ネタバレ『20世紀少年 完全版』検証:「ともだち」の正体に近づくために不可避な認識

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最終更新:2026.02.11

このコンテンツはネタバレです

以下のコンテンツはネタバレです。特にもし假に内容が正しかったとしたら、ものすごいネタバレになります。また假に内容が間違っている場合でも、少しはネタバレになると思います。ネタバレされたくないかたは、ぜひ読まないでください。このページが検索エンジンで表示されて、それがネタバレにならないように、少なくともタイトルにはネタバレを含まないようにしました。

関係するウェブページ・ブログ等や書籍を中途半端に私は読んでしまいました。その読んで覚えている内容とは重ならないような内容を以下書きます。忘れていたり読んでなかった著作物と一致していたり、或いはそれと正反対の事を書いてしまうかもしれませんが、そのことはもし判明したら可能なら対処するかもしれません。要するに「意図的な盗作」はしないように以下努めます。

このコンテンツは『完全版 20世紀少年』のほうを参照しています

この件に関連して、私が書いている「ネタバレ含『20世紀少年 完全版』検証:教科書体とその周辺(その01)」の最初の3つの節に重要事項が書かれています。3つの節とは「はじめに」「完全版には「教科書体のセリフ」が登場する」「基本的な道具の整備」のことを指します。これに先に軽く目を通してからのほうが良いと思います。なおリンク先のそのページはまだ更新中のものであり、未完成です。

必要に応じて「参考資料:『20世紀少年』全話リスト」を参照してください。

「ともだち」の正体がどれだけの重要度をもつか

浦沢直樹『20世紀少年』は、従来の通常版のときは作品タイトルに「本格科学冒険漫画」と銘打っており、ミステリでもホラーでもSFでもないことを態度で示していました。また普通程度にミステリに馴染んでいるような読者であれば、従来の通常版での「登場少年紹介」というコーナーが「あまりにフェアでない」内容であったことからして、「これはミステリとして読んではいけない」という状況を瞬時に理解し、そういう方向での期待をしなかったと思われます。私はそうでした。

ちなみに「マンガ」ではなく「漫画」という表記が使用されたのは、浦沢直樹氏の主張や好みのようですが、その辺りのことは私はよく知らないので、「漫画」のほうを以下なるべく使います。

そもそもこの作品を、純化された特定ジャンルの作物さくぶつだと思ってはいけないのでしょう。ロックミュージックだって、ジャンルの細分化が起こる時代より前の作品群の方が普通は楽しいでしょう?漫画だってきっとそうです。たとえば作家の奥泉光氏の初期作品(例:『吾輩は猫である殺人事件』『葦と百合』『グランド・ミステリー』)に対して「ミステリと思って読んだのに全く失望した」という感想を述べる人はあまり居ないでしょう(少し居ます)。「ミステリの意匠」などしょせんは売れるための手段と割り切って書かれた(という作家の自己宣伝もあまり真に受けないほうが良いでしょうが)という、たくらみのもっと深い小説として読むほうが面白いわけです。漫画でもきっとそうです。

しかしそれでも読者の少なからずは「犯人捜し」に存外熱中していたようです。つまり、特に最終話に対して「犯人捜しという点では(点でも)失望した」という感想を持った読者がどうも多かったようです。その理由の一部は私には推定できます。それは、物語の途中までは主な登場人物たちも「犯人捜し」に熱心だったから、というものです。説明します。

『20世紀少年』は、最初のほうでは登場人物たちが「犯人は誰だ?」という関心をもち事件に深入りしていきます。犯人が誰であるにせよ自分の知っている奴に違いない、と感じているからです。そのうち、犯人捜しより事件を防止し人々を救うことのほうが重要になってきて、2000年12月31日の血のおおみそかでは特にそのように行動します。しかし14年経って2015年1月2日になってみると、重要容疑者は一緒に行動していた者であったことが判明します。そこでみんなで集まって「反省会」を開いたかどうかは不明ですが、ともかくここでみんなは「血のおおみそかでは内部にスパイが居た」「そのせいで全部大失敗だった」「敵に仕掛けられたすべての罠にまんまとはまった」ことを痛切に悟ったはずです。だからだと思いますが、その後主な登場人物たちは「身内にスパイが紛れ込んでいないか」ということに非常に神経を使うようになります。なのでそういう意味での「犯人捜し」は登場人物たちにとって切実に重要なものであったことは確かです。

