幼児の言語獲得の、汎用性の高いモデル―清水哲郎の著作『医療現場II』に依拠して

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はじめに

少し以前に書いた「母語日本語の語彙を習得するのにどのような段階が有るか」にて、幼児期・漢字未習の段階での語彙獲得という事柄に少し言及した。漢字を習得していないこの段階では、語彙の習得も音声でのものが中心になる。その際の言語獲得全般に関して、清水哲郎『医療現場に臨む哲学II ことばに与る私たち』(勁草書房,2000)(出版社)が関連の有る文献だろうと少し述べた。とは言え、この著作に書かれているのは、コミュニケーションのモデルであって、言語獲得のモデルというわけではない。だが、言語獲得のモデルとして参照することも可能である。また提示されているのは理念的なモデルであるが、それと実証研究との照合がなされているわけではない。だが、どのみち実証は困難であり、部分的な実証しか可能ではない事柄なのだ。言語の獲得を実証研究で解明しようとすれば、それは言語獲得が安定した大人の学習履歴を片端から調べるしかないし、「そうならなかった場合」「別の要因が作用した場合」などとの比較が容易なわけでもない。言語獲得の要因や条件を調べるという万全な実証研究はまず不可能なのだ。清水の提示したモデルは、むしろ「どのような実証研究なら良いのか」という、実証研究に先立つ評価の枠組であると思える。

筆者は、語彙獲得のモデルとしてきわめて素朴である「直示的教示」(直示的定義 - Wikipedia)というコミュニケーションのパターンを、この清水のモデルに組み込むことが可能であることを示したい。そして、その組み込みによって、「直示的教示」或いは「直示的定義」という暗黙の言語獲得モデルを可能にしている条件というものを、明確化してみたい。というのは、語彙の獲得は「直示的教示」によって行われるという理論的仮説だけを承認していて、それが可能になっている「条件」のほうは承認しない、という理論的立場というものも想定可能だからである。たとえば「音声での会話を媒介にしただけでは、語彙のキチンとした獲得などは可能ではない。なぜなら音声での会話というもので話される日本語などはキチンとした日本語ではないからだ」というふうに、「音声での会話」の「文言」を総じて否定的に評価する立場などは、それに該当するだろう。

以下、清水哲郎『医療現場に臨む哲学II ことばに与る私たち』(勁草書房,2000)のうち、第1章「コミュニケーションの射程」、第2章「語彙のネットワーク」、第5章「言葉を交わし得る者である人間」、第6章「共同行為の地平を拓く」の各章を参照したうえで、なるべくそれを生かすようにして、述べてみたい。

「事実と意見とを区別せよ」の要請の前段階というものを包摂可能なモデルである

文章の書き方という内容を大学や一部の小中高で学生・生徒に指導する際に「事実と意見とを区別せよ」という方針が提示・実行されることがままある。特にアメリカはそうであるらしい。その際に、「事実を表す性能の高い語彙」や「意見を表す性能の高い語彙」というものなら成立しうるようにも思えるので、それを中核としてその種の指導ができるのかもしれないとも思える。たとえば「甘いお菓子」「おいしいお菓子」「素晴らしいお菓子」の三つの表現を比較したときに、「甘いお菓子」だと「事実を表す性能が高い」が、他方、「素晴らしいお菓子」だと「意見を表す性能が高い」と言え、「おいしいお菓子」だとそのどちらも可能である両義的な表現である、というふうに位置づけることができる。また場合によっては「甘いお菓子」であるかどうかを解明するために糖分等を測定可能であることや、「おいしいお菓子」「素晴らしいお菓子」であるかどうかもアンケート調査によってならその主張を実証的に行なうことがまあ可能である、…ということを教えることもできるわけだ。で、その場合、当然のことながら「事実を表す性能の高い語彙」や「意見を表す性能の高い語彙」をすでに知っていて多少使うこともできる準備ができていることが前提になっている。さてその際、これらの語彙の獲得はどのような在り方をしているのだろうか、別々なのだろうか、それとも統一的に位置づけることができるだろうか、という問いが可能になる。そして、清水の提示したモデルは「或る程度別々のものとして、しかし統一的に位置づけることができる」ものだと述べ得るのだ。

