佐野眞一「ルポ下層社会」の後始末

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補足

参考資料「「「東大に多く合格する高校の付属中学」に80年代に多く合格していた公立小学校の分布」および記事「知られていなかった、中学受験実績が高くて住民平均寿命の長い地域」「「平均寿命」に表われる首都圏の居住地格差」「新版:東京23区の格差を縮小していた東大入試」も必要に応じて併せて参照されると良い。

本文

佐野眞一「ルポ下層社会」が昔ジャーナリスティックに話題になったが、その話題になるなり方が皮相なものであり、あまり良い影響を及ぼさないものであった。しかもその割に、きちんとした清算があまりなされていない。なので馬鹿馬鹿しいが、私が後始末の試みをしょうがなく行なっておく。佐野眞一「ルポ下層社会―改革に棄てられた家族を見よ」,『文藝春秋』二〇〇六年四月号→『この国の品質』(2007,ビジネス社)。

まず最初に佐野がこの文を書く際にどの程度の考慮を行なっているのかを確かめておこう。最初にこれをやっておかないと、特に考慮していない結果なのか、それとも一周深く考慮した結果なのかが、にわかに判断がつかないからだ。そのために丁度良いと思える箇所が在る。単行本だとp323-324の次の箇所である。

リストラなどの経済的理由が全体の四分の一を占める自殺者に関していうなら、足立区はこの面でも東京二十三区で群を抜いている。その数(二〇〇三年)は百八十二名と、東京二十三区全体の年間自殺者総数千九百五十四名の約一割を占めている。足立区では二日に一人の割合で誰かが死を選んでいることになる。

そこでこの結果がどの程度驚くべきものなのかを念のため検証する。東京都統計年鑑 平成18年によると、2003年10月の足立区の人口が622522人であり、東京23区の人口は8362231人であるので、足立区の人口は東京23区全体の人口の約7.4%になる。一方、足立区の自殺者は東京23区全体の自殺者の約9.3%になる。二日に一人という箇所は不要だろう。約7.4%と約9.3%とはそれほどに大きい違いではないようだ。なので足立区が特に異常なまでに自殺者が多い区であるとは言えそうにない。もし、異常に多いと述べたいのなら統計的検定を行なうとか、自殺率が高い区が足立区に類似した区に集中していることを示すなどして、より精密な説明を行なう必要が在るだろうが、もちろん佐野はそんなものは述べていない。ならば、この自殺者の状況を見て、足立区に何か驚くべきものを発見したと言って騒ぎ立てるのはおかしい。もし足立区の自殺者の絶対数が多いといって驚きたいのなら、23区全体の自殺者の絶対数はもっともっと多いことになるからもっと驚く必要が在るはずだがそんなことも述べていない。要するに佐野はこのくらいの考慮を行なっておらず、同時に同じ程度にしか考慮を行なっていない者を読者として想定したルポなのである。そのことがわかった。これで、佐野のルポを読む側の態度も決定しやすくなる。つまり深読みは不要である。

確認のため、時期はずれるが、2011~2013年の3年における東京都の市区町村別の自殺率(自殺者÷人口)を私が調べた結果を次に挙げる(「東京都市区町村別自殺者率」)。この出典は、「資料4 東京の自殺の現状」である。ただし、分母となる市区町村の人口が10000人以下だと、自殺者率が過度に高く出やすいので、重視しないことにする。で、この結果から足立区の自殺率が突出して大きいわけではないことがわかる。

さてこの佐野の「ルポ下層社会」の問題点だが、何といっても「何のためにこのルポを公表したのかその目的が不明」ということが一番大きい問題点である。「足立区の貧困家庭の存在」を訴えているルポである。ならばその解決のために発表されたルポなのか、とまずは思うはずだ。しかしこのルポを発表することによって、その解決のために寄与するのか、その点がすこぶる疑わしいのである。たとえば一つの解決方法として、発表時の区長は「担税能力の高い人がもっと多く足立区に住むようにする」というものを述べていた。確かに、そうすれば福祉行政に必要な「財源」の問題が前進する可能性が在る。ところが佐野のこのルポを公表して足立区のイメージが悪くなると、「もっと地価の高い地域に住むことのできる経済力の在る人」は足立区に住む可能性がより低くなる。足立区にわざわざ住みたがる人が減り、足立区でないと住むことができない人の割合が高まるほど、足立区の財源が逼迫して、福祉行政がますます困難になるというわけだ。そのような悪循環の働く可能性はルポの中で前の共産区長が示唆していた。朝日新聞の記事がそうだったというわけだ。ところが佐野のこのルポはそれがもっと段違いに良くないのである。なので、佐野のこのルポの公表意図がまったく不明なのだ。文藝春秋4月号掲載の「ルポ 下層社会」に対して足立区の見解を送付しましたという魚拓記事にも転載されているように、「足立区のイメージが損なわれ、格差社会を告発すべきところが結果的に格差を固定化する危険を招きはしないか」というような代物に佐野のルポはなっているのである。

