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1980年代に中学受験の難関男子校への合格実績の高かった「地域」の多くは、2010年代には「住民平均寿命の長い地域」でもあった。1980年代に子供に中学受験をさせた親世代は2010年代にはまだ70代くらいなので、寿命に直接の関係が在るわけではあまりないだろう、だが、自分の子供に中学受験という有利な投資を行なうような者が老後の生活を送るのに選好しがちな居住地域というのには、或る程度持続性が在り「時代を問わず一定の人気」が在ることだろう、そのために上記の関連性も生じたのだろう、と推測はできる。
つまりこういうことだ。1980年代に子供に難関中学受験を受験させ合格もさせた保護者というものは、或る程度以上の割合で、特定のタイプの地域に住みがちであった、とまず言える。他方、その同世代の者のうち、平均寿命が長くなりそうな者が老後の生活を送るのに選びがちな地域というものが在る、…と、これも言える。この両者は同世代だが、同一人物である必要は別に無い。肝腎なのは、その両者がともに居住地域として選びがちな地域というのはかなり重なっているということだ。と言っても、多くの者はそこには住みたくとも住むことなどできなかっただろう。なので、結局「そこに住みたいと願い、しかも実際に住むことができる程度の能力の在る」者、ということになる。
このような地域がいったいどこの地域に該当するのかは、21世紀に入って社会上の種々の格差が問題となるまでは、多くの人には知られていなかった。知られていなかったというのはどういうことかと言うと、その地域に住みたくて住むことにした者にとっても、「その地域が中学受験や平均寿命の点で有利だから住みたいのだ」という理由はあまり存在していなかった、ということだ。つまり全然別の理由でそこに住み、子供に中学受験をさせ、或いは老後を送ったわけだ。ただしもちろん或る程度の経済力などが無ければ到底できないことだから、その点ですでに選ばれた人達ではある。だがいずれにせよ、その地域が有利だからとか、選ばれた人しか住めないから、という理由ではなしに住んでいたのだが結果的には有利だった、というわけだ。それが「知られていなかった」ということで私が言わんとする内容である。
有利さが知られていなかった理由の一つは、上記のような有利さの当事者であるような「親世代」には、団塊世代よりやや年上が多いため言論の世界での影響力の大きい者があまり多くないことと、「子供世代」が団塊ジュニアと呼ばれがちな世代の上のほうが主であり、これもまた言論の世界での影響力の大きい者が多いとは決して言えない、ということにも在る。要するに出版や報道といった言論の世界で流通していないわけだ。或いは、そうでない世代の見解が言論として流通している、ということだ。なので、ここでは「言論の世界で影響力の大きい世代」の共通体験からくる見解を多少修正する必要が出てくる。それを適宜修正するような形で以下述べていきたい。
「東大に合格者を結果として多く出した」高校のうち、中学受験枠の在る男子校に1980年代に多く合格していたと言いうる地域は、以下のようになる。つまりこれらの地域の公立小学校の生徒が難関中学に多く合格していたということだ。詳しいことは、関連コンテンツである「「「東大に多く合格する高校の付属中学」に80年代に多く合格していた公立小学校の分布」「新版:東京23区の格差を縮小していた東大入試」も参照したほうが良い。これらからおおむね以下の管轄警察署の域内になることがわかる。
ただし、調査対象が四谷大塚進学教室の生徒であり、これは東京に本拠地を置いていた。そのために、日能研の本拠地の在る神奈川県の合格者が実際よりかなり少なめに出てしまう。横浜駅以西の中学受験志望者は、四谷大塚よりも日能研を選択する、と特に推察されるからだ。だが、上記のリストに次ぐくらいのランクには横浜駅より西南に位置する地域もいくつか登場することになるのである。すなわち、もし日能研などのデータが在れば、横浜駅より西南の地域も増加することが充分予想できるのである。その点を付記しておく。
一方、2010年代頃に「住民の平均寿命」が高いと言いうる地域を、筆者はすでに多少抽出している。「「平均寿命」に表われる首都圏の居住地格差」を参照すると良い。そこから、平均寿命が高い地域群として次のものを指摘可能である。
すると、この両者で重なっている領域がずいぶんと在ることに気づく。以下の地域は重なっていると言えそうだ。また、その隣接地域が中学受験合格者の数でもそれと連続する地域になっている場合が在るとも言える。
これらのうち、「目黒区」「世田谷区」あたりならさすがにそうでもないが、他の地域の場合、「中学受験」や「平均寿命」の点で有利な者が多く住む地域である、ということはさほど知られていなかった。結果的にその恩恵を蒙った層も、多くの者はそれを特に目指してそこに居住したというわけではなかった。
あらためて確認しておく。首都圏の中学受験が神奈川県や千葉県で目立って盛んだった理由の一つとして、「とにかく地域の公立中学に子供を行かせたくない」という消極的な動機の存在がけっこう無視できない。神奈川県の場合なら、高校受験の「神奈川方式」(神奈川方式 - Wikipedia)を子供に経験させたくない、という動機がかなり強いはずだ。千葉県の場合なら、管理教育からの逃避動機がやはりかなり強いはずだ。「管理教育 - Wikipedia」を参照すると、次のような記載が在る。「1980年代から1990年代前半、「東の千葉、西の愛知」と呼ばれる管理教育の雄として有名だった。
