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テレビ朝日系放映番組「烈車戦隊トッキュウジャー」第01話での会話の構造を、少し明確にしてみたい。そして、その会話の構造をどのように「記述」「描写」してみるのが良いのかを検討したい。この「会話」はフィクションでのものなので、日常生活にみられる通常の会話での微細な成り立ちを考慮する必要は無い。
ここでの問題意識の一つは「小中高生の語彙力の発達」とでもいったものだ。そのなかにはまず、日常での会話を普通にできる能力というものが在るだろう。次に、その能力を前提にしたうえで、その「日常会話」の構造というものを「説明」できる能力というものが、より以降・高次の段階で構想可能であろう。その能力というのはかなり高度であり、現在の時点では、専門的に訓練された一部分野の大学院生のレベルだと筆者は思う。何しろ高等学校までの教育機関でその初歩を教えていないのだから(そうする必要が在るかどうかもわからないが)、そうなる。ただ、その会話の構造の「説明」に使用されうる語彙というものは、中学生以上なら使うことができて良い。というのも、どのみち高校英語の日本語訳になら使われる語彙が多いはずだからだ。そこでは、「AさんはMと言った。」という文を「Aさんは〇〇した。」というふうに言い換える操作が伴い、そこでの「〇〇した」に該当する語を考え出す能力の一部が語彙力である、というわけだ。ただし、状況にぴったりと当てはまるような都合の良い日本語の端的な語彙がいつでも存在しているわけではない。つまり、語彙力だけの問題というわけではない。
その一方で、「AさんはMと言った。」というときのセリフのMからして、小学生の通常の語彙力では太刀打ちできない場合も在る。このトッキュウジャーもそうだが、他の子供向け番組でも往々にしてそうだ。セリフの箇所だけでも語彙が難しいことが、まま在る。その場合、「AさんはMと言った。」という文を「Aさんは〇〇した。」に言い換える操作ができるか否か、という以前に、まずMの箇所の理解や説明から必要にもなるだろう。
テレビ番組でのフィクションのなかの発話なので、そのなかの一部のものは、「登場人物に向けた発話」というよりもはるかに「視聴者に向けた発話」である。或いは少なくとも、その要素がいくぶんかは含まれているせりふが、一定以上の割合で存在している。本稿では、そのような視聴者向け要素の強い発話はあまり取り上げない。
また、実写の特撮番組であり、レギュラー主要登場人物を担当する俳優が数名居る関係上、次の事情もまた見て取れる。すなわち、会話形式にする必要が乏しい場合であっても発言の出番を作るためや作品世界に沿うキャラクター設定を随所に現出させるために、わざわざ複数人の会話に仕立てている箇所や、複数のメンバーが少しずつ「分担」して発言内容の全貌を構築しているように思えるという箇所も、多々在る。ただ、その場合であっても、通常の日常生活でのリアルの会話と同じような構造をもつものとして解釈可能・説明可能な事例であれば、取り上げる場合もあろう。
さて、本稿で取り上げようと私が思う主な会話・発話というのは、「相手(この場合、他の登場人物)に何らかの対応や応答を求めうる」タイプのものにしよう。そのタイプの発話で開始する発話は、多くの場合隣接ペアと(会話分析で)呼ばれるものを形成しやすい。たとえば次のように、である。
私が自己流で少々説明を書いてみたが、これらよりも会話分析-Wikipediaの「行為の連鎖」の項目を参照するほうが、適切かもしれない。
「上司」であるノア夫人と、「部下」であるバックシャドーとの画面越しでの会話である。この上下関係は、この回だけでは確信できない。その後の複数回を視聴しているうちに見当がついてくるものだ。だが、ここではそれを既知の認識と見なして構わない。
ノア夫人の発話の「まだですの?」は文形式としては疑問文であるし、その側面が無いわけではない。だが、強い期待をもたない単なる質問であるなら「完成まであとどのくらいかかるのか?」といった聞き方になるだろう。そうではない「完成はまだか?」とか「もう完成したのか?」といった聞き方をする場合、期待よりも遅いという含意を伝えることができる。またノア夫人の声色なども「遅い」という苛立ちを感じさせるものになっている。発話内容はわからないという幼稚園程度の子供であってもその中の何割かは、「このノア夫人という人は怖い」「怒っている」などと感じることはできるだろう。なのでノア夫人はこの発話によって、「催促」という行為や、「苛立ちを相手に伝える」といった発話行為を行なっていると記述・描写することができる。
「苛立ちを伴った催促」という発話行為なので、それに後続する発話は、それへの応接ということになる。「催促」に対する応接と、可能なら「苛立ち」に対する応接も、である。それはつまり「釈明する」とか「正当化する」といった発話行為として見なすことができるだろう。大まかに言ってこのやり取りでは「催促」と「釈明」という隣接ペアが成立していると見なすことができる。
ここで、バックシャドーの答え方に注目したい。「まだですの?」という質問形式の発話に応接するのには「はい」か「いいえ」がまずは候補として在るだろう。この場合、「はい、まだです」という応答は、期待に反するものであり、通常は回避・遅延されるものだ。だから「いいえ、もうできております」といった応答が、優先的に行われやすい。だが部下が上司に応答するときに使う語彙としては「いいえ」という語も、何かふさわしく思えない。「いいえ」という言い方が許容されるほどの対等な人間関係には、この番組の設定の場合、この二者はないようだからだ。その種の場合に使うための語彙として「はっ」という独特の返事の仕方が成立するのだろう、とまずは観察可能である。そして、「いいえ」と答えることが可能なほどに「完成」しているわけではない。「あと少しで完成である」という内容なのである。その点を考慮しても「いいえ」とあまりにはっきり言ってしまうと、言わば「嘘」になる。それらの考慮の結果として「はっ」という独特の返事の仕方になったのだろうと、言って良いのではないか。