先回りして説明すると、ここでのポイントになるのが、清水がp48-49でごく簡単にのみ提示する、「ただしさ」の言語ゲームモデルであると筆者は思う。「答はあっている(合っている)」というときの「あっている(合っている)」やその類語の使用がその中核に有るようなコミュニケーションのパターンである。このやり取りのパターンを習得しているために、幼児やそれ以降の段階の子供は、「事実を表す性能の高い語彙」の獲得が可能になっている、と思うのだ。また、このやり取りのパターンを習得するためには、まず「よい(良い・好い・快いなど)」やその類語の使用が中核に有るようなやり取りのパターンを習得していることが前提になるが、その前提段階の習得がされることで「意見を表す性能の高い語彙」の獲得が可能になっている、と思うのだ。「その答は合っている(正しい)」というやり取りが習得されているから、「事実を表しうる語彙」が習得できるのであり、そのやり取りの前提である「それはよい(良い・好い・快いなど)」というやり取りのパターンが習得されているから、「意見を表しうる語彙」の獲得が可能になっている、…というふうにして、この二つが関連付け可能なわけだ。

少し先走った話から開始した。上記の話を把握するためには、まず、清水が提示しているコミュニケーション(そして言語獲得)のモデルの概要を把握する必要があろう。二つの次元の成立が重要である。一つは、「よい」の使用が中核にあるやり取りには、子供のほうの要求の提示から開始する「欲求ゲーム」と呼ばれるものと、大人のほうの要求の提示から開始する「命令ゲーム」と呼ばれるものが有る、ということだ。もう一つは、「二人が相互に向かい合うコミュニケーション」のパターンと、「二人で同じ対象に向き合うコミュニケーション」のパターンとが有る、ということだ。その際、最初のほうの区別次元である「欲求ゲーム」および「命令ゲーム」はともに、その原基的なものは「二人が向かい合うコミュニケーション」のほうに属する。その特殊形である「ただしさの言語ゲーム」もやはり「二人が相互に向かい合うコミュニケーション」のほうに属する。なので、「二人で同じ対象に向き合うコミュニケーション」のパターンのほうは、その言わば派生や応用として把握され習得されることとなるだろう、というわけだ。そういう位置関係に有る。

さて、これで行くと、親子で同じ対象を見て「これは何?」「それはスマホだよ」という「直示的教示(定義)」を行なうやり取りは、原基的なコミュニケーションのパターンからするとかなり派生的なほうだという位置づけになるだろう。これは典型的な「二人で同じ対象に向き合うコミュニケーション」であって、「二人が向かい合うコミュニケーション」という原基的な在り方ではないからだ。また「よい」を巡ったやり取りでもないからだ。このタイプのやり取りは次のようにして位置づけることとしよう。

  1. 子供「これは何?」
  2. 親「それはスマホだよ」
  3. 子供「わかった、スマホだね」(又は以下など。「わかった」「わかった、ありがとう」「ほー」「へー」「ふーん」「あ、ほんとう」などなど)
このようにやり取りのパターンを書き出してみれば、これが清水の言う「欲求ゲーム」の一種と位置づけうることがわかる。「欲求ゲーム」とはたとえば次のようなものだ。やり取りの終了・完結が、子供の側から出される「よい」の類似表現によってであることが重要だ。仮に上記のモデルのように「へー」「ふーん」という応答であっても、相手の発話を受け止めたという言わば「承認」には最低限なっているので、「よい」の類似表現に含めても良いと筆者は思うのだ。p114。

