ネタバレ『20世紀少年 完全版』検証:「ともだち」の正体に近づくために不可避な認識(その4)理科室編(中)

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最終更新:2026.02.28(加筆箇所明記)、初出:2026.02.28

このページは「(その1)サダキヨ編」「(その2)チョーさん編」「(その3理科室編(前)」を前提にしている場合が多々在ります。

このコンテンツはネタバレです

以下のコンテンツはネタバレです。特にもし假に内容が正しかったとしたら、ものすごいネタバレになります。また假に内容が間違っている場合でも、少しはネタバレになると思います。ネタバレされたくないかたは、ぜひ読まないでください。このページが検索エンジンで表示されて、それがネタバレにならないように、少なくともタイトルにはネタバレを含まないようにしました。

関係するウェブページ・ブログ等や書籍を中途半端に私は読んでしまいました。その読んで覚えている内容とは重ならないような内容を以下書きます。忘れていたり読んでなかった著作物と一致していたり、或いはそれと正反対の事を書いてしまうかもしれませんが、そのことはもし判明したら可能なら対処するかもしれません。要するに「意図的な盗作」はしないように以下努めます。

このコンテンツは『完全版 20世紀少年』のほうを参照しています

この件に関連して、私が書いている「ネタバレ含『20世紀少年 完全版』検証:教科書体とその周辺(序文編)」のに重要事項が書かれています。これに先に軽く目を通してからのほうが良いと思います。

必要に応じて「参考資料:『20世紀少年』全話リスト」を参照してください。

ハットリくんの秘密

理科室に替え玉男Bが現れたとき、彼は「忍者ハットリくん」のお面をつけていました。替え玉男Bを知らない読者のかたは既出の「(その3理科室編(前)」を参照してください。で「忍者ハットリくん」という作品を知らない場合も含めて、読者にはすでになじみの在るお面になっています。ところがオッチョは彼を見て「お前は誰だ」と問いただしました。この発話について少し考えてみます。というのもオッチョは「ともだち」(らしき人物)がハットリくんのお面をつけて現れた場面を初めて見た可能性が在るからです。つまりオッチョはここで「ハットリくん=ともだち」と知っていたうえで「ともだち」の正体を尋ねたのではなくて、そもそも「ハットリくん」お面男が「ともだち」ということになっているという認識図式を知らないがゆえに誰何した可能性が在るわけです。

同じことが、マルオやヨシツネにも言えます。理科室で替え玉男Bが銃殺されたあと、ヨシツネの秘密基地にてオッチョ・マルオらが実に14年振りの再会を果たしますが、そのときにヨシツネは「フクベエが子供の頃“僕はフクベエじゃない、ハットリだ。ちゃんと名前を呼んでくれ”と言っていた事」を思い出し、多分マルオが「(忍者ハットリくんのお面は)それが言いたくて、あいつは…」と敷衍しています。このやりとりを読んだ読者は、ヨシツネやマルオもまたケンヂと同じく、「ともだち」(らしき人物)がハットリくんのお面をつけて現れた場面を見たことが在る、と誤解します。しかしながら、断定はできませんが、ヨシツネやマルオも、オッチョと同様に、「ハットリくん」お面男が「ともだち」ということになっているという認識図式を知らなかった可能性が充分在るのです。彼らが、血のおおみそかまでの行動過程において、そういった場面に立ち会ったという描写は一度も在りません。彼らが理科室射殺事件後の再会時において前記のように納得しているのは、あくまで理科室に現れた替え玉男Bがハットリくんのお面をつけていたという事実のみを考慮した結果であるかもしれないのです。

追記します。ヨシツネに関しては、マルオやオッチョと再会する前段階で、「あのお面は」と繰り返し語っているので、ヨシツネ(あとおそらくユキジ)は、「ともだち」はハットリくんのお面をかぶっていたことが在ることを、何らかの情報経路で知っていました。理科室で死んだ男のかぶっているお面の話を聞く前だから、それは明らかです。しかし同時に、ヨシツネは、「服部という苗字」と「フクベエというあだ名」に見て取ることができる連想関係には、まるで生まれて初めて気がついたような反応をしています。このことから、ヨシツネの周りでは、「フクベエの本名」に関する話題を誰もしたことが無かったことがより一層確実に推断できるようになっていました。以上追記でした。

