心的状態語・心情語の児童期での獲得におけるフィクションの絶大な効用

はじめに

「なぜ幼児や児童のうちだと読書の対象は文学作品やその他のフィクションが圧倒的に多いのだろうか?」と、国語力や日本語力というものについて考えるほどの者ならば、一度は考えるだろう。理由の一つは、もちろん児童向けにだと、これでもかというほどにフィクションを書く作家が多いからである。また、自然科学や歴史や地理等の知識・知見を子供向けに解説する書籍も、有名なものや記憶に残りやすいものだと多くはやはりフィクション(主に学習マンガ)の形式を採っている。児童向け書籍においてはフィクションは供給過多なのだ。だが、それだけが要因ではない、と感じる。仮に児童向けに書かれたもののなかで、量的に・冊数的にフィクションやフィクション形式の読み物が半分以下だったとしても、やはり児童や幼児はフィクションの方を選ぶだろうし、その保護者や教師もそう仕向けるだろう、と思えるのだ。そこに根拠は特に無い。単なる直感だ。だが、その直感に有利な話を一つだけすることなら、できる。なのでそれをこれからしようと思う。そのしようとする話というのは「心的状態語・心情語」の習得・獲得のためにはフィクションが抜群にすぐれているからだ、というものだ。そのことに保護者や教育者はうすうす気づいており、だから児童に勧めるのではないかと推察できるのだ。

重要な補足をしておく。本稿の主張が特によく当てはまるフィクションと、そこまでは当てはまらないフィクションとが、有る。多くのマンガ作品・テレビ番組・映画作品などではあまり当てはまらない場合が多いと思う。これらのなかで以下の主張が当てはまる度合いが高いものが有るとすれば、「ナレーション」(音声でも文字でも良い)がやたら頻繁に用いられるタイプのものに限られるだろう。だが、それは絵や映像を用いた作品としては、すぐれていない場合が多いだろう。その一方で、文字で書かれた文学作品や娯楽小説やライトノベルや絵本には、以下の主張が当てはまる度合いが高いものが、或る程度多いだろう。というのは、映像やマンガでならば「映像」や「絵」で描かれる要素までもが、語り手によって「文章」という語りによって語られるからだ。その「語り」にこそ特に当てはまる特徴に注目して、以下の主張はなされる。ただし、学習マンガまで含めてフィクション全般に「せりふ」というものが占める割合はまずまず高いので、その「せりふ」という要素にも、以下の主張は少しは当てはまる。ただ「せりふ」という要素は本稿では中心的に検討したり想定したりはしていない。以上、補足を終える。

今タイトルで「心的状態語」と「心情語」という二つの似たような語を並置してみた。この二つの語をことさらに選び並置させた理由は、この二つを検索エンジンで検索すると全く重なるところの無い二種類の読者層が読みそうな、全く別系列のウェブページがおのおの検索されるからだ。片方の語でしか検索しない者が、まったく自分が読みそうに無いページにこのタイトルでたどりつくことがこの並置によって可能になるわけだ。そして、この二語に替わるような、より定番的な語が特に有るようにも思われない。なのでこの二語を主に用いて、以下説明していこう。

「心的状態語・心情語」の習得・獲得のためにはフィクションが抜群にすぐれている、という主張には、二つの意味合いが有る。一つは、フィクションに特に目立つ特徴というものが誘因となってそうなるというものだ、もう一つは、他言語と異なる日本語に特にみられる特徴が誘因となってそうなるというものだ。前者は分析美学の研究成果のごく一部から、後者は日本語学の研究成果(および日本語教育の教育成果)のごく一部から、導き出すことができると思う。ただ筆者はこの両者に関して、おそよ素人であるのみならず、参考文献をせいぜいこの一週間以内に読んだばかりと言って良い状態に近い。つまり、この二つの方向性にきちんとした交通整理ができたうえで述べるわけでは、全くない。せっかくきちんとした専門的知見を参照はしながらも、その述べる側の筆者の見識はまったく素人の流し読みレベル以下程度でしかないのだ。要するに以下の内容はかなり残念な内容になるほかないのだが、おそらくその素人の雑で浅はかな、論としてはまったく形を成していない見解こそが今は求められているということなのだろう、…と、そのような情勢判断をして、このきわめて粗雑な内容を公表することにする。この粗雑な文を踏み台にして、しかるべき専門家がしかるべき精緻化をしてほしいと思うばかりだ。