「犯人が死んだと思っていたけど実はどうも生きているのではないか?」という疑惑が物語の後半から湧きおこってきて、そのことで「犯人捜し」の活動も復活したようにも見えます。ただ「実は犯人は生きていたのか、それとも別人が犯人になり替わったのかは不明であるにせよ、とにかく今は危険な組織にリーダーが再び君臨している」と判明した時点からは、登場人物はそこまで犯人捜しに重点を置かなくなったように見えます。

もう一つ在るのは、「カンナの父親捜し」という関心でした。この事件の「犯人」は高い確率で「カンナの血縁上の父親」であると思われていました。カンナの父親を突き止めることと犯人捜しをすることとが重なっている、と登場人物に思われていたわけです。カンナ自身は自分の父親捜しにそこまで熱中はしなかったようですが、それでも、まったく無関心を貫いたと言い切ることも難しい気がします。何しろカンナの記憶のなかに「父親らしき人物の顔」が充分しっかり残ってしまっているのです。確かにカンナはともだち風の男に「自分は父親の顔をよく覚えていない」と言っていましたが、それよりも、誰も居ないところで記憶をまさぐっているとき「嘘?あの顔がお父さん?」と独り言を言っていてそちらのほうが信憑性が高いと言えます。なので、記憶に残るその顔の人物が「犯人」であるかないかを全く気にしないことは難しかったでしょう。そして、そのことと関連して「キリコを(言わば)陥れた夫(カンナの父親)は誰か?」という関心も高まってきました。キリコと近しい位置に置かれた登場人物がそういう方面から、結果的に「犯人捜し」に近いような関心を再び持つようになったとは言えるわけです。

読者が「犯人捜し」に夢中になってもおかしくないのは、「容疑者たちの過去(のトラウマ)」「容疑者たちの心理」に関係する描写にけっこうな紙幅が費やされていた件も理由として挙げられます。重要容疑者たちの過去の行動・心理・トラウマについてこれだけ知ってしまえば、「事件の真相」に関心を全くもたないことは難しいでしょう。そして「真相」が言わば「心理学的」「精神医学的」に解き明かされることを期待する読者も多かったことでしょう。ミステリとしてというよりは、一種の心理小説として、読者の関心をひきつける作品だったというわけです。

とは言え、物語全体からした時「犯人捜し」「真相の究明」がすべてではないこともあまりにも明らかです。少なくとも「冒険」とか「活劇」のような面が重要な一部であることは間違いありません。そうでなければ「巨大ロボットの開発」「脱獄」「カジノ潰し(?)」「マフィアとの協力工作」「関所破り」「独裁政権へのレジスタンス活動」「悪役との格闘や心理的な対決」などなどの話題とのバランスが悪すぎます。

「科学漫画」としての面も見逃せません。ここで「SF」という語を持ち出すと話がとても難しくなると思うので私はそれは避けます。「SF」もまた、「ミステリ」と同じくらいマニアが多くてまたその間での議論なども高度化している(してきた)ため、私のようなど素人があまり手を出さないほうが良いと思うのです。そういうことを抜きにしても、科学的な「謎解き」の楽しみもこの作品には横溢しています。「スプーン曲げ」の謎の解明、「バーチャルアトラクション」のしくみの解明、「のっぺらぼう」の不思議さ、などあちこちに仕掛けられています。これらを本物の自然科学や心理学(或いは民俗学)というよりは、作品世界のなかの「科学法則」「心理法則」によって整合的に解明しようという、そういう「謎解き」の楽しみも持ち合わせています。

「ともだちの正体」という話題が、この作品の中でどのような位置を占めるのかについて、ここまで背景的な話を提示してきました。それでは、いよいよその話題のために必要な、「たった一つの話」とそれに関連する話をここからします。「たった一つ」なのは、ほとんどの事柄が私にはまだ充分に判っていないからです。

カツマタ少年の登場

従来の通常版では最終話まで読んだ読者の中には「カツマタって誰だよ?」と感じた人が少なくなかったようです。とは言え、それはさすがに「読んでいなさすぎ」か「人の名前の記憶力悪すぎ」だと言ってよいでしょう。ただ言えることは「これがカツマタの顔である」というふうに明示された描写は無かったということです。大人のカツマタはまた別ですが、「少年時代のカツマタの顔はこうです」と明示された描写は無かったということが言えます。そこでまずカツマタ少年の姿が登場したシーンを少し検討していきます。

私が覚えている限り、カツマタ少年が初めて本格的に(首から上の)「姿」を現したのは通算だと第107話「顔のない少年」の回です。この段階では、この少年をカツマタだと見なすことは読者には不可能ではないにしても、証拠が少し不足しすぎています。要するに保留するしか在りません。