「ともだち」(らしき人物)がハットリくんのお面をつけて現れた場面を見たことが在ると断定できるのは、ケンヂたちの仲間の中ではケンヂただ一人です。そして、ケンヂは、少年時代にお面をつけた少年としてサダキヨを想起しますが、お面はハットリくんだったりナショナルキッドだったりして、曖昧です。もちろん実際のサダキヨ少年が、複数の種類のお面をあれこれ付け替えていた可能性も在りますが、物語の最後のほうまで一瞥する限り、サダキヨ少年がハットリくんのお面をつけていたシーンは見られません。このケンヂのあやふやな記憶のせいもあって、結局ケンヂはその記憶を他のメンバーと共有しなかった可能性が在るのです。

なぜこの推測が重要なのかと言えば、彼らは血のおおみそかまでの数ヶ月のゲリラ活動期間中に「フクベエの本名」を一度も話題にしなかった可能性が在るからです。現にケロヨンなどは作品中で仲間たちから一度も本名に言及されていません。「おい、ちゃんと本名を紹介しろよ」とケロヨンに苦言を呈されそれをマルオが無視したにとどまります。そうであるなら、フクベエならなおさらそうであってもおかしくないのです。

「フクベエの本名」が一度も話題にならなかっただろう集団のなかで、「小学校で同じクラスだった服部が本当に生きているか?」などという問題意識が起こるはずも在りません。つまり服部の生死という大問題が存在することに、彼らはまず絶対に気づきません。このような状態では、チョーさんに比べてはるかに「ともだち」の正体という問題から出遅れていたと言えるでしょう。

しかしその状況に在って、たった一人だけ、「服部こそが「ともだち」の正体ではないか」と疑い調査をするに決まっていた者が居ます。ドンキーです。

ここまで書いてみたのですが、この種の発見は寺本匡俊さんがすでにやっていて、しかも、それをすでに私が読んだことも在るような気がしてしかた在りません。もし見つけたら、その記事へのリンクなりをしようと思っています。今は、この文章の先の内容を書くことを優先します。

ドンキーはなぜ殺されたのか

ドンキーはなぜ殺されたのか。理由が一つであるとは限りませんが、最大の理由はこうです。ドンキーは服部が少年時代にすでに亡くなっていることにすぐに気づいてしまった。したがって、「ともだち」の正体が服部でないことを容易に指摘可能な状態になっていた。そのためドンキーは速攻で殺された。これです。

周知のように、バーチャルアトラクション内でのドンキーは1971年9月1日に首吊り坂にてカンナに、フクベエのことを指して「あいつは“悪の帝王”になる」と告げました。ドンキーにしては珍しく科学的な表現ではありませんが、それはさて措くとします。バーチャルの中で成立した事実が、假にもしバーチャル外世界での「現実」の忠実な反映であるとするならば、ドンキーは大人になっても「服部は怪しい」と当初から思っていたことになります。また、もし現実のドンキーはカンナに話したような発言を誰にもしなかったとしても、理科室での出来事だけでもドンキーがフクベエに禍々しいものを感じたことは確かなので、読者としては「ドンキーは服部のことを絶対に調査するはずだ」と確信できます。

そういうわけなのでドンキーは服部を即座に調査して、彼が中学生になる前に死んでいた事実を突き止めたはずです。したがって、1997年頃での「現在」で「最初に怪しいと思ったのはケンヂだった」と殴り書きの手紙でドンキーは書いていますが、それは「生きている者のなかで最初に怪しいと思った者」ということを意味していることになります。本当の本当に最初というのなら、まずまっさきにドンキーが怪しいと疑ったのは服部である、というのが自然です。

