見逃されてきた日本語の「聴解力」、特に「音声同定力」の背景に在る問題

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旧タイトルが「見逃されてきた日本語講義の聴解の困難」だったページを、今回、タイトルも変え、内容も改稿した。このページに書いた内容というのは、筆者が当初比較的重視していなかった論点だったのだが、その後、重要度が上昇して他のコンテンツとの重複が多くなってきた。またそれだけでなく、内容の整合性や、関連して登場した新たな論点というものを筆者は気にするようになった。その考慮に因る改題・改稿である。今後、内容が重複しているページは、このページへのリンク・参照でなるべく済ませることができるようにすることも考えている。(2020.01.16)

日本語「聴解力」の背景に在る問題:「活字」は在っても「活声」は無い

2020年現在にとっての近年、NHKのテレビ番組等をきっかけにして「聴覚情報処理障害」という障碍・現象が在ることが知られてきた(聴覚情報処理障害 - Wikipedia)。ただし、一過性の流行の話題にすぎないかもしれず、また一方で、その知見は今後激変・激増するかもしれない。或いはウェブ上に見られるページごとに紹介される症状の細部は少しずつ異なっている。また前回別のページからその件でリンクしたページなどは、すでに無くなっている。おそらくそういったことの反映として、安定性をもつ適切なウェブでの紹介ページがWikipediaしか無い状態である。あとは現在のところ、医師の平野浩二氏が開設・解説しているサイトである(聴覚情報処理障害(APD)のサイトにようこそ!!)、(amazon:聞こえているのに聞き取れないAPD【聴覚情報処理障害】がラクになる本)。

いずれにせよ、以下述べる内容は、「聴覚情報処理障害」という症状が在ろうが無かろうが、日本語でなされる音声を聞き取る、音声でのやり取りを行なうという場合に、目下のところ必ず成立するものである。ただこの医学的な症状を、当事者や治療者・援助者・関係者が自分の問題として取り組み解決しようという場合には、以下の内容も当然関係してくるはずである。

さて日本語「聴解力」の問題である。「読解力」と「聴解力」とではどこがどう違うのか、を考えていくと良いと思う。

「読解力」ということが問題になるときに、その読解の対象が「手書きの文字」であることはあまり無くて「活字」であることがほとんどすべてであるが、反対に「聴解力」の場合にはその聴解の対象は「活字に匹敵する音声」「いわば“活声”」ではないことが、ほぼすべてである、ここがまず出発点に在る。この点で、たとえば或る種のディスクレシアの人が、活字の見え方が尋常ではないため活字がちゃんと見えないし従って読むのが大変である(参考:Google検索:ディスクレシア 見え方)というのとは異なる。つまり「聴解力」の場合には、「活字であってもなお読めない(見えない)」と言えるような、その「活字」に匹敵するものが、事実上ほぼ無いのである。なので、たとえば電子的・人工的に作られた或る種の模範的な音声や、アナウンサーや声優が為すようなきわめて上手な発声・発音の場合なら聞き取れるのか、それであっても聞き取れないのか、は現実にはまず問題にならない。「聴解力」ということを問題にする際に、現状では「読解力で言えば“手書きで書かれた大量の文章が読めない”に匹敵する」問題であって「“活字で書かれた大量の文章が読めない”のとは異なる」、としか説明のしようがないのだ。

「聴解力」ということが現実に問題になる場合には、したがって「假に読解力で言えば、手書きで書かれた文字を見て、電子機器での活字に逐一置き換えていく能力、に匹敵する音声処理の能力」がまず最初に立ちはだかる、と假定していくことが安全な対策となる。文字で言えば「判読する」能力である。「それが本当に「能力」なのか?」と問われる余地を多大に残すことにもむろんなる。というのも、「むしろ相手に判読を強いない、きれいな文字を書く能力」のほうこそがここでは要請されるはずではないか、と思えるからだ。ともかくここではまず「判読する能力」なるものを言い立てるときには、ワンセットで「相手に判読を強いないくらいにきれいな文字を書く能力」というものが前提されていることに注意して、もし「聴解力」の場合であっても、それとワンセットで「アナウンサーのように常に話す能力」というものへの要請をどこかで念頭に置いておくようにしたほうが良い、ということになる。もちろん、「聴覚情報処理障害」の場合、「そのアナウンサーのような明晰な発音であってもなお聞き取れない」症状である可能性も在るわけだ。ディスクレシアの或る種の症状は「活字であっても手書きであっても読みづらい」のが同じであるのと同じように、だ。その点は不明の部分がとにかく多い、として保留しておくしかないのだ。

この「文字で言えば、手書きの文字を活字の文字に置き換えることのできる能力」に匹敵する、音声上の情報処理で前提されているものを、筆者は「聴解力」とは区別して假に「音声同定力」と呼んでおこうと思う。「聴解力」という呼び方を使うと、そこには「内容を理解する能力」がどうやっても含まれてしまう。のみならずそれが混入すればするほど、「音声であっても文字であっても共通の」要因や現象ばかりが前面に出てきてしまう。つまり単なる「言語理解力」に堕してしまうのだ。なので、まずその要素をなるべく除去しておきたいのだ。とは言え、それは理論や説明のための区別であって、実際には「内容理解の前提に音声同定がまず行なわれている」という場合も在れば、反対に「内容理解がすでに成立しているからこそ、音声同定が可能になっている」という場合もまた在る。つまり「相手の発音が聞き取れるから相手の言っている内容がわかる」場合も在れば反対に「相手の言う内容があらかじめ予想がつくからこそ、假に相当不明瞭に発音されても言っている内容を聞き取ることができる」という場合も在る。

「同定」という語の選択に関する節

ここで「同定」という語を筆者は用いた。この語の選択に関心の無い人はこの「「同定」という語の選択に関する節」は飛ばしていただきたい。さて、その語の選択には当初筆者は根拠の無い自信が在ったのだが、インターネットで「同定」という語を検索すると、或いは紙の国語辞典を少しだけ見ると、かなりその自信が失われてきた。その時、筆者に一定の自信をもたせたのが次の参考書である。ジャクリーヌ・ヴェシエール著・中田・川口・神山訳『音声の科学―音声学入門―』(白水社,2016)(出版社サイト)。筆者はこの書を五分間ほど眺めただけの状態であり、音声学はまったくのずぶの素人である。だが発見した次の箇所を見て、「同定」という語で別に「変」ということはないだろう、と筆者はあたりをつけた。「同定」の対象が「音声に関係あるもの」が成立するのならばおそらく大丈夫だろうと思えたのだ。つまり「同定」という語はもともとそのように使って良いはずの語であるという筆者の根拠無き自信に加えて、「実際にそのように使われている」ケースがこれだろう、という自信を得たのだ。この文献の中には、「音」や「音素」を同定する、という言い方が随所に使われていた。一方、「音」そのものではない、音声を発するときの身体的・体感的な運動感覚レベルでの「同定」と思われる「調音位置を同定する」という使い方も存在していたが、それは同定の対象が「音」ではないので、その用法では確信できない。ただしその用法も、対象が何であっても通用する「同定」の最大公約数的な用法だと筆者が見なすものとは不整合ではない、と解釈できるので、それも含めて問題無いと考えた。

p90-91。

実のところ、聞き手は、音素の連続を解読しようとするよりも、まずメッセージを解釈しようと努めるのである。発話を理解するためには、聞き手は、発話を構成する単語のうち主なものを同定するだけでよい。自然発話や切れ目のないことばの流れの中、そしてあらゆる種類の手がかりがたくさんある中にあって、ときには雑音もある中で、聞き手はどのようにして連続した単語を分割し、そして同定するのであろうか。(後略)

p98。

音素を同定するために耳が用いる手がかりがどれくらいの重みをもっているのかは、その音素に求められる目標と、音素の置かれている環境とに依拠する。たとえば、合成音声の刺激を用いて破裂子音(/p/, /t/, /k/)の調音位置を同定する実験において、米国のハスキンス研究所の研究者たちは、一般に観察される解放ノイズを表す突発的ノイズが同じ高さであっても、後続する母音によって、異なる子音の知覚的印象を与えうることを示した。(後略)

p101-102。

運動理論の主張によると、聞き手は音を同定するために、自分が知覚するものを調音上の動作として解釈する。子音の調音位置のカテゴリー知覚は、運動理論に好都合なものとして考えられてきた。子音/p/, /t/, /k/,の実現は、実際、それぞれ大きく異なる調音上の動作に訴えかける。たとえば、[p]は両唇の動作に、[t]は舌尖あるいは舌端の両縁の動作に、そして[k]は舌の腹の動作に訴えかけるのである。これらの子音の調音位置を同定するとき、話し手には「調音上の動作が見えている」、つまり話し手は、自分自身がそれらの音を発するとしたらどのようにしたであろうかを参照することになり、結果として、明確な知覚的境界が存在するというわけである。(後略)

p103。

コミュニケーション場面においては、メッセージ全体を理解するより前に、必ずしも各々の語の各々の音素が同定されるわけではない。連続発話を知覚し、理解するには、中枢的メカニズムを介在させることになる。語や発話の全体は、一方に信号から解読される手がかりがあり、他方には心的語彙や、統語的・意味的・文脈的知識があって、その両者の相互作用によって認識されるのである。

