ネタバレ『20世紀少年 完全版』検証:「ともだち」の正体に近づくために不可避な認識(序文編)

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別ページに移動・変更:2026.02.23、初出:2026.02.15

このコンテンツはネタバレです

以下のコンテンツはネタバレです。特にもし假に内容が正しかったとしたら、ものすごいネタバレになります。また假に内容が間違っている場合でも、少しはネタバレになると思います。ネタバレされたくないかたは、ぜひ読まないでください。このページが検索エンジンで表示されて、それがネタバレにならないように、少なくともタイトルにはネタバレを含まないようにしました。

関係するウェブページ・ブログ等や書籍を中途半端に私は読んでしまいました。その読んで覚えている内容とは重ならないような内容を以下書きます。忘れていたり読んでなかった著作物と一致していたり、或いはそれと正反対の事を書いてしまうかもしれませんが、そのことはもし判明したら可能なら対処するかもしれません。要するに「意図的な盗作」はしないように以下努めます。

はじめに

2026年現在、浦沢直樹『20世紀少年』が予言の書に見えてくる情勢になってしまいました。私と同様に、そのように思う読者も少なくありません。そのため「社会情勢のお勉強」の準備としてこの作品を読むのもそう悪くない、という事態になっています。のみならず、作品中のマンガ家と同じような目に浦沢直樹氏が遭うことすら、荒唐無稽な空想ではなくなっていると私は感じます。ぜひそうならないことを願います。

『20世紀少年』に「完全版」という別バージョンが在ることを私は2025年中盤頃知って、のけぞりました。そこで14年ぶり(!)にこの作品を掘り返し、まず、自分が持っている、昔から在るほうのバージョン、すなわち従来の「通常版」を何度も読みました。こちらのバージョンには「通常版」という記載は特に無いので、注意が必要です。ネットカフェに行くと置いてあるのは、まずこちらでしょう。それに対して、紙の形では全然出回っていない「完全版」というものが在り、ここで調査検討の対象にしているのは、そちらです。なお特に断らない限り、私は『21世紀少年』も含めています。完全版ならば「12巻」に相当し、通常版ならば「23巻」「24巻」に相当します。

通常版と完全版との違いの一つは本のサイズです。掲載誌スピリッツのサイズはB5なので、スピリッツのサイズに比較して、通常版B6は70%、完全版A5は80%となります。掲載誌の大きさで浦沢氏は描いているだろうと推測され、通常版だとそれが結構縮小されます。通常版を先に読み完全版を次に読む場合は、115%拡大される格好になります。

『20世紀少年』の通常版と完全版の最大の違いは「最終回」(『21世紀少年』)です。この点に関しては、今後繰り返し検討していきます。で、次に大きな違いは、「西暦2000年の血のおおみそか」でのケンヂとカンナの別離シーンと、「ともだち暦3年」の万博会場でのコンサート会場でのケンヂとカンナの再会シーンでしょう。ここで見開き2ページ分の新たな絵が追加され、情感揺さぶるような場面になっています。で「血のおおみそか」での別離シーンも、それと呼応するように新たな絵を追加しています。それ以外の相違点はのちに少し検討するかもしれません。

完全版には「教科書体のセリフ」が登場する

通常版になくて完全版には在るものの代表は「教科書体で書かれたセリフ」です。通常版のときは細い明朝体でした。なので、書体の区別が完全版のほうは種類が増えていることになります。大まかには次の4パターンを押さえておくと良いでしょう。これより細かい区別が存在する場面は在りますが、それはあとから見直せば良いでしょう。そうすると、完全版では次のようになります。なお、これらは私が暫定的に定式化した「假説」「たたき台」であって、結論ではありません。どういう場合にその書体を使うのかに関して、より適切な假説が在りそうならそちらに私は乗り換えます。

完全版『20世紀少年』で使われている主な書体
通常のセリフ
回想シーンのセリフ
内面のセリフ
電子機器でのセリフ

いずれにせよ、完全版になって新たに「教科書体のセリフ」に書き換えられたのは作者たちのチームの意図的行為の結果です。したがって、通常版と完全版の相違を調べたり完全版での特に最終話の変更に及ぼす影響を調べる際に、無視しない方が良いと私は思いました。

以下、特に教科書体のセリフである箇所を中心に、書体の検討を進めていきます。過去や場合によっては未来の出来事の描写であると思えるケースを検討し、「誰かの回想の描写」なのかそれとも「過去の事実描写」なのか、といった検討を加えてゆきます。ミステリなどのフェアプレイの原則をここに持ち出すならば、「誰かの回想の描写」には回想者の誤りや嘘が入りえますが、「過去の事実描写」には誤りや嘘は混入しないはずです。

