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21世紀に入る頃、小学校・中学校段階の「国語科」とその周辺は大きく変容していた。変容が目立つのは、義務教育学校での教育や大学受験も多少在るが、むしろ学校外の民間でなされていた教育や、或いは、大学生を対象とした初年度教育でなされていたもののほうである。そこでこの動向をまとめてしまえば、21世紀初頭頃、「人々が国語力に期待するもの」が変化していた、…と、語ることができる。
この変化や動向を「00年代の国語力革命」とでも假に呼んでみよう。この動向で頻繁に見られたいくつかの特徴的な考えを挙げてみる。
そして「00年代の国語力革命」と共通した傾向をもつ、いくつかの有名な書籍や論文も存在する。少なくとも次のものは、そうである。
さて、「00年代の国語力革命」のきちんとした検証はここではしない。ここで行なうのは、その時に「掛け声」や「キャッチコピー」で使われていたいくつかの語の検証である。そのメリットは、これらの語が「評価語ばかり」であり、カリキュラムや教材を構築する力の無い、見かけ倒しの語彙であったことが判明すれば、この「00年代の国語力革命」の教訓として今後に生かされるからである。そしてまた、2019年現在新カリキュラムの導入を目前にして、過去のそんな検証をきちんとやっている著名人は皆無であるからだ。
大学生の文字で提出するレポート課題から、入学試験の記述式の答案に至るまで、「教師に提出する文章に話しことばを混入させてはいけない」式の言い方が21世紀初頭ごろから特に目立つようになった、と思う。また、それと大同小異なものとして「課題や答案を話しことばで書いてはいけない、書きことばで書かなくてはいけない」式の言い方も存在している。だが実は、「話しことばを混入させて書いてはいけない」と「書きことばで書かなくてはいけない」とは、対称的な言い方ではない。その点に特に注目したい。ここには二段階の飛躍が在る。まずは「話しことばを混入させて書いてはいけない」と「話しことばで書いてはいけない」との飛躍、次に「話しことばで書いてはいけない」と「書きことばで書かなくてはいけない」との飛躍である。
まず「話しことばを混入させて書いてはいけない」と「話しことばで書いてはいけない」とのあいだに飛躍が在ることの指摘を行なう。「話しことば」が「混入」の対象である限り、この「話しことば」というのは「話すためにのみ用いて良い語句・語要素」のことを指す。そしてそこでの「話す」というのは、実は「日常会話」だけである。つまり、「講義」や「スピーチ」や「発表」などはほとんど想定されていない。まとめると「話しことばを混入させて書いてはいけない」というのは、「日常会話でのみ用いて良い語句や語要素を混入させて書いてはいけない」という意味合いなのであって「講義やスピーチでのみ用いて良い語句や語要素を混入させて書いてはいけない」の意味合いなのではない。そこにまず注意しておこう。
すると、「話しことばを混入させて書いてはいけない」と「話しことばで書いてはいけない」とのあいだに飛躍が在ることがわかる。「話しことばで書いてはいけない」というのは、「話すときのみ用いて良い語句を混入させるな」だけではなく「書くときに用いなくてはいけない語句・語要素を省略するな」も含まれているからだ。たとえば、助詞や述語を省略するな、ということも含まれるからだ。つまり「入れてはいけない語句が含まれている」という指摘のみならず、「入っていなくてはいけない語句が欠落している」の指摘も含まれているのだ。だから「話しことばで書いてはいけない」というときの「ことば」は、「語句・語要素」ではもはやない。「話すための言語体系にしたがって書いてはいけない」とか「話すという言語活動のようにして書いてはいけない」なのである。そしてそこにおいてその「話す」という中に「講義」や「スピーチ」が含まれるかというと、実はそこがテキトーなのだ。実際には大学教員の講義にも、助詞無し、体言止め(述語無し)、といった特徴はひんぱんに観察されるはずだ。だがそれだと都合が悪いので、それは見なかったことにして、ここでも「話しことば」=「日常会話」とされることになる。というのも、少なくとも日常会話であっても、やはり助詞無し・述語無しという特徴は観察されるに決まっているからだ。なので、ここで「話しことばで書いてはいけない」と言われるときには、それは正当にも「話すこと全般で用いるような」ことばを指しうるのだが、にもかかわらず、その点は不問にふされ「日常会話」だけを非難する、という帰結をもたらしがちなのである。