このように「同定」という語を「聞こえた音がつまり何なのかを決めること」のような意味合いで使って、おそらく良いのだ。「同定」にはそのような用法が潜在的には備わっている。だが、実際にそのように使っているケースを今までなかなか発見はできなかった。たとえば、外国語なら使っても不自然ではないのに使われることはあまり無いだろう。「英語のリスニングで、“ライト”と聞こえた音声を("right"ではなく)"light"であると同定した。」とか「マクドナルドで、“エ●サイズ”とだけ聞こえた音声を(“エスサイズ”ではなく“エルサイズ”でもなく)“エムサイズ”であると同定した。」というふうに使われたのを、見かけた記憶が筆者には無い。なぜか。

その理由の一つはおそらく、「聞こえる音声の同定」という過程の多くは「人間の行為」であるという場合が少ないから、というものだろう。同定しているのは、脳か何かの情報処理の機構でなのであって、それは「私」に因るものではないことが多いのだ。私の心臓は動いているが動かしているのは私ではない。音声の同定もたいがいはそうなのだ。それは「私が行なっていること」ではなく、脳か何かで勝手に行われているかもしれない説明上の假定的なプロセスなのだ。だがそれはそれとして、「私の行為」として「同定」が行なわれることも無いではない。まぎらわしい音声の弁別や、はっきり聞き取れない環境下での音声の聞き取りのときには、私の意識的行為として「同定」が行なわれることも在る。だが、それは比較的特殊な場合であり、それを「同定」と呼ぶのも、やや拡張的な用法と位置づけたほうが良いかもしれない。その観点で言えば、おそらく「脳」が行なっている同定というのは、むしろ「聞こえる音声は“エ●サイズ”である」「聞こえる音声は“ライト”である」というのこそがそれであって、それを「さて、エムサイズかそれともエルサイズか」「さて、"right"かそれとも"light"か」などと判断することを「同定」と呼ぶのは、やや拡張された用法である、と理解したほうが良いのかもしれない。ただし、以下筆者はその二つをあまり区別しないで混在させて使う。また、先に挙げた文献にこの種の話題に触れている箇所が在る可能性も高いが、筆者はそこまで参照しなかった。

「聞こえる音声を同定する」といった用法をほとんど見かけない今ひとつの理由は、「聴覚情報処理障害というもの」がごく近年までほとんど知られていなかった事態と完全対応しているはずだ。つまり「音声が同定できているかできていないか」などという議題設定自体がほとんど無かったのだ。だからその際必要になるだろう「同定」やそれに匹敵する語彙自体が要請されない、そのように使われた用法の実績もほとんど無い、そういうことになるのだ。今までは「音声」は「物理的に聞こえるか聞こえないか」だけがほとんど問題だったのであり、「聞こえているけど同定されていない」という問題は「無かった」のである。したがって「同定」でも他の語でも良いが、とにかくその種の語をその文脈で使う用法自体が、おいそれとめったに見かけることの無いものになっていたのだ。同定の代わりかもしれない語として「知覚」が使われていることもあっただろう。だが「知覚」だとどうしたって「そもそも聞こえているかいないか」の次元の話をしていると見なされるだろう。実際にはもしかすると「聞こえているけど同定できるかどうかは定かでない」という話をしたいときに「知覚」という語を使っているケースもあるのかもしれないが、それを受け取る側はまず間違いなく「聞こえるか聞こえないかの次元」を問題にしていると受け取るだろう。「知覚」という語が、ことこの件に限って言えば性能が良くない語であることがあまり気づかれなかったのも、「聴覚情報処理障害というもの」がごく最近までほとんど知られていなかったことと関係あるはずだ。

特に幼児の言語発達に関連する文献にすら、「同定」という語の、この種の用法をそうめったに見かけないのが今となっては不思議としか言いようが無い。結局「聞こえているけど同定できていなかった」問題は「まだ母語を習得していない」幼児の場合ですらも考慮されていなかった、という、やや驚くべき認識状態の結果だったとしか言いようがない。幼児の場合「聞こえているけど同定できていない」場合というのは、結局従来は「その語彙をまだ知らない・習得していない」と解されてきたのかもしれない。そこには「知っている語彙ならば、そして物理的に聞き取れる環境ならば、当然同定できるはずだ」という前提も在ったわけだろう。

日本語「聴解力」の背景に在る問題:音声では「漢字」が表現できない

音声では「漢字」「句読点」「段落や括弧」が表現できない。この種の事態は、日本語だろうが他の言語だろうが大差は無いだろう。だが日本語の場合にほとんどの言語と異なるのは、「漢字に依存した語彙」が少し多すぎる点である。多くの言語はそこまで文字に依存していないし、文字が読めない人であっても音声でのやりとりには不自由しないことが多い。だが日本語はこの点が在るので、まったく異なる事態が帰結する。一方では、現代日本語は「漢字が読めない人・知らない人はまず絶対聞き取れない」言語であると言い切れる。他方で「漢字が読めるからといって聞き取れるとは限らない」言語でもある、という面も無視できない。なので、まずこの日本語固有の問題から説明する。

日本語の語彙の中心に在るのは、明治以降に欧米語の翻訳として作られた大量の漢字語である。これが周知の通り、同音異義語が多いわけだ。ただしイントネーションまで考慮しての同音異義語となると、さすがに或る程度は絞られる。ただそのなかに、頻度の高い語は目立つ気がする。そして、日常生活でのものも含めた、日本語語彙のかなり中心的な位置を占めるものもまた多い。たとえば幼児を視聴者として想定しているはずの番組であっても、その種の語彙が字幕無しで平然と使われている(参考「メモ:幼児番組に使用されていた漢字語」)。また、漢字熟語の漢字の箇所以外の送り仮名等も含めての、たとえば「漢字」と「感じ」のペアも、同音異義語と同様の組み合わせである。それだけではない。「日本語助詞のどれかの音」を含む漢字熟語も多い。それによってたとえば「後世の」なのか「高性能」なのか、どちらなのか判別しづらいという聞き取り問題・同定問題が生じる。この箇所が音声で「こおせいの(お)」とまで同定できて聞き取れたとしても、単語として同定できたとまでは言えない。この箇所がきちんと同定できるというのは、かな書きレベルの同定だけでなく、それも加えた「正確に漢字化できる」ことをも要請される事柄なのだ。さらに言えば、「訓読み」レベルの同音異義語すらも、それが「異義」でありしかも「紛らわしい」度合いが著しく高いならば、そこでも本質的には同じ事態が起こる。「写真を撮られた」なのか「写真を盗られた」なのか、といった場合が例えばそれに該当するだろう。この場合もまた、音声同定だけできるのではダメで、「正確に漢字化できること」も要請されているケースだろう。このタイプの問題については、既出の「読書しない子供も読書だけする子供も、日本語力は不充分になりやすい:補論 「高島俊男『漢字と日本人』の検討」」でも説明している。ともあれ、この種の音声要素を含む場合、「漢字力が無いと同定できない」「漢字力が在っても同定できるとは限らない」の両面が考慮される必要が在る。

もちろん「漢字を先に知らないと音声同定も単語同定もできない」ような語彙ばかりではない。「漢字などわからなくても音声のかな書きレベルの同定さえできれば良い」語彙というものも多く在る。「挨拶」とか「警察」とか「攻撃」とか「料理」といった、同音異義語を普通思いつきそうにない語や、同音異義語がもし在っても使用頻度が或る程度低い語しか無いのならば、そうだ。特に、江戸時代までにできた語だとその傾向が強いだろう。こういう語彙なら、漢字を知らない幼児であっても、すぐに音声同定ならできるようになるし、あとは使う場面さえ把握すれば語の習得はいったん完了したと言っても良いと思う。その音声同定ができるようになる段階に対して、漢字での表記を知っている段階というものが先行する必要は、この種の語ではゼロである(ただし習得の何年後かでも良いので漢字での表記も習得しないと、漢字の知識に基づいた語彙力の増進が起こらない)。だがおそらく過半数の漢字語はそういう語ではない。ただし、筆者は量的な検討は特にしていないので、まったく直観的な認識でしかない。どのくらいの語が同音異義語的なまぎらわしさをもちえ、どのくらいの語は通常のときにはまぎらわしさを特に示さないのかは、量的把握抜きで語っている。わかるのは、頻度の高い、文章の中で基幹的な重要性をもち、しかも日常的である語の中に、その種の同音異義語的な影響を及ぼしうるものがどうも多いような気がする、というところまでだ。

