二度目以降のアクセスの場合、リロードを推奨します。参考:ホームページを更新したのに「内容が変わっていない!」を解消するスーパーリロードとは
このページの文章は適宜追加修正する可能性がある。現在のところ、第01話~第12話までを取り上げている。
小学生向けに書かれている書籍の文章の多くは、記述式試験の答案で用いることが許容されていない文体で書かれている。その文体をそのまま学習して記述式試験で使用するならば、おそらく大幅な減点をされて、不合格になりかねない。だから記述式試験を受験する小学生がそうならないためには、「試験の答案で用いることのできる文体」で書かれた文章を一度は読み、「文体のお手本」として習得や理解をする必要があるはずだ。特に「断定しすぎない」言い方や「曖昧な内容を曖昧であるままはっきり述べる」言い方は少し参考になる、と思う。 …と、そのような考えに則って以下の文章は書かれた。したがってこの文章もまた小学生向きに書かれている。
記述式試験で許容されていない文体とは、たとえば「敬体文」「会話に頻出するような文体」「語りかけるような文体」「教え命令するような文体」「必要以外の体言止め」「助詞や述語の省略が多すぎる文体」などが挙げられる。
試験の題材を『烈車戦隊トッキュウジャー』に求める。すなわち、この番組のDVDを視聴したうえで回答・解答するという試験を想定することとする。
この試験というのは、「解けるようになる必要がある」というものでは全くない。解答例を読めば参考にはなると思うので、読んでもらえれば良い。そうすれば内容はともかくとして文体は参考になるはずだ。というのも、この種の文体で書かれた文章があまり生徒の周りに多くないはずだからだ。あくまで文体に慣れるために存在する文章だと理解してほしい。
なお、この番組は2014年2月~2015年2月にテレビ朝日系列放送局で放映されたものである。
解答例を、それにルビを振ったものに順次差し替えていく。ルビをそのまま答案に書くことはもちろんできないが、しかし「勉強」の参考になら役立つかもしれないからだ。
またこの文章と関係が深い他のページにやはり、日本語は述部が最後に位置するので、最後まで文を辿らないと大意がわからない:寺村秀夫の書いた文章での検討がある。
第12話では、トッキュウジャーの五人の間に三つの掟があることが最後になってわかります。その一つは「絶対五人で助け合うこと。」というものでした。さて、今回の第12話では、どのようにして五人で助け合ったように見えましたか。君の考えを述べなさい。
この回では「絶対五人で助け合うこと。」という子供時代の遊びのなかでの「掟」を始めとする、「パス」というカードに関する事柄をメンバーが思い出す。この思い出すことそれ自体が「五人で助け合って」思い出したように解することが可能である。すなわち、記憶を取り戻すことが五人の助け合いによって可能になったという物語だと解することができるのである。
尤も、記憶の回復はこの物語のなかでは、常に複数によって達成されてきた。せっかくなので、その点を今一度確認しておこう。ライトがトカッチの名前を思い出したとき、ライトとトカッチはその点に関して「ライトが思い出したということ」に同時に気づいた。五人の故郷に海が有ったことを思い出したのは、ライトとカグラとが同時に水に飛び込んだことによって、二人で同時に思い出したのであった。トカッチが木から落ちそうになったミオを助けたことも、二人で同時に思い出した。ライトが食べ物を探すのが得意なのも、ライトの行動がきっかけでミオたちが一斉に思い出した。だからなのかどうか、掟の内容や、その掟が記載されたパスの存在を思い出すのも、複数というか五人が同時であった。と、そのように作品では描かれている。
ライト以外の四人は、当初、怪人の催眠術によって近い過去の記憶やイマジネーションを失っていた。その四人のところを、ライトが訪ねては記憶を取り戻させようとした。だが、カグラやヒカリは馬鹿馬鹿しいと言って相手にしようとしない。だが、そのときライトに対して「ライトが昔いつもパスの話題を取り上げていた」ことを伝えた。このことで、ライトの注意が「記憶を失っているはずの彼らが、自分がパスの話題にふれることが多いことだけは覚えていること」の不思議さに向けられた。さらに、トカッチはライトが忘れていた重大な事を記憶していた。つまり、「ライトが昔話題にしていたパス」というのが、現在トッキュウジャーで使っている電子定期券ではなくて、昔、紙に手書きで作ったカードのことを指す、という点であった。ライトはこの手書きのカードのパスの存在を自分が完全に忘れていたことに、気付く。さらに、ミオは、秘密基地の「パス」に関して「みんなで決めたルール」が有ったことを覚えており、そういうものの存在をライトに伝えた。このルールの存在もまたライトは言われるまで完全に忘れていたのだ。ライトは四人と接するなかから得られたこれらをヒントにして、「手書きのパス」と掟を含むその記載内容を思い出し、「見える」ようにすらなった。そのとき、他のメンバーもまた、各自が手書きのパスが「見える」ようになっていて、それは同時だったのである。
この回は、ライトの視点から描かれているためはっきりとは言い切れないが、他のメンバーが記憶を取り戻したのは、ライトとの接触があり、ライトからの働きかけがあったからでもあるだろう。今回のこの記憶の回復は、五人が共同作業的に行なったとでも言えるものになっていたのだ。「絶対五人で助け合うこと」という掟を思い出すことになったのも、はからずも「五人で助け合」ったからにほかならなかった。その力は、ランプシャドーという怪人の催眠術を打ち破るほどのものであったのだ。
第12話からわかる、ゼットには見える「キラキラ」とはどのようなものか、君の考えを述べなさい。
第12話でゼットが「キラキラ」を特徴的に指し示したのは二回あった。一つは、「五人で絶対助け合う」という掟のもと集まって、「ライトのピンチを救助する」ことでまさにそれを達成したときの五人に対してである。もう一つは、グリッタに対してである。この二つのケースには、独特のしかたで共通項を見出すことが可能である。
トッキュウジャーの「五人で絶対助け合う」というそのときの彼らには、概括してしまえば「友情」とか「信頼」とかといったそういう「仲間」どうしの感情が想定されることになろう。それは、ランプシャドーの催眠術を打ち破るほどの力があった。
一方、グリッタの場合、「シュバルツへの思慕」といった恋愛感情的なものがあり、これがその「キラキラ」の主要な要因だと推定したくなる。一つの根拠は、まさにそのキラキラをゼットが見出したちょうどそのときに、シュバルツからかつて譲り受けたハンカチがヒラヒラと落ちる、といった出来事からの連想である。つまり、放映する側が、そのキラキラと「ハンカチ」とを関連付けて視聴者に提示しようという意図が感じられるのであり、それはつまり「キラキラ」が「恋愛感情に由来する」ことの提示にほかならない。もう一つの根拠は、グリッタの母親であるノアには、ゼットからするとキラキラが見られないことである。母親は自分の娘をキラキラに育てたとゼットに述べたが、そんなことがこの母親に可能であろうか、というふうに視聴者には疑問をもたせる。グリッタがキラキラを見せるとすれば、その要因は母親以外の何かであるはずだろう、と思わせるに十分なのだ。