「話しことばで書いてはいけない」と「書きことばで書かなくてはいけない」とのあいだにも飛躍が在る。というのも、そこでいう「書きことば」なんてものは本当は「無い」からだ。単に二つの点で「話しことばに見られやすい特徴」があまり見られないものを「書きことば」と呼んでいるだけだからだ。一つは「会話するときにのみ用いて良い語句・語要素」を使っていないもの、が「書きことば」と呼んで良い前提に在る。もう一つは「形式が重んじられる文章を書く・話すときに用いなくてはいけない語句・語要素」を省略していないもの、が「書きことば」と呼んで良い前提に在る。要するに「書きことばで書かなくてはいけない」と言いつつもその「書きことば」というのは、「書く」という行為とは関係無い。また、「会話語」や「省略」が無いという特徴によって特徴づけられているだけであって、「書きことばであることに見られる積極的な特徴」には乏しい。「書きことばで書け」というのは、結局「話しことばに見えるように書くな」というだけの否定的な内容であり、積極的な内実にやや乏しいのである。
「そんなことはないだろう」と思う人も居ると思う。「話しことば」というのが「書くときに用いなくてはならない要素の省略」によって特徴づけられるのなら、その「省略」が無い、「文法的に完全な文」というものが在るはずであり、その「文法的に完全な文」こそが「書きことば」であるか否かを特徴づける積極的な内実に該当するはずだろう、というわけだ。これは理念的には正しい考え方だろう。だがそれは、人々が実際に「話しことば」とか「書きことば」という概念を使うときに想定しているものでは、あまりない。というのは、ほとんどの人は「実際に書かれた文章」を読んで、そこに在るものが「文法的に完全な文」であるといちいち判断しているわけではないからだ。人々がすぐに気づくのは「欠落」のほうである。そして、すべての「欠落」に均等に気づくわけでもない。むしろ人々が「実際に書かれた文章」を読んですぐに気づくのは「読みにくさ」のほうだ。それは文法的に完全な文であってももちろん感じることである。そしてそのとき「でも文法的には完全な文だけど」とはあまり思わないものだ。なので、そのような「人々の気づきやすさ」から判断すると、やはり、「話しことばには欠落が在る」「書きことばは欠落の不在という否定形でしか規定できない」というほうが、現実味のある規定になると思う。そういうわけで、「書きことばで書かなくてはいけない」とスローガンとして言われるときにも、「書きことばの積極的な規定」「あるべき姿」のようなものがポジティブに存在しているわけではない、と見たい。それは彼らの考えるような「話しことば」らしさの否定形という虚無でしかないのだ。
ただし日本語文法を(結束性まで含めて)或る程度きちんと勉強して考慮に入れたうえで、「文法的に欠落の無い完全な文」を書きなさい、という教育目標を掲げることは在っても良いと思う。なのに、単にそういう意味合いで「書きことばで書きなさい」と言っている人が皆無である、というだけのことだ。なお、「英訳したときに文法的に完全な文」になるようなそういう日本語を書く、という教育目標なら三森ゆりかが昔主張していたかもしれないが(生徒が外交官の子供だらけなのだ)、それは筆者がここで想定しているものとは異なる。英訳とかどうでもいいし、としか私は思わない。で、とは言え、その場合にも、その教育目標を掲げるときに「書きことば」というスローガンである必要は無い。むしろ「書く」とか「話す」とかと関係なく主張されて良い。