ドンキーが殺されたのは、それが直接かつ最大の原因でありました。というのも、「服部はすでに死んでいる」…このことを「ともだち」となったカツマタはひた隠しに隠していた疑いが強いのです(参照:「(その2)チョーさん編」)。「ともだち」は、ドンキーが服部を調べ始めた時点で殺害してもおかしくありません。ただそこで、誰が実際にドンキーを殺すかが問題になってきます。というのも「ともだち」は彼以外のあらゆる者を騙しており、ごく一部の者には「自分は服部である」と名乗ってすらいたからです。ドンキー殺しの男や田村(のちの13番)にも似たようなものでした。ともだち暦になって北海道の工場に隠れていた13番は、「俺に真理を見せてくださったあの方」が「二〇一五年に亡くなった」と言っています。13番が「2015年までの“ともだち”」と「ともだち暦になってからの“ともだち”」とを別人だと考えていたことは明らかです。そういうわけで、ドンキーを殺す際にも、その実行犯には全然別の理由で殺すのだと騙しておく必要が在ります

それと関係在るかもしれないので、少し後戻りします。2015年の第三小学校理科室「ひみつ集会」で、山根は「あれ」「その事実」を知ってしまったからドンキーを「絶交した」のだと、替え玉男Bを告発します。ここで念のための注意をしておくと、山根は科学者のくせに、或いは科学者だからよけいにかもしれませんが、自然言語(日常言語)の使い方がおそろしく多義的・譬喩的であり曖昧です。ここでの「絶交」も二義的かそれ以上です。これはフクベエの言う「絶交」が二義的であった事実の反映でもあります。山根は1970年大阪万博の年にフクベエに普通の意味での絶交を一時期されていました。その一方で「相手を殺す」こともまたフクベエの独自用法で「絶交」と呼びます。そこでさらに今度は「殺す」もまた譬喩的なものが含まれえます。1971年に少年ドンキーが追い込まれて理科室の窓から飛び降りたのは、譬喩的な「殺す」です。その一方で、1997年に勤務先の屋上から突き落とされたのは、文字通りの「殺す」です。ここで、山根が替え玉男B(山根はフクベエだと思い込んでいる)に対して「だからドンキーを絶交したんだな」と告発しますが、その「絶交」は譬喩的な殺すである(窓から飛び降りさせる)という可能性が非常に在ります。それに対して、聞いているオッチョのほうは文字通りの「殺す」だと当然受け取ったはずです。理科室での山根と替え玉男Bとのやり取りは、どこまでも曖昧です。

ともあれ山根は、2015年にフクベエが自分のことを殺そうとするのは、1971年の理科室でのフクベエの「復活劇」「奇跡」の失敗を隠すためである、と信じ込んでいます。のちに明らかになるように、フクベエはそこで首吊りで一回死んだはずなのに、蘇生するという「奇跡」を実演し、しんよげんの書を現実化することをもくろみます。そして、そこで「仕掛け」が外れたため、その実演は無様に失敗します。ただしそこでフクベエは死んでいません。それは言い切れます。なぜならもし小学校在学中にフクベエ(服部)が死んでいれば、記憶力の超絶良い担任の関口先生がその事を忘れるはずが無いからです。しかし関口先生は1997年のクラス会で、服部少年と似たような顔の成人男性が参加していても驚きませんし、全員分スプーン曲げ事件の話も平気な顔で皆にします(当時自首した犯人は服部でしたし関口先生はそれをよく覚えています)。だから、フクベエは在学中には死ななかったと言って良いのです。それに「(その2)チョーさん編」で推論したように、フクベエは少なくとも小学校卒業アルバム用の写真を撮影した頃までは確実に生きていました。卒業も無事できたはずです。フクベエは死ななかった、しかし「奇跡」を演出することはできず、普通に想像すればなかなか無様な結果になったはずだと言えます。山根はその件を知っている生き証人なので自分が殺されるのだと信じ込んでも、それほど奇異ではないのです。そこからしたがって、ドンキーが殺された理由も、その延長線上で山根は想定します。ドンキーは、仕掛けが外れてフクベエが悶絶したことはおそらく知りません。しかしフクベエの「死と復活」は何かのトリックであると確信し、奇跡などは信じませんでした。ともあれフクベエのもくろみがドンキーに対しても効を奏さず、期待したような反応を得られなかったうえに、普通に考えてヤバい場面を見られてしまったので、だからドンキーを殺した、そのように山根は考えていたようです。

