あらすじ・アブストラクト・要約

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要約・アブストラクト

「あらすじ」「アブストラクト」「要約」ととりあえず三つ並置してみた。だが、「アブストラクト」は最も重要なものであるにもかかわらず、圧倒的に知名度が低い。高等学校でもまず教えない(だから知名度が低いのだ)。なのでとりあえず、「要約」と「アブストラクト」の相違点から一瞥してみよう。次の例文に対して、「要約」と「アブストラクト」でそれぞれまとめてみた。

例文:競技クイズに熱中する高校生が多すぎる

現在私のツイッターアカウントでフォローしている日本国の「高校(又は中高)」を名乗るクイズ研究会のアカウントは190以上である。昔は、クイズといえば大学生のサークルが主だったように思うが、今は完全に中高生のうちから始める競技になっている。

私は、この状況を快く思っていない。中学生・高校生がクイズをやり過ぎていると思うのだ。高校生のうちからクイズをやるという人口はもっと減って良い。そのようなことを以下述べたい。

上記のアカウントのうち何割程度かは不明であるが、学校の「公式」のクラブ活動として行なっている。…ということは学校側・教師の側も高校生が競技クイズを学校の活動として行なっていることに対して、好意的にみている場合が多い、ということだ。なぜか。

その理由は、二つの方向から推察できる。一つは、クイズの内容の一部は学校で教わる学科の内容と重なっている部分が在るため、本来の学業のためにプラスになる面が在るからだ、というものだ。たとえば、競技クイズを行なうためには、世界地図が一定以上の詳しさで頭に入っている必要が在る。この技能は社会科などの学業にプラスになりうるだろう。

もう一つ、気づかれにくい理由が在ると思う。それは、競技クイズで好成績をとりたいと思ったら、何はともあれ新聞・スポーツ新聞・テレビの報道番組などに常日頃から接している必要が在る、という事実と関連している。早い話、学校の教師というものは、生徒が報道にふだんから接し、時事問題に関心をもつことに対して、条件つきで好意的なのだ。それが二つめの理由にほかならない。まず、この後者の事実を以下しっかり確認しておこう。

地上波で放送されているクイズ番組のなかには、出題の根拠が「それが時事的だから」というものが決して少なくない。そしてそれに対して「早押し」で正解する場合もまた、「それが時事的であり、最近の事柄だからだ」ということを理由として早押しができるし、正解もするのだ。

このことに気づいたとき、私は非常に危惧をもった。クイズに強くなるためには、新聞やその他の報道に日頃から接触する必要が在るわけだが、その態度というものは、「無批判」というものであり、報道対象や報道姿勢に対して「批判的」になることはちょっと想定しづらい。また假にクイズ競技者が批判的な態度で報道に接したところで、地上波で放送されるクイズ番組にその姿勢が特に役立つわけではない。役立つわけではないから、結局は報道に対して従順な態度というものが形成されてしまう。かくして、コロンブスやペリーを「偉人」と見なさないと正解にならないということにもなるわけだし、その「無批判」な態度・見方でもって新聞等で時事問題にも接することになるのだ。

学校の教員のなかにも、報道に対して批判的な層もいると思うが、そういうかたはクイズ研究部の顧問などにはならないだろう。なので地上波番組でのクイズや新聞やテレビでの報道内容・報道姿勢に危機感をもたない教員、言い方は悪いが現代日本の報道というものを総体として信じ切っている「問題意識の低い」教員のほうが、高校生のクイズを支援することになりやすくだろう。

このように私がクイズに対して批判的なのは、主に内容についてであって、クイズという形式そのものではない。ちゃんとした大人なら、地上波のクイズに絶対出題されないような知識がいくらでも在ることをほんとうなら知っているはずだ(例:日米合同委員会)。そういう知識を取り扱うクイズが在れば、それは良い事だと思う。だがしかし、現実にはそれらがクイズの形式をまとって現れることは、地上波では在りえない。そしてそのような知識が高校生に与えられないまま選挙権すらもまもなくもつという高校生が競技クイズにかまけているわけだ。これはまるで誰かの陰謀なのではないかと思いたくなる。陰謀かどうかはともかくとして、私はそういうわけで、高校生がメディアに批判的な姿勢や知識が形成されないまま競技クイズに広汎に、また多数かまけている状態を苦々しく思っている。