「話しことばで書いてはいけない、書きことばで書きなさい」と言われるときの「ことば」というのが、言語活動全般を指すような用語法も存在していなくはない。この場合には「話すという言語活動のように書いてはいけない、書くという言語活動のように書きなさい」ということになるわけだが、ここで単語や文法ではなく、内容的なものを主張に含めることも可能になる。たとえば、こんなことを述べる人はめったに居ないと思うが、「話すという言語活動によく在るような5W1Hの欠落などという様態で書いてはいけない。書くという言語活動に在るべきであるような5W1Hの完備という様態で書かなくてはいけない。」という言い方も可能にはなる。そうすると、「話しことば」では「よく在る様態」を指し、「書きことば」では「在るべき様態」を指すという非対称が生まれることになる。また、このときの「話す」が、「対面している相手との会話」や「同世代との会話」に限定されていたり、「書く」から「携帯メールでのやりとり」が排除されていたりすることも多いだろう。そのような非対称も在る。
少し話題を広げてしまうと次のように言える。「話しことば」や「書きことば」というときの「ことば」という語が指しうるのが「言語活動そのもの」であるという用法は、主に発達心理学・教育心理学で見られるものである。このとき、「書きことば」のほうだけが「獲得するべき対象」「発達するのが好ましい対象」として扱われ、「話しことば」のほうはそのようにはあまり扱われない。なので「書きことば」のほうには「書くという言語活動をする技能」という「技能」の含みが濃厚だが、「話しことば」のほうには「話すという言語活動をする技能」という「技能」の含みはあまり見いだせない。つまり「話しことば」→「話すという言語活動」までというわけだ。この非対称が、「話しことばで書いてはいけない」言説にも並行的にみられる。ところが、日本語教育学の研究者が用いる段になると、当たり前だが、「話しことば」のほうにも「話すという言語活動をする技能」の含みが強くなる。そのような言い方をしたいがためにわざわざ「話しことば」という語彙を選択しているのではないかと思えるほどだ。いずれにせよ、「話しことば」や「書きことば」は心理学や教育関係の学での用法だと、あからさまに「評価語」である。また「書きことば」は「技能」だが、「話しことば」は別に「技能」というほどでもない、と(日本語教育学周辺以外だと)扱われやすくもなる。
そういうわけで「話しことばで書くな」から「書きことばで書け」に飛躍する際に、複数の次元で非対称をもつこと、事実というよりもはるかに「価値」についての主張になっていくことが、言えるのである。なお、これと関係している内容を扱っている「問題の所在:「“書き言葉”という単語」を使いたがる人」というページも在る。
「具体から抽象へ」「具体と抽象との往復」といったタイプのスローガンはこの時代の国語科に限らず多く見られるものだ。だが当然この時代の国語科にも見られた。そして特に国語科で主張されるときに問題になるのだ。
さてまず、「抽象」という語を使うとき、大まかに言って「抽象的」という性質語で捉える人と、「抽象する」という操作語で捉える人とがいる。前者の「抽象的」という性質語で捉えるという場合、その対義語は「具体的」となる。これは多数の人の用法である。
他方後者の、「抽象する」という操作語で捉えると、「具体化する」という対義語とともに、「捨象する」という対照的な操作語もまた存在することになる。たとえば「モーツァルト作曲の交響曲41番」から「交響曲という属性を抽象する(取り出す・引き出す)」ことは同時に「モーツァルトの曲という属性」や「ハ長調の曲という属性」を捨象する(捨てる)ことにもなる。そういう関係にある語である。一般に「Aを抽象する」ことは「A以外を捨象する」ことと同時であり、同じ事態の二つの側面にほかならない。また「具体化する」という操作語の言わんとするところは、「かつて捨象したものを回復する」ことである、ともなろう。
