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新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』(2019,東洋経済新報社)(amazon 読書メーター ブクログ):この著作に収録されている出題の誤っていると思う点を、この文章では列挙してみたい。列挙以上のことができるかはわからない。
さて「国語力」に関連する教育の流れというものは、21世紀に入ってからの最初の10年でほぼ全貌を現わしたと私の認識では思える。その「反省会」とでも言うべき内容を私は既にいくつも書いてきたつもりだ。その主旨のうちの一つが「専門性の軽視」ということであった。「専門性の軽視」が「国語力教育」の失敗の一因である、と述べてきたのだ。ところが、新井のこの著作や前作に対しては、世間の読者はその10年間の反省も、それ以外の問題意識や歴史認識も何も無いまま、新井の著作に直面してあーだこーだ言っている人が多い。つまり「著者の新井が何か間違えているのでは?」といった疑念を全く抱かないで、賛同・容認している人々が大半である。そういう現状なのだ。新井の間違え方には「専門性の軽視」という問題が通奏低音のように響き渡っていると私は思うのだが、世間はその点を見ていない。また世間だけでなく、新井自身も「21世紀に入ってからの最初の10年」での「国語力」関連の教育状況を特に踏まえてはいないようだ。20世紀の問題意識のままなのだ。その点も私にとっては大変不満である。言語哲学・科学哲学の専門家くらいは出題陣に加えても良いのではなかろうか。
或いはまた新井自身の専門でなくはない論理学に限っての問題意識で見ても、「監修者がそうなら、もっと違った出題が在るはずだろう」と言えると思うのだが、そういう声も聞こえてこない。既出の「古い書評:野矢茂樹『入門!論理学』」なども参考にしてほしい。論理学の「初歩だけ知っているアマチュア」の層が薄い
という指摘をしたが、全く当たってしまった観が在る。それに加えて今たまたまGoogleで「論理学者」と検索してみたら、この語は「専門家」を指す語ではない用法が既に主流であるらしい事が判明した。そうではなく「人格特性」を指す用法が主流なのである。事態は相当に悪化している。ゲーデルやクワインやクリプキを何と言って紹介すれば良いのだろうか。ウィキペディアでは彼らを「論理学者」で(も)あると紹介しているわけだが、それは、ほとんどすべての読者が読んだときに「論理学者キャラの性格なのね」と受け取ることにつながるのだ。ほとんどすべての読者は専門分野の紹介とは受け取らないのである。
新井の前著での出題内容についての批判は、既に二つの記事で書いている。「アミラーゼ構文」にも言及している「新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を補正するために必要な論点」、および、「教科学習だけではつかない国語力」(特に後半)を参照されたい。
新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』でのリーディングスキルテストのうち、次の項目の出題には特段の誤りは見られなかった。それは「照応解決」「イメージ同定」「具体例同定(理数)」である。誤りの見られなかった項目は、今回は特に取り扱わない方が良いだろう。まずは誤りの指摘からだろうからだ。
「同義文判定」という項目では、出題されている内容が偏っており「いろいろな同義文の判定」にはなっていない。つまり新井はp87で様々な文の書き換えが考えられます。
と述べてはいるものの、「様々な文」に実はちっともなっていないのだ。まずはその点で「出題がおかしい」と思うことができる。Q9以外の3問(Q10・Q11・Q12)は「理由や手段」と「主張や結論」との位置関係を逆転させた文でしかない。つまり「AだからB」という文と「BだからA」という文との同義判定に偏っているのだ。ただしここでは出題の偏りやその特徴づけが大まか過ぎる点は取り上げない。そうではなくて、「BだからA」のほうの文がおかしい点を問題にしたい。
このうち文がおかしいのはQ10・Q11である。出題文が指す「以下の文」がおかしいのだ。Q10は次の通りである。
上記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。かぜを引き起こす原因は、外からやってくるウイルスや細菌である。熱やせき、鼻水などの症状となって表れることで、のどや鼻の奥にとりついて炎症を起こす。
