問題の所在:「“書き言葉”という単語」を使いたがる人

はじめに:「“書き言葉”という単語」は「タイトル」に使われやすい

「“書き言葉”という単語」をことさらに使いたがる人がけっこう多いことを筆者が知ったのはせいぜいこの一週間以内のことであった(主に昨日・一昨日)。この単語はなかなかに問題が有る単語であり、何かを解明するための単語ではなく、むしろこの単語をあえてことさらに使う人のほうを解明するべき単語だろう、と以前から思ってはいた。だが、筆者の予想をはるかにこえて、「何かを解明するべき立場の人」がむしろ存外この単語の愛好者であるケースが散見されることを、この数日で思い知らされた。そのため筆者もごく短期間に、その点についての態度変更を迫られてしまった。そのことに基づいて、いささか急遽書くことにした文章である。ここには種々の教訓も含まれており、見かけほど狭い議題設定ではないと思う。なお、このページと関係しているものとして「00年代の国語力革命は評価語ばかりのずさんな掛け声で動いていた。」が有る。

「“書き言葉”という単語」の特徴の一つは、文章の「見出し」「サブタイトル」に登場する頻度がとても高いということ、その内容的な重要度と比したときにとても高いということだ。たぶん、「“書き言葉”という単語」が愛好されやすい理由の一つがここに有る。つまり「タイトルとしての機能を担わせることができる単語」だというわけだ。それはつまり、日本語に限定していえば、「タイトルとはこうでなくてはならない」という規範に好都合であるということだ。書籍のタイトルに「述語をもつ文」「疑問文」の形のものがここ20年ほどの間で急激に増えたとは言え、「それは例外であって、やはり原則としてはタイトルたるもの名詞でなくてはならぬ」という文化的規範はごく強い。却って強まったかもしれないほどだ。そこで、その規範に好都合なのが「“書き言葉”という名詞である単語」であるわけだ。だから、仮に「書かれた言葉」の意味合いである場合も、それにも関わらず「書き言葉」という単語が当たり前のようにして使用される。なぜなら「書かれ言葉」だと見出しやサブタイトルにふさわしくないし、その表現だとふざけていると見なされる危険もあるからだ。しかしかと言って「書かれた言葉」だと名詞でも一語でもないため、文法構造を単純にしたい場合には向かない。だから仮に「書かれた言葉」を意味したい場合でも、見出しやサブタイトルでは「書き言葉」という名詞に置き換えられてしまう。また同様にして、見出しやサブタイトル以外であっても、たとえば文章の文法的構造上、名詞形のものが好都合である場合にもまた、「“書き言葉”という単語」が要請される。「書かれた言葉」だと文法的にも少し複雑になり、読者に頭を少し使わせる文構造になりかねないからだ。このような「名詞形への強い要請」というものが、「“書き言葉”という単語」を使いたがる学者、しかも見出しやサブタイトルに使いたがる者が意外と多いことへの、一つの説明候補になるだろう。言わば、「いじめの加害者の行動」であっても「いじめの被害者の被害」であってもどちらも一語の名詞で表現したいために、「いじめ」と呼んでしまう、たとえば「いじめられた生徒」のことをも(もちろん「いじめた生徒」のことも)「いじめ生徒」と呼ぶ、という架空の語用に(或る程度)類比できる状態になっているわけだ。まずこのあたりを前提として押さえておくと良いと思う。では少しずつ本論に入る。

「“書き言葉”という単語」の使用状況の「基本」

「“書き言葉”という単語」の使用状況を鳥瞰するときに、何が「基本」になり、何が「応用」や「例外」にあたるだろうか。まず、この件に関しては、「基本」を知るためには国語辞典が良い。なぜかと言うと、国語辞典を執筆する者やその執筆者を選択する者の専門性(主に国語学)と、「“書き言葉”という単語」の専門用語的な使用状況とが、偶然一致しているからだ。つまり、国語辞典での記載事項を、専門家向けの専門事典での記載と同程度の信頼性をもつものとして扱うことが、たまたま可能な語だからだ。ようするに「“書き言葉”という単語」はまずは「国語学者」の分担領域の単語である、という認識が「基本」であり、したがって、「国語辞典での記載」が「基本」である。…と、というふうに筆者は独断的に見なしたうえで主張しているわけである。『広辞苑』第七版(2018,岩波書店)で「書き言葉」と「話し言葉」とを調べてみると次のようである。尤も『広辞苑』の場合、個別の執筆者を選択している編集の中心人物は国語学者ではなく言語学者である。

書き言葉
文字による言葉。また、文章に用いる言葉。⇔話し言葉
話し言葉
日常の会話に用いる言葉。音声言語。⇔書き言葉

…と有る。この簡潔な記載のなかに「基本」がかなり凝縮しているように筆者には感じられた。以下のようにである。

「書き言葉」と「話し言葉」とが同じ形では規定されていないことに気づく。「書き言葉」のほうは「AまたはB」という形での規定であるのに対して、「話し言葉」のほうは「A。B。」という形であり、AとBとの関係は少々曖昧である。

また、「書き言葉」のほうでは「文字による言葉」という規定をしていて、これはつまり「文字で書かれた言葉」と解することができる。「“書かれ(た)言葉”もまた書き言葉である」というわけだろう。「まえがき」で筆者が示唆したとおりの認識が示されているわけだ。それに対して、「話し言葉」でこれに対応するだろう「音声言語」という語は「音声による言語」の意味合いなのか、それとも「音声で用いる言語」の意味合いなのかが、少々曖昧である。ここは「言葉」ではなく「言語」なのだから、後者の可能性のほうが強い、という示唆であると解釈しうる。だとすると、結局「話し言葉」という語の規定は「日常の会話に用いる言葉。音声で用いる言語。」というものになるだろう。ここには「“話され(た)言葉”もまた話し言葉である」という主張は含まれていないのかもしれない。実際その推測は次に挙げる論点とも整合する。

「話し言葉」が「日常の会話」で用いると規定されており、かつ「書き言葉」が「文章に用いる言葉」と規定されている点も重要である。というのも、「話し言葉」の項目を参照すると「では日常の会話以外の音声」はどう規定されるのだろう、と疑問が出てくるわけだが、それに対する「解決」がこの「書き言葉」とは「文章に用いる言葉」という規定であると解しうるからだ。つまり音声でなされる「会話」以外のたとえば「講義」とか、テレビの報道番組でアナウンサーが読み上げる音声などは、この「文章」のほうに入るものなのだ、と規定していると解しうるからだ。要するに、「音声での講義」や「アナウンサーの音声での報道」というのは、必要とあらば「それは会話ではなくて文章です」「それは書き言葉のほうです」と位置づけられうるように、記載されているのである。

先に述べた、「書き言葉」のほうは「AまたはB」という形での規定であるという点がこれで説明がつく。Aは「文字で書かれた言葉」であって、Bは「音声のものも含めた文章に用いる言葉」であった。だからこの二つはけっこう異なっている。異なっているものどうしだから、そこに「または」相当の接続語でつなぐ必要が有ったというわけだ。筆者の観察するところ、「“書き言葉”という単語」を使いたがる人が悪目立ちしている状況の一因にはこの、けっこう異なる二つの規定を両方とも「“書き言葉”という単語」が引き受けてしまっている事情が有るのである。

『広辞苑』の規定はこのような「基本」をかなり正確に体現していた。ただしあくまで「体現」であって、「明記」ではなかった。

ここでまとめてみよう。「“書き言葉”という単語」には二種類の異なった規定が並立していた。「文字で書かれた言葉」と「音声のものも含めた文章に用いる言葉」であった。ここには二つの次元での異なりが有る。

一つは、「文字」または「文字または音声での文章」という並置にみられる異なり方であった。つまりこの並置だと「文字列」しか該当しないとする規定と、「文字列」または「音声」のいずれでも良いとする規定とが、対等に並立しているわけだ。ただ無論、「音声の文章」を含む、というふうに積極的に記載されているわけではなく、いざというときには執筆者はそのような説明をするだろう、という可能性としてではあった。「すべての言葉は書き言葉か話し言葉かいずれかに漏れなく(可能ならダブりもなく)該当する」なんてことはない、と言われてしまえばそれまでになる。とは言え、同じ辞典内の別の単語、たとえば「言文一致」という項目を参照すると、文章の言葉づかいを話し言葉に一致させること。とあり、これは上記の解釈と完全に整合するものだ。ここでもまた「文章⇔話し言葉」という対比こそが執筆者の意図であり、この対比は辞典内で一貫しているかもしれないことがわかる。

さてもう一つ、こちらがかなり重要なのだが、「実際に発せられた言葉」と「文章を発するために用いる言葉」という異なり方もまたみられる。前者は要するに「事実」に照準している。「事実として発せられたもの」が「書き言葉」であったりなかったりするわけだ。それに対して「○○のために用いる」という規定の仕方は、「事実」に照準してはいない規定の仕方だ。この場合では「規範」や「価値観」がむしろ優勢になりうる。すなわち「そんなものは“文章”とは呼べない」とか「そんな用い方をしている者が居るが、そんなのはダメだ」という観点を打ち出すことによって、「書き言葉」に該当したりしなかったりの判断が、人それぞれになってしまいうるわけだ。

また『広辞苑』の規定にもし従うのなら、「実際に発せられた文字」/「実際に発せられた音声」という事実レベルの対比を正確に言い表すためには、この単語たちが適していないこともわかる。「実際に発せられた音声(文字ではなくて)」という事実レベルの事柄を「“話し言葉”という単語」では表すことがまず難しいからである。それよりもむしろ「実際に発せられた音声であっても、それが会話であるか文章であるかによって扱いが違う」というそういう線引きのほうが重視されているという、そういう単語たちなのである。ただし、「書き言葉→実際に書かれた言葉」というほうの言い換えは充分可能なので、その点が見えにくくなる。ようするに『広辞苑』からうかがえる非対称状況の一つには、「書き言葉→実際に書かれた言葉」は言えても、「話し言葉→実際に話された言葉」とは言い切れない、というものが有るのだ。言い切れそうなのは「話し言葉→実際に会話で話された言葉」までだろう。