このタイプの用法は、喩えで言うなら「コーヒー豆からコーヒーを取り出す」ような操作を「抽象する」と呼び、そこで生じた「豆の残りを捨てる」ことを「捨象する」と呼んでいるようなことに近い。そして「具体化する」というのは、「コーヒー」からかつての「コーヒー豆」を作り出すような魔法の操作ということになるだろう。まあこれは喩えである。
問題なのは、後者のこの「抽象する」「捨象する」「具体化する」といった操作語による語群のほうを意識して、スローガンを唱える側である。
たぶんこのタイプの人には「抽象する」ことに関する典型的なモデルのようなものが在るのではないかと思える。それは次のようなものであろう。
そういうわけで、「既知のデータから未知のデータを推測する」という推論も、「個別の事柄から一般的な概念を理解する」という認識も、どちらも「具体から抽象へ」という形でまとめてしまうことができる。そういうわけだろう。
また、次の二つの種類の推論は少し異なった種類のものだが、どちらも「具体から抽象へ」に該当する、と言ってしまうことが可能である。
筆者の知る限りだと、哲学研究者はこのような場合に「具体から抽象へ」とは呼ばずに、「個別から一般へ」と呼ぶことがやや多いように見受けられる。そして上記の例は、「個別から一般へ」の「一般」の箇所は記載を省略して「個別から一般を推測して、そこから別の個別を推測する」という推論になっている。
次のような推論もやはり「具体から抽象へ」と言ってしまうことができる。
筆者の知る限りだと、言語学者はこのような場合に「具体から抽象へ」とは呼ばずに、「リンゴ」「ミカン」「ブドウ」を「下位概念」「下位語」と呼び、「果物」を「上位概念」「上位語」と呼ぶことにしているようである。
尤も国語科で特に「具体から抽象へ」を乱発してはいけないと筆者が考える理由は、むしろ以下に述べるものだ。次のような呼び方が可能なので、とりわけ国語科が「具体から抽象へ」を乱発しやすくなるし、だからこそその濫用は好ましくないと筆者は考えるのだ。
たとえば「リンゴは具体的だから触ることができて、果物は抽象的だから触ることはできない」などという不可解なことを言いだす国語教師がいたら、上の図式が混乱した状態で想定されているのだろうと推察できる。語と指示対象の混同である。「リンゴは触ることができる」というときにはリンゴの実物(リンゴという語が指している対象)のことを言っているのに対して、「果物には触ることはできない」というときには、果物という語や名前のことを言っていて、果物という語が指している対象のことを言っているのではないのである。
ここまで登場した図式は大まかに言えば「実物(や現象)→名前」「個別→一般」「下位語→上位語」の三つであった。これらはどれも「具体→抽象」というふうに呼ぼうと思えば呼ぶことができる。他にも「長い文章→その要約」という関係もまた、「具体から抽象へ」と呼ぶことが可能である。あるいは「抽象するというのは、コーヒー豆からコーヒーを抽き出すようなものだ」というふうに「喩え」や「比喩」で説明するのも「具体→抽象」と呼ぶことが可能である。問題は、これらのすべてが「具体→抽象」と一緒くたに呼ばれると混乱しやすくなるのに、なぜわざわざその混乱を招く呼び方を使ってまで「リンゴには触ることができるが、果物には触ることはできない」などと言い募りたい国語教師がいるのか、である。
筆者の判断はかなりはっきりしている。そういう国語教師は「具体」という語を使いたくてしようがない、のだ。そして「“具体”は素晴らしい」という「ほめ専用」語として使いたいのだ。だから「具体」の占める位置ははっきりしている。「リンゴ(実物)は触ることができる。なんて素晴らしいのだ!」というふうにである。