「子供の泣き声が良い闇になる」という言い方は、この番組独自の世界法則であり、用語法なので、番組を知らない人や視聴する予定が無い人までが理解できる必要は全く無い。要は、この箇所でバックシャドーは言わば自分の業務報告を行なったうえで、それには「メリット」が在るのだと上司に主張しているわけである。
グリッタとノア夫人との会話を隣接ペアとしてみてみるならば、それは「依頼(または要求)-拒否と説得」といったものとして記述・描写することが適切のように思う。「説得」というのは「依頼」に対する或る種の「拒否」を前提としたうえでの、その拒否の理由の「説得」ということである。会話の基本構造はこれで良いと思う。とは言え、この場面を「依頼-拒否・説得」というペアであると記述してみても、それだけだと何かが大幅に不足している観が強い。これと並行して「甘える-あやす」とか「甘える-慰撫する」とでもいった情緒的な側面での「ペア」構造も見て取りやすいような声色・話し方だからだ。だからもし物語世界を重視するのならば、「甘えるという態度での依頼-慰撫するという説得」とでも言った、やや複層的な会話のペアが形成されている構造として描写することも無理ではない。要は、娘に甘い母親と甘えた態度の娘という状況・関係が伝わることが、より良い描写になるだろう、ということだ。なお、後続する発話の都合に因るのだと思うが、母親の応答に対するグリッタの再応答など(「わかった」などの発話)は、特に無い(通常の会話なら在るのが自然である)。
ネロ男爵の発話は、グリッタのノア夫人への再応答などを待つことなく、言わば「割って入った」形であるとも言える。この「割って入る」というような単純な描写や見方は、日常のリアルな会話を分析する会話分析だと全く不足であるものだろうが、この場合フィクションの会話なので、この程度で良いとしよう。
ネロ男爵とノア夫人とは、地位や力関係で対等(かつ不仲)のようであることが、この回以降複数回の番組を見ていると徐々に判ってくる。なのでその認識はこの回の説明にも援用して構わない。ノア夫人のグリッタへの発話に対する、ネロ男爵の発話は「異議を唱える」「物言いをつける」といったあたりの行為として見なすことができる。また、もう少し仔細に観察してみると、せりふの内容や口調が「相手がすでに知っているはずの内容を敢えて教え諭すように言う」言いかたのようにも思えてくる。ただしあからさまに皮肉や嫌味というほどでない程度に収まってはいる。それをまとめれば、言わば「上から目線」といったニュアンスを伴っている「異議」「物言い」というあたりだろう。「上から目線」に匹敵するもう少しまともな日本語の語彙としては「高圧的」という言い方も在る。
ノア夫人のネロ男爵への発話は、「応酬」という語がいちばんぴったり来ると筆者は感じる。というのは、ネロ男爵の発話に対して後手に回って正当化をしている、という印象が皆無だからである。それを「負けじと言い返した」というふうにも描写できるだろう。ともかく、ネロ男爵の発話とノア夫人の発話とは、隣接ペアとしてみた場合には「異議を唱える-応酬する(言い返す)(やり返す)」とでもいったペアのように見なすのが良いと感じるのだ。内容上もそうだが、ネロ男爵の「上から目線」の態度に対してもまた、同じくらいに「上から目線」で応接しているようにも見受けられる口調・文言でもある。そのように態度面でも「応酬する」にふさわしいやり取りになっている。
ここでノア夫人とネロ男爵の二人はそれぞれ一方的に自身の信念を言い放っただけであり、「議論」「説得」「相手の論破」などは特にしていない。また、作品世界に一定以上の知識や理解が無いと、この二人の何が対立しているのかが本当のところは理解できない。ただし、文言の内容から見る限り、この二人は「皇帝のための活動が良い」という価値観では一致していて、そのための手段や優先順位という点で対立しているらしいことは、おとなであれば大体わかるようにせりふは制作されている。通常はその理解で充分だろう。
発話というものは、それ自体として「誰かが応じても良いもの」というところが在る。たとえば、かなりはっきりと独り言として言われた発話ですら、それに対して「応じるのは良くない」と判断されるケースのほうが少ないだろう。そしてさらに言えば、制度的場面を除く多くの場面での発話は、それ自体として「誰かが応じたほうがより良いもの」でもあるだろう。この番組でも、「誰かが応じても良い発話」や「誰かが応じたほうがより良い発話」というタイプのものは、一定の割合を占めているように思う。そして、その一部は、誰かに直接的に応接されるとは限らないしかたで、その場に影響を与えることも在る。発話というものが原理的にもつ「誰かが応じても良い」という性質はわりと根源的なものであるだろう。(この点は、大澤真幸の論文「言語行為論をどう評価するか」(PDFファイル)の一部箇所の影響を勝手に受けて勝手に解釈したうえで、私は述べている。特に「私は女子大生が大嫌いだ」という発話や、抽象的執行假説に関係する箇所周辺からである。なお、この論文を改稿した文章は『意味と他者性』(勁草書房,1994)に収録されている)