「友情」と「愛情」、この二つとゼットにしか見えない「キラキラ」とはどうやら関係が深そうであり、その「友情」と「愛情」というのは、共通項のある二項なのである。つまり、どちらも同朋への何かの気持ちといったものである。また、そうやってみるとわかることだが、シャドーのほうには「友情」だの「愛情」だのといったものは総じて欠落していそうであることも、見ていて感じられる事柄である。幹部級の者と怪人とのあいだになら業務上での信頼関係が見られることもあり、まだしもだが、幹部級の者どうしにはそういったものが欠落している。
ゼットが見出す「キラキラ」には、この段階ではまだわからない点が多いので断定はできないが、それでも、「友情」「愛情」といった「情」のつくような概念に関係のあるタイプの「キラキラ」というものはかなりその中核に位置するものであるようだ。「仲間が冷たい」ことによってそれでも「キラキラ」が消えないかどうか、が実験で見たいのだとゼットもそう言っていた。やはり関係が有るのだ。そのことが第12話でわかる。
第11話では闇の皇帝ゼットが、「キラキラ」したものや人を地球上に見出し、執心します。この「キラキラ」とは、この回ではどのようなものだと描かれていると思いますか。君の考えを述べなさい。
ゼットが「キラキラ」を見出すものには、大別して二種類の全く別のものがあるように思える。そこがこの回の難解な点であると私は思った。
一つは、銀箔などの装飾品に見られるような、物質的に輝きを放っているものである。もう一つは、ライトやトッキュウジャーのメンバー或いはロボット、そして、遊園地に遊びに来ていた人々などには有り、そしてシャドーのメンバーには見られないという、ゼットにしかわからない「キラキラ」である。前者は、まあ誰が見ても輝いているし、後者はゼットにしかわからないように見受けられる。
このわからなさに輪をかけるのが、ライトの発言に対するゼットの対応である。ライトがゼットに対して「お兄さんも相当明るいよね」と述べたときに、ゼットが「本当か?」とひどく嬉しそうにし、そしてより詳しい説明をライトに求めた点である。このときの「明るい」というのは、ゼットの言う「キラキラ」と同じタイプのものなのかが、視聴者が一度見ただけだとわからないのである。ただそれは明確化がされなかっただけで、「ライトなどのふつうの人間の言う明るい」と「ゼットが考える明るい」とはやはり異なるとみたほうが良い。だからここには食い違いが有る。ただ、物語はその違いが明確になるといった展開はとらなかったのだ。
この二つの異なった「キラキラ」を統一的に説明することができる仮説を提示することも可能である。たとえば、そもそもなぜゼットは地球に現れたときに、最初に行った場所が遊園地だったのか、しかもトッキュウジャーのメンバーが居る時に、という点に注目してである。車掌は遊園地をイマジネーションでいっぱいの場所であると規定していた。イマジネーションの一つに「夢見る」という要素が含まれていて、その遊園地も「夢」を名前に含むものだった。そのような遊園地に、しかもトッキュウジャーのメンバーが来た時に、おそらく本能的に惹かれるようにしてゼットは降り立った。ゼットの言う、そしてゼットにしか見分けられない「キラキラ」というのは、或いはイマジネーションや夢といった事柄と関係の深い事柄なのかもしれない。遊園地のたとえば風船など物理的に輝きを放っていた物体も、遊園地でないような異なった場所だとゼットには「キラキラ」に見えないのかもしれない。と、そのような仮説なら立てることができるし、この回の中で特に矛盾する点も無さそうだ。
その際、次の箇所だけは気になるはずなので、補足しておく。ゼットは人間とシャドーとの違いは「光ってるかどうか」だと言い、それを述べる際目の辺りを指で指していた。しかもこれは「見た目は当てにならない」という前振りとともに言われたので、「目が光ってるかどうか」も見た目でわかるとは限らない、むしろわからない場合が多い、と判断したほうが良さそうだ。その判断はゼットにしかできないのかもしれない。ただ注意すべき点として指摘できるのは、このゼットの言い方は非常にまぎらわしくて、この箇所だけを視聴した人がもし居たなら「人間ではなくシャドーのほうが目が光っている」ように聞こえかねないようなものになっていることだ。しかし、前後関係から判断する限り、その逆で「シャドーはまず目が光っていないが、人間は目が光っていることもある」としか導出することはできないだろう。いずれにせよ、これはゼットの感じ方であって、他の者には知覚できない話なのである。この箇所のせりふが少々わかりにくくなっていて、矛盾にも見えかねないので、そうではない上記の解釈を採るべきだ、と指摘しておこう。
第10話で、ヒロキの「自分を信じる」とトカッチの「イマジネーション」とは、どこが違うと描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
ヒロキは「自分を信じろ」と言われて自分を信じたのに、野球のバッティングがうまくいかなかった。他方、トカッチは、自分のイマジネーションを使って、タイプライター怪人に新しいタイトルを作らせてしまい、それによって生き返って、相手を倒すことまでもができた。この違いはどこに有ったのだろうか。
ヒロキはこの違いがどのようなものかを、ほとんど一部始終見ていたことでいろいろと気づくことができた。「自分は祈っていただけだ」というふうにだ。トカッチはそのイマジネーションを使って、敵のタイプライターを利用してタイトルを作るという作戦を考え付き、イメージトレーニングという方法によって作戦ができるように、それを練習もしていた。そのほとんどをヒロキは見ていた。ヒロキは、トカッチの戦闘シーンを見ていて、そのイメージトレーニング通りに戦闘をしていることを見届けた。
ヒロキが野球の試合に臨んだときに何をやったのかは、ヒロキしか知らないが、おそらくイメージトレーニングのようなものはやっていなかったのだろう。また、そのイメージを実現するための練習の考案といったものも、充分ではなかったのだろう。「自分を信じろ」と監督に言われたときも、結局それは裏付けのない「お祈り」になってしまっていたのだろう。その違いを、トカッチの練習や態度を見て、ヒロキは感じ取ったのに違いない。そして、そのことに気づくために、トカッチが言った「イマジネーションはお祈りとは違う」という言葉もヒントになったに違いない。それ以降、ヒロキは自分のやったことは「お祈り」でしかなかった、と捉えるようになったからだ。この場合の「お祈り」というのは、「やるべきことをやったうえで天に任せる」ようなものでもなく、「そのやるべきことすら充分ではない」ものだったのかもしれない。
