読書しない子供も読書だけする子供も、日本語力は不充分になりやすい:補論 「高島俊男『漢字と日本人』の検討」

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読書しない子供は日本語力が不充分になりやすい

日本語というのは、まず音声によって習得し音声コミュニケーションに充分習熟してから、あらためて文字言語の習得をすれば良い、という言語ではない。そんな習得の仕方をしていては、幼児向けテレビを視聴する能力すらおぼつかない。なぜか。文字での習得と音声での習得とがほぼ同時か、或いは文字での習得が先行したほうが望ましいという語彙群が日本語には多いからだ。多いだけでなく中心的に使われるものですらある。とりわけ明治以降に急造された膨大な漢字熟語の過半はそうだ。これらには二つの特徴が在る。一つは同音異義語をもつ場合が多い。もう一つは、漢字熟語を構成する文字によって、その漢字熟語全体の意味が或る程度推測しやすい、この二点である。これらは高島俊男『漢字と日本人』(2001、文藝春秋社)の示唆によるものである。この二点を検討してみよう。

明治以降の漢字熟語では文字での習得が先行するにこしたことは無い。そう言って良い一つめの理由は、同音異義語をもつ語が多いことだ。同音異義語というのは、「どう発音するか」だけ知るのでは全く不充分であり、「どう表記するか」まで知る必要が在るような語である。たとえば「好意」なのか「行為」なのか、「効果」なのか「高価」なのか、「司会」なのか「視界」なのか、「公園」なのか「後援」なのか、これらの語は発音だけ知っていてもダメであり、表記する漢字まで知っていないと明確に区別することができない。なので、音声だけ知っていてやり取りできるだけでは不充分であり、表記する文字もできるだけ早く習得したほうが良いと言える。

次にこちらがより見落とされやすいのだが、明治以降の漢字熟語を文字習得を先行させたほうが良い二つめの理由は、これらの熟語は、構成する文字の意味から、熟語全体の意味がある程度推測しやすいというものだ。もしこれらを音声によってのみ習得し、表記する文字を知らないままだと、他の漢字熟語の習得にいつまでたってもつながっていかない。文字での習得は假に音声での習得より後になった場合でもぜひ必要である。たとえば「こうげき」という単語がある。構成する漢字は学年配当では上級学年向きだろうが、多くの子供はこの語を人生のかなり初期にテレビ番組で習得する。そして事後にこの「こうげき」という語は「攻撃」と表記されることを学ぶ。さて重要なことは、文字でのこの習得が在るからこそ、後に「進撃」や「追撃」や「迎撃」や「撃破」や「撃退」などといった「撃」の付く単語を習得できるということだ。これらの習得は漢字表記の知識無しには不可能であり漢字の知識が在って初めて可能になる。またそれだけでなく、この「こうげき」の「げき」が、「過激」や「劇場」の「げき」とも異なることも、或る程度知る必要が在るわけだが、それも達成される。だから当初は「こうげき」という音声のやり取りができるだけであっても構わないにせよ、いずれ「攻撃」という文字のやり取りもできなくてはならない。そうでないと、或る漢字熟語を知ることが別の漢字熟語を用いる能力の土台となっていくという事が起こらない。もう一つ例を挙げる。たとえば漢字を知っている人だと「“さんずい”は水に関係する文字」とういうふうに把握しているため、「混濁」という漢字熟語を見た時に、「わからないけど、何か水や液体に関係する語だろう」ぐらいには「判る」。その判り方は漢字の学習には補助的な情報になりうる。その一方「こんだく」という音声の中には「さんずい」や「みず」という音声に関係のある聴覚要素は全く含まれていない。そのため「こんだく」という単語を知らなかった場合、音声だけだと「水や液体に関係する」という情報をひき出すことが出来なくなる。そういうことだ。このようにして、膨大な漢字熟語を音声のみで習得する場合は「単純暗記」する羽目になる。「単純暗記」が不可能ならば、結局語彙力が頭打ちになるほか無い。

