野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」

半側評価語という問題

「感情的」という語が典型だと思うので、この語でまず説明する。この語の用法には二つの際立った特徴がみられる。まず、「感情的」というのは、「感情」+「的」という二つの語の組み合わせとして説明できる語では、ない。たとえば可笑しさのあまり笑いが止まらなくて周囲の者にとってうるさくて迷惑である相手のことを「お前は感情的になり過ぎている」と非難することは、ない。同様に、配偶者や恋人や自分の子供のことが好きすぎて、一日中ひまさえあればのろけ話ばかりして、周囲の者にとって迷惑である相手のことを「お前は感情的になり過ぎている」と非難することもまた、ない。「感情的」というのは「喜怒哀楽の感情表現が不当にも強すぎるあまり、迷惑であること全般」を指す概念では、全くない。端的に言って「感情的である」というときの「感情」とは「怒」や「恨」や「憎」が主であり、ついで「哀」が場合によってはあるかもなあ、くらいのものなのである。「喜」「楽」の感情は「感情的」という語には含まれない。まずこの点が、特徴の一つめになる。

さて、では、「感情的」というのは要するに「怒」ついで「哀」の表現が強すぎて迷惑であること、と規定しても良いかもしれない。しかし、ここで次に「強すぎ」とか「迷惑」というものがわりとどうとでも言いうるものであることに、注意したい。これが特徴の二つめである。「感情的」というのは、たんに「怒」「恨」「憎」や「哀」の表現が強いこと全般ではなくて、むしろ反対に、「不当にも強い」こと、それによって「迷惑である」事柄に、大いに限定されているのである。そしてその「不当にも強い」という言い方は当然のことながら「正当に強い」と対比されている言い方だ。つまり、「正当な怒り」や「正当な悲しみ」ならば、その表現がいかに強くとも「それを“感情的”とは呼ばない」のである(だから、もしある状態を「感情的」と呼ぶ人がいた場合は、それを「不当な感情」の表われとして捉えていると見なして良い、ということに他ならないのである)。そして無論、何が正当であり何が不当であるかは、関係者の関与している規範と大いに関係があり、物理学的客観性によって決まるような事柄では、全くない。

「感情的」という語にみられるようなこの種の語一般の特徴は、特徴の一つめで述べた事柄からの自然な延長として表われてくる。それが「けなし言葉かそれともほめ言葉かが、(あるいは賛成か反対かが、あるいは好きか嫌いかが、)一義的・一方向的である」ことである。たとえば「○○は感情的である」という表現があるなら、それはその○○を非難している(又は○○に反対している・又は○○が嫌いである)に決まっているのである。少なくとも「非難している(反対している・嫌いである)に決まっている」と受け取る受け取り方を前提した表現であるに決まっているのである。だから「○○は感情的である」と述べる者が「そう、○○を称賛しようと思っていたのだ」ということは、異化表現(皮肉・レトリック・ギャグ・広告・芸術表現など)以外ではありえない、のである。そして異化表現もまた、「非難として受け取る受け取り方を前提して」成立するのであるから、ここには例外は、ない。

この評価語が「肯定否定どちらか片方にのみ、専一的・一方向的である」という性質を呈することを重視して、この種の評価語をかりに「半側評価語」とでも呼んでおこう。 この「感情的」と評価の方向性で正反対であり、好対照である半側評価語が「感動的」という語である。こちらも同様にして、「感動的」と言えば、「称賛している(又は賛成している・又は好きである)に決まっている」という受け取り方を前提しているのに決まっているのである、と言える。だからつまり、「○○は感動的である」と述べるときに、その述べることによって「非難」する・「反対」する・「嫌う」ということは、通常できない。

ただしもちろん「感情的」は、対象に対する主体の態度のほうへの評価であり、他方「感動的」は対象・事物自体への評価であるから、指している事柄の異なるこの二つの語はまったき対照語ではない。しかし評価の方向がちょうど逆向きであり、確実に一方向しか指さない(または前提しない)、という点ではちょうど対照的になっている。「感情的である」と言えば「非難・反対・嫌悪という受け取り方を前提した」表現に決まっており、「感動的である」と述べれば「称賛・賛成・好感という受け取り方を前提した」表現に決まっているのである。逆向きは現状ありえない。