ただし、この番組の場合、「誰かが応じても良いもの」という発話のなかの少なからずは、「視聴者に対して説明することが主目的であるもの」や「出演者・キャラクターの出番を作るためのもの」である。しかし、そういう発話ですらも、場合によっては、日常の通常での、誰にともなく発せられた発話というものが「応じても良い」のと同程度に応じても良いものとして、一定の影響を与えることも在る。日常生活での発話と同様の性質を示すそういう面も、時に応じて検討していくことになる。
戦闘によって気絶したライト(まだ身元不明)を、トッキュウジャーに変身していた他の四人が救護して、列車で寝かせていたところでの会話部分である。覚醒したライトに「だいじょうぶ?」というミオがライトに言った発話は、「気遣った」「心配してみせた」といったあたりの行為と記述できるだろう。ライトはまだ覚醒しきっておらず、また状況が不明でありそちらが気になるためか、ライトからの「応答」は無かった。
「電車の中か…」という宛先不定のライトの発話は、「誰かが応じても良いもの」以上のものではないだろう。ただ文形式というよりは機能的な点で「疑問文に近い文」ではある。それに対して、トカッチが「うん。今逃げた怪人追ってるところ」と、言わば、疑問文に対して応答するようにして応じた。ただし、「うん、電車の中だよ」といった直接的な答え方ではないことが注目される。直接的な応答は「うん」という肯定する箇所のみで、後続の発話はむしろそのうえで「なぜ電車の中に居るのか」を回答したというものになっている。それはまた、ライトが気絶する以前にライトがもっていた認識に対して、接続をするような返答でもある。ライトは怪人の存在は知っているが、その後どうなったかの経緯を知らない。なので「その怪人は今逃げている」という「状況説明」「報告」をも含めた回答になっているわけだ。ここでのライトとトカッチのやり取りは、「質問-返答」ではあるが、その返答の多くは「質問前提への回答・報告」というやり取りとして構築された。
「ってことはもしかして、お前たちがさっきのトッキュウジャーってやつか?」というライトの発話は、まずは普通の質問である。そして、その疑問文には「その質問内容に今気づいた」という主張も含めている。その主張に該当するのが「ってことは」の箇所である。すなわち、先行するトカッチの発話から、目の前の四人が「逃げた怪人を追う」という立場であることがわかり、トッキュウジャーもやはり四人であったことから、このような推論に基づく発話がなされうることがわかる。その点を踏まえて「今気づいた」ことを主張したかっこうになっているわけだ。ここまでで発話理解としては充分だと思う。しかし、発話のその先の展開が、先行場面からはもう少し予測可能な文でもある。というのも、ライトは先行場面でトッキュウジャーの戦闘に勝手に加わって協力をするような行動をとっていたからだ。「トッキュウジャーに加わりたい」というライトの意思表示という展開が予想されるような状況での疑問文だったわけである。
ところが、それへの四人の応接はライトの態度と比較するとだいぶ温度差が在る。カグラとトカッチは無言でのうなずきであり、「発話を聞き届けた」という応接としては最小限度の部類だろう。ヒカリは無言での微笑のみでこれも同様に最小限度以下の応接だろう。なかでも特に、トカッチの発話に応答してのライトの発言なので、それへのトカッチの応接の少なさは際立つことになる。また、ライトに一番最初に話しかけたミオも「まあね」という応答であり、これまた、発話での応答としてはかなり少ない部類である。ともあれ、この「まあね」という応答によって、ライトの発話とミオの発話とで、「質問-応答」というペアが成立はした。
「まあね」という応答からは、もう少しわかることがあろう。「まあ」という日本語語彙にはいくつかの用法が存在すると思うが、そのうちの一つをここで假に「部分的に是認する」という用法だと規定しておこう。この用法の場合、言わんとする含意が「部分的にしか是認できない」(否定的含意)から「部分的になら是認できる」(肯定的含意)までと、かなりの幅をもたせることが可能である。また実際、その程度には幅が在る語・語用だと思う。ミオのこの発話は、カグラ・トカッチ・ヒカリの無言での応接に後続するものとして行なわれた。つまり、この「まあね」はどちらかと言えば「部分的にしか是認できない」(否定的含意)の側に近いと受け取るほうが自然であるように、なされた。もし、「カグラ・トカッチ・ヒカリの無言での応接」が望ましくないとミオが思うのなら、もう少し肯定的な応答を繰り出したり、或いは三人に働きかけることも可能なのに、そうはしなかったからそう判断できる。要するに、ミオのこの「まあね」という発話はライトへの応答であると同時に、他の三人のライトへの無言応接に対する是認をも含みうる。そして、その応答というのは、先行するライトの発話が主張する「今気づいた」という「大発見」への応接であるだろう。「それが“大発見”だと思うのなら、それは部分的にしか是認できない」というように受け取りうる応答なのだ。
ライトの側はこのミオの発話を「部分的になら是認できる」(肯定的含意)という方向で受け取った。その受け取りが「やっぱりかー」というライトの発話によって提示されている。それ以上突き詰めて彼らへの質問を後続させたりはしないのだ。
