新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を補正するために必要な論点

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はじめに

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社,2018)の論述には改善すべき多くの問題点が見い出される。つまり、書かれたままの状態では、この書は事態の解明や改善に大して役立たなくて、検討や改善が必要な書なのだ。そのため、解明と改善のための私が考案した論点の一部を提示する。ただし第三章の一部の箇所に言及箇所を限定して、なおかつ、かなり雑に書きなぐる。この書は丁寧な検証に値する書ではない。また、同じ論点の提示や主張をしている人が他にたくさんいるのかも知れないが、それを調べている余裕が無いので、しない。

「オセアニアはアジアではない」という知識

p195-196、問1。

仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アメリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

オセアニアに広がっているのは(    )である。

1.ヒンドゥー教 2.キリスト教 3.イスラム教 4.仏教

この出題に誤答する原因が、出題文の文法構造にほうに在るのか、それとも使われているカテゴリーのほうに在るのか、という点だけが決定的に重要である。文法構造の理解に原因が在るかどうかは次のような出題の正解率で検証すれば良い。

林檎は青森県、長野県で、蜜柑は和歌山県、愛媛県、熊本県で、苺は栃木県、福岡県、熊本県でおもに収穫される。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

福岡県でおもに収穫されるのは(    )である。

1.梨 2.林檎 3.蜜柑 4.苺

もし「読まなくても解けてしまう」ことが心配なら、もう少しなじみのうすい果物や野菜で作問すれば良いだけだ。

さてそれと同時に、当然思い浮かぶはずの点を検証する必要が在る。それは「オセアニアはアジアではない」という知識の有無と正解率との相関を調べることである。というのも、もし「オセアニアはアジアではない」という知識が無い者がこの出題に対して回答する場合、運頼みになるはずだからである。現にこの設問には、「北アメリカ」と「南北アメリカ」といったカテゴリーや、「東アジア」と「東南アジア」というカテゴリーが、無造作に使用されている。「南北アメリカ」に「北アメリカ」が含まれるのか否か、「東南アジア」と「東アジア」とは並列に書いてしまって本当に重複が無いのかどうか、など気になるはずのところである。だとすれば、「オセアニア」だってひょっとしたら、たとえば「北アフリカ+西アジア」の広域を指すカテゴリーかもしれないではないか、ということが想像できてしまうのだ。だから「オセアニアはアジアではない」という知識は、そして「オセアニアとはそもそも地域を表すカテゴリーである」という知識や宗教名の知識も無論、この出題文の読解のために最低限必要な知識である。

この種の指摘をこの書に対して逐一して回ることは、単なる時間の無駄であり、これ以上あまり述べない。

接続助詞「が」の濫用

接続助詞の「が」が無造作に用いられている出題文が目立つ。そして新井はこの点をとりたてて重視していない。だが私は少し気にする。というのも、この書を離れて一般的に言えば、接続助詞「が」には、読解の点で二つのトラブル要因の存在が想定可能だからである。

一つは、文が逆接なのかそれとも順接(など)なのかが、「が」を手掛かりにしても判明しないということがありうる。つまり「接続助詞“が”」というのは、その存在を手掛かりにして内容を読解するという目印になるのではなくて、反対に「が」以外の部分が読解できることによって「が」の機能も推定可能になる、というそういう要素なのである。だから「が」以外の他の箇所に知らない単語が在ればそれだけで読解はできなくなる。したがって「接続助詞“が”」はなるべく使わないほうが伝達効率は良い、と言えるのだ。使うならせめて逆接に統一するのが良い。

もう一つ、「が」は接続助詞だけに在るのではなく、格助詞にも在る、ということが言いうる。格助詞の「が」なら前置要素は名詞である。それに対して接続助詞の場合は前置要素は述部である。だから見分けは容易である。…とそのように考えるなら早計である。述部の主要要素に名詞が来るという文もまたいくらでも存在するからである。

