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ここ二十年ほどの国語科教育について検討するときに中核となるのは、おそらく「命題」という概念である。つまり「真理値をもちうる文」である。とは言え代表的であり主に取り上げられるのは、そのうちの「事実」である。「真理値をもちうる文」のなかには、「法則」や「真理」(数学の定理や、ニュートンの三法則のような自然科学の基本法則)や、或る種の「定義的命題」も在るが、たいていの場合はそれらよりは「事実」のほうが想定されていることが多い。なので、以下では、「事実」という語で、「法則」「真理」「定義」なども含めて「真理値をもちうる文」全般を想定することにする。たとえば「2018年1月28日山田太郎は犬の散歩をした」なら「事実」(過去形)である一方で、「山田太郎は週に一度は犬の散歩をする」なら「法則」(普遍的現在形)であるわけだが、どちらも一緒くたにして「事実」と呼ぶことにする、というわけだ。
石原千秋『評論入門のための高校入試国語』(2005,日本放送出版協会)では、次のような区分と、著者独自の特徴づけが行なわれている。すなわち、かたや、「事実」中心に書かれ、「文の真偽ではなく、文の意味・正誤」が理解できることが目指されているのが「説明文」である、他方で、「事実と意見とが錯綜して」書かれており、両者を切り分けながら読むことが目指されているのが「評論文」である、これである。そして全体的な論としては、説明文は読むのが易しく中学生向きだが、評論文は読むのが難しく高校生向きである、というように総括されている。ただしここで言う説明文を読むというのは、文意を理解するということであって、文章の真偽を判断するということではあまり、ない。石原はその「説明文を読むときの真偽の判断」についてはずいぶんと軽く見ており、重視はまったくしていない。またそれでいながら「真偽の判断」の教育も国語科の領分だと当然視している。ともかくそういうわけで、読む課題としては「事実」よりも「意見」のほうが高度であるために高等学校の分担になっていて中学校の分担ではない、という認識が示されているわけだ。
木下是雄の「意見」と石原千秋の「意見」とが同じ意味合いなのかどうかはわからない。以前別の文章でもふれたように、木下是雄が「事実と意見とを書き分けよ」と主張するとき、その「意見」は二つの用法が混在していた。一つは「オピニオン」や「判断」といったものであり、通常「意見」と呼ばれることの多いものである。或いは「良しあし」や「賛成反対の態度」といったものだとも言える。それに対してもう一つは「假説」「推測」「予測」といったものであり、要は「事実に昇格する可能性の在るもの」である。これらもまた木下是雄は「意見」と呼ぶのであった。そして石原がその「事実に昇格する可能性の在るもの」のことを「意見」と呼んでいるか、更にはそう呼ぶことを前提にして「評論文」の自説を主張しているのかどうかは、はっきりとはわからない。
ここであらためて主張しておきたいのは、「説明文を読むこと(真偽判定)が中学生向きの易しい課題である」と石原がなぜ主張できるかの理由である。それは「国語の教科書か高校入試問題の範囲内」だからなのである。すなわち、こうだ。大学入試とは異なり、高校入試の国語科の出題は出題する者は必ず国語科教員である。要するに、国語科教員が手に負える範囲内の説明文しか、教科書や入試では扱われない。だから「説明文の真偽の判断」に関して、石原は深く検討することなくこの書籍を出版することが許されているのだ。というのも、もし「国語教員有資格者により作成された教材・出題」の範囲外に目を向ければ、膨大な量の「説明文」の「真偽判断」が「国語科教員の手に負えないもの」として現出することはあまりにも明らかである。報告文や報道文、ジャーナリストによる文や自然科学の論文や記事など、きりがないほどである。また、「事実を書いた文」と、「文学作品における風景等の描写文」との違いというのも、明確に区別しようとすると思いのほか厄介である。ともかく、この書籍では「説明文の真偽を読者が判断するという課題」について等閑視したのみならず、むしろ「容易な課題である」という読後感すら引き起こしかねないような書き方をしている。このことが国語科教育に与えている悪影響は決して小さいものではない。概括すればその悪影響というのは「事実について検討するという課題が存在することを教えないまま、事実を書いたような恰好の文章を読んで“意見”を形成することだけを要求する」といったものになろう。
「説明文を国語科で学習する」ときにその文章の「事実性」が焦点になることは無い、ということは教わった者は皆知っている。あくまで「事実表現」を学習するだけなのだし、「小説のリアリズムの描写」と決定的に異なるものとして学習するわけでもない。だが、「説明文の読解→中学生向き」/「評論文の読解→高校生向き」と位置づけられることによって、「事実性の検討」が求められている課題ではないことを生徒が無自覚的に学び取る。だから、「この文章を読んで意見を言いなさい」と言われたときに、「良しあし」や「賛成反対」を述べることは在っても「邪馬台国は奈良県に在った、とこの文章には書いてあるけど、私は福岡県だと思う」といった「事実性についての検討」は生徒からはまず出てこない。それが出てこないのは当然で、国語教師の専門ではないからだ。つまり「説明文」というのは、文章の事実性の確認をできない専門の者が分担している、というわけだ。石原のこの「説明文の読解→中学生向き」/「評論文の読解→高校生向き」という「発達段階」にはそのことへの考慮が無い。