フィクションの「語り手」は、心的状態語・心情語を多用できる

「心的状態語・心情語」の習得・獲得のためにはフィクションが抜群にすぐれている、という筆者の主張の一つの根拠は、フィクションという様式は他に抜きんでて「心的状態語・心情語」というものをふんだんに用いることがしやすい、というものだ。小説や児童文学の語り手というものは、「登場人物の気持ち」の類をこれでもかというほど雄弁に語ることが可能だ。「山田は落胆した。」「吉田は卒倒せんばかりに驚いた。」などという文は、フィクション以外ではそうそう気楽に使ってよいものではない。普通は推測文だったり、心情ではなく観察可能な言動・振舞や前後の状況のほうに言及するものなのだ(「山田は落胆のそぶりを見せた。」「吉田は卒倒せんばかりの驚きを示した。」)。たとえば「怒った」とか「笑った」とか「喜んだ」などが、その「振舞」のほうに言及する代表的な語彙だろう。「落胆した」は、マンガの中でならしかるべき漫符やオノマトペとともにそれを「振舞」として絵・絵文字で描写可能だが、現実の社会生活のなかでは「落胆」に相当すると見なして良い「振舞」はあまり無いと思う。「卒倒せんばかりの驚き」も同様である。普通の程度の「驚く」という振舞は無論有るが、「卒倒せんばかりの驚き」が日常生活で振舞や行動として容易に成立すると考えるのは、やはり「マンガ的想像力」の行きすぎであると思う。と、そんなこともあって、シンプルに心的状態語・心情語を用いるのに比べて、現実の社会生活で用いられるそれらのほうが、いわば「文法的に難しい」。フィクションのなかでこそ、この種の文は「語り手」によって特権的に自由自在にシンプルな習得容易な文型で使われうるわけだ。だからフィクションは「心的状態語・心情語」の習得・獲得のためには向いている、これらの語の用法や文法規則を習得するのに好都合である、日常使われる場合の文に比べてずっと文法・語法的にも習得しやすい文形式であるからだ、そう思ったのだ。その際、筆者はこのような語り手のことをかつて「超越的語り手」と、学術の方面での知見・呼び方を知らないで勝手に呼んでいたし、それに近い表現を他のページで使ってもいる(「あらすじと要約の違い」)。ともあれ、この論点は、筆者自身はかつて「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」の末尾の補論「「<国語力>をつけるために文学作品を読む」際に注意する点:「超越的語り手」の繰り出す文」で述べた。そこではこの論点は素人考えだと述べたが、やはり専門家の議論のなかでは初歩的な出発点に位置する論点だったようだ。