おそらくこういう立場の人は「リンゴ」を「下位語」とはあまり呼びたがらないに違いない。なぜならその言い方だと「劣る」ように聞こえるからだ。あるいは「リンゴは甘い。だから果物は皆甘いだろう。」という推論で「リンゴは甘い。」の箇所を「個別」とあまり呼びたがらないだろう。というのも、むしろ「リンゴは甘い。」のほうこそがすべての基本となる根本的な体験だと位置づけたいだろうからだ。なので、「下位語/上位語」とか「個別/一般」とかのように落差がある言い方を避けて、「具体/抽象」という、両者が対等に聞こえるふうに呼びたいのだろう、と推察できる。
「具体」が「ほめ専用」語の評価語になっている、この図式は、多くの人の語用とも両立可能である。多くの人の語用では、「抽象的」というのが「けなし専用」語なのであった。つまり多くの人は「わかりづらい」と否定的に評価するときに「抽象的」と呼びがちなのであった。そして多くの人はその対義語として「具体的」を用いるのである。なので、「具体はすばらしい」という立場とは、両立できるのである。
「具体から抽象へ」という言い方、あるいは「具体と抽象との往復」という言い方は、さまざまな異なった関係を含ませることができる。つまりあまり性能の良い言い方ではない。むしろ議論を混乱させやすい言い方だろう。だが、「リンゴは甘い。」という体験こそを「ほめ専用語」の対象としたいような人々は、その言い方を容易には変えないだろう。それは「具体」のほうこそを「ほめ専用語」の対象にしたい立場によって維持される。そしてそれは「抽象的」のほうを「けなし専用語」とする多数派の用法とも整合する。或いはまた、少なくとも多数派のほうからいぶかしがられにくいため、「具体=ほめ専用語」派の用法も看過され温存されやすい、…と言えるのだ。
そして「具体/抽象」という対にはさまざまな関係を含ませることが可能であるため、いつしか「“抽象”とは“具体”以外全部である」といった関係にも陥りやすい。そのことによって、異なったさまざまな「難しい」ことばや概念をごちゃまぜにして「全部“抽象”でいい、だって全部“具体”以外だからだ。」となり、これもまた「抽象的」をけなし言葉として使う多数派の用法と相性が良いのである。
既出だが、ここでもごく簡単に上記の語について述べておく。これらもまた、単なる掛け声の域を超えて、「それを基にカリキュラムや教材を作ろう」という基幹概念になりやすい。00年代の国語力革命においても、もちろんそうだった。だが、現状のままではこれらには、カリキュラムや教材を構築する力はまず無い。
「論理的」の場合はこうだ。「論理的」の語が論理学を充分に踏まえて専門的知見を備えた人、典型と周縁・例外との区別を弁えた人によって使われている場合には、問題はほとんど無い。だが教育業界のほとんどの人や、経営学的思考を教えようという書籍の著者や、更には大学初年度の教育担当者であっても「論理学」をほぼ知らない人は、ごく多い。そういう人の唱える「論理的」は概して、性能が低い。説明しようとしないからである。まず「Aである。だからBである。」とか「Aである。なぜならBであるからだ。」というふうに、「主張に理由を付けて述べること」をやさらには「現象の原因を説明できること」を「論理的」と呼ぶ人がとても多い。この種の人の場合、「それを論理的と呼ぶのが正しいのだ」というふうに、自分の呼び方自体がユニバーサルな真理であるかのように述べたり、何の説明もなくそのように主張して「“論理的”の定義を説明しないとわからないのは、わからない方が悪い」という態度であったりする。小中高や受験業界に多そうだ。また、日常言語に論理学的見方を応用する際に「論理的とは理解可能であることだ」という考えに専門家が依拠していることを知った“ど素人”が、その「理解可能」という点を自分のレベルに合わせて自分勝手に曲解して、「自分に理解できないもの、たとえば5W1Hのどれかが欠落していて理解できないもの」が「非論理的」である、というように唱えることも在る。こうなるとほとんどビョーキである。ともあれ、現状では「なぜそれを“論理的”と呼んでも良いのか」を説明することができない人によって唱えられた「論理的」やそれに基づく書籍・教材・カリキュラムは、意義の乏しいものになっている。なぜこうなるのかについては筆者はいろいろ既に説明したことがある。肝腎なのは、「論理的」といえば「ほめ専用語」であるばかりか、「非論理的」といえば「けなし専用語」である、というふうに両極ともその評価語としての機能が高いことだ。特に「非論理的」という言い方はほとんど相手の知能の全否定に近い効果を産むことも多い。この語を投げかけられると頭に血がのぼる人がとにかく多いのだ。こういう語に依拠して教育を構想することは、ぜひ止めるべきだと筆者は思う。