「で、あんたも?」というライトの発話の宛先が車掌である、というのはいくぶん常識を踏まえた推測である。つまり、あからさまに腹話術人形に見える者に向かって「あんた」と話しかけたりはしないだろう、という推測である。ただし、初対面の年配の男性に向かっていきなり「あんた」と呼びかける発話もやや不自然である。車掌がライトに即答するのではなく、チケットのほうが先にライトに返答したのも、その不自然さが関係しているだろう。いずれにせよ、ライトの発話は単純に「質問」であり、チケットの「ちがいまーす。」という発話は「返答」という隣接ペアである。とは言え、yesかnoで答える質問に対して、noとだけ返答するのは、通常だとかなり不充分な回答であり、それに加えてなんらかの修復的な発話が後続するのが自然である。その通常の修復「私はトッキュウジャーのメンバーではなくて、〇〇です」などという発話が後続するのではなく「馬鹿ですかあんた」という発話が後続するのが、このやり取りの特徴であると言える。
通常の修復は結局車掌によってなされた。が、それに先立ってまずチケットに「まあまあ」と言うことを行なっている。そうすると、こういうことになる。まずチケットが「馬鹿ですかあんた」とライトの質問に対して、言わば「再考を促した」。と同時にそれを「悪態をついた」「憎まれ口を叩いた」とも表現できるような調子で述べた。その調子や態度に対して車掌は「まあまあ」となだめた。…とそのように記述・描写できるだろう。チケットのほうをなだめておいてから、あらためてライトの質問が誤りであることを前提に、その修復として「わたくしは車掌です。」と自己紹介したわけである。この紹介は、本来ならチケットの「ちがいまーす」という発話に後続させてチケットが述べても良かった内容であるが、結局は車掌当人からの自己紹介という形で、修復的に述べられる格好となった。なのでこの一連のやりとりのうち、憎まれ口の箇所を除けば「ライトの質問-チケットの返答-車掌による修復」といった流れになっている。その間に挿入されるようにして「チケットのライトへの再考の促し(+憎まれ口)-車掌のなだめ」というやり取りが行なわれている、と記述・描写できるだろう。
車掌のライトへの発話「どうぞよろしく。こちら、わたしの片腕のチケット君。」といううち、まず「どうぞよろしく。」は、「わたくしは車掌です。」という自己紹介の続きである「挨拶」とみて良いだろう。この「挨拶」に対してはライトは応答を特にしなかった。で、その次の「こちら、わたしの片腕のチケット君。」という自己紹介の延長のような箇所に対しては、ライトはすぐさま「それ、車掌さんが動かしてるんでしょ。」と応じた。つまり、すでに発話しているのを目撃したチケットに対してであっても、「どうぞよろしく」といった「応答」をライトはしたりせずに、代わりに車掌のほうに向かって疑問文を投げかけているわけである。その態度と整合しているのが「それ」という言い方である。チケットを人格的な存在ではなく、「物」として扱っているという認識をも主張しているのである。したがって、話しかける相手はチケットではなく車掌になる、というわけである。そうするとこのやり取りは次のように概括できる。車掌からの「こちら、わたしの片腕のチケット君。」というライトへの発話は「紹介」という行為になっている。それに対して、ライトの「それ、車掌さんが動かしてるんでしょ。」という車掌への発話は、もちろん「質問」でもあるが、ただしそれは「紹介内容の不足の指摘」を或る意味で含んだ質問である。
車掌はライトのそのyes-noのいずれかで答えるタイプの質問に対して、言わばnoだけで返答した。「違います。」という発話である。これもまた、通常の回答の仕方としては不充分であるものだ。
「変なこと言わないでもらえますー(↑)」という後続するチケットの発話は、むしろますますライトの推察が正しく思え、かつ車掌の「違います」という返答が偽であるように思えるようなものになっている。つまり、このチケットの発話も車掌が腹話術などで発話しているようにむしろ思えてしまうわけだ。いずれせよ、ここで車掌ではなくチケットが発話することでかえって、車掌が「違います」しか言わずそれ以上の釈明や説明をしなかったことが際立つ格好になっている。このチケットの発話もまた、先のものと同様に、「チケットのライトへの再考の促し(+憎まれ口)」といったものと見なすことができよう。
「いや動かしてるって」というライトの発話は、そのチケットの「再考の促し」に対するいわば「拒否」や「否定」である。発話のレベルのみならず、実際に車掌の腕に居るチケットの「体」を掴もうとし始めてもいる。それに対してすぐさま車掌は手を引っ込めて、それ以上ライトが「チケットに触れないように」している。そのようにしながら車掌は「錯覚です」とライトに言った。これはライトの「拒否」「否定」の発話に対するさらなる「否定」とでも言ったものになろう。ただし、発話で述べている内容(「錯覚です」)と、実際に身体動作として行なっていること(「ライトが手出しすることからよける」)とで、ちぐはぐになっているのが、場面の特徴として見て取れる。これらの発話の流れをまとめれば「チケットによる再考の促し(憎まれ口)-ライトによる拒否-車掌による否定」となる。
続けて「それが証拠に」と車掌はライトに言いながら、車掌はチケットと「蛙の歌」の輪唱をしてみせた。ただし、この輪唱も、ライトのほうの反対を向きながらのものであり、疑わしさを残すようなものになっている。いずれにせよ、この発話や輪唱は、「錯覚です」というしかたでライトの発話を「否定」したことに対する、「根拠の提示」や「補強」「正当化」といったものとなろう。
「えっ?」とライトは誰にともなく言った。これは、さきほどのライトの「いや動かしてるって」という否定の発話に対して、いわば「再考」を提示してみせたものともとれる。チケットは二度の発話で、ライトに「再考を促す」発話をしていたわけだが、その「再考」に該当するような態度を、車掌とチケットの輪唱によって、提示することとなったかっこうなのである。