フィクションという対象についての考察を一瞥するために、筆者は清塚邦彦『フィクションの哲学(改訂版)』(勁草書房,2017)の本文箇所を雑に読み通した。この著作に主に言及しながら、述べていく。この著作の一大特徴だと思えるのは、通常だと「フィクションの要素をもつがしかしフィクションには通常分類されない」ような対象の多くを、むしろフィクションの一種として考察対象に積極的に含めていることだ。たとえば、『冷血』(冷血 - Wikipedia)などの「ノンフィクション小説」や、絵画などの視覚芸術作品もフィクションの側に積極的に入れて、考察の対象としている。だから、たとえば筆者がかつて書いた「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」の末尾の補論「「<国語力>をつけるために文学作品を読む」際に注意する点:「超越的語り手」の繰り出す文」で述べたような、ジャーナリスティックな文章に「超越的な語り手」がいかにもそれらしい叙述を述べることに少しいら立つ、といった読後の感想というものが有りうるわけだが、この清塚の著作ではそのような感想にはたぶん出番が無い。ジャーナリスティックな文章だろうがなんだろうが、そのような「超越的語り手」がそのような語り方をするのなら、清塚の分類ではそれはフィクションにほかならないからだ。事実を報告することが主目的である文章であることと、フィクションであることとは両立する、というのが清塚の立場であり、かつそのタイプの文はフィクションであるという分類基準のもと行なわれている考察だからだ。そういうタイプの著作であり考察であることをまずは述べておく。たとえば「大学生のレポートの書き方」でしばしば採用されるのは「事実/事実以外」という区分だが、清塚のこの著作が立脚するのはむしろ反対に「フィクションの要素をもつもの/それ以外」である。事実面で正確なことがどれだけたくさん書かれた文章であっても、或いはそもそも文章以外の作品等でも、フィクションの典型的な特徴を備えていればそれはフィクションの側に入る、というそういうスタンスなのである。

清塚のこの著作は、「何かが積極的に解明された」という明快な読後感には乏しい。過去に誰か著名な研究者が述べた理説が検討され、たいていの検討箇所で「それは不充分な説である」という結論で終わるからだ。この清塚の著作から、「全体として解明された事柄」つまり「結論」から何かを学ぶというのは、あまり得策ではないだろう。そうではなくて、個々の議論が検討されるなかで、清塚が「論拠」として積極的に採用していった命題・前提などから主に学ぶというのが、特に筆者のような、ど素人の読者には向いているだろう。それで学ぶことのできる事柄がいろいろと本来なら有る著作だ。だが、ここでは本稿のタイトルの趣旨に沿った内容に限定して、参照していく。

本稿の趣旨に大きく影響する箇所は、次の二点であろう。

一つは、導入ともいえる箇所での次のハンブルガーの指摘に関連した箇所である。筆者が先に、「専門家の議論のなかでは初歩的な出発点に位置する論点」だと述べた当の箇所である。ハンブルガーが「体験話法(erlebte Rede)」と呼び、また、近年では専門家によって「自由間接話法(free indirect speech)」とも呼ばれるような、統語論的特徴である。p26~27にかけての清塚の説明を引用するのが早い。

虚構的な語りがそのつど変幻自在に視点を変えるという事情のもう一つの顕著な現れとしてハンブルガーが指摘するのは、登場人物のおかれた状況について、通常ならばいかなる語り手もとうてい知りえないはずの細部が次々と語られる、という点である。この点をきわだたせるためにハンブルガーはまず動詞の分類から話をはじめている。

この区分で言えば、ハンブルガーが注目したのは、後者の内的過程の動詞を多用して行われる登場人物の内面に関わる語りである。もちろん、これらの二種類の動詞は。フィクションにおいても、フィクションならざる事実の主張のなかでも、ごくふつうに用いられる。しかし、これらを事実の主張のなかで用いるさいには、とりわけ内的な過程の動詞の使われ方という点に関して、独特な非対称性が見出される。われわれはふつう、自分の考えていることや考えていたことについてならば権威を持って断定的に語りうるが、他人が考えていることや考えていた事柄については、間接的な証拠にもとづいてしか語ることができない。その結果、非虚構的な語りのなかで内的過程の動詞が用いられるさいには、語り口は多分に推測的になり、多くの場合には、むしろ推測の根拠についての語りが大部分を占めることになる。じっさい、そうしたことは歴史書ではよくあるだろう。しかし、フィクションの語りのなかでは、推測的にしか語れないはずの事柄が、なぜか断定的に、また饒舌に語られる。こうした事情がさきほどの過去の表現と同様、内的過程の動詞は、通常ならば、語り手がだれであり、また語られる一連の出来事のなかで語り手がどこに位置しているかに応じて使われ方が決まってくる。要するに、語り手は、自分のおかれた状況や自分が手にしている証拠に見合った言い方を選ばなければならない。ところが、フィクションの語りでは、そのような使われ方の秩序を無視した形で内的過程の動詞が用いられるわけである。

