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戸田山和久『最新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(2022,NHK出版)を少し改善する助けになる文章を書いてみたい。改善点は、パラグラフ・ライティングに関するものが中心となり、あとアブストラクトについてのものが一点ほど、となる。
この書の最後に「作文ヘタ夫」の完成した論文というものが載っている。この論文は日本語の文章としては問題は特に無い。ただ、この論文がパラグラフ・ライティングになっていなかった。少なくとも私の理解するパラグラフ・ライティングとはこのようなものではない。私の理解に関しては「『最新版 論文の教室』と『読み書きの技法』」に示したとおりである。
まず、ヘタ夫の論文の段落冒頭文のみをつなげてみる。その結果は次のようなものである。ただし、最初の「はじめに」の箇所は、学術論文でのアブストラクトに匹敵するものとして書かれているので、ここは段落まるごと残すことにする。そうすると、次のようになる。
動物に権利を認めるべきか
本論文は、高等動物も権利の主体でありうるというピーター・シンガーの議論を擁護することを目的とする。
そのためにまず、動物に権利を認めるべきかという問題が注目されるようになってきた背景を簡単にまとめるとともに、「動物の権利」ということでどのようなことが意味されているかを明らかにする(第II節)。
次いで、動物に権利を認めるべきだとする議論の典型例として、ピーター・シンガーの議論を紹介し、それに対して考えられる批判からできる限りシンガーの議論を擁護する(第III節)。
最後に、動物に権利を認めることが、われわれの動物とのつきあい方に対して、どのような帰結を生むかを検討する(第IV節)。
動物に権利を認めるべきだという主張は、われわれ人間が動物をどのように扱ってきたかという反省に基づいている。
もう一つの例は、食肉産業である。動物をきちんと扱おうという理屈の根拠として、伝統的に有力だったのは虐待反対という考え方だ。
しかし、以上のような反虐待の倫理では限界があることがしだいに明らかになってきた。
こうした問題点の自覚と、動物の扱いに対する関心の高まりとによって、反虐待を超える「動物に対する倫理」が求められるようになってきた。
では、動物を権利の担い手とするということは、どのような点で単なる反虐待倫理を超えることになるのだろうか。
もちろん、動物にも権利を認めるべきだとするためには、それを正当化する議論が必要だ。
シンガーの議論は、まず平等の原理を認めることからはじまる。
この主張が成り立つためには、平等の原理が人間にも動物にも当てはまるのはいったいなぜかを明らかにしなければならない。
このベンサムの考えに基づいて、シンガーはおおよそつぎのように議論を展開する(シンガー 1999,pp。70-1)。
シンガーの議論に対してはどのような批判がありうるだろうか。
この反論に対しては、つぎのように答えることができる。
第二に、つぎのような反論も考えられる。
シンガーの議論に対しては他にも批判が可能だろう。
前節の議論により、動物にまで平等の原理を拡張して、動物の権利を認めることには十分な正当性があることが示されたものとしよう。
私はそうではないと考える。
しかしだからといって、現状をそのまま肯定するわけにはいかない。
同様に、肉食についても、快適な牧場で本来の生態に近い仕方で育てた家畜を苦痛のない方法で殺して食用に利用することは、動物の権利を認めた上でも可能だろう。
本稿で私は、動物権利論が生まれてきた背景とシンガーの議論を紹介し、考えられる二つの批判から動物に権利を認めるべきだという主張を擁護した。
しかし、本稿では十分に動物権利論を擁護することはできなかった。(後略)
以上みてきたとおり、この論文は、段落冒頭文のみをつなげて読むということができないのである。この点を踏まえて、パラグラフ・ライティングになるように私が書き換えたものが次のようになる。この際にも「はじめに」の箇所は直す必要が無いので、そのまま残してある。