この二十年ほどの、国語力と呼ばれがちな能力をめぐる教育業界等の「迷走」を捉えるときにも、この半側評価語という概念は決定的に重要であると思う。というのも、その「迷走」が、教育目標を述べ立てるキーワードが必ずと言ってよいほどこの種の半側評価語を中心的概念として含むことから来ている面があるからだ。特に、適用の基準が恣意的であるという先に述べた二番目の特徴がその「迷走」に関連する。 すなわち「感情的」というのがその根幹に「不当にも強い」という規定を根拠にしているため、その「不当」というのがいかなるときに適用できるのか、どういうときなら「正当」でどういうときなら「不当」なのか、という判断がいかようにも可能である、という点で「恣意的」になりやすいわけであり、それと同形の事態が「迷走」の一側面であったわけだ。

その一つの代表が「考える」であり、今一つの代表が「事実」である。野矢茂樹『増補版 大人のための国語ゼミ』をここで検討するのは、「考える」と「事実」のその二つが両方同時に使用されたときにどのような作用が現われるか、に筆者が関心があるからだ。

野矢茂樹『増補版 大人のための国語ゼミ』(2018,筑摩書房)、この書の2「事実なのか考えなのか」の章を、野矢の他の著作も横目で見ながら検討したいと思う。とは言え、事態は錯綜しており、それを適切に扱える自信が筆者にはあまりない。

なので、まずはなるべく簡単に、見つかった問題点とそれへの代替案をごく簡単に示すにとどめる。この荒っぽい指摘をもとにして、どなたかがより精密な再構築をされると良いと思う。

「事実ではないもの」を一括して「考え」と名づけることは、あまり良くない。

野矢は『国語ゼミ』の2で、「事実ではないもの」として「推測」と「意見」とを挙げて、この両方を一括して「考え」と呼んでいる。だが野矢の過去の著作を少しばかり考慮に入れると、この名づけには、無条件には賛成しがたくなるはずだ、と思える。野矢は『はじめて考えるときのように』(PHPエディターズ・グループ,2001)で次のように述べているからだ。P159。

「自分で考える」っていう言い方も、いかがわしい。

よくそれは「他人に左右されない自分の意見をもつ」というくらいの意味で使われる。だけど、「意見をもっている」ことと「考える」っていうことはぜんぜん違う。

他人に左右されない頑固な自分の意見の持ち主って、実はあまり考えないひとなんじゃないだろうか。対抗してちょっと極端なことを言えば、考えるひとというのは、ひとの意見を聞いて敏感に反応して、すぐに「なーるほど」とか「あっそうか」とか言って、むしろ自分の意見にはこだわらないんじゃないだろうか。

もちろん、「考える」ということと「考え」とでは異なる概念である、と見なすこともできるだろう。だがその異なりがあるとして、それが考慮に入れられているかどうかは、野矢の上記の著作からは未定であり、またその考慮の過程や結果がどうなのかも不明である。なので、「意見をもっている」ことと「考える」ことがぜんぜん違うのなら、「意見」の上位概念に「考え」という名前をむやみに付けてはいけない、と筆者は思う。

なぜ野矢は、「意見」+「推測」という二つを一括する概念に「考え」などという名前をつけてしまったのだろうか。いや、この問いは誤っている。正しい問い方はむしろこうだ。なぜ、意見だって「考え」のうちに含まれるのに、「考える」ことと「意見をもっている」こととがむしろ真逆になるように「考える」を想定してしまったのだろうか。と、こう問うべきだ。

その答の方向性はある程度はっきりしている。「考える」の用法の中心にあるのは、「考える」というのが半側評価語であるようなそういう用法であり、かつその用法にも二通りあるから、である。順を追って説明する。

まず、野矢は「考える」の用法でもあまり半側評価語的でない用法の存在にはもちろん気づいている。『はじめて考えるときのように』のp158では次のように述べられていた。

