているのだ、…というわけだ。

ここでの「漢字の能力」というのは、漢字を正しく読み取ることができるか否か、ではない。それだったら、音声での講義も理解できない箇所だらけになって、短大を中途退学するであろう。そうではなく、「読んだり聞いたりすることはできるけれど、手書きで漢字を正確に書く能力は不足している」というものである。あるいは「“補足”と“捕捉”の区別はちょっと自信ない」とかそのくらいのものである(これ以上漢字レベルがひどかったら音声での大学の講義は、それどころかテレ朝の「戦隊シリーズ」ですら、ほとんど聴き取れないはずだ)。ちょうどこのくらいの能力の者も当然多いだろう。筆者自身も手書きでなど漢字を書いていないから、それと大して変わらないくらいかも知れない。ともかく、音声の聴き取りには支障が無いが、自分からは文字中心のメディアにはアクセスしないし、その一方で友達とはおしゃべりすることは大好き、というタイプの者が一定数いて、それだとこの範疇に入ることが起こりやすい、のである。つまり「独演的な文字言語に接した経験値の不足」と「双方向的な音声言語に接した経験値の過剰」とが一人の人物に同時に起こるのである。

その結果として、ここで「二段階選抜」が起こりやすい。たとえば、石黒圭『論文・レポートの基本』(2012,日本実業出版社)では「第10課 話し言葉と書き言葉」のなかでの「表12 論文では避けたい話し言葉の例」や、「第11課 論文になじまない言葉」などといったコンテンツが主張されている。この内容だけでも、こと細かい校則というものが印象として与えるくらいには筆者はうんざりさせられる。だが、著者の石黒に文句を言ってもしかたがないだろう。石黒と似たような基準で、多くの、大学その他の教員が、論文やレポートや試験の答案を審査し採点しているかも知れないからだ。そして、それは石黒個人や石黒の属する学会の問題だけではないかも知れないからだ。のみならず、このような基準を「こと細かい校則に類似したもの」としてではなく「当然の基準」として捉えているかも知れないからだ。そういうわけで、この種の「論文では避けたい」語句や言い回しや表現といったものリストを見たことが無い者は、音声の講義を聴くことしかしていないため、そして音声での講義は推奨されるような表現の手本にはあまりならないため、レポートや試験答案で良い点がもらえない、ということになりやすいわけだ。またそれを「文字のメディアに接している経験値の不足」(という能力の問題)として扱いたければ、その経験値の不足のため「文体や語り口の切り替え能力が不足した」という把握の仕方になろう。あるいは、「放っておくと、つい、若者言葉になってしまう」というのも一種の「能力の不足」だとも言える。

この二段階選抜は、「音声での講義では、講義を“内容”と“語り口”とに分断して理解して、そのうち“内容”だけを踏まえて答案やレポート課題に取り組む、その際、日常生活で経験している“会話等での語り口”が混入しないようにする」というものになっている。すなわち、授業を理解したりそれを踏まえた考察や議論がただできれば良い、というものではないぞ、と、そこに「日常会話等の語り口」が混入しないように注意しなければならないぞ、というわけだ。

レポートや答案の日本語に、「会話等での語り口」が混入してしまうのが、「マナーの問題」ではなく「能力の問題」である、というふうにあまり語られないのは、こういうことだ。「論文のような内容を、対等な相手との会話のような語り口で、日頃から頻繁に話している者」や「日常ほとんど人と会話しなくて趣味も無いため、教師の音声講義の内容が脳内で占めている度合いが相対的に高かったという学生時代を送った者」が、大学教員やそれに準じる判定者のなかで中心を占めているからだ、これである。そこでは「論文のようでは全くない内容」を「同年代の者」と日常的に音声でやりとりしている営為が、生活の圧倒的な中心になっている者が看過されている。他方、そういった日常的な音声やり取りばかり多くしている者こそを大学生等の典型と捉えると、そこには「能力の問題」という見方が発生する、というわけだ。

非対称である「話しことば words for speaking」と「書きことば words for writing」

上記の二種類の二段階選抜を一瞥すると、通常使われている「話しことば」と「書きことば」という概念、「レポートや答案を話しことばで書いてしまう者」という言い回しにみられるそれら概念には、非対称があることがわかる。二つの点が指摘できる。