ハンブルガーは、右に述べた内的経過の動詞を多用して、登場人物の内的な思考過程を逐次詳細に語り聞かせるような語り口を「体験話法(erlebte Rede)」と呼んでいる、それはまた、近年の論議のなかではよく「自由間接話法(free indirect speech)」とも呼ばれる。通常の間接話法ならば、じっさいに本人が発した言葉を用いた直接話法に言い換えが可能であるはずだが、自由間接話法と称される語りは、そうした言い換え可能性には拘束されることなしに、作中人物の内面を詳細に語り聞かせる。ドリット・コーンは、その種の語り口のもっともきわだつ場面として、登場人物の死の場面の描写をとり上げている。ある人物が臨終のさいに意識している内容は、別の人間からはもっぱら推測的にしか語られえないはずだが、それがフィクションでは、あたかも当人の内面の意識の流れを第三者的な視点からリアルタイムで書き留めているかのような語り口で語られるのである。

清塚がハンブルガーを援用して述べるこの論点自体は思いつきやすいタイプのものであるだろう。筆者のようなど素人でもそれなりに想到することができた論点だ。問題は、この論点をどのような枠組のなかに位置づけるかである。おそらく、その位置づく枠組は次のものだ。清塚のこの著作で「たぶん結論はこのような方向のものになるだろう」という見通しとして語られた箇所というものが有る。そこではカリーが「虚構的な作者(fictional author)」と呼び、ウェイン・ブースが「内在する作者(implied author)」と呼んだものに関説して、その想定は冗長・余計であるとして、次のように述べられる。この「虚構的な作者」とは、p202にて、清塚によってここに出てくる「虚構的な作者」という言い方は、ここではたんに、作者とは同一視しえない語り手、と考えておいていただきたい。と記載されており、暫定的ではあるかもしれないがそのように受け取って良いと思う。p209~210。

さて、ここでは、内在する作者というブース由来の概念が文学理論において持つべき意義についてふみ込んだ検討を行う用意はない。しかし、すくなくとも、それを虚構的真理の問題に応用するカリーの試みに困難があるという点には、やはり触れておかなければならない。困難とは、要約的に言えば、「虚構的な作者」の想定が、当面の文脈では、余計(redundant)であるようにみえることである。

たしかに、一人称のフィクションの場合ならば、語り手が何を語るかに注視しながら、そこに信念帰属を行うという操作には、たしかな実質がある。それはたしかに、実在する話者の語りを聞きながら、その話者にさまざまな信念を帰属させる場合と似ている。しかし、より一般化された虚構的作者の概念が持ち出される段階になると、そこへの信念帰属がいかなることを意味するのかがはっきりしなくなる。虚構的な作者は語り手とは同一視できないから、われわれは実在する語り手の語りを聞くのと同じようにこの虚構的な作者の語りを聞くというわけにはいかない。しかし、虚構的な作者はまた実在の作者当人とも異なるのだとされる。それは、作者が現実に記した一連の言葉を通じて浮かび上がってくるような人格的存在だが、しかし、受け手の側が直接に耳を傾けている語り手とも異なる。それは、あえて言えば、われわれが語り手の語りに耳を傾けることを通じてわかってくる作品世界の相関項として想定されるような作者のイメージ、とでも言うほかはないように思われる。しかし、そうすると、虚構的な作者という概念は、「作品世界」であるとか、それをふまえた「フィクションのなかでの真理」という概念にさきだってそれを説明するものというより、むしろ、その後に来るもの(すくなくとも、それと同時的に得られるもの)と言うのが正確であるように思われる。つまりこういうことである。われわれはまず、作者が作り出した語りに慎重に耳を傾けることで、その作品が提示している虚構世界がいかなるものであるかを理解しようとする。そのようにして理解された世界は、作品における語りとすんなり一致していることもあれば、信頼のおけない語り手の事例のように、くいちがっていることもある。しかし、どちらであるにせよ、われわれが作品世界を理解するための手がかりとなるのは、作品を構成している語りそのものと、作品の伝承にかかわる文脈情報とである。そして、それらにもとづいて一定の虚構世界が理解されてはじめて、虚構的な世界を作り出した作者のイメージができあがってくる。つまり、虚構的な作者は、虚構的な世界が理解された後に、事後的に想定される存在であるのであって、けっしてその逆ではない。虚構的な作者について考察をめぐらすことで虚構的真理について何かが明らかになることはないと言うべきである。

