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新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社,2018)の論述には改善すべき多くの問題点が見い出される。つまり、書かれたままの状態では、この書は事態の解明や改善に大して役立たなくて、検討や改善が必要な書なのだ。そのため、解明と改善のための私が考案した論点の一部を提示する。ただし第三章の一部の箇所に言及箇所を限定して、なおかつ、かなり雑に書きなぐる。この書は丁寧な検証に値する書ではない。また、同じ論点の提示や主張をしている人が他にたくさん居るのかも知れないが、それを調べている余裕が無いので、しない。
追加します。「アレクサンドラ構文」「アミラーゼ構文」という名前で呼ぶことによって当該書の検討を行なっている文章がいくつか在ることがその後判明した。それらのごく一部にも適宜言及しつつ以下説明する。念のため述べておくけれど、私は専門家でもその予備軍でもない。全部独学であるし、勉強に時間を大して割いているわけでもない。そもそも日本語文法の専門家はそのほとんどは「日本人向けの日本語」を検討しないので、この分野の議論は素人が多くなる傾向に在る。新井のこの意欲的な著書も勿論素人考えである箇所が多い。「専門家」が参入することで議論が健全化されることこそが望ましい。(2025-11-30)
p195-196、問1。
仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アメリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
オセアニアに広がっているのは( )である。1.ヒンドゥー教 2.キリスト教 3.イスラム教 4.仏教
この出題に誤答する原因が、出題文の文法構造にほうに在るのか、それとも使われているカテゴリーのほうに在るのか、という点だけが決定的に重要である。文法構造の理解に原因が在るかどうかは次のような出題の正解率で検証すれば良い。
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
1.梨 2.林檎 3.蜜柑 4.苺
もし「読まなくても解けてしまう」ことが心配なら、もう少しなじみのうすい果物や野菜で作問すれば良いだけだ。
さてそれと同時に、当然思い浮かぶはずの点を検証する必要が在る。それは「オセアニアはアジアではない」という知識の有無と正解率との相関を調べることである。というのも、もし「オセアニアはアジアではない」という知識が無い者がこの出題に対して回答する場合、運頼みになるはずだからである。現にこの設問には、「北アメリカ」と「南北アメリカ」といったカテゴリーや、「東アジア」と「東南アジア」というカテゴリーが、無造作に使用されている。「南北アメリカ」に「北アメリカ」が含まれるのか否か、「東南アジア」と「東アジア」とは並列に書いてしまって本当に重複が無いのかどうか、など気になるはずのところである。だとすれば、「オセアニア」だってひょっとしたら、たとえば「北アフリカ+西アジア」の広域を指すカテゴリーかもしれないではないか、ということが想像できてしまうのだ。だから「オセアニアはアジアではない」という知識は、そして「オセアニアとはそもそも地域を表すカテゴリーである」という知識や宗教名の知識も無論、この出題文の読解のために最低限必要な知識である。
この種の指摘をこの書に対して逐一して回ることは、単なる時間の無駄であり、これ以上あまり述べない。
接続助詞の「が」が無造作に用いられている出題文が目立つ。そして新井はこの点をとりたてて重視していない。だが私は少し気にする。というのも、この書を離れて一般的に言えば、接続助詞「が」には、読解の点で二つのトラブル要因の存在が想定可能だからである。
一つは、文が逆接なのかそれとも順接(など)なのかが、「が」を手掛かりにしても判明しないということが在りうる。つまり「接続助詞“が”」というのは、その存在を手掛かりにして内容を読解するという目印になるのではなくて、反対に「が」以外の部分が読解できることによって「が」の機能も推定可能になる、というそういう要素なのである。だから「が」以外の他の箇所に知らない単語が在ればそれだけで読解はできなくなる。したがって「接続助詞“が”」はなるべく使わないほうが伝達効率は良い、と言えるのだ。使うならせめて逆接に統一するのが良い。なお、この論点は「「アレクサンドラ構文」も添削した。 」の著者さんも述べておられる。賛成である。