そして、音声のなかでの語彙というものは、その語彙の提示が完了してすこし後になってようやくその語彙が同定できるものなので、その段階になって初めて「ああ、良かった、同音異義語ではなかった」とわかることになる。その点で行けば、「挨拶」「警察」「攻撃」「料理」なども、その語が提示された直後にはまだ「同音異義語をもつ語彙ではない」という確信はもてず、むしろ「もしや同音異義語をもつ語彙なのでは」と身構えさせる語であると言っても良い。「それが同音異義語をもたない語だと判明するまでは、むしろ同音異義語をもつ語のように予感的に聞こえる語」もまた多いという事実が、イントネーションまで含めての同音異義語が実際以上に多いように感じる私の感じ方の背景にはおそらく在る。ただしここまで行くと、日本語の語彙にのみ固有の問題なのかどうかは筆者は自信があまり無い。日本語に固有であるという説を支持しそうなのは、高島俊男が『漢字と日本人』(2001、文藝春秋社)で述べた内容だ。その主旨は「昔の日本人」がずば抜けて発音が不器用であったために、可能な発音のバリエーションが乏しく、そのために同音異義語が多くなった、という説である。同音異義語でなくても語彙がまぎれやすいというこの種の主因が、日本人固有の次元に有るという仮説の確からしさを増すだろう。

「音声では漢字を表現できないので、したがって同音異義語やその他のまぎらしい語要素が多く存在するので不便である」という事実は、どちらかと言えばふだんあまり顧みられることが無いと思う。高島俊男にしても「同音異義語で困ることは通常はめったに無い」という姿勢であった。なので、次のような言説の偏りも起こる。たとえばこうだ。日本が高度成長期すぎごろから欧米化してきて、会話のなかに「外国語の単語のようなもの」まじりで話す人というのが1980年代~90年代初めにかけて、どうも一定数居たようである。その話し方への揶揄や苦言といったものも紋切り型のようにして見られた。「このビューティフルなセンスにインスパイアされた僕は、そこでオープンなイベントをレコメンドしちゃったってわけよ」といった感じだろうか。こういった語り方が嫌悪されるのは或る意味では当然なのだが、一定のメリットが在ることは見逃されてきた。そのメリットはもちろん「同音異義語」問題の解決に役立つ可能性が在る、ということである。同音異義語問題は「昔の日本人の発音能力」に合わせたために生じている問題でもあるのだから、「現代の日本人が発音できる外国語」を取り入れていくことで緩和できる可能性が在る。また「同音異義語」にならないで済む語ももちろん含まれているから解決の一歩にもなりやすい。それへの見逃しが起こったのである。これと同様の見逃しは、外国語以外でも在る。たとえば「方法」と言えば済む箇所で「方法論」という語を選択したり、「方向」と言えば済む箇所で「方向性」という語を選択することが起こった場合に、それを一種の知的な見栄や虚飾のように見なして、否定的な態度で遇するということである。だが、文字の場合はいざ知らず、音声の場合なら「どちらでも良いのなら、“方法論”“方向性”という語を使用してほしい」と受け手が感じるケースが在る。むろん、そのほうが同音異義語の可能性を予期させ紛れやすくなる、というリスクが軽減するからだ。要するに文字の場合と音声の場合とで、語の選択での適切さの基準が異なっているのだ。それが見逃されるときに、やはり「音声では漢字を表現できない」問題は看過されていることがつくづく多い、と筆者は感じる。

日本語「聴解力」の背景に在る問題:音声では「句読点」が表現できない

音声では提示できないことが多いものの代表例として、「句読点」に類する文法的な要素を挙げることができる。もちろん音声でも、間の取り方によってそれに近い効果を与えることも可能だが、だとしてもそれは、句点と読点の区別、つまり「。」と「、」の区別ができるほどのものでは、全くない。その区別のためには話し手の自覚的で特殊な工夫が必要になるだろう。さてこのような音声言語の特徴は、おそらく日本語に固有のものなどではなく、ほとんどの言語が抱えている問題であろう。だが、その「ほとんどの言語」のなかでも、英語に代表されるような欧米語にはあまり見られないような問題が、日本語では起こりやすくなる(日本語以外にも有るかもしれない)。それは日本語が「述語が文末に来る」という文法体系に従っている言語であることだ。

音声では句読点が表現できなくて、それでいて述語が文末に来る(しかも音声だと省略されることすら在る)ことから来るいちばんの問題は、「それが肯定文なのか否定文なのかの聞き手の判断すらも、その文が終わって次の文に移行したことがかなりはっきりわかってから」の時点になってしまう、というものだろう。文字の場合と比べて音声の場合が著しく不便な点の代表である。そして「致命的」でもある点だ。話者が「Aである。」と言ったのかそれとも「Aでない。」と言ったのかが曖昧になりやすい、という事象だからだ。つまり、日本語は長々と話したその最後に「ではない。」などと述べて、最後にひっくり返すことができる、或いはそうとしかできない言語である。そして音声のその箇所に「。」が付けられないのである。そして、そのリスクを軽減するために「不」「無」「非」「否」などといった文字を使用した漢字語に強めに依存する方策も或る程度可能だが、この場合は今度は同音異義語問題が生起しやすくなる。…と、そういうことだ。或いは、かつて若者言葉としてやや否定的に言及されたような「全然素晴らしい」などの「全然」の用法などもこの論点を考慮に入れると、非難されて当然のようにも思えてくる。というのも、「全然」が先行すれば後続の要素は否定形のものに決まっている、という予期が成立することで日本語の性能の低さをカバーしていた知恵を、わざわざぶち壊しにするようなやり方だからだ。無論、もう手遅れではある、筆者もまた主に文字でだが使ってしまっている(そして「全然素晴らしい」のような言い方は全く異なる視点からのメリットが在るので使われるようにおそらくなったのだろうから、その点を無視して非難だけしても意義があまり無い)。

この件に限らず、より一般的に言って、日本語の音声、特に独演的な音声は、「すでに発話された文」と「今発話されつつある文」の両方に注意を払って聞く必要が在る。というのも、「あっ、さっきの文はもう完結していたのか!」ということが必ず起こるからだ。日本語の独演的な音声というものは、「いま聞こえている音声」だけに文字通り集中していたのではかえって聞き間違えることになるものなのだ。こういった特徴は、英語を初めとする、主語と述語が文の初めのほうですぐに、そして連接して提示される欧米の主要言語にはあまり無いと推察する。欧米語の場合はおそらく「どこまでが一つの文だったのか」のほうを注意する必要が薄いのだ。

それでなくても日本語の音声での独演や会話では、「述語無し(体言止め)」「助詞無し」「倒置文」といったものが生起しやすく、また、それでいて「長々とした修飾節が、先行する文章の流れを遮断して、後続文の最初に来る」ことも起こりやすい。文字と違って、文章に番号を振ることもできないので、ある程度複雑な関係をもつもの同士は、二文に分けたりせず、複雑な一文として提示せざるをえないからでもあろう。その一方で「文頭」である目印になりやすい、音声では特に重要である「接続詞」なども使わない人はとことん使わないことであろう。こういったタイプの問題は、適切に対処している人とそうでない人との差がかなり大きいものでもある。いずれにせよ、こういった問題と連動して起こるような、「音声では句読点が表現できず、それでいて述語が文末であるため、聞き取る側は多大な認知的労力を使うことになる」という問題なのである。

この件に関しては、既出の記事のたとえば「やはり、日本語は述部が最後に位置するので、最後まで文を辿らないと大意がわからない:寺村秀夫の書いた文章での検討」に関連した内容を書いている。また、句読点というものが無いため、音声の独演だと一文の終わりが通常の場合わからない、という不便は、そのまま、「音声での授業だけいくら聞いていても、“一文という単位”を学習することができない」という不便と、同根の事態である。この後者の不便については、「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」の節「学生が要求されている「文法」と、学生の言語環境に有る「文法」との懸隔その1:「必要な要素はすべて書け」」に書いた。

「聴解力」の背景に有る問題:音声では「括弧」「段落」「ページ」が表現できない

「読解力」と「聴解力」との違いについて考えるときに、音声では「括弧」「段落」「改行」などや「ページ」を表現できない点は決して無視できない。もちろん「句読点」も前述したように表現できない。文字の文章ではこれらの要素によって高度な構造の提示や、必要な箇所の参照などが煩瑣とはいえ比較的容易に行なえるのに対して、音声ではそういったことはきわめてできにくい(講義ならレジュメやパワーポイントなどの視覚的な教材に大幅に依存することになろう)。この件は、日本語固有のものではないだろう。おそらくどんな言語だって、音声ではこの種の「視覚的情報」に依存したような構造化や参照は難しいのだ。いわゆる「話が見えない」とか「どの方向に向かっているのかわからない」とでもいった事態が起こりやすい条件ができあがっているのだ。