初登場のカツマタ少年はお面をかぶっていませんでした。これはまあ言ってみれば作者が読者に仕掛けたトリックの一つだった、ともなります。そのくらいに多くの読者は、少年時代のカツマタと言えばお面をかぶった少年であるという固定観念をたぶん植えつけられています。またトリックであろうとなかろうと、いろいろな想像を許す余地が生まれてきます。たとえばカツマタはここでナショナルキッドのお面をかぶったサダキヨと初めて知り合い、その影響で自分も同じお面をかぶるようになる、という想像が許されています。カツマタが他人の影響を受けやすく、他人の模倣をするのを好む少年だったこと、大人になっても他人のマネを好んでしていたことはのちの物語からも無理なく想像できます。まあ、それは「可能な想像」の領域になるので一応措いておきましょう。

以下はこの少年をカツマタだと判断しないまま、判るまでは「謎の少年」として考察をしていきます。

カツマタ(「謎の少年」)とサダキヨの出会いは、したがって、もちろんケンヂたちの秘密基地の中でだったわけですが、その出会いの描写は、完全版での作品内ルールからして、「誰かの回想」たとえば「サダキヨの回想」ではありません。絶対に違います。サダキヨの回想なら完全版の場合セリフが教科書体になるはずです。しかしこの場面のセリフは通常設定の書体です。だからこれは過去の事実の単なる描写です。そして長方形の枠内にナレーションがやや細い明朝体で書かれていますから、文言の内容を考慮すると「サダキヨのナレーション」が正解です。つまり描かれた絵で提示された事実が起こった時よりあとの時点からのナレーションというわけです。絵とナレーションの間には時間的なズレが在るわけです。こういうタイプの場面は他にもこの作品の中には実にたくさん見られ、まったく普通のことです。そして他の解釈はおそらくまず無理です。なぜこうなるかと想像すると、このシーンはサダキヨが小泉響子に過去の出来事を説明したというその説明行為の描写とは違う、ということだと思います。説明行為の描写ではなく、あくまでそこで説明された内容を過去の事実の描写としてあらためて描き直しているということだと思います。ですからたとえばこの内容がサダキヨの「妄想」である、ということは断じてないわけです。あくまで絵や風船フキダシの内容は過去の事実そのものだというわけです。

この段階では多くの事柄が不明のままですので、読者は保留しつつ読み進めていくことになります。しかしこの数話先まで読んだ程度でも、かなりいろいろな事柄が推測できるようになります。サダキヨが秘密基地で出会い、友達になってくれるかとサダキヨが頼んだこの謎の少年は、普通ならば5年3組関口先生のクラスの児童ではありません。もし3組の児童ならば、少し先まで読めばサダキヨの記憶力は数字・人の名前と顔など全方位に渡っていることが判りますから、この謎の少年の名前と顔はましてや当時ならまず絶対に覚えているはずであり、名前で呼ばずに「君」と呼ぶことは考えにくいのです。サダキヨはこの謎の少年の名前を知らなかった。したがって、謎の少年は5年3組の児童では普通ならありえない。そのように確度の高い推測が可能になります。数話読み進めた段階だけでもそれは可能です。

先ほども述べたように、サダキヨと謎の少年との出会いは「過去の単なる事実」として描写され、事後的な観点からのサダキヨのナレーションが付いていました。その描写がそのまま連続した状態で、サダキヨが関口先生に「この夏休みに友達ができた」ことを手紙で報告しています。したがって、作者が何か描写上のインチキでもしない限り、その出来た友達というのはくだんの謎の少年であることになります。その手紙の重要な箇所はナレーションの長方形枠で隠されていますが、よほどのことが無い限り、その隠れた箇所をサダキヨは小泉響子に(2014年に)語っている、と判断できます。つまり、サダキヨと40年以上「友達」であり、「彼はサダキヨのことを何でも知っている一方で、サダキヨはその彼のことを何も知らな」くて、サダキヨのことを奴隷のように扱い、小泉に「そんなの友達じゃないと思う」とためらいがちに判定されたその「友達」というのは、謎の少年のことであり、それは5年3組の生徒ではなかった何者かである、ということになります。ちょっと、そうとしか読みようがありません。