引用によれば、虚構的な作者はまた実在の作者当人とも異なるのだとされるのと同時に虚構的な作者は語り手とは同一視できないのであるようだから、筆者が使ってきた「超越的な語り手」とここでの「虚構的な作者」とは重なる点はあっても同一ではないだろう。やはり「暫定的な規定」であったようだ。なので、筆者が考えたい話題がこの引用箇所で述べられているとは限らない。ただ筆者が気になったのは、「初めに語り手というものがまず居て、それによって作品世界や虚構的真理が明らかになる」とか、「語り手がまず居て、だから語りが有る」という常識的な理路とは反対のものが成立する可能性が示唆されている点である。「虚構的真理」とはたとえば「明智小五郎はお茶の水で探偵事務所を開業していたことがある。」「早治大学文学部の唯野教授は、野田耽二という変名で小説を発表していた。」等の作品内で成立している「事実」のことである。で、この箇所からは、反対に「語りがまず有るから、語り手というものが事後的に想定されるのだ」という理路が構想可能であり、清塚は今後その方向性で考究を進めていくように思えたのだ。

この見込みをもつならば、当然のことながら「心的状態というものがまず成立していて、それだからその心的状態の描写が有るのだ」というのと反対の理路、つまり「心的描写がまず有るから、心的状態というものが先行的に成立していたというように思われている」を想定するのも当然だろう。ともかく、清塚がこの著作で、「今後の方向性として予示」したかのような「まず語りがあって、だから語り手というものが事後的に想定される」といった理説の可能性と、「まず心的描写というものがあって、だから心理状態というものが事後的に想定されうる」というものとは、親和的な説明図式である、ことを指摘はしておこう。とは言え、これもまた、筆者のかすかな記憶だと、それ自体は大して目新しい主張ではなかったような気がする。これもまた、「その認識を使ってどのような理説を構築するか」が重要になるタイプのものだろう。

日本語だと、日常生活での「心的状態語・心情語」の可能な用法は大いに限定されている

「心的状態語・心情語」の習得・獲得のためにはフィクションが抜群にすぐれている、という筆者の主張のいま一つの根拠は、フィクション以外のたとえば日常生活のなかでは、日本語の場合だと「心的状態語・心情語」の可能な用法にはかなり大きな制限がかかっている、というものだ。他言語がどの程度当てはまるかはいくぶん不明だが、少なくとも日本語の場合にはそうなのだ。こういうことだ。