少し話が脇道に入りますが、服部が小学校在学中に理科室で死んだりしなかった、という件をもう少しだけ確認しておきましょう。山根は大福堂製薬在職中の片腕的存在だった戸倉に、「小学校の時、仲の良かったコが死んだ」と語っています。まずこれは読点の位置からして文法的関係は一義的です。「小学校の時」は「仲の良かった」に係るのではなく、「死んだ」のほうに係ります。「小学校の時仲の良かったコ、が死んだ」のではなく、「仲の良かったコが小学校の時死んだ」の文法関係に決定できます。さてそこで問題なのは、この「死んだ」のほうです。山根の語りなのでこちらが譬喩である可能性が充分在るのです。そこでもう少し戸倉の証言を聞くと、「仲の良かったコの幽霊」というフレーズが登場します。この「幽霊」も譬喩的なものです。ここでの「死んだ」はおそらく「かれはいちどしんでよみがえるだろう」という「よげん」を体現したものとして使われています。文字通りの「死亡」ではなく、「死んだという物語」の上での「死んだ」というつもりなのでしょう。だがフクベエはその復活劇にまんまと失敗し「嘘をつきそこなった」ので、その事態を指して「幽霊」と呼んでいたのでしょう。「死にきらなかった」、だから「幽霊」だ、ということなのでしょうか。そういうわけで、山根の語りの特異性を考慮に入れれば、山根が戸倉に語った発言と「服部は理科室で死んでなどいない」事態とは両立できます。そして、前記の論点を再確認すれば、2015年理科室での山根はフクベエは生きていると明らかに信じて覚悟を決めたうえでやって来たので、戸倉にこのエピソードを語ったときも、文字通りではないことを自分ではよく判っていたはずだ、とも言い切れるのです。

さて話を戻します。「理科室でヤバいものを見てしまったからドンキーを殺す」これが、「ともだち」側の幹部クラスのメンバーの理解でもあったと推論できます。万丈目と高須の間では、「一九七〇年の嘘」というフレーズが共有されています。万丈目や高須がその嘘を知っていることが、もし「ともだち」にバレると「笑い話にならない」事態になるというふうに、特に高須は恐れています。さてそれと似たようなフレーズを山根も使いました。「'70年の嘘」「'71年のこの理科室での嘘」というふうにです。これらが皆、「“ともだち”=服部(フクベエ)」という前提認識に発している概念であることに注目しましょう。「ともだち」がもし服部だったとしたら、その服部の過去の「失態」「醜態」を知ってしまった者は<絶交>されるだろう、というわけです。そのような認識図式が共有されている「ともだち」教団の幹部たちの間でなら、ドンキーを殺すときの理由も、山根が想定していたものと近いような「服部(フクベエ)のスキャンダル」に類するものの発覚を防ぐため、というふうにしておくと通りが良いのです。「ともだち」がおそらく意図的にそのように見せかけておくことで、「ドンキーは服部少年の死亡を知っていたから<絶交>された」という真相を隠すことができます。

フクベエが「嘘をつきそこなった」ときの理科室には、ドンキーそしてフクベエと山根のほかにあと一人、ナショナルキッドのお面をかぶった少年が居ました。バーチャルアトラクションの中でとは言え、ドンキーはその少年に気づき、「サダキヨ……!?」と言いますが、結局誰だか確信できなかったためか「君」というふうに言い直しています。サダキヨだったら一年前に転校してしまったから、「部外者」だったことになります。ドンキーはきっとそう判断したので、言い直したのでしょう。で、ドンキーはこの少年のことを、1997年になって「ともだち」の事を聞き及んだときに、当然疑ったはずです。はずなのですが、しかし誰だかは結局判らなかったと思われます。ドンキーがケンヂに殴り書きのような筆跡で書いた手紙での書き方はそういうふうに見えます。ナショナルキッドの少年が怪しい、しかしそれが誰か判らない、判らないけどよげんの書の内容を知っている誰かだ、まずその正体として疑ったのがケンヂだった、…とそういう認識のもと書かれたように見えるのです。

「話はもうおしまいだ」と誰かに命じられた気がしたので、ここでいったん終了します。次が長くなりそうなのです。