」「特に松戸市、柏市などの東葛地域北部で校則が厳しく、とりわけ野田市、流山市、我孫子市などでは全ての中学校で丸刈りを強制する校則があった。
」。こういった地域から難関中学にたくさん合格しているからといって、ただ単に上昇志向が強かったとか、恵まれた階層の人がたくさん住んでいた、とだけ指摘するのではやはり当事者の納得は得られないだろう。こういう地域の住民にとっては、「自分の子供を不幸せにしないために精一杯だった」というような感想こそが中心に在るのかもしれないからだ。だが、いずれにせよ、これら地域からは、他のほとんどの地域よりも有利であるかのように難関校にたくさん合格していたこともまた事実ではある。その両面を見なければならない。当事者の認識だけに頼ると、往々にして消極動機のほうが強く意識され、その地域に住むことが可能であるような層の「有利さ」のほうはあまり意識されないことにもなる。
教育上の格差が東京23区内の格差という形をとり、他の地域における格差よりも重大であると信じている人がおそらく多いはずだ。というか、そうでないと2019年にもなっても未だに「東京23区内の教育や居住地の格差」ばかりが話題になっている理由が説明がつかない。しかし、多くの人が信じているはずのこの信念はいくぶんミスリードである。
この信念は、或る程度以上過去の時代ならばそれほど的外れでもなかった。たとえば1952年度生まれの四方田犬彦が『ハイスクール1968』(新潮社,2008)(amazon)で以下のように述べるとき、1960年代であればこの言い方は適切であったという事態がうかがえる。p19。教育大附属駒場高校(現:筑波大附属駒場高校)の生徒に関するコメントである。
(前略)附属中学組の多くは、世田谷区や杉並区、渋谷区、目黒区、さらに大田区といったぐあいに、東京の西半分にある住宅地に住む、いわゆる中産階級の子弟だった。父親の職業のほとんどは会社員か公務員、教師であって、母親が教育熱心であるところが共通していた。高校合格組は数こそ附属中学組に若干劣ってはいたが、その多様性においてはそれをはるかに凌いでいた。彼らは東京の二十三区内はもとより、中央線沿線の国立や国分寺、さらには横浜や千葉といった遠距離からも、満員電車に乗って平気で登校してきた。(後略)
ここに1960年代の出来事として書かれているような「名門中学の生徒の居住地」が「東京23区の西部」に「偏っている」とでもいうような指摘というのは、時代がどんなに変わっても、人々をよほど飽きさせない何かが在るようだ。なので、この四方田の指摘と大して変わらないような内容の「教育格差」や「居住地格差」を話題にしているサイトは今でも全く主流である。国分寺や国立といった東京市部や、神奈川県・千葉県なども含めた格差を話題としてとりあげるようなものは、めったにお目にかかれない。多くの人々もそういった郊外の格差にはまるで関心が無いかのような書き方のものばかりが目に付く。
なので、私としては大変に心外なのだが、これらの地域と同じくらいに横浜市にも、東京の名門中学に通う子供が多数いるような地域というのが実は在るのだという言い方をせざるをえない。「横浜」という居住地や通学時間は、東京の学校に通っている生徒の「多様性」の証では、もはやなくなったのである。
1980年代に「筑波大附属駒場中学への合格者」が多かった地域というものを、筆者の調査で判明・抽出しているデータで、その上位を「警察署の署域」で示す。
ここに挙げた地域は、先に挙げた「中学受験難関男子校への合格者数が多い地域」や「平均寿命の長い地域」とも或る程度重なっている。これらの地域は、いくら山手線から少しくらい遠かったり、他県であっても、もはや「多様性」の在る地域とは言い切りにくい、ということになろう。人々が東京23区内の教育格差・居住地格差に夢中になっている現在より20年以上以前から、その格差はとうに郊外をも大幅に含むものになっていたのである。そして、これは多くの人に未だに知られていないはずの事柄なのだ。
たとえば、横浜市の青葉区に代表される「多摩田園都市」と東京都多摩市の「多摩ニュータウン」とをちゃんと区別しないで、同列・同格のようにして紹介したり記述したりする文章などが、在る。これらは郊外格差の認識の妨げになりやすい。かつ、このような紹介のしかたをする人自身が、郊外を含む格差状況に気づいていない証拠でもある。或いは「東京二十三区」と「それ以外」で截然と区別するような態度もまた見られる。これらの態度から来る言論も郊外格差の認識の妨げになりやすい。…と、そのようにも指摘可能だろう。
1977年の開成高校生殺人事件を取り上げた、本多勝一『子供たちの復讐』(朝日新聞社,1989)(amazon)では、当時としては意外なほど踏み込んだ話題にもふれられている。「開成高校と麻布高校とで生徒の居住地が全く異なる」という話題である。たとえば「特殊な例が珍しくない」という、開成高校生の対談を本多勝一が司会した座談会でもその話題が話された。ここには一つの、ミスリードの萌芽が在る。p222-223
- L
- (前略)うちの学校とA高が合わないというのは、校風だけではなくて、たとえばこの前の現代国語の時間に知ってあれでちょっと“あせった”んですけれど、生徒の居住地が全然ちがうんですね。品川区とか世田谷区とかが開成にはいないんです。
- K
- 世田谷はいるけど少ない。だけど全然いないんです。港区とか品川区とかが。大田区はいる。すごく面白いんですけど不思議なくらいいないんです。山の手高級住宅族が。
- 本多
- そういうもんですかね。