公表目的が不明なことの一つとして、「なぜ媒体が文藝春秋誌なのかが不明」ということも在る。というのも、この雑誌に公表したために、その固定読者層とのミスマッチによってより望ましくない受容のされ方をしたと言えるからだ。たとえば佐野は、前の共産区長と当時の自民区長とどちらの政策を、より支持しているのだろうか、と問うてみよう。それによって公表目的も違ってくるはずだ。そしてもし共産区長のほうを、より支持しているのであるとすれば、文藝春秋誌に発表するのは普通の場合良くない結果になるはずだ。というのも、固定読者層の多くが共産党などまったく不支持という層だからであり、したがって共産区長が行なった福祉政策・再配分政策を好意的には受け取らないだろうことが十分推定可能だからである。そして実際、この記事の読者のうち実際に区民である者に関しては、或る意味でやはり好意的には受け取らなかったと言いうる結果になった。いずれにせよ、この記事の目的自体が不明瞭なのと、どのような読者層に訴求したいのかが不明瞭なのとは、連動しているのだ。

次の問題点はこうだ。なぜこのルポを「小泉政策の影響で日本全体が貧困化しつつある」というふうに述べずに「足立区に(ばかり)貧困が押し寄せている」というふうに述べたのか、きちんとした根拠があまり無さそうに見受けられる、という点だ。佐野が「日本が全体として貧しくなった」ことに目を向けずに「足立区の貧困」にこだわる理由はおそらく足立区の就学援助率が突出していて朝日新聞などで報道され話題になったからである。しかしそれはこういうことに似ている。たとえばアフリカの途上国がいくつかあるうち、一つの国A国だけは「インフルエンザワクチン」の使用数が突出して多かったとしよう。それを知って「A国にはインフルエンザが蔓延している!大変だ!」と騒ぎ立てるようなものなのだ。むろんこの驚き方は間違っている。実はその途上国のうちA国だけがきちんとした医療機関があり、かつ、健康衛生に関しての意識の高い者が国営に携わっている国だったのだ。だから実際には調べてみればB国、C国にもインフルエンザが蔓延しており、かつ放置されている度合いがA国より高いのだ。「足立区の貧困」という「現象」の実態はおそらくそれと同様のものであり、「特に貧困なのが足立区である」という捉え方は間違っているのだ。掲載されたインタビューの中にある次の箇所のような対処が、足立区のおそらく全域で一定期間公式の形で行なわれていたと見るのが有力な見方であるだろう。

「足立区に来て一番びっくりしたのは、申し込む、申し込まないにかかわらず、就学援助の申し込み用紙が全員に回ってきたことです。千葉ではそんなことはありませんでした。

このルポではインタビューを掲載された多くの者が「就学援助が在って助かっている」と大変に好意的に述べている。だから、多くの者が貧困にもかかわらず足立区の政策のおかげで大変助かっている、足立区は弱者に優しい住みやすい区だ、という方向でルポをまとめることはきわめて容易であるように思える。確かに担税能力の高い人に居住してほしい当時の自民区長は不満かもしれないが、先代の共産区長ならこの書き方ならさほど不快に思わないだろうと思う。だが佐野は絶対にそういう着地のさせ方をしない。いくら談話で区への感謝が語られても、本文全体の結論は「足立区の貧しさ、暗さ」といった話題に常に収斂するように書かれている。なぜこんな書き方を選ぶのか理由や目的がまったくわからない。わからないが、就学援助率の足立区の突出という事柄を否定的に捉えたくてたまらないのだろう、ということが推察できるだけだ。だがそれはせっかくのインタビューをかなり半端なものにしている。また実際に住民が貧しくても放置・無視されている自治体だって在るだろうことを想像しなさすぎである。なお、「佐野が共産党嫌いである」という噂を仄聞したが、しかしそれなら最初からこの話題に首を突っ込む必要が無かったということになるだけだ。