たとえば文字だと「lx-{m(a-b)/n+pc/m}(d-ey)」などといった「構造」を読み取ることが比較的容易にできる。しかし他方、同じ程度に複雑な構造の、音声でなされた独演を、正確に聴き取ってノートにとることは大変に困難である。音声での講義などを想起してみると良い。括弧に該当する情報を何とか伝えようとする音声での複雑な諸要素が、話者の発音が悪くてよく聞き取れなかったり、そもそもどこまでがaでどこからがbなのかすらもはっきり聞き取れないなど、実に頻繁に起こっている現象であろう。なので、文字の読み取りに比較すると「(A説に対する学者Mの批判および、B説に対する学者Mの批判に対する学者Nの反論)は私は正しいと思い、また、(C説に対する学者Oの批判に対する学者pの反論が誤っているという、その誤りが生じた原因とD説に対する学者qの批判が誤っているというその誤りが生じた原因と)に共通する事情があると私は考えるが、その事情を私が考慮することによって、今回の新説E説を唱えることとなったが、特にここで強調しておきたいのは、この新説の意義は、(C説に対する学者Oの批判とB説に対する学者Mの批判に対する学者Nの反論)とに共通して看取される構造と完全に同形であることであり、ここが私の学者としての手柄であるのだよ君たち、おっほん」といった「談話の構造」を音声で聞き取ってノートにとることは大変に困難である。

「聴解力」と「音声同定力」というものは「国語力」「日本語力」に入るのか否か

これまで書いた他のページで、筆者は「聴解力」全体を(従ってその前提の「音声同定力」を)、国語力や日本語力に入りうるものとして述べてきた。このあたりのややこしい関係・それについての筆者の私見というものを、多少解きほぐしてみることが必要であろう。思いついたものをいくぶん雑多に羅列するようにして述べてみる。

「聴解力」を「国語力と呼ばれやすいもの」の中に入れて良いのかどうか、という問題から行く。通常、「国語力」として積極的に想定されているのは、まず間違いなく「文字の日本語」に関するものだ。読み書きだ。それは間違いない。だが、「聴く」「話す」を積極的に除外しているかというと、そこまででもない。音声を聞いたり話したりするのも、積極的に想定されているほどではないにせよ、「国語力と呼ばれやすいもの」に入れても良い、という関係に在る、と思う。ただし入れて良いのは主に、文字に従属した「音読」のレベルでである。そこで多少歯切れが悪くなるのは、次のような微妙な関係が在るからだ。

「国語力」のなかには、「文字・漢字が読める」ことが含まれる。この「読める」には「黙読」の場合と「音読」の場合とが在る。ここにややこしさが在る。国語のテストというものの最低限の意義というものを検討してみればわかるように、「黙読できること」つまり「音読せずに文がちゃんとすらすら読めること」は国語力そのものである。国語の入試というのは、まずは「黙読できない生徒」を落とすことが最低限の使命である。だから、黙読ができることは国語力の中心部に在る能力だと言って良い。その一方で、「ちょっとその文字の文章を音読してみろ」と言われたときに「音読できる」ことや、漢字の発音がわかっていることを「音読によって伝える」ことができることも、また立派な国語力である。黙読ができて、假に内容もばっちり把握できていると判断されていても、いざ「音読」してみて間違いだらけであるような人のことを「国語力が在る」とはまず絶対に言わない。結局、国語力と呼ばれるものは、文字の読み書きに関するものがほとんどではあるのだが、そのときに「黙って読みなさい」「音読してみなさい」という両方の要請に必要に応じててきぱきと対応できることもまた、国語力、読解力の前提や延長としてなら、そこに含まれるのである。このようにして、国語力と呼ばれやすい能力には「音読などすることなく読むことができる能力」と「いざとなれば音読もできる能力」とが両方とも含まれる複雑さが在るわけだ。

ただし「音読」ではなく「話す能力」ともなると「国語力」のなかには含ませにくい。「聴解力」も同様である。これらは「日本語力」のなかになら含ませやすいが、「国語力」にだと比較的含ませにくい、と私は感じるのだ。おそらく「国語力」の「国語」というのが「算数」や「世界史」などと並ぶ「国語」であるように使われていることに因るだろう(つまり「算数」ができるためにもまた「国語力」が必要だ、となる)。それは「生徒や学生の成果を判定する」場面で使われる語なので、文字の運用の能力に限定される。せいぜい「その文字を音読してみろ」までだ。なので、音声の講義を理解する「聴解力」のようなものは、それ自体を「国語力」とは呼びにくい。その一方で「聴解力」を「日本語力」と呼ぶのなら、母語話者の場合も含めて違和感があまり無い。この「日本語力」というのは、別の言語と比較した言い方なのではなくて、それよりは「運動神経」や「音感」などと並列の存在だと思ってもらったほうが良いと思う。つまりどちらかと言えば「教科学習の外」「日常生活」での能力を指しがちである。授業を聞くというのも、その「日常生活」の延長であり、「教科学習の外」でもまた活用する能力の延長だとされているかもしれない。

なので、「音声での授業を聞いているだけだと<国語力>がつかない」という言い方(「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」)と、「読書だけする子供には日本語力が充分つかない」(「読書しない子供も読書だけする子供も、日本語力は不充分になりやすい:補論 「高島俊男『漢字と日本人』の検討」」)という言い方とが、奇妙に思われつつも両方できてしまう。ここには、まず「国語力」と「日本語力」とのその典型や許容範囲の違いかた・使い分けがふと現れてしまった、と思う。「音声の授業を聞いているだけだとほとんどつかない<国語力>」という言い方では、まずもって文字の文章を産出する能力が中心に想定されている。その一方で、「読書しているだけだとつかない日本語力」の中心に想定されているのは、音声での授業やその他の日本語音声の聴解力である。ただ、聴解力は、漢字力や語彙力(つまり「国語力」の一部)が前提であるし、しかも必要だが十分ではないというしかたでの前提である。その「十分ではない」面を強調するようなしかたで、そこでは「読書している子供ほど学業成績が高い、なんてまったく断定できない」という言い方がなされた。

「聴解力」という語彙を本格的に使い始めると、いろいろと概念の構築のし直しが必要になってくるだろう。一方では「音声の授業なんかいくら受けたって、文法的にちゃんとした文章を書くことができるようにはならない」という関係が成立するだろう。これは、音声の体験が文字文章産出の邪魔になるとか不整合である、というよりは、要は「文字文章の学習」の時間を奪っている、という関係に在る。時間の使い方の問題なのだ。他方で、その「音声での日本語」それ自体がもつ独自の<文法>もまた有るはずであり、その<習熟>に努めることが「聴解力」アップの決め手だ、などというふうに述べることも可能になる。その場合、「述語が省略されて」いるとか「助詞が省略されて」いるだとか、そういう見方を採らないことになる。むしろそれは「そういう<文法>」なのだ、音声での日本語というのはそういう<文法>法則的なものが成立しているのである、となるだろう。そしてそれに<習熟>するためにもまた音声の日本語に一日の一定の時間どっぷり浸かることが必要であり、そのためにも学校の授業に出なさい、というふうになるかもしれない。筆者が「読書しているだけだとつかない日本語力」として述べた内容は、このメッセージに漸近することになるだろう。

最初のほうでも述べたが、「聴解力」というものを、弱い立場の者に一方的に要求していく動きというものがもし在れば、それに対しては警戒することが重要となる。「聴解力」という能力は「意識的な聴解(音声の同定)など不要なほどに伝わりやすく話す能力」と必ずワンセットである。「生徒が聴解力が低い」とも「教師の発話能力が低い」とも容易に判定はできないものなのだ。そこには「音声同定力」の次元から、「話が見えない」にならないようにする次元まで、実に様々な水準の要因が介在しているはずだ。そして、気分として言うのなら「昭和の」大学(1980年代だと思ってほしい)というものでは、この「意識的な聴解など不要なほどに伝わりやすく話す能力」など全く問題にされていなかった、ように思う。「話すのがちょっと下手」どころの騒ぎではないほどに、聞き取り不能・理解不能な講義などがいくらでも在ったはずである。それは、ちょうどその時代に対応するテレビ番組が動画サイトなどで視聴することができたりすると、わかる。テレビ番組もまた「話が見えない」ものがそのままで当たり前のようにして成立しており、これらを適切に聞き取れなかったからといって、視聴者の側の「聴解力」だけ求められても困るのである。おそらく大学の講義というものも同程度にそうだっただろう(ここで筒井康隆『唯野教授』に登場した「日本語でも何語でもなさそうな宇宙語的な講義」をしていた日根野教授の挿話なども併せて想定しているのはもちろんだ)。

