二度目以降のアクセスの場合、リロードを推奨します。参考:ホームページを更新したのに「内容が変わっていない!」を解消するスーパーリロードとは
注意:この文章は小学生が読むのには難しいものである。
テレビ朝日系列で2014年度に放映された『烈車戦隊トッキュウジャー』の視聴体験を土台にした作文課題のようなものを、小学生程度の生徒が行なうという場面を想定する(参照:「小学生向けの、記述式試験答案のお手本になることを目指した文章 ―『烈車戦隊トッキュウジャー』を題材にして―」)。「そんな無茶で無理筋で国語教師の手に負えないことを実際にはやらせてはいけない」と思わないではないが、ともかく想定だけはしてみることにする。その場合には、小学生程度の生徒は「解く」のではなく、「解答例」を読めばそれで充分すぎるだろう。
さて、すると、第03話を中心に提示される「物語の基本設定」がなんだか理解しづらいことに気づく。おそらく、短い放映時間の間に大量の内容や情報を押し込めようとした結果なのだろう。なので、もしこの番組を教材として用いるなら、それへの対処が必要となろう。
ここで必要なのは、番組の視聴を通じて何がなんでも「物語の基本設定」を理解しようとすることでは、ない。「この放映内容からだけでは充分には理解できない」ということを理解できることこそが大切だ。すなわち大切なのは「どこがどうわかりにくいかを理解する」ことのほうだ。
まず「理解できない」ことの影響が大きそうであり、かつ、「理解しづらい」と即時に理解できるだろう箇所は、第03話の次の箇所である。
- 車掌
- 一番最初に何か大きな衝撃を受けたのでしょう。街が闇に呑まれたせいか。あるいは。シャドーラインのせいか。
- ちけっと
- シャドーラインのせいに決まってますぅー。だからこそ早く排除する必要があるんです。
- とかっち
- いや。街のほうも可能性は捨てきれないんじゃ…。
- ちけっと
- いいですよ別に、街だと思うなら街捜しても。但し、トッキュウジャーの使命はシャドーの排除ですからねえ。街捜しは列車降りてやってくださーい。
ここで車掌によって「街が闇に呑まれたせい」と「シャドーラインのせい」という二択が提示され、この二択を誰一人疑わない状態で話が進んでいく。しかし視聴者からすると「なぜこの二つが二択という関係にあるのか」が全くわからない。というのも、「街が闇に呑まれたのは、ほかでもないシャドーラインのせいである」としか思えないからである。要するに同じ事柄を言い換えただけのものを、なぜか二択の形にして提示しているようにしか聞こえないのである。
ところが、少し慎重に考え直すこともできる。というのは、「シャドーライン」という専門用語が何を意味するのかが曖昧であると考えることも可能だからだ。番組の第01話・第02話を見ていない者が、突然この第03話だけを見せられたら、「シャドーライン」というのは「鉄道網」を指すカテゴリーだと判断するだろうと思う。ちょうど「東急」とか「小田急」というカテゴリーが、鉄道や線路・駅などから構成される「鉄道網」全体を指示しうることと同じように、である。しかし、その一方では、「東急」や「小田急」という語でもって、「その鉄道網を運営している組織」つまり「人間の集合体」を指すことも可能である。ならば、「シャドーライン」もまた、その鉄道網を統括している「宇宙人の集合体や組織」も指すことが可能だろう。実際第01話・第02話を視聴した者はむしろそちらこそを「シャドーライン」という用語から想起しやすくなっているはずである。
ここで少なくとも言えることは、「シャドーライン」という語を「鉄道網」と解するよりもさらにもっと即物的に解して「鉄道車輌」を指す語として捉えると、上記の変な二択がまともな二択に見えてくる、ということである。つまり、「最初に受けた大きな衝撃」というのは、「シャドーラインという組織によって街が呑まれたことから発生したもの」か、または「シャドーラインという車輌によって与えられた物理的な衝撃」である、などと解釈可能になるのである。
実際、その少しだけ前段階での発話で「シャドーライン」が即物的な鉄道車輌を指示するカテゴリーとして使用されている箇所がある。
- ちけっと
- ライトは弾かれ過ぎてシャドーラインまで行ってしまったようですけどね
しかし、「シャドーライン」という用語が多義的であることから来る困難を解決しても、まだいくつも理解上の関門がある。
まずちけっとが提示した二択がその場合今度は「シャドーラインによって闇に呑まれた街を捜すこと」かそれとも「シャドーライン(の鉄道網)の排除」か、という形になることが、理解しにくい。というのも、この第03話の結末部分のほうでライトが述べているようなことを、視聴者は瞬時に想定するだろうからである。
- らいと
- かぐら、俺、街に還りたくないってわけじゃないからな。
- かぐら
- えっ?
- らいと
- ただ、憶えてない街捜して、後戻りはしたくない。トッキュウジャーやって、前に進んで進んで、す、進みたい。その先に俺たちの街が有る気がしてる。そういうの、どう?