「知識」や「記憶」という概念は「事実」概念を前提している。「Aを知っている」「Aを記憶している」というときのAが「真理値をもちえない文」だったら話にならないからだ。少し乱暴に言えば、「知識」「記憶」であるためにはAは「事実」でなければならない。そして少なくとも「事実として正しいか誤っているかのいずれかである」ような恰好をしていなければならない、わけだ。
そのことの帰結はよくわからない。だが「事実概念と知識・記憶概念との密接な関連」に因って次の対比が自然に感じられるように思わされてしまいはするだろう。すなわち「説明文の学習/評論文の学習」という対比が「難易度」を前提していたようにして、「知識・記憶」/「思考・理解」もまた「難易度」を前提している、という対比だ。しかしここには考え足りない論点がある。ただここまでの「事実」概念との関連付けはまだ筆者は考えつめていないので、以下は、今までとは別の方向で話をする。
さて、素朴に考えれば「Bということを理解する」ためには、そのBを構成する要素は「知っている」必要、「記憶している」必要が在るはずだ。知識や記憶が無ければ、それを必要とする「理解」も「思考」もできない。たとえば「日本語の知識」というものだけでも必要である。「知識・記憶」/「思考・理解」が「易/難」の段階と重なって見えるとしたら、それは前者が前提になって後者が可能になっているからにほかならない。だがそのことが時に見えにくくなる。
その見えにくさに介在している一因は「記憶」や「知識」にも段階が在ることだ。たとえば「記憶」にも「いつでも好きなときに思い出すことができる」というレベルのものも在れば「言われて初めて思い出すことができる」というレベルのものも在る。同様に「知識」にしても「コトバでなら言える」知識も在れば「体で身に着いている」ほどの知識も在る。この場合の「知識・記憶」は「言われてみればわかる」程度の弱い記憶や「コトバでなら言える」知識といった、「弱い記憶・知識」でも十分である場合も多いのだ。
「記憶」や「知識」に段階が在ることを捨象し、「完全な記憶・完璧な知識」のみを特に想定すれば、「知識・記憶」と「思考・理解」とは、「前提/結果」というよりは、対立する二項と位置づけうる。すなわち「一つ一つの要素は完全に記憶して知っているのに、それが素材や前提となる理解や思考だけはできない」という状態が、特に顕在化され重視される。「知識が無いと理解もできない」という弊害よりもはるかに「知識が在っても理解ができない」という弊害のほうばかりが重要視され、要対策とされるようになる。「ハイパーメリトクラシー」化という社会現象を担っていたのは、この偏った重要視である。この偏りとは、「選別される者」を考慮せず「選別する者」の事情ばかりを考慮したものでもある。「知識がないと思考もできない」というのは試験等で「選別される側」の問題である。それに対して、「知識が在っても思考ができない」というのは試験等で「選別する側」の問題である。「選別されるべきでない者を選別してしまった」という問題である。このように、「選別する側」の都合ばかりが言説として肥大化したのが、「ハイパーメリトクラシー」化のひとつの面であったわけだ。
「知識」と「理解」の対立を先鋭にしている要因の一つに、「知っていること」を「知識」と呼ぶという呼称の問題がある。筆者の理解では「知っていること」≠「知識」である。「知っている」ことは「理解している」ことの前提である場合も多いわけだが、「知識」となるとむしろ「知っているけど理解していない」場合に優先的に使われる呼称となるからだ。
戸田山和久『知識の哲学』の序章なども参考にしつつ述べると次のようになる。「私は自転車の乗り方を知っている」という発話は、戸田山によると「自転車に乗ることができる」と同義である、となるらしい。だが次のような假定をして、もしここに『自転車の乗り方』という書籍や文書が存在するという場合、話はずっとややこしくなる。つまりたとえば、「私は自転車の乗り方を知っている」と述べる人がいても「知っているだけで乗れないんじゃないの?」と問うことが十分可能になる、これである。ましてや「私は自転車の乗り方の知識が在る」などと言えば、それはむしろ「『自転車の乗り方』という書籍に書いてある内容を記憶しているだけで、自転車に実際は乗れない」と積極的に述べたのに近いことになる。というのも、もし乗れるのならば、「乗り方の知識が在る」などという言い方はまず絶対しないからだ。ここに「知っていること」と「知識」との差がある。「知っている」の場合なら、「経験している」や「理解している」との差は多少流動的だが「知識」ならばそうでないからだ。一方、日本語で「知識」と呼ばれるとき、特に学術的な文脈や外国語の訳語を話題にしているのでもない限り、それは「書かれた文字列を知っている」であり「書かれた文字列を知っているという以上のことは無い」ですらある。というのも、それ以上の場合なら、「できる」とか「理解している」と言うのに決まっているからだ。その意味では、『自転車の乗り方』という書籍が眼前にある場合は、その書籍の内容を知っている場合には、「自転車の乗り方を知っている」とは言わずに、「自転車の乗り方の知識が在る」と述べる方が、通常であろう。「乗り方を知っている」だと「乗り方を理解している」ことや「乗り方を経験している」こととの区別がつきにくくなるからだ。