もちろん、「考える」っていうことばにはいろんな意味があるから、「口に出さないでしゃべる」とか「紙の上に描かないで思い描く」といったことを「考える」と呼ぶこともまちがいじゃない。そういう「考える」の使い方もある。

だけど、ぼくがこの本をとおして考えてきた「考える」ってことはそういう「考える」ではなかった。

ここでの「口に出さないでしゃべる」とか「紙の上に描かないで思い描く」といったことを「考える」と呼ぶ用法、は半側評価語的では、比較的ない。ただこれらは「考える」と呼んでもいいし、「思う」「想う」と呼んでもいいし、「意識する」と呼んでもいい、という用法だ。すなわち、何が何でも「考える」と呼ばないとダメ、という用法ではない。 しかし他方、半側評価語としての「考える」はそうではない。「思う」や「想う」や「感じる」や「意識する」などといった語よりも、はるかに優先的に「考える」「思考する」などの語があてられるのである。

その場合の「考える」というのは、「考えたと呼ぶべきことを産出する」ことであったり、「考えと呼ぶに値することを産出する」ことであったりする。要するに、脳波の反応を調べて科学的に根拠のある脳波の状態全般に対して「考える」と呼ぶのではなく、脳波の状態と無関係にその人物の「成果」が「考えたと呼ぶべき」「考えと呼ぶに値する」場合にだけ「考えた」と呼ぶという、そういう半側評価語なのである。だから「考えた」「考え」ならば褒め言葉に100%決まっている、なぜなら褒めるべきときにしか「考えた」と呼ばないからだ、…という、そういう使い方なのである。

なぜ、意見だって「考え」のうちに含まれるのに、「考える」ことと「意見をもっている」こととがむしろ真逆になるように「考える」を野矢は想定してしまったのだろうか、という問いに対しては、こういう回答を想定できる。「考える」を半側評価語とする用法には二種類あり、「意見をもつ」ことに代表されるような「考える」と、「意見にとらわれない」に代表されるような「考える」とが、ある。これであろう。

前者は「一時的な感情にとらわれること」に対置して用いられる「考える」であり、「持続的な信念をもつ」ことやブレない態度が見られるときに、「あの人には確固たる深い考えがある」「あの人は考えが一貫している」というふうに「褒め」専用の片側評価語として用いられる。ここでは「一時的な感情/持続的な考え」(「感情/考え」)というカテゴリー関係が潜在している。

他方、後者は「習慣や偏見にとらわれること」に対置して用いられる「考える」であり、「普段よりも難しい課題に直面した場合や、通常とは異なる状況判断が求められる場合や、目まぐるしく状況が変わる場合」に、それまでのやり方にとらわれないで最善次善の方策を編み出したときに「よく考えたな」「良い考えだ」というふうに「褒め」専用の片側評価語として用いられる。ここでは「習慣化した行動/習慣にとらわれない新しい考え」(「旧いままでいる/新しく産み出す」)というカテゴリー関係が潜在している。

この前者の用法と後者の用法が、野矢の上記の二著作で充分交通整理されないまま衝突してしまっているのである。前者の用法では、「意見」というのは「一時的な感情」の対義語として使われうるので、「考え」の一部であって構わない。ところが後者の用法では、「意見」というのは「旧いままでいる」ことにつながりやすいため、むしろ「考える」こととは対立的な関係にある。つまり、「考え」を「新しく生産する」ことと対立する。そのようにして、「考える」ことと「意見をもつ」こととは対立しがちな関係であるのに、同時に、「意見」というのは「考え」の一種であるという関係ももつ、というふうに定式化されてしまう。ちゃんと交通整理をしないと、そのように野矢の著作群からは受け取ることができてしまうのである。

ではどうすれば良いのか。これに関しては、後述する他の論点をも検討してから考えても、遅くはないであろう。筆者にも、「考え」の代りに「私見」と呼ぶ、という暫定的な案しかない(これもすごく良い案というわけではない。今度は「考える」と「観察する」との関係を再検討しないといけなくなりそうなネーミングだからである)。