まずそもそも「話しことば」と「書きことば」という概念対の使われ方自体、二種類あるものが区別されていない。種類の一つめである、「話しことば」を「実際に話された言葉 spoken language really」、「書きことば」を「実際に書かれた言葉 written language really」という意味合いで用いている場合は、この件とは関係ない。筆者のおぼろげな記憶だと、少なくとも、小嶋恵子という心理学者と辻大介という社会学者がこの用法で論文(「テキストからの学習」)や短文(「読み書き」)を書いていたように思う。もし筆者のこの記憶や認識が正しければこの用法は全くおかしくない。また「学術的でない」なんてこともない。この用法に従った場合は「レポートを話しことばで書いてしまう」という言い方自体が意味不明ということになる。レポートに書かれているものは、まさに書かれているものなのだから書きことばと呼ぶに決まっているからだ。他方、種類の二つめである「話しことば」を「話すために使う言語的要素 words for speaking」、「書きことば」を「書くために使う言語的要素 words for writing」として使う者も多い。そして、こちらの使い方のほうが目立つ。この用法に従った場合には、「レポートを話しことばで書いてしまう」という言い方がごく当たり前のように可能となる。ともかく、以下非対称を検討するのはこちらの方の用法である。

二種類の非対称のうち、一つめはこうだ。「レポートを話しことばで書いてしまう」という「非難」はしばしば言説として見聞するのに対して、「講義を書きことばで話してしまう」という「非難」はまったく見聞することがない、これである。たとえば筆者自身が何度も書いていることから自然に導出されるように、講義・授業で話す教師が、抑揚も同じである同音異義語を連発したら分かりにくくなるから、ぜひ使用を控えた方が良いと思う。ここには音読みの漢字熟語だけでなく、「捕る」と「撮る」のような訓読みのものも含めたい。そして同音異義語という現象が起こるのは、文字でなら区別できる、そして文字の意味が本質的な構成要素であるようなものを、音声での話にまで用いることから生じている。同音異義語は音声化したときの利便性の低さを何も考えないで作られたものが多いからだ。だが、筆者自身もそうだし、他に同じ主張をする人もそうなると思うが、「講義を書きことばで話してしまうのは全く良くない」という言い方はまず絶対にしないのだ。また、もししたとしても、それは単独では理解されず、補足説明を要する主張になる。同様に、講義や会話で難しい漢字語や、文語調の古い言い方を用いる者に対しても、「講義や会話を書きことばで話してしまう」という非難はまずしない。「難しい単語を使う」とか「時代錯誤の言い方をする」などというように、非難することが多いはずだ。おそらくその理由は「書きことば」というのが、筆者の造語で言えば半側評価語であり、「どちらかと言えばほめ言葉」「少なくともけなす言葉ではない」というふうに、限定された使い方しかされない語だからだ。無論「話しことば」はちょうどその真逆なのである。つまり「少なくともほめ言葉ではない」のである。だから、「この小説では登場人物の話しことばが生き生きと書かれている」という賞賛するような言い方も、たぶん、しない。ほめる場合には、何か別の言い方でするだろう。

二種類の非対称のうち、二つめはこうだ。それはそもそも「話しことば」と「書きことば」というのが、特定のタイプの「話す」や「書く」に限定されており、きちんとした対称形になっていないことだ。次の表を見ていただきたい。

言説上の「話しことば」と「書きことば」
「話しことば」 「書きことば」
使用媒体 音声 文字
対面性 対面的。聴覚のみ対面的(電話)も可。 非対面的
送り手の交代 送り手の交代が不定期に起こる 送り手の交代は起こらない。独演。
方向 双方向的 一方通行の独演

このような表にしてみればいかに愚かな国語教師であっても、「話しことば」と「書きことば」とが対称的にできている二項対立だとは思わないであろう。次の表の存在がすぐに思い浮かぶからである。ただし、ここでわかりやすさよりスマホでの見やすさの方を重視して表の縦横を入れ替える。