- L
- やっぱり入ってくるところで選び方というのが違うのではないかな。よその学校を変なふうに言うのも気がひけるけど、A校というと「すごい名門」という感じがするでしょう。開成とは別の意味で。
- 本多
- そうですか。私は高校卒まで長野県から外へほとんど出ないので、都会のそういう事情にはうとくて知らないんですよ。
- L
- A高は、どっちかというと“上流”が行く。ブルジョアという感じ。
(中略)- 本多
- それにしてもそんなに地域的に分かれているのですか。
- K
- 不思議なくらい。
- 本多
- それは意外だな。
この箇所を、同じ書に収録された「“特殊”か“一般”か“象徴”か」という朝日新聞記者たちによる座談会での、次の箇所と関連付けて読む読者が多いはずである。p193-195。強調は原文では傍点。
- 大熊
- 開成のことでもうひとつ。開成の生徒にせっぱつまった感じが他の学校よりあるとすれば、A校やM校にくらべると、開成の生徒の家庭の方が所得が少し低いことに起因しているのではないかとも思うのですがね。こんな点でも本人に対する親の圧力、あるいは親のあせりが出やすい階層にあるのではないか……。
(中略)- 本多
- たしかにそれほど貧困ではありませんね。貧困ではないけれど、「ブルジョア的な」という意味でくらべると、そういう階層は開成の方が少ないということはいえるのでしょう。
- 佐田
- そういう階層の問題が、現在の日本の教育問題の根本にある、と私は思いますね。今の日本では、「勉強ができる」ということがその人自身の将来の繁栄の約束になるわけです。「勉強ができる」ことが「実益」になる。そして、勉強「でしか」その実益を得られない階層というのが、実は開成ばかりでなく、かなりの部分でそうなわけです。A高とかM高とかの階層は、勉強ができなくても、親の資産とか、家柄とか、血筋とかで食っていける層がかなりいる。しかし、もうちょっと下の階層になると、自分の「頭」、「勉強」でしか立っていけないというような、ある種の「立身出世志向」みたいなものがある。(後略)
(中略)- 佐田
- だから、日本の新聞社と教師を克明に分析したら、日本の教育、明治以来現在にいたる日本の教育の構図がかなりきれいに出る。それはまあそれとして、ともかく高校などで「勉強できる」ことだけが価値で、それでしか道が立てられないとなったらばそこで落ちこぼれたら大変です。開成みたいなところで落ちこぼれたら深刻なんですよ。A高では、落ちこぼれてもオヤジの資産があるとか会社があるとかで、まだ気が楽なんですよ。
…とこの二箇所を併せ読んだ読者の脳裏には、「麻布高校=ブルジョア/開成高校=それより少しだけ貧しい」という図式とワンセットになった形で、「麻布の生徒が多い裕福な居住地/開成の生徒が多い少し貧しい居住地」という図式も出来上がっているはずである。だが、そこが少しミスリードなのだ。
実態に近い言い方はおそらく次のようなものになる。「麻布中高の生徒が多い地域というものが在る。一方、開成中高は、“特定の地域に生徒が多い”という分布のしかたをしていない場合がそもそも多い。一部に目立つ例外は在るが、全体的にはそうだ。なので、首都圏が、麻布中高の生徒が多い居住地域と開成中高の居住生徒が多い地域とに分かれている、というふうにはなっていない。開成中高は首都圏の全体からまんべんなく少しずつ生徒を集めている、という言い方をしたほうが実態に近い」。ただし付け加えると、開成やそれと似た分布の仕方をする中学校は、「横浜都民」「川崎都民」という言い方をされがちな地域以外は、神奈川県は決して多くはない。
また、「麻布校の生徒が多い居住地域が在る」というほうも、誤解を招きやすい。これも先の筑波大附属駒場中学校と同じことが言える。かつてだったら、麻布中高の生徒が多い地域も東京23区内の格差の一部として描くことができた。だが、1980年代には、その段階はもう終わっており、またしても「横浜市」を含む郊外がそのなかに大幅に含まれるようになった。なので、「麻布中高の生徒が多い地域が在る」といっても、それを「非常に限られた狭い地域」のようにイメージすると、間違いになる。その点も指摘しておく。
あとついでのことながら、開成の生徒が語る「品川区が山の手高級住宅族だ」というのが今となっては理解が難しすぎる。無論、美智子妃が品川区の生家から皇室に嫁いだことの記憶がまだ残っている時期だから出てきた発言なのだろう。だが、それと同じくらいにこの生徒は「品川駅周辺(高輪)が品川区に含まれる」ときっと誤解しているに違いない、と考えないと了解ができにくい発言でもある。「品川区」の理解も「山の手」の理解も、今になって見返すとなんだかだいぶわかりにくいのである。私がこの箇所で思い出したのは、山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』で、戦前の「戸越」(現在の品川区)が高台の高級住宅街として記述されていたことである。この「戸越=高級住宅街」という認識も1980年代以降にはすでに「誤り」であったと言ってよいだろう。だが、戦前の一時期には「正解」だったのかもしれない。それは、21世紀の今となってはまったく理解が難しい事柄なのである。
上記の人数で見比べると、巨視的な傾向として述べれば、開成中学合格者のほうが、「首都圏の全域(主に東京・千葉・埼玉)にまんべんなく散らばっている」度合いが高く、特定地域からの合格者が多い度合いが低い、と言えるのだ。つまり、「麻布校生の多い地域と開成校生の多い地域とで住み分けられている」という見方は少し的外れなのだ。