「事実」/「考え」という二分法と、「事実として述べる」/「考えとして述べる」という二分法とは、ねじれている。

上記の論点を一挙に説明することは難しい。野矢はこの『国語ゼミ』で木下是雄譲りの「事実として述べる」/「考えとして述べる」を前面に持ち出してきている。「名古屋は日本の首都である。」というタイプの、明らかに事実として誤った文を「事実として述べている」文の、一種の典型的な事例として扱えるようにするためでもあろう。ともかく、「事実」/「考え」という二分法と「事実として述べる」/「考えとして述べる」という二分法の関係ということからして、事態はあまり明快ではない。そこにねじれが起きたというのが筆者の判断である。

最初に着目すると良いのは次の事柄である。野矢は次のようにこの著作で述べ、似たような主張を何度か繰り返し述べている。p40。

自分の考えにすぎないことを、あたかもすでに正しさの確定した事実であるかのようにして述べるのは、詐欺である。

注目すべきは、これの対照的なタイプの主張は見られない、ということである。すなわち、「事実にすぎないことを、あたかも自分の考えであるかのようにして述べるのは、詐欺である。」という主張は、この書籍の2章には見られないのである。

その原因をなしている事情はおそらく、こうだ。要するに「事実」と「考え」という名前での二分法が提示されているが、実のところこれは「事実」と「事実以外」という二分法にほかならない、というものである。実際、「推測」というのは確定されれば「事実」に昇格するが、「意見」というのは「事実」に昇格などされはしない。なのに、この「推測」と「意見」とが一括して一つのカテゴリーにまとめられているのはなぜか、と言えば要するに「事実」と「事実以外」とを区別したいからに、ほかならない。要するに今筆者が無自覚に使ってしまった「昇格」という語からもわかるように、「事実」のほうが地位が高くて、「非事実」である「推測」と「意見」のほうは地位が低いというわけである。

要するに「事実」と「考え」というのは対称的な関係ではない。「事実」がまずあって、それ以外はまとめて一つにして「考え」と仮に名づけているだけなのである。 ところが、話はここからであり、同じような関係は「事実として述べる」/「考えとして述べる」の間には成立していないのである。むしろ反対の関係なのだ。その点を次に述べる。

先の引用箇所を再度確認する。p40。

自分の考えにすぎないことを、あたかもすでに正しさの確定した事実であるかのようにして述べるのは、詐欺である。

この箇所から導出されるはずの二通りの文を眺めてみよう。一つめ「自分の推測にすぎないことを、あたかもすでに正しさの確定した事実であるかのようにして述べるのは、詐欺である。」。二つめ「自分の意見にすぎないことを、あたかもすでに正しさの確定した事実であるかのようにして述べるのは、詐欺である。」。そうすると、まず二つめのほうの文が、よく考えると少しわからなくなるはずである。「意見にすぎないことを、事実であるかのように述べる」ってどういうふうに述べることだろうか?というふうにだ。たとえば「リコの味覚はおかしい。」というのは、意見にすぎないことを事実であるかのように述べた文だろうか、違うだろう。意見にすぎないことを事実であるかのように述べるというのは、こういうことではないはずだ。これは単に意見にすぎないことを、意見であるとくどいほどわかるようには述べていない文であるというのに過ぎない。ようするに「意見として述べる」という述べ方や「推測として述べる」という述べ方というものは存在するのだが、他方「事実として述べる」という述べ方は、それと対等・対称的な形ででは、存在しないのである。つまり、「事実として述べる」/「自分の考えとして述べる」という二分法は、シンプルな形では通常、成立しないのである。あるのは「自分の考えを述べていることがはっきりとわかるような形で、というのでなく述べる/自分の考えとして述べていることがはっきりわかるような形で述べる」という二分法なのである。