多くの子供は、テレビに接することで(も)日本語の語彙学習を行なうことになる。しかしテレビに字幕が無い場合がほとんどなので、その語彙学習は極めて限定されたものになる。だからテレビだけいくら見ていても、日本語の語彙力は頭打ちになる。実は学校の授業やその他の音声の聞き取りでもそうである。学校の授業は当然のように音声で行なわれるが、これに「字幕」などついていない。その代わりに黒板等を使うかどうかは教師次第であるし、それとて万全ではない。あるいは大学の講義などで文字でのレジュメが音声の補助に使われるが、それが有効なのは専門用語や固有名詞の確認が主であり、一般的な漢字熟語には必ずしも充分には対応しきれない。このような状況のおおもとにあるのは、日本語が欧米語とは異なり文字に大きく依存した言語であることだ。そしてまた、そのことを直視していない社会設計になっていることだ。

いきなりでなんだが、私は、世間一般よりは多少漢字力も在り、漢字熟語の語彙力も在るほうだろう。クイズ番組で漢検二級レベルの出題が在ると、たいがい「こんな易しい出題でクイズが成立するのか?」と心配するほどである(もちろん成立するのだが)。その私が聞いてみる限り「私より少しばかり語彙力が劣る人ならば、この講義や音声動画を聞き取ることは困難だろうなあ」と思える物件は、多い。つまり、「漢字力」や「語彙力」が無いため、聴覚体験が穴だらけになっている人は、子供に限らず多いはずである、と言えるのだ。にも拘わらず、一部だけ聞き取れないという体験は記憶されないため、或いは聞き間違えたままで支障が顕在化しないため、そういう訴えはほとんど無い。

読書だけする子供も日本語力が不充分になりやすいという環境が在る

では、漢字熟語を文字から先に習得し、その後音声での学校の授業や日常の会話やテレビ視聴などを体験すれば、文字言語としても音声言語としても完全に習得されるかと思いきや、そうではない。確かに前述のように、漢字熟語を文字で先に習得することには、同音異義語を区別したり、同じ文字を使った漢字熟語を習得しやすい長所が在る。また長所はそれだけでなく、たとえば部首の知識や形声文字の把握により、漢字および漢字熟語の習得が或る段階から飛躍的に進むといったものが在る。しかし、にもかかわらず、これらの長所はほとんど文字を読み書きする場面でしか役立たない。漢字熟語の文字表記を知っていることは、音声のやり取りに大いに必要なのだが、同時にまったく不充分なのだ。何が不充分なのか。

まずは先にも述べた同音異義語の聞き分け問題が生ずるというものだ。同音異義語であり、かつアクセントや抑揚も同じ語である場合、その聞き分けが「文字での表記を知っている者」にとってこそ課題となる。たとえば「好意」なのか「行為」なのか、「効果」なのか「高価」なのか、は文字を知っている者にとってこそ聞き分ける必要が出てくる課題である。下手に漢字熟語を沢山知っているほうが不利なくらいであるかも知れない。この点に関して、高島俊男は『漢字と日本人』(2001、文藝春秋社)で、その聞き分けは皆容易に達成しているように主張している。しかしその主張には根拠となる事実が提示されていない。だから、本当に皆が同音異義語の聞き取りに成功しているか、さらには同音異義語を伝えることに話し手のほうが成功しているか、は調査してみないとわかったものではない、と言える。これらについて言えば、単に、話し手と聞き手との意図がすれ違っていて気付かれていないだけの場合も多いという可能性は高い。

聞き分けは同音異義語だけの間で起こる問題ではない。そもそも音声による言語は、どこまでが「ひとつの単語」や「ひとつの文」であるかからして、事後的にしか判らない。つまり、「ひとつの単語」であるかどうかは、その箇所を通り過ぎて「つぎの単語」の全体像が見えて来た頃に、初めて遡行的に理解できるものだ。だから、次のような問題が起こる。