  1. 「おかあさん、ここが痛いよう!」
  2. 「よしよし、ちょっと見せてご覧!まあ膝小僧をすりむいたのね。じゃあお薬をつけましょうね。」
  3. ……
  4. 「はい、これでいいでしょう。ほれ痛いの痛いの飛んでいけ!これでどうかな?」
  5. 「うん、よくなった。ありがとう!」

ただし、清水の言う「欲求ゲーム」は「二人が向かい合うコミュニケーション」のほうが基本的な形態であり、「二人で同じ対象に向き合うコミュニケーション」というほうはその派生形ということになろう。とは言え、「直示的教示(定義)」を行なうやり取りのパターンがいったん定着・獲得されてしまえば、反対に「二人が向かい合うコミュニケーション」における「それって何?」ゲームのほうこそが派生形であるようにも位置づけうる。少し先走った話になるだろうが、これも書いておこう。「二人で共通の対象を相手にしたやり取り」が習得されたのちになら、次のようなやり取りもまた可能だろうと思う。

  1. 親「今日は祝日だ」
  2. 子供「“しゅくじつ”って何?」
  3. 親「学校や会社が日曜日じゃなくてもお休みになる日のことだよ」
  4. 子供「わかった、お休みの日だね」(又は以下など。「わかった」「わかった、ありがとう」「ほー」「へー」「ふーん」「あ、ほんとう」などなど)

このやり取りは「直示的教示(定義)」ではないだろう。だが、「この語はどういう意味?」といったやり取りもまた、その延長線上に想定することが可能だ。また、少なからぬ語彙はそのような形で習得・獲得されるほかなかろう。その獲得もまた、比較的原初的なコミュニケーションのパターンの延長として可能になるだろう、…と、これは清水の言っていることではないが、筆者は言えると思う。

話を少し清水の提示したものに戻す。「欲求ゲーム」だけではなく、清水の提示したもう一つの原基的モデルである「命令ゲーム」もまた、「直示的教示(定義)」を通じた語彙の獲得に関与可能である。次のようにしてだ。

  1. 親「これ、なーんだ?」
  2. 子供「それはDVDだよ」
  3. 親「その通り。よく知ってたねえ」

このコミュニケーションのパターンは、p42での清水の説明によると親の依頼ないし命令に応えて行為をし、親から誉められ、または感謝されるというパターンということになる。その一種として「これは何だろう?」をめぐるやり取りも想定可能であり、その終了・完結は「何らかの評価」または「正解の提示」によってである、ということになるだろう、というわけだ。上記の会話例はすでに、単なる「命令ゲーム」一般のものではなく、その派生形である「ただしさをめぐるゲーム」でのものになってしまっているが、そのことに違和感が無い。つまり「その通り」(または「正解」「合ってる」など)という発話が、「誉める」ことの一種であることで成立しているわけだ。ただし「正解」が子供の側から出なかった場合や誤っていた場合であっても、その応答自体はむろん是認・承認される。その承認のしるしとして「正解の提示」が行われるということになろう。ただしその場合は、「正解の提示」でやり取りが終了・完結されるのではなく、子供がその正解を「わかった」「へー」などというふうに承認することで終了・完結することにもなろう。

ここまでは「事実を表しうる語彙」の獲得の話題であった。ここまでの理路からして想像がつくように、この獲得と「意見を表しうる語彙」の獲得は、密接な関係をもっている。「わかった」「その通り」「よく知ってたねえ」などの「承認」に関する発話というものが理解され習得されていること、それ自体が、「意見を表しうる語彙」の獲得の一部を構成しているのだ。「意見を表しうる語彙」は、たとえば次のような場面で、その中心となるだろう。