実際の「話しことば」と「書きことば」
使用媒体 対面性 送り手の交代 方向
三人以上でのお店での歓談 音声・身振り 対面 送り手の交代が不定期にありうる 双方向
電話での対話 音声 視覚では非対面 送り手の交代が不定期にありうる 双方向
テレビ電話での対話 音声・身振り 対面 送り手の交代が不定期にありうる 双方向
司会者によって統御された会議 音声・身振り(・補助で文字) 対面 独演 双方向
音声での講義 音声・身振り(・補助で文字) 対面 独演 一方通行
テレビでの(一人での)報道 音声 送り手側は非対面 独演 一方通行
電子メールでのやりとり 文字 非対面 予期せぬ送り手の交代はない 一方通行もありうる
電子媒体でのチャット 文字 視覚では非対面 送り手の交代が不定期にありうる 双方向
隣席どうしの授業中の生徒の筆談 文字 不完全な対面 送り手の交代が不定期にありうる 双方向
交換日記・定期的な文通 文字 非対面 独演 双方向(一方通行もありうる)
レポートや筆記試験での内容 文字 非対面 独演 一方通行(返却・添削はありうる)

要するに、「実際に話された言葉/実際に書かれた言葉」とを比較する場合には、変数のさまざまな組み合わせがあり単純化はできにくいはずなのに、言説上の「話しことば/書きことば」の比較では「対面双方向状況での話者の交代が起こりうる対等な相手どうしでの音声会話での発話/レポートや論文や答案での独演的な文字の文章」という恣意的な比較をしているだけなのだ。従って「レポートや答案を話しことばで書いてしまう」というときの「話し」ことばというのは、「大学教員の音声での講義のような」ということでは、ほぼない。そうではなく、「双方向的で話者の交代もありうるような若者どうしでの会話」のようなものが積極的に想定されている。「目上の者に提出する独演的な文字での文書であるのに、同世代との双方向的で送り手の交代も起こりうるときのような音声上での若者言葉まじりなんかで書いている」ということなのだ。

一つ簡単なチェック項目がある。レポートや答案に顔文字を記述してきた学生が居たという場合である。顔文字は音声的な存在ではなく、文字的な存在である。したがって、「書きことば」に入ることはあっても、「話しことば」のほうに入ることは無さそうだ。だが、そういうレポートであっても「レポートを話しことばで書いてしまう学生が居る」と言いたくなるかどうか、である。もしそこで言いたくなる者が多いのなら、その「話しことば」の「話す」というのは「音声/文字」の区分に対応したものではないことになる。おそらくそれは「送り手の交代がむやみに起こらない(独演)/送り手の交代が不定期に起こる」という区分か、または「双方向/一方通行」という区分のいずれかに対応しているのである。そして、それは「携帯」でも「筆談」でも使用可能な言語要素である。なので、顔文字を「話しことば」に入れたいという者は、その「話す」ということで区別している特徴は少なくとも「音声/文字」という水準にはないのだ。筆者自身は、そのような立場の者がもしいるのなら、それを「話しことば」とは呼ばないべきだ、と感じる。

二段階選抜学歴社会論のまとめ

日本の学歴社会は、かなり目立たない部分として二種類の二段階選抜を行なってきた。一つは「授業は音声の聴き取りで行なうのに、その受講できる者の選抜は文字の読み取りで行なう」というものであった。そのため「文字の読み取りは得意なほうだが、音声の聴き取りは不得意だ」という者が、二段階目で低い評価をもらい、敗者となる。もう一つは「授業は音声で話されるのに、その聴き取りを前提とした成果は文字を書く課題によって行なう」というものであった。ここでは音声での講義はいわば「額縁に入った絵画」のようなものであり、文字の課題は「額縁から取り出した絵画」のようなものなので、いっけん二段階選抜のようには見えない。だが、その「文字を書く課題」において「別種の状況での音声コミュニケーションの言語要素」が混入してしまい、それを手際よく除去できない者が居る。主に「文字のメディアに接している度合いの低い者」である場合が多いだろうと推測できる。ともかくそのため、そのような者が二段階目で低い評価をもらうことになる。