さてもう一つ、「が」は接続助詞だけに在るのではなく、格助詞にも在る、ということが言いうる。格助詞の「が」なら前置要素は名詞である。それに対して接続助詞の場合は前置要素は述部である。だから見分けは容易である。…とそのように考えるなら早計である。述部の主要要素に名詞が来るという文もまたいくらでも存在するからである。
↑上記は格助詞「が」が使用された文の例である。
↑上記は接続助詞「が」が、名詞を述部にもつ要素に後続して使用された文の例である。
「こんなものを読み違えるわけがないだろう」と思うかも知れないが、問題は、なじみのより薄い語句を頻繁に用いた文章が長々続いても間違えないかどうか、である。間違えたり混乱しない自信が在るのなら、そういう人は気にしなくて良いと思う。ただ私には自信は無い。書き手がタイプミスをしたり、出版社が植字ミスをしないという自信も、無い。
さて、接続助詞「が」が逆接なのか否かという話題に戻す。
新井の当該書でp200。問2。次の接続助詞「が」は、後続箇所を読めば、「逆接である」と遡行的に判定可能だ。
Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。
この出題を検討しているネット上の文章で、この助詞「が」を「順接である」と述べているものを見つけた。しかし、残念だがそれは間違いであり、この箇所は「逆接」または「並列」「付加」である。「「アレクサンドラ構文」も添削した。 」を参照されたい。ただそれでも、このページの全体的な方向性は私は支持できる。
さて、この箇所を順接の接続詞を用いて書き直し、文構造が見えやすくさらに書き直すと次のようになる。順接の接続詞を2種類用いてみる。
こうしてみると前者は内容的におかしく、また後者は意味がほとんど取れない。
もしこの箇所が「並列」「付加」の接続詞ならそこまでの違和感は無い。
他方、この箇所が「逆接」でも問題無い。
先のリンク先の作者さんは「問題無い」とは思わなかった。それもまた尤もである。次のように述べている。
(前略)最初に「Alexは男性にも女性にも使われる名前で」と言ってしまっている以上、そのあとの「Alexandra」と「Alexander」の両方とも愛称が「Alex」であることは意外には感じられない。
この点について私見では少し雑だがこうだ。日本国について言えば、「名前」とは「戸籍名」ついで「(職業的な)ペンネーム」「(職業的な)芸名」を指すことが通常であり、「あだ名」のことを「名前」とはまず呼ばないのだ。あだ名はあだ名であり、愛称は愛称であり、それらは「名前」ではないのだ。とりわけこの学力テストふうのものは、おそらくは学校の教室で行なわれているものであり、そこでは「愛称」のことは「名前」とはまず呼べない。呼んではいけない。試験の氏名記入欄には「名前」、つまり「戸籍名」を特殊な事情が無ければ書くべきであり、「愛称」はそこに書いてよい事項ではない。「名前」の用法は学校空間的にはあらかじめ決定している。日本という社会はロシア文学の世界ではないのである。だが、どうやらロシア文学と大差無いような国も在るようであり、英語圏にもどうやら在るらしい…と、そういうことを述べている文なのである。だから、最初に「Alexは男性にも女性にも使われる名前で」と言ってしまっていても「それは戸籍名の話であって愛称の話ではない」と外国の事情に慣れていないような日本国の生徒さんなら普通考えるはずだ。だから次の箇所が愛称の話題であるなら、少しは意外感も在るだろうし、少なくとも「最初と次とで全く同じ話をしている」とは受け取らないはずなのだ。僅かだが二番目の箇所のほうが情報量が増えているのである。そう私は判断するので、したがって、接続助詞「が」は「逆接」であっても構わない、と見なす。