三つめの問題点は、佐野が取材した多くのケースは「女性の貧困」という問題であって、足立区との関係はほとんど無い、ということである。というのも、これらのケースは女性に良い働き口が少ないということによって起こっていると言いうる部分が在り、それは足立区にのみ良い働き口が少ないという問題ではおそらくなく、全国各地に共通の問題である可能性がきわめて高いからである。この点に多少関連した話題を前共産区長はインタビューで縷々述べていたが佐野は何もコメントを付けていなかった。賛同しているということなのだろうか。だがそうだとしたら、やはり公表誌の選択を誤っているとしか言いようがないだろう。ジェンダーの問題をわざわざ文藝春秋誌で取り上げる意義は普通はあまり無い。もっと適した媒体は在るのだ。

四つめの問題点は、「子供の学力」の何が社会問題なのかの軸足がまったく定まっていないことである。「学歴」の格差が社会問題であるという見方がまず在りうる。この場合、学歴の違いによってたとえば良い就労や安定した収入につながったりつながらなかったりする。要するに学歴によって受ける恩恵が違いすぎることに問題が在ることになる。しかし佐野はその辺のことがさっぱりわかっていないため、東大卒の人間が受ける恩恵(が不当である)という話題ではなく、東大卒の人間の知性(の低劣さ)を問題にあげるだけであり、まったくそれは本題とは関係無い。東大中退の人間の知性は更に関係無い。また、学歴とはまったく関係無く、学力が低いことによってそれ自体で損害を被る可能性ももちろん在るが(例えば新聞の漢字が読めないとか)、そういった事柄に触れているわけでもない。学力の何が問題なのか軸足が定まっていないので、単に学力が低いといって騒いでいるだけであり、まったく迷惑なルポでしかない。

佐野に限らず多くの人がおそらく勘違いしている点があり、それは佐野にも当然共通している点である。それは「学力に格差が在る」という問題と「学力が以前より下がっている」という問題と、「学力が絶対的に低い」という問題とは全部異なる、ということがわかっておらず混同していることだ。このルポの中で取り上げられているのは、主に「学力に地域格差が在る」という問題だ。だがそれに関していえば、別にこのルポが書かれた頃の新傾向ではない。たとえば東京23区の「西側」と「東側」とで、大きく言って「西高東低」であるのは、ずっと以前からである。これはルポの中でインタビューされている人も必ずしもわかっていないので、特に注意が必要だ。或いはわかっているのだが、よほど強いタブーなので知らないふりをしているだけだ。この点に関しては、中学受験の難関校の合格者分布によって、筆者は少しは示してきたのでこれ以上特に述べる必要は無い。

地域格差に関して補足をする。佐野はこのルポのなかで次のように述べている。この2003年の調査というのは、おそらくネット上で公開されている、「学内広報」No.1277(https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400004746.pdf)に収録された2002年の調査結果を2003年に発表したものではないかと思われる。このように出典がはっきりしない不正確な紹介の仕方も問題だし、調査対象が「自宅生」であることが全く紹介されていなかったのも問題だが、その内容はもっと問題である。

親の経済レベルと子どもの学力の関係については、東京大学学生生活委員会生活調査室が毎年行う「学生生活実態調査」がよく引き合いに出される。

この調査を二〇〇〇年以降の数字でみると、多少の上下はあるものの、東大に在学中の学生のうち、総体的には年収七百五十万円以上の高額所得者も、例年三割を占めている。

二〇〇三年の調査には、東大在学生の都内居住地の分布も棒グラフで示されている。それによると、足立・葛飾・荒川の東部三区が一・五パーセントなのに対し、世田谷・渋谷・目黒の西部三区は七・四パーセントと、約五倍にのぼっている。