トカッチの体現してみせた「イマジネーション」は二種類のものが含まれていたことも少し重要な点かもしれない。これは野球のほうに適用するほうがわかりやすい。一つは、自分のプレーやその成功する瞬間をたとえば憧れの野球選手などに似せるようにして、イメージするというものだ。もう一つは、その似せるためにはどのような練習をすれば良いのかを考える構想力とでもいったものだ。トカッチは、その両方をタイプライター怪人相手に体現してみせたのだ。一つは、そもそもどうやってこの怪人相手に勝つのかの作戦を構想するイマジネーション、もう一つはそのために、具体的なタイピングやそのための戦闘の仕方を思い浮かべたり想像しながら、それに沿って練習する、というものだ。この番組全体が、後者の「思い浮かべたりする」能力のほうを強調しがちなものだが、作戦を構想する能力のほうだってイマジネーションに含まれるのである。
たぶん、ヒロキの「自分を信じる」には、特にその「勝つための作戦を構想する」の部分が大きく欠けていたのだろう。
ただし、次の点には注意する必要がある。ヒロキが「自分を信じる」というアドバイスと、トカッチの「イマジネーション」とを一緒くたにしていた理由にあるのは、おそらくトカッチがすでにして「自分を信じる」態度をあらわにしていたことでもあろう。トカッチは、年下の少年には「自分は何も偉そうなことは言えない」と言いながら、その一方で、自分の作戦や練習にはかなり強い自信を見せていた。要するにトカッチという人物は「自分を信じる」態度もかなり見せていたのだ。そのためもあってか、ヒロキは「自分を信じたってダメだ」という言い方で「イマジネーションなんてダメだ」とも言うように最初なっていた。なので、この回の言わば「教訓」というものが「想像」や「構想」の重要性を訴えるものではあっても、「自分なんて信じたってダメ」というものではなかったことは、多少強調しておいても良いことかもしれない。その部分の否定ではなかったのだ。
この回でのライトの、トッキュウジャーというチームのメンバーとしての特徴はどのようなものだと思いますか。君の考えを述べなさい。
ライトの、トッキュウジャーというチームのメンバーとしての特徴は、「ほんの少し後から単独でチームに加入した」ことにある。そして、後から入ったとはとても思えない活躍ぶりにある。
ライトは、まだトッキュウジャーのメンバーを知らないうちから、彼らの戦闘に勝手に参加し敵のシャドーを攻撃しようと試みた。その後、素顔のトッキュウジャーメンバーと会い、それが実はかつての仲間との再会であることがわかった。その後、トッキュウジャーのメンバーとして車掌らに認可されたあとも、終始、他のメンバーよりも率先して敵の陣地に向かい、戦う能力が有るかどうかもわからないうちから敵と肉弾戦を繰り広げた。また、ライトは変身後の戦闘でも「乗り換え」という技を編み出してしまい、そのやり方を用いた戦闘にメンバーたちをたちどころに巻き込むことに成功した。
後から参入したにもかかわらず、ライトの戦闘の仕方は、他のメンバーを引っぱり方向づけするような影響力をもっていた。そのためたった一回の戦闘だけでリーダーとしての不動の位置を占めてしまったかのような展開となった。
その特徴は簡単にまとめてしまえば「生まれながらのリーダー」とでもいったものになろう。
この回を通じて、ヒカリの他のメンバーへの態度はどのように変化しましたか。説明しなさい。
「なぜこの五人がトッキュウジャーに選ばれたのか」というミオの問いに対して、車掌の片腕的存在のチケット君は「五人が“死んでいるも同然” だからだ」という答を返した。その後、五人の記憶から固有名詞等のほとんどの細部が欠落していることが判明した。そして、その記憶の無さと先の「死んでいるも同然」発言とを同一視したヒカリはその事態をもっと重視するべきだと他のメンバーに訴えた。つまり物語の当初、ヒカリは他のメンバーがのんきすぎると思って彼らに批判的な態度だった。
情勢を変化させたのはシャドーが駅を占領して人々に殺し合いをさせて恐怖のどん底に陥れている状況がわかったことでであった。シャドーとの戦闘や人々の救助を優先するかそれとも自分たちの問題を検討するのかの点で、ヒカリとライトとで態度がはっきり分かれた。自分たちの問題を重視するヒカリに対して、それをいなすようにして「大した問題ではない」と扱い、シャドーとの戦闘を優先しようとするのがライトであった。他のメンバーもそれに賛同しているそぶりであった。
その後物語の終盤に向けて、ヒカリの態度が融和的になっていった。その誘因になったことが二つあった。一つは、主にミオが「ライトは言い出したら聞かないからしようがない」「ヒカリは、猪突猛進するライトの行動を抑えようとする。だからヒカリのように慎重な態度の者が居ることがこのチームには重要だ」というふうにヒカリを説得したことだ。もう一つは、戦闘のなかでヒカリもまた「自分は“死んでいるも同然”ではない、今ここに居る」と実感することができるようになったことだ。その後、ライトが先頭に立って敵と戦うのをサポートする役目をヒカリが自発的に引き受けるまでに至った。その役割分担によってシャドーに勝利したこともあって、ヒカリの批判的な態度もなりをひそめた。
カグラがこの回で遂げた成長とはどのようなものだと君は思いましたか。説明しなさい。
車掌の片腕的存在チケット君によって、「シャドーとの戦闘行動を生活の中心とすること」と「自分たちの故郷を探す旅をすること」とは両立できない選択肢である、と五人のメンバーは告げられた。その両立のできなさの宣告がいちばん直撃したのはカグラであった。カグラは他のメンバーにいくぶんひけめを感じていた。この原因は映像内にはっきりと描写されてはいないが、カグラが変身前の状態だと戦闘能力が高くなくて怖がりでもあり、変身したときの戦闘も自己暗示の力に依って何か強い者になりきる「なりきり」という変化球的な技が中心であるため、自身が元来戦いに向いていないという自己認識があったことだろう。そのひけめに加えて、自分の記憶が欠落していて故郷がまったく思い出せないことの寂しさというものも強かった。そのため、故郷探しを断念してまでトッキュウジャー戦士を続ける自信というものが無かった。ところが、シャドーによって子供たちが囚われて不安や恐怖で泣く姿を見て、カグラの精神に変化が起こる。「子供たちを助けたい」という気持ちが自分のなかで強いことをカグラは自覚し、そのためにトッキュウジャーをやりたいと願うようになっていた。ここでは、今まであまり目を向けていなかった「自分よりもさらに弱い立場」というものに直面したことがきっかけになったと言える。さらにシャドーとの戦闘のなかで「喪失した記憶がよみがえる」体験もしたことによってカグラはさらに前向きな気持ちになれた。つまり、その記憶回復のようなことが起こるのだからトッキュウジャーをやり続けることがそのまま故郷探しの旅になるのだ、という可能性をライトに示唆され、カグラも賛同できたのである。