とは言え、無論、「開成の合格者が特に多い地域」というものを地域として指摘することも可能である。「柏」「松戸」「我孫子」といった常磐線沿線千葉県の周辺である。この地域は例外的に、開成の合格者の中で一定の割合を占めていて、地域密集性が強い。そして、開成と同レベルの他の学校への合格者はさして多くない。
柏に関しては、比較的最近出版された書籍で、「意外な」指摘がなされている。五十嵐泰正・開沼博編『常磐線中心主義』(河出書房新社,2015)(amazon)のp98-99。
ただ特筆すべきは、豊四季台団地に住む住民の生活水準と学歴・所得の高さを、鈴木が強調していることである。この描写は、本章の冒頭で紹介した柏の地価の安さや、それをもたらしているブランド力に欠けた地域イメージと齟齬があるようにも思われるが、柏の階層構造を経年的に調べていくと、実はかなり早い時期から柏の住民には高所得者層が多かったことがわかってくる。先ほど「柏の五年先」として名前の挙がった中央線(吉祥寺=武蔵野市)と小田急線(町田市)の沿線の街々に、高いブランド力を持つ東京の西南方向への郊外路線、東急田園都市線沿線の川崎市宮前区を加えて、柏市との階層性の比較を試みてみよう。下図は、五年に一度発表される住宅・土地統計調査から、各年次の調査における平均世帯年収の経年変化を比較したグラフである。
この四市区の中では最も都心への距離が近いために、若年単身世帯が多く住む武蔵野市が低めに出る傾向は勘案しなければならないものの、高度成長期を終えた七〇年代後半から、どの街もピークを迎えたバブル後の一九九三年を経て現在に至るまで、柏の平均世帯年収が、東京西部・神奈川北部の街々と同程度かむしろ上回る形で推移していることは、少し意外な感がある。東京西郊と比べた場合の柏の地価の相対的な低さを考えると、柏に土地や家を買った人々は買い物上手だったとも言えるが、柏の地域イメージやそれが反映された地価と、住民階層の実態とのギャップをみるにつけ、やはり常磐線という沿線の効果を思わざるを得ない。
というわけで、当時の開成の生徒の最大多数が居住していたとも言える柏市は、武蔵野市・町田市・宮前区と比べても良いような「高所得者の住む」地域であり、しかもそのことはあまり知られていなかった、…ということが上掲書からは引き出すことができそうだ。
ただし、柏市やその周辺から開成の合格者が多いと言っても、全体的に見れば開成というのは「特定の居住地域の合格者が多い」という在り方からは、遠いほうだ。そして、柏市周辺が開成が突出して多いのも、開成以外の同レベル校がそれよりだいぶ距離が遠いからであるだろう。また、開成の合格者が比較的多いそれ以外の地域のうち、23区西部以西が「開成の合格者だけが多く、他校の合格者は少ない」という在り方をしていることもあまり無いのである。
この件に関して、もう一つ疑念とそれに対する推測を書いておく。疑念というのは、「開成には“下町”の居住者が多い」という、昔はときどき聞いたような風説であり、それに対する推測というのは、「開成に合格した後に、開成の比較的近所(“下町”)に転居する家庭が、ある程度まとまった数いただろう」という推測である。「開成の合格者」には「下町」の居住者はそこまでは多くないと思えるが、「開成の生徒」にはそれよりいくぶんは「下町」の居住者が居るかもしれない、ということである。私がこう書ける自信の根拠は、生徒の居住地域と通学時間の「概要」を開成高校自身がサイトで公表している結果と整合することにも在る。そして、もう一つ「当事者」の発言も在る。次の書籍の対談で開成の元事務長(大野弘雄氏)が次のように語っている。森上展安『10歳の選択 中学受験の教育論』(ダイヤモンド社,2009)(amazon)所収の「“開成学園70年体制”の成立事情」、p101-102。
- 大野
- (前略)幸い開成は今言ったような交通の便が抜群に良くなって、今度は日暮里・舎人ライナーも通るようになった(2008年3月開業)。今の在学生でも沿線に200人くらいいるんですよ。東武線で北千住に出て乗り換えてこなくてはいけなかったから、不便だった。その問題も解決できました。
この発言単独だけなら、単純に「開成に入学するような生徒のなかで、足立区に住む子供がまとまった集団として存在している」と決めてしまっても良さそうだが(そこまで多いとは筆者は信じないが)、これともう一つ別の発言も見てから決めても良い。p100。千代田線の駅が当初の予定である日暮里駅ではなく、新駅である西日暮里駅に出来た、という頃(1970年に決定)からの話である。
- 森上
- すごいですね、学校前に駅が作られたのは。
- 大野
- 画期的なこと。横浜や熱海からでも山手線でも京浜東北線でも乗り換えてすぐ来られる。そしたら、横浜の栄光や聖光を受験するような上澄みの生徒がどんと来る。JRと千代田線の両方の効果で優秀な生徒が北から南から来る。この頃から中学も高校も優秀な生徒が来るようになったんです。
- 森上
- それは時代の流れに乗ったというか……。
- 大野
- 大きいですよ。2005年にはつくばエクスプレスができたおかげで、茨城の優秀な生徒も下宿せずに通えるようになった。江戸取(江戸川学園取手中・高等学校)が開成を恨んでいるという話も(笑)。
この談話にも在るように、開成の生徒の居住地の今一つの特徴として指摘されるのは「首都圏のかなり遠方から通う生徒もいる」である。ただ、現在開成高校自身が広報している結果から推察するに、それは全然多数派ではない。だとすれば、いちばんしっくりくる「推測」というのは、「開成に合格する生徒は首都圏の全域に広く分布しているが、入学決定後に或る程度まとまった割合で遠方の生徒たちは学校の周辺地域に転居する」というものになろう。「開成の生徒に下町の居住者が多い」という、聞いたような聞かないような風説や先の事務長の談話を説明できる推測の有力候補だろう。