これ以降のライトの発話は、話題的には連続しているが、発話の相手が車掌やチケットではなくなるので、ここで一度区切りをつけることができる。
「なあトカッチ、どうなってんの?」というライトの発話は、トカッチに向けての普通の「質問」である。トカッチたち四人のほうが、ライトよりは状況に精通している可能性が高いのだから、この質問はまったく至当である。だが、トカッチもこの件に関して何も特に知らなかった。「さあ、。ぼくにもよく…。」というトカッチの発話は「返答」でもあるし、「自分もまた、ライトよりも状況を知っているというわけではない」という、ライトの質問の意図を踏まえた「状況説明」でもある。なのでここでは「ライトの質問-トカッチの返答(+状況説明)」という隣接ペアが成立している。
ところが、このやり取りによって、「ライトがトカッチの名前を知っている」事態が顕在化された。そして「何らかの事柄が顕在化した」という事に気づいたことに関してトカッチ次いで言った当人のライトがほぼ同時に、その「今気づきました」という主張を行なった。つまり二人で向き合って「ん?」と発話した。二人がほぼ同時に同じような「気づきの主張」を対面的に行なったことによって、二人の気づいたポイントが同じ点であることをも相互に示唆しあう格好となった。
「俺、なんで名前知ってんだ?」というライトの発話は、その「今気づいた」という主張の内実の説明である。もう少し説明すると、こうなるだろう。通常、「思い出す」ということは、「あ、今思い出した」といったような認知を伴う。だが、場合によってはそうではない事態が起こることも在る。先に、自分の意識を飛び越えて勝手に「体が思い出して」しまい、あとから、「あ、いつの間にか思い出していたのだ」と気づくという事態も起こりうる。このライトの場合がまさにそれであったのだ。なので、この場面でのライトは「体が勝手に思い出していた」といった状況下での発話であった、という説明を聞き手に対してすることが理にかなっている。「俺、なんで名前知ってんだ?」という発話をわざわざあえてしたのは、その発話が、「体が勝手に思い出していて、あとからそのことに気づいた」という自分の在り方をいわば「正当化」「釈明」できるからである。そのように見たい。
「気づいたんじゃない?」というヒカリの発話は、ライトの発話が言い終わらないうちに、かぶせるようにしてなされた。発話は、トカッチ・ミオ・カグラの三人に差し向けてなされているが、同時にライトに聞こえるようにもなされている。そして「誰が」気づいたということなのか、「何に」気づいたということなのか、は自明のものとして発話されている。もしその「誰」「何」がわかるのなら、なんならライトが応接しても良いように発話されている、とも言いうる。他の三人にはそれはむろん自明なのである。その自明の内容とは「ライトが他の四人と幼馴染である」こと、にライトが気づいたということに、ほかならない。文形式としては疑問文だが、「疑問」を投げかけているわけでは、あまりない。むしろ「誘いかけて」いるのだ。そして、このヒカリの発話は、「ライトがそのことに気づいた、ということにヒカリが今気づいた」という主張、というだけのものではない。それもあるかもしれないが、むしろ、それを発話し、場に居るメンバーで認識を共有することで、事態をもう一歩早く進展させるという発話だと見たい。そう考えると、ヒカリの発話は単に「注意を喚起する」「認識を促す」という行為であるというだけでなく、「注意を喚起する、ということをする」「認識を促す、ということをする」誘いかけの行為だと見なすほうが自然のように思う。そうすることによって得られるはずの結果を得るための発話であるわけだ。ヒカリという人物の態度に因るものだろうが、「その行為に因って得られる結果や効果」までをも見越して行為しているように、どうしても見えやすいのだ。
「お前たち、もしかして!」というライトの発話は、この「お前たち」という呼び方によって、発話ののちの展開を予示するものとなっている。「お前たち」という呼び方は、後続する過去の回想シーンで、子供のときのライトが他の四人を呼ぶときに使っていた呼び方でもあることが提示されてもいるからだ。つまり「もしかして、ミオ、カグラ、…」といったように、目の前の相手の名前を思い出し呼びかけることが、のちの展開として期待できるように発話されている。また、それだけでなくごく一般的な点からも、「お前たち」という言い方がもつ、その「間柄」についての近しさの感覚、「既知の相手である」という感覚も、主張されうる発話だろう。また、「もしかして!」という発話は、「今そのことを思い出した」という主張でもある。つまり、今思い出したから為している衝動的な発話である、というわけだ。ライトのこの発話は「今思い出したという主張」とでもいったふうに記述できるだろう。
「そう、ぼくたちずっ」とトカッチが言い始めた発話は、「ずっと、ライトが思い出すのを待っていたんだ」と後続することが予測可能である。「そう」の箇所で、ライトの「今思い出した」というその想起内容をいわば先取り的に「是認」している。また、「ぼくたち」という言い方で、その四人が「ひとまとまりの集団」であること、それをライトが知っているはずだ、ということをも含意している。だから、この発話がもし最後までなされれば、ライトの想起内容を是認したうえで、自分たちはライトが思い出すのをずっと待っていたのだ、という主張をもなされるはずだっただろう。だがその後半を主張する前に、ライトはその発言を手で口を塞ぐことで遮った。この動作もまた、ライトの子供時代の習癖であり、他の四人にもなじみのあるものであったことが、後続の回想シーンで提示される。ライトはその動作によって、言葉の内容よりも先に、まず実演的に「思い出した」という事態を体現したかっこうになる。