ややこしい。しかしこのややこしさは、「“書き言葉”という単語」の使用状況のややこしさというものを、凝縮して示唆しているものだ。その点でも『広辞苑』からわかる事柄をまとめてみることは有益である。別に『広辞苑』に従わなくても無論良いだろう。ただこれは「縮図」にはなっている、と思うわけだ。

これらの点に加えて、もう一つ「基本」が有ると思う。それは「“書き言葉”という単語」の中の「言葉」という箇所である。「“言葉”という単語」と「“言語”という単語」に関して、その区別を強めにするべきである、と主張する者が居る。これは「基本」を把握するうえで参考になるだろう。石原千秋『評論入門のための高校入試国語』(2005,日本放送出版協会)p103。

最後に注釈を加えておくと、「言葉」は一つ一つの単語のことだが、「言語」はフランス語とかドイツ語のように、ある国家や民族と結び付いた言語体系のことを言うので、使い方を間違えないように。

この箇所はかなり驚きの主張である。というのも、これとまったくかけ離れた語用規則に従っている人文系の学問分野だって、相当に多いからである。少なくとも「言語」という語彙については、石原の述べるような仕方ではない基準も含めて用いている分野、たとえば石原が「言葉」と呼ぶものもひっくるめて「言語」と呼ぶ分野というものは、ごく多い。その代表は哲学だろう。また人間の行為を研究する社会学や心理学でもしばしばそうだろう。それらの分野もまた人文系の中核の一つであるにもかかわらず、それと折り合わないこのような語用規則が「高校受験生」に対して無条件のものとして刷り込まれてしまう事態は避けたいところだ。ただともかく、石原の専門の近代日本文学の研究者やそれに近い分野だと、上記の語用規則を使っている公算が高いことはわかる。またひょっとすると「言語学」という学問分野の名前に使われている「言語」にすらその語用規則が少し影響しているかもしれない(「言語学≠言葉学」というわけだ)。その点でとても貴重な証言でもあるともいえる箇所だ。

肝腎なのは、石原と同じ語用基準を用いているであろう、日本文学研究を中心としたいくつかの分野の研究者であれば、「話し言葉」「書き言葉」という語彙の中の「言葉」という箇所もまた、上記のしかたで「言語」から区別されているはずである、…と、まずは想定してかかって良いことだ。『広辞苑』の編集の中心に居るのは言語学者なので、彼らも或る程度含まれる可能性が高い。また、たとえば石原が次のように述べるときにも当然この語用規則は貫徹しているはずだと見て良い。石原千秋『大学生の論文執筆法』(2006,筑摩書房)のp36「話し言葉と書き言葉は違う」より。

レポートに「やっぱ」とか「いまいち」などと書く学生が多い。そういう学生には話し言葉と書き言葉は違うものだと教えなければならない。言文一致などというから誤解する学生もいるが、話すように書いたら読みにくい。大学のレポートでは、「やっぱり」ではなく「やはり」、「いまいち」ではなく「いまひとつ」、「ぶっちゃけ」ではなく「率直に言えば」などと書かなければならない。

「“書き言葉”という単語」が使われるときに、「言葉=言語体系」というふうにはまず使わない者が居て、日本文学の研究者や近しい分野にどうもそれは多そうだ、しかし全くそうではない人文系の分野も有る、とそういうことが言えそうだ。ともかく大学生のレポート等に「話し言葉が混入してしまう」と述べる人の結構多くは、そこでの「言葉」は「言葉=単語」に近い用法なのであると見て良い。この点も「基本」として押さえておきたい点だろう。

この石原の規定とまったく整合する例として、たとえば石黒圭『論文・レポートの基本』(2012、日本実業出版社)の「第10課 話し言葉と書き言葉」の章の内容が挙げられる。ここで石黒は「話し言葉的」「書き言葉的」という言い方を主に用いて、日本語の中でも「機能語」と呼ばれるような語に照準して、多くの例(レポートで使うと好ましくない語句の例)を挙げている。ただし石黒の専門は、どちらかと言えば、日本語学寄りの言語学といったタイプのようであり、石原の専攻と近しい分野であるかどうかは、いくぶん微妙ではある。

さて『広辞苑』の記述から浮かび上がってきた「書き言葉」「話し言葉」の用法と、石原の主張する語用規則とを、ここで多少集約してみよう。

このように導出された諸見解を、「検算」してみる。そのために、今度は国語学者が中心になって編集された『日本国語大辞典』第二版(小学館、2001)を参照する。すると、次のようである。

書言葉
話し言葉に対して、文字を媒介とする言葉。文章を書いたり、読んだりする時の言葉。文章語。文語。
話言葉
書きことばに対して、文字を媒介としない言語活動。音声言語。日常の会話に用いることば。口頭語。

『広辞苑』とは異なり、複数の規定が接続語なしで並置されている。そのため、その複数の規定どうしの関係はあいまいであり、比較的どうとでも言いうることになる。ただし、『広辞苑』からは観察されたような「音声での文章もまた書き言葉である」と規定できる可能性を、この『日本国語大辞典』では少し強めに封じていると言える、と一見したところ思える。というのは、「書言葉」はたんなる文章ではなく「書いたり、読んだりする時」の文章と規定されているからだ。ここでの「読む」には「音読」での場合までは含めることができるかもしれないが、そうではない、原稿無しで発する音声だと会話以外であっても含めにくい。なので、この規定からは「文字を媒介とする言葉」か「文字を媒介としない言語活動」かで、「書言葉」か「話言葉」かどちらかにダブりなく分類される、と見てよさそうだ。しかし実はむしろここでの「読む」は「音読」のケースを積極的に想定している公算が高い。というのは「文字で書いたものを音読する」ケースについては「文字を媒介とする言葉」のほうに配置することが可能であり、むしろそうするべきである、というふうに受け取れるからだ。だから先の「読む」には「音読」というケースはむしろ含まれていると見たほうがやはり良いだろう。その解釈を可能にするために「媒介とする」などという表現がわざわざ使われていたのである。そう解すれば、『広辞苑』との食い違いは一見した印象に反して、特に無いことになるだろう。あともう一つ、ここでの「言葉」は「単語や語句」レベルであるとはまったく保証されない。むしろそれらの集合体を全体として捉えている、と受け取りたくなる規定である。

『日本国語大辞典』での規定での「書言葉」「話言葉」という見出し語の「言葉」の箇所が、石原が述べ石黒もまたそれに従っていたような単語レベルの用法ではなく、「言語活動」にも置き換え可能である用法であったことには少し注意しておきたい。「話言葉」という語で「言語活動(の全体)」を指すこともできるかもしれないのである。

「石原の専門に近い」だろう分野の研究者が編集・執筆した事典のほうも参照してみよう。編集委員は国語学者・日本語学寄りの言語学・日本文学研究とで各二人ずつといったバランスの良さを見せている。『日本語 文章・文体・表現事典』(中村明・佐久間まゆみ・高崎みどり・十重田裕一・半沢幹一・宗像和重・編)(朝倉書店、2011)より、「第III章 文体用語の解説」、p137の「19 文体の要因 書き言葉・話し言葉」の項目である。ただし参照する項目の執筆者は小野正弘という国語学者である。これにも少し違った特徴がみられる。

19 文体の要因 書き言葉・話し言葉
「書き言葉」と「話し言葉」は、音声、語彙、文法の面から、固有の文体を持つ。それぞれの語彙・語法を、文章中にどのように配置するかということは、文体の指標となりうる。通常は、話し言葉は会話文に用いられ、書き言葉は、地の文に用いられる。書き言葉である地の文を、どれぐらい話し言葉に近づけられるかによって、地の文の全体的特性が決まってくる。(後略)

この記載は、「書かれた文字列」をどちらに分類するか、という立場で書かれている。だから「書き言葉」とは「書かれた文字列」である、という規定の仕方ではない。その書かれた文字列をどちらに分類するか、という議題設定なのである。だから、これは前述したような石原や石黒の「単語・語句レベルでの分類」というのに近い。なぜなら彼らの規定では音声だろうが文字列だろうが、「書くための語彙」であれば「書き言葉」、「話すための語彙」であれば「話し言葉」だったからだ。小野のこの規定はその枠内で対処できる。また、そのような規定の仕方は、『広辞苑』『日本国語大辞典』のなかでもまた、いくつか有る規定の仕方の一つとして挙げられていた。その際の「話すための言葉」の「話す」が「音読」ではなく「会話」である、ということも重要だが、その点とも小野の規定は全く整合する。

ただし、小野の記述では「書き言葉」という語の「言葉」には、単語レベルの要素を超える可能性がかなり含まれている。「文法」の面に言及され、「語彙・語法」の「配置」までが視野に入っているからだ。小野の文章での「書き言葉」は「書き言葉で書くための言語体系」とでもいったものに、少し踏み出していると見たほうが良さそうなのだ。たとえば石原や石黒の規定の延長線上では「○○という単語が使われているから、この文章は書き言葉で書かれている」とは言えても「○○という単語が欠落しているから、この文章は書き言葉で書かれているとは言えない」とは言えなさそうなのだが、「文法」「配置」を持ち出した場合、そういうことも言いうると思うからだ。「書かれた文字列」の特徴だけでなく「文字列に書かれていない要素」まで持ち出すことが容易になるのだ。その点で少し見逃せない違い方だと言えると思う。またもちろんのことだが「配置」という項目を持ち出せば、同じ単語を使っていてもその配置の仕方の違いで、「書き言葉」であったりなかったりと判断・判定が変わってくることも可能なのである。