「聴解力」というものを、「漢字の視覚イメージに依存しない能力」として捉えることも、可能であろう。これはわりと常識的に思いつきやすい論点だと思うが、今まで言及したことは無かった。言うまでも無いが、漢字というものにはその意味とは或る程度独立に「独特の視覚的イメージ」というものが備わっている。筆者はたとえば、小学校一年生の最初に配布された生徒名簿というものに記載された氏名の表記をまずまずよく記憶しているが、そこには漢字の視覚的イメージ、しかも必ずしも漢字の「意味」に関係無いものも含むイメージ、というものが大きく役割を果たしている。これが在るから記憶しているつもりになれるのだ。私は、小学校一年生のときには「椛沢」とか「嶋田」といった苗字だと読めなくて、「糀」沢や「鴨」田ではないし何だろうなあ、と思っていた。ともかく記憶に残りやすくはある。また「沢田」という人が名簿には「澤田」で記載されていたことは覚えている。これなどは意味よりも文字の視覚イメージに因るものだろう。「澤田」という人が名簿で見る名前だとどうにも重々しく見えるのであった。同じ頃に江戸川乱歩の『暗黒星』を読んで、そこに登場する「瓦斯」という文字列が読めず「煉瓦?おかしいな」といった受け取り方をした。私の当時の漢字力はそのくらいだったと思ってもらえると良い(つまりどちらかと言えばかなり異常な能力だったのだ、その分他の能力が低かったことは言うまでもない)。ともかく、「聴解力」というものの基幹的な要素の一つにこの「漢字の視覚イメージに依存しない」ことが言わば能力として要求されていると思う。そして、その一方で「そうは言っても、漢字力が無いと弁別できない語彙・語要素はたくさん在る」のでもある。音声の中で使われた「こうどう」が「行動」なのか「講堂」なのかを識別できる人は、間違いなく漢字を音読で読むこともできる人である(何度でも繰り返すが逆は必ずしも成立する保証は無い)。漢字の知識を参照しながら聞くことも要請されているのだ。いずれにせよ「音声のほうが文字よりもずっと情報が多い、たとえば声色とか音の高低や速度や強弱といった情報が多い、だから音声言語のほうが習熟しやすい」などとだけ述べて済ます人が、この論点を全く考慮に入れていないことは間違いないのだ。たしかに「聴解力」を使う場面では音声の高低・速度・強弱・声色といった情報を活用・依存することがもちろんできるのだが、それは「漢字のもつ、必ずしも意味的な面に限定されない、視覚イメージ」が使えないこと、しかしそれでいながら必要に応じて漢字を想起できること、の要請とはワンセットのものである。欧米語中心にばかり考えてはいけない、聴解力の一つのポイントである。この点を考えた場合にも、「聴解力」と「国語力」の関係はなかなか微妙である、としか言いようがない。

そしてその「聴解力」の大前提に「音声同定力」という次元、つまり「物理的に聞こえている音声のかな書きでの表記がわかるか否か」という次元が在るにもかかわらず、その点は今まで奇妙に見過ごされてきた、ということが今一つのポイントである。つまりたとえば「ぎもん(疑問)が在る」と言ったのかそれとも「いろん(異論)が在る」と言ったのか、を音声のレベルで識別する能力である。もちろんこれもまた「聞き手に音声同定力などを使わせないほどに明晰に発音・発声する能力」とワンセットではある。だが、「音声同定力」と「聴解力」全般との関係も、前述したようにさほど単純ではない。すなわち「音声が同定できる」から、したがって「表記も同定できる」「理解もできる」という当たり前の関係が成立する一方で、反対に「理解ができ次の発話も予測できる」からこそ「音声同定」もまあなんとかできる、というケースもまた在る。おそらく現実には後者の比重も意外と低くないのだ。その点で行けば、アナウンサーや声優のような発音発声のプロの発する音声が常に同定がしやすい、とは限らない。相手の想定や常識をはるかに超えるような内容の談話を連発する声優やアナウンサー(が居たとして)であれば、いくら発音発声は完璧でも、その聞き取りは多少難しくなるであろう。内容の面で事前の予想が聞き手にはしづらいからである。また、内容の予想のしやすさとは別に、話の段取りがどうにも悪い声優やアナウンサーがもし居れば、業務外でなされる個人的な談話は、いくら音声そのものが明晰であっても、「話が見えない」ものになるに違いない。日本語の音声にそれをカバーできるほどの装置(「段落」や「括弧」など)があまり無いことは、前述したとおりである。このように「音声同定力」と「聴解力」とは実際にはしばしば相互的に関連しており、その相互依存関係は或る程度複雑である。ともあれ「音声同定力」となるとなおさら「国語力」からは遠ざかり、「日本語力」のような日常生活の能力の構成要素として位置づけることになろうと思う。

最後に次の二節で、「聴解力」の一部である「音声同定力」がどのような別の見方によって見過ごされてきたかを、少しだけ検討しておく。そのあと、末尾にテレビ映像等の音声聞き取りに関係する「補論」を付ける。

「聴解力=音声の理解力」という見方が妨害している:浅羽通明の場合「受験学力の対立項としての理解力」

浅羽通明や野村一夫が紹介しているように、大学受験での偏差値が高かった者が大学での文系内容の講義を理解できないという事態が、かつて見られた。この種の事態は、どうもまったくありふれた事態であったらしい。浅羽や野村によって1990年代になされたこれらのさほど輪郭のはっきりしない問題提起のしかた自体に、現代から見ると「問題の見逃し」を看取することができる。その代表とも言える浅羽通明の問題提起を検討する。野村一夫のほうはもう少し込み入っていると思うので、次の節で検討する。

浅羽通明は『大学で何を学ぶか』(1999、幻冬舎)(amazon)で、自分の同世代の大学生での次のようなエピソードを皮切りにして、他の著作物からのものも含め類似事例を紹介している。それらを「インターネットという媒体で可能な範囲での正確さ」で引用する。p31-33。浅羽の紹介のしかた自体を読んでほしい。

講義ノートがとれない受験秀才たちの悲惨

(前略)

たとえばオレは、大学一年の学年末試験で、そんなノートを目撃したことがある。

一般教育科目の「文明論」。神奈川大から非常勤でいらしていた故山本新先生の講義の試験まえだった。

山本先生の文明論は、シュペングラー、トインビーの歴史思想を消化したうえで、自らのテーマを論じる独創的な授業だった。オレには心酔するくらいおもしろかったな。

その試験の直前、知り合いが「ヤマをまとめたから、これで文明論は楽勝だ」といって、そのまとめたノートを見せてくれたのだ。

講義に多少でも出ていれば、先生の熱意からヤマはすぐわかった。その年の講義テーマは「文明の世俗化」である。横道に逸れるけど、簡単に説明してみよう。

たとえばイスラム諸国や中世ヨーロッパは、宗教勢力が政治権力の上に君臨したり、あらゆる芸術が宗教的テーマばかりを扱う宗教一色の文明だ。しかし、西欧近代文明や日本文明、支那文明では、宗教はもはやそこまで社会を支配していない。

このように、文明が宗教絶対視から脱する社会文化的現象を「世俗化」と呼ぶ。

この「世俗化」について、どのような文明が世俗化するのか?世俗化の原因は何か?といった問題提起があり、トインビーは後者の答えとして、

  1. 「宗教と政治権力との衝突」
  2. 「宗教自体の分裂抗争」
というふたつを挙げている。

しかし山本先生はさらに広く歴史を渉猟して、「外発的世俗化」という第三のタイプを発見した。その実例はトルコだという。第一次世界大戦で、イスラムの支配下にあったトルコは西欧の近代戦法に敗れ、ケマル・パシャの指導で、近代化を断行した。この過程で、トルコはイスラム教から政治を分離して、世俗化を達成した、と山本先生は語る。

ここが、この年度の講義のヤマだった。

もっとも日本では、トルコ革命など、世界史で受験したひとでも記憶にあるかないかというマイナーな知識である。だから、先生は自分の理論を学生に理解してもらう前提として、トルコ革命の簡単な年表を板書して、そのなりゆきを説明し、それがなぜ「世俗化」の新タイプと考えられるかを知的情熱をこめて論証していった。

講義の主眼は、むろんこの最後の論証にある。

ところが、オレの自信たっぷりの知り合いが示したノートには、先生の唯一の板書だったトルコ革命史の年表とその経緯の説明だけが、しっかりとまとめられていた……。

似た例を、加藤諦三氏が本書と同じ『大学で何を学ぶか』(カッパ・ブックス)という題の本で挙げている。社会学か何かの講義だろう。マルクスの理想の実現をはかったロシア革命が、最悪の階級社会旧ソ連を生んでしまったジレンマを論じて、ソ連の各階級をピラミッド型の図にして板書したところ、学生の答案用紙の多くには、丸暗記されたその図と各階級の名だけが詳細に書き写されていたという……。

法政大などで講義をしている若手の社会学者・野村一夫氏も、講義を理解する能力に乏しい学生があまりに多い事実を、例を挙げて指摘している(『社会学の作法・初級編』文化書房博文社)。たとえば、「コミュニケーション」「うわさ」などについて、これまでの常識を覆すような新理論を紹介して試験で問うと、テキストの最初にまず書いてある常識的理解――つまり、その新理論が批判しようとしている旧理論――だけを解答してくる答案が結構あるそうだ。