昔の習癖を体現して、記憶を取り戻したことを実演的に示したのちに、今度ははっきりと言葉によって、ひとりひとりの名前をライトは思い出してみせた。そして、ライトの名前の思い出しはカグラが行なった。その際にライトに抱きつくというかなりインパクトのある行動にカグラは出ているが、おそらくこれも昔よくやった行動なのだろう、と推察はできる。
「おー、なんだよお前たち。どうしたんだよ。全然わかんなかったかったけど、でもそのままだな。」というライトの発話では、話題を少しずつ進展・分化させている。「おー」の部分は、カグラの抱きつきに対する自然で反射的な反応であろう。「軽い驚き」の表明とでもいったところだろう。次いで「なんだよお前たち。どうしたんだよ。」という発話は、「なぜ、お前たちが今ここに勢ぞろいしているんだよ」という、「質問」「疑問の提示」の要素を少し含んだ発話になっている。「全然わかんなかったかったけど、でもそのままだな。」の箇所は、「おとな(青年)になった今も全然変わっていない」認識の主張である。まず「全然わかんなかったかったけど」の箇所は、彼らが皆順当に成長を遂げていて、しかるべく年齢相応の外見に変わっていることの主張である。それに対して「でもそのままだな。」は、「にもかかわらず、やはり変わっていない点は同じままである」ことの主張である。カグラの抱きつきが昔よくやった行動なのだろう、という推察はここからのものでもある。また、ライト自身のトカッチの口を塞ぐ動作や、トカッチの眼鏡をいじる動作なども、「昔のまま」であることが回想映像で提示されていて、その内容もライトの発話に含意されうるだろう。
「なんか久しぶりって感じ全然しない。」というミオの発話は、ライトの発話の後半の「でもそのままだな。」への是認・賛同としてなされている。そして、「久しぶりって感じ」の「しなさ」という、「時間感覚」に関する主張として、話題を少し進展させてもいる。ライトが「外見の変化」や「習癖の変わらなさ」にふれたのに対して、ミオは「久しぶりという時間感覚の無さ」へと話題をスライドさせたのである。
「もう一人仲間が居るって聞いてたから、もしかしたらと思ってたけど、やっぱりライトだったんだね。」というトカッチの発話は、先ほどライトによって口を塞がれて言えなかっただろう内容の、言わば言い直しである。と同時に、ここで新しく付加された要素もある。それはライトが単なる幼馴染ではなく、「もう一人の仲間」である、という論点である。この「仲間」というのはここまでの既出の話題からすれば「トッキュウジャーとしての仲間」である、と取るほかないであろう。誰かから聞いたものだからだ。そして「もう一人仲間が居る」ことを誰から聞いたのかと言えば、それはその場に居る車掌である可能性が高いであろう。では車掌がそのことを四人になぜ告げていたのか、と言えば、いずれ五人になったときに、何かをするためであろう。それらの内容は、先行するライトの発話に含まれていた「なぜ、お前たちが今ここに勢ぞろいしているんだよ」に対する、一種の回答にもなりうるものだ。トカッチの発話自体は、「言えなかった内容の言い直し」という面が強いが、その発話は、ライトの示唆した「なぜ、お前たちが今ここに勢ぞろいしているんだよ」という疑念に対する回答を暗示するものともなっている。
「おう」という発話は、さしあたり、トカッチのその「言い直し」に対するものとしてなされている。つまりトカッチの言うその「もう一人居る仲間」というのが「かつての幼馴染としての仲間」という意味合いで受け取ったうえで、それに対して是認している。
「で、なんで俺たちここに居るんだ?」というライトの発話は、先行していた発話で主張していた事柄を、より自分の関係するものとして定式化したうえでの「質問」としてなされている。先行する発話でライトはすでに「なんだよお前たち。どうしたんだよ。」と述べていた。その「どうしたんだよ」といういくぶん多義的である言い方からは「なぜ、お前たちが今ここに勢ぞろいしているんだよ」という含意を受け取ることが可能である。ただその言い方には「自分」はまだ関係づけされていない。それに対して、このライトの発話は言わば「なぜ、俺たちは今ここに勢ぞろいしているんだよ」というふうに自分ごととして定式化したものとなっている。事態を自分ごととして捉えなおしたうえでの「質問」、これがライトがこの発話で行なっていることである。
「私たちも気づいたらここに居たの。」というカグラの発話は、ライトの質問の「質問内容」に対する「返答」としては構築されていない。そうではなく「自分にもその質問の答はわからない」という、そういう応接がなされている発話だ。すなわち、ライトの「質問」に対して、「質問行為への修正・修復」を行なっている発話とでも言いうるだろう。自分たちもライトと事情は大して変わらないという認識を促しているわけだ。このカグラの発話への、直接の応答はライトからは無かった。というか、その前に、カグラの発言を引き継ぐようにして、ヒカリが発話をした。