なお、小野のこの記事の文章の最後の箇所は、「書き言葉」=「書かれた文字列」というふうに受け取るほうがいっけん自然である、と筆者は思った。もしそうだとすればこの文章も混乱を含んでいると見なせてしまう。

19 文体の要因 書き言葉・話し言葉
(前略)現実の「話し」がそのまま写されるわけではないことには注意しておく必要がある。現実の「話し」は、言い間違いや無意味な繰り返し、省略、言いよどみなどのあるものであり、それをそのまま会話文としては、まとまりがつかないからである。口頭の言語を文字言語へうつす際には、加工・整理が必要であり、そのことによって書き言葉は洗練されるのである。

最後の「書き言葉」が「地の文で用いられた文字列」のことを指すとは思いにくい。「会話文で用いられた文字列」だと受け取るほうが自然だろう。もしそうだとすると、ここでの「書き言葉」は、最初の定義では「話し言葉」のほうに該当し、二義的であり混乱させるものだ、と言えてしまう。本格的な事典の記事担当に指名されるような学者がそんなヘマは通常しないと思うので、ここでは文意そのものが紙面の都合でむりやり圧縮された形で提示されてしまったのだろう、と解することにする。項目ごとの文章の量がほとんど一定になるように編集された紙面だからだ。おそらくここでは、定義のほうは一貫していて文意のほうが少しはしょって述べられてしまったのだ。おそらくそこでは書き言葉である地の文を、どれくらい話し言葉に近づけるかによって、地の文の全体的特性が決まってくる。という箇所の繰り返しになる内容がはしょられたのだろう。

ついでの形ではあるが重要な確認をしておく。この記事内では、「書き言葉」と「話し言葉」というのは「書かれた文字列」を分類するときに使うカテゴリーであった。ではそもそも「書かれた文字列」と「話された音声」とを区別するときはどのようにしているのか、と言えばそこで「言語」という単語が選択されていることがわかる。「書かれた文字列」全般のことは「文字言語」と呼ばれ、「話された音声」のことは「口頭の言語」と呼ばれている。したがって、この記事では、「言語」には「文字言語」と「口頭の言語」とが有り、その「文字言語」のなかにさらに「書き言葉」と「話し言葉」とが有る、というそういうカテゴリー関係であったことがわかる。つまりここでは、「言語」という語は、「知覚可能な刺戟のうち、言語であるようなもの」を指しているのだ。とても明快な概念関係であると思う。

この「検算」のために、国語学者による、国語辞典と文章・文体の事典での用法を参照した。この二つの用法は、まったく両極の異なるものを含みこんでいた。『日本国語大辞典』のほうでは、「書き言葉→文字を媒介とする」「話し言葉→文字を媒介としない」という規定が、規定の一つの要素としてただしいちばん最初に目につく箇所に提示された。他方、『日本語 文章・文体・表現事典』では、先の規定でいえば「書き言葉」に該当するもののなかに、「書き言葉」であるもの(地の文)と「話し言葉」(会話文)であるものが位置づけられる、と規定していた。ここでもまた「ではたとえば小説の中で文字列で提示されたアナウンサーの(書かれた文章の)音読」が「書き言葉」になるのか「話し言葉」になるのか、は不問にふされていた。いずれにせよ、この二種類の両極ともいえる規定は、『広辞苑』での記載のどれか一部となら合致する、という関係であった。

『日本語 文章・文体・表現事典』での小野正弘の規定のしかたで今一つ注目すべきなのは、「“言葉”という語」と「“言語”という語」の使い方が、石原千秋の述べるものとは或る程度反転したものになっていることである。小野の用法だと「言語」という語のほうが「知覚可能な刺戟のなかの一部である」というふうに使われていた。それに対して「言葉」というのは、文法体系などもそのなかに含まれうるような使い方であった。これは「言語体系」ということを言いたいときには「言語」の語の方をおそらく選好する石原の用法とは或る程度反転しているように見受けられる。

また、『日本国語大辞典』では、「話言葉」の規定の仕方の最初に提示されたものに「文字を媒介しない言語活動」というものが有った。つまり「話言葉」という語の「言葉」という箇所は「言語活動」のことなのである。この規定のしかたは、ここまで見た限りだとなかなか独特である。

日本語で使われる「書き言葉」や「話し言葉」という語の語用規則は或る程度以上複雑でもあるし、衝突してしまうケースも充分想定可能なものであった。おそらくこの概念語は、「特に明治以降の日本の言語や文字文化・文学作品の歴史」を記述するという活動に適合して生まれかつ引き継がれてきたものだろう。ここまででも充分ややこしかった。だがここにまたこれらとは異なった用法が入り込んでくる。それは「外国の学問」の日本語訳によっておそらく生じたものであり、一定のまとまった集団のなかで使われているものである。それを次に一覧する。

「書き言葉という単語」の使用状況の「応用編」:「獲得する書き言葉」「発達する書き言葉」

「書き言葉という単語」の使用を鳥瞰するときに、一つ重要な「応用編」あるいは「例外」が有る。それは主に発達心理学・教育心理学周辺を中心とした用法であり、一定のまとまった勢力となっている。その起源のうち一人はおそらくソ連の心理学者レフ・ヴィゴツキーであり、その日本語訳によって生じた新語であった。日本でその語を定着させた主要な研究者の一人がおそらく岡本夏木であり、その用法は現在まで或る一定の割合で継承されている。それらのことに筆者が気づいたのは、つまりそれらの語が或る種の基幹的な概念やキーワードであるものとして使われていることに気づいたのは、この一週間以内程度のことである。さて、この用法の特徴は「書き言葉という単語」に連接するものとして、二つの相異なった動詞がしばしば用いられることだ。一つは「発生する」であり、もう一つは「獲得する」である。

「書き言葉が発生する」という言い回しは、「書き言葉→実際に書かれた言葉」という規定のしかたと両立する。なのでこちらに関しては特に問題は無いだろう。「実際に言葉が書かれたこと」が観察され、それが何かの点で初めての出来事であればそれを「書き言葉の発生」と呼んで構わない。問題があるのは「獲得する」対象としての「書き言葉」のほうである。何が問題なのかと言うと、「書き言葉の獲得」というのは「出来事」や「現象」ではないことだ。つまり「観察される事柄」や「(生の)事実」というものではないのだ。それは、発達心理学・教育心理学者や教師が行なう「解釈」や「見なし」である。彼らが「獲得した」と判断したものが「獲得」であるのだ。同じことが「書き言葉が発達する」という言い方にもそのまま妥当する。

なので、これは「習得」という語とも異なると見たい。「言葉の習得」ならその当人が或る程度判断できるし、本人の判断をまるきり無視はできない。だが「獲得」だと違う。たとえば、何かの出題に一度正解してもそれで「理解」したと断定できるわけではなく、次の機会には誤答するかもしれない、だとすると一度の正解で「理解」とは言えないだろう、…と、そういう判断と同様にして「書き言葉の獲得」も権威有る第三者が下すものになりやすいのだ。つまり当人が「習得した」と思っていても教育者は「まだ獲得できていない」と判断するかもしれないわけだ。そこでの「書き言葉」は「事実」とか「観察されるもの」ではもはやなくなっている。

のみならず、この「“書き言葉”という語」のなかの「言葉」という語がもはや「文字列」や「単語」だけを指すのではないことも明らかである。「書き言葉の発生」という用法ならば、そこでの「言葉」は「文字列」か「単語」のどちらかであると言ってよいだろう。より正確に言えば、それと同等である「乳幼児の、より原初的な文<字>列や単<語>」も含むだろう。だが、「書き言葉の獲得」はそうではない。そこでの「言葉」とは、「文字列」であったり「単語」たちであったり、文法体系や文体やそのための身体技能であったり、そこから派生する経験値のことであったり、それこそ「言語活動」であったり、そういった「総合的」なものなのだろう、としか思えない。「書き言葉の獲得」というときのその「言葉」というものには、言語や言葉に関するような、次元の異なる諸カテゴリーをいろいろと含ませることができ、しかもそのすべてである必要も無く、一部であっても良いし、全部であっても良い、というそういう用法なのだろうと思われる。そうとしか思えない。

おおむね次のような用法がどれも可能になっていると筆者には思える。それを表にしてみる。「書き言葉が××という特徴をそなえている」という言い方も見られるのでそれも加えておく。

話し言葉 書き言葉
○○言葉が発生する 話し言葉→話された音声(知覚可能な刺戟のうち音声) 書き言葉→書かれた文字列(知覚可能な刺戟のうち文字列)
〇〇言葉を獲得する 話し言葉→音声で話される「言語体系に従った何かの言語」、または、言語体系に従った何かの言語を音声で話す・会話する「技能」 書き言葉→文字列で書かれる「言語体系に従った何かの言語」、または、言語体系に従った何かの言語を文字列で書く「技能」
〇〇言葉が発達する 話し言葉→言語体系に従った何かの言語を音声で話す・会話するという「言語活動」自体 書き言葉→言語体系に従った何かの言語を文字列で書くという「言語活動」自体
〇〇言葉が××という特徴をそなえている 話し言葉→話される音声での発話が従っている「言語体系」または「話された音声それ自体」 書き言葉→書かれる文字列での文章が従っている「言語体系」または「書かれた文字列自体」