本論文は、高等動物も権利の主体でありうるというピーター・シンガーの議論を擁護することを目的とする。
そのためにまず、動物に権利を認めるべきかという問題が注目されるようになってきた背景を簡単にまとめるとともに、「動物の権利」ということでどのようなことが意味されているかを明らかにする(第II節)。
次いで、動物に権利を認めるべきだとする議論の典型例として、ピーター・シンガーの議論を紹介し、それに対して考えられる批判からできる限りシンガーの議論を擁護する(第III節)。
最後に、動物に権利を認めることが、われわれの動物とのつきあい方に対して、どのような帰結を生むかを検討する(第IV節)。
動物に権利を認めるべきだという主張は、われわれ人間が行ってきた動物の扱いに不当な点があったという反省に基づいている。そのことを二種類の例で示しておく。
一つめの例としては、動物実験での動物の扱いに不当な点があったことが挙げられる。たとえば、新たに開発されたシャンプーの安全性をテストするために、製薬会社はウサギの目に濃縮溶液を差す。あるいは、プリンストン大学のある研究者は、食べ物を与えないで二五六匹もの若いネズミを餓死させた。これは、飢え死に寸前の若いネズミは、食べ物を十分に与えられた正常な大人のネズミよりもはるかに活動的であるということを証明するためだった。またさらに、ウィスコンシン州・マディソンにある霊長類研究所では、わざと母猿を神経症にする研究が行われた。この研究の結果、母猿は小猿の顔を床にたたきつけてしまったそうである。
もう一つの例としては、食肉産業での動物の扱いに不当な点があったことが挙げられる。人々の嗜好にあった味の肉を作るため、あるいは生産効率を上げるために、動物の本来の生態に反した不自然な飼育方法がとられている。たとえば、自身でやわらかく血の臭みのない仔牛肉を作るために、仔牛を身動きのとれないように囲い込み、鉄分のない餌を与えて人為的に貧血にしてみたり、バッテリー・ケージと呼ばれる檻にニワトリを極度に詰め込んで飼育したりするといったことが行われている。
動物をきちんと扱おうという理屈の根拠として、伝統的に有力だったのは虐待反対という考え方だ。つまり、人間にとって明らかな利益を生みださないのに動物に不必要な苦痛をもたらすような行為は倫理的に正当化されないという考え方だ。これによって、たとえば、小動物をいじめたり、罠にかかった動物を長時間放置して苦しませたあげく衰弱死させたりするというような行為が不当なものになる。
しかし、以上のような反虐待の倫理には、悪意に基づく意図的な虐待にしか適用できないという限界があることがしだいに明らかになってきた。じっさい、動物に対する苦痛に満ちた取り扱いのほとんどは、意図的な虐待によるものではない。それは食料の確保、医学の進歩、薬品の安全性の確保といった、それだけをとると明らかによい意図に基づいている。これらを「残酷だ」「サディスティックだ」と非難するだけでは、根拠に乏しいだけでなく事実誤認になってしまう。
そうした単なる反虐待という論を超えて、動物に権利を認めるという、より一歩踏み込んだ立場がその後提唱されるようになってきて、それは動物権利論と呼ばれる。これは反虐待の倫理の限界の自覚と、動物の扱いに対する関心の高まりとによって、新たな「動物に対する倫理」が求められたことの結果だと言える。動物に権利を認めることは、ただの虐待反対よりも一歩踏み込んだ立場になる。つまり、人間社会で個人を守る砦になっている「権利」を動物にまで拡張することによって、動物に対する新しい倫理をうち立てることができないだろうかというわけだ。これが動物の権利論者の基本的なスタンスである。
動物に権利を認めた場合、動物に対する残酷な取り扱いを禁止することが、虐待の意図のあるなしとは関係なくなる。虐待の意図があろうがなかろうが、われわれの行為が動物の権利を侵害していれば、それは止めなくてはならなくなる。これが動物を権利の担い手とする立場が、単なる反虐待倫理を超えることになる一点目である。