私はこの「以下の文」のうち二番目のほうの文が何かの内容を表しているとは受け取れなかった。この文らしきものは文意が不明だったからだ。そうすると「上記の文」は何かの内容を表しているが、他方で「以下の文」は何かの内容を表しているようには思えないので、したがってこの二つは「異義」であると判定せざるをえない。そうすると私は「正解」したことに偶然なるだろう。しかしそれは出題監修者である新井の意図とは異なる。
二番目の文は接続詞無しで開始するので、一番目の文とのつながりがにわかには判読できない。二番目の文に在る「とりついて」という語も決してなじみの在る語でも用法でもない。そして二番目の文には「いわゆる主語」「主格」が明示されていない。なので「表れる」のは「かぜ」であり、「とりつく」のは「ウイルスや細菌」であるというのは、読者が譲歩しなければ読み取れない。そしていずれにせよ「かぜが症状となって表れることで炎症を起こす」という、文の中核に相当する関係は、何かの内容を表しているとは私には思えない。文意不明としか思えないのだ。「ことで」という接続助詞ふうの箇所も理解できないままである。その箇所をもし假にそのまま受け取ると「かぜの症状が原因となって炎症が起きる」→「炎症はかぜの症状ではない」ことにもなりかねない。「普通に読んだのでは文意はよく判らない」「文意をもし強いて明示するのなら、その文意は誤っている」と言わざるをえないわけだ。
Q11に移る。「以下の文」は次のようになっている。
上記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。熱硬化性プラスチックは、調理器具などに使用することから、かたく、熱や薬品に強い。
この文は文意が明瞭な文ではない。そこで假にこの文には「『は』の兼務」が潜在しており、なおかつ、「いわゆる主語」「主格」が一つ省略されている」と見なすことにしてみる。すると次のようになるだろうか。「熱硬化性プラスチックは」→「熱硬化性プラスチックを」と変換するのである。そのようにして、潜在しているだろう助詞「を」を顕在化するのだ。
とこのようになるが、しかしまだだいぶあやふやだ。この解釈はきっと次のようになるだろう。
ただしそうは言っても、この受け取り方が正しいという確信は持ちにくいだろう。アミラーゼ構文の場合と異なり、この文の場合、「かたくそして熱や薬品に強い熱硬化性プラスチックも在れば、そうではない熱硬化性プラスチックも在る。」とまでは読み取れそうには到底ないからだ。なので、この問題文の文意というものがあやふやなまま回答することを余儀なくされるだろう。
「推論」という項目では次のような出題文が共通して書かれている。
上記の文に書かれたことが正しいとき、以下の文に書かれたことは正しいか。「正しい」、「まちがっている」、これだけからは「判断できない」のうちから答えなさい。
この「推論」という項目には、「判断できない」と答えたくなるような出題が多かった。しかし正答を参照してみたら、それは正答ではない場合ばかりであることが判った。私と同じように感じる人もたぶん居ると思うので、どこがどうであるから「判断できない」と答えたくなったかを、以下述べてみる。
難易度が「易」である最初のQ13が「判断できない」と私は特に答えたくなった。次のような出題文である。
以下の文を読みなさい。細胞にみられる細胞小器官は、それぞれ独自のはたらきをもっている。これは細胞小器官ごとに特定の酵素が存在していることによる。上記の文に書かれたことが正しいとき、以下の文に書かれたことは正しいか。「正しい」、「まちがっている」、これだけからは「判断できない」のうちから答えなさい。違う種類の酵素であっても、はたらき方は同じである。
- 1.正しい
- 2.まちがっている
- 3.判断できない
まず「酵素」という語が問題である。「酵素」という語を検索して調べてみると、酵素は「酸素」「水素」「二酸化炭素」といった語と同列の語ではないことが判る。「酸素」や「水素」より上位の語なのである。つまり物質の名前ではなくて、物質の分類概念の一つである。このことに確信がもてない者はその時点で、この問いに「判断できない」と答えたくなるはずだ。
なぜか。まず出題文中の「特定の酵素」という箇所である。酵素という語の内容を多少でも知っていればこの箇所を「特定の種類の酵素」というふうに読んでも良い、と思えるかもしれない。しかし酵素の語をろくに知らない者には、「そう読んでも良い」という考えは到来しないだろう。だいたい「特定の種類の酵素」と言うわけだが、いったい何種類在るのだろうか、と疑問になるだろう。すると何万種類、何億種類となくてはならないように思えてくるだろう。いずれにせよ、この出題に正解するためには、この箇所を何の迷いもなく「特定の種類の酵素」と読むことが必要になろう。