そういう事態であることが見当がついたうえで、先の一つめの文のほうも検討してみよう。「自分の推測にすぎないことを、あたかもすでに正しさの確定した事実であるかのようにして述べるのは、詐欺である。」。こちらはいっけん正しそうに見えるが、それは「事実であるかのようにして述べる」という語の用法として、異なった種類のものを読者が勝手に想定するからに過ぎない。こういうことだ。一般的に言えば「事実として述べる」という述べ方はありうる。たとえば資料や出典を明記し、あるいはそこからの引用を明記したり、複写して資料として掲載したり、証拠写真を図版として添付したりすること、だ。だが、この書で野矢が「事実として述べる」ということで意味しているのは、そういう事柄ではなかった。むしろそういう「証拠」の提示が不要なくらいのものだけが「事実」である、という立場であった。だから、それがわかれば、先の文もおかしいことがわかる。「自分の推測にすぎないことを、あたかもすでに正しさの確定した事実であるかのようにして述べるのは、詐欺である。」。いや、そんなことはできないのだ。できるのは、自分の推測にすぎないことを推測であるかのようではなく述べること、だけである。「Aであるだろう」「Aであると思われる」「Aだろうか?」といった述べ方をしていなくて、単に「Aである」と述べているだけである、という述べ方があるだけである。「Aである」と述べてあるだけなら、それは意見を述べたものか事実を述べたものかは、統語論的にはわからないはずである。そのどちらになるかはAの内容次第であり、ときにはそれによっても決まらない。要するに「推測を述べるような述べ方をしている」/「推測を述べるような述べ方を特にしていない」という二分法があるだけなのであって、それと「推測を述べる述べ方をしている」/「事実を述べるような述べ方をしている」という二分法とを混同してはならないのである。後者は、通常の場合成立しない。あるいは通常それが成立すると想定されるような事柄を、野矢がこの著書で述べているわけでは全くない。そういうことなのだ。

これで筆者が指摘したかった「ねじれ」は指摘できた。「事実」と「考え」という二分法は、実は「事実」と「非事実」という二分法のことであった。他方、「事実として述べる」と「考えとして述べる」という二分法は、実は「考えだとはっきりわかるように述べる」と「考えだとはっきりわかるようにというのではなく、述べる」という二分法であった。

さて、その構造がわかってからあらためて状況を見渡すと、次のことがわかる。「考え」として一括されている「推測」と「意見」とでは、対処が異なってくる。これである。

「推測にすぎないものを、推測だとはっきり明示しないで述べる」ことは「事実を述べている」ように見えるから、「詐欺」だと言ってもよいかもしれない。「推測」というものは、昇格さえすれば「事実」になるからだ。だが同じことは「意見」については言えない。「意見にすぎないものを、意見であるとはっきり明示しないで述べる」ことをしたところで、それは単に断定的な主張である印象を与えるだけである。その断定が「事実を述べている」ように特に見えるわけではない。

たとえば、野矢がp43で挙げている「必要である」という形の文に関して、上記の点を踏まえたほうが見通しがずっと良くなることを、確認したい。

かつてパスタはお湯に塩を入れて茹でるとされていたが、最近は塩は不要であるとも言われる。「パスタを茹でるには塩は必要ない」という発言は事実を述べたものなのか、意見を述べたものなのか、微妙である。

「必要ない」という主張は意見ではないのかと言われるかもしれない。なるほど「死刑制度は必要ない」という主張は意見として述べられるのが適当だろう。しかし、例えば「伊勢神宮は参拝するのに拝観料は必要ない」という主張は事実を述べたものである。文の形だけからでは、事実なのか意見なのか、はっきりしない。どちらのつもりで発言したのか、文脈からも判断できないのであれば、けっきょくは本人に聞いてみるしかないだろう。

「パスタを茹でるには塩は必要ない」が「微妙」になってしまう原因は、この文が「考えを述べた文であることがはっきりとわかるように述べた、というのでない文」だから、というものになるだろう。もちろんそれは「事実を述べた文であることがはっきりわかるように述べた文」というのでも、ない。「伊勢神宮は参拝するのに拝観料は必要ない」も同様に、「考えを述べた文であることがはっきりとわかるように述べた、というのでない文」なのである。そして比較的どうでも良いが、実際に「事実を述べた文」であると断定できるわけでも、実はない。というのも、「伊勢神宮はたまたま拝観料を要求しないが、しかし仮に要求したとしてもなお、拝観料なんて支払う必要なんてない」ということを述べたいために「伊勢神宮は参拝するのに拝観料は必要ない」と述べることも可能だからだ。つまり、それが可能である、ということが「事実として述べる、という述べ方」なんてものが通常の文章形式・文法形式には特に無い、ということの反映なのである。そして、通常の形式で存在するのは「意見として・憶測としてそれとわかるようにはっきりと述べる」述べ方だけである。このことを確認するためには、死刑制度の無い国家の内部においても「死刑制度は必要ない」というふうに意見を主張することが可能であることを確認してもらえれば、良い。