また、動物に権利を認めると、動物を適切に扱うことは「やさしさ」や「思いやり」ではなくて、われわれの義務になる。反虐待倫理や動物愛護思想がよって立つ「やさしさ」は、義務を超えた善意の発露だったわけだが、動物権利論においては、われわれが動物に対していかなる義務を負うかというふうに捉え方が変わる。これが動物を権利の担い手とする立場が、単なる反虐待倫理を超えることになる二点目である。
動物にも権利を認めるべきだとする議論の一例として、オーストラリアの倫理学者ピーター・シンガーのものがある。これによって、動物権利論を正当化することの必要性を満たすことが期待できよう。そのために、ここでシンガーの議論を取りあげて検討する。
シンガーの議論は、他人の利害をどのように配慮するかはその人の属性や能力に左右されてはならない、という平等の原理を認めることから始め、もし人間が平等に扱われる権利をもつなら、動物もその権利をもつという帰結を導く。どういうことか。平等の原理を認めるなら、肌の色、家柄、性別などを理由にして人の利害を無視したり軽視したりしてはいけないということが帰結する。そしてさらに、つぎのように議論は進む。平等の原理が人間に当てはまるなら、同じ理由で動物にも当てはまる。したがって、人間が平等に扱われる権利をもつなら、動物もその権利をもつ、というわけだ。
次にシンガーは、平等の原理が人間にも動物にも当てはまるためには、苦しみや快楽を感じる能力という性質が必須であるということを述べる。これは、平等の原理が人間にも動物にも当てはまるための根拠を明らかにしようとするなかで提示されたものだ。その際、シンガーは、一九世紀イギリスの功利主義者ジェレミー・ベンサムの考え方に訴えた(シンガー 1999,pp。69-70)。ベンサムの考えを敷衍して、苦しみや快楽を感じる能力こそが、何らかの存在が平等な配慮を受ける権利を得るために備えていなければならない必須の性質であるというわけだ。
苦しみや快楽を感じる能力は少なくとも高等動物にはあると考えられるので、彼らは利害をもつような存在でもあり、その利害は人間と同様に捉えるべきであるとシンガーは議論を展開する(シンガー 1999,pp。70-1)。この展開は、平等の原理は、どの者の利害も等しく考慮に入れるべきだという原理であったことからの自然なものである。平等の原理が適用されるための条件は、その者が白人男性であることでも、高貴な家柄の出であることでも、高度な知性や計算能力をもつことでもないだろう。これらの条件はすべて恣意的で根拠がない。そうではなく、その者が利害をもつような存在であることこそが平等の原理にかなっている。ならば、高等動物を含む動物たちは利害の担い手であり、その利害は等しくカウントされるべきだということになる。
シンガーの議論に対するありうる批判のうち、ここでは二つのものを取りあげることにする。それに対して、動物の権利を擁護する立場から反論を試みよう。
まず、動物が苦痛や快楽の担い手であるということはどうしてわかるのか、単にわれわれが自分を投影しているだけかもしれないではないか、という反論が考えられる。この反論は、われわれは動物の身になって快楽や苦痛を感じることができない以上、動物も快苦の担い手であるという判断には根拠がないとするものだ。
この反論に対しては、もし動物の身になって痛みを感じることができないのならば、他人の痛みもまた感じることはできないことになりおかしいではないか、と答えることができる。たしかに、私は目薬を過剰投与されたウサギの苦痛を感じることはできず、想像しているだけにすぎない。しかし、だとしたら私は、釘を踏み抜いた弟の痛さも感じることはできない。動物の身になって痛みを感じることができないのならば、他人の痛みもまた感じることはできないのである。われわれが、他人にも自分と同じような快苦の感覚があると確信しているのは、自分も他人もだいたい同じような体のつくりをしていることを知っているからだ。だとしたら、少なくとも高等哺乳類については、人間とよく似た神経系と脳をもっているのだから、おおよそ人間と同じような快苦をもつと考えた方が合理的だ。