ですから、この時点ですでに、その「サダキヨを40年間奴隷のように扱ってきた」友達もどきは、フクベエでないという推察が多くの読者のなかに生まれえます。この時点では読者はフクベエの苗字も判りませんし、フクベエ少年が5年3組かどうかも確証が在りません。判っているのは、「ケンヂがフクベエだと認識した男」が「1997年に、6年3組のときの担任の関口先生を囲む同窓会」に現れたということと、もしバーチャルアトラクションが「ともだちの嘘」まみれでなければ、その同窓会に現れた男と似た顔の少年が、ケンヂたちと一緒に首吊り坂の幽霊を見に「1971年」(つまり6年生の時)に行った、ということまでです。ただ「ケンヂがフクベエだと認識した男」は、ビルから落ちる前の時点で、サダキヨに対して「お前は友達じゃない」といった言葉を昔吐いた、とケンヂに言っていたな、と読者はここで思い出すかもしれません。そして「しかしこの謎の少年はフクベエではなさそうだ」と思うということです。で、バーチャルの件については、読者はのちにその一部は「ともだちの嘘」であり、実際には肝だめしは「1970年」(つまり5年生の時)だったことは判ります。しかしそれ以上の事はもう少し先にならないと判りません。ただ多くの読者はこの時点で「同窓会に現れた男」はフクベエだと無根拠に信じていますから、「関口先生のクラスだったはずだ」と思ってもいるはずです。だとすると、その不確かな状況で「サダキヨと秘密基地で友達になった」「40年もの間サダキヨを奴隷のように扱ってきた」者は、假に「フクベエがサダキヨに“お前なんか友達じゃない”と言っていた」としても、それでもフクベエではない、と偶然正しく理解することに、いったんはなるわけです。読者の多くが誤解するようになるのは、ずっとあとになってフクベエの少年時代の事実が次々と明るみになってからです。

タイトルの「顔のない少年」はダブルミーニングであったとも言えます。作者はそういう仕掛けは好むようなので、充分ありうる推定です。一方では遠足でちゃんと顔が写っている写真が無いというサダキヨのことを指しています。他方で、作品内でわざわざ顔の部分が判らないように描かれている、この謎の少年のことを指してもいると言えます。

「ともだち」の誕生

「“ともだち”の誕生」という表現は、「ともだち」は理科室で“生まれた”だの、“死んだ”だのという山根の語りをどうしても思わせます。ただ私は理科室関係の事柄はまだあまりよく理解できていない気がしていますので、その関係の事柄をここでは指しません。ここでの「“ともだち”の誕生」というのは、サダキヨにフクベエが「自分はフクベエでもハットリでもなく“ともだち”だ」と秘密基地にて宣言した瞬間のことを指すことにします。それは第171話「虹のつけ根」のラストにおいてでした。

この「自分は“ともだち”だ」宣言、そしてサダキヨとフクベエとの出会いというのはほかならぬ「1969年」である、…そのように作者によって、言わば高らかに宣言された回でもありました。

この時点以降でいろいろな事がようやく判明します。まず、この第171話「虹のつけ根」において、くだんの謎の少年が少なくともフクベエでないことを、第107話「顔のない少年」の回の時よりもはるかに確実な証拠に基づいて、読者は一挙に理解できることになります。なぜなら、1969年にフクベエに「友達になってくれるか」と頼んだサダキヨが、1970年に再度フクベエに「友達になってくれるか」と頼むことも不自然なら、その相手を「君」と呼ぶことも不自然だからです。1970年にサダキヨが友達になってくれるかと尋ね、その後40年近くの期間サダキヨが奴隷のように扱われてきたと認識している相手は、少なくともフクベエではありませんでした。今やその事がかなりはっきりします。第107話「顔のない少年」の回では、サダキヨが友達になった相手が「5年3組」の児童ではない、というのは、記憶力の良いサダキヨが相手の名前を全く口にせずに「君」と呼んでいたことからの推測でした。しかし第171話「虹のつけ根」の回でその推測がより一層確実にできるようになりました。

この回はサダキヨとフクベエの出会いの回だと呼んでよいように思えますが、正確に言うとフクベエもサダキヨもお互いの名前と顔を既に知っていました。ただ顔と名前を知っていただけであり話をしたことが無かった、というそういう状況での出来事でした。この出会いに至るまでの一連の描写には、きわめて強い特徴が見いだせるのですが、まだ私も充分に理解しておりません。それは判る範囲で後述します。

さてこの回以降数話の間に判ることが在ります。それは、2014年にサダキヨが小泉響子を連れて行った「ともだち博物館」は、フクベエの生家をモデルに作ったものではないことです。「ともだち博物館」はサダキヨを40年近く奴隷のように扱ってきた「謎の少年」の生家をモデルにした疑いが強いでしょう。いくつか傍証が在りますが、いちばん強いのは「フクベエの生家には大量のお面がきっと無かった」と思われるのに、「ともだち博物館のモデルとなった家には大量のお面が在る」ことです。周知のように、第172話「本当の友達」において、フクベエはサダキヨに「お前のお面を貸せよ」と強引に要求します。もしその理由の一つが「自分はナショナルキッドのお面を持っていない」からだとしたら、先の傍証が確度が急上昇します。「ともだち博物館のモデルとなった家」にはいくらでもお面が在ったし、ナショナルキッドのお面に似たものも、鉄人28号のお面の斜め上、まぼろし探偵のお面の上に、少し見えています。この家がもしフクベエの家なら、サダキヨに嫌がらせをするためでもなければ、「お面貸せよ」という要求は不自然になります。