「ひとつの単語のなかに、日本語助詞と同じ音を含む単語」というものが多々在る。これらは助詞と紛れやすいため、聞き取りに多少の困難を伴う、これが前段落で予示した同音異義語以外の聞き取り問題である。日本語助詞と同じ音というのは、「が」「わ(表記は“は”)」「に」「お(表記は“を”)」「と」といったものだ。たとえば「えんがわ」とまで聞こえたとき、これが「縁側」になるのかそれとも「園が私に言ったのは」になるのかは、この時点では不定である。もっと先まで聞いてから初めてわかるのだ。「もんだいがい」とまで聞こえたとき、これが「問題外」になるのかそれとも「問題がいまいち理解できない」となるのかは、やはりこの時点では不定である。他にも「本当」となるのか「本と折り合いが悪い」となるのか、…多少こじつけに聞こえるかも知れないが、この種の想定はいくらでも考案することができる。ともあれポイントは、同音異義語とか言う以前にそもそも音声ではどこまでが一語なのかすら事後的にしか判らないということだ。だからその同定からして「課題」であるのだ。そのことがたとえば「助詞と同じ音を含む語」に現われうるのである。これは決して自然に解決するような問題ではない。

文字を理解できている者が音声の理解で逢着するような困難は、日本語に固有のものと、音声一般のものとが在る。音声一般の問題としては、「文字には活字が在るが、音声ではそれに匹敵する“活声”というものがほぼ無い」という問題が在る。つまり、誰もがアナウンサーや声優のように発音するわけではないのだ。またそのような明晰な発音・発声だと不自然であるような状況も多い。これに加えて、文字では句読点や括弧や段落やその他表記法によって表示できる内容が、音声だとできないことが多いという事情も在る。これも日本語には限られない問題であろう。これらから例えば「話がいまどの辺にいるのか」「話がどこへ向かっているのか」「話がどれを踏まえているのか」等の「談話の構造」といったものが、わかりずらいというケースが考えられる。にもかかわらず、学校の授業は必ずといって良いほど音声(のみ)で行なわれ、そのことに疑問すら持たれていない。また、成人向けテレビ番組では時に付くテロップも幼児向け番組には付かない。日本社会が全体としてはこの問題を直視していないことがこれらに表われている。

なお、国語教育学者の宇佐美寛氏は例外である可能性がある。書店で筆者が立ち読みした宇佐美寛氏の著書には、音声での授業を疑問視する見解が記されていた。なので或いは氏はこのような問題をも述べているのかもしれない。そこは今回特に確認しなかった。また、国語教育学者の宇佐美寛氏は、『作文の教育―「教養教育」批判』(東信堂,2010)にて、音声での講義を批判していた。しかし、音声の代りに「活字で書かれた本」を読ませれば良い、それで充分代わりになる、というのであれば、それは本論の問題にしている次元とは異なる。本論で問題にしているのは、「音声での講義と類比しうるのは手書きでのプリント等であって、活字で組まれた書籍ではない」という次元が主であるからだ。つまり、その場合だと、手書きの文字で書かれた「末」と「未」の識別などが受け手のとっての「課題」となりうる点で少しは類比的だからだ。(ついでにこの箇所で述べるが、宇佐美寛氏が「なぜトピックセンテンスの明記が必要なのか理由が説明されていない」という主旨の批判をしている。しかしそれは「なぜ左側通行なのか」とか「なぜ授業中にほおづえをつくことが失礼にあたるのか」の理由説明が無いのと同じである。「アメリカの文化の中では、トピックセンテンスの無い文章を学校や学術機関で教師に提出することが、無条件で失礼にあたる」からなのだ。多数の学生や生徒の答案やレポートを採点する者の身にもなれ、というわけだ。もちろん米国での話ではある。)ともあれ、いずれにしても、本論のような見解が、教育システムや社会制度やメディアを構成している主要な見解でないことだけは確かである。

もう一つ、日本語に顕著であり、欧米語には無い問題もある。それは日本語の場合、述語が文末に来る、というものだ。実際には世界中にはそのような言語は多いかもしれないが、とにかく欧米語にはほとんど無い特徴なのである。だから言語学によって学問的に考慮されることもあまり期待できない。さて、述語が文末に来るということは、音声だと次の文が発話されて或る程度経たないと、前の文が終了していることもわからない、ということだ。だから文が肯定文か否定文かすら、次の文が始まってしばらく経ってから遡行的に理解するほどである。これは聞き手の側ではどうすることもできない問題である。話し手が、たとえばせめて文頭では接続詞やその他文頭であることの合図を心がけるくらいしか方策は思いつかない。