第二に、苦痛を感じる能力のある存在とない存在の間に線を引くことはどうして可能なのか、という反論も考えられる。なるほど、人間やそれに近いチンパンジーは苦しんだり快楽を感じたりできるだろう。犬や猫もおそらく感じているだろう。しかし、イソギンチャクやクラゲは、神経系の作りからしても、苦痛をもつとは考えられない。苦痛を感じる能力のある存在とない存在の間に線を引くことはどうして可能なのか、というわけだ。
このような反論には、苦痛を感じる能力に境目を引くことができないということは「苦痛を感じるもの」という概念が空虚であることを意味しない、と答えることができる。たしかに、苦痛を感じるものと感じないものとは連続的であることは認めよう。しかし。色のスペクトルを考えてみよう。赤い光は波長が短くなるにつれてだんだんと青い光に移っていく。ここまでが赤で、ここからが青というような線は引けない。だからといって、「赤」「青」という言葉は無意味だとは言えない。両極端の違いははっきりしているのであり、曖昧なケースがあるということは、その概念を意味あるものとして使うことを妨げないのである。
シンガーの議論に対しては他にも批判が可能だろうが、しかしそれらに対しても十分に擁護可能だと考えている。シンガーの議論はわれわれのたいへん自然な直観に基づいているからだ。
つぎに問わねばならないのは、このように動物に権利を認めることによって、われわれの動物に対する動物実験や肉食のような接し方にも変化を余儀なくされるか否かということだ。前節の議論により、動物にまで平等の原理を拡張して、動物の権利を認めることには十分な正当性があることが示されたものとする。だとすれば、動物にも生存権や苦痛を避ける権利があることになり、いっさいの動物実験や肉食は倫理的に正当化できないことになるのだろうか、という疑問が生じてくるのだ。
しかしながら動物に対する接し方を根本的に変える必要はない、というのも、動物の利害も人間の利害も計算に入れたうえで、それでも人間の利益が動物の不利益を上回ると判断された場合にならば、動物実験も肉食も許されることになる、と考えることができるからだ。そう考えることができる理由は、平等の原理が命じているのは、動物の利害がまさに動物の利害であるというだけの理由で無視されてはいけないということである。動物に権利を認めるということが、ただちに人間による利用をすべて放棄するということになるわけではない。
もちろん現状をそのまま肯定するのではなく、動物の利用を動物の権利という観点からチェックし、必要があれば変更し、人間の義務を明確にするべきだ。動物の権利を認めるというのは、こういうことだ。たとえば動物実験の場合であれば、多くの人間に動物の犠牲を上回る利益をもたらす実験であることを確認した上で、不必要に苦痛・不安などを与えないこと、飼育環境を自然の生態に近づけること、麻酔・鎮静剤を与えたうえで実験すること、苦痛を長引かせないように安楽死させることなどが人間側の義務となる。同様に、肉食についても、快適な牧場で本来の生態に近い仕方で育てた家畜を苦痛のない方法で殺して食用に利用することは、動物の権利を認めた上でも可能だろう。もちろん、この場合も、現行の集中飼育や仔牛の飼育法は倫理的に正当化することはとうていできないことになる。
本稿で私は、動物に権利を認めるべきだという主張を擁護し、またかならずしも動物の利用を全面的に禁じることにはつながらないことを示した。まず、動物権利論が生まれてきた背景とシンガーの議論を紹介した。次に、あらかじめ想定できる二つの批判から動物に権利を認めるべきだという主張を擁護した。そして、動物に権利を認めることは、動物に対するわれわれの態度に変更を促すことは確かであるが、しかしかならずしも動物の利用を全面的に禁じることにはつながらないことを示した。
しかし、本稿では苦痛のうち肉体的苦痛しか念頭においておらず、また、生命の質が低下してしまった人間よりも健康で知能の高い動物の権利が優先されるケースを考慮していない。その二点を考えると、本稿での動物権利論の擁護は十分ではないことになる。肉体的苦痛だけではなく、絶望とか屈辱感とかいった精神的苦痛も苦しみの中に数え入れた場合、権利が認められる動物の範囲はずいぶん違ったものになることが予想される。また、知能の高い動物のほうが生命の質が低下した人間よりも権利が優先されるという考えは、私の直観には反する。