この回でのカグラをもし「成長」という語で把握するなら、それは次のようなものになるだろう。カグラは物語の初めでは「自分よりも力のある者」しか目に入っていなかった。そのため他のメンバーにひけめを感じ、自分のことを高く評価することができないでいた。ところが、トッキュウジャーでないふつうの子供だと、自分のもっている戦士としての武器を持っておらず、「自分のほうが力のある者」になってしまう。そのことの気づきがあったことがこの回でのカグラの成長と呼べるだろう。
カグラの「第二のピンチ」というのはどういう事柄だと君は思いましたか。説明しなさい。
カグラの「なりきり」はトッキュウジャーになってから開花した能力ではなくて、もともとカグラがもっている心理的な傾向であり、能力であった。その「なりきり」というのは、カグラ自身でコントロールしきれないものであるし、また、客観的に見ての危険の判断もできにくいものであった。そのため「第一のピンチ」があってそれに対処するべく「なりきり」の状態に入っても、それで決して安全とは言えない。コントロールも危険の判断も充分ではなく、自滅してしまう可能性があるのである。たとえば危険なのにもかかわらず、避けるべき対象に真正面からぶつかってしまうことが起こりうる。そのような判断やコントロールのできなさを、ライトは「第二のピンチ」と呼んでいたと思う。
なお、この回の内容を検討したページには「物語の基本設定がわかりにくいトッキュウジャーの第03話」がある。
トカッチがこの回で遂げた成長とはどのようなものだと君は思いましたか。説明しなさい。
この回のトカッチはトラブルの原因を不注意や安請け合いで作り出してしまっており、ことのほか良い点が見当たらない。そして、そのようにトラブルを起こしてしまったという精神状態もあってだろうか、トカッチは「自分がいかに何のとりえも無いか」という悩みをミオに向けて吐露してしまう。もともとトカッチの良くない点の一つが、そういう自意識をもっていることなのである。つまり「自分には良いところが無い」と当人が感じているために、それをカバーしようとして良くない結果をよけいに起こしやすいというタイプであったのだ。無茶な山登りを率先しておこなってしまい、結局足手まといになったのがその例だ。
トカッチの欠点というものは「自分には良いところが無い」という自意識から生まれている面があるので、したがって、この物語でのトカッチの成長というのはその自意識に変化が起きるという形でのものとなった。その変化は、ミオの方も「イマジネーションの不足」という劣等感をもっていて気にしていることを聞いたことによってであった。そのことで、「他のメンバーも自信満々なわけではない」ことを知り、また、ミオのほうの気持ちを励ましたり、危険な目にあったときに救助したりすることで、トカッチは「自分にもできることがある」と認識し直したのである。その励ましの際に見せた懸命さは変身前のトカッチの、この回での数少ない「良いところ」だったと思える。また「自分のほうがイマジネーションはあるから、その面でミオを助けることができるかもしれない」とトカッチは気づくことができただろう。シャドーとの戦闘にその気分が少し表われている。そのような形で「自分には良いところが無い」という自意識に多少でも変化を起こすことができたのが、トカッチのこの物語での成長と言える。
ミオがこの回で遂げた成長とはどのようなものだと君は思いましたか。説明しなさい。
ミオはこの回でほとんど成長しなかったようにいっけん思える。というのも、トカッチと対照的にもともと何をやってもできていたからだ。この回でも、トカッチがパスを紛失して列車に乗れない事態になってもすぐに適切な対処を提案・実行し、その後もあまり頼りにならないトカッチをカバーするべく終始行動できている。また、トカッチが落ち込んだときの励ましも適切なものであった。自分のほうに「イマジネーション不足」という唯一かもしれないひけめがあっても、「コンプレックスある者どうし、がんばろう」などとトカッチに言うことができるのである。これらの行動にみられるのは「成長」ではなく「もともとデキる人」という人物像であろう。こういう人が、はりきりすぎて、常に完璧を目指すあまり精神を傷めつけてしまうというのもありうるストーリーだが、この物語はそういう話ではなかった。
なので、もしミオの成長ということをこの回の出来事に即して述べるならば、それは変身後・戦闘の際でのものになるだろう。というのは、変身して戦闘に入ってからのトカッチはむしろ活躍しており、その活躍するトカッチに言わば引っ張られるようにして、ミオも活躍するからだ。イマジネーションに因るものかどうなのかわからないが、戦闘段階ではトカッチのほうが戦略に工夫がありミオのほうがやや後追いしている観がある。と同時に、物語の中盤までまったくダメダメであったトカッチが、自分の励ましによって、変身後にはすっかり頼れる戦士になっていることを目の当たりにしたことも、ミオに影響を与えうるだろう。この回でのミオの成長というものがあるとすれば、それは「自分の励ましが人の役に立つことがある」ことの気づきだろう。また戦闘面では他のメンバーの戦い方から学ぶという成長を見て取ることも可能であろう。そのように思う。
第05話ではどのような「問題の解決」が描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
第05話では、悪の組織の戦闘員によって町の人々の食料が強奪され、人々は飢えで苦しんでいた。飢えのために人々は無気力になり、さらに他人には食料を分け与えないような排他的な行動に出た人までもがいた。これが描かれていた「問題」である。悪の組織の戦闘員が戦隊に打倒されたことによって、食料が強奪されてしまう問題は解決し、人々は、普通に食料が手に入るような生活に再び戻った。そのような「解決」が描かれている。
第05話ではどのような「成長」が描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
この第05話では主に二種類の「成長」が描かれていた。一つは町の人々が戦隊と出会ったことによって起こった「成長」であり、もう一つは戦隊メンバーの「成長」である。
町の人々が戦隊メンバーに出会ったことによって起こった成長にもさらに細かく言えば、二つの種類のものが指摘可能である。一つは、自分たちが被害を蒙ったことによってさらなる他人にも被害を及ぼすと、大変に疚しい気持ちになるということを悟った、というものである。こういうことだ。物語に登場するキャンプのメンバーは、悪の組織に食料をほとんど奪われており、隠し持っていた最後の食料を与えないために、気絶して行き倒れていた戦隊メンバーのライトを見捨てて遺棄しようとしていた。そしてライトが居たことによって最後の食料が台無しになりそれに腹を立てたキャンプメンバーたちは、ライトを自分たちのテリトリーから追放した。しかしそのことでメンバーたちは平和になるどころか、かえって疚しい気持ちや罪悪感にかられるようになった。このように、たとえ被害者の立場であっても、自分たちがさらなる被害者を生み出すような行動をとると、かえって精神的には苦痛になることがある、あるいは反対に被害者どうしで助け合うと、精神的に少し楽になることがある、そのことを悟ったというキャンプメンバーの成長が描かれていた。