「考え」として一括されている「推測」と「意見」とでは、対処が異なってくる、と先に述べた。このことを少し重く見てみよう。そうすると、重要なのは「事実と考えとを区別する」ことなどではなくて、「推測と意見とを区別する」ことのほうであると、感じられてくる。ためしに「私の推測では」と「私の意見では」と、その二つを文頭に付加してみて、どちらが適切になるか、を自分の感じ方で選んでみるのも良い。たとえば「私の意見では、駅前のラーメン屋は美味しい」という言い方は筆者は違和感が無いが、他方、「私の推測では、駅前のラーメン屋は美味しい」という言い方だと文意そのものが違ってくる。これだと、まだ食べたことが無いラーメン屋の味を推測している文に変わってしまうのだ。だが「私の推測では、駅前のラーメン屋は皆が美味しいと感じている」なら、筆者は違和感が全く無い。このように「推測なのか意見なのか」を明確にしようとしてみることで、元の文意やそれによって伝えたい事柄も明確になってくるわけだ。たとえば「駅前のラーメン屋は美味しい、という意見」「駅前のラーメン屋は美味しいと皆が思っている、という推測」(さらに「駅前のラーメン屋は美味しいと皆が思っているべきである、という意見」)のどちらに重点があるか、ということが明確になってくるわけだ。

「事実なのか、それとも考えなのか」という問題機制によって、この「推測か意見か」という違い方のほうは曖昧にされてしまっていた。その曖昧さに輪をかけうるのが、「考え」という語の多義性であった。「考え」には比較的価値中立的に近い使い方もある一方で、片側評価語、つまり称賛するため専用の使い方もあり、それにも少なくとも二種類あるのであった。そのため、「推測という“考え”の一種」に対しては「旧いものにとらわれない新しいものを産出するという“考える”」が暗黙のうちに適用・前提され、その一方で「意見という“考え”の一種」に対しては「一時的な感情にとらわれない、確固とした一貫した“考え”」が暗黙のうちに適用・前提される。「考え」の多義性によって、「推測か意見か、どちらなのかはっきりさせる」ことの効能が、曖昧にされてしまうわけだ。

概念どうしの関係が帰結しうる問題の構図が、このように定式化された。そのことで、野矢の当該著作の見通しが少しばかりは良くなった。このように筆者は言いたい。

これで、問題とそれへの暫定的な対応の提示はいちおう終ったことになる。あと、二点ほど、関連する話題に言及しておく。

「私の考え」としてはっきりと述べることは、「意見として述べる」ことであると同時に「私はそのように考えた、という事実として述べる」ことであるのか否か、という争点が存在する。

野矢の著作では、どちらかと言えば慎重に「事実として述べる/考えとして述べる」という言い方のほうに寄っていた。だが、教育制度の内部や周辺で「教材」として用いられているもののなかには、もっとはるかに不用心なタイプのものもある。「私の考えでは、駅前のラーメン屋のラーメンは美味しい」という文は、事実を述べたものか意見を述べたものか、答えよ、というタイプのものだ。これは生徒を混乱に陥れるタイプの大変にたちの悪い「出題」である。もちろん「駅前のラーメン屋のラーメンは美味しい、という意見」を述べたものとしても、「駅前のラーメン屋のラーメンは美味しい、と私は考えている、という事実」を述べたものとしても、位置づけ可能なのである。この件についてどう対処すれば良いか。

野矢が「事実として述べる/考えとして述べる」という二分法のほうに寄りがちであり、かつ「事実」というものを「その正しさがすでに確定していることがら」と定式化している(p39)のは、こういう混乱を防止することも目的の一つであろう。「その正しさがすでに確定していることがら」という規定に従えば、「ラーメン旨いと私が考えているという事実」というのは、「その正しさがすでに確定していることがら」ではないから、事実の主張ではない、と言いうるからである。

これに関して筆者は特にこれと言った対策はないが、もともとの文を少し言い換えてみて、どれがもっとも主張したい事柄なのかを明確にしてみる、という対策は行なっても良いかもしれない。特に言いたいことというのはつぎのうちのどれか?