これらの点にかんしては、私はまだきちんとした考えをもつことができていないので、本稿で扱うことができなかった。今後の課題としたい。
(後略)書き換えたヘタ夫の論文を、「はじめに」は全部残して、あとは段落冒頭文のみをつなげてみると次のようになり、読み通すことができるものになる。
本論文は、高等動物も権利の主体でありうるというピーター・シンガーの議論を擁護することを目的とする。
そのためにまず、動物に権利を認めるべきかという問題が注目されるようになってきた背景を簡単にまとめるとともに、「動物の権利」ということでどのようなことが意味されているかを明らかにする(第II節)。
次いで、動物に権利を認めるべきだとする議論の典型例として、ピーター・シンガーの議論を紹介し、それに対して考えられる批判からできる限りシンガーの議論を擁護する(第III節)。
最後に、動物に権利を認めることが、われわれの動物とのつきあい方に対して、どのような帰結を生むかを検討する(第IV節)。
これならば、「論文なら必ずパラグラフ・ライティングで書くべきであり、それは飛ばし読みできないとならないのだ」という考えの者に対しても充分通じる論文となる。
『最新版 論文の教室』に改善や修正が必要になる場面は、多くの場合「問いかけ文」の存在が関係している。そもそも私の考えでは、どこに行っても通用するようなパラグラフ・ライティングでは「問いかけ文」が登場できる箇所はあまり無いのである。その理由はこうだ。「問いかけ文」は必ず後続する「答える文」が必要になる。その際、その順序関係を入れ替えることはできない。必ず「問いかけ文」が先に来て、「答える文」が多くの場合その直後に来るはずだ。のみならず、通常の場合はこの二つは同じパラグラフ(或いは段落)に属していないとならない。この二つの文は、かなり強い意味で「同じ話題」だからだ。強い意味で「同じ話題」に相当する二文を、別々のパラグラフ(段落)に分けることは、禁則違反である。そして、多くの場合、「答える文」は、そのパラグラフ(段落)の内容全体が凝縮された文でもあるはずであり、それはパラグラフ(段落)冒頭に位置しないとおかしい。なので、純化されたパラグラフ・ライティングには「問いかけ文」は登場する場面があまり無い、ということになる。これには例外が在るので後述する。
さて上記の論点を考慮すると、p209に提示された「よいパラグラフの例」に対する検討を行なっている後続の議論の中のp210-211に示された次の箇所が修正可能なものに思えてくる。引用は戸田山相当の教師が行なっているセリフからのものである。
この例では、それぞれのトピック・センテンスはパラグラフの冒頭に置かれている。これがパラグラフ・ライティングの基本だ。どうしてこのやり方が基本になるのかを考えてみよう。(後略)
(中略)このパラグラフだけを取りだして眺めていると、そう思えてくるよね。だけど、このパラグラフと前のパラグラフとの関係を考えてみようぜ。第二パラグラフの最後で、「どうしてこうなったのか」と問われているので、読者はその答えを期待して、つぎの第三パラグラフに進む。第三パラグラフで、その問いの答えになっているのは、言うまでもなくトピック・センテンスだ。教育水準の向上がどうたらこうたらという文は、トピック・センテンスに対してその根拠を挙げるサブ・センテンス。そうすると、書き換えちゃったパラグラフでは、一つ前のパラグラフで立てた問いに対する答えを得る前に、読者は宙ぶらりんの状態で別の文を読まされることになる。
この引用箇所で、修正が必要になる箇所を修正すると、その結果として「第二パラグラフの最後の文と第三パラグラフの最初の文とは、つながる必要が無い。むしろつながらないべきだ」ということになる。これは戸田山自身がp212で図解している通りである。第三パラグラフの冒頭文とつながっている必要が在るのは第二パラグラフの冒頭文のほうである。最後の文などではない。また第二パラグラフの最後の文がつながっている必要が在るのは、第三パラグラフの冒頭文などではなく、第二パラグラフの冒頭文のほうである。この当然のことが、「問いかけ文」と「答える文」を配置するときになると、忘れられてしまっているのだ。