野村氏は、講義には「あれもある、これもある」式の両論併記型も、「ああではない、じつはこうだ」式の常識批判型もあるのだから、それぞれの論旨の流れを掴んだうえで、「各学説を並べて短所長所を指摘する答案」や「まず一般的常識や通念を述べた後、それを批判してゆく答案」をまとめなければならないと教えている。

きっと、せっせと板書するのに忙しくて、講義のこうした流れをまったく掴めない受験ボケ学生の、板書された箇条書きや記憶に残った断片的知識だけをずらずらだらだら書き連ねた答案が、とっても多いのだろう。

そういえば、講義に熱心に出てノートをとり、試験まえにはみなが彼のノートをコピーさせてもらったまじめくんが、試験が終わってみるとただひとり「不可」だったなんて実話をけっこう聞いたりするのだ。

ちなみに明治学院大で、大学の講義を聴かせ、その要約と講義の疑問点を論述させるユニークな入試を行ったところ、普通の模試で高偏差値を取っていた秀才のほとんどが落ちたという話もある。

よく、大学の授業が高校とあまり変わりばえしないので失望したという話を聞くけれど、それは単に文明論の講義の流れに乗れなくてトルコ史年表を丸暗記した秀才みたいに、高校と変わらない部分しか理解できなかっただけのことじゃないかな。

しかし、高校の授業と大学の講義とのあいだに、こんなにも溝があるのならば、なぜ誰もそれを埋めてくれないのだろう。すなわち大学の講義の聴き方と勉強方法についてのオリエンテーションが、なぜないのだろうか?

ここまで書かれたいくつの事例を眺めてみて、さてどのように概括するのが良いだろうかと考えたとする。もちろん浅羽は見出しにも在るように、講義ノートがとれない受験秀才たちの悲惨というふうにまとめたのである。だとすると、「受験秀才」という揶揄と、「ノートがとれない」事態とのつながりがいささか都合が良すぎる、と筆者なら感じる。というのは「受験秀才だからこそノートをとるだけならむしろできる。だがそれだけだ」というつながりだって、在りうるからだ。事実、明治学院大学入試の件はむしろそちらのようにだって見えるはずだ(後述)。ここに在るのは、問題の究明やそのための提起というよりは、もっと曖昧な「気分」に基づく「世間話」に近いと思う。何と言っても、現在64歳になるだろう野村一夫氏がまだ「若手の社会学者」だった頃に(改稿が)なされた問題提起なのだ。

浅羽自身は先行する箇所で概括をすでに提示してしまっている。p30。

さて、自分の趣味を研究発表する講演会みたいな授業に出て、先生の話につきあって、きみは勉強したという手ごたえを感じたかな。

秀才のきみには申し訳ないが、授業を聴いてノートをまとめ、家で復習するといったこれまでのきみのノウハウは、大学の講義では、まず通用しない。

ここで戸惑い、つまずいて、まじめ学生路線からリタイアしちゃえるひとはまだいいだろう。

悲惨なのは、わからないまま、高校までの受験勉強のノウハウで無理やり、大学の授業を消化してしまおうとする、融通のきかない秀才のきみかもしれないな。

こんなひとはよくノートをとる、とくに先生の板書を一生懸命ノートにとる。そして板書が多い授業では、ノートをせっせととった!ああ勉強した!という満足感だけは得られた。でも、板書をしない授業は、要点がわからなくて散漫だなと思ってしまうかもしれない。きっと余談か雑談ばっかりだと思えてしまうんだろうね。

とりあえず板書をノートにとれば、何か意味あることをすませた気分になるように、きみは、高校や予備校でしっかりマインド・コントロールされてしまっている。

でも、そんな君は、いまやまったく見当はずれのノートをとっているかもしれないのだよ。

要するに「受験勉強の弊害だ」というわけだ。ここにまず在るのは、この「曖昧な気分の共有」なのであって、問題の解明とかではない。

あまりきっちりと述べられてはいないものの、ここでの浅羽の論法は「断片的知識」や「暗記」や「機械的な作業」(板書を書き写すこと)といった一群の要素と対立するような形で「理解」という要素の適切性・重要性を説くような形になっている。このフォーマットで述べることは現代でもむろんあちこちに見られるが、1990年代に書かれた(1996年に初出のものをベースに1999年に加筆修正した)この文章の時代であればなおさらのこと、その定式化フォーマットは「曖昧な気分を共有する」うえでなら有効であろう。要するにここでの「問題」というのは、講義を「理解」できない・していない学生の存在というものであり、その「理解」というのは「断片的な知識」「暗記」「機械的な作業」(そしてそれらは早大法学部出身の浅羽の理解するところの「受験勉強」の性質でもある)と対立するような何かなのだ。…と、そういうふうにして話は流通するわけだ。「私立文系型の受験学力・それ用の受験勉強というもの」を言わば諸悪の根源と見なし、その見なしを共有したうえでの問題の曖昧な提起がなされているわけだ。というのも、まさか東大や京大の出身者が、自分のしてきた受験勉強を同じように見なす可能性は、無いわけでもないがかなり低いと思えるからだ。浅羽の出身である早稲田大学の入試というのは、私立大のしかも文系の或る種の典型なわけであり、それは暗黙の了解になっているのだ。ともあれ、この時代には、そういうふうにしか問題を提起できなかったのか、と筆者にはいくぶん不可思議にも思わされる箇所だ。

だが当たり前だが、このようなフォーマットに依拠するような形で述べられる事柄が、適切な定式化であることなどは、およそ期待できない。私の他のコンテンツを既読のかたなら無論わかるであろう。ここで「講義が理解できるか否か」が問題になっていることが、性急にすぎるのであり間違いだと言っても良いほどなのだ。二つの点でそうだ。

一つには、「理解できるかできないか以前に、そもそも聞き取れているのか」問題が成立するはずだ、もちろん物理的な聴力起因のトラブルではなくて「講義の音声を同定できるか否か」の問題がまず成立するはずだ、とそのように言えることが挙げられる。すなわち、「言っていることを理解はできないがしかし忠実に書き取り記録すること」ならできたのか、或いはそれもできなかったのか、という次元の問題である。その次元を省略して一足飛びに「理解」という語彙を使うと「そもそも同定できているか否か」「そもそも聞き取り書き取ることならばできたのか」問題は脇に追いやられ、不可視化されることになる。ただし繰り返しになるが、「音声の理解」と「音声の同定」とは常にそこまで截然と分離できるものでもない。また、聞き取れるから内容が理解できるという場合も在れば、反対に内容の見当がすでにつくからこそ聞き取れるという場合も在る。分離しきれない場合はどちらの側面が前景化するかがポイントになるだろうとは言える。

もう一つは、「そもそも講義が理解できていないとして、それは学生の聞き取り能力の問題なのか」という点である。音声での講義が在り、その聞き取りになんらかのトラブルが在る場合、それが「聞き取りの問題」なのかそれとも「話し方の問題」なのか、その判断はさほど容易ではない。たとえばの話だが、大学に限らず授業というもので接続詞をほとんど使わないで話す教師が居たとして、或るとき「この学生は授業のノートを、接続詞を自分で付加しながらとっている、偉い、すごい」という称賛がなされたケースが在ったと假定する。しかしそこは学生を褒めるべき件ではなくて、教員を批判するべき件だろう、と受け止めることも可能である(たとえば私はそう受け取る)。ノートをとる学生が「接続詞を自分の頭で考えて付加している」のが偉いのではなくて、そのような必要性のある授業をしてしまっている教師のほうが単にダメなだけだ、と見なすことは充分可能だし、むしろその見方をもっと強化するべきだ。しかしなかには、学生が偉いのか(或いは全く偉くないのか)それとも教師がダメなのか(或いは全く素晴らしいのか)の判定が難しいケースも当然起こりうる。そういうことだ。接続詞の件は「聞き取り」「同定」問題というよりははるかに「理解」の側に近い問題であるが、そこから類推してみれば、「学生の聞き取り能力」というのは「教師の、聞き取りが充分可能であるように、或いは意識的な聞き取りなど不要なほどに明晰に発話する能力」と併せて総合的に判断しないと本来はダメだ、と言うことができるのだ。

「講義の音声が理解できているか否か」の検証は上掲の二点の検証を行なうことと並行してでなければ、さして意義が無い。

また明治学院の入試に関する話題は、「音声が聞き取れること」「音声が聞き取れて理解できること」「音声の内容が理解できて、それについて論じることもできること」「論じることが可能な程度には出題者の意図が読み取れること」など複数の次元が絡み合っていることが最初から自明であり、もし10年後なら「PISA型学力」の問題として論及される場合が多いはずのものであるので、この件と一緒に扱うべきではない、と見なす。ただ、この件が「聞き取り問題」と一緒くたに扱われる直接のきっかけとなっただろう要因に一言ほどこの場で言及はしておく。朝日新聞1994年3月16日夕刊(東京版)の「窓 論説委員会から」というコラムに「講義理解力」と題した短い、あまり情報量の多くない文章が掲載された。そこから引用する。