後者の二段階選抜をそのように捉えないで「レポートや答案を話しことばで書いてしまう」というふうに捉えると、ここには概念の非対称があるため、日本社会の二段階選抜を見落とすことにもなる。一つは「音声の講義を書きことばで話してしまう」教師の存在による二段階選抜を見落とすことになる。もう一つは「レポートや答案に書く日本語(彼等の言う“書きことば”)そのままの形では講義はできない(そのまま話すと異常者になる)」ことによって、音声での講義をただ単に受講しているだけでは、文字での課題のお手本にはならないこと、つまり授業以外の時間に文字のメディアに接して、ある程度多様な文体を使い分けられるスキルを獲得することが暗に求められるが、そのことが見落とされる。

補論:「コボちゃん作文」など止めてしまえ

「コボちゃん作文」をはじめとする「マンガ作文」の犠牲となった子供たちも、今では成人している者がかなり多くなっている。そのなかに、コボちゃん作文によって文章を書くことが嫌いになった、という「さらなる犠牲者」はじゅうぶん多いはずだと推測する。そのかたがたを想定して、次の補論を書くことにする。コボちゃん作文はそれを言いだした人間の考えがまったく足りていないから、そういうことになったのである。こういうことだ。

「マンガ作文」では「“勝手にしなさい”とお母さんは言った。」のような書き方は良くない、と教えられる。つまり、せりふの内容を直接話法で書くことは嫌われる。そこで「間接話法で書きなさい」などと言われて、どうして良いのかも、なぜそんなことをしなければならないのかも、わからなかった人もいたことだろう。ともあれ確かなことは、コボちゃん作文は「そんなこと」をさせるために行なわれていたということだ。何のためかと言えば、「そんなこと」ができるようになることが「能力」だと見なされるような世界が存在するからだ。

筆者は、その理由を「与えられたものを“そのまま”書くのではなくて、“自分のことば”で書く、という能力」をつけるため、だとこの人物が錯覚していたからだろう、と長いこと思っていた。つまり「勝手にしなさい」というせりふが通常「好きなことを必ずしろ」という「命令」ではなくて、「見捨てる」ときの「捨てぜりふ」である、とわかる「能力」、言わば「常識」をつけさせたいからだ、と思っていた。そして、その「能力」が「作文の初歩」のレベルだと考えるのは思いあがった大人の「錯覚」だ、と思っていた。でも、おおもとの理由はたぶんそれとは違う。

書くことは「自分」を創りあげること(工藤順一インタビュー)を参照してみる。

(前略)最初のうちは、ふきだしの言葉そのままを書いてしまう子が多くて大変ですよ。それをだんだんに間接話法、「書き言葉」に変換させていくわけです。

(前略)しゃべり言葉でそのまま書いてしまう子、形容詞や形容動詞を適切かつ豊かにつかえない子も非常に多いですよ。

ふきだしの言葉をそのまま書くのが気に入らない理由は、「見たまま」を書いたから、ではたぶんない。この工藤順一とかいう人物は、「しゃべり言葉」で書いたものは「自分の頭で考えた内容」であろうとなんだろうと、たぶんダメなのだ。ただし、これだけなら工藤順一に賛成する教育者も、ある程度居ることだろう。だが、実際はそんな生易しいものではない。普通の用法のうち半分強の場合は、「しゃべり言葉」というのは、「しゃべる時に使うような語要素」のことを指す。だが、工藤順一に限って言えば、そうではない。

これは、正しい書き言葉で文章を書くということが学校では全く教えられていないことも一因です。話し言葉と書き言葉は語彙が違うだけではなく、考え方そのものが違うんですね。(後略)

書くことは、目の前にいない人、情報を共有しない多くの人に、自分が現実をどのようにとらえ、何を考えているかを伝えるための一つの「手段」であり、「道具」なのです。

これらの発言だけからでは断言は全くできないが、しかし工藤順一の『文書術』だかいう書籍を併読すると、「つまり、工藤順一がよくわかる文章だ(ということも彼がわかる)と“書き言葉”と呼び、工藤順一がさっぱりわからないという文章だ(ということを彼がわかる)と“話し言葉”と、彼は呼んでいるのだな」ということが骨髄まで理解できる。もちろん、そんな理解などしなくていいし、その書籍を読む必要もない。肝腎なのは、「話しことば」とか「書きことば」という単語は、二種類の用法が世の中には混在していて、その事があまり世間で意識されていないため、そこに乗じて「言葉のトリック」を弄することも可能だ、ということだ。ともかく、二通りあるとは言え、世の中で一定の使われ方が確立している単語を、読者に断りもなく、自分勝手な意味を担わせて使うことは、全く良くない。そのような教訓こそを感じ取ってほしい。