ただそれは繰り返しになるが述べると、「麻布の生徒は山の手の居住者が多く、開成の生徒は下町の居住者が多い」という形にはなっていないのだ。なぜなら先にもふれたように、開成にも「麻布の生徒が多い地域(山の手)」の居住者も或る程度以上いるからだ。ただそれが地域的にまとまった形ではなく、そこに「法則性」も見いだしにくいだけだ。そして「下町が多い」といっても「常磐線沿線千葉」ほどに多いわけではないだろう。まとめると、こうだ。開成が東大合格者数で日本一になるかならないかという時代までなら、「麻布の多い地域と開成の多い地域で住み分けていた」と言えるのかもしれない。だが開成が東大合格者数で日本一が当然だというふうにはっきりとなってからは、「開成の生徒が多い地域」というのがそこまで際立った形で存在しているとは言いにくくなったのだ。「開成と麻布とで生徒の居住地域が住み分けている」という言い方はミスリードなのである。
東大に多数合格するような首都圏の学校の男子生徒には、地域格差というものに気づきにくい構造的な要因が在る、と思う。その要因とは、学校ごとに「居住地の分布のしかた」が異なっているということだ。普通に考えると「学校に近い地域に生徒が多く、遠い地域に生徒が少ない」と思うだろう。だがそう単純ではないのだ。大まかに三つのタイプに分けることができる。以下「合格者」の分布から推し量った話をする。以下に示す地図様の画像は公表当時の不充分なデータに依拠した「略図」であり、合格者が多い地域を鉄道駅その他で代表させて表示してみたものだ。今でも多少は役立つはずだ。黄色は該当校の最寄り駅等になる。
武蔵と桐朋は、「学校に近い地域に合格者が多く、遠い地域に合格者が少ない」という傾向が或る程度あてはまる(タイプ1)。なので、これらの学校の生徒は、「他の同レベル校も同じようになっているだろう」と思うだろう。だがそうではないのだ。
なおこの位置で書いておくのが良いと思うので書くと、警察署域で分類しているので、次の点を少し意識しても良いと思う。「田無署」には旧田無市、旧保谷市、東久留米市が入り、「東村山署」には東村山市のほか清瀬市が入り、そして「立川署」には立川市のほか国立市も入る。「府中署」には府中市のほか稲城市も入る。「調布署」には調布市のほか狛江市も入る。「小金井署」には小金井市のほか国分寺市も入る。「朝霞署」には朝霞市、志木市、和光市が入る。「蕨署」には戸田市が入る。まだ在るかもしれないけど、この補記は以上にしておく。
さて、上記のこの傾向に或る程度近いのは、栄光と浅野もそうだ。だが、栄光は大船で浅野は新子安であり、少し離れているにもかかわらず、両校の合格者の多い地域は相当重なってもいる。栄光も浅野も「学校に近い合格者が多い」という傾向は当てはまるのだが、同時に「栄光の多い地域は浅野も多い、浅野の多い地域は栄光も多い」というふうにも言えてしまう。なお、栄光は神奈川県在住が入学の条件であり、神奈川県外から受験する場合は、入学までに神奈川県に転居することを約束させられるようだ。それも在るし、浅野はもともと栄光の補足として集計したので、神奈川県からの合格者に限定して抽出・集計している。両校に合格している者も多いが、ここではのべ人数で算出している。つまり、両校に合格した者は、栄光合格者にも浅野合格者にもカウントしている。
この関係はさらに両者が遠い桐蔭と聖光のペアにも当てはまる。桐蔭は横浜市青葉区に在り、聖光は横浜市中区の山手駅周辺に在る。だから、交通網的にはだいぶ離れている感じがする。当時は、青葉区と横浜駅を直接つなぐ路線である横浜市営地下鉄は横浜駅より北には伸びていなかったのだ。だが、ここにも「桐蔭の多い地域は聖光も或る程度多い、聖光の多い地域は桐蔭も或る程度多い」が言えてしまう。そして先と少し違うのは、「聖光の多い地域は、聖光の近くというわけでもない」ことだ。要するに「桐蔭の或る程度近くの地域が桐蔭も聖光も多い」というほうが実情に近いのだ。ただしここでつけ加えると、ここでの「近さ」は距離的なものだけでなく、交通網的な近さをも含んではいる。
したがって、聖光は、「学校に近い地域に合格者が多く、遠い地域に合格者が少ない」学校たち(武蔵・桐朋・栄光・浅野)とは異なるということになる。聖光のような分布は、強いて言えば開成が近いと言える部分も在る。たとえば開成で言えば柏市周辺地域に該当するのが、聖光の場合は横浜市青葉区周辺地域に、というふうにだ。それでも大まかに言えば聖光のような分布は他に類が無いように思ったほうが良さそうだ。日能研のデータを假に入手できて横浜駅以西の全貌がわかっても、この分布の在り方は大きくは変わらないと思う。
で、これらと少し異なる分布なのが、筑波大附属駒場、駒場東邦、麻布である。この筑駒・駒場東邦・麻布の三つはおおむね言って、合格者の居住地域がよく似ている。特に、筑駒と駒場東邦とは間違い探しができるほどに似ている。1960年代ならこれらの学校の合格者は「山の手に多い」という言い方も可能だったと思う。世田谷区・杉並区・目黒区といったあたりを中心とする「東京23区西部」の中核地域だ。だが、1980年代だとここに神奈川県が大幅に増えることになる。それは先の「桐蔭も聖光も多い、桐蔭に近い地域」とほぼ重なる。この「23区西部+神奈川北東部」という分布のタイプをタイプ2としておく。