「それで、トッキュウジャーとして戦うように、って。」というヒカリの発話は、発言をひととおり言い終わったのかどうかが、かなり曖昧な発話ではある。発言の終了が曖昧であるだけでなく、どういう述語が省略されているのかも曖昧ではある。だが、ここでの会話場面では、それらの曖昧さは特に公然化されておらず、一義的で文意のはっきりとした発話として流通している。つまり、「それで、トッキュウジャーとして戦うように、って、車掌さんに言われたんだ」とでも発話したかのように、展開している。つまり「なんで俺たちここに居るんだ?」に対する、或る種の返答にもなるように発話されたかのように会話が進んだわけだ。「俺たちがここに居るのはトッキュウジャーとして戦うためであるらしい」とでも回答しうるかのように、応接したということだ。「それで」という語でカグラの発話に連接させてスタートした発話なので、場合によってはカグラの発話の前のライトの発話に対しても応じうる発話である、というふうに解しうるからだ。
「さっきの、怪人とか?」というライトの発話は、直前のヒカリの発話が「誰と戦うか」を述べていなかったことに対応した、その点への「質問」になっている。「怪人」という呼称は、少し前の発話でトカッチがすでに使用していたものを継承したのだろう。トカッチによると目の前の四人は「逃げた怪人を追っている」ところなのだから、ヒカリの言う「戦う」という語が言わんとするのは、その相手と戦うという設定であると見なすのが、もっとも自然であるし。それを話題にする際にトカッチによって使われた「怪人」という語を継承することも自然である。
「シャド!ーーーーライン」と車掌が五人に向かって突然叫んだ。この突然の叫びもまた、「さっきの、怪人とか?」というライトの質問と無関係ではないと見なすのが通常だろう。この車掌の発話のしかたは、まずとにかく自分のほうに注意を引き付けておいて、そののちにおもむろに解説をする、というスタイルのようであり、この回でももう一度登場するものだ。また、この車掌の発話は、ライトの質問に対してのみ向けられているのではなく、他の四人にもまだ知らせていない内容を知らせる、というふうにして後続する。ライトの質問をいわば「利用」して、五人全員に何かを告知するという前段階として、その予告としてなしている発話であるようだ。「自分のほうに注意をひきつける」「重大発表の予告をする」とでもいった発話と見なせるだろう。それによって「ライトと他の四人」という会話の流れを、この発話によって「車掌と他の五人」という会話の流れに変えるということもなしえている。
「シャド!ーーーーライン」という発話の説明は後続する車掌の発話にてなされた。「彼らは世界の陰に棲む者です。目的は世界を闇で包むこと。」というものである。「彼ら」というのだから、シャドーラインというのが人間に似たものの集合体であることがわかる。「もの」が「者」という表記であることもそこからわかる。「世界を闇で包む」という表現はふつうならこれだけだと文意がわからないはずだが、或いはその解説も放映されていないだけで作品世界のなかではされていた、という可能性も在る。その可能性が在るというふうに視聴者に想定できるように、ここでシャドーラインのほうの世界の映像がしばらく挿入される。いずれにせよ、ここで車掌が行なっている発話は総じて「説明」あるいは「解説」である。
その後、映像が列車内に戻り、引き続き車掌が「そして、彼らに対抗する存在が、我々レインボーラインであり、君たちトッキュウジャーというわけです。」と発話する。この発話は、単なる「解説」といったものから少し踏み出している。この車掌の発話でまず「我々」と聞くと、そのなかに五人も含まれているように思うが、そののちに「君たち」という呼称が使われることから、そうではなかったことが判明する。「我々」というのは車掌とチケットなどから成る、なにかやはり集団であったというわけだ。そして目の前の五人がそうではないことを示すようにして「君たち」と呼ばれたというわけだ。この箇所は、「解説」から一歩踏み出した、五人に対するいわば「宣言」や「宣告」に少し近づいたものになっている。ただし、この「君たち」が五人に対してなされたというのは、発話する車掌の側からの話であって、受け取る側の特にライトにとっては、必ずしも自明ではない。
「当然、俺も入ってるんだよな」とライトが車掌のほうに歩きながら接近して、言った。この発話は、その「ライトにとっては自明ではない」という状況に対してなされたものである。とは言え、この発話は、不確実であることを確認するという「確認」というものではなく、「当人にはほとんど確定」であることを「完全に確定」し「確定を公然化する」するためになされている、と、そういう態度で発話されている。つまり「確信の表明」なのである。先行状況からもわかるように、要するにライトはトッキュウジャーをやりたくてしようがないのだ。なので、どちらかと言えば「立候補の宣言」に近い含意をもつ「確信の表明」であると見なせるだろう。もし「いや、入っていない」という応答でも在ろうものなら、「入れてくれよ」と志願することは目に見えているからだ。
すると、それへの応接は車掌ではなくチケットから得られた。「不本意ながら」という発話である。述語も無いしずいぶんと断片的な形式の文であるが、そこで「発話の順番が交代しても良い」という言い方には聞こえる。つまり「不本意ながら」と言い終わった時点で、ライトのほうが発話し始めても良いような言い方にはなっている。そして実際にライトはそうした。この「不本意ながら」という発話は、ライトの「立候補の宣言と言っても良いような、確信の表明」に対して「是認」を与えたものになっている。そして、ここまでの展開からすると、チケットというのは、その態度からすればライトの参加に対して最も反対しそうな者なのであるから、このチケットの憎まれ口での「是認」によって、ライトの参入は「他に誰も反対者が居なさそう」なものとして認可されたことにもなる。