上掲の文章「競技クイズに熱中する高校生が多すぎる」を要約してみたものは次のようである。

要約

全国の高校生のなかに、学校のクラブ活動の一貫として競技クイズに取り組んでいる高校生・中学生がたくさんいる。私はそれを苦々しく思っているが、そのおもな理由は、早押しクイズというもののなかには、その正解の根拠が「時事的である」というものが在ることだ。そのため、高校生は新聞等に日頃から目を通すようになり、それを学校の教員も支援することになる。その帰結として高校生が、現政権に無批判的な態度をごく自然に採るようになり、選挙にも臨むようになる。地上波のクイズでは、政権に批判的な態度に有利な出題など無いからだ。私はそのことを苦々しく思っている。

「政権」という、元の例文に無かった語を用いている、という点で「要約」としてはやや良くない。自分なりに詳しくしているとも言えるが、「要約」するふりをして少し自己主張をしているとも言える。

また上掲の文章「競技クイズに熱中する高校生が多すぎる」からアブストラクトをまとめたものは次のようである。

アブストラクト

最初に、現在の中高生のなかで学校公認の部活動として競技クイズを行なっている者が多数になってきている、という現状を著者は紹介した。次に、学校側がそれらを認可・奨励している理由が二つ推測的に述べられた。一つは、クイズの知識に学校知との連続性が在る、ということが述べられて、もう一つは、クイズの正解の根拠が「時事的である」ことに在る出題が存在することを示し、学校の教員も生徒がクイズ対策に新聞等を見るようになることを推奨するだろう、ということが述べられた。その際、クイズ対策として新聞等に接する高校生が「無批判的」であること、選挙権をもつ目前の存在であることにふれ、クイズを奨励する教員も「問題意識の低い」者が多いのではないかと、推測が述べられた。また「無批判」の事例として「コロンブスやペリーを偉人扱いする」ことに言及・例示した。「日米合同委員会」という事例も挙げて地上波のテレビでは放送が困難であるような知識が在るのに、それを高校生が学ばないことや、学ぶことが奨励されていない事態を「苦々しい」という表現で、著者は概括した。

要約とアブストラクトとの違い方は、読めば読者のかたには直感的にわかるはずのものだが、一般に、違い方がきちんと定式化はされていないと思う。たとえば戸田山和久著『最新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(2022、NHK出版)ではこのページでいう「要約」を「下手な要約」と定式化し、「アブストラクト」を「下手な要約を改善したもの」すなわち「よい要約」というふうに位置づけていた。しかしこの二つは「上手/下手」という違い方なのではない。もっと構造的なものだ。この点を少しだけ詰めておこう。

だが、この構造的な違い方を無視して、戸田山は「良い要約」「下手な要約」というふうに把握し説明した。このようなことが起こる主な原因は、大学教員だとアブストラクトの形でまとめる(「要約する」と彼らは呼ぶ)のが当たり前であるのに対して、小中高の12年間だと上記のような「要約」で要約と呼ぶからだろう。そしてその棲み分けがあまり気づかれていないからだろう。のみならずその違い方が大学受験の出題でも問題化されないからだろう。そのように推察される。

あらすじ・アブストラクト

つぎに、あらすじとアブストラクトを比較して得心してもらうことを簡単に行ないたい。つまり、以前からこのページに書いてあったものを、ほぼそのまま転載したい。2014年にテレビ朝日で放映されていた『烈車戦隊トッキュウジャー』の第一話を、あらすじとアブストラクトの形式で記述した(つもりの)ものである。まずあらすじを述べる。