尤も、上述の書き方は日本人に理解できるように少々歪めた書き方であり、実際にはここでの「愛称」は日本で云う「あだ名」に置き換えることは本当は不当である。ここでの「愛称」に匹敵するものは日本には無い。ここでの「愛称」というのは、「もし本名が○○ならば愛称は必ず××になる」というくらいに公式性が高く、本名と実はあまり変わらない。「親しい者に対しては××と呼ぶに決まっている」というくらいに「あらかじめ決まっている事項」「あらかじめ予想が可能な事項」なのだ。「日本に存在しない概念の話題である」こともほとんどの読者が看過しているが、しかし実際には看過できない事柄だろう。留意したい点だ。
なお「名前」という語には「戸籍名のうち苗字でないほう」を指すという用法も在る。ただ学校で行なわれただろうテストの中での「名前」という語なので、あくまで「戸籍名のうち苗字でないほう」なのであって、「あだ名」のことではない。その上で、この用法こそが、出題文の用法と最も整合していることは確認できる。苗字の話題ではないからだ。
「アレクサンドラ構文」に関しては、のちほど少し仔細に検討する。
閑話休題。新井の当該書でp204。問番号無し。次の接続助詞「が」は、後続箇所を読めば、「逆接である」と遡行的に判定可能だ。「アミラーゼ構文」と呼ばれることも在るこの出題文もあとで少し仔細に検討する。↓
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
新井の当該書でp207。問4。次の接続助詞「が」は、後続箇所を読めば、「逆接ではない」と遡行的に判定可能ではある。しかし、初読の際に「逆接だろう」とまず予測させてしまう可能性が高いため、明白に読みの妨害になりうるような「が」である。↓
メジャーリーグの選手のうち28%はアメリカ合衆国以外の出身の選手であるが、その出身国を見ると、ドミニカ共和国が最も多くおよそ35%である。
それにしても「28%」と「35%」とでその基準値が異なりそのことを明示もしないこの文章は、もし反対に、生徒や学生が書いてきたレポート中の文だったりしたら、教師は怒り狂うはずのものである。或いは数学の答案で書いたら減点されるに決まっているはずのものである。あくまで教師や教育する側の者が書いて生徒が一方的に受け取るだけの文章であるから苦情が出ていないのに過ぎない。そして、そのことに新井が言及しないというその感覚が、とにかく不思議なのである。
ともかく言えることは、この接続助詞「が」の存在によって、この文が「逆接」構造をもつ文章であるといったんは誤読させてしまうことに問題が在る。その誤読をした場合、「アメリカ合衆国の比率は28%であるのだが、しかし(小国であるにもかかわらず)ドミニカ共和国の比率は35%である」というふうにさらなる誤読を誘発されるのである。
この出題文ははっきり言うと、「正解」できている生徒の内心には次のような想念が浮かんでいるはずのものである。「この文章ひっでえな。まあでもどうせ、この35%というのは(100-28)%のなかでの35%というふうに言いたいんだろうな。そう読まないと出題として成り立たなさそうだし、矛盾してしまう、そしてそう出題すれば出題者の意図が読めない生徒は間違うからテストにも向いている、ってかあ。あと、「以外」を読み落とす生徒も多いだろうし、ってわけだろうなあ、でも「以外」を読み落とさなくたって、普通はそうは読めねえし、生徒がテストでこう書いたら減点確実だけどな。全くしようがねえ出題文だよなあ…」、というわけだ。少なくともこの文章は「商売する人がお客に読んでもらう文章」としては失格のレベルである。どちらかというと私の感覚では「詐欺師がカモを騙すための文章」に近い。あまり大きく変えないうえでの代案として次の文を提案しておく。↓
接続助詞「が」が使用されている出題文は以上の3箇所であった。うち1つは「逆接」の用法であり、1つは「逆接」とも「付加」とも言いうる用法であり、1つは「逆接ではない」用法であった。いずれにせよ、それらは一旦読んだ後遡ること無しには確信できないものである。また未知の語句やなじみの薄い語句が使われている場合は、假に遡ったとしても「が」の機能が確信できるとは限らないものであった。また「逆接ではない」用法の場合、誤読を誘発しやすいものであることも確認できた。そういうわけなので、「読解」の結果を検証するときに、接続助詞「が」の存在を看過してはいけない。