ただし、実際に「書き言葉」という語が基幹的なキーワードとして使われるような用例では、心理学者が語るのは圧倒的に「書き言葉」のほうであり、「話し言葉」はあくまで対比するためにのみ使われるに過ぎない。この非対称は押さえておくべきだろう。この非対称は、およそ自然言語で音声での表現をもたないものは無い一方で、文字をもたない自然言語はたくさん有る、という事態に対応しているのはもちろんのことだ。だから母語に関しては「話し言葉の獲得」とはまず言われないし、話題の中心にはならない。話題の中心が圧倒的に「書き言葉の獲得」のほうに偏るのである。

要するにまとめると、発達心理学・教育心理学のなかでの少なくとも一部では、「書き言葉」「話し言葉」という語のなかの「言葉」でもって、「知覚可能な刺戟のうち或る種のもの(音声・文字列)」「言語体系に従った何かの言語」「言語体系」「言語を使う技能」「言語活動」のどれをも指す語が使われていることになるわけだ。それは「書き言葉」という語がさまざまな動詞に連接して使われることによって可能になっている。また、ロシア語の翻訳からおそらく生まれた訳語も含めた、教育系心理学者周辺の活動のなかでの使用によって、独自の「発展」を遂げた結果なのだと見ることも可能だろう。ここでは、国語学等での、日本語史を記述するための伝統的な用法とは別種の使い方が「まったく別物」という感じで導入されていたのである。また「言葉」と「言語」とを区別せよ、という規範も影響していない(ただしそれらの語の日常的な語感なら影響しているかもしれない)。

またその際「書かれた文字列」であっても「書かれ言葉」とは呼ばれずに、「書き言葉」と呼ばれる、主に日本語文法上の事情や、或いはタイトルに要請される規範というものの事情については、冒頭で述べた。これ自体は別に国語学や言語学等での伝統的な用法と抵触するわけでもない。それらも有っての複合的な事情の結果であろう。

これらの用例も当然踏まえたうえでだと思うが、平凡社の『最新 心理学事典』(藤永保監修、2013)には、「書き言葉」に対応する英語語彙も提示されている。p303-304の「児童期」という項目(執筆:坂本美紀)においてである。ここでの【識字の発達】という小見出しにおいて、「書きことば」という語が提示され、直後にwritten langage,writingという英語語彙が並置されている。そして、この直後に連接されるのは「獲得され」という動詞の受身形であった。ここでの「written langage」がさきほど抽出した用例で言えば「書き言葉→言語体系」に、「writing」が「書き言葉→言語活動」に対応している、と見なすことができるだろう。なお、「話しことば」に対応する英語語彙の提示はこの項目には無かったことも付記しておく。

さて当然のことながら、このような心理学界隈の語用は別段奇妙なものではない、と言いうる。というのも、「書き言葉」「話し言葉」というときの「言葉」の多義性は、もともとの日本語の「言葉」という語彙のもつ多義性を超えるものではあまり無いからだ。「言葉」という語がもともと単体でも多義的に使われうる語彙だったから、そのような「用語」「訳語」が導入され定着もしたのだ。訳語だからおかしくなったわけではない。ただそこで「書き言葉」という訳語が選択されたため、すでに日本語に存在し成立していた「書き言葉」という単語の用法とは異なる用法を接ぎ木することにはなったし、しかしもともと「言葉」という語のもっていた多義性を逸脱するわけではないので、違和感なく取り入れられはした。ともかくここで「言葉」という語の多義性がかなりそのまま引き継がれてしまう以上、そこでは当然のことながら、取り扱う側の慎重で丁寧な態度が要請される。その点に関しては次節以降で検討する。

発達心理学や教育心理学での上掲のような多義的な用法が観察されたのは、たとえば以下の文献においてであった。内容は大して読んでいない。使われている箇所の周辺だけを軽く眺めた程度であるものが多い。ともあれ、用例の検討ができるようにここに文献の一覧を付記しておく。この系統の用例では「書きことば」「話しことば」と「ことば」を平仮名表記するものが特に多いようでもある。

二つの問題:用法が衝突するケースと、複数の解釈が可能なのにそれでOKになっているケース

「“書き言葉”という単語」の用法を可能な限りで鳥瞰してみた。この単語がかなりややこしい使用状況に在り、可能ならば使用を回避したほうが良い単語である、ということはこれだけでも伝わったと思う。この状況は或る程度気づいている人は気づいている。そのことも後述する。だが、「全貌」までも気づかれているとは限らないし、気づいていないような人はこの単語を便利なものとして使い続けることだろう。なので、この単語の用法の「全貌」に接近するために、二つの問題を取り上げる。「用法が衝突する」ケースと、「複数の解釈が可能なのにそれでOKになっている」ケースとである。

用法が衝突するケース:はじめに

「“書き言葉”という単語」の複数の用法・語用規則が「衝突」しやすいケースというものは、或る程度事前に見当がつくものだ。ただしそれが「見当がつく」ためには、結局語用規則が複数並立していることを認識していないとならない。その認識が無くて、「誰もが同じように使っているはずだ」と信じている者の場合、その「衝突しやすい」ケースを「衝突」とは認識しないからだ。つまり「あの人の用法は単に間違っている。自分の方の用法は正しい」と認識するだけだからだ。

この種のことが起こりやすい要因のけっこう大きなものは、「“書き言葉”という単語」と「“話し言葉”という単語」とを「漏れなくダブりなく」使わなくてはならない、という規範が存在していないことが挙げられるだろう。また、用法によっては「漏れ」や「ダブり」が有るほうこそが正しい、という場合も有りうる。

「用法が衝突しやすい」と事前に予想がつくほどのケースは3つほど想定できるだろう。「原稿を読み上げるアナウンサーの発話(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」「書籍に文字で印字されたフィクションの中の会話(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」「電子メディアでの“チャット”や携帯電話での文字のやり取り(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」、これである。

用法が衝突するケース1:「原稿を読み上げるアナウンサーの発話(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」

「原稿を読み上げるアナウンサーの発話(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」問題は、たとえば上掲の岡本夏木『ことばと発達』(1985、岩波書店)でも取り上げられていた。これは比較的初期の問題提起かもしれない。p66。

先に二次的話しことばの典型例として、ラジオでニュースを伝えるアナウンサーのことばを引いたが、それは、原稿を読むというかたちにあらわれているように、アナウンサーの音声を借りながらも、その実質は書きことばにほかならない。「書きことば的話しことば」といわれるゆえんである。

この書きことば的話しことばという表現自体が、少なからぬ人は「いや、反対だろう」と思うような表現である。岡本の言いたいことを言うためには、つまり「実質は書きことば」と言いたいのであれば、「話しことば的書きことば」と表現しないと伝わらないだろう、と筆者は思うし、少なからぬ人もそう思うはずである。その件について推察すれば、そのように岡本の周辺で言われていた理由というのが、「実質は話しことばだ」と信じているような者に対して説得するために使われていたのが書きことば的話しことばという言い回しだった、というところに有るのだろう。そのためには、「話しことばである」という箇所を否定しないまま、新たな要素を付け加えて認識の変更を促すしかない。…と、そういうことだ。ともあれ、岡本の言いたいことはわかる。

岡本はここで「原稿を読み上げるアナウンサーの発話」を実質的には「書き言葉」の側に配置した。つまり、「形式は話し言葉、しかし実質は書き言葉」という二分法として議題設定をした。つまりアナウンサーの発話の「構成要素」が「書き言葉」である、というふうに受け取りうる(それに対して「形式」のほうは「音声である」ということに該当する)。ただ、先ほど発達心理学・教育心理学での用法を概括した際に述べたように、この「構成要素」にはさまざまな次元のものが入りうる。「語彙や語句」も入りうるし、「言語体系」や「言語活動」も入りうる。岡本がここで入れていたのはおそらく、その箇所に先行する「一次的ことばと二次的ことば」という話題での「“ことば”という単語」の用法から推察するに「言語活動」であろう。すなわち「書き言葉→書くという言語活動」というわけだろう。もし英訳したならば平凡社の事典に記載されていた「書き言葉 writing」と同じである、というわけだ。この規定だと、「大は小を兼ねる」ので、したがって「言語体系」や「語彙や語句」の場合も包含できることにもなる。

このような岡本の用法に対して、たとえば『広辞苑』の記載は、「充分整合はする」という関係にあることは、すでにみた。『広辞苑』の場合は、「音声での発話」を「会話」と「それ以外」とに婉曲に分割しており、その「それ以外」に「文章」というものを想定しているかのようであった。そして「文章」であれば「書き言葉」の側で引き受け可能なように記載していた。或いは『日本国語大辞典』の記載とも充分整合する。『日本国語大辞典』では「文字で書いた原稿を読み上げる」ことは「文字を媒介とする言葉」つまり「書言葉」のほうに分類することが可能なように書かれていたからだ。のみならず、この辞典では「話言葉」のほうだけであるが、「言語活動の一種」として分類できる旨も明記されていた。ならば「書言葉」のほうも「言語活動の一種」として位置づけても悪くないかもしれない。それを踏まえると、『日本国語大辞典』の規定は岡本の用法とわりと整合している度合いが高いと思える。

「原稿を読み上げるアナウンサーの発話(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」問題が起こりうるのは、おそらく「“話し言葉”という単語」で使われている“話す”の部分だろう。「話し言葉」と呼ばずに「会話言葉」と呼び、「書き言葉」と呼ばずに「文章言葉」と呼ぶようにしていれば、「用法の衝突」は比較的起こらないで済むはずなのだ。だが、なぜだかそのようにはあまり呼ばれない。その理由になりうるものとして次の事柄が挙げられる。それは「“昔の人の会話”を描写した小説」をどう分類するか、という事柄である。既出である文献の、『日本語 文章・文体・表現事典』(中村明・佐久間まゆみ・高崎みどり・十重田裕一・半沢幹一・宗像和重・編)(朝倉書店、2011)より、「第III章 文体用語の解説」、p137の「19 文体の要因 書き言葉・話し言葉」の項目から引用する。執筆担当者は小野正弘である。