モーツァルトが短い生涯に交響曲を41曲も作ったということに代表されるその才能、同時代の有力な作曲家であるサリエリの激しい嫉妬を招いたとも言われている。

↑上記は格助詞「が」が使用された文の例である。

モーツァルトが短い生涯に交響曲を41曲も作っただけでも神業だ、最後の3曲は3大交響曲と俗に呼ばれることがあり、わずか2ヶ月で作られたと言われている。

↑上記は接続助詞「が」が、名詞を述部にもつ要素に後続して使用された文の例である。

「こんなものを読み違えるわけがないだろう」と思うかも知れないが、問題は、よりなじみの薄い語句を頻繁に用いた文章が長々続いても間違えないかどうか、である。間違えたり混乱しない自信が在るのなら、そういう人は気にしなくて良いと思う。ただ私には自信は無い。書き手がタイプミスをしたり、出版社が植字ミスをしないという自信も、無い。

さて、接続助詞「が」が逆接なのか否かという話題に戻す。

p200。問2。次の接続助詞「が」は、後続箇所を読めば、「逆接である」と遡行的に判定可能だ。

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

余談として述べる。この文はとても不親切だ。せめて次のように書かれていてほしい。

Alexは男性にも女性にも使われる名前であり、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

できればさらに次のように書かれているほうが親切である。

Alexは男性にも女性にも使われる名前であり、女性の名であるAlexandraの愛称であるが、男性の名であるAlexanderの愛称でもある。

もう一つだけ簡単に述べる。「の」という助詞は非常に多義的である。だから「XのM」という要素が文中に在った場合に、XもMも使い慣れない語句である場合、その文法的読解は絶望的になりうる。通常は、XもMもなじみの在る語句だから「の」の機能も読解できているだけなのである。さて、この出題文はXの箇所はなじみの薄いだろう外国人の名前であり、Mの箇所はこれまたなじみの薄いだろう「愛称」という単語なのである。なので、この箇所の助詞「の」の理解は、神頼みになってしまいやすいのだ。つまり新井が推定しているような「わからない箇所は飛ばし読み」という要因以外にも、「多義的である“の”の文法的機能が推定できない」という要因が想定可能なのである。

閑話休題。p204。問番号無し。次の接続助詞「が」は、後続箇所を読めば、「逆接である」と遡行的に判定可能だ。この出題文はあとで少し仔細に検討する。↓

アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

p207。問4。次の接続助詞「が」は、後続箇所を読めば、「逆接ではない」と遡行的に判定可能ではある。しかし、初読の際に「逆接だろう」とまず予測させてしまう可能性が高いため、明白に読みの妨害になりうるような「が」である。↓

メジャーリーグの選手のうち28%はアメリカ合衆国以外の出身の選手であるが、その出身国を見ると、ドミニカ共和国が最も多くおよそ35%である。

それにしても「28%」と「35%」とでその基準値が異なりそのことを明示もしないこの文章は、もし反対に、生徒や学生が書いてきたレポート中の文だったりしたら、教師は怒り狂うはずのものである。或いは数学の答案で書いたら減点されるに決まっているはずのものである。あくまで教師や教育する側の者が書いて生徒が一方的に受け取るだけの文章であるから苦情が出ていないのに過ぎない。そして、そのことに新井が言及しないというその感覚が、とにかく不思議なのである。

ともかく言えることは、この接続助詞「が」の存在によって、この文が「逆接」構造をもつ文章であるといったんは誤読させてしまうことに問題が在る。その誤読をした場合、「アメリカ合衆国の比率は28%であるのだが、しかし(小国であるにもかかわらず)ドミニカ共和国の比率は35%である」というふうにさらなる誤読を誘発されるのである。

この出題文ははっきり言うと、「正解」できている生徒の内心には次のような想念が浮かんでいるはずのものである。「この文章ひっでえな。まあでもどうせ、この35%というのは(100-28)%のなかでの35%というふうに言いたいんだろうな。そう読まないと出題として成り立たなさそうだし、矛盾してしまう、そしてそう出題すれば出題者の意図が読めない生徒は間違うからテストにも向いている、ってかあ。あと、「以外」を読み落とす生徒も多いだろうし、ってわけだろうなあ、でも「以外」を読み落とさなくたって、普通はそうは読めねえし、生徒がテストでこう書いたら減点確実だけどな。全くしようがねえ出題文だよなあ…」、というわけだ。少なくともこの文章は「商売する人がお客に読んでもらう文章」としては失格のレベルである。どちらかというと私の感覚では「詐欺師がカモを騙すための文章」に近い。あまり大きく変えないうえでの代案として次の文を提案しておく。↓