そこまでクリアできたとしても、出題文中の「はたらきをもつ」という言い方に対して慎重になりたくなる場合がきっと在る。「はたらき」と「もつ」という組み合わせは、ありきたりなものでは全くない。むしろ非常にトリッキーな言い方である。なので「細胞小器官はそれぞれ独自のはたらきをもっている。」という内容をどう受け取っても良いのかに関して、迷いを生み、威勢よく回答することにブレーキをかけうる。つまり「はたらき方は異なっている。」と「それぞれ独自のはたらきをもっている。」とが近似的に同義であると判断することにブレーキをかけうるのだ。この二つを同義だと思い込まないと、この出題に正答することはできない。
ここでもまた「その独自のはたらき、というのは一体何種類在るのだろうか?何万種類、何億種類無いといけないのではないだろうか?」と思えてきてそれらのすべてが「はたらき方が異なっている」と述べることに意義が全く感じられなくなってくるだろう。そう感じた場合、威勢よく回答することが困難になる。
Q14に移る。この設問は、設問の構造自体がヒントになっていると言わざるをえない。
以下の文を読みなさい。グリーンランドの大部分や南極は氷雪気候で、夏でも平均気温が0℃以下のため、一年じゅう雪や氷で覆われている。上記の文に書かれたことが正しいとき、以下の文に書かれたことは正しいか。「正しい」、「まちがっている」、これだけからは「判断できない」のうちから答えなさい。グリーンランドの一部は氷雪気候ではない。
- 1.正しい
- 2.まちがっている
- 3.判断できない
揚げ足をとるようで申し訳無いが、「グリーンランドの一部は氷雪気候であるともないとも判断できない」ということは無いのであろうか?私がこの出題に対して「判断できない」と回答したくなった気分をもし第三者に説明するのなら、そういうことになる。この文章の初めのほうで挙げた野矢茂樹著『入門!論理学』の立場なら、私のこのコメントを一蹴はしないはずだと期待したい。ただし私のほうでも、排中律に対して常にそのような懐疑的態度を一貫させているわけでは何らなく、今回たまたまそう言ってみただけ、というふうにも言える。いずれにせよ、このような選択肢で回答することを要求する出題である以上、私のような気分になる回答者の存在を考慮することは不可欠であると思う。
Q15は出題や正答の「誤り」は特に見受けられなかったので、ここでは扱わない。次のQ16に移る。
以下の文を読みなさい。日本の面積は、約3800万haです。1990年から2010年の間、毎年世界全体で失われた森林の面積は、日本の面積の約18%にあたります。上記の文に書かれたことが正しいとき、以下の文に書かれたことは正しいか。「正しい」、「まちがっている」、これだけからは「判断できない」のうちから答えなさい。1990年から20年間に、日本の面積の3倍以上の森林が世界全体で失われた。
- 1.正しい
- 2.まちがっている
- 3.判断できない
この出題は「判断できない」が正答だろう、と強く言いたくなった。出題側に用意された正答を認めるためには、「世界全体で森林は毎年必ずほぼ同じ割合で減少している」という命題が何が何でも出題文中に提示されていなければならない。なぜなら普通なら在りえない前提条件だからだ。しかしそんなことはどこにも書いていない。ならば「判断できない」が唯一の正答になるはずだ。その前提条件が明記されていない状況下で「日本の面積の約18%ずつ正確に毎年必ず減少している」などと確信をもって読んで良いはずなど無い。あまつさえこの「毎年」の文法的位置が明示されておらず明示する気も無いのに、そんな内容を読み取って良いはずが無い。内容的にも非常に不自然であり、したがってまともな読者なら「うかつにそう読んではならない」と慎重になるはずの内容だ。この点に関して私は妥協する気にはなれない。
「具体例同定(辞書)」には一つだけ悪問が在った。悪問というか何というか、正答の根拠が私には判らないのである。それはまたしても、難易度が一番易しいはずのQ21であった。
次のような出題である。
以下の文を読みなさい。人間が欲望を満たすために、生活に必要な物資など(財・サービス)を使うことを消費という。「消費」にあてはまるものを選択肢の中からすべて選びなさい。