で、ここで話を終えても良いのだが、これだけだと教材に使われてしまったマンガやその作者にあまりに気の毒なので、もう少しだけ掘り下げる。

工藤順一が「話し言葉」という語を自分勝手に使い散らすことができた理由は、そのまま「マンガ作文」そのものへの無理解にもつながっている。要するに彼は「人と人とが話す」という現象自体をよく理解していないのだ。だから「話し言葉」という語を自分勝手に使うこともでき、かつ、マンガ作文というものが生徒にやらせている事柄も理解していないのだ。

次の箇所あたりに、工藤順一という人物の「マンガ作文の理解のしかた」が露呈している。

(前略)ただ「考える」ということに関していえば、『コボちゃん』はあまり考えなくても、絵をそのまま描写していけばそれなりの作文が書けてしまうんですね。(後略)

「コボちゃん作文」は「客観描写」の初歩的な手法ですが、漫画の中で「もの」や「ことがら」がどのように配置されているかをきちんと見分け、それをできるだけ客観的に正確に書くことを訓練します。(後略)

(前略)最初のうちは、ふきだしの言葉そのままを書いてしまう子が多くて大変ですよ。それをだんだんに間接話法、「書き言葉」に変換させていくわけです。

これらの箇所を記憶にとどめておけば、絵をそのまま描写していけばという箇所とふきだしの言葉そのままを書いてしまうという箇所とが、どういう関係をもつのだろうか、と気づくこともできるだろう。気づくも何も、この作文を実際にやらされた生徒からすれば「それこそが肝腎な点だろう」としか思えないはずであるほどだ。そして漫画の中で「もの」や「ことがら」がどのように配置されているかをきちんと見分けという箇所の中に「せりふ」が入っていないことにも気づくだろう。無論、工藤順一という人物は、マンガのなかに「せりふ」が「どのように配置されているか」を他人に説明できない人物なのである。

マンガのなかに限らないが「せりふ」や「人の発言」というものには、ある程度の秩序がきちんと存在する。「“勝手にしなさい”とお母さんは言った。」と書けば「ふきだしそのままを書いてしまう」と評価されてしまうかもしれないが、「“勝手にしなさい”とお母さんは息子に言った。」と書けばそれだけでも、マンガの「せりふ」の「漫画の中」での「配置」が少し明らかにされる。あるいは「“今日の晩ごはんはステーキ以外食べたくないな”と息子は母親に言った。」に後続する箇所なら「“勝手にしなさい”とお母さんは息子に答えた。」と書くこともできる。このように「せりふ」「発言」のうちどれが「応答」に該当するものなのか、を明確にすることもまた、マンガの「せりふ」というものが「漫画の中」で占める「配置」を明らかにすることに、つながる。こういうことがわかるようになると、生徒がもっと成長すればいずれ、マンガの吹き出しの中に「…」しか書いていない箇所であっても、「描写」することも可能になる。そこは「自分が発言することが自然・当然であるような箇所で沈黙している」ことを表すものだ、という「常識」が、わかるようになるからだ。

ただし、このくらいに「せりふ」の占める位置がわかっても、「勝手にしなさい」という発話が多くのケースで「命令」ではない、ということを知り理解することは難しい。また、これが「命令」でなければさて何なのだ、と尋ねられて「お前のことは助けない、見捨てるぞ、という一種の“宣言”である」といった回答をすることは、さらに難しい。ただこれらの点ができなくても、「勝手にしなさい」という発言をする人が「怒っている」ということは、目で見て絵に描いてある情報でだいたい「わかる」。…というか、その点が目で見てわかりやすいようなマンガしか、マンガ作文には向かない、と言えるくらいのものだろう。このタイプのマンガでは「登場人物の気持ち」が「絵に描いてある」のだ。マンガ作文が「苦行」にならないためには、その「絵に描いてある登場人物の気持ち」をベースに置いて書くしか、おそらく方策は無い。だが、それは工藤順一の意図ではないだろう。工藤順一は是が非でも「マンガのセリフを間接話法に置き換えた書き方をマスターさせる」ことを小学校低中学年の子供に行ないたいのだ。「そのためにやっている」のだ。これはたとえば体操の選手に「まずとにかく着地だけはきれいにやりなさい、簡単でしょ」とか、フィギュアスケートの選手に「まずとにかく転倒しないようにやりなさい、簡単でしょ」とか言って、その実最高難度の技を、その難易度の判断もつかない指導者がやらせているようなものであるのに近い。