「ともだち博物館」は、フクベエの生家をモデルに作ったものではないという假説の傍証は、少し弱いですが他にもいろいろ在るので、読者は少なくともこの件の認識を保留にしたくなる、とは言えます。少し弱い傍証としては、

といった点を挙げることができます。

また、例の「謎の少年」が何者なのかはまだまだ不明のままですし、下手をするとこの少年が「カツマタ」という名前であることの証拠がこれ以降も出てこない可能性すら在ります。ただ、生物関係の図鑑が目立つ勉強部屋が「ともだち博物館」に在ることを知った読者は「理科の実験大好きだったカツマタ君」「フナの解剖を楽しみにしていたカツマタ君」という言い回しを思い出して、「ひょっとしてカツマタ君の部屋?」と思ったりするかもしれません。そうやって少しずつ「カツマタかも」という気分を盛り上げていくように話が進んでいくと言えるでしょう。ただしこの「噂話」に登場する「理科の実験大好きだった」少年が本当にカツマタ君だったかはすこぶる疑わしいということもここで言っておきます。少なくとも山根が副所長の戸倉に語った、「理科室でよく遊んだ理科の実験大好きだった少年の幽霊」は、まあまず間違いなくフクベエのことを指しています。カツマタは無関係です。それは、物語での山根とフクベエとの関係が次々と描かれるにつれて、読者が確信できるように、ちゃんとなっています。

フクベエとサダキヨ

少し意外と思われることを述べます。「健全な常識」に拠って言えることですがサダキヨはフクベエのことを小学生当時も、結局は友達だとは思わなかったことが判ります。結局は友達ではないと思ったからこそフクベエに無断でサダキヨは転校したと言ってよいです。2014年に、サダキヨは小泉響子に「謎の少年」について説明しながらだんだん怒りがこみ上げてきて、小泉の発言も触媒になって「あんな奴は友達ではない」という認識に少しずつ傾いていきますが、フクベエに対しては違います。万博に行けなくなりナショナルキッドのお面を取り上げられ、首吊り坂のテルテルボウズ作りにむりやり協力させられた一連の過程のどこかで、サダキヨはフクベエのことを言わば「見放した」と言ってよいと思います。何十年も経ってから「あいつは本当に友達だったのだろうか」などとフクベエに対しては懊悩などしません。少年時代のサダキヨはそこまで感覚が鈍磨などしていません。ちゃんと健全な判断力をもっています。これはエビデンスによって論じる事柄というよりは、作品の全体をばっと鳥瞰したときに出てくる「印象」です。「健全な常識」というあやしげなものを根拠にした「印象」です。

この点について完全版を読むと、もう少し進んだ想像ができるようになります。「完全版」というものを私は「ケンヂだけが正しく真実を悟った物語」だと無根拠に判断しました。そう判断しないとおかしいという内容をケンヂは完全版ではべらべら喋ったからです。それにバッヂ万引事件の真相をケンヂ以外の登場人物はほとんど知りません。そういった事により、ケンヂの喋った内容が正しいということを前提にします。そうすると、「ともだちの正体であるカツマタ君は、フクベエ以上にフクベエになりきった」というしかたで中学生以降自己形成をしていくことになります。そして中学以降のカツマタはサダキヨと交流を(細々と?)続けています。すると二人の関係は当然昔の再現になります。つまり「フクベエ以上にフクベエになりきった」カツマタに、サダキヨはその後40年に渡って精神的虐待をされ続け、奴隷扱いをされていきます。それに対してサダキヨは決定的な対抗意識をもつことがなかなかできないでいました。この節のタイトルに「フクベエとサダキヨ」と私は書きましたが、実際には「フクベエ以上にフクベエ的なカツマタと、サダキヨ」という関係が、ストーリーにほとんど描写されない状態で続いてきたその結果が読者に与えられた物語だったというわけです。そのように私は現時点では読んでいます。

ともだちの写っている写真、キリコの写っている写真

さてこの話題に関連して、「サダキヨはどこまで真相をつかんでいたのだろうか?」を少し考えてみたいと思います。というのは、少し前の時期までは私は「サダキヨは“カツマタと思われる者”に完膚なきまで騙されていた」と考えていたのですが、最近になって「そうでもなさそうだ」と思うようになったからです。それを書きます。少しとりとめのない話になると思います。

まず2014年に、「ともだち博物館」で小泉響子に見せた「写真」はほんとうに「ともだち」の写っている写真だったのでしょうか。いやそれ以前に、サダキヨは「ともだち」の正体を知っているのでしょうか?それとも騙されたり、勘違いしていたのでしょうか?