今一つ物語が示唆していた成長が、指摘可能である。それは「必要なものがあらかじめ用意されていない場合は、自分たちで用意すれば良い」という「世界の法則」を登場人物が悟ったこと、というものだ。これは二つの並行的な事態に見てとることが可能な悟りである。
一つは「食料」についてである。この物語は、加害者である悪の組織も被害者である町の人々も「食べ物というのは、食品や食料の形であらかじめ誰かによって準備されたものである」という枠組の中で行動している。その点では加害者と被害者とは同一の行動原理で動いている。ところがそこに共同体の外側から戦隊のライトが登場し、こともなげに食用となるヤマメや筍を発見する。これは加害者にも被害者にも見落とされていた「食材」である。そのことを目の当たりにしたキャンプのメンバーにとっては、「あらかじめ食品や食料として準備されていない食材」というものがありうること、あるいは発見しうること、を知った契機となった。これはキャンプメンバーに起こった成長である。
他方、戦隊メンバーはこれと並行的な、ある成長を遂げている。それは巨大化してカーキャリアレッシャーをも含めて合体した事後の、そのカーキャリアの「使い道」についてである。ライトは「自分たちでスゴくするんだよ」と豪語し、その発言通り、カーキャリアの性能を活用した攻撃方法をその場で編み出してみせた。そもそもカーキャリアレッシャーは合体できることすら当初知られておらず、合体可能であることもそれを用いて攻撃できることも、すべてライトが即興で考案したものである。この一連の行動から「あらかじめ武器として準備されてはいない」装備であっても創意工夫次第で武器として活用することができる、そのことをライトは他の戦隊メンバーに悟らせた。この悟りが物語が示唆する今一つの成長であり、それは食料に関してのキャンプメンバーの悟りと並行的であると言いうるのである。
第06話ではどのような「問題の解決」が描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
第06話では、行方不明になったサポート列車を発見して無事に回収するという任務が戦隊に与えられた。ところが悪の組織の幹部もまたこの列車を欲しがっており、戦隊がサポート列車を発見したところで収奪しようと企図していた。まず前半で、この幹部の人質作戦から身を守りつつ、サポート列車を先んじて発見し回収するという「解決」が描かれた。そして後半では、運転しているサポート列車に対して悪の幹部が列車での攻撃を加えてきた。それに対して防御し撃退するために、戦隊側ではサポート列車の未知の性能を発見する必要があった。続く後半では、その発見に成功し悪の幹部を無事撃退するという「解決」が描かれた。
第06話ではどのような「成長」が描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
集団のリーダーという点に関して、主にライトとトカッチの「成長」が描かれていた。
トカッチは、集団にはリーダーが必要であり、そのリーダーというのは他のメンバーよりも余裕をもち、他のメンバーの不足を補い助けるほどの能力がなくてはならない、と信じていた。そしてリーダーという地位に対しては、過剰に憧れているがゆえに、自分には却って不釣り合いであると思っていた。そのため、「リーダーは別にトカッチでいいんじゃない」というふうに他のメンバーに消極的に信任されたことで、思ってもみない展開に俄然奮起した。しかし、敵との戦いを通じて、自分の抱いていたリーダー観にふさわしい振舞いができていなかったと感じた。つまり、自分にはできることしかできない、他のメンバーが主ならその従になるようなサポートが自分にふさわしい、と適性を再認識することとなった。ところがその点をライトに「サポートが得意なリーダーもいて良い」と言われ、さらにライトによって全員に「○○リーダー」とあだ名をつけられることによって、固定したリーダー像や集団観を見直すきっかけが与えられた。このように、自分の適性を再認識し、なおかつ「それで良い」という是認が与えられて固定的な考えから解放されるようになったことがトカッチの「成長」として描かれていた。
ライトは、そのトカッチが「リーダーらしく振る舞わなければならない」という「固定観念」に囚われることで、却って捨て身の行動に出ることができ、もともともっていた、自分自身の身の丈に合った行動だけをとるという消極的な姿勢を打ち破るきっかけとなった展開を目の当たりにした。それまではライト自身は戦隊という集団にリーダーなど不要だと考えていたが、その考えを少し見直すこととなった。すなわち、リーダーという考え方がもたれることで成員の行動が良い方向に変化することがありうることを実感したのであった。そのため、状況に応じて各メンバーがそれぞれ得意分野を発揮すれば良いという考え方から、少し変化させた考え方をもつようになった。それが、各自の得意な面を生かして全員がリーダーとして振る舞う、という集団観であった。このように「リーダーという考え方」自体がメンバーに与える影響を深く理解したということがライトの「成長」として認識可能なように描かれていた。
第07話ではどのような「問題の解決」が描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
この回では二つの「問題」が描かれていた。一つは、シャドー怪人の特殊能力によってトッキュウジャーのメンバー3人を含む何人もの人々が強度に無気力化させられ、あわや死の危険にさらされたことである。もう一つは、それ以外のトッキュウジャーチームのメンバーたちが、普段の小さな違和感や否定感情の積み重ねで、人間関係がこじれてしまったことである。その「解決」の糸口となったのは、関係のこじれの直接的な原因になった事項を利用してシャドー怪人を倒せたことであった。その成功体験によってわだかまりが解けたとでもいった「解決」を迎えることができたのである。
人間関係のこじれのおおもとは、カグラとヒカリの間で生じた。カグラが特殊能力である「なりきり」によって忍者になりきっていたときに、ヒカリの愛用のけん玉を壊してしまい、しかもあわや怪我までさせかねない展開になった。カグラはその「なりきり」に関して日頃からヒカリに軽蔑されているのではという不安や引け目を感じていたこともあり、この件でヒカリに対する恐怖と罪悪感がないまぜになった感情で満たされ落ち込んだ。他方、実はヒカリのほうも怒りの感情を制御できず表出したことに罪悪感や気まずさを感じて、カグラたちを避けて別の車輌に引きこもっていた。