19 文体の要因 書き言葉・話し言葉
(前略)山田美妙「胡蝶」(一八八九)では、地の文が「です・ます」体、会話文が文語体という、一見奇妙文体になっているが、これは時代小説であるので、その時代の人々は、今で言う文語で話していたはずだという想定によるものである。(後略)

奇妙文体の箇所は「ママ」である。

このような、「“昔の人の会話”を描写した小説」というものの存在は、「“書き言葉”という単語」を使う中心的な領域の人々は、必ず想定しておかないとならない件である。そのような文学作品や言語文化を記述するときに、「会話言葉」「文章言葉」という二分法は、全然便利ではない。なぜなら、たとえば明治時代には会話で聞くことが多い「単語や語句や文体的語要素」といったものが、戦後だとむしろ「文字の文章や原稿」のほうでこそ見られるものに変化しているということは当たり前のようにして起こるからである。だから文学や文化の歴史的変遷を記述する立場の人にとっては、「会話言葉」「文章言葉」はまったく便利でない用語であり概念であるだろう。のみならず「書き言葉」「話し言葉」という用語は、そもそも元来はこの立場の人の管轄内の用語であるので、他のジャンル(教育心理学など)での用法に影響されて、用語法を修正する必要などもない。そういうわけだろう。少なくとも国語辞典の編集者のほうは、自分の専門から言ってもその事情を決して軽視はしないはずである。したがって、「原稿を読み上げるアナウンサーの発話やその構成要素」を分類するときにもまた、国語辞典でも「書き言葉」「話し言葉」という単語のほうが使われてしまう、がしかし明示はせず暗示だけしておく、ということだと思う。ただ岡本のように書くならば、読者のほうでは「その用語は性能が悪いだろう」と感じることも可能だし、その用法に従わないことも可能である、その点できちんとした書き方になっている、と言える。

アナウンサーが読み上げる文字で書かれた原稿のなかに、誰かの音声での会話という要素が含まれている場合を考えてみよう。その場合、小野ならば即座に「それは話し言葉しかないだろう」と見なすだろう。小野の問題意識は「文字で書かれたもの」が「書き言葉」なのかそれとも「話し言葉」なのかに有るからだ。その場合根拠は単語レベルに置かれているのだが、それでもその文章全体を「話し言葉」である、と位置づけるように筆者には思える。またもしその会話が仮に明治時代の人のものであったりしたら、小野ならば「それは文語でなされた話し言葉なのだ」とでも見なすかもしれない。一方、岡本ならばそのどれであっても「話し言葉」であると見なしそうに思う。単語レベルの話ではなく言語活動のタイプの分類だからだ。明治時代の人の会話であっても扱いは毫も変わらない。そしてアナウンサーの原稿の他の箇所はもちろん「書き言葉」であると分類する。

また、文字で書かれた小説の中での「アナウンサーの読み上げ」という場面、という事例も考えておこう。この場合については、こうだ。小野ならば、そのアナウンサーの読み上げに使用されている単語・語句・文体的要素によって、分類が変わってくるはずだ。そのアナウンサーの使っている語句や文体が、「その時代」での会話特有のものが多ければ「話し言葉」、それに対して文語調のものが多ければ、或いはそこまで行かなくても「話し言葉」の要素が乏しければ、それは「書き言葉」と見なすであろう。というのも、この分類は「小説の作家がどう位置付けているか」の分類だからだ。他方岡本のほうは、おそらくこうするだろう。つまり、その「アナウンサーの読み上げ」という箇所を、「小説の作者の行為」とみる場合と、「登場人物の行為」としてみる場合とで、分類が変わる。岡本の分類は言語活動の分類だからだ。それでいけば、「小説の作者の言語活動」としてみればそれは「書き言葉」であり、「登場人物の言語活動」としてみればそれは「話し言葉」である、となるだろう。

用法が衝突するケース2:「書籍に文字で印字されたフィクションの中の会話(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」

まず一つ上の節での内容の繰り返しから行なう。

「書籍に文字で印字されたフィクションの中の会話」を上記の小野はもちろん「話し言葉」に分類する。というのも、小野の分類が「書かれた文字列」をどちらに分類するかは、その「書かれた文字列」が「書き言葉」かそれとも「話し言葉」かを分類する、という方針で行なわれているし、その用語法がいちばん「伝統的」「正統」であるだろうからだ。もちろんここでは「言葉」というのは「単語・語句のレベルの対象」を指すのでもある。

他方、岡本のような用法でいけば、「書籍に文字で印字されたフィクションの中の会話」は、「小説の作者の言語活動」であると見なせば、特に駄作でもない限りは「書き言葉」に、そして「登場人物の言語活動」であると見なせば、「話し言葉」に分類するであろう。もちろんここでは「言葉」というのは「言語活動」を指すのであり、その用法は「大は小を兼ねる」ため、「単語」であっても「文法体系」であっても包含できる。

しかし、この特に小野の方針とまっこうから衝突しうる用法が、やはり存在する。ただしこの用法の成立のしかたはなかなか特異でもある。それは冒頭でも予告したように「書かれた言葉(文字列)」を指したいときに、一語の名詞形にしたいがためにだろう事情で「書き言葉」と呼ぶ用法である。この用法はどちらかと言えば、「方便」として使われているものであるため、基幹的な用法とは言い難く、あまり強く自己主張もしないものである。しかしたとえば筆者にはこの用法こそが、第一印象ではむしろ「一つの中心」「一つの極」であるように思われたものでもある。確認してみよう。

ウォルター・J.オング著(桜井・林・糟谷訳)『声の文化と文字の文化』(1991、藤原書店)、p21。原文は英語であろう。その日本語訳での著作で使われている箇所は、この箇所しか見つけることができなかった。つまり著作の中の基幹的なキーワードではない。注意してほしい箇所を、引用者が強調する。

しかし、ほとんどの場合、口頭伝承と書かれた作品とを明確なしかたで対比させることはしていない(Maranda and Maranda 1971)。書かれたことばと話されることばのちがいをあつかった文献は、かなりの量にのぼる。ただしそこで比較されているのは、あくまで読み書きのできる人の書きことばと話しことばである。(Gumperz, Kaltmann and O'Connor 1984, bibliography)。主たる研究対象として本書が関心をはらうのは、そのような、読み書きのできる人の書きことばと話しことばのちがいではない。

書かれたことばという語句が書きことばという一語に置き換えられていることが可視的になっている箇所である。このようなタイプの置き換えが行なわれていると、語の意味内容が明確であると感じられるため、読者の印象に残りやすいのである。冒頭に用いた筆者の架空の語用で言えば、

この学校でのいじめ生徒つまりいじめられた生徒というのは、担任の把握外のことが多かった。

などと書かれれば「いじめ生徒」という語のこの文中での意味を誤解することもないため、記憶に残りやすいのと、まあ似たようなものである。

まったく同様の用法が、国語学者の書いたものにも発見できた。ただしここではサブタイトル(「1.1文章とは―話し言葉と書き言葉・文章史」)にも使われているため、基幹的な用法でないとは言えない。すくなくとも文章全体の話題を決定している語として使われているものではある。沖森卓也・山本真吾編著『日本語ライブラリー 文章と文体』(朝倉書店、2015)の「第1章 文章とは」(沖森卓也執筆)、p1から引用する。また、同様にして、注意してほしい箇所を引用者が強調する。

(前略)「彼女は文章が上手だ」「この文章は感動的だ」というように、文章は書かれたものを指すことが多い。しかし、書き言葉だけでなく、話し言葉でも講演などのように、ある主題のもとで展開されたまとまりは「文章」である。(後略)

ここでもまた、書かれたものという語句が書き言葉という一語に置き換えられていることが可視的になっている。ただし、置き換えと言っても完全に同値のような関係とは限らず、どちらかがどちらかを包含する関係でも良い。あとついでに述べておけば、「文章」という語の用法については、既出の『広辞苑』で体現されているメッセージである、と筆者が受け取ったものともぴったり整合している。

「話された音声が話し言葉とは限らないが、書かれた文字列は書き言葉である」というのは、『広辞苑』『日本国語大辞典』での記載内容から導出しうる見解であった。それらと、上掲の二つの引用箇所はまったく整合する。整合しないのは、「その書かれた文字列のなかに、書き言葉と話し言葉という二種類のものがある」と規定する小野正弘の用法であった。ただし小野正弘と沖森卓也はどちらも国語学の研究者であり、用法に食い違いが有るというのも少し腑に落ちない。これは、沖森の書いたものの検討をもう少し慎重に行なったほうが良い箇所である。引用をもう少し前の箇所から行なってみるのが良い。先と同じ箇所を引用者がやはり強調しておく。

思考や感情などを、ことばで言い表す場合の、完結した最小の表現単位を「文」といい、そのような文からなる、まとまりのある総体を「文章」という。「まとまりがある」とは、一貫した主題のもとで文が展開し完結しているということである。単に語が羅列されているだけでは「文」にならないように、文脈を持たない文の集積は「文章」とは言えない。ただし、小説のように何冊にも及ぶようなきわめて多くの文から構成される場合だけではなく、俳句やことわざのように1つの文からなるものも、文が展開し完結しているという点で「文章」である。「彼女は文章が上手だ」「この文章は感動的だ」というように、文章は書かれたものを指すことが多い。しかし、書き言葉だけでなく、話し言葉でも講演などのように、ある主題のもとで展開されたまとまりは「文章」である。それは書籍や雑誌などに収録されるという意味で論説文や評論文などと異ならないからである。さらに、複数の言語主体の対談や討論、また、戯曲(脚本)のような複数の話し手による発話のまとまりも、そこに一貫した主題があれば、「文章」と呼ぶこともできる。ただ、狭義では、言語行動の主体が単数であることを前提として用いられているのが一般的である。