「のっぺらぼう」の描写に関して補足します。「登場人物Aがのっぺらぼうの幻覚を見た」という場合、そういう幻覚を見たという事実描写はもちろん可能です。ただそこで、絵の中に描かれたのっぺらぼう自体が事実・現実であるというのはさすがに在りません。それは描写上の非常に特殊な技術的な表現であると解釈するほか在りません。すなわち、そののっぺらぼう以外の箇所やセリフは勿論事実の描写なのですが、そののっぺらぼうの絵のみは「人物の見た妄想」なのです、ただそういう混在した描き方が存在しないため、描写としては事実の描写の形式を採ります、…と、そう判断したいところです。

以下「第○○○話」と書くのはすべて通算の数にします。そうすれば、完全版の読者も通常版の読者も計算ができ、参照も可能になります。必要に応じて「参考資料:『20世紀少年』全話リスト」を参照してください。

基本的な道具の整備

「完全版と通常版の違い」という話題とは一応別の問題になりますが、しかし、書体の検討をするときに使う基本的な概念の整理・整備を一度はしておいたほうが便利だと感じました。なのでそれを少し記します。なお、この話題は今後少しずつ加筆修正していく可能性が在ります。

まず、「通常のセリフ」という言い方です。これについてはいろいろな呼び方が存在するようですが、ひとまずこの「通常」というのは、「事実の描写」が行われている場面を指す…という呼び方にしておきます。「事実」というのは、現在の事実過去の事実とが主に在ります。稀に未来の事実という場合も在るかもしれませんが、そのあたりは臨機応変に対応したいと思います。ともかく、「事実の描写」が行われているときに、登場人物が会話や独り言など声を発する場合はそれはフキダシに囲まれて表現され、そこで「通常のセリフ用の書体」が使われているわけです。

次に「内面」と「ナレーション」です。この二つが同じ書体で表現されるのは理由が在って、「どちらも現実の声に出さない」という共通点が在ります。但し、もしマンガをアニメや映画などで音声つきの作品に作り替えるとしたら、「内面」や「ナレーション」は必ずや「声」として表現されるに違いありません。これらは恐らく「登場人物が別の登場人物に伝えようとする言葉」ではなくて「登場人物が読者・視聴者に伝えようとする言葉」という特殊な存在なのだと思われます。

そして「内面」と「ナレーション」とは違いも在ります。暫定的な假説を立てておきましょう。「内面」も「ナレーション」も、絵の描写に随伴します。この絵というのは事実の描写です。「内面」というのは絵で表現されている「事実」と同時進行です。それに対して、「ナレーション」というのは絵で表現されている「事実」よりもあとの時点からの「後づけ」「回顧」でなされています。典型的には「まさか後になってそのような恐ろしい事が起こるなどとは、皆は知る由も無かったのである。」といったタイプの言語表現です。

それに対して「回想」というのはまた異なります。「回想」というのは「事実の描写」ではなく「誰かの記憶・想起・想像・妄想などの描写」を指すことにします。だから事実の描写と一致していても構いません。つまり、記憶が正確な人物の記憶や想起を描く場合であっても当てはまるのです。で、この作品の中では、「回想」の中での登場人物のセリフは、他と違った「教科書体」という書体が一貫して使われている、と私は判断しました。で、この書体が1ページの中でずっと連続している場合は読者は容易に気づきますが、もし、一箇所だけこの書体が使われており、しかも少し大きいサイズで記載されているなどの場合、少し太い文字に見えるため他の書体との区別がつきにくいことが在ります。その点では読者に識別の手間を少しかけさせる場合も時には在るわけです。その点に注意したいところです。

上記の点にしたがって、以下の検討を今後少しずつ修正していきます。

「ともだち」の正体がどれだけの重要度をもつか

浦沢直樹『20世紀少年』は、従来の通常版のときは作品タイトルに「本格科学冒険漫画」と銘打っており、ミステリでもホラーでもSFでもないことを態度で示していました。また普通程度にミステリに馴染んでいるような読者であれば、従来の通常版での「登場少年紹介」というコーナーが「あまりにフェアでない」内容であったことからして、「これはミステリとして読んではいけない」という状況を瞬時に理解し、そういう方向での期待をしなかったと思われます。私はそうでした。

ちなみに「マンガ」ではなく「漫画」という表記が使用されたのは、浦沢直樹氏の主張や好みのようですが、その辺りのことは私はよく知らないので、「漫画」のほうを以下なるべく使います。

そもそもこの作品を、純化された特定ジャンルの作物さくぶつだと思ってはいけないのでしょう。ロックミュージックだって、ジャンルの細分化が起こる時代より前の作品群の方が普通は楽しいでしょう?漫画だってきっとそうです。たとえば作家の奥泉光氏の初期作品(例:『吾輩は猫である殺人事件』『葦と百合』『グランド・ミステリー』)に対して「ミステリと思って読んだのに全く失望した」という感想を述べる人はあまり居ないでしょう(少し居ます)。「ミステリの意匠」などしょせんは売れるための手段と割り切って書かれた(という作家の自己宣伝もあまり真に受けないほうが良いでしょうが)という、たくらみのもっと深い小説として読むほうが面白いわけです。漫画でもきっとそうです。