判定会議の結果、合格者は四十人。そのうち約四分の三は、高校時代の成績が、ABCDEの五段階評価でCクラスだった。いわゆる優秀な生徒はバタバタと落ちた。

記事のこの箇所がたぶんひとり歩きしている状態なのだろう。普通に考えれば知りたい情報というのは、「合格者の約3/4が五段階評価の真ん中で占められていた」ことのほうではなくて、「五段階評価ごとの、各段階の受験生の合格率」のほうであろう。というのも、そもそも受験生の全体に「Aランク」の者の絶対数が少なかった、ということも想定可能だからだ。つまり、受験生の全体に「Cランクの者の絶対数が際立って多かった」からこそCランクの合格者の実数もやはり多かった、合格「率」で行けばAランク・Bランクもそう劣ってはいなかった、ということだって在りうるのである。そのような可能性をあらかじめ封じるようなきちんとした情報は新聞は提供しなかった(或いはできなかった)。ようするに記事からではきちんとした検証ができるほどの情報は充分にはわからなかった。その確認さえしておけば良い。

「聴解力=音声の理解力」という見方が妨害している:野村一夫の場合「見識ある市民がもつものとしての理解力」

浅羽の引用を通してではなく、野村一夫の問題提起をじかに読むと、受け取り方がまただいぶ変わってくる。この点は強調したほうが良いだろう。たしかに、野村もまた、浅羽と同じ前提・同じ認識枠組みでものを言っているように見える箇所も在る。だが全体としての力点の置き方はいくぶん異なっていることも確かである。ひとまず浅羽と同じ認識枠組みで言っているように見える箇所のほうをまず引用する。先に言及した明治学院大学の入試に関する箇所である。「社会学の作法・初級編-Socius.jp」の「七 授業の作法――能動的な受け手として」からである。(同じ内容の書籍は(amazon:『社会学の作法・初級編―社会学的リテラシー構築のためのレッスン(改訂版)』))

朝日新聞のコラムではこれを「講義理解力」として紹介していたが、ここで問われているのは、いわゆる優秀な生徒が得意とする暗記力でもなく瞬発的な条件反射力でもない、総合的な実践的コミュニケーション能力である。あるいは「語られたことばへの感受性」であるといってもよい。このデータが物語るように学校教育はこのような基礎的なコミュニケーション能力や感受性を排除してきたのである。

この捉え方にも、すでに浅羽との共通点と差異とが見い出せる。「成績上位の者は暗記が得意」「その得意な暗記では通用しない試験」という見方は共通している。世間で流通されやすい言説でもある。違うのは、浅羽はその特質を「受験学力」として強調したのに対して、野村はむしろ「高等学校での学力」として捉えている点である。またもうひとつ異なる点は、教育機関のほうの教育する態度のほうにむしろ帰責の力点が在るということである。さてここで少し注目したいのは、野村のその「学校教育によって促されてきた暗記力や条件反射力」がどのような事柄の対立項として位置づけられるかのほうである。

おそらくその適切な候補は「見識ある市民」というものであろう。「暗記力」や「条件反射力」というのは、「見識ある市民」の対立項として提示されている、と見なすと良いと思うのだ。ここで、ついでに「暗記」という語に関する筆者の私見を少しだけ開陳する。不要である読者は次の段落に進んでほしい。で、こういうことだ。「暗記」批判という形で流通する言説というものが在り、勿論それらを「下らない」と一蹴することも可能なのだが、その言説での力点の置き方が微妙に異なっている場合が在ることは見逃してはいけない、と思うのだ。ここでの野村のものにもおそらくそれが該当する。通常見られる「暗記批判」は「それが断片的であること」「学力テストとしての最も初歩のタイプのものにしか対応できないこと」「より高度な学習や課題遂行につながって行かないこと」「重箱の隅でしかない、重要度の低いものであること」などが非難の力点となる。それに対して、「暗記批判」言説の一部は、むしろ「誰かから教わったものを批判したり、疑ったりすること無く受け容れてしまうこと」のほうに力点が在る。だから通常の暗記批判言説での「暗記」の対立項は「理解」か「思考」であるのに対して、野村のタイプのそれはむしろ「暗記」の対立項は「批判」「疑問」といった語群なのである。だからいくら知的に高度な操作に基づくものであっても、たとえば「政府の御用学者が述べるような高度な詭弁」を理解する能力が在ったとしても、それを詭弁と受け取るのではなく、単に高度な正論として理解して済ますだけならそれもまた「暗記」と呼ばれるのである。批判的でなく、隷属的だからだ。野村の「暗記批判」「条件反射批判」はそのような意味合いに受け取ったほうが良いと筆者は思うのである。他にもそういうケースは散見されると思う。

浅羽の引用を通してではなく、野村一夫の問題提起をじかに読むと、受け取り方がまただいぶ変わってくる、という点に戻る。たとえば講義を理解できていない学生が居る、と浅羽が述べていたのに対して、野村のほうの力点はむしろ「授業に出席していないと講義内容のノートのコピーだけ入手できても、理解はできない」ということのほうに在る。「講義を理解していない学生が居る」問題は決して中心ではない。その点を確認しておく。「社会学の作法・初級編-Socius.jp」の「八 論文試験の作法――誠実な応答をめざして」から引用する。

小論文試験は、客観テストとちがって、始まるとまちがいなく時間との戦いになる。多くの人にとって文章を書くということは慣れないことだからだ。しかし勝負はすでに準備段階でついている。

社会学の場合、頭の良しあしや要領の良しあしはあまり影響しないように思う。すでに確認したように基本はノートである。授業に出席していたか、くわしいノートを取ったか、それをあらかじめ章ごとに文章化しておいたか──これらの作業の積み上げがあるかないかでほぼ決まるといってもよいのではないか。

というのも、それなりの理由がある。社会学系の科目の場合、適当に解答用紙を埋めること自体はかんたんである。しかし、そこには落とし穴があるのだ。それは「適当に」書くとき、わたしたちはつい常識的なことを書いてしまうことだ。ところが、社会学的な知識は、しばしば常識と異なるのである。たとえば、何かのまちがいではないかと思うようなことがテキストに書いてあったりする。逆ではないか、と。ところが逆ではないのだ。受講体験があれば──出席していれば──このあたりの免疫が自然とできているのだが、それがないと設問の要求と逆のことを滔々とまくしたててしまいがちである。

たとえば、わたしはG・H・ミードのコミュニケーション論を説明するさい、コミュニケーションを「情報の移転」と考える常識的な考え方の問題点を批判的に説明するのだが、受講体験がないと常識の範囲で人のノートのコピーやテキストのことばを解釈してしまい、「コミュニケーションとは情報の移転であるとミードは述べている」といったことを書いてしまう。こういうとき、本人はよく書けたつもりでも、教員にとっては「これじゃあ『わたしは授業にでませんでした』といってるようなもんだ」ということになる。

あるいは、「うわさの社会学」と称して流言研究を紹介した部分を出題すると、必ずあるのが「うわさとは、連続的伝達による歪曲である」という答案だ。講義の主題が、うわさを「連続的伝達による歪曲」ではなく「即興的につくられるニュース」として理解する点にこそあるにもかかわらず。

まことに先有傾向はおそろしい。わたしたちは常識的な範囲で社会的なものごとを見るのにあまりに慣れすぎているのだ。脱常識の科学である社会学は、ことごとく常識に疑いの眼を向け、常識を自明視するわたしたちに知的反省を迫るわけだから、もはやオリジナルのはっきりしないようなノートのコピーをもとに我見で社会学的な答案が書けるわけがないのである。

野村の言いたいことは浅羽の言いたいこととは少し力点が違っていることがわかる。とは言え、むしろ浅羽の問題提起より退行した可能性も在る。「講義に出席すれば誤解は無いはずだ(他人の取ったノートに依存するから誤解するのだ)」ということが野村の言いたいことの中心に在るのだから、「講義に出席していても内容の全体像をまったく誤解する学生が居る」という可能性は背景に退く。そして、これが背景に退いてしまうと、「講義を誤解するという以前に、聞き誤ったり、不充分にしか聞き取れなかったりする学生だって居るかもしれない」「そもそも講義の内容を録音でもしておいて事後に、ただ単に書き起こすだけでも困難である学生だって居るかもしれない」という問題提起は更に一層重要度が落ちることにもなる。そういうわけだ。

全体的に眺めての印象としては、野村は「音声と文字の違い方」はあまり気にしていないタイプの人である、と言える。というのも、読書もゼミでの討論も講義もそれらが交換可能なように書かれている観が強いからだ。「文字なら得意だけど音声だとどうもダメ」という立場が考慮されていない観が強いのだ。だから従って「講義を理解できないという以前に、そもそも聞き取れていない」という問題への考慮は特に見られない。つまり、「講義の音声を理解すること」の前段階に「講義の音声を同定できること」が控えているという認識は特にうかがえない。そのことが「講義にちゃんと出席すれば理解できるはずなのに」というメッセージによってむしろ脇に追いやられているように筆者は思う。