沖森が「書かれたもの」を「書き言葉」に置き換えたときに、この「書かれたもの」が「文章」である、ということは前提になっている。そして、「文章」が「会話」とは対立的に用いられているという用法は、今まで検討した中でも『広辞苑』はじめ随所に見られたものだ。だから沖森のこの記述もそうなのかもしれない。ここでは、小野が「話し言葉」のほうに分類するであろう「文字で書かれた、小説の中の会話文」というものは、沖森の位置づけでは「文章ではないもの」に位置づけられているのかもしれない。確かに「広義」でなら、「対談」「討論」「複数の話し手による発話のまとまり」も「文章」と呼ぶことも内容次第では可能だが、しかし「狭義」でなら呼ばないこともできる、と沖森は見なしているというわけだ。もしその解釈が的外れでないならば、大まかに言って同業者である小野と沖森とで、用法が特にひどく食い違っているというわけではない、ことが何とか(辛うじて)言える。

とは言うものの、沖森の書いた文章の後続する箇所をみると、どちらかといえばやはり第一印象のほうが解釈として適切であったらしいことが、うかがえる。p2。強調は引用者による。

一方、言語行動の客体、すなわち聞き手(読み手)との関係では、その相手が目上であるのか目下であるのか、同等であるのか、親密度が高いか低いか、特定の人であるのか不特定の人であるのか、教養や専門的知識の程度はどの程度であるのかということが文章の内容に影響を与える。場面との関係では、改まった場面であるか、くだけた場面であるか、儀礼的儀式的な場面か娯楽的趣味的もしくは教養的であるか、一方向性であるか双方向性であるか、などが関与する。また、表現の媒介手段に関するものでは、音声言語による(話し言葉)か、文字言語による(書き言葉)かが言語表現を制約する。

…と述べられているので、やはり先ほどの「書かれたもの」を「書き言葉」に置き換えたのは、同値関係か包含関係が成立するから置き換えたのであり、あまりそれ以上目を細かくして検討しなくても良かった、ことが推察される。ただしこの段落での沖森の話題というものは、普通人が普通人に向けて発信する文字や音声の言葉というテーマなのであって、「小説」のような実践での言葉が話題に含まれているわけではどうも全くなさそうだ。その点が大きく影響しているだろう。したがって、沖森と小野が同業者でありながら用法が対立している、というよりは、「小説」を話題に取り上げるときと、「日常の言語実践」を話題に取り上げるときとで、研究者の「書き言葉」の適用規則が変わることも有るのだ、とみたほうが良いのかもしれない。小説の場合だと、「書き言葉」の「言葉」というのは、「単語・語句・文体を決める語要素」などを指す、つまり「書き言葉」=「書くための単語・語句・語要素」であるのに対して、普通人の言語実践を取り上げる場合だと、「書き言葉」の「言葉」というのは「知覚可能な対象のうち文字列であるもの」を指すのだ、つまり「書き言葉」=「書かれた文字列」である、とそういうふうにして使い分けられている、というふうに解することが正解なのではないか、と筆者は現在のところ考えている。

用法が衝突するケース3:「電子メディアでの“チャット”や携帯電話での文字のやり取り(やその構成要素)は、話し言葉か書き言葉か」

このケースの場合、とりわけ「“書き言葉”という単語」のなかの「言葉」が何を指すのか、何と置き換え可能なのか、を明確化しておけばさして難しくない。と同時に、その語用規則の点で、両者で折り合いがつけられなければ、対立は平行線をたどることになる。

この点を検討するために、日本語教育学会・編『新版日本語教育事典』(2005、大修館書店)のいくつかの文章を一瞥してみる。日本語教育学の位置づけからすると、「心理学や社会学に近い言語学」と「国語学や文学研究に近い言語学」とが両方絡む可能性が高い。このような領域横断型の企画では、用法の混在に特に注意が必要だ。4「ことばの運用」という章からいくつかの文章をみてみよう。まず「話しことばと場面」と題された文章のなかの小さな節「話しことばと書きことば」からである。岡本能里子という、日本語教育学寄りの言語学者が担当している。p346。

日本語は話しことばと書きことばの違いが大きく、作文教育では1つの困難な点とされている。しかしその区分は、単純ではなく、文字で伝達されるものが「書きことば」で、音声で伝達されるものが「話しことば」であるとはいえない。特に最近盛んになっているインターネット上のチャット(おしゃべり)といわれるやりとりが行われていることからもその区別がますます難しくなっている。(後略)

と在り、その現象上の区別がどう難しいのかについては、これ以上の踏み込んだ解説は岡本は特にしていない。しかしともあれ、インターネット上のチャットという「書かれた(つまり打たれた)文字列」をどう分類するのか、という話なのだから、昔から有った話だし先にも述べたような「文学作品のなかの会話」をどちらに分類するのか、という話と同型であることはわかるはずだ。岡本はここで「書かれた文字列→書きことば」/「話された音声→話しことば」という規則は採用しない、と述べているだけだ。そして、昔から有ったような文学作品でのその分類も、或る程度錯綜していることは前節で見たとおりである。同じような食い違いが、インターネット上のチャットという話題でも再来するだけだと筆者は思う。ただし、この事典での執筆陣のうちここで取り上げる研究者に関して言えば「話しことば」の「地位」が「全く低くなくて、むしろ高い」ことに特徴が有る。「話しことばの地位がむしろ高い」という立場が積極的に前提されている状況は、今回の論考では今までまだ登場していなかった。その点が今回の特有の注意点を形成するかもしれない。

なお、岡本能里子がその後に言及している永野賢(1947)の議論は「固定電話で会話すること」すらも「話し言葉」の側に入りそびれ、位置づかないような分類なので、電子メディアについて論じるときに積極的に参考にするべき議論ではないし、言及自体もできれば止めたほうが良い。

さて似たような話題で、「文脈」と題された文章のなかの小さな節「文章の種類」において、佐々木泰子という社会言語学者が次のように書いている。p356。

手紙は最近の電子メディアの発達によって、携帯やパソコンによるメールが一般的になりつつある。そこでは文字だけでなく記号などの非言語表現が多用され、これまでになかった「話しことばに近い書きことばの文体」が生まれている。その内容もお知らせ、問い合わせ、お願い、お礼など多様である。(後略)

ここでの「話しことば」「書きことば」の「ことば」というのは、「文体」を構成要素として含むような何かであろう。なので、「単語・語句・語要素」と置き換えても良いが、「言語体系」くらいに大きく出ても良いかもしれない。それなら「大は小を兼ねる」からだ。すなわちここで成立している関係は「話しことば→話すための言語体系」「書きことば→書くための言語体系」という言い換え関係である。

電子メディアの話題に言及しているわけではないが、先の岡本能里子の文章と同じページにあり目についた別の記事をも参照してみたい。「話しことばの特徴」と題する文章の最初の二つの節を参照する。執筆担当者は水谷信子という日本語教育学者である。最初の小さな節「話しことばの定義」ではこうだ。

ここでいう「話しことば」とは、単に書きことばの「である」が「話しことば」では「です」になるというような「書きことば」に対する文体の違いをいうものではない。相手があって場面があるコミュニケーションの目的をもって用いられるものと限定する。また、音声言語であっても書かれた原稿をそのまま読む場合の講演やテレビニュースは話しことばとして扱わない。

とあるので、おおむね言ってここでの「話しことば」「書きことば」での「ことば」は「言語活動」と置き換え可能であると言ってよいだろう。岡本夏木の著書などにも散見された用法だ。そのようにはっきりさせておくと、水谷の次の小さな節もより慎重な姿勢で読むことができるようになる。「話しことばと書きことば」と題された節だ。p347-348。

日本語は、話しことばと書きことばとの位相差が大きいといわれてきた。一度書いたものは何度も読み返すことができるが、話したことはその場ですぐ消えてしまう。そのため、終助詞を入れて聞き手が話についてきているか確認したり、中心的な情報を連続させるのでなく、聞きやすいように緩衝となる部分を入れたり、繰り返しを用いたりする。同音異義の語や耳慣れない語を言い換えることもあって、冗長性を帯びることも自然である。書きことばで「10時に家を出て銀行で預金し買い物をして、11時に駅に着いた」というものを、話しことばでは、「家を出たのは10時だったけど、銀行でお金を預けたり買い物をしたりしたんで駅に着くのが遅くなって11時になってから駅に着いた」のようになる。この冗長性は、理解を容易にする機能も果たしている。また、ポーズ、イントネーション、プロミネンスが表現の意図のみならず意味の区別にも大きな役割を果たす。たとえば、「うすい茶色のコート」は、ポーズによって「うすい」が「茶色」を修飾するか「コート」を修飾するかの違いが出る。

この節でもあり段落でもある箇所などは、多少慎重に読むことも可能である。最初のほうで述べられているのは「いわれてきた」内容であり、必ずしも水谷が積極的に支持しているかまではわからない。その「いわれてきた」内容に即する限り、「話しことば」と「書きことば」というときの「ことば」は「単語レベルかせいぜい文体レベル(文体を左右するような単語レベル)」までである。しかしそれは「いわれてきた」内容であって、それだけでなく水谷が独自に付け加えている話題が後続しており、特に「発音のしかた」の配慮の話題まで行くと確かに「単語レベル・文体レベル」だけでは到底足りなくて、やはり「言語活動」と一括してしまうのが好都合であり、またその言い換えこそが本質的でもあろう、となる。「話しことば→話すという言語活動」と置き換えてしまえば、その枠内に「単語レベル」「文体レベル」の話を含ませることもできるのだから、それで構わない。そういうことだろう。「従来言われてきた」言説では「話しことば」というときの「ことば」は「単語レベル」に毛が生えた程度だったが、水谷が主張したいのは、それも含まれるような形での「言語活動」レベルの区別である、という内容だった。そのように筆者は受け取りたい。