メジャーリーグの選手のうち28%はアメリカ合衆国以外の出身の選手である。その出身国を見るとドミニカ共和国が最も多く、その残りのおよそ35%である。

接続助詞「が」が使用されている出題文は以上の3箇所であった。うち2つは「逆接」の用法であり、1つは「逆接ではない」用法であった。それらは一旦読んだ後遡ること無しには確信できないものである。また未知の語句やなじみのうすい語句が使われている場合は、假に遡ったとしても「が」の機能が確信できるとは限らないものであった。また「逆接ではない」用法の場合、誤読を誘発しやすいものであることも確認できた。「読解」の結果を検証するときに、接続助詞「が」の存在を看過してはいけない。

とりたて助詞「は」が「兼務」である場合、非顕在になった助詞も読み取る必要がある

先に予告したように、p204の出題文を少し仔細に検討してみる。この出題が誤答を誘発した理由はわりと容易に推定できる。対比の「は」を用いていることで、文法的な格関係(「を」格)が非顕在になったからである。この事態は「“は”の兼務」としばしば呼ばれるものである。ただし、通常「“は”の兼務」と呼ばれる場合は、「は」が「主題を表す“は”」である場合が多いのであり、「対比を表す“は”」の場合はあまり無いように思う。なので、この対比用法での非顕在には特に注意を要する。

とりたて助詞「は」の用法に関して、日本語記述文法研究会・編『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』(2009,くろしお出版)(amazon)を参照する。とりたて助詞「は」では、対比を表す用法と主題を表す用法とが在り、その二つの用法は連続的である場合も多い。つまり、この参考書を参照するときにも、その両方の該当箇所を参照したほうが良い。そういうわけでこの書の、第9部第3章「対比を表すとりたて助詞」第2節「“は”」(p30-38)と、第10部第1章「主題の概観」第1節「“は”の機能」(p183-186)を両方とも軽く一瞥しておく。すると、出題文の分析にあたって直接的に有益な記述は、p34-35の次の箇所である、と判る。↓

対比を表す「は」はさまざまな格成分をとりたてる。

ガ格やヲ格の格成分の場合、格助詞は現れず、名詞に直接「は」がつく。それ以外の格成分の場合、通常、格助詞の後に「は」がつく。

この箇所がわかれば、出題文の該当箇所の理解にも役立つ。↓

アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから一つ選びなさい。

セルロースは(   )と形が違う。

1.デンプン 2.アミラーゼ 3.グルコース 4.酵素

この出題文は、次のように書き換えるだけで、間違いなく誤答は減るはずだ。対比の「は」によって隠れてしまった、潜在していた格助詞「を」を復活させ、その分の「は」の位置を移動させれば良い。この対比の「は」自体を消去することは難しい。

アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロース分解することできない。

当然のことながら助詞「は」の前置要素は必ず「主語」である、などというふうに誤解している人が回答すれば、誤答する可能性は極めて高い。そんなふうには国語科の検定教科書にもたぶん書いていない。その辺の話を持ち出されないように「巧妙に」ごまかして記述しているはずだ。

筆者がこの文を少し仔細に検討したいと思ったのは、この文章は「理系の専門家」からみてどうよ?と疑念を抱いた、という事情が在る。この文章は専門家からみてもあまりにも文意が曖昧すぎないか、と思ったのである。次のような疑問が浮かぶのだ。もちろん、このような疑念が浮かんでしようがない回答者の場合、回答に集中しづらかったり、誤答をしやすくなる展開も充分在りうる。↓

このような多義的な文章が登場してしまう事情には、一つは量化子や冠詞・単数複数などが日本語で記述する際に、過度にいい加減になってしまいやすい点にも在るだろう。

他にもこの書で紹介された出題やその分析には違和感や異論の在る点は多々在ったと思う。しかしきりがないし、焦点が絞られない。以上の点を述べていったん有識者の検討を求めようと思う。

追記

「同義文判定」に関する新たな論点を「教科学習だけではつかない国語力」のなかの後半の節「内容面での国語力の要その2:「出題者がどのような能力を測ろうとしているのかが理解できないと、出題文の重要語の語用規則が回答者にわからない、という出題において、出題者の意図を理解する能力」」に書いた。併せて読んでほしい。