  1. 親「おうちに帰ったときは、おくつをそろえてね」
  2. 子供「はーい」
  3. 親「よくできました。いい子だね」

こういったタイプの、主に躾をめぐるやり取りを通じて、「いい子」「よくできました」などといった語彙や語句を子供は習得・獲得することになる。そして、それらを理解し習得していることが、「事実を表しうる語彙」の獲得場面でもおおむね必要となっているというしくみなのだ。その理解というものには、大きく言って二つのものが想定できる。一つは「わかりました」「よくできました」「ありがとう」「はい」「うん」などといった発話群が、表現は多様であっても、そのコミュニケーション上の機能はおおむね類似しているという理解である。もう一つは、コミュニケーションの理解というのは、その個々の発話や文言の理解であるという以前に、まずコミュニケーションのパターンの全体像の理解が先行しているだろう、というそういう理解である。これらの点は清水も折にふれて言及している論点なのであるが、筆者もそれに賛同する。子供は、一つ一つの単語や表現語句を理解するという以上に、まずコミュニケーションのパターンやそのなかでの位置づけの理解をすることが必要になるのである。単語や語句の理解はそれあってのものであることも特に幼児期だと、多いだろう。

「直示的教示(または定義)」を通じた語彙習得というのは、結局のところ知覚可能なタイプの事象にのみ通用する経路である。しかもそのすべてとは限らない。たとえば筆者が書いた「子供の語彙習得を俯瞰する」で提示した「不特定動作動詞」(例「調べる」「練習する」「扱う」)のようなものは、「直示的教示(または定義)」のみで習得・獲得できるとはとうてい思われない。その語の指示対象が知覚可能な対象や現象であっても、そのなかのうちのどれがその不特定動作動詞の適用対象になるのかの基準のほうが知覚可能な現象ではないからだ。これらはさまざまな場面や文脈での用法を数多く経験することで初めて使えるようになる語彙なのだと思う。まして、そもそも知覚可能な対象を指示対象としてもたない語も当然多いわけだ。だが、そういったタイプの「直示的教示(または定義)」を通じてでは獲得できないタイプの語彙であっても、相手の音声発話や照合可能な文字列を指し示すことで「その(この)○○ってどういう意味?」といったやり取りに持ち込むことならできる。あるいはそのコミュニケーションパターンを習得し終わった子供が、一人で辞典・事典を調べることもゆくゆくは可能になる。そういう語彙獲得のパターンもまた、清水のモデルの延長に想定することが可能なのである。

幼児が習得しないと始まらないような原基的なコミュニケーションのパターンにおいて、要になっていた要素というのは、清水が言う「コミュニケーションの進行に関する合図」であった。たとえば「わかった」とか「ありがとう」とか「はい」と云ったものだ。これらの合図を理解し使用できるようになることがコミュニケーションができるようになることと不可分であり、同時に「意見を表しうる語彙」獲得とも不可分なのであった。それは「よい」とか「ダメ」といった語の類語の使用ができることであり、同時にそれらを含む典型的なやり取りができるようになることでもあった。この点に関して、清水はわりと細かく述べていて、「良い」と「悪い」とが非対称であるらしいという示唆(p44-45)や、「よい」は非記述語だが「ただしい」は記述語である(p49)などの、慎重な注釈も述べられている。倫理学の議論の蓄積を考慮すればきっとそうなるのだろう。だが、筆者はまだそこまで精密な議論には対応できそうにないし、それへのコメントも特に有るわけでもない。できるのは本稿の読者への注意喚起にとどまる。

「意見を表しうる語彙」に関して参考になりそうなものとしては、たとえば筆者の書いた「野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」」で提示した「半側評価語」という概念のあたりの記載も有る。

清水モデルの適用範囲

清水哲郎の著作に提示され、筆者が勝手に補足改訂した上記のような言語獲得のモデルは、主に幼児期の音声でのコミュニケーションに照準したものだ。だから、たとえば小学生以降になって、獲得するべき語彙が漢字ベース・文字列ベースのものに移行したときには、直接にその学習を説明するために採用できるわけではない。ただ、その際に漢和辞典を調べたり、その文字の知識を活用する段にも、幼児期で獲得したコミュニケーションのパターンの理解は当然活用されることになる。派生形としてなら当然使用に耐えるはずのモデルであると思う。