「問いかけ文」と「答える文」とはこの順番で提示しなくてはならない。のみならず、「答える文」は「問いかけ文」の直後に来なければならない。ただし、以前予告しておいた例外を述べると、「問いかけ文」を第nパラグラフの冒頭文に配置して、「答える文」を第n+1パラグラフの冒頭文に配置すれば、この条件を満たすことができるというものが在る。もしその場合でなければ、この二つの文を同じパラグラフの中のサブ・センテンスとして配置するほかない。いずれにせよ、「問いかけ文」はパラグラフ同士の「つなぎ」として安易に使うことはできないのである。
したがってもちろん、トピック・センテンスをパラグラフの冒頭に配置しなければならない、という論の根拠づけにもうまくいっていない。この一連の箇所は改善可能な箇所であると私は思う。
この『最新版 論文の教室』は、最初のほうのp41の前後で「論文には、問いと主張と論証が必要である」と述べている。この「問い」ということで、多くの読者が「疑問文」を連想するはずである。実際「疑問文」を適度に用いた論文的な文章は読みやすいものになることが多い。だが、この「疑問文」というものは、純化されたパラグラフ・ライティングとは決して相性が良いものではない。多くの場合、「疑問文」を書き換える必要に迫られるはずだ。そうするとたとえば「Aと問うことが可能だ」といった文章になる。このような形にしておけば、「疑問文の答え」を先に書き、直後に「これはAと問うことの帰結である」といった具合にして書くことができ、それならパラグラフ・ライティングになじみやすい。このような説明を補足することで、『最新版 論文の教室』を改善することも期待できよう。
念のために書いておく。私自身は、パラグラフ・ライティングにはなじめていない。そうしないで済むのならそれに越したことは無いと感じている。だが、パラグラフ・ライティングで書かなくてはならない場面というものは研究者にはおそらく多い。特に英文で論文を書く人にはほとんど不可欠の技術となるだろう。そうであるならば、上記の点を踏まえて、「論文には、問いと主張と論証が必要である」という原則と、パラグラフ・ライティングの原則とをどう折り合わせるか、あらかじめ考えておかねばなるまい。その一例として上記のような折り合わせ方がありうることを提示した。
『最新版 論文の教室』のp96-102のあたりで、戸田山は「要約」と「アブストラクト」について解説しているが、ここにも改善可能な点が在ると思った。それはトピックセンテンスをつなげてできた文章群を「ヘタな要約」、最初のほうで提示した「動物に権利を認めるべきか」の「はじめに」に書かれているようなアブストラクトを「まともな要約」というふうに位置づけている点についてだ。私はこの二つは、「ヘタな要約/まともな要約」というふうに捉えてはいけないと感じる。私の考えでは、「著者XはAと述べた」の「A」の部分を短く書いたものが「要約」であり、「著者XはAと述べたことによって、(読者に)Bをなした」というふうに捉え返したものが「アブストラクト」である。この二つは巧拙の違いではなく、そもそもカテゴリーの次元が違うのである。
ちなみに大学受験生までの身分では「要約せよ」と言われたら、「著者XはAと述べた」の「A」の部分を短く書いたものを試験の答案などで書かねばならなくて、他方大学生になると徐々に「著者XはAと述べたことによって、(読者に)Bをなした」という「アブストラクト」を「要約」として書かねばならなくなる。この二つは違っているが、教えている教師や機関が異なっている(高等学校までと大学・大学院というふうに分かれている)ので、この件に関しての「責任者」が不在である状態になっている。『最新版 論文の教室』を読んだ大学教員と高校教員・予備校教員との間で、話し合いをもたなければならないだろう。そう思う。