これらと全く異なるのが、開成、巣鴨、海城、そして筑波大附属・学芸大附属の5校である。学芸大附属は附属4校の合計値で見ることにする。程度の差こそ在るが、これらは、「生徒の居住地が広く分布しており、地域性をあまりもたない」ことが共通している(タイプ3)。例外は、開成の合格者が常磐線沿線千葉には固まって存在していることと、海城が「西武新宿線沿線」からのアクセスがまあまあ良いことの影響が見られることである。だが、全体としてみて、この5校は「特定の居住地に多いか否かという認識では捉えにくい」学校だということになるだろう。ただ、先に示唆したように、開成・巣鴨・海城は、首都圏の全域にまんべんなく分布している、と言っても神奈川県は少ない。辛うじて、「横浜都民」「川崎都民」という言い方がされる地域までしか入らない。
追記・学芸大附属をこちらのグループに変更することにした。学芸大附属の4校のうち、竹早が他の3校とはかなり異質な地域から多数合格させており、それが結果にも明確に表れているからだ。だから、ここは開成・巣鴨タイプのうち、居住者制限がかかっていて東京都とその近縁に限定されているパターンだとみるほうがわかりやすいのだ。尤も、付属高校に上がることができるメンバーに地域的に有意な差が在ったりするかどうか、など重要な点は筑附ともども、わからないままである。国立が学大附と筑附と二つも入ったのは、やはりコクリツなので、「23区内の格差の是正」のようなことをどこかで意識しているからなのかもしれない、という印象をもつ。
私は先に、開成と麻布とは住み分けているという関係には無い、と述べた。住み分けているとしたら、むしろ、次のような認識のほうが妥当だろう。一つは「麻布中と武蔵中とで地域的に住み分けている」というものだ。ただ「麻布と筑駒の両方に合格した」「武蔵と筑駒の両方に合格した」という合格者が一定以上存在するので、その住み分けはより複雑かつ曖昧になることが推察できる。もう一つは「巣鴨中と桐蔭中とで地域的に住み分けている」というものだ。今回初めて本格的に巣鴨合格者・桐蔭合格者の分布を調べて、ようやくたどり着いた認識である。
さてこれらを、「一人で何校合格しようとも、一人分として集計」することで、「或る程度以上合格している公立小学校」を選択し、その集計で得た上位地域が最初に示した、下の棒グラフになる。神奈川県の特に横浜駅以西がおそらく実際よりも少なく出ているだろう事情により、上位地域は横浜駅より北東部で占められた。
「学校に近い地域に合格者が多く、遠い地域に合格者が少ない」というタイプ1の認識は、武蔵や桐朋や栄光あたりに見られた傾向でもあり、いちばん素朴な認識でもある。しかし少なくとも、武蔵に関してはこの素朴な認識は転倒したものだ。武蔵の場合は、むしろ「難関中学合格者が近隣に多く出そうな地域」に学校を設立したと見たほうが良い。なにしろ創立者が東武鉄道の経営面の関係者なのだ。だが実際には西武鉄道の沿線に学校をつくった。一方、桐朋や栄光の場合も、それ単独だと言いづらいが、都立や県立の名門のクニタチ高校や湘南高校が近隣に在るのだから、それとの足し合わせで考えれば同じ関係があてはまるはずだ。これらの学校は、「学校の地域の近くから合格者がたくさん生まれている地域密着型」のように思えるが、事実は反対に考えたほうが良くて、つまり、「難関中学・高校に進学しそうな層」が多いに決まっている地域に設立した学校にほかならないのだ。そういう学校たちのなかで、そのような進学熱心層の集住している地域の比較的「端っこ」の側に作った学校が「地域密着型」になる、というだけのことなのだ。
そして、そのような進学熱心地域の比較的「ど真ん中」に作ると、麻布や筑駒や駒東や桐蔭のようになる。それだけのことなのだ。
以下、修正します。タイプ3のように、合格者が特定の地域・特定の沿線に多いということが多少は在っても、全体的には首都圏の広範囲からわりと満遍なく合格している学校だと、地域格差というものは感じにくいはずだ。…とそう思って、もう一度開成のデータを洗い直したら少し私の考えは変わった。私の同学年で、開成高校から東大・京大・難関医学部に合格したうち、中学受験時に四谷大塚でよくできたと思える者と四谷大塚に籍だけ置いて他塾でトップクラスだったと推察される者とを、29人セレクトした。私国立小学校の出身者や通学小学校を越境していた者は、他のデータ集計と同様に除いてある。追記:このセレクトの段階で「常磐線沿線千葉」がかなり減った。で、そうして抽出された居住地は、「首都圏の広範囲(主に神奈川県以外)から各地域ごとに少しずつ合格している開成中学の合格者居住地分布」とは大きく異なっていた。「港区・千代田区が相対的に多くなっている」「世田谷区も相対的に増えている」「千葉・埼玉の遠方からの者は多くも少なくもなっていない」「東京東部(北・荒川・足立・葛飾・台東・墨田・江東・江戸川)も多くも少なくもなっていない」という印象である。ただし、この29人という人数は、開成高からの東大合格者の中では割合としては全然少ないため、上記の点は当事者にも第三者にもまず気づかれないだろう。また気づかれないだけでなく、全体の動向のなかでは埋もれてしまうことにもなるだろう。