先に予告したように、通称「アレクサンドラ構文」を扱った箇所を、ネット上での他の著者さんたちの考察をごく一部だが適宜参照しつつ、再検討してみる。新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社,2018)のp200からである。
Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。
この出題文の最初の箇所がまず通常的なものではない。その事が、虚心坦懐に眺めると痛感されてくる。そのためにたとえば受身文を能動文に転換させてみると良い。すると「アメリカ人はAlexを男性にも女性にも名前で使う。」と、こうなる。そこで「名前で使う」という言い方がどうにも不自然であることに気づく。これを次と対比してみる。假にもし「日本人は“真”という文字を男性にも女性にも名前で使う。」という言い方を採るならばおかしくはない。つまり「文字を名前で使う」ならおかしくない。だがしかし「男性に太郎を名前で使う」となると違和感ばかりが感じられる。或いはもし「日本人は男性にも女性にも悠希を名前で使う。」なら違和感ばかりが感じられることだろう。同様に「日本人は男性にも女性にも悠希という名前を使う。」でも同じ事だ。「日本人は男性にも女性にも悠希と名づける。」「日本人は男性にも女性にも悠希という名前をつける。」といった文のほうがはるかに通常的であり意味を取ることができる、と思うはずだ。この出題文の「使う」の用法は奇妙である。本当に日本の検定教科書か新聞から採った文なのだろうか、本当は英文を直訳しただけで済ませた試験なのではないか、と疑いたくもなる。
私が前回に書いた「せめてこの程度の出題文にしてほしい」という代替案↓は、この点とおそらく関係している。
「名前であり」と書かずに「名前で」とだけ書くと、文法的な位置関係が曖昧になる。その曖昧さへの苛立ちは、英語学習で分詞構文というものと習ったときの不愉快さに通じる。文法的な修飾関係が曖昧になりすぎる。そして「名前であり」とまで書けば、そこで修飾関係がいったん完結したように感じられるが、他方「名前で」としか書かないと次の箇所にまで修飾がかかっていくように感じられ、読み手に余計な頭を使わせることになる。それが「名前が使われる」という奇妙な日本語を使っている箇所で起こっていることなので、読み手の頭がおかしくなりそうな度合が更に増すことになりかねない。また「Alexは」が『主語』であることも確信しづらくなる。
そもそも大前提として「女性の名Alexandra」などという表記が許されるのは、「名」の箇所は漢字であるのに対して「Alexandra」がアルファベットであるからにほかならない。このことが頭から抜けるのはかなりまずい。つまり「女性の名美子」「男性の名一郎」といった表記は許容されえない、ということは念頭に在るべきだ。その場合では最低でも括弧を用いて「女性の名“美子”」「男性の名“一郎”」と表記されるべきだろう。であるなら次のように書き直したところで文法構造に大差無いし、読み手にとってはむしろその方が良い。
この論点を扱っている文章として、たとえば「アレクサンドラ構文とは?(係り受けの問題)・解答解説」が在る。そこでは「同格名詞句」という概念を用いて解説している。ただそれに関する態度は私は異なっている。もし私なら、「同格名詞句」を堂々と用いた文章は、中学生が「作文を書く」という場面では通用しないと感じるからだ。どういうことかと言うと、中学生の作文で「同格名詞句」を平然と用いた文章がもし在れば、それは「ふざけている」「格好つけている」「読み手に余計な負荷をかけている」などと教師に非難されやすいと思うのだ。つまり作文で「体言止め」が使われているのと似たような読後感の悪さが在るのだ。「書き直し」を命じられるリスクが大いに在る。もし「中学生が作文などで書く」ときに「矯正」されそうな文章ならば、それを「読解テストに答える中学生を相手にしている出題」という場面でも使わないべきだと私は感じる。
もう一つ述べる。「の」という助詞は非常に多義的である。だから「XのM」という要素が文中に在った場合に、XもMも使い慣れない語句である場合、その文法的読解は絶望的になりうる。通常は、XもMもなじみの在る語句だから「の」の機能も読解できているだけなのである。参考までに記すと、私の書いたものでは「連体助詞「の」を概観してみる」がその内容を扱っている。