サダキヨは1970年の夏休みにフクベエの家の中におそらく何度もあがっていますから、「ともだち」の生家を忠実に再現したというともだち博物館がフクベエの生家とは内装が違うことは判っているはずです。したがって、サダキヨは「フクベエは“ともだち”ではない」ことは知っています。ただしそれは正確に言えば「少年時代のフクベエが大人になって“ともだち”になったわけではない」ことを知っているということです。さてサダキヨは「謎の少年」(私の推測ではカツマタ)のことを何も知らないのに、謎の少年はサダキヨのことを何でも知っている、というふうに、ほとんど叫ぶように小泉に言っていました。サダキヨは謎の少年と40年近く友達かどうかも判らない関係を持続していましたが、「大人になってからの謎の少年」の顔を知らないという可能性が充分に残っています。その一方で、キリコの証言に拠ると「ともだち」は同い年ぐらいの友達と話しているかのように誰かと頻繁に連絡を取り合っていたようですが、それがすべて「電話」だけの連絡だった可能性も在ります。つまりこの「ともだちの連絡相手(私の推測ではサダキヨ)」が「ともだち」の顔を全然見たことが無い可能性が在るのです。

さて、それはそれとしてサダキヨは1970年夏に「謎の少年」と出会いましたが、その少年の顔はもちろん見えています。単に読者にはわからないように濃い影が覆うようにして描かれていただけです。で、サダキヨはフクベエの顔ももちろん知っています。なので、ここでサダキヨが「少年時代の“ともだち”の顔」は知っていて、その写った写真も一発で判るというのは、かなり可能性の高い事柄になっています。サダキヨが判っているかどうかが読者に不明なのは「大人になってからの“ともだち”の顔」のほうです。逆に言えば、ここでもし読者が「大人のサダキヨは大人になった“ともだち”の顔も当然知っているだろう」と考えてしまうなら、それはもしかすると作者に誤誘導されているかもしれませんよ、ということになると私は思います。ともかくこの時点ではいろいろなことがまだ不確かです。

サダキヨやケンヂたちと同じ5年3組の遠足の写真に、少年時代のともだちは写っていました。ともだちがもしフクベエならサダキヨと同じクラスだったことになります。5年3組のときに関口先生は「佐田君がこの夏休みで転校しました」と言っていて、そのクラスにフクベエもいました。そしてケンヂなど何人かの児童はサダキヨと同じクラスでしたから、フクベエは5年3組は確定です。ついでに本筋から逸れますけど、フクベエは4年3組と6年3組も確実です。フクベエは3年間ケンヂとクラスは一緒でした。同じクラスですから同時に写っている写真があってもおかしくありません。それに対してカツマタは5年4組でした。いや、これは非常に不正確な言い方でした。正しくは、ナショナルキッドのお面をかぶっていて、バッヂ万引事件の容疑者になってしまいジジババのババに責められた少年は、5年4組でした。意地の悪いフクベエがそう言ってババにチクり、山根も否定しなかったのですから、嘘でないことは無論ですがフクベエの勘違いということもちょっと在りえません。とすると普通なら、4組の万引冤罪のナショナルキッドが、遠足の3組の写真に何枚も写ることは、少し難しいのではないか、と思うところです。でも不可能でもないですし、もしこのナショナルキッドが「謎の少年」と同一人物なら、そのためにサダキヨの写っている写真にも頻繁に写っていた、というふうに言えます。きっとどうせ同じクラスの友達など居なかったでしょうし。ともかくそういうわけで、「謎の少年」と物語の後半でたびたび登場するナショナルキッドお面の少年(のうちサダキヨでない方)とが同一人物かも、と読者は想像したくなるように、描かれています。