すると、ここで3人の研究者が使う「話しことば」や「書きことば」というのが、どれもおおむね言って「話すという言語活動」「書くという言語活動」と等値できると言えるとして、どうしても疑問を筆者は感じてしまうわけだ。それならなぜわざわざ用法が混乱して紛糾しそうな「話しことば」「書きことば」などという用語を使おうとするのか、である。発達心理学や教育心理学ならまだわかる。ヴィゴツキーという大物心理学者の代表作の日本語訳として定着した「書きことば」という用法が有り、日本の一部心理学者の(狭いかもしれないが)集団内でもそれは確立された用語法になっている。「それを保守し尊重したい」というわけだろう。だが、日本語教育学や社会言語学の研究者までがそれに同調する必要が無いのだ。

これはかなり憶測が強いのだが、筆者の印象はこうだ。この分野横断型の事典には、国語学者も数は少ないかもしれないが参加しており、また、言文一致体などの日本語の文体の変遷を研究している言語学者(加賀野井秀一など)も参加している。そういった異分野の研究者に対する或る種の対抗意識のようなものが、少々潜在しているのかもしれない。彼らのうち一部の者が使う「書きことば」「話しことば」という語の使用規則や基準は、どうにも受け入れられない。特に「話しことば」の置かれている「低い地位」には我慢がならない。他方で、発達心理学者や教育心理学者の用法には賛同できる。なので、あえて「論敵」とも言える相手の使う用語を、あえてわざわざ別の用法で使って見せてみたい、というような「対抗意識」が日本語教育学者や社会言語学者のあいだに生まれた、というわけである。そして、異なった用法を異なったまま放置しておくと、「言葉の使い方のルールの違い」なのか「事実認識に関する違い」なのかが曖昧になり、曖昧なまま対立することにもなりかねない。そういった対立状況が実際に或る程度すでに現実化もしていて、それがこの事典での記述にも表われてしまった、ということではないかと思う。

ここで筆者がいまひとつ思い出すのは、日本史の検定教科書等で或る時期から「踏み絵」という行為のことを「踏み絵」ではなく「絵踏み」と呼ぶように統一しているという話である。或いは、筆者が小学生の頃教師か誰かに「本当は、“縄跳び”ではなく“飛び縄”という呼称が(縄を指す場合には)正しい」と聞いたことがあるような気がするのだが、これも同型の話である。それと全く同じことを、この日本語教育学や社会言語学の人にはちょっと言いたくなる気分が有るのだ。「それは“話しことば”と呼ぶのはやめて、“ことば話し”というふうに言い換えませんか」と、だ。だがもちろん「ことば話し」や「ことば書き」などという「用語」が受容され許容されるはずも、無い。試しに先に引用した箇所を一部置き換えてみよう。岡本能里子の書いた箇所はこう置き換えることが充分可能なように思う。

日本語の運用では「話しことば」と「書きことば」の違いが大きく、作文教育では1つの困難な点とされている。しかしその区分は、単純ではなく、文字で伝達することが「ことば書き」で、音声で伝達することが「ことば話し」であるとはいえない。特に最近盛んになっているインターネット上のチャット(おしゃべり)といわれるやりとりが行われていることからもその区別がますます難しくなっている。(後略)

佐々木の書いた箇所は「言語体系」と置き換え可能だったので、「言語活動」相当の言い方に置き換えなくても良いのだが、それでも次のように置き換えることはまあ可能だろう。

手紙は最近の電子メディアの発達によって、携帯やパソコンによるメールが一般的になりつつある。そこでは文字だけでなく記号などの非言語表現が多用され、これまでになかった「“ことば話し”で使われる文体に近い“ことば書き”用の文体」が生まれている。その内容もお知らせ、問い合わせ、お願い、お礼など多様である。

「話しことば→話す言語活動」という置き換えがいちばん有効そうに見えたのが水谷の文であった。書き換えると次のようになるだろうか。

ここでいう「ことば話し」とは、単に「ことば書き」での「である」が「ことば話し」では「です」になるというような「ことば書き」に対する文体の違いをいうものではない。相手があって場面があるコミュニケーションの目的をもって用いられるものと限定する。また、音声言語であっても書かれた原稿をそのまま読む場合の講演やテレビニュースは「ことば話し」として扱わない。

こうしてみると「ことば話し」「ことば書き」という言い方が受容されない理由、そういう言い方を通常誰もしない理由が見当がついてくる。括弧に入れないとそれが名詞であり単語であるということが、全く伝わらない、ことが理由だ。いちいち括弧が必要になるのだ。だからもし「ことば話し」のほうが正確に思えても実際には「話しことば」と呼ばれ、「ことば書き」のほうが正確に思えても実際には「書きことば」と呼ばれる、というわけなのだ。

これらの検討が「インターネット上のチャットや携帯メールでのやり取りを“書き言葉”と呼ぶかそれとも“話し言葉”と呼ぶか」という議題と直接関連するかどうかはわからない。だが、そこでの「対立」は実際には「インターネット上のチャットや携帯メールでのやり取りを“書き言葉”“話し言葉”“言葉書き”“言葉話し”のどれで呼ぶか」になっている面は有るだろう。で筆者自身はこの選択肢の設定からしてほんとうは少し不適切であると思っており、もし言うのなら「インターネット上のチャットや携帯メールでのやり取りは“見え言葉”“話し言葉”“言葉見させ”“言葉話し”のどれで呼ぶことも可能な面が有る」とするだろう。「書く」と「話す」の二項対立がベースではなくて「見せる」と「話す」という直交していない二項の対立がここでのベースだと思うからだ。実際に「書き言葉」と呼ばずに「見え言葉」「見られ言葉」「見せ言葉」と呼べば良いのにと思うことも多い。また「話し言葉」というのも、「話し言葉」と呼んだほうが適切な場合と、「聞こえ言葉」と呼んだほうが適切な場合とが有る、と感じている。まあこれはいささか話が先走り過ぎた。ともあれ、「小説の中のせりふ」や「インターネット上のチャットや携帯でのメール」について用語を決めるときに「書き言葉」と「見え言葉」のどちらが違和感が無いのかくらいは事前に考えておくべきことではある。「見え言葉」や「見られ言葉」や「見せ言葉」や「言葉見せ」のほうがぴったり来るなら「“書き言葉”という単語」はむろん使うべきではない。

「小説のなかのセリフは書き言葉か話し言葉か」という議題設定ではおそらく「“書き言葉”という単語」「“話し言葉”という単語」がその二択にのぼってくるのは当然である。というのもまさにそういう問題系を扱うために「発明」された単語に決まっているからだ。だからかりに「その二択自体に意義が無い」と感じる者であっても、「義務」として多少は付き合わなけらばならない。それらの語の存在理由ですらある。その系の議題設定で「エクリチュール」とか「パロール」とか言い出す人が居れば、「あ、付き合いたくないんだな」と見当がつく。しかしそれに対して問題の構図はよく似ていても「インターネット上のチャットや携帯でのメールは書き言葉か話し言葉か」という議題を設定するときに、「“書き言葉”という単語」「“話し言葉”という単語」が二択にのぼってくる理由が全く無い。その話題のために作られた語ではないし、もちろん性能も良くない。

しかし日本語教育学(場合によっては社会言語学)の人々もまた、その議題設定のときに「書き言葉」「話し言葉」という二択を持ち出しがちであることも、わかった。そこにはおそらく「話し言葉(という単語)の復権」「書き言葉(という単語)に比べて劣位に置かれがちな話し言葉(という単語)の地位を上げる」ということへの「情念」が関係している。そのためもまず間違いなく有って、「言葉書き」ではなく「書き言葉」、「言葉話し」ではなく「話し言葉」とわざわざ混乱するような用語を使うこととなった。それは「論敵」の用語法を、同じ用語をわざわざ異なった意味合いで使うことによって、否定してかかろう、という「情念」でもあるだろう。その企てに、全くの異言語であるロシア語からの翻訳によって生まれたであろう発達心理学・教育心理学での用法が、援用された。なので、ここでのほんとうの議題設定は、パソコンやケータイでのコミュニケーション現象を扱うときに「話し言葉・書き言葉という語を基幹的なものとしてわざわざ使いたくなる人々がなぜ存在するのか」のほうなのである。これは「代理戦争」のような現象なのかもしれない。

複数の解釈の可能性を封じているケース

「複数の解釈が可能なのにそれでOKになっているケース」という状況を検討したいと思ったのだが、その反対のほうがより容易である。「“書き言葉”という単語」「“話し言葉”という単語」というものが、異なった用法が並立しやすいため論旨に混乱をきたす、そのことが初めからわかっているケースでである。このときに「複数の解釈の可能性」をできるだけ封じておこうとする表記が、散見されるのだ。そうではない場合と比較してみる。たとえばもしこのとき、「自分自身の議論や問題提起」をしたい場合になら、そもそもそれらの語を使わないのがいちばん賢いということになる。たとえば大澤真幸『電子メディア論』(1995、新曜社)の本文には「書き言葉」「話し言葉」という語は一度も出現していない(注のほうは確認していない)。だが、自分自身の議論をしたいというよりは、「いろいろな議論や問題提起が有る」ということを紹介することのほうに主眼が有る場合もある。この場合には、「書き言葉」「話し言葉」という用語の使用を避けることができない。そういったときに、「複数の解釈の可能性」をできるだけ封じておこうとする表記というものが登場する。その代表例が辻大介「読み書き」(←東京大学社会情報研究所・編『社会情報学II メディア』東京大学出版会、1999)である。p134、p143-144、p145から引用する。強調は引用者による。