マンガ作文では、たとえば「“勝手にしなさい”とお母さんは息子に言った。」と作文するのはまったくダメであり、そうではなく「お母さんは息子に、今後一切助けないし見捨てるという宣言をした。」というように作文しないと、ダメなのである。というのも、まさにそういう話法の形式を「習得」することが「能力」である、という価値序列に基づいているからだ。そしてその「形式」と対応している「内容」のほうの難易度、つまり、「言語行為の理解」の難易度はまったく考慮されない。この難易度が全くピンと来ていない読者がどのくらい居るのかはわからないが、工藤順一と同程度の頭脳の持ち主ならばきっといるだろう。そのような者には、次のように言いたい。間接話法での作文で要求されている、その理解の「難易度」というのは、次のようにすると判るのだ。

直接話法:「勝手にしなさい」とお母さんは息子に言った。

間接話法:今後一切助けないし見捨てるという宣言をお母さんは息子にした。

これと次の画像に記載した関係とは、形式的には同形である。

マンガ作文話法転換と同形の転換例

なお、画像に転載したマンガ画像は、小池康「―≪研究ノート≫―「国語」学力下位レベル学生の日本語作文における問題点」(PDFファイル)という、関東学園大学紀要Liberal Arts第21集(2013)に掲載された論文から、勝手に筆者が借用したものである。

さて、この画像に描いた変換をもし、きちんとした文字の文章で書くと、たとえば次のようになるだろう。(参考:拙稿「あらすじ・アブストラクト・要約」)

直接話法的文:「おじいさんはズボンのすそをまくりあげ脚を掻きむしりながら、その痒さを周囲に訴えた。こたつに入っていて暖かさのあまり足が痒くなったようだ。おばあさんは痒み止めの薬を、あたかも“いつもの事”であるかのように淡泊な様子で、おじいさんに渡した。おじいさんは、クリームが如何によく効くかをしきりにつぶやきながら、満足げに患部に薬を塗っていた。その一部始終をコボちゃんはじっと見ていた。ところがそのコボちゃんが口の中の痒さを、やけに表情豊かに、誰かに向けて突然訴え始めた。実はその場所はケーキ屋の店頭であり、訴えている相手はおかあさんであった。コボちゃんはさらにショーケースの中のケーキを指さして、おじいさんの言い回しと同じ言い方でケーキの生クリームが口の痒さに効くのだと、おかあさんに聞こえるように言った。つまるところ、コボちゃんはケーキを買ってくれとせがんでいるのだ。だがおかあさんはコボちゃんのほうを見向きもせず、おじいちゃんの真似をしてケーキをねだるコボちゃんの魂胆などお見通しであるかのように、相手にしなかった。」というマンガを植田まさしは読者に向けて描いた。
間接話法的文:植田まさしは、痒み止めの薬とケーキとに使われているものがどちらも“クリーム”という名前で呼ばれていることに着目して、読者に対してマンガを通じて一種の“ユーモア”を提示しようとした。そのために作者の植田は次のような方策をとった。まずもっとも目立つのは、一コマ目に提示される痒さを訴えるおじいさんの絵と、三コマ目に提示される痒さを訴えるコボちゃんの絵を、どちらも同じように表情豊かにするとともに、背景を対照的にして三コマ目を際立たせたことだ。つまり、一コマ目では家の茶の間のコタツ周辺であることが伝わるように背景が描かれている一方で、三コマ目のほうではコボちゃんの背後は空白であり背景が存在しないように描いており、その背景のコントラストで読者の興味を喚起するように描いているのだ。そのために、四コマ目で「実はその場所はケーキ屋の店頭であった」という事実が初めて判明することで一種のカタルシスが訪れるというようになっている。同様に「実は痒みを訴えていた相手はおかあさんだった」事も併せて判明する。二つめに指摘できるのは、コボちゃんがおじいちゃんの言い方を真似するという事態を伝えるために、作者の植田がとった方策についてである。そこで利用されたのが、日本語の普遍的現在形が「現在進行形の事態」にも「未来予測」にも使用しうるという性質であった。すなわち「クリームがきくんだ」という言い方でもっておじいさんは現在進行形でクリームが効いていることの満足感を表明するのだが、それを真似したコボちゃんが「生クリームがきくんだ」という言い方で述べているときには、それは「未来予測」として述べられている。つまり「未だ入手していないクリーム(を使ったケーキ)」をおかあさんに「要求する」という行為のリソースとして、その表現を用いている。そのように、現在進行形の満足の表明にも、未来予測の形の文で相手に要求するという行為にも、同じ形の文を使うことができる、という日本語現在形の性質を利用することによって、おじいちゃんを真似するという行為を描くことができている。三つめに、一コマ目のおばあさんのおじいさんへの対応と、四コマ目のおかあさんのコボちゃんへの対応が、どちらも二文字のセリフでかつ淡泊な態度であるというように対称形にしていることで、言わば「おかしみ」を出すように描かれている。と同時に、一コマ目から三コマ目までは表情豊かな登場人物が誰か必ず居るのだが、四コマ目だけは誰も居ない、というふうにもコントラストが付けられており、その二本立てで、全編の巨視的な流れが構築されている。このように、絵やセリフの様々なレベルでの、配置上のコントラストやメリハリ、対称性と対照性とを慎重に配置することによって、作者の植田まさしは「全然異なる性質のものがどちらもクリームと呼ばれている」ことのもつユーモアを読者に伝えようとしている。