音声の聞き取りの困難は、現状では聞き手のほうでできる方策はあまり見当たらない。たとえば、文字での文章書きで「トピックセンテンスの明記」が学生のほうに要求されやすいが、本来なら音声での講義や講演などでこそ、これが要求されるべきものであろう。が、実際には「話す側」「教師」にこういった事項が要求されることは、まず無いわけだ。ともあれここまでの記述で「読書だけする子」が音声の聞き取りができるという保証がない、という状況ははっきりしたと言える。「読書だけ」するのではなく「講義などの一方通行の音声」をも「聞き取る」練習というものが独自に必要なのである。リスニングの練習が必要などとは外国語でしか普通考えないだろうが、それは大間違いであり、日本語というのは母語であってもそのリスニングの練習をしないことには、「上達」も、それどころか「文字ならわかる程度の内容の聞き取り」も困難になってしまう、そういう言語なのである。もちろん、ほとんどの場合、練習も何もあったものではなく、否応なしに学校で(練習ではなく「本番」を)させられることになる。ただ、そこでの「聞き取り」には「答え合わせ」がないので、できない者はできないままで放置されることにもなる。その一例として、近年、突然話題になり始めた「聴覚情報処理障害」といった症状につながる事態も想定できる。関連する記事にリンクしておく。

結論

ここまで二つの話をした。読書しない子供が日本語力不充分になりやすいという話と、読書する子供でも日本語力不充分になりやすいという話とである。後者については聞き手の側にできる対策はあまり無い。特に、講義・演説・講演などは話し手のほうの一方的な努力にかかっている。その一方で、前者については、いろいろと対策を考えるだけならできる。それを以下簡単に述べる。

一つは、漢字学習における優先順位の見直しである。尤も、文科省や学校に任せておいてもその成果は期待できない。ともかく、子供が特に必要としている漢字力の中心にあるのは、明治以降に急造された漢字熟語に使われやすい漢字を理解し使える能力である。その中でも、子供向けテレビ番組で頻出の漢字熟語で使われやすい文字が重要である。子供が一番必要としているのは、多くの場合テレビの視聴ができるようになる日本語力であり、漢字力であるはずだからだ。「妖怪」の「怪」と「怪人」の「怪」が同じ文字であることに小学校一年生になっても気づかない子供が多数いるのは、学年配当漢字の発想が現実から遊離しているからである。それはテレビ視聴がいかに国語力増進に役立っていないかの証拠でもあるし、同時に、学年配当漢字の設定がいかに現実を無視しているかの証拠でもある。小学校一年生のほとんどは「妖怪」も「怪人」も単語として知っており、そうであるのに「怪」の字が小学校一年生にもなって教えられていないのは、全く馬鹿げたことなのである。ぜひ学校制度の外で、「子供の生きる現実」を考慮した漢字学習の系統を構想する必要が在るだろう。

今一つは、子供向けテレビ番組に字幕を付けることを推奨し当然視するような世論が形成されることである。それは、子供向けの書籍で漢字にルビが振られているのが当然視されているのと同じ状態を目指すということである。テレビ番組に字幕がつくことが当然視されてくれば、それと同じくらいの度合いで、そもそも字幕が役立つ程度には発音や発声が明快・明晰であることもまた当然視されていく。もし字幕の漢字にルビが必要になどなったら、そんな事態はギャグでしかない。字幕のルビなどが不要な程度には明晰な発音であるべきだろう。その点に関しては、2018年現在テレビ朝日で放映された『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』が良い意味で注目に値する。この番組での発音の明晰さは自覚的なものだと思えるからだ。この番組での発音状況ならば、「字幕」は無論必要だが、その字幕には「ルビ」がなくても成立する。