この紹介の仕方にはいろいろと不満が在る。上掲の推定された出典に掲載されたグラフは以下にスクリーンショットを転載する次のようなものである。このグラフを見て佐野は上掲引用のように述べたのだ。見る場所が違うだろうと言いたい。普通このグラフを見て驚く人が多いポイントは、「神奈川県在住者が千葉県と埼玉県を合計した分よりなお多い」のはずである。周知のように東京大学のキャンパスは東京都の文京区・目黒区とあとは千葉県の柏くらいのものである。それですら神奈川県の在住者がこんなにいるのである。だったら、神奈川県にキャンパスを2つ擁する慶應義塾大学や、横浜市緑区にキャンパスを一つもつ東工大、国立市にキャンパスをもつ一橋大、そして他にも明治大学、中央大学、青山学院大学などなどを考慮していったら、いったい神奈川県の有名大学在学者数はどれほどになるだろうか、ということなのである。そして「東京都の23区外」というのは要するに「神奈川県の隣接エリア」のことにほかならないのである。どうやら佐野は、調査者が「ここを見て下さい」と指示した箇所しか見ることのできない人のようだ。だが調査者が「ここを見て下さい」とばかりに提示する「23区の内訳」ばかり異常に細かいこの集計の仕方の発想自体が、もう全く時代遅れのものであり、地域格差を知るためにはあまりに不足なものでしかない。そのような設定に従って見えるものしか見ないのでは、問題の核心は見えてこない。

東大学生生活実態調査2002居住地結果

最後に少し振り返りたい。ここまで述べてきた事柄のなかで二つの事柄が並行的である。一つは「地域の貧困を公表すると地域のイメージが下がりますます貧困化が促進しかねない(裕福な人がいなくなると財源に困るため)」。もう一つは「地域の学力をきちんと調査しないと、またある程度その結果を(隠匿せずに)オープンにしないと、学力の地域格差が固定したまま放置されかねない」。この二つを整合的に理解するためにはどのようにすれば良いだろうか。足立区の学力が23区で最低であったのは、小泉改革のためなどでは無論なく、長年放置されてきたことの結果である。ただ、学力というのは子供の学力のことであり、つまりはその居住地域を選ぶことのできない者の学力である。のみならず、その地域の学力が高いか低いかを子供が知ったからといって、結果が大きく変わるわけでもない。学力が低い地域の子供は「俺たちの学校馬鹿ばっかり」と認識しているから学力が低いというわけでは(あまり)ない。別に特にそう思わなくても学力はそんなには変わらないのだ。要するに「地域の子供の学力の高さ」と「地域のイメージ」とは或る程度独立である。独立でないのは「教える側や行政側の対応」と「対応相手の地域イメージ」のほうである。たとえば行政の担当者が「足立区の学力が23区で最低と聞いて驚きました」と述べるとき、まさにそのように驚くくらいにその状態を認識していなかったことが原因でそのような結果になった、と見なすことができるわけだ。一方、それに対して、「地域住民の経済力や所得」と「地域のイメージ」とは、子供の学力と子供のもつ地域イメージほどには独立ではない。この場合、世帯主がそのまま地域に対してイメージをもつ主体でもあり、嫌なら別の地域に移動することが可能であることが在る。つまり経済力が在れば地域を変わることができるため、少なくとも「地域のイメージ」が極端に良いとか悪いという場合は、住民の所得と相関する。それに地価も地域イメージの良しあしと或る程度は相関するかもしれない。つまり地域イメージが特に良いと地価も高くなり、経済力が無い人は土地を購入できなくなるし、反対に地域イメージが特に悪くなると地価も安くなり、経済力の無い人ばかりが住むようになるかもしれないわけだ。そういうわけで、地域イメージと貧困とはまったく独立に扱うことができない。「あの地域は貧困な地域だ」と評判になれば、ますます貧困が加速し、福祉政策の財源も逼迫する、という悪循環が起こりうるのである。学力と経済との違いはそこに在る。この点を指摘しておく。

そして佐野がまったく見なかったであろう本当の格差というのは、自然災害リスクの地域格差である。もちろん住民がおしなべて貧しい傾向にある地域は概して自然災害リスクも低くないのだ。特に地盤が弱く地震への耐性に乏しい。すべてはその自然的な格差の上に、もろもろの格差が上から様々な意匠として被さっているのだ。これを真剣に考えると格差問題はいっそう深刻になると思う。ようするに「貧しい人の住む地域は千年前から決まっていて固定的である」という話に近くなるのだ。しかしこれを直視できない者に未来の社会設計はできないだろう。この点に関しても努力している自治体は無論在り、自然災害に弱くないという地域イメージを打ち出そうとしている。いつも述べている内容だがそのことを最後に付記する。