トッキュウジャー第1話:あらすじ

イマジネーション、それは不可能を可能にし持てる者だけが持つ力であり、世界を照らす光である。一方その光を嫌う闇もまた存在する。この物語はその光と闇との戦いの物語である。闇のシャドー怪人が子供たちを誘拐したところ、その列車に青年ライトが乗り合わせていた。一方シャドーを倒すべく列車レインボーラインが追跡し、シャドーの乗った列車シャドーラインと銃撃戦になった。このレインボーラインに乗っていたのは、シャドーを倒す使命を与えられたばかりの、四人の新米戦士であった。彼らとシャドー怪人とが地上で肉弾戦を繰り広げているのを見て、ライトは生身の人間のまま無謀にも戦闘に加わり、投げ飛ばされて気絶する。その隙に怪人は逃げ、誘拐した子供を送り込む先である闇のステーション設置の手はずを整えて、上司であるノア夫人に報告した。一方、レインボーラインの車内で保護されたライトが覚醒して、素顔に戻った四人と車掌および自称その片腕である腹話術人形風のチケット君と出会うことになる。やがてライトは記憶を取り戻し四人の幼馴染であったことに気づき、幼馴染としてあらためて再会する。そして、なりたかったトッキュウジャーのメンバーに認定されていることをライトは知った。また、シャドーが世界を闇で満たすのを阻止するのがトッキュウジャーの使命であり、五人はイマジネーションの力が在ることによってそのメンバーに選抜されたのだと、皆は車掌に告げられた。それを聞いたライトは変身のしかたも知らないまま、メンバーとして子供たちを助けるべくシャドーラインに乗り込み、その後を追って他の四人がライトの援護と子供の救助に向かった。トッキュウジャーの五人は、シャドーの怪人の繰出す大量の戦闘員たちに対して、各人に与えられた武器で戦いを挑んだ。さらに、メンバーの戦闘服や武器ごと一気に交換する「乗り換え」という技をライトはとっさの機転で実行し、皆をそのその乗り換えに巻き込むことよって、さらに敵を倒した。その後車掌たちからの指示で、イマジネーションによって繰出すことのできる変幻自在の最終兵器を用い、等身大の怪人をいったん斃した。怪人が巨大化して復活したため、今度はトッキュウジャーの五人は、各人の列車を操縦しさらに合体して巨大ロボットに変身し、巨大化した怪人をも斃した。その後帰還したところ、お前たちは死んだも同然の存在であるとチケット君に告げられ五人は大いに動揺した。

トッキュウジャー第1話:アブストラクト

物語の初回なので、主な登場人物や場面設定などを一気にしかも無理の無いように、短時間にそして端的に提示することに作者は努めている。劈頭で、イマジネーションというものが物語のなかで果たす役割を語り部に語らせる。そして物語の開始を「青年ライトの覚醒」に設定し、まず覚醒したライトがシャドー怪人に遭遇し、ついで新米戦士の四人のトッキュウジャーと怪人の戦闘に立ち会うという流れをつくる。ライトと他の四人との非対称性を打ち出すことで、そののちの対面とさらに実は幼馴染であったというライトの記憶の回復と再会とが、一つの山場になるように展開される。と同時に、その山場が、トッキュウジャーの使命をメンバーが車掌に告げられライトもまたメンバーであることの告知の場面にそのまま重なり、より高揚感を高めるようになっている。この山場の感覚を維持したまま、五人と怪人との戦闘場面と、五人がメンバーに選抜された理由を車掌が演説する場面とが、クロスカッティングの技法で並行的に提示される。これによってさらなる山場を形成する。と同時に、この技法は、一度先立って使用されていたものの再来でもあるようになっている。車掌がシャドーについて五人に解説する場面と、シャドーの拠点内部での場面ともまた、クロスカッティングの技法でつながれていたのである。この場面は同時に、シャドーの主要メンバーの簡にして要を得た視聴者への紹介にもそのままなっており、「悪役」メンバーごとの同床異夢の状況が暗示されている。一方、二回にわたって提示される戦闘シーンではまず何よりも戦隊メンバーの各人の個性の提示に重点が置かれている。猪突猛進かつ即断即決で端的な言葉を繰り出すライト、そのライトは「メンバーの乗り換え」という大胆なアイデアを咄嗟に思いつきまた皆をそれに巻き込む発想の自由さと積極性をもつことも示され、ここにも「イマジネーションがとりわけ強いライト」という車掌の言葉とオーバーラップするように視聴者に印象づける。そして、親切だけど不器用でぎこちないトカッチ、曲がったことが嫌いで少し頭の硬いミオ、冷静で余裕にあふれたヒカリ、怖がりだけどイマジネーションの力による自己暗示と「なりきり」でいつも危機を脱するカグラ、といったレギュラーメンバーの人物像が、二回の戦闘シーンでもかなり視聴者に伝わるように誇張して提示している。最終兵器もまたイマジネーション次第という設定であり、主題の一貫性とともにユーモアをも伝える場面となっている。そして、等身大の怪人が斃れた後の巨大化場面では、物語の今一つの主題である列車をフル活用し行なわれる。いわゆる巨大ロボットの特撮のアイテムのなかに、汽笛や踏切や自動改札といった現実の電車を想起させるアイテムを随所に盛り込んでいる。さて巨大化した怪人を斃したことで大団円となるわけではなく、間髪入れずクリフハンガー的手法に拠る、所謂「引き」の場面に突入する。すなわちトッキュウジャーのメンバーが死んだも同然の存在であることの告知が行なわれメンバーが動揺する場面に転換する。この場面で視聴者の興味をつないだまま第一話を終らせるというわけだ。なお、場面転換の技法としてあと指摘できる点を補足すると、「過去の回想」および「誰かのイマジネーション」であることの提示技法がある。どちらも映像にやや白みがかった透明度の少し低い映像で提示され、また声がエコーがかかっていることが多い。これらの場面と通常の場面とで「現在/過去」や「現実/イマジネーション」の対比がしばしば行われ、視聴者にもその区別がわかるようになっている。