さてこの出題文ではどうか?「Alexandraの愛称」「Alexanderの愛称」の箇所である。これらは「XのM」という形をとっている。つまり、Xの箇所はなじみの薄いだろう外国人の名前であり、Mの箇所はこれまたなじみの薄いだろう「愛称」という単語なのである。なので、この箇所の助詞「の」の理解は、神頼みになってしまいやすいのだ。つまり新井が推定しているような「わからない箇所は飛ばし読み」という要因以外にも、「多義的である“の”の文法的機能が推定できない」という要因が想定可能なのである。
この事態を「アレクサンドラ構文とは?(係り受けの問題)・解答解説」という文章は考慮していない。「"愛称(あいしょう)"という言葉の意味が分からなかったから解けなかった」という声が聞こえてきそうですが、そうではありません。
と述べており、助詞「の」の多義性を考慮していない。そこでかの著者が説得のため提示する代替出題文はこうだ。
Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの●であるが、男性の名Alexanderの●でもある。
Alexandraの●は( )である。
これを見ると、思考する以前の問題として、「Alexandraの●」という箇所が目に入ると「もうどうでもよい」という気分になる。その「どうでもよいという気分」を「わかるようにちゃんと説明しろ」という傲慢な相手がもし假に登場したならば「だって、助詞『の』は多義的じゃないか。こんなもので判るわけがないだろう」と回答せざるをえなくなるが、しかし通常ならそんなふうに回答する必要なども無いくらいである。説明する気の無い出題者に対して礼儀正しく説明する必要など無いのだ。というわけで、「愛称」の意味を知らない回答者ならば、この出題に正解できないとしても、全く不思議ではない。
のみならず、その代替出題文では「名前で」という元の出題文の箇所もそのままにしているため、「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、」というふうになり、後続箇所との文法的関係が不明瞭のままである。するとどうなるか?「Alexは」という箇所が「この文の『主語』」である、ということが不明瞭になるのである。先の代替出題文は「Alexは」の箇所が「主語」であると読み取ることができることを前提にしているが、実はそんなことは前提できないのである。とりわけ「アメリカ人はAlexを男性・女性の名前で使う」という「使う」の用法が意味不明であるわけだから、なおさらそうなるのである。要するに代替出題文は日本語がおかしい。異常な日本語である。それが解読できないことを回答者のせいにして「低学力」を嘆くことが間違いなのである。嘆くのならば、このような破壊された日本語を用いた検定教科書または新聞が存在することに対してであるべきだろう。
言っておくが、「『主語』が不明瞭である文章の文法構造を正しく読解できる能力が重要である」などという詭弁は通用しない。というのも、中学生であるならば、学校教育の作文の授業で「主語をきちんと書け。主語を省略するな。(できれば5W1Hも全部書け。)」と口を酸っぱくして必ず言われているに決まっているからだ。自分たちが言われている教育的指導内容に、まさか学校が試験会場であるテストの出題者が違反している、などとは想像もつかないだろうし、想像できたところで対処は無理だ。「自分たちは未熟な生徒だから作文では主語を明示しないと低評価になるけれど、他方、成熟した著者が書いたような、主語を明示していない文章を読解できる必要も在るから、したがってこの読解課題はダブスタだとか文句を言っていてはいけないのだ」とこのくらいに「低姿勢」であるような生徒でないと、なかなか正解はできないに違いない。
もう一押ししておこう。どこかでは書く必要が在ると思っていた事柄だ。新井が紹介するこのテストはp188を参照するとパソコンやタブレット