上掲の直接話法的文を間接話法的文に変換することは、マンガのセリフを間接話法で書くということで要求されている変換と、形式的に言えば同じことである。なので、その操作を遂行する「難易度」の見当をつける際にも少し参考になるだろう。上掲の直接話法→間接話法の変換が容易で初歩的な課題であると思える者なら、マンガのセリフを間接話法で書くことの内容的な難易度もやはり容易で初歩的な課題であると見なすことになるだろう。きっと工藤順一自身はそうだったのだろう。しかし、そうでない者も当然多いはずである。「マンガの中のセリフをそのまま書いてしまうから困る」などという理由で、その操作を課題として要求するなど、問題外である。

話を少し前の脈絡に戻す。

「勝手にしなさい」という発言のように、「文そのものの意味」と「その発言で言おうとしていること」とが異なっているように思える現象は、たとえば「言語行為論」という哲学や言語学の分野や、あるいはそれを使った社会学や文学の理論で研究されることがある。困ったことに工藤順一という人物は、『国語のできる子どもを育てる』とかいう書籍で、この「言語行為論」を「高校生のうちに学んだほうが良いでしょう」といった扱いで言及した。なので、この分野に詳しい人が読んだ場合、「さすが国語専科教室は、コボちゃん作文のような教育プログラムとして行なうにあたって、言語行為論まで参照しているのだな」と感心するように書かれている。そのためもきっとあって、この人物にあまりそれ以上の関心が知識人にはもたれなかった。だが、それはまったくの錯覚なのだ。工藤順一という人は、「マンガ作文ができるようになること」と「言語行為論を学ぶこと」との間に関連がある、などと考えたことなど、おそらくないのだ。きっと言語行為論というものも、中身を知らずにただ格好をつけて書いてみただけ、というのが真相だろう。

「会話」という社会現象に大した理解をもたない人物がマンガ作文を考え出してしまったために、マンガの中の「会話」の扱いもぞんざいになったし、同時に「話し言葉で書かないため」にマンガ作文を行なうことがその意義だと述べるときの、その「話し」ことばという「話」すことの理解もいい加減になった。彼の言う「話しことばの特徴」は「電話」にもあまり当てはまらないし、講演や講義にも当てはまりにくい。一方で「電子メールでの文字のやり取り」に当てはまる点がないではない。

そんなわけなので、「コボちゃん作文」など止めてしまえ、と筆者は思う。もちろんこんな教育手法はもうすでに衰えているとは思うが、しかしきちんとしたしかたで葬送されたわけでもない。だからいつまた幽霊のように現れないとも限らない。この文章でその葬送をしたいと願う。