さて、横浜市青葉区に代表されるような、郊外の進学熱心で平均寿命も高いような地域は、それこそ平均寿命などを算出し比較するような場面以外では、あまり知られていなかった。この原因的な事情にはいくつか考えられる。一つには1994年になるまで「青葉区」という区分自体が存在しなかった事情が在るが、さらにその背景まで言えば、そもそも横浜市や川崎市を区名で分類する習慣自体があまり普及していないことにも在る。私が調査対象とした「合格者名簿」もむろんそうであり、横浜市や川崎市の合格者を区名で分類はほぼ全くしていなかった。出身小学校名から区を割り出したのは私であり、名簿の編集者ではなかった。東京23区だと区で表記し認識するが、横浜や川崎だと表記も認識もしない(表記すると他より長くなってしまう)、この状態が「実態としては格差がすでに固定していた」時期になってもまだ続いており行政区分もそれに見合ったものになっていなかった、という事情が、まず在る。
以下修正します。1983年以降のテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」が原因的に影響することによって多摩田園都市が高級住宅街化した、というふうに思っている人もいるだろう。確かに、ウィキペディア:金曜日の妻たちへによればドラマの人気を受けて、本シリーズでロケされた東急田園都市線沿線の区画整理された新興住宅街は、直後のバブル景気には地価が急騰した[3]。
とあるので、高級住宅街化という事態はおそらく正しいのだろう。だが、そこから「したがって、ドラマや地価高騰の以前には、田園都市線沿線は社会的階層の高めの層があまり住んでいなかった」とまでは言えないと思う。事実はむしろ反対に、そのようなドラマが放映されている時期の中学受験ではすでに難関校に合格者を多数送り込む住宅街になっていた。だがその事実は大して知られていなかった。なのでドラマが何かの影響を及ぼしたとしても、それはすでに高級住宅街化していた青葉区(という名前もなかった)地域をさらにもっともっと高級住宅街として有名にしたのに過ぎない。この知られなさは前記した柏市の知られなさとも並行的でもある。ただし多摩田園都市に関して言えば、笠井潔『三匹の猿』や法月綸太郎『頼子のために』といったミステリ作品によって、高学歴志向の強い高級住宅街であることはそれでも90年代には或る程度知られていた。知られていなかったのは、「他の何と比べるのがふさわしいのか」という比較する相手のほうであった。2010年代になる少し前頃に出版された、東浩紀・北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(amazon)、東浩紀・北田暁大・編『思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ』(amazon)での談話等で、多摩田園都市は、「田園調布」や「成城」あるいは「西荻窪」や「下北沢」と比較されるようになり、それでようやくふさわしいポジションを得たことになる。つまり、「どちらも同じくらいの所得や学歴の者が住む場所であると推察されるが、その両者でどう違うか」というふうに假定され、或いはそれを前提として語られるようになったのである。
この点に関して、データが多少揃ってきたので、ここで一度見てみよう。面倒なので、難関中学といっても、麻布・筑駒・栄光・開成・武蔵の各中学に絞っておく。ともあれこれらの総計を警察署域ごと、というか(当時は無かった)現在の行政区分で時系列に沿って観察してみよう。補足として、併願状況について述べておく。1985年2月入試からは、麻布と栄光が併願可能になった。また1986年2月入試からは、開成と筑駒が併願可能になった。
横浜市青葉区、川崎市宮前区は田園都市線の中核的な地域であり、警察署もちょうど対応している。警察がちょうど対応しているのは、この2つのグラフの他の地域も同じである。さて町田市は、ドラマに使われた地域も多いが、合格者の居住地にはドラマと関係無い地域も含まれている。また、成瀬のように、ドラマに使われたが、しかし、田園都市線沿線と言えるかどうか距離的に微妙な地域も在る。一方、横浜市港北区、川崎市麻生区はドラマと関係無いようなので、比較として算出してみた。これで見る限り、ドラマと中学受験の難関校実績、つまりそういう合格者の家庭の実数とは、直接の関係が在るようには見えにくい。つまり、もし假に因果関係というよりは微細な相関関係が在るとしても、そこには根本要因と言える「第三項」が在るように思えるのだ。のみならずドラマの影響がもし間接的ではあれ在ったとしても、それは判明データよりも以降の時期に、より出るはずのものだろう。それはもはや四谷大塚が中学受験の中心とは言いにくくなっていく時期でもあり、その状況に対応したデータを探し出すのも難しい事柄になっていく。
首都圏の高学歴者が多く住む地域という話題は、「戦前の状態」のままであれば比較的容易なものであった。つまり明治以降形成されてきた「山の手/下町」の区分で語れば良かった。その枠組が通用した時代には、「高学歴者がある特定の居住地に住みがちである」という話題は、或る程度は自明のものであった。ただ、当事者の多くは自明すぎて気づかなかったかもしれない。また、開成中高のようにそれへの「例外」であるかもしれない学校が進学校として抬頭してきたりもした。この場合も「例外」として扱えば良かった。だが、「戦後の高度成長」以降の時代には、その認識枠組では追いつかないほどに現実のほうが変化していた。その変化というのは、「それまで在った状態」に付け加えるような形での変化、つまり「山の手が膨張する」形での変化が主であった。だが、その事態の全体像を把握できる情報をもつ者はほとんどいなかった。或いはそれだけでなく、「行政区分」のほうが追いついておらず、その地理状態を表す「行政区分名」もまだ完備されていなかった。そのため、「人々の記憶」にもその行政区分名との対応が残りにくかった。たとえば、「川崎で起きた金属バット殺人事件」と呼ばれる事件が「田園都市線沿線の川崎市高津区、現在だと宮前区」ということはあまり知られていない、などのようにである。