今ひとつのこじれは、車掌の本音の代弁者ともとれるチケットと、人造人間の車内販売員であるワゴンとの間で起こった。チケットは日頃からワゴンのことを「無思慮で軽薄」と感じており、他方、ワゴンのほうは雇い主である車掌に対して「労働に見合った対価をもらっていない」と日頃から感じていたということが、あたかも顕在化したかのように事態は展開した。すなわち、チケットがワゴンを強めの言葉で罵倒してしまったため、怒ったワゴンは職務を放棄し、車掌に対してストライキを起こしたのである。
問題の「解決」は、偶然のきっかけによってもたらされた。上記の経緯で、頼ることができるメンバーが居なくなりヒカリとカグラとはいやおうなしに向き合うことになり、双方とも謝罪のきっかけを探していたこともあって、ヒカリが怒っていなくてむしろ罪悪感を感じていたことが判明した。その後、おおもとの原因であった「“なりきり”を軽蔑されているのでは」というカグラの不安も解消されることとなった。まず、シャドー怪人を倒すためにヒカリが考案した作戦は、カグラの「なりきり」の特殊能力を活用するものであった。その後、二人で合議し協働することで「なりきり」を含む作戦で怪人の特殊能力を解除することに成功した。さらにその後も、カグラの「なりきり」体験を活用する形で敵を倒すことができた。この成功体験によりカグラは自分の能力に引け目を感じていた状態から段階を経て脱することができた。これが物語のなかで描かれていた主な「問題の解決」である。
今ひとつの「問題」であった、車掌やチケットとワゴンとのこじれもなしくずし的に解消した。ワゴンが不満のありかをはっきり表明したことと、車掌がそれを軽く扱わず一定の必要な対処をしたため、ストライキも終了し、機嫌を直したワゴンは平常勤務に戻ったのである。
第07話では「問題の解決」によってもたらされた、どのような「事態の進展」が描かれていましたか。君の考えを述べなさい。
トッキュウジャーという物語は全体として「失われた記憶を取り戻し故郷に帰還する」ために戦隊メンバーが旅をしている物語である、と言える。つまり全体として見れば「成長の物語」よりは「回復の物語」の解釈枠組が強い。この回でもそのように位置づけることができる「進展」が見られた。それは「ヒカリがなぜけん玉を愛用しているのか」についての記憶に関するものである。
けん玉をカグラに壊されたときにヒカリが表出した怒りの感情は、ヒカリ自身がとまどうほどのものであった。そこにヒカリが気づいていない重要な意味がある可能性にカグラは気づいた。カグラは「けん玉はヒカリにとって大切な誰か」にもらったものであり、またその記憶をヒカリが喪失しているという可能性があるという推測を、ヒカリに告げた。そのことに何かしら思い当たるところがあったヒカリの反応をみて、カグラがまだヒカリに感じていた引け目や不安までも、今度こそあたかも雲散霧消したかのようであった。
その気づきによってヒカリは「何についての記憶を取り戻せばよいか」という「問題の所在」がはっきりして、今後の目標を得ることができた。これがこの回で「問題の解決」によってもたらされた「事態の進展」である。
第08話でシャドーラインの側は何に成功して、何に成功しなかったと言えるでしょうか。君の考えを述べなさい。
第08話ではネロ男爵の指揮のもと活動がおこなわれた。ネロ男爵は、自身の目標を達成することには成功した反面、シャドーの他の幹部の意思は特に考慮に入れなかった。なので、その点については特に成功しなかった。つまりまとめると、ネロ男爵は自分自身の目標を達成することにのみ成功し、組織のチームワークを高めることには成功しなかった、と総括できる。
ネロ男爵の目標は、新たなステーションを作るために、陽動作戦によってトッキュウジャーの注意を別の事柄に引き付けておくことであった。具体的には、怪人の特殊能力によってトッキュウジャーの車輌のブレーキを破壊し暴走させ、かつ、トカッチの身体に爆弾を装着してしまうことで、トッキュウジャーの総力の多くをその対策に振り向けさせることができ、自分の活動のほうに気づかせなかった。そのことにまんまと成功したネロ男爵は新たなステーションを作る見込みができた。
一方、ネロ男爵は、他のメンバーの意思をかなえることは特にしなかった。ノア夫人がトッキュウジャーを邪魔な存在になった、と憂慮していたにもかかわらず、ネロ男爵の作戦でトッキュウジャーを全滅させることはできなかった。また、そのことを彼は特に失敗だとは捉えてもいなかった。つまりノア夫人の意思は考慮に全く入れなかった。だから、ノア夫人の意思をかなえることにはあまり成功しなかった。
他方、シュバルツ将軍は、トッキュウジャーのサポート列車を略奪することに執心していた。もし将軍がこの作戦に関与していれば、ライトが成功したジーゼル列車の帰還をきっと妨害していただろう、また、その結果として、ジーゼル列車の帰還が遅れて、トッキュウジャーは車輌の暴走を食い止めることにも失敗して壊滅的な被害を蒙っただろう、…とそのように推測できる。しかしネロ男爵はシュバルツ将軍の協力を仰ぐことなく、独断で事を進めた。そのため、ジーゼル列車の帰還を防ぐことができず、トッキュウジャーを壊滅させる千載一遇の機会を逃すこととなった。だが、そもそもシュバルツと話し合ったりもしていないため、その不成功は顕在化しなかった。
第08話においては、シャドーラインの側の遂行を包括的に評価する主体はまだ登場していない。そのため、チームワークを欠いた各幹部ごとの独断専行の活動を「全体として成功か失敗か、一体どちらなのか」というふうに位置づける活動も特に見られない。ただ、視聴者の側からある程度包括的に眺めた場合、ネロ男爵は自分自身の目標を達成することにのみ成功し、他のメンバーとの協力体制を構築することには特に成功しなかった、…と、そのようになら言いうる。
第08話でトッキュウジャーの側は何に成功して、何に成功しなかったと言えるでしょうか。君の考えを述べなさい。
トッキュウジャーの側は、起こった出来事への対処には成功したが、その原因となった状況への対処に成功したとはあまり言えそうにない。そのように総括することができるだろう。
トッキュウジャーは二つの事に成功した。一つはサポート列車であるジーゼル列車を動くようにし、かつ、レインボーラインに帰還させることに成功したことである。このかなりの部分はライトの努力とイマジネーションの力によって達成された。もう一つは、シャドー怪人によって、列車のブレーキを破壊され暴走したことと、トカッチの身体に爆弾を仕掛けられたことの二つを、チームワークと機転によってどうにか解除し解決することに成功し、ついでに怪人も倒すことができたことである。前者にあたってはまたしてもライトとあと車掌ついでヒカリの尽力が大きい。ジーゼル列車を帰還させ、トッキュウジャーの車輌に連結させ反対方向に引っ張ることで、どうにか暴走を鎮静させることができた。後者のほうは、トッキュウジャーのライト以外のメンバーや、乗務員のワゴンの一体となった協力によって、どうにか成功した。シャドーの側がまるでチームワークを欠いていたのとちょうど好対照のようにして、トッキュウジャーはチームワークの力で危機を乗り越えたように描かれている。