(前略)先に紹介した最古のシュメール文字は、こうした絵画的図像から生みだされた「絵文字(ピクトグラム)」だったのです。

この絵文字は、絵と同様、ものごとを直接的に表す記号であり、今の文字のように話しことば(音声言語)と対応づけられるものではありませんでした。いわば、当時の書きことばは話しことばとは別の言語体系に属していたのです。(後略)

文字・書きことばのもつ脱文脈性などの特性が人間の認知のあり方に変化をもたらすというのであれば、習得された読み書きのタイプにかかわらず、どれも同じような関連がみられるはずですが、そうはなっていません。(後略)

一般に文字(書きことば)の認知過程には、いったん心のなかで音声イメージに変換してから意味処理がなされる間接的なルートと、音声イメージを介さずに意味処理がなされる直接的なルートがあるらしいことがわかっています(御領、1987)。(後略)

辻がここでいろいろ苦心して表記を決めている事情がうかがえる文章である、…とここまで「書き言葉」「話し言葉」という単語の使用状況を鳥瞰してきたうえでなら思える。「話され言葉」「書かれ言葉」と言えばまぎれずに済むはずだが、そういう言い方だと「既存の問題提起の紹介」に徹することができにくくなる。そのために何とか「既存の表現」を生かしつつ、かつ複数の解釈の可能性をできるだけ封じておこう、という苦心の結果なのである。

なお、この辻の文章では茂呂雄二『なぜ人は書くのか』(東京大学出版会、1988)も参照しており、その主旨や用語法に一定の理解だけでなく、賛同・尊重もしているのだろう。そのため、先の引用にはその事情も反映している。すなわち「文字→書き言葉」の置き換えはできても、「書き言葉→文字」の置き換えができるとは限らない、という認識を正確に反映した表記になっているのである。茂呂の議論では、まだ文字を習得していない幼児の「描画」「線描」などといった行為もまた「書く」ことの側だと見なしているからだ。

複数の解釈が可能なのにそれでOKになっているケース

その著者によって述べられた「“書き言葉”という単語」「“話し言葉”という単語」が、二義的・多義的でありながら当人も読者もあまりそれが気にならない、というケースはいろいろ有りうるうはずである。これに関しては、実際の用例を鳥瞰している余裕が無いので、「理論上有りうる」という各種の可能性について、一瞥しておく。

想定しやすいパターンその1は、どちらを適用することも正しくもあり可能でもある場合だ。特に「話すための単語」と「実際に話された音声」との区別がつきにくいケースである。これは実際に話された音声のなかで「話すための単語」(とやら)が使われているすべての場合が、当てはまりうる。たとえば「だって、変なんだもん」と実際に音声で発話されたものを聞いて、「これは話し言葉です」と定式化された場合を考えてみればわかる。ここでは、「話すための単語(「だって」など)」が「実際に話された音声」の中で使われている。このときに、「“話し言葉”という単語」がどちらの意味内容で使用されたかは、決定不能である。その決定のためには、その人物の語の用法を、それもその話題の圏内で、もっと観察しないとならないだろう。この箇所だけでは決定できない。そして、往々にして「この箇所だけでは決定できない」というふうに、キーワード的というほどでもなく突然使われることが目立つ単語なのである。ここにこれまで観察してきたような「話すための言語体系」や「話すという言語活動」の可能性も代入して構わない。その場合であるかどうかも含めた、決定不能な状態になっているのである。「書き言葉」でも同様のことが妥当する(「書くための単語」の候補として決め手になるものがやや浮かびにくいとは言えるにせよ、だ)。

想定しやすいパターンその2というのは、今までも時折述べてきた「大は小を兼ねる」事情が影響しているものだ。やはり上記の例がそのまま使える。「話し言葉」という単語を、「話すための言語体系」の意味で用いている者は、「話すための単語」という意味をそこに含めることが可能でも当然でもある。或いは「話し言葉」という単語を、「話すという言語活動」の意味で用いている者は、「実際に話された音声」「話すための単語」「話すための言語体系」というどの意味も、そこに含めることが可能でも当然でもある。なので、まず「話し言葉という言語活動」の意味で用いている者からすると、「自分の用法と異なる」用法に出くわし気づくことができなくなる。どの用法も自分の用法の「一部」として見なすことができるからだ。反対に、「一部として位置づけられてしまう」側の用法の者にとっても多少気づきにくい。「話すという言語活動」の意味合いで用いている者の、少なくとも一部は自分の用法と合致するからだ。そして合致しないケースについても「少々概念の拡張をしすぎではないか」くらいにしか思わないだろうからだ。

他にも有るかもしれないが、今はここまでにしておこう。

この文章を書き考えるときに、筆者が多少意識していたもの

この文章を書き考えるときに、筆者が多少意識していたものを二つほど紹介する。参考文献であると言っても良いものだ。というのは、少なくともこの二つを、自分の言っていることがおかしくないかどうかの参照項として「検算」的になら少し用いているからだ。

ひとつは言語哲学における「使用」と「言及」という概念対である。この点に関しては丹治信春『クワイン ―ホーリズムの哲学』(講談社、1997;または平凡社、2009)が筆者の知るすべてである。講談社のほうのページ番号で言えば、p18-22の箇所である。

この説明にしたがえば、「富士山は日本一高い山である。」という文においては「“富士山”という単語」は「使用」されている、と規定できるのに対して、「“富士山”は漢字三文字からなる。」という文の場合は、「“富士山”という単語」は「言及」されている、というわけだ。でこの区別をちゃんとしていないと、「2/3は既約分数である。しかるに、2/3と4/6は同じ数である。∴4/6は既約分数である。」といった誤った推論をしてしまいかねない、というわけだ。「既約分数である」という箇所は、「使用」ではなく「言及」だからだ。で、話を戻すと、「書き言葉」や「話し言葉」という単語が用いられるときには、結局この分類で言えば「言及」が行なわれている、という位置づけに相当するのだろう、と筆者は見なした。で、その「言及」にも「さまざまな面・次元」での「言及」が可能になっているのだ、ということが判明した。…と、そのように位置づけることができるだろう。

もうひとつは、国語科教員である大村はまの国語教育実践での「単元「ことば」ということばはどのような意味で使われているか」である。これは大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』(筑摩書房、2003)を参照した。この書の第二章「大村はま国語教室の実践」(大村はま/苅谷夏子)である。

この回想録と対談もまた、「検算」用に参照した。とは言え筆者のここまでの文章で「書き言葉」「話し言葉」という語の「言葉」をいちいち過剰に明確化しようとする姿勢は、やはりこの苅谷夏子らの文章があってのものである。果たした役割は小さくない。そのうえで(自分のほうの)内容が特に足りないとかおかしいとか、そういったものが無いだろうか、と比較する姿勢を多少もつようにして読んだ。

最後に「いちばん言いたいこと」

今回のこの文章は、内容のほうももちろん或る意味では重要である。しかしもう一つ重要であると思う意義がある。それは「この文章のような検討」がそれ自体として「学術的な貢献」にはあまり見なされない、にもかかわらずだからこそ個人レベルでやっておいたほうが良いことへの注意喚起である。

筆者がここで今まで書いたようなこのタイプの検討というものは、まず「大学進学を希望する高校生」が進学先を決めるために、行なったほうが良いものである。つまり、自分の関心のあるキーワードや語彙が、研究者によって実際にどのように使用されているのかを、比較検討して、「自分に合う」ものを選ぶために行なってみると良い検討である、ということだ。というのは、その学問の性能や本質は、そこでの「語彙」や「キーワード」の使い方の巧拙や配慮にかなり表われてくると筆者は思うからだ。次に「卒論を控えた学部生」が卒論に先立って、非公開で行なったほうが良いものである、ということも言いたい。というのも、何であれ卒論で扱うようなテーマに関係する主だった語彙やキーワードのその使用状況を実際の用例にあたって鳥瞰しておくことは、卒論の指導教員選択・テーマ選択から卒論そのものの出来具合にいたるまで、すべてに影響するからだ。

とこのように、高校生や大学学部生にとってはこの種の文章を書くことで、この種の検討を事前にしておくことはとても有益だと筆者は信じるのだが、同時にそれは「それ自体としては学術的貢献」とは見なされず、多くの場合卒論にもそれ自体を展開することは不可能である。この種の「概念の批判的検討」は、「すでに実証的な研究で実績を上げた」功労者にしか通常許されていないし、その場合でも「自分の管轄内の分野」に限定されるだろう。「よその分野」での概念の検討までしたら、わざわざ「敵」を作るだけだし、「専門外のことに首をつっこんでいる」として同業者からも批判されるだろうからだ。だから、こういった検討というのはそれ自体としては、大学での卒論はもちろんだが、レポートなどにもうかつには書けない内容だ。「そういうことを議論したいなら哲学に鞍替えしなさい」と諭されるのがオチであろう。だから大学生は非公開で行なうべきだし、しかしにもかかわらずやっておいたほうが絶対に本人には得であるものだ。そういう事情が、専門家の書くような文章にまで反映していて「一度もこういう概念的検討をしたことが無い」学者が時折混じっているような、そういう言説状態であったわけだ。「哲学(主に分析哲学)」という「ちゃんとそれ用に用意された学問」以外の分野で、こういった概念的検討が公開されることは稀少であること、にもかかわらず「学部生」や「高校生」は「実証的な研究実績を上げる」よりも先にやっておくにこしたことは無いこと、そのことを少し声を大にして言いたい。