- かぐら
- うん。そう思う。
ライトが言うのに近い内容を、通常の成人視聴者は初めから思い浮かべているはずである。まず、「街を捜す」といったところで、それはシャドーラインによって「闇に呑まれ」たものなのだから、シャドーラインを追跡して追い詰めることによってしか、見つけることは難しいだろう。また、シャドーラインと戦うことを一切止めて、街捜しに専念するとしても、シャドーラインのほうが放っておかないだろう。どこかでシャドーラインと遭遇すればどうせ攻撃してくるに決まっているのだ。だから「街捜し」と「シャドーと戦うこと」とを両立不可能な二択のように提示されても、なぜそれが二択になるのかがやはり分かりにくいことに、変わりはないのである。
しかも、先ほどの会話でトカッチは別に「街捜しをしよう」などと提案したわけでもないのである。そうではなく、「シャドーラインという組織によって街が呑まれたことから発生したもの」か、あるいは「シャドーラインという車輌によって与えられた物理的な衝撃」か、そのどちらかの要因のうち、前者もありうるのではないかとトカッチは言っただけなのだ。それを「街捜し」かそれとも「シャドーの鉄道網の排除」かという二択に、ちけっとがかなり強引にすり替え、しかもこれが両立不可能であるかのように提示したのである。それは「番組の時間的その他の制約」による措置で(も)あろう。だがそのことによって、視聴者は物語の展開から少しばかり置いてきぼりを食らうこととなった、とは言える。
分かりにくいのはこの箇所だけではない。その少し前段階での会話も多少注意するとやはりわからない事が多いことに気づく。
- みお
- じゃあ。外れてる部分は?
- 車掌
- あなたたちの記憶が無い理由です。街は闇によって世界と切り離された。あなたたちは光によって世界と切り離された。
- ちけっと
- つまりぃー、お前たちがレインボーラインに入ったせいです。
- 戦隊の五人
- えっ。
ここでもまた分かりにくさの一翼をちけっとの発話が担っている。というのは、ちけっとの発話はまるで、戦隊の五人がレインボーライン(の鉄道網または車輌)に入ったことで何か迷惑を蒙ったかのような口調でなされているからだ。つまりまるでちけっとがここで五人を非難しているように聞こえ、そのことで話の流れが逸らされて分かりにくくなっているのである。
そのため、その前段階の車掌の発言に焦点が当たらないで、スルーされてしまう。だが実は車掌の発話こそがよりいっそうわかりにくさの原因になっているのである。
まず「世界と切り離される」という形而上的な熟語表現が何を言わんとしているのかがすごく分かりづらいし、その解説も特になされないのである。この表現の分かりにくさは、たとえば「宇宙の外」という表現が分かりにくいのに近い。「宇宙の外だって宇宙の一部・内部だろう」としか思えないからだ。同様に「世界と切り離されたその対象もまた、世界の内部に存するだろう」としか思えない。「世界」に「外部」は無いはずだからだ。
分かりにくいのはそれだけではない。「闇によって世界と切り離される」というフレーズの分かりにくさはまださほどでもないが「光によって世界と切り離される」というフレーズのほうはそれよりもさらに数段わかりにくい。普通に想像すると「闇」が「世界と切り離す」のはそれが「邪悪」だから、なのだろう。だとすると、「光」が「世界と切り離す」のはそれが「善」だから、なのかもしれない。だが、その「善」の力によって「世界と切り離す」ことで「メンバーが記憶をほとんど喪う」のならば、やはりその「善」は理解できない、と言わざるをえない。ただし「何かの外傷的体験をメンバーは蒙っており、それを忘却させた」とも考えられる。それならそれで、車掌はちけっとになど喋らせていないで、もっと詳細にその世界観や用語法を解説する義務があったように思う。あるいはその点を告げないほうが良いと判断したのなら、もっと徹底してそれを隠すべきだったように思う。また、戦隊の五人もその点をもっと追及するのが自然であるくらいには、理解しにくい表現であったはずだとも言える。
要するにこの箇所は、文言上の分かりにくさもさることながら、メンバーのそこへの対応や反応・無反応も劣らず分かりにくいのである。
この箇所は、物語上の鍵となる伏線を含んだ箇所である。筆者はその伏線の一部しか記憶していない状態でこの文章を書いている。そのため、不当な要求を番組に対してしているという可能性もある。つまり「伏線として見た場合どうか」という考慮は充分にはきっとできていない可能性がある。だが、ともかく第01話から第03話までを通して視聴した視聴者に関して言えば、この場面でのやりとりは分からないことだらけである。しかもそのことがちけっとの口調その他で、言わば、ごまかされてしまう。分かりにくい箇所を要所に含んだやりとりであることそれ自体が、分かりにくいように展開しているのである。なのでこの番組を「教育的な教材」として「児童や生徒」が視聴するという前提で語るなら、やはり、この箇所単独で一度立ち入った検討が必要であると筆者は考えた。「なぜこの箇所がわかりづらいのか」の検討である。この第03話を単独で、あるいは第01話からの流れを通して理解するためには、必要な検討であったように筆者は思う。