を使って行なわれている。つまり「パソコンだけ」を使った試験かも知れないわけだ。そして「紙」「鉛筆」は使っていないことも断定されている。モニターの表示に対して回答するテストだったわけだ。問題用紙・解答用紙などは介在していない。そうすると、先の代替出題文のような「メモ書き」も可能かどうかわからない。タブレットなら可能かもしれないが、パソコンだとどういうソフトが入っているかわからないし、生徒が使用可能かどうかもわからないので、「メモ書き」が一切できない状態で回答させられたかもしれないのだ。もしそうだとすると、「メモ書き」が可能であるという前提での「解説」は無効である。「目で見て読んだだけ」で正解可能であるということを「証明」できる必要が在る。そしてそんなことは恐らくないのだ。その程度にはこのテストでの出題文は「複雑」だ。その点で「「アレクサンドラ構文」も添削した。 」での考察姿勢を大いに評価したい。ただし「女性の名前Alexandra/男性の名前Alexander」は引用ミスだろう。「女性の名Alexandra/男性の名Alexander」が正しい。
先に予告したように、通称「アミラーゼ構文」を扱った箇所を、ネット上での他の著者さんたちの考察をごく一部だが適宜参照しつつ、再検討してみる。新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社,2018)のp204からである。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから一つ選びなさい。
セルロースは( )と形が違う。1.デンプン 2.アミラーゼ 3.グルコース 4.酵素
さて、この出題が誤答を誘発した理由はわりと容易に推定できる。それは、形が違うセルロースは
の箇所で対比の「は」を用いていることで、文法的な格関係(「を」格)が非顕在になったことである。この事態は「“は”の兼務」としばしば呼ばれるものである。ただし、通常「“は”の兼務」と呼ばれる場合は、「は」が「主題を表す“は”」である場合が多いのであり、「対比を表す“は”」の場合はあまり無いように思う。なので、この対比用法での非顕在には特に注意を要する。
とりたて助詞「は」の用法に関して、日本語記述文法研究会・編『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』(2009,くろしお出版)(amazon)を参照する。とりたて助詞「は」では、対比を表す用法と主題を表す用法とが在り、その二つの用法は連続的である場合も多い。つまり、この参考書を参照するときにも、その両方の該当箇所を参照したほうが良い。そういうわけでこの書の、第9部第3章「対比を表すとりたて助詞」第2節「“は”」(p30-38)と、第10部第1章「主題の概観」第1節「“は”の機能」(p183-186)を両方とも軽く一瞥しておく。すると、出題文の分析にあたって直接的に有益な記述は、p34-35の次の箇所である、と判る。↓
対比を表す「は」はさまざまな格成分をとりたてる。
ガ格やヲ格の格成分の場合、格助詞は現れず、名詞に直接「は」がつく。それ以外の格成分の場合、通常、格助詞の後に「は」がつく。
- 父は紅茶を飲むが、母は飲まない。(ガ格)
- 父は紅茶は飲む。(ヲ格)
- パソコンは会社にはあるが、家にはない。(ニ格)
- 夫は外ではよくお酒を飲む。(デ格)
- 妹とはよく話すが、弟とはほとんど話さない。(ト格)
この箇所がわかれば、出題文の該当箇所の理解にも役立つ。↓
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから一つ選びなさい。
セルロースは( )と形が違う。1.デンプン 2.アミラーゼ 3.グルコース 4.酵素
この出題文は、次のように書き換えるだけで、間違いなく誤答は減るはずだ。対比の「は」によって隠れてしまった、潜在していた格助詞「を」を復活させ、その分の「は」の位置を移動させれば良い。この対比の「は」自体を消去することは難しい。
当然のことながら助詞「は」の前置要素は必ず『主語』である、などというふうに誤解している人が回答すれば、誤答する可能性は極めて高い。そんなふうには国語科の検定教科書にもたぶん書いていない。その辺の話を持ち出されないように「巧妙に」ごまかして記述しているはずだ。
この論点を「「悪文である」は言い訳!!悪名高き「アミラーゼ問題」の解答・解説」というページの著者さんは見逃している。そのことも在って、全体の文構造を考察するときにも誤りが在るが、そのことに気づいていない。