ただしテレビ番組全般での字幕化という点に関しては、日本社会の趨勢を見る限り見通しはあまり明るいとは言えないだろう。なぜなら、テレビ番組は今後「早期に英語に子供を慣らす」ために使われる度合いが強まっていき、日本語力や漢字力は政府主導で徐々に軽視されていくことがほぼ間違いないからだ。ただ、明治や戦後直後にあったような、「日本語廃止」「漢字廃止」というよりは、端的に「英語の超早期教育」化の動きこそが強まるだろう、という点で日本の過去の歴史とは異なる。英語教育はつまりまず「子供向け番組」が狙い撃ちされる。文字通りの「植民地化」であるが、それを長い時間をかけて行なおうとすることが予測できるのだ。政権あるいはそれと連動している集団は、2018年現在も子供向け番組へ一定の注意を払っており、好ましくないと彼らが考えるコンテンツには路線変更を迫っていることは、一視聴者である私が見ている限り明らかのように思う。テレビ番組は、制作側が作りたいものをそのまま作っているものである、というふうには到底見えない。そうであるなら、その圧力団体のような視聴者らが、幼児番組の「日本語の字幕」の存在に賛成するとは思えない。むしろ、「そんなことより、もっと幼児番組を英語化せよ」と要求するだろう。ただ「今すぐ日本語を滅ぼすべきだ」「今すぐ漢字は滅ぼすべきだ」といった過激な状態に一足飛びに変化するわけではないだろう。またそういった動きが番組から直接看取できるわけでは全くない。あくまで学校教育や政治状況の最近の変容を見ての予測である。だからまだ可能性は残されている。そこに期待するしかない。

補論: 高島俊男『漢字と日本人』の検討

この本には、上記の内容に関連する限りで何点か気になる点が見いだせる。それを簡単に指摘しておく。

まず一点目。この本を読み終わった後、多くの者はこの本を「日本語は同音異義語がとても多いという点で、他の言語と比べて際立っている言語だ」という主張をしていたと思うことであろう。ところが、その読後感を保持したまま見返すと、少し気になってしまう箇所があるのだ。その検討からしておく。

p34-35。漢語の解説をしている箇所である。

音節の数は千五百ほどで、単語は原則としてすべて一音節、ということは、単語の数が全部で千五百ほどしかないのか、と言えば、無論そんなことはない。

まず、別の単語だけれどもたまたま音がおなじ、という、いわゆる「同音異義」のことばがかなりある。

これはまあ、めずらしいことではない。人が口から発することのできる音の種類はかぎられているのに、世の事象は無数、したがって単語の数も何万何十万と無数にちかいほどあるんだから、どんな言語にも同音異義ということはある。日本語だって、たとえば「コイ」という音には、「濃い」「恋」「鯉」「来い」などのことなることばが同居している。漢語にもそれはかなりある。たとえば「衣」も「医」も高くたいらなイ(yi)である。

読み返すのがこの箇所である場合、「あれ?」と思わずにはいられない。「なんだ、同音異義語は日本語だけが多いわけじゃないのか」というふうに読み取りうる箇所だからだ。が、全体をいちおうは読んだ者からすればこの箇所が異常にミスリードなだけだ、と思う。そして、その示唆を高島は或る程度ちゃんと果たしている。なぜなら「コイ」と同音である語の例の中に「故意」が入っていないことは明らかだからだ。つまり、ここでの「日本語」には「明治以降に大量に急造された漢字熟語(高島は字音語と呼ぶ)」は考慮に入れていないのである。ここで考慮されている「日本語」とは「和語」のことにほかならない。この著書は「日本語に多い同音異義の語がなぜほとんど問題にならないのか」に対する解答を与えるという形で書かれているものの、実際にはその「解答」は「日本語の歴史」を時系列を単純に辿って与えるという形になっている。先の引用箇所はまだその「日本語の歴史」の比較的初期の説明の段階だったのである。