アブストラクトとはいったい何だろう

さて、この「あらすじ」と「アブストラクト」の相違は、実はそのままいわゆるマンガ作文における「直接話法」と「間接話法」の相違と、同じ形式の違い方である。つまり、「直接話法で書かないで間接話法で書く」という知的操作と、「あらすじで書かないでアブストラクトの形で書く」という知的操作とは、理論上同じことをやっていることになるのである。

以下は直接話法での記述例である。

とかっちは「うん。今逃げた怪人追ってるとこ」と言った。

以下は間接話法での記述例である。

らいとの確認を肯定したのはとかっちであった。とかっちはらいとに今は先ほど逃げた怪人を追っている最中であると状況説明をした。

以下は直接話法での記述例である。

らいとは「って事は もしかしておまえたちがさっきのトッキュウジャーってやつか」と言った。

以下は間接話法での記述例である。

とかっちの説明で、昏睡前の状況と現在とが結びついたらいとは、先ほどまでの痛快な戦闘ぶりを思い出して興奮し、目の前の四人がそのときのトッキュウジャーという戦隊と同一人物であるかどうかを熱心に確認しようとした。

間接話法とは言ってみれば言語行為論でいう「発語内行為」を中心として、あとは表現をより豊かにするための補足をしたような仕方で記述することなのだ。たとえば同じ発語内行為であっても発話の内容をより生かしたような書き方で表現したりすることなのだ。同様に、アブストラクトで書くというのも、論文のアブストラクトならやはり「発語内行為」を中心にして書くということであり、今回のように映像のアブストラクトを記述するのは言わば「発“映像”内行為」つまり映像の送り手の行為として記述するということなのである。

だからこう言いたい。小学校三・四年の児童に「直接話法ではなく、間接話法で書かせる」ということを教育的にやらせることと、大学生に「要約ではなく、アブストラクトで書かせる」ということを教育的にやらせることとは、言ってみれば「同じ事」である。つまり、マンガ作文を教える側というのは、「自分の読解できる文章」はアブストラクトの形で当然書けなくてはいけない、ということでもあるのだ。それは「せりふ」の内容が理解できる子供であれば、間接話法で書けなければならない、という要請と同じことなのだ。このことは重要な点なのに、マンガ作文を教える者はこの点を直視しない。

子供の知的発達を「具体から抽象へ」といったフレーズで捉えている教育関係者は少なくない。マンガ作文を行なっていた者もその「具体」の初めの一歩のつもりでマンガ作文を位置づけていた。マンガのせりふにもしかるべき会話の構造が在るという点を無視して、単にマンガが絵で描かれているという点にのみ着目したからだろう。ともかく肝腎なのは、この「直接話法→間接話法」やさらには「あらすじ→アブストラクト」という変換が、その「具体→抽象」というタイプの関係とは明確に異なるということである。それでいながら、「直接話法→間接話法」や「あらすじ→アブストラクト」は、前項より後項の記述ができるほうが明らかに「高度」という関係にもなっている。「直接話法→間接話法」に匹敵するこの知的操作ができることは、「具体→抽象」とは明らかに異なった仕方で、或る種の知的能力を要求するような発達段階階梯を形作りうるのである。

なお本稿の続編に「あらすじと要約の違い」が在る。併せて参照することを勧めたい。