また、学校での音声での授業を理解したり、その他の場面(おけいこごとやその他日常生活)で音声でのコミュニケーションをする際にも、幼児期にコミュニケーションパターンを把握・獲得しておくことが有用・必要ともなるだろう。それが無ければ、フィクションやCMやエンターテイメントでの会話というものも理解できないに違いない。こういうタイプの有用性・必要性をまとめて表すために、筆者は(国語力ではなく)日本語力という語で代表させるようにしている。レポートや記述式試験で求められる「国語力」ではなくて、音声授業の理解や日常生活やフィクションの理解のために必要な「日本語力」のほうのために、幼児期に清水モデルのような体験や獲得をしておくことが重要になるのである。

「音声での会話」の経験や獲得などは、レポートや記述式試験ができるための「国語力」のためには邪魔でしかない、という見解の持ち主もおそらく居ることだろう。「一刻も早く音声でのやり取りから子供を遮断し、文字の書物だけを読ませなければならない、そうでないと正しい日本語が身につかない」というわけだ。だがそこには一理は有るものの、音声でのやり取りを理解し獲得することの意義の見誤りが有る。その点ははっきりさせておく必要が有る。音声でのやり取りでは「国語力」に対して役立たずむしろその「国語力」の養成の時間を奪う存在である、と言いうるのは「漢字の習得」および「文字で提出する文章での文法や語句レベルの習得」に関してである。その点に関しては否定のしようがない。これらは音声での授業やコミュニケーションでは全然つかない能力だ。つまり、授業やその他のコミュニケーションとは別に、子供がどれだけ「文字」「漢字」にふれるか、その機会を作り出せるかだけが、その能力を左右する。だがそれとは別に、「コミュニケーションのパターン」の理解というものもある。これは科学技術の偶然であるが、「コミュニケーションのパターン」の理解というものは圧倒的に音声でのやり取りという聴覚的な水準で習得され、またその理解を洗練されていくものだ。これらは文字や視覚ではあまりつかない能力なのだ。だから文字を読んでだけいても、その能力はあまりつかないし、特に文字を習得する前段階までは音声しか活用のしようが無いのだから尚更だ。その「コミュニケーションのパターン」の理解に関して、特に幼児期に清水が提示するようなコミュニケーションのモデル相当の知的獲得を済ませておくことがまったく有用・必要となる。これが習得されていないと、学校での授業という独特のやり取りも理解できないに違いない。学校での授業の理解もまた特に小学校段階だと、コミュニケーションパターンの理解に相当に依拠していることが多いはずだからだ(たとえば授業場面でしばしば観察されるいわゆる「IRE連鎖」(Google検索:IRE連鎖)も清水の「命令ゲーム」モデルと類似している)。そして、先述したように、発話というものはそれぞれの文言や要素が理解できるから全体もまた理解できる、というよりも、まず発話の全体的な構造が理解できるから、部分である文言や要素も理解できる、というものなのだ。たとえば「その発話が質問であるかないか」「その発話が返答であるかないか」などの理解と、個々の文言や要素の理解とは切り離せないし、前者がしばしば先行している。

この内容だと、就学前段階でついてしまう、或る種の能力格差や社会性の格差といった話題にもつながりうるだろう。養育者が子供に提供するコミュニケーション環境には相当の差が有ることが充分推察できるし、その格差を是正する「対策」などというものもどこか戯画的に思えてしまう部分が有るからだ。また、その格差を学校が埋めるということも現実的とは言えない、むしろ学校もまた、コミュニケーション環境格差の一翼を担いうるというくらいのものだろう。或いは、何らかの形での「障碍」によるコミュニケーション理解の不全も考慮される必要が有るだろう。昨今の社会情勢ではそういった「格差」という話題自体が季節外れにも思えるが、いちおう注意喚起だけはしておく。

以上、だいぶ雑駁な内容だと思うが、たぶんどこかの領域でなら必要の有る内容だったと思う。