サダキヨはなぜ小泉に「ともだちの写っている写真」を見せたのでしょうか。そしてなぜ、どうせなら写真もモンちゃんメモと一緒に小泉にサダキヨは託そうとしなかったのでしょうか。写真を見せられていなければ、或いは逆に、写真をモンちゃんメモと一緒に渡されていれば、小泉響子は2015年のエロイム・エッサイムズの新年ライブには行けたはずです。なぜそういうふうに展開しなかったのでしょうか?もちろんサダキヨはこの時点ではまさかヨシツネなどと再会したり、ここで小泉に見せたり話したりした内容がヨシツネやユキジに伝わるなどと期待することはまず絶対無理でした。でも小泉の命の危険の可能性が高まってしまうことくらいは予想できるはずです。その点について可能性ならいろいろ考えることができますが、この時点の小泉はドリームナビゲーターがいつ拉致しに来るかが時間の問題であり、小泉に写真ごと渡したらそのほうが小泉の命の危険が一層在りました。では逆になぜ見せてしまったのかというと、やはり記憶にだけはとどめておいて最後の最後の生き証人になって欲しかったのかもしれません。何しろもうサダキヨは他の部屋にはガソリンをまき散らしたあとであり、博物館への放火寸前という状態でした。それに加えて、小泉はバーチャルアトラクションで「ハットリくんのお面」少年のお面をはぎとって「ともだちの素顔」を見た、と思い込んでしまいましたがそこに在ったのは「大人のサダキヨ」の顔でした。なので少年時代とは言え「ともだちの本当の顔」を小泉に見せて真実を知って欲しかったという点もきっと在ったことでしょう。この場合、サダキヨが「少年時代の“ともだち”の顔」を知っているはずだ、という前述の私の主張が重要になってくるわけです。そして少しあとになって、ともだちは最初の頃は、特にケンヂに「サダキヨが怪しい」とずっと思い込ませようと誘導してきたことも読者には判ってくるので、このサダキヨの行動に「自分の無実」を訴えようとする意志を感じることもできます。

さてその点と関連して、サダキヨはどこまでモンちゃんに「真実」を語ったのでしょうか。そもそもサダキヨは本当に「真実」を語ることができたのでしょうか?先にも述べたとおり、「少年時代のフクベエが大人になって“ともだち”になったわけではない」ことをサダキヨは知っていました。だとすると、モンちゃんに語った内容もその路線だったかもしれません。そこは判らない点が残ります。ただもし読者が「なぜモンちゃんが殺されることになったのだろう。モンちゃんはサダキヨから聞いて“ともだちの正体はフクベエだ”と知ってしまったから殺されることになったのだろう」と考えるとしたら、その点では読者は作者の誤誘導にまんまとひっかかった、とは言えます。

ここで併せて、それらの写真と一緒にキリコの写真が在ったことを気にとめておいて良いでしょう。キリコに独特の感情を抱いている者はたくさん登場していました。「ともだち」は、キリコと結婚関係に入るために諸星を「邪魔なんだ」と長髪の殺し屋に二回言い、「絶交」命令を出しました。「計略のため」に必ずしも必要というだけではない「私情」のようなものが強く感じられる場面でした。そこまでして諸星を殺さないといけないようにはどうも思えなくて、一種の嫉妬のようなものの介在を感じるわけです。そのともだちの生家に、小学校の遠足の写真と一緒にキリコの写真がなぜかしっかり保存されていたわけです。さてかなりあとの方になってですが、公園のベンチでキリコが読書しているところを、フクベエ・山根・ナショナルキッドのサダキヨでない方の少年の3人がクククと通り過ぎたとき、フクベエはキリコに対してよからぬ欲望をあらわにしたような表情を見せ、山根もまたしまりのない顔をしていました。そしてナショナルキッドは素顔の表情は判らないのですが、「クククッ」という不気味な笑い声をあげており、「ククッ」と笑う山根や、いやらしい顔つきのフクベエと、歩調を合わせているように見受けられます。キリコはそれに対して「嫌だ」という顔をしていました。そしてフクベエの表情が目に入ると見るのをもうやめて、読書に戻ります。ちなみに唯一の生物部員だった山根はその後、フナの解剖が理科の授業で行なわれた頃、何を考えていたのか理科室の熱帯魚に「キリコ」と名づけました。山根もキリコに何か独特の薄気味悪い感情を抱いていたことは間違いありません。で、さきほど述べたように、「ともだち」は山根でないことはもちろんですが、フクベエでもないわけです。だいぶ物語の最後のほうではありますがここに至って、キリコに執着していた「ともだち」と、ナショナルキッドのサダキヨでない方の少年とが、同一人物かもしれないという疑いを読者はついにもつことができるようになります。そしてともだち博物館のこの場面に遡って考えれば、そもそもどうやって小学校5年生のときに「ともだち」はキリコの生写真を入手できたのか、と考えるだけでもその方向性を考えないことは難しいのです。

ともだち博物館の出来事に関連して、今のうちに考察しておいたほうが良いだろう事柄を一通り書き連ねてみました。これらは「ともだちの正体」を考えようというときに、きっと役立つそして不可欠の認識になってくることを、私は信じています。