それでは、この著書のなかに、「日本語は同音異義語がとても多いという点で、他の言語と比べて際立っている言語だ」というはっきりとした主張が在るのかというと、そこまではっきりとはしていないのではないかと思う。この著書で提示されているのは「日本語は発音のバリエーションが異常に少ない(昔の日本人が発音が不器用だったので)」「日本語の主要部分である漢字熟語(字音語)は音声だけでは自立せず、文字にその存立を大きく依存している点で、他の言語と比較して類を見ない」の二点である。そのため「日本語は同音異義語がとても多いという点で、他の言語と比べて際立っている言語だ」と書いてあったような読後感を持ちやすい。しかし、そこまではっきりと他言語と明確な比較はしていない。あくまで「漢語」と比較したとき、その発音のバリエーションがあまりに少ないことから、「これだけ発音のバリエーションが少なければ、漢語よりは日本語の漢字熟語のほうが数段同音異義語が多くならないわけはないだろう」と思える、ということなのだ。

「日本語は同音異義語がとても多いという点で、他の言語と比べて際立っている言語だ」とまでは読み取り難いことは、「同音異義語がどのくらいの数あるのか」を読み取ろうとするだけでも、見当がつく。上記の引用だと、世の中全体かまたは漢語全体での単語の数自体で「何万何十万と無数にちかいほど」であると書かれている。その一方で、本書の冒頭では次のように述べられている。

p10-11

校長先生と新聞記者の話はそれでおしまいなんですが、「假定」と「家庭」だけではない。ほかに「過程」も「課程」もカテーである。

カテーは一つの小さな例にすぎない。日本語にはこういう、相互に無関係だが偶然におなじ音を持つことばが、何千も何万もある。

この「偶然」というのが重要なところなんですね。まったく偶然なんだ。「假定」と「家庭」とは意味の上ではなんの関連もないのに、偶然おなじ音を持ってハチあわせしちゃった。それが一つや二つではなく、そんなことばが何千も何万もある、というのが日本語の特性なのである。

「世界全体の(または漢語全体の)単語の数」が「何万何十万」であるのに対して、日本語の同音語だけで「何千も何万もある」のだそうである。ということは、下手をすると、「世界全体の単語数」と「日本語の同音語」とで「同じ桁の数」である可能性すらあるということになる。これならもちろん「日本語は同音異義語がとても多いという点で、他の言語と比べて際立っている言語だ」ということすら断定できるだろうが、それ以前に、そんなに「世界全体の単語数」のなかで「日本語の単語数」の占める割合が多いものだろうか、と疑問にならないわけにはいかない。

今ふとたまたまp32を開いたら次のように記載されていた。

英語の音節は多い。三千くらいあるらしい。

音節の数で三千なら、英語の単語だって「何万何十万」は在りそうなものである。だとすれば「世界全体の単語の数」が「何万何十万」ということはなさそうな話に思えてくる。

日本語の同音異義語(字音語)が「何千も何万も在る」かどうかも、次の箇所を見ると少々疑わしくなる。p151。

さきにのべたように、江戸時代以前の和製漢語は耳で聞いてわかる。そのかわり文字をにらんでも意味はわからない。大工は大男とはかぎらないし左官は左ききの官僚ではない。

明治の造語はちょうどこれと正反対である。耳で聞いても意味はわからないが字を見ると見当がつく。それはそのはずで、ひたすら文字の意味だけをたよりにつくってあるのである。その点ではまことに理づめにできている。(中略)

そのかわり音のことは何も考えていない。同音のことば―従来からある語と同音、もしくは新しくつくったことば同士が同音―がいくら発生しても気にしない。

さきにも言ったように、日本語の音韻組織はいたって簡単で、日本人が口から発することのできる音の数はごくかぎられている。その上、漢字は数千数万あっても字音の種類はわずかなものである(もともとはことなる音であるものが日本へくると同音になってしまうのである。日本でコーとよむ字は三百以上ある(工、口、交、甲、高、好、校、硬、綱、鋼、抗、構、講、後、幸、広、郊、降、貢……)。トーとよむ字は二百以上ある。リョーとよむ字もそれくらいある。そういうのをくみあわせてことばをつくるのだから、同音の語の発生などを顧慮していては短期間に何千の語をつくり出せるはずがなかった。