イグナスというネブルは、ホワホワが集まってできたフムフムをボロボロにするが、同じホワホワからできていても、形が違うグヌグヌはボロボロにできない。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
グヌグヌは( )と形が違う。1.イグナス 2.フムフム 3.ネブル 4.ホワホワ
有機化学や生物学の知識が無くても解けるはず、と言いうるようにおおもとの出題文を任意要素に置き換えた出題文である。しかし、読点がおおもとの出題文よりも多くなっている。正しくはこうなるはずだ。本来の箇所には読点が無かったことを強調して記載する。
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
1.イグナス 2.フムフム 3.ネブル 4.ホワホワ
おおもとの出題文には無かった読点を、検討用の出題文を作った際に著者さんは入れてしまっている。そのため、文構造が余分に把握しやすくなってしまっている。もとの出題文はもう少し文構造が把握しづらいはずなのに、その事が見落とされているのだ。
ためしに、この著者さんが余分に入れてしまった読点を生かし、かつ、私が上述の箇所で述べた「兼務している“は”」を非顕在になっている助詞に置き換えてみよう。その際「が」が「逆接」であることも明示してみよう。すると次のようになる。これくらいにわかりやすい文であって良いはずだ。
ここで任意要素をおおもとの出題文のものに戻すと、こうだ。
再度おおもとの出題文を示すと、こうだ。比較してほしい。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
さて次の論点に移る。上記の分析は「“は”の兼務」の認識が前提になっていた。つまり「は」の前置要素が『主語』であるとは限らない、という認識ができることが前提になっていた。「“は”の兼務」などを公立中学校や小学校(や外部の塾)の国語の時間に教えている保証など先ず無いだろう。それは三上文法界隈での話題であり、三上文法を国語科教員が知っている必要は無いからだ。だとすれば、ここで「“は”の前置要素が『主語』である」という認識が誘発する誤読を防げているかが重要になってくる。つまり次のように読むことを防げるか否か、である。
この観点をおそらく共有しているウェブページに、「悪文のお手本「アミラーゼ問題」を添削した。子供の読解力より、大人の文章力。」および「さらに、アミラーゼ構文というものも知った: 大岡俊彦の作品置き場」が在る。この二つのページでは「同じグルコースからできていても」に後続する読点を「むしろ付けないべきである」と主張している。「“は”の兼務」を知らない回答者が誤読したまま、その読点の削除だけを行なった場合、出題文は次のように見えている。
私の主観では、この修正は「少しは良くなっている」「しかし決定的なものではない」というように感じられる。少しは良くなっているのは「セルロースはグルコースからできている」という事態が少し見えやすくなっている点である。その場合、時によっては次のように読みを修正できる可能性も在る。
更に、「さらに、アミラーゼ構文というものも知った: 大岡俊彦の作品置き場」の著者さんがやるように、読点の位置を「セルロースは」の後にして、次のようにしても良い。
しかし決定的かと言われると、そうも言いづらい。「“は”の兼務」というはたらきを知識として持っていない場合、「その“は”は、“を”に置き換えたほうが判りやすい」ということに気づけるとは思いにくい。そこまで容易な読みの修正ではない。少しは気づきやすくなるだろうが、決定的なものではない。
私見ではこの難所のポイントを決めているのは「同じグルコース」という箇所の「同じ」である。これには二義在るのだ。そのことを架空の例文で示してみよう。
この「同じ人間」という箇所を「同一人物」と解釈する者はあまり居ない。その理由は「同じ人間」と「同じ人物」というふうに、「人間」と「人物」を使い分ける用法が既に確立されていることである。しかし、グルコースに関してはそのような確立した用法など、無い。説明が難しいので「グルコース」の代わりに「水」で説明してみよう。次の二つの例文での「同じ」は異なった用法である。