にもかかわらず、野村の論で興味深いと筆者が思うのは、「文字/音声」という二項対立がどこかで交差し絡んでくる可能性を、野村の論はもっていることである。というのも、野村は「改訂版」に際して書いたあとがきで、「世代論」を開陳していてそれが野村は意図していないかもしれないが「文字を操る世代」/「音声を操る世代」という対立軸を含んでいることが指摘できるからである。「社会学の作法・初級編-Socius.jp」の「社会学の作法・初級編【改訂版】 無作法なあとがき」から引用する。

さて、本書が世にでてからの九〇年代後半は、めまぐるしいばかりの大学改革が進行中で、カリキュラムも大きく改編されつつある。従来型アカデミズムで毛嫌いされてきたハウツウ的な要素が積極的にカリキュラムに導入されているのが特徴である。日本の多くの大学がこれほど教育的配慮に満ちたプログラムを組んだのは前代未聞のことだろう。しかし九〇年代後半には学生像もまた大きく変化しており、そうしたプログラムが必ずしもうまくいっていないようにも見える。そこで痛感するのは、「なぜ学ぶのか」という動機が学生サイドにほとんど存在しないという厳然たる事実である。

そもそもマニュアルやハウツウというものは、明確な動機をもった人には貴重だけれども、動機のない人には退屈な蘊蓄話にすぎないもの。だから、教育的配慮から大学や教員が親切丁寧にマニュアルを提示しハウツウを伝授することで「知への招待」をしようとしても、聴かされる側はそういう話をそれほど求めてはいないのだ。巷間では「現代の若者はマニュアル世代だ」などという言説が流布しているが、それはもはや時代遅れ。マニュアル世代とはじつは中堅若手教員の世代のことであって、現代学生はむしろクチコミ世代なのである。ストリートで群れるにせよケータイやインターネットを使うにせよ、仲間内のクチコミ情報への依存度がかなり高くなっているように思う。ケータイやインターネットのようなパーソナルな新メディアの普及によって、かえって学生ネットワークのローカル化が進んでいるという印象だ。多くの「ふつうの学生」が、仲間内を流れる「その場しのぎ」のローカルな断片情報で動いている。少なくともその方が孤立というリスクを回避できるからだろう。こんな環境の中で、マニュアルを読んで正面から学問に取り組もうとするのは、かなりまっとうな学生であり、キャンパスでは完全に少数派になってしまっているように思う。

1998年に書かれたここでの「マニュアル世代」であると位置づけられる「中堅若手世代」というのは、2020年1月現在だと60歳前後15年分ほどの年代に属する主に文系の学者に該当する、くらいに受け取ると良いと思う。ただ、当時の含意とはおそらく違うが、どちらかと言えば「自分用にマニュアルを作ってしまう」ことを好む者が目立つ世代、と現在なら受け取ることもできる。

で、この「マニュアル世代」と「クチコミ世代」という対比が、その前提にまず「文字の世代」と「音声の世代」という対比を潜在させている点が筆者には興味深く思えるのだ。というのも、少なくともこの対比は、「文字で提出されたレポートなんかに<話しことば>が混入してしまうダメな学生」という21世紀になって指摘されやすくなった現象の前兆にはなっていると思えるからだ。ただ野村がわりと意識しているだろう対比というのはむしろ「蓄積される知を好む世代」と「一時的・局所的でしかない情報に流される世代」というものであろう。その対比もまた技術的に「文字/音声」の対立項を引き寄せはする、が、主眼ではない、というわけだろう。たとえば「九 ゼミの作法――討論の主体として」に書かれているように、うまくいったゼミでの討論などはジャズの即興演奏にも譬えられ、そこでの「すぐに消えてしまう音声」という性質はむしろ「だからこそかけがえのない」ものとして位置づけられるわけだ。で話を戻すと、また、この「一時的・局所的でしかない情報に流される」という在り方が、「見識ある市民」という通奏低音のように前提される理想的な在り方の対立項でもあるわけだ。

ここでの対比が、「マニュアル世代は、マニュアルもケータイも活用するのが得意」「クチコミ世代は、仮に活用できたとしてもケータイどまり」という非対称な形のものであるようにどうしても思えてしまうところが、ポイントだろう。その後の時代を振り返ると、ブログでもツイッターでもそれを上手に活用し、影響力を大きくもっている代表的な実名ユーザーの多くは、このとき「マニュアル世代」と規定された世代に属している。そのことも或る程度の傍証にくらいならなるだろう。

ともあれ、野村自身は音声と文字の違いということを、実体験的にあまり気にしないで済んだ人のようであり、そのため、やはり「講義の音声を理解とか言う以前に、同定できるか、録音してさえいればそこから書き起こすことならできるか」という次元の問題にはあまり触れなかった。野村の問題提起の仕方でそれが隠されてしまうとすれば、それは「講義に出席すればちゃんと内容を理解できるはずなのに」という前提が在ったからである、と言える。そしてその前提が在る限り「講義に出席しても理解できない、という以前に、そもそも聞き取れない」という次元はまったく顧みられないからだ。野村がそうなったのは、結局「見識ある市民」というものの意義を強調したかったからである。見識ある市民という概念は間違いなく西洋発のものだ。つまり、「文字が読み書きできるなら必ず音声の受け取りや発信ができる」世界発のものだ。そこには日本語の特殊性のようなものへの考慮はむろん無い。つまり日本語と欧米語との違いなどの考慮が無い。したがって、その「見識ある市民」の意義を積極的に唱えようとすると、どうしても「文字と音声とを等価・交換可能なように言語を運用する」在り方をも前提してしまうのだ。そう位置づけたい。

補論:テレビ映像などの聞き取りに付随する問題:「登場人物にこの音は聞こえているのか」が「識別不能」という問題

テレビ映像やその他の映画・動画などの視聴での「聞き取り」には、講義などの聴解とはまた違った問題も潜在している。それは「流れている音楽や音響が、登場人物に聞こえているかどうかが視聴者にはわからない」という問題である。この問題は、多くの人はきわめて実践的に対処できてしまっているものだと思うが、中にはこの件が原因となって映像や動画の視聴に支障をきたしている人も居るかもしれない、と思う。また支障をきたしていようがいまいが関係なく、そういったメディアの特徴を考察する上でも外せない論点である。いずれにせよ、この点は「聞き取り」問題に絶えず付随する論点ではあるのだ。

フィクションの場合がわかりやすい。ドラマや映画などで、バックに何かBGMが流れている。この音楽はドラマの登場人物に聞こえているのだろうか、いや聞こえていないのである。しかし同じドラマの中で、何かが割れる音や銃撃の音などがすれば、いやそれどころか、口笛のメロディや誰かが楽器を演奏しているシーンであれば、それは登場人物に聞こえうるものとして、提示されていることも多い。この違い方はなんなのだ、というわけだ。一つ言えることは、多くの場合この区別は常識的にも可能だし、音響の物理的なしくみを操作することでなおさら可能になる面もあるが、しかし原理的には不可能であるということだ。

フィクションだと話はわかりやすいが、クイズ番組やバラエティ番組やニュース番組であっても本質的には同じことである。「ピンポーン」と視聴者に聞こえた音や、場が盛り上がるような音楽が、テレビに登場している回答者や司会者やスタジオの視聴者にも聞こえているのかどうかは、原理的には識別できない。そこに何かのリアクションが在ったときだけ「聞こえている」とわかる、というしくみだ。その区別がつかなくて視聴者が落ち着かない気分になることが比較的少ないのは、単に「こういう音は聞こえうる音」「こういう音だと視聴者にしか聞こえない音」というふうな区別が、或る程度常識として確立しているところが在るからだ。だからその常識を意図的にならまだしも、非意図的に裏切るような音響などがなされた場合は、現実的にも決定不能になる。

ここまでは音響や音楽で述べてきたが、そこに「音声」を加えることだってできるのだ。あきらかにナレーションだとわかる音声なら、「登場人物に聞こえていない」と判断して良い。だが、「登場人物の発話」なのかそれとも「ナレーション」なのか、が分りづらくなるように映像を制作すること、非意図的にそうなってしまうことはもちろん可能である。

この区別に匹敵するものは、紙の上に印刷される特にマンガにも在る。マンガの場合、「登場人物に聞こえうるもの」がおおむね擬音語であり、「登場人物には聞こええないもの」がおおむね擬態語である、と言ってよいのではないかと思う。この区別は視覚的にはまずなされない。その区別は擬音語や擬態語の「単語」レベルで識別・分類される。つまり「キキキー」とか「ザブーン」なら「擬音語」、「シーン」や「チクチク」なら「擬態語」として読まれるのである。語の慣習的な用法のレベルの区別になるのだ。その一方で、音声ならば、「登場人物に聞こえうる音声」と「登場人物には聞こええない内面やナレーション」とは、吹き出しの形状等で区別されるので、この場合は表記のレベルで区別が可能であると言える。