これに対する筆者の「回答」は次のようになる。ただしこの回答に対しても異論が出てくる可能性は充分ありうる。

このように事態が多少複雑になってしまうのも、そのおおもとには「推測として述べる」「意見として述べる」という形式はあっても、「事実として述べる」という形式がシンプルには存在しない、という事情が潜在している。「事実として述べたもの」であるかどうかは、「推測としても意見としても述べられていない」という否定形でしか通常見いだされない、というわけだ。そのように筆者は捉えている。

なお少し余談だが、アメリカの公立学校で「事実と意見とを区別する」教育が盛んにおこなわれている事情の一つには、次のような事柄も関連しているはずである。「複雑で入り組んだ文法構造の文を作る能力がないと、全部、事実として述べる文になってしまう」、これである。要するに、文を構築する能力、特に文法の能力という制約があるため、このような教育が必要とされてしまうのである。高度な能力を身に着けた生徒であれば、意見や推測としてはっきりと述べる能力もまたあるわけだが、言語能力が低い生徒であると、何でもかんでも断定になってしまい、それは英語の場合だと「事実を述べる文」になってしまうのである。事実を述べる文のほうがその構築が易しく、意見や推測を述べる文のほうがその構築が難しい、のである。この事情は日本語であってもあまり変わらない。違うのは、文末まで見聞きしないと、意見や推測として述べたのか、それともそうではないのか、が判明しない、ということだ。だが日本語であっても、意見や推測をそれとはっきりわかるように述べることは、断定することに比べてより高度の文法的能力を要するのは同じだ。その事情も、どこかで念頭に置いておくほうが良い。

「論理的に考える」という言い方はおかしい、のは論理学を典型とした場合だけである。

『はじめて考えるときのように』で野矢は「論理的に考える」という言い方は正しくない、と述べている。野矢の場合、論理的というものが論理学を念頭に置いたものであり、たとえば「今日が月曜日なら、あさっては水曜日である」という推断や「57647953549987218+8388492123875」といった計算を行なうことが、「論理的」である典型になる。だが、「考える」が片側評価語であるのと同じくらいに、「論理的」もまた片側評価語としての用法が、多数派である。だいいち日本の教育関係者のほとんどは論理学などよく知らないのである。なので、日本の初中等教育やその周辺、あるいは論理学との関連の薄い他の学問分野や経営学的思考などの場面では「論理的」というのは、論理学を念頭に置いたものにはめったにならない。その代わりに「Aである。なぜならMだからである。」という形で主張を述べることが「論理的であること」の典型や中心に来る。なので、その場合、「M」を思いつくことが、「論理的思考」の要となる。「Aである。なぜそう言えるのだろう?そうだ!Mだからだ。」というふうに考えることが、したがって「論理的思考」と呼ばれることになるのだ。

この場合「論理的」も「思考」も片側評価語として使われており整合しているので、特に矛盾はない。「論理的である、なぜなら論理的と呼ぶにふさわしいからである。したがってそれは素晴らしい。」「思考である。なぜなら思考と呼ぶにふさわしいからである。したがってそれは素晴らしい。」というふうにして、両者の歩調は合っているのである。そして「論理的」という語を、何が何でも「論理学的」に適用しなくてはならない、という規範も別に無いのである。そんなのは「論理学」に関係するごく一部の例外的な人の都合に過ぎないのである。あるいは少なくともそう言われてしまえば、返す言葉はあまり無い。

おわりに

以上関連する補足説明も行なった。これをもとに、より良い教材やカリキュラムを有識者に再構築してもらえればいいな、と筆者は願っている。