フクベエの視点

第171話「虹のつけ根」には前述したように、描写に強い特徴が見いだせます。その意義が私にはまだ全く判っていませんが、しかし一通り説明します。「ともだちの正体」という話題との関連が深い可能性も在ります。

第171話「虹のつけ根」には、まず気づく特徴が在ります。それは細い明朝体で書かれた「内面」のセリフが、長方形の枠に入っていないことです。その理由はもしかすると非常に単純なものかもしれません。誰の内面かは最初はまだ明示されていないこのセリフたちはなかなか雄弁であり、コマの中のけっこうな面積をとります。これを全部長方形の枠に入れたら、絵がかなり隠れてしまいます。それが理由で、枠無しなのかもしれません。ともあれ、少し気になります。

より重要な特徴は、普通の注意力で読んでいる読者だと徐々に気づくだろうと思います。それは「誰か特定人物の視点で描かれている」というものです。視点という語はどうやら多義語のようですが、ここでの語用規則は「誰かの視点で描かれている。したがって、その人物は絵に登場しない」という意味での視点です。早い人だと、虹について何やら御託を並べている少年の影だけが描かれている箇所で気づくかもしれません。つまりその影の本体である人物の視点で描かれているため、人物は絵に描かれず影だけが描かれるというわけです。その後も「内面」を述べているだろう人物がなかなか絵に描かれないことが気づきやすくなっています。その誰かの自宅の場面になり、その人物が声を発するようになるあたりで、さらに気づきやすくなります。それは声を発するセリフのフキダシの「しっぽ」がコマ枠をはみ出して描かれている事実が在るからです。まるでそのセリフを話している人物がコマ枠の外部に居るかのように描かれているのです。そのようなはみだしたフキダシのしっぽが9ヶ所在ります。そのようにしてコマ枠の外部に話者が居ることを充分に示唆しておいて、突然視点が変わります。そこにおいて初めて「少年時代のフクベエ」とおぼしき少年が顔ごと登場し、少しばかり鮮やかな印象をもたらします。

この回は終わり方もまた鮮烈です。前述したように、フクベエが「自分はフクベエでもハットリでもなく“ともだち”だ」と秘密基地にて宣言した瞬間に、横長長方形の枠内に細いゴシック体で「1969年―」と書かれ、二つの効果を生んでいます。

一つは、「自分はフクベエでもハットリでもなく“ともだち”だ」というフクベエのセリフがまさに高らかな「宣言」に聞こえるという効果です。「“ともだち”の誕生」とでも言いたくなるような場面の盛り上がりを産出しているように感じます。

もう一つは、意外性の産出です。第107話「顔のない少年」の記憶をうっすらと保持した状態で臨む読者は、このシーンを「1970年の出来事」「サダキヨがフクベエの小学校に転校してきたあと」「第107話の再現」だと思いながら読んでいることでしょうが、それが最後の最後でどんでん返しに遭うというわけです。ここで混乱して、もう一度第107話を読み返そうというのが、単行本で読んでいる読者の、言わば「正しい読み方」なわけです。

以上のような特徴が観察されました。まだこの意義を私はあまり把握できていません。ただもしかすると「ともだちの正体」という話題と密接に関連しているかもと考え、ここまで書いてきました。

「ともだちの正体」という話題は難しい

完全版の最終話(第265話)「20世紀少年」は、「264話までの話はとても理解できている」と信じて読んできた読者にとって、ちゃぶ台返しとも呼べる内容を含んでいます。その解明のために、十分ではないが必要だろう、と思う内容をここまで書いてきました。

まだとうてい理解したとは言えないのですが、現時点での私のつぶやきとしては「もしフクベエがあのまま大人になるまで生きていたら、ナショナルキッドの少年は出番がきっと無かっただろうな」というものになるでしょう。彼はフクベエに「お前は今日で死にました」と一度は「死亡」宣告を出されたほどです。一応その後もまだ理科室になど一緒に行ったりしていたようですが、フクベエと山根に相手にされている感じはあまりしません。もしフクベエが自分の復讐のために世界征服計画と人類滅亡計画とを実行しようとしたときに、たとえ「消耗品扱い」だとしてもフクベエがこのナショナルキッドを仲間に入れようとする気が、私はどうもしないのです。これが「最初はフクベエがともだちで、その後カツマタが入れ替わった」説に心理的に納得しにくい私の理由であり、つぶやきになります。いずれにせよこの点を闡明するためには、もっともっと全体像をよく見まわした細かい検討が必要になることと思います。今の私はまだそこまでの準備は在りません。