短期間につくられた字音語が全体として「何千」単位であるのなら、日本語の同音異義語(字音語)が「何千も何万もある」かどうかは極めて疑わしくなる。そう言わざるをえないだろう。

ようするに、高島のこの著書を読む際に「具体的にどのくらいの数なのか」とか「結局どのくらい日本語の同音語は多いのか。他言語と比べてどうなのか」といった数量的な把握については、あまり気にしないで読むほうが良さそうだ、と言える。今後の関係者の研究に待ちたいところだ。ただ、ウィキペディアで同音異義語 - Wikipediaを見る限り、「主要言語と比較して同音異義語は日本語は隔絶して多い」と断定したくなるだろう。私はもうこれを見ただけで断定してしまう。

あとその他二点ほど、この本の内容に対して私の見解を述べておく。一点目のほうは高島がなぜ、同音語が日常生活では全く問題にならない、誰も気にしている者はいない、などと断定できるのか、という疑念とつながる話題だ。二点目のほうは、この本の前提にあってあまり意識化されない点を、明確化しておくために書く。

一点目。高島がその問題を誰も気にしていない、と断定していることの背景には、同音語の多い漢字熟語というものが、「高度で知的な話題」でこそ要求される、と高島が規定している事態が在るだろう。すなわち、耳で聞いただけでわかるような和語は「易しく」また「日常的」であるのに対して、漢字熟語というものは「高度」「知的」である、だから漢字を知らない小児には、その聞き取りが課題になることは無い、というわけだ。しかし、「高度で知的である」ことと「日常的である」こととは排反ではなく、両立しうる。このことは、実際には小児が視聴しているテレビ番組にも、漢字で表記しないと「意味」がわからないような漢字熟語が多数使用されているからも、言える。それらにも同音語は多い。そしてそのせいか、いくぶんなりとも「知的」な理解すら視聴者である小児に求められていると言える面も在る。が、かと言って「日常的でない」わけでもないのだ。だとすると、テレビ番組で使用される「日常的かつ知的」な漢字熟語は、テレビ以外の日常生活でもまた使われうる。これらが、漢字を知らないと不充分な理解にとどまることは前記のとおりである。その点を見逃すことになるのだ。ついでに言えば、和語は耳で聞いて同定しやすいという点では「易しい」と言えるが、しかしその語の意味までが「易しい」というわけではない。語の同定の難易度と、語の意味の難易度とは、まったく別の話である。念のためそのことを注意しておく。

二点目。高島は漢字熟語(字音語)を「文字を見れば文字の意味から単語(漢字熟語)の意味がわかる」というようなことを何度か述べている。が、このとき高島が想定している「文字の意味」と、読者が想定する「文字の意味」とは異なるという可能性が在る。そのことに留意しておく必要が在る。高島がこのとき想定している「文字の意味」というのは、おそらく「漢語での意味」のことだ。つまり「中国でその漢字が元来もっていた字義」のことだ。これは別にうがった見方でもなんでもなく、日本の漢和辞典というのはそういう字義をこそ掲載しているのである。(だからこそ『新潮社日本語漢字辞典』という商品が成立するのである。参考:新潮日本語漢字辞典|新潮社)。ところがほとんどの日本語話者は、「文字の意味」を「漢語での字義」として習得している、というわけではない。むしろ、日本語として使われるそういった字音語や、さらには「和語に漢字をあてたもの」(例:摂る、獲る、撮る)からこそ学習するのである。だから漢字熟語は「文字を見れば文字の意味から単語の意味がわかる」という性質が成り立っているとも言えるのだが、同時にそこでの「文字の意味」は「その文字を用いた漢字熟語や、和語に漢字をあてた用法」を経験した結果習得されたものであるのだ。ここに循環が在ることは看取できるだろう。「文字を見れば文字の意味から推測できる単語」というものをたくさんたくさん経験し学習することによって初めて「文字の意味」という知識を推測の資源として用いることができるのである。つまり、テレビ番組に字幕があったからといって、小児がいきなりその文意がわかるわけではない、ということだ(にもかかわらず字幕はもちろん「必要」と言いたいわけでもある)。

以上の二点を指摘しておく。