- 1.学生が大学に通って教育を受けること。
- 2.出張に行ってビジネスホテルに泊まること。
- 3.ピアノを使って曲を演奏すること。
- 4.暑いときや寒いときにエアコンをつけるために電力を使うこと。
これの「正答」が1・2・4だと出題側は言いたいらしい。もし実際の出題が次のようであるなら、その言い分は或る意味では理解可能である。私も最初はそのように考えて出題側の用意した正答に或る意味ではいったん納得した。
これなら「大学教育」や「睡眠」「食事」や「暑さ寒さを緩和すること」は「生活に必要」だが、その一方で「ピアノ演奏」は「生活に必要ではない」と言い張る人物を私は想定できるので、理解はまあできる。こういう人物はきっと「プロのピアニスト」だろうと「ピアノ教師」だろうと、ピアノを弾くことで全収入が確保されているそういった者に対してでも、「ピアノを弾くことは断固として『生活に必要』とは言えない」「原始人はピアノが無くたって生存できた」などと言い張るだろうと、想像できる。
しかし、人間が欲望を満たすために
と出題文に書いてしまった以上、この言い分は通らない。こういうことだ。ピアノを演奏することは欲望を満たすことができるだろう。他方、大学教育を受けることがどのような欲望を満たすのかは、ピアノ演奏に比較して、全く自明ではない。かりに何かの欲望を満たすことになっていたとしても、「人それぞれ」になる可能性が濃厚であり、それだったらピアノ演奏のほうがよほど「欲望を満たす」に当てはまる。
のみならず出題文では生活に必要な物資など
と書いてしまっている以上、つまり「など」を付けてしまっている以上、「生活に必要とは言えない物資」でも良いと解釈するべきだ。だとすれば「ピアノなど無くても人は死にはしない」と言い張る者であっても、「人が死にはしない場合でもカウントして良い」という設問なのだからその主張は無効になるべきである。その一方で、大学教育は「サービス」ではあるだろうが物質ではないので、したがって「物資」ではない。だから「など」を付けたのだろうが、だとすればピアノは物質なのだから、より一層「物資」に近い。こちらが該当しないという言い分は通らない。
「物資」という中学生のなじみが無さそうな語を使っていることにも問題が在ると私は思うが、もっと問題が在るのは「物資を使う」というときの「使う」という語の多義性・曖昧さである。どうやらこの出題者は「物資を使う」イコール「金銭を払う」という言い換えを勝手に前提しているらしい。だとすれば、「ピアノを購入する」ことは消費に該当するが、買うなどしたピアノを「演奏すること」は消費でない、なぜなら「演奏料」など支払っていないからだ、ということなのだろう。しかしそれは「物資を使う」イコール「金銭を払う」という、出題文に全く書かれていない関係を勝手に前提した場合である。
同様にして、出題文を離れての日常的な使用法を勝手に持ち込むのもアウトである。日常的な語感で言えば、ピアノを演奏することは「消費」というよりもはるかに「生産」である。それに対して他の3つは全部「消費」である。だから「消費」に当てはまるのは、1・2・4であって、3ではない。…とこうなるだろうが、そのようにして出題文を勝手に離れて日常的な語感で判断することこそ、この種の出題に対してしてはならない回答態度であろう。書かれた内容だけで判断しなくてはならない。そうである以上、「生産」という「消費」の対義語が登場する余地は無いし、「物資を使う」イコール「金銭を払う」という言い換えもしてはならない。とは言え、書かれた内容だけで判断すると言っても、その内容が「物資」「使う」「欲望」「生活に必要」などと融通無碍に使うことのできる語や概念であるため、限度が在るのだ。
そういうわけで、この出題と正答は、私には誤りであるようにしか思えない。
なお残った「係り受け解析」の項目で、正答に文句が在るのは「アミラーゼ構文」と呼ばれるQ3だけである(既出)。出題文を少し直したほうが良い、という感想はQ1に対して私はもつが、しかしそれは今は言う必要があまり無さそうだ。
最後にこの書籍の中に在る文章を、そっくりそのまま新井や出題陣に贈りたい。これは新井のプロジェクトに対して少しは期待しているからこそである。また自戒も込めてでもある。p124より引用する。
どなたも、自分の分野の文章、特に自分が書いた文章だけは読みやすくて、それ以外は「読みにくい」と思うようです。そして、自分が書いた文章を誤読する人に対しては「読解力がない」と嘲笑し、自分が読めない文章は「読みにくい文章」と非難する。これでは、議論がかみ合うはずもありません。