「よっし!」というライトの発話は、そういった全体状況に対するものとしてなされた。自分が確信していた事柄(トッキュウジャーへの参入)が、言わば「正式に決定されたもの」であることを認識したというわけだ。その「正式決定」に対しての「賛同」の表明であるといえよう。
「でも、なんで私たちが選ばれたんですか」というミオの発話は、まずは「質問」である。ただし、それはライトとは対照的に、自分たちが選ばれたというその「正式決定」に対して全面的に賛同してはいない、というミオの態度を示唆する質問である。つまり、その回答次第によっては、「トッキュウジャーになることを引き受けることはできない」という対応も想定・予想しうるものとなっているという、そういう「質問」なのである。と同時に、もしこのミオの質問が無かったとしても、その場合は車掌のほうから自発的にその点について説明をする展開になっていただろうという、そういう質問でもあった。要するに、誰かがその点に必ず言及するに決まっているというという、そういう論点にほかならない。
実際、その「回答」は最初から車掌にまるで準備されていたかのように展開する。「それは」と発話したのち、少し間をおいて「イマジネイション!」と五人に対して叫ばれるのだ。まずとにかく自分のほうに注意を引き付けておいて、そののちにおもむろに解説をする、という車掌の発話スタイルがここで再度なされたことになる。ただし、今回は「解説」は後続しなかった。
まず五人によって一斉に「はあ?」と発話された。「車掌の回答がまるでわからない」というわからなさの表明の発話である。通常なら、ここで「解説」を行なうのが車掌の流儀であろう。だがそのとき突然車内の照明が消えるという異変が起こり、それへの対応が迫られたため、この話題は中断した。「イマジネイション!」という回答へのさらなる「解説」は、のちの場面に持ち越されることになった。
「えー!!」と五人が叫んだのは、「驚きの表明」といった発話であろう。
「あの…、私たちがトッキュウジャーに選ばれた理由が、それですか?」というミオの発話は、その驚きの表明を、適切に説明したというものになろう。つまり、「内容を明確化したうえでの質問」である。この質問もまた、単なる質問というよりは、「返答次第では応接のしかたがどうなるかわかったものではない」ことを示唆しつつの質問である。
「何でもありません。チケット君の口がすべったんです。」と車掌は、チケットの口を塞ぎ発言をさせないようにしながら、それに答えた。これはもちろん、ミオの質問内容に対する回答ではない。そうではなくて、その質問の前提になっているチケットの発話内容自体への否定である。「口がすべった」という言い方からは、大別して二通りの解釈が可能である。一つは「事実だけど言ってはいけない内容をつい言ってしまった」というものであり、もう一つは「良くない、不適切な言い方をして誤解を与えてしまった」というものである。車掌の答弁では後者であったかのようにして、言わば言い繕っているわけだ。そういうわけで、ミオの質問に対して、車掌はその質問の前提であるチケットの発話を否定ないし修復したうえで、そのミオの質問自体を、誤認に基づくものとして差し戻したと記述できるだろう。そして、その場からいち早く立ち去ろうとしていたわけだ。
それを引き止めて、質問を続行しようとしたのがライトである。ライトが車掌の腕或いはチケットに掴みかかりながら、次のように発話した。「いや。もう一回言ってくれ。」この発話は、車掌がミオの質問に応答することなく、差し戻して立ち去ろうとした行為を踏まえたものだ。今度はその質問を車掌ではなく直接チケットに向けて再度の応答を要求したのである。
そこでの「ま、何度言っても同じですよ。お前たちは死んでるも同然!…って言ったんです。」というチケットの発話は、内容とはうらはらに「何度言っても同じ」といった、誤解の余地のない明快な内容などではない。たとえば「死んでるも同然」という言い回しで何を伝えようとしているかは、曖昧なことこの上無い。また、それが「トッキュウジャーに選ばれたことの理由」であるということも理由説明としてはまったく体をなしていない。このように、まず最初に意味不明の言葉を目立つように述べておいて、のちに解説するというスタイルは、車掌のそれと酷似しているようでもある。だが、チケットの場合は別に「解説」は後続しないのだった(第二話にこの場面は引き継がれるが、そこでも「解説」は無かった)。ともあれ、チケットの「ま、何度言っても同じですよ。」という発話は、先行する自分の発話が「誤解の余地の無い明快な内容である」ことの主張ではある。続く「お前たちは死んでるも同然!…って言ったんです。」という発話は、「重大な内容だから最初にまず言っておかねばならない」といった五人への「宣言」に近いものであろう。だからつまり車掌が言うような「口がすべった」などといった失言ではない、というふうに車掌の先行発話の否定も含意しているわけだ。
ライトの「死?」というつぶやきは、チケットの「死んでるも同然」という曖昧な言い回しに対する、一つの可能なリアクションであろう。その発話は、驚きのあまり言葉が出ないとでも言いうる状況のなかで、かろうじて可能な発話としてなされたもののように聞こえる。そのつぶやきで、「今チケットは“死んでるも同然”というふうにして“死”の話題をしたんだよなあ?」という「確認」の意も見て取れる。また、この発話は、「誰かが応じても構わない」程度の、半ばひとりごとのようになされているという特徴も在る。
第01話の主な会話の箇所の記述・描写はこのくらいで良いだろう。