「知っている」と「知識が在る」との日本語語用上の違いは、だからこうだ。「私は自転車の乗り方を知っている」と発話するとき、それは「自転車に乗ることができる」と同義であると見なす戸田山の見解に対して、筆者はやや異を唱えておきたいのだ。「私は自転車の乗り方を知っている」というとき、それは「自転車に乗ることができる」以上の事柄をむしろ含みうる。それは「自転車の乗り方という、未だ文字列になっていないものを、自分の言葉で他人に説明可能である」という含みである。それに対して「自転車の乗り方の知識が在る」の場合は、反対に「自転車の乗り方というすでに文字列になっているものを知っている。そしてそれ以上ではない」(つまり自転車に乗ることはできない)という内容を含みうる。「知識」という語は、「学習の対象」であることを意味している。だから「知識が在る」という言い方は「学習の対象としてすでにあらかじめ存在しているものを、学習済みである」ことを意味する。なので「自転車に乗ることができる」と言わずにあえて「自転車の乗り方の知識が在る」と発話した場合、それは学習がまだ途上であること、単に「学習対象の文字列を記憶済である」こと以上を意味できない。「乗り方の知識を記憶済であり、かつ、それを理解している」場合なら「それなら、理解しているとだけ言えよ」となるだろうし、「乗り方の知識が在り、そして乗ることもできる」場合なら「それなら、乗ることができるとだけ言えよ」となる。そういうことだ。
上記のように定式化し直してみると、先ほどの主張「同様に「知識」にしても「コトバでなら言える」知識も在れば「体で身に着いている」ほどの知識も在る。」というくだりは、修正の必要が在る。すなわち幅が在るのは「知っていること」のほうであって「知識」のほうではない、という修正である。「知識」に幅が在るとしてもそれは既に学習した文字列の記憶の程度という幅でしかない(再認は可能という記憶段階と再生も可能という記憶段階など)。「体で身に着けているもの」「体得したもの」を「知識」とは通常呼ばないのである。
大まかに言って「教わったこと以上のことを知っている」という場合、それは「すでに教わった知識」と「それ以上の理解」というふうに使い分けられることになる。同様にして、「文字列になっていない多くの事柄」は「知っている対象」とは扱われても、それを「知識」とは呼ばれないことになる。たとえば、「自分がどれだけの単語を知っているかを知っている」「自分がこの単語を記憶したのは何月何日かを知っている」という「自己知」「エピソード記憶」や、「相手がどれだけの知識が在るかを知っている」という「知(というか他者理解)」や、あるいは「オーボエの音色を知っている」「ベビースターラーメンの味を知っている」という「知覚・感覚的知」は、そういうわけで「知識」とは通常呼ばれない。したがって「知識・記憶/理解・思考」という二分法で学習対象を分別していったとき、それらは「知っている」という動詞とは連接できても、「知識」の対象には入らない。それらは「理解」などの対象に入るのだ。
或いは、日常的に相手の無知を非難する際には「知識が無い」とは言わず「常識が無い」などという言い方をして、「知識」と「常識」とを使い分けるという方策も見られるだろう。「知っていて当然の事柄」を「常識」と呼び、「単に知っているだけの役に立たない事柄」を「知識」と呼んで区別するというわけだ。
欧米語では「知識」というのは、「頭の中に在るもの」を指すわけだが、日本語語彙の通常の用語法では、むしろ「頭の外に在るもの」「すでに文字列化されたもの」「これから学習する対象」を指す。そして、それ以外の「頭の中に在るもの(と思われているもの)」(「理解」や「常識」など)とは区別しようとする。
学力試験にはさまざまなものがあり、「すでに文字列化したものを単純記憶して再現する」タイプのものばかりではない。だが、ハイパーメリトクラシー下の言論では、学歴取得のための試験が悉くこの「知識」再現型のものばかりであるかのように言い募り、「したがって学歴が在るからといって充分ではない」と述べ、そのことによって大企業や教職の募集で「新卒採用」を大幅に削減することを正当化してきた。そのこと自体も問題であるが、その一方で「知らないことによって理解することも行動することもできない」という学習者の側の弊害のほうからは目を逸らし続けることにも貢献してきた。「知らないから理解できない」「知らないから行動できない」という弊害のほうは無かったことにして、「知っているだけで理解はしていない」「知っているだけで行動できない」ことの弊害のほうばかりを、針小棒大に言い募ることが行なわれてきた。そのことによって、新卒の採用を削減することが可能になったと同時に、学習者の方の「知らないことによって起こっている弊害」を訴求しづらくなる、という事態も可能になっていた。そしてその言説状況に大きく貢献してきたのが「知っていること」を「知識」と呼び変えて、その矮小化された「知識」概念を用いた概念操作によって言説を正当化する、という所作であった。