しかしそれでも読者の少なからずは「犯人捜し」に存外熱中していたようです。つまり、特に最終話に対して「犯人捜しという点では(点でも)失望した」という感想を持った読者がどうも多かったようです。犯人捜しに熱中する読者が決して例外的でなく存在したその理由の一部は、私には推定できます。それは、物語の途中までは主な登場人物たちも「犯人捜し」に熱心だったから、というものです。説明します。

『20世紀少年』は、最初のほうでは登場人物たちが「犯人は誰だ?」という関心をもち事件に深入りしていきます。犯人が誰であるにせよ自分の知っている奴に違いない、と感じているからです。そのうち、犯人捜しより事件を防止し人々を救うことのほうが重要になってきて、2000年12月31日の血のおおみそかでは特にそのように行動します。しかし14年経って2015年1月2日になってみると、重要容疑者は一緒に行動していた者であったことが判明します。そこでみんなで集まって「反省会」を開いたかどうかは不明ですが、ともかくここでみんなは「血のおおみそかでは内部にスパイが居た」「そのせいで全部大失敗だった」「敵に仕掛けられたすべての罠にまんまとはまった」ことを痛切に悟ったはずです。だからだと思いますが、その後主な登場人物たちは「身内にスパイが紛れ込んでいないか」ということに非常に神経を使うようになります。なのでそういう意味での「犯人捜し」は登場人物たちにとって切実に重要なものであったことは確かです。

「犯人が死んだと思っていたけど実はどうも生きているのではないか?」という疑惑が物語の後半から湧きおこってきて、そのことで「犯人捜し」の活動も復活したようにも見えます。ただ「実は犯人は生きていたのか、それとも別人が犯人になり替わったのかは不明であるにせよ、とにかく今は危険な組織にリーダーが再び君臨している」と判明した時点からは、登場人物はそこまで犯人捜しに重点を置かなくなったように見えます。

もう一つ在るのは、「カンナの父親捜し」という関心でした。この事件の「犯人」は高い確率で「カンナの血縁上の父親」であると思われていました。カンナの父親を突き止めることと犯人捜しをすることとが重なっている、と登場人物に思われていたわけです。カンナ自身は自分の父親捜しにそこまで熱中はしなかったようですが、それでも、まったく無関心を貫いたと言い切ることも難しい気がします。何しろカンナの記憶のなかに「父親らしき人物の顔」が充分しっかり残ってしまっているのです。確かにカンナはともだち風の男に「自分は父親の顔をよく覚えていない」と言っていましたが、それよりも、誰も居ないところで記憶をまさぐっているとき「嘘?あの顔がお父さん?」と独り言を言っていてそちらのほうが信憑性が高いと言えます。なので、記憶に残るその顔の人物が「犯人」であるかないかを全く気にしないことは難しかったでしょう。そして、そのことと関連して「キリコを(言わば)陥れた夫(カンナの父親)は誰か?」という関心も高まってきました。キリコと近しい位置に置かれた登場人物がそういう方面から、結果的に「犯人捜し」に近いような関心を再び持つようになったとは言えるわけです。

読者が「犯人捜し」に夢中になってもおかしくないのは、「容疑者たちの過去(のトラウマ)」「容疑者たちの心理」に関係する描写にけっこうな紙幅が費やされていた件も理由として挙げられます。重要容疑者たちの過去の行動・心理・トラウマについてこれだけ知ってしまえば、「事件の真相」に関心を全くもたないことは難しいでしょう。そして「真相」が言わば「心理学的」「精神医学的」に解き明かされることを期待する読者も多かったことでしょう。ミステリとしてというよりは、一種の心理小説として、読者の関心をひきつける作品だったというわけです。

とは言え、物語全体からした時「犯人捜し」「真相の究明」がすべてではないこともあまりにも明らかです。少なくとも「冒険」とか「活劇」のような面が重要な一部であることは間違いありません。そうでなければ「巨大ロボットの開発」「脱獄」「カジノ潰し(?)」「マフィアとの協力工作」「関所破り」「独裁政権へのレジスタンス活動」「悪役との格闘や心理的な対決」などなどの話題とのバランスが悪すぎます。

「科学漫画」としての面も見逃せません。ここで「SF」という語を持ち出すと話がとても難しくなると思うので私はそれは避けます。「SF」もまた、「ミステリ」と同じくらいマニアが多くてまたその間での議論なども高度化している(してきた)ため、私のようなど素人があまり手を出さないほうが良いと思うのです。そういうことを抜きにしても、科学的な「謎解き」の楽しみもこの作品には横溢しています。「スプーン曲げ」の謎の解明、「バーチャルアトラクション」のしくみの解明、「のっぺらぼう」の不思議さ、などあちこちに仕掛けられています。これらを本物の自然科学や心理学(或いは民俗学)というよりは、作品世界のなかの「科学法則」「心理法則」によって整合的に解明しようという、そういう「謎解き」の楽しみも持ち合わせています。