この番組の回は、上記の二つの成功をちょうど始まりから終わりまでで一区切りになるように情報が提示されている。つまり「トッキュウジャーの成功物語」として一区切りになるように出来事が切り取られて、番組化されている。この番組の特にこの回というのは、言うなれば「トッキュウジャーの立場からの物語」なのである。そのためもあって、トッキュウジャーの「不成功」については気付かないままに終わる可能性も大きい。しかしその徴候は各所に見出される。二点挙げる。
トッキュウジャーの「成功しなかったこと」の一つは、今回のこの列車爆破の危機の「意義づけ」である。この回での危機というのは、番組が始まっていちばん最初の「トッキュウジャーを攻撃すること自体が主目的であるシャドーの活動」であったことに由来する。今までの戦闘というのは、シャドーの側からすれば「自分の領地・活動領域」に乗り込んできたトッキュウジャー(という侵略者)を撃退するためのものが多かった。または、トッキュウジャーに先手をうって攻撃する場合でも、攻撃自体が主目的なのではなく、あくまでサポート列車の奪還のほうが主目的であった。だが、今回の場合はそうでなく、陽動作戦のレベルとは言え、はっきりとトッキュウジャーを先手で攻撃することそれ自体が主目的であった。場合によってはトッキュウジャーが壊滅してもいっこうに構わない、くらいの攻撃ではあったのだ。トッキュウジャーは前回までなら言わば「攻撃こそが最大の防御」とでもいう指針に則ってポジティブに構えていれば良かったのだが、この回でははっきりと「自分たちを先手で攻撃してくる敵」に備えた「防御体制」が必要である、というステージに移行したのである。そのような状況判断をすることに、番組のこの回ではトッキュウジャーは成功したようには描かれていない。
トッキュウジャーの「成功しなかったこと」の二つめは、怪人の今回使った「死んだふりによって攻撃する」という能力への対処である。この怪人は攻撃されるとすぐに「爆死したふり」をすることによって自身の身体を気体化し、分身を生成する。気体化と分身化によって生き延びて自在に潜入し、攻撃を準備することができるのだ。確かにトッキュウジャーも不穏な予感がしたため、以前のように盗聴器を仕掛けられたときのことを考えると随分と不徹底だとは言え、車輌内の総点検をある程度したりはした。この活動そのものは評価できる。しかしこれに失敗して、敵の分身を一度見落とした、そしてそれにも関わらず、怪人をようやく捕獲したあと、車外に投擲しふたたび「爆死したふり」をさせてしまっている。これが全く評価できない。いかに、車輌が暴走して危機的であるとは言っても、怪人を爆発させてしまえば一般人に危害を加える可能性だってある。怪人のこのような能力をある程度把握し、一度失敗しているにもかかわらず、再び怪人を「爆発」させてしまったこと、これがトッキュウジャーの怪人への対処の「不成功」である。それがさらなる危機を招かなかったのは単に怪人の気まぐれや偶然によるものでしかなかった。本来なら怪人の身体もろともトッキュウジャーの誰かが車外に避難し、爆発させないようにしながら倒す方法を考えるべきだっただろう。同じような不用心さが怪人が巨大化した後のトッキュウジャーの側の攻撃後の態度にも見られる。巨大化した際の攻撃がうまくいったのはあくまで偶然であり、きちんとした死亡確認が本来ならば必要だったはずなのに、それをしないうちに安心しきっているからだ。
今回のシャドーの側の不成功と、トッキュウジャーの側の不成功とが、ともに象徴的に表われているのが、怪人とトッキュウジャーのメンバーとが市街地で遭遇したときの場面である。両者ともに「相手がなぜここに居るのか?」という問題意識を持っていないか、仮に持っていても必要な用心をしていないのである。この遭遇は今までの多くの回のものとは違う。今までの場合、シャドーに乗っ取られた駅の市街地にトッキュウジャーが後から乗り込んでいくことで両者は遭遇していた。だがこの回は違う。この駅はシャドーによって乗っ取られている気配が無い駅なのである。トッキュウジャーには「なぜシャドーがここに居るのか?」の問題意識や「サポート列車を狙っているのでは?」という用心が決定的に足らない。他方、シャドーの側も最初からトッキュウジャーに遭遇するようなつもりでいるため、やはり、「なぜトッキュウジャーがここに居るのか?」を気にしていなさすぎなのである。つまり、「相手が居たので好都合」くらいにしか事態を認識していないのである。そのためにサポート列車の帰還作戦を感知できず、結果的にはそれがトッキュウジャーを倒す千載一遇のチャンスを掴み損ねることにもつながったのである。
なお「トカッチの身体に爆弾を仕掛けられた。」と書かないで「トカッチに爆弾を仕掛けられた。」と書くと、文意が二通りになってしまう。つまり「怪人がトカッチに爆弾を仕掛けた。」の意味と、「トカッチが爆弾を仕掛けた。」の意味と、両方を読み取ることができてしまう。なので、今回は「トカッチの身体に」という書き方をして誤解を防いだ。
第09話には「物語の最後までついに明らかにならなかった不思議な点」がいくつかあったと考えることが可能です。その不思議な点がどんなものなのかを説明し、また、「可能な解明」を行なうような仮説を提示してみなさい。
第09話には二つの不思議な点があったと私は思った。一つは、なぜトッキュウジャーのメンバーは「千葉という男性とラブラブ障害物というゲームでペアで出場していた若い女性」のことを誰一人として気にも留めず話題にもしなかったのか、という点だ。もう一つは、同じような手口で男性によって危険から救助された女性たちが皆同じようにしてその男性に恋愛感情をもってしまったのもまた、シャドー怪人に操られていたためなのだろうか、それとも違うのだろうか、という点だ。この二つの不思議さは、まとめて考察して仮説を出したほうが良いだろうと私は考えている。