これと同様にして、宇宙のなかのグルコースの分子に悉く番号を振ることがもしできたならば、と想定してみる。その場合「同じグルコース」と呼ぶときに「構成される分子が全く同じ背番号であるという点で同じグルコース」という用法を表すことが可能である。他方、「化学的な組成からして同じ種類であるという点で同じであるグルコース」という出題文での用法を表すことも勿論可能である。「何についての同じさなのか」が異なっているのだ。そのどちらであるかは文だけを眺めていて決定できるようには思えない。前後関係・文脈といったものが在るから決定可能な場合が多いのではないだろうか。
「「悪文である」は言い訳!!悪名高き「アミラーゼ問題」の解答・解説」の著者さんは、「同じ」という箇所で「〇〇と同じ」というふうに「○○と」を補って考えることを推奨しているようだが、しかし残念ながら「同じグルコース」の箇所は「○○と」を補うことはできない。上述の事柄から判るように「○○と」が省略されているわけではないからだ。ただし「同じ」の箇所に「ように」をも補うならば、「デンプンと同じようにグルコースからできていても」と措定することは可能である。ただそれは前述の通り「同じ」の二つの用法の片方でしかない。「同じ種類」ということだ。もう片方の「分子に振られた同じ<背番号>」という方はそのやり方では考慮することができない。「〇〇と同じ(ように)」を補えば解けるはず、というのは最初からその用法しか想定していないから、或いはその用法だけは想定可能だから、ということでしかない。この著者さんは「同じグルコース」が二義的であることに気づいていないだけなのだ。
この「同じ」が二義であるという在り方は、「限定的名詞修飾節」と「非限定的名詞修飾節」との相違というトピックと関連がおそらく在る。「関係詞節の制限用法、非制限用法について」を参照してみよう。これによると地域に住む猫を助けよう。
という例文は「猫のうち地域に住むようなもの」を助けよう、という文意だ。これは限定的名詞修飾節と呼ばれる。他方、内戦が続くシリアに反体制派が進行した。
という例文は「シリアのうち内戦が続くようなもの」に進行した、という文意ではない。「内戦が続いているようなシリア」に進行した、という文意である。これは非限定的名詞修飾節と呼ばれる。「侵攻した」の間違いだろうか。で、「同じグルコース」にも似たような事が当てはまると思うのだ。つまり限定的名詞修飾節であるならば、「グルコースのうち同じもの」つまり「宇宙のなかのグルコースに背番号を振った時に同じ番号のもの」を指すことになるし、他方、非限定的名詞修飾節であるならば、「同じようなグルコース」つまり「同じ種類であるグルコース」ということになる。出題文は後者の用法である。
実を言うと「アミラーゼ構文」のこの出題文はこのような二義性を複数個所に見出すことができる。それらも「限定的名詞修飾節」と「非限定的名詞修飾節」との相違というトピックと関連がおそらく在る。そうすると、この文章は「文意を一意に決定することができない」文がいくつも含まれた文であることになり、検定教科書に用いることの妥当性が疑わしくなる。実際には勿論「文脈」「前後関係」によって教科書の内部では一意に決定可能なのだろうが、だとすれば教科書から一部の文だけを抽出する側がもっと配慮しないといけない事になるはずだ。次のように二ヶ所で二義的な文章になっていることが言える。
この点も「限定的名詞修飾節」と「非限定的名詞修飾節」との相違というトピックの圏内のものである。「同じグルコース」の二義性とおそらく同じ問題点である。
このような多義的な文章が登場してしまう事情には、一つは量化子や冠詞・単数複数などが日本語で記述する際に、過度にいい加減になってしまいやすい点にも在るだろう。
他にもこの書で紹介された出題やその分析には違和感や異論の在る点は多々在ったと思う。しかしきりがないし、焦点が絞られない。以上の点を述べていったん有識者の検討を求めようと思う。
「同義文判定」に関する新たな論点を「教科学習だけではつかない国語力」のなかの後半の節「内容面での国語力の要その2:「出題者がどのような能力を測ろうとしているのかが理解できないと、出題文の重要語の語用規則が回答者にわからない、という出題において、出題者の意図を理解する能力」」に書いた。併せて読んでほしい。(2019又は2023に追記)