また、人はえてして「同レベルのなかでの違い」に目が留まりやすくなる。たとえば東大と早慶とを比較して、「早慶なんか大したことないよ、入試問題の品質が悪いよ」などというふうに言いたくなりがちなのだ。或いは、「多摩田園都市なんて本当の高級住宅街じゃないよ」とか、「中央線沿線の杉並区は、井の頭線沿線の杉並区に比べると品が悪いよ」とか、「練馬区なんて世田谷区に比べれば大したことないよ」とか、そういう違いである。多摩田園都市や柏が「高級化」していた時代というのは、その辺が微妙であった。一方では、そのような「同レベルの中での差異化競争」が盛んであった。他方それにとどまらず、「そういう差異化競争をすること自体もまた論評の対象になる」時代でもあった。ただ泉麻人『東京23区物語』(amazon)やその続編では、「この地域は高級であるという自意識にとらわれた人」と「この地域は庶民的であるという自意識にとらわれた人」「この地域は庶民的であるという自意識をもたない人」はそれぞれ恰好の「笑いの対象」になったが、「この地域は高級であるという自意識をもたない人」だけは特に笑いの対象にはならなかった。まあ、別にならなくても良いのだが、要はそのような空隙を突いたかのようにして、「高学歴者が自分自身の時代・環境での地域格差を正確には認識できなかった」事態が表われてきたとも言えるのである。その認識の補正を2010年代になって「地域ごとの平均寿命」という尺度でもって今行なっている最中である、というわけだ。そのようにまとめておこう。
以下の文章は誤っていた。誤っていると判断するためのデータを入手できたので、そう言える。
一つだけ、筆者が重要だと思う情報を別のページから転記して、補足しておく。それは東京都千代田区の「麹町署」管轄域に居住している受験生の間で1980年代に、なぜ港区にある麻布中学ではなくて、練馬区にある武蔵中学の合格者がきわだって多かったのか、という点に関してである。
麻布中学が発行所になっている『論集』(1982年3月発行)という文集を筆者は偶然のいきさつで所有している。公開されている文化祭で一般客に配布していたもののようである。さてこの文集のなかのいくつかの記載事項を一瞥してみると、上記の理由が見当がついてくる。「倫理社会」の授業をふまえた生徒の作文のなかに、以下のような箇所がある。
第二次大戦後、天皇は日本の“象徴”となった。僕はこの処置に甚だ疑問を持っている。何故、戦犯として裁いてしまわなかったのであろうか。
ぼくは、近い将来、現天皇裕仁の死に興味津々である、と言っては失礼だが、しかしその時の国民の反応、ジャーナリズムの姿勢に民主主義の中に於ける天皇制の矛盾がはっきり表われると思うからだ。裕仁の死こそ、現代日本の天皇を明確に位置づけ、大きな疑問を投げかけてくれるだろう。
意識している段階では、僕は天皇を神と思いたくないらしい。一人前の〝人間〟として扱う傾向があるようだ。だから、天皇は国民の象徴という役で、言わば日本人の犠牲になっているので可哀想だとも思うし、大した事もしないでメシはタダで食えるし、家族は学習院に入学できるし、悪い野郎だ、とも思う。
この箇所を読めば「千代田区に住むような人」である保護者が見れば「自分の子供は自由な学校に進学させたいが、しかし麻布中学だけは避けたい!」と思うケースが続出することは想像に難くない。天皇制に反対する者がわざわざ千代田区に住むことを選択するとは思えないからだ、そこに在っただろう「開成は問題外だが、麻布も絶対回避したい!」という、そのような考えの保護者層が(千代田区在住者に限らず)当時、群をなして志望しがちだったのが武蔵中学であった、と見たい。そのため特に1980年代では東大合格者数で麻布高校のことを、卒業生数が半数強程度の武蔵高校が抜く年次すら在った、という流れになったのではないかと推察できる。また、この文集発行より以前ではあるが「四谷大塚進学教室の1位が開成に行き、2位~9位までが一斉に武蔵に行った」学年すらあったと噂されるのも、噂の真偽は不明だが、同じような背景をもつ話だろう。
ともかくこの文集の存在と内容が受験生の保護者に周知されること、およびこの文集に見られるような諸傾向が他にもさまざまに作動することで、回り回って当時の中学受験の勢力図を部分的に規定していたであろうことを、私は確信している。その点だけ、どうしても付記したかった。
この文章を書いた時点では、私の手元には79年、80年、84年の資料(四谷大塚合格者名簿)が無かった。なので、上掲のように考えたわけだが、しかしデータが揃ってみればそれが誤りであることがわかる。82年3月に発行された『論集』の直後に合格者数が下降しているのは麻布ではなく武蔵のほうであった。また、假に『論集』の影響が少し長期的なものだったとしても、「麻布が減ってその分武蔵・開成が増えた」というふうにこのデータから読み取るのは無理が在る。少なくとも「その分増えた」とは言えない。また、『論集』に見られるような傾向が以前から麻布中高に存続していて、それが中学受験生の志望校選択に影響を与えていたとしても、79・80年を見る限り、あまり関係無い。
そういうわけで「なぜ練馬区の武蔵のほうが、港区の麻布よりも麹町署域からの合格者が多いのだろうか。募集人員を考慮すれば、武蔵は麻布の5割程度でないとおかしいし、だいいち麹町は港区のほうが近いのだし。」という素朴な疑問が残るだけとなる。以上、修正しました。