後者の不思議のほうから先に考えよう。私の推察では、女性の方が救助してくれた男性に対して一律に恋愛感情をもってしまったのもまた、これもシャドーの操りの結果である、というふうに思える。そのことを明示する映像は無い。しかしそう考えて良い理由を二つ挙げることができる。一つは、そもそもの話として、危険から救助されたというだけで誰もが救助してくれた相手に恋愛感情をもったりするはずがないということだ。或いは、仮に好意くらいはもったとしても、その女性のほうが皆恋人の居ないシングルばかりである、というのは偶然が過ぎるからである。その恋愛感情の出し方が皆似たような形のものであったことも偶然が過ぎる。なので、これらの恋愛感情の発生からその表し方に至るまで、シャドーによる操りや催眠の結果であったと見なすほうが自然である。もう一つは、トッキュウジャーのメンバーであるミオに対対してだけは、シャドーのたくらみが充分には効かなかったことだ。ミオは、千葉という男性から好意を踏みにじられる結果になっても他の被害者の女性ほどにはネガティブな精神状態にならずにいて、シャドー怪人が焦るほどであった。その要因にはミオのほうに「男性に守られる一方」であることへの違和感が残り続けていたこともあるだろうが、それだけではなく、ミオがシャドーのやり口に対して一定の慣れや免疫をもっていたからでもあると解することが可能である。もしそうでないならば、その場に現れたシャドー怪人に対してすぐさま物理的に攻撃が可能だったことの説明がつかない。これらの事柄を併せ考えると、女性が男性に対して抱いてしまった恋愛感情やその発現の仕方もまた、男性側の行動と同様に、シャドー怪人による操りや催眠の結果であり、そのためトッキュウジャーのメンバーであるミオだけは、その影響が比較的小さくて済んだのである、と解することが充分に可能である。
この点を踏まえて、前者の不思議について考えてみよう。「千葉という男性とラブラブ障害物というゲームでペアで出場していた若い女性」のことを、なぜトッキュウジャーチームのメンバーは誰も気にかけたり言及したりしなかったのか、という不思議さである。この話をしているときに、まず車掌とその片腕的存在のチケットは本車両のメンテナンスのために不在である。きちんとした判断ができる可能性が見込める「おとなの男性」はこの話題に関与しなかったのである。また、恋愛に関心が相当に高くて、その点をいちばん気にかけそうに思えるワゴンは、障害物ゲームの現場に居なかったため、その男性に恋人がすでに居るという可能性について、考慮に入れるほどの判断材料を見聞きしておらず、もっていない。そして、他のトッキュウジャーメンバーの場合、まず前提として、ミオとライトもまた、本当のカップルではないのに賞品目当てのためにカップルだと自称して出場したという認識がある。つまり、出場していたペアが本当にカップルであるとは限らない、という認識がまず先行していた。そのため、千葉という男性にすでに恋人が居るという可能性があまり念頭に置かれないということが、ありうるものになっていた。また、トッキュウジャーのメンバーが皆等しく、この千葉という男性を正確に認識していたかも少々疑わしい。たとえば、ライトが名刺の写真を見て「ゲームの人か」というふうに述べたが、写真はゲームに出場したときの顔と髪型等の点で、すごく似ているというほどではなかった。そのため、まさかカップルとして出場していたあの男性のことをライトが指しているとは、他のメンバーのなかには思わなかった者が居たという可能性もある。ライトがあまり似ていない写真でも識別できたのは、彼だけが本心から賞品が欲しくて本気でレースに臨んでいて、レース場面での千葉をライバルとして見なし対抗意識をもったからであったかもしれない。また、ミオは状況をそこまで詳細に皆に説明したわけでもなく、レースが終わってのシャドーに襲撃された以降の話しかしていない。下手をするとミオ自身が、レースで競争したあの相手と、シャドーに襲撃されたときに守られることとなったあの千葉という男性とが、同一人物であるかどうかを気にしていない可能性がある。なのでミオの断片的な報告を聞いただけの他のメンバーなら同一人物であるかどうかを気にしなくなりやすい。
さてしかし実を言うと、少なくとも一人、その点を考慮している可能性のあるメンバーが居るのだ。カグラだ。というのは、駅前で、いくつものカップルが似たような形で無残に破綻するシーンを目撃し、駅がシャドーに乗っ取られていることにメンバーが気づいたときに、まずその点をミオに関連付けて気づいたのはトカッチであったが、次にカグラが「騙されていたんだ」という言い方をした。この言い方が二通りに受け取れりうることに注目したい。この発言をライトあたりはきっと「ミオがシャドーに騙されていた」と受け取るだろうし、他のメンバーもそうかもしれない。それに対して、少なくともカグラはその受け取りと同時にもう一つ、「ミオが千葉に騙されていた」というふうにも解していると思える。千葉という男性がミオに対してどのように振舞ったために「ひとめぼれ」的な状態にミオがなったのか、その経緯はメンバーは誰一人見聞していなくて、そこは完全に想像の領域になっている。その「想像」の中に「ミオが千葉に騙されていた」というものをカグラは加えていただろうと、思える。もちろん、それも結局はシャドーの操りに因るものだとも気づいてはいるが、現象としてみれば「千葉がミオを騙した」というふうな形をとっているだろう、ともカグラは解したのではないかと思える。そのように考えると、変身後にカグラがミオに「たまには学級委員役をやらせてね」というふうにかなり顕著な形で「ミオが深く傷ついているはずだ」という想定をあらわにした態度ととてもよく整合する。また、もしそういう方向で事態を認識しているのなら、千葉に本来の彼女が居るか居ないかは二次的な問題に過ぎなくなる。というのも、居る場合でも居ない場合でもそれなりの「騙し方」というものはあるからだ。ただし、視聴者の側からわかる範囲での、千葉のミオへの実際の接し方はそこまで不実なものではなく、すでに恋人が居るのならもう少し控え目にしたほうが良いだろう、程度のもので収まっていて、「騙した」とまでは言い切れない。その「もう少し控え目にするほうが良い」ような態度は、すでにシャドーの操りのもとにあったためだろう。しかしともかく、カグラはかなりひどい騙しの可能性も考えたと思えるし、そうだとすると、少なくともカグラは千葉にカップルの相手が居た点も考慮に入れていておかしくはないと見なすことができる。なお、これはシャドーのたくらみをミオの一件と最初に関連付けたトカッチにもあてはまりうる想定である。
このような不思議な点が残るのは、つまるところ「千葉という男性が、若い女性と一緒にカップルとして出場していた」という事態が、すでにシャドーの操りによる一種のカモフラージュや戦略であったのか、それともその場面はまだそうではないのか、が不明であることとも関係している。もしそれも戦略のうちだとすれば、この女性とカップルであったかどうかすらも疑わしいわけであるし、当初は、犠牲者はこの若い女性のほうになる予定だったのかもしれないわけだ。ともかく言えることは、トッキュウジャーはシャドーを倒すことには成功し、そのたくらみも頓挫させることには成功したとまあ言えるが、そのたくらみの全貌を解明したりしたわけではなかった、ということなのだ。そのことへの気にしなさというものと、千葉に彼女が居たのか居なかったのかを気にしていない態度とは、相通じるものがある。それと対照的に、皆ミオの言動に対しては相当に関心が高いとも言え、その結果他の点が見すごされたとも言えるのだろう。