「思考力」もまた、「ほめ専用語」としての機能がとても高く、関連する「思考」や「考える」等の語句にもそれは及んでいる。以下「思考」で代表させよう。この語によって「何かの事実を誤解の無いように指し示す」ことはほとんど不可能なので、これに依拠したカリキュラム・教材などは教育にはまったく向かない。止めるべきだろう。「思考」が脳波の物理的状態を指し示す語として使われる分にはあまり問題は無い。ただその場合は「思考」と呼ぶ必要はこれっぽちもなく、「意識」とか「感覚」とか「内言」とか「思い」「感じ」とか何か別の語であっても構わない場合だ。だが、教育する場面・教育を報告したり宣伝したりする場面で使われる「思考」やその関連語はこれではない。教育言説で使われる「思考」というのは、「思考した結果と呼ぶに値するものが産出されたときに想定される何か」である。どういうときに「思考の結果と呼ぶに値するか」は呼ぶ人の能力と価値観によっていくらでも勝手に決めることができる。また「想定される」のが「実際に脳内・身体で生じている物理的過程」である必要なども無い。そしてこの規定からわかるように、それは「ほめ専用」語でしかない。それは「けなし専用」語との対比で説明されることが多い。「単なる知識ではなく、思考」「単なる記憶ではなく、思考」「単なるテクニックではなく、思考」「単なる知識の機械的な適用ではなく、思考」「単なるオウム返しや棒読みではなく、思考」「単なる言葉の上だけの操作ではなく、思考」「単なる感情的反応や脊髄反射ではなく、思考」「単なる眼前の描写ではなく、思考」「単なる紋切型の反復ではなく、思考」「単なる西洋文化の模倣ではなく、思考」などと言ったところだろうか。気づいた人もいると思うが「思考」という「ほめ専用語」は、「理解」という「ほめ専用語」と役割が重複しやすい。「キャラが被っている」登場人物が二人いるマンガのような状態になりやすいのだ。
「事実」という語も、「事実と意見とを区別せよ」などと主張されるときには、かなり「ほめ専用語」であり、この場合は「意見」のほうが「けなし専用語」になることもある。「事実でないものは皆意見でしかない」となる場合がそうだ。「推測」のように「事実に昇格しうるもの」と、「オピニオン」「感想」のように「事実に昇格はしないもの」とを一緒くたにして「意見ではなく事実を述べろ」などと言われるときには、「意見」は「けなし専用語」になっているのだ。
もちろん、他にもこういった「評価語であるあまり、カリキュラムや教材を構築する性能に乏しい語」というものはいろいろ在るだろうし、いろいろ使われていたことだろう。2019年現在、今後来るはずの「新カリキュラム」や入試制度に対する関心ばかりが高まっており、「00年代の国語力革命」をきちんと反省しそこから教訓を抽出しようという動向はまったく見られない。その結果が、以前より良いものになるはずがないことだけは明らかだ。そのため、筆者がそれを簡単に総括しておいた。
この文章と関連があったり、内容が重複している文章に、例えば「野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」」「「事実」と「意見」・「知識」と「理解」」「サイト但書」、あとやや深入りした内容だが「「演繹」定義の伝言ゲーム」「「『最新版 論文の教室』を改善してみる」「「外山大先生から学べない内容がこんなにある:外山滋比古『「読み」の整理学』」」などがある。併せて読まれてほしいと私は筆者として願う。