フィクションのなかでは、語り手は「登場人物の内面・気持ち」をいくらでも語ることができる。「彼は落胆した。」「彼女は卒倒せんばかりに驚いた。」などといったぐあいにだ。さて、そのフィクションが一人称の語りであった場合はどうか。日本語以外の多くの言語でも問題無く同じ性質がおそらく当てはまることだろう。だが日本語の場合は、そこまで単純ではない。たとえフィクションであっても「私は落胆した。」「私は卒倒せんばかりに驚いた。」とシンプルには言えないのだ。これらの文例がまったく普通に見えるとすれば、それは一文しか今、記載していないからだ。フィクションのなかで、「私は○○した。」といった行動を記述する文章が連続する中にこれらを配置してみた場合、はっきりと「日本語として異常だ」と思わずにはいられないだろう。通常は、「心的状態語・心情語」というものは「落胆した。」「卒倒せんばかりに驚いた。」と主格抜きに書くのだ。「私は」などつけてはいけないのだ。なぜなら「私」「私たち」のいずれかしかそういう心的な述語が後続しないのが、フィクション以外でなら通常だからだ。「あなたは」「彼は」などの主格は普通は使えないのだ。使えるのが「私は」だけなのだから、必要の無いその主格をわざわざ記載するのは「異常な日本語」つまり「非文」になってしまうのだ(ただしその非文性が明らかになるのは一文を言い終わった地点以降になるため、そのことの異常性はかなり気づかれにくいものになる)。動作や行動について書いた文章とは、その点で異なる。動作や行動なら「誰が?」と問われるから、「彼は」とか「私は」と書くことがむしろ必要だと見なされるが、「心的状態語・心情語」の場合は「私」に決まっており、だから通常ならまず書かないほうが正しい日本語なのだ。その日本語文法・運用の規範は、フィクションの場合ですら貫徹している。フィクションでも、「心的状態語・心情語」である述語に対して、「私は」といった主格をわざわざ記載することは、通常しないのだ。尤も、実際には特に「私」が数居る登場人物の一人として言わば等価に登場している場合などは、常に「誰が」が論点になっているため、「私はその出来事に大いに落胆した。」式の文章も大いに登場しうる。しかしともかくも、そこで「私」が焦点化されていることが自明である場合なら、「その出来事に大いに落胆した。」といった「私」抜きの叙述の方が通常となるし、その点でフィクションと日常生活とで大きな違いというものは無い、という点が重要なのだ。以上をまとめ、かつ新たに「あなた」の場合も付け加えると、次のようになる。

上掲のうち、特に「“彼はその出来事に大いに落胆した。”とは言えない。」という点に関しては、日本語を外国語として習得する人向けの教材などでは、わりと常識とされる初歩的な論点でもある。日本語教育学や日本語学のなかでは、けっこう常識的な論点であるわけだ。たぶん、多くの言語ではそのような言い方が、言わば機械的な代入操作として容易・可能であるため、もし特に注意しておかなければ間違ってそのような言い方をしてしまう学習者が出るからでもあろう。ついでに述べておくと、これらの教材は「外国語を母語とする」学習者を想定しているためだと思うが、筆者が今まで「主格」と述べてきたものを、けっこう平気で「主語」と書くことも有るようだ。「主語」と言わないと「外国人」にはかえって理解が難しくなってしまうからだろう。

この種の論点を或る程度詳しく紹介している日本語学の教材の一つに、野田尚史『はじめての人の日本語文法』(くろしお出版,1991)の第5章「人称」の章がある。ここではたとえば「あの子はうれしい。」や「両親は一度日本に来たいです。」「私はあなたを愛します。」などといった「日本語の文らしくない例」がいろいろとり上げられている。また、このタイプの説明に満足できなくて書かれた論文(PDFファイル)であるかのような、甘露統子の「人称制限と視点」「「語り」の構造」も有益であるかもしれない。ただし筆者の学識(の無さ)ではこれらを正当に評価することが大いに難しいため、紹介にとどめる。

筆者自身が、現時点で考えつくことの一つは、「私はその出来事に大いに落胆した。」という文が発話しづらい事情と連動しているのは、この「私は」が「対比の“は”」として受け取られてしまいがちな件である。つまり、放っておくと「私はその出来事に大いに落胆した。」という文は「だから、別の誰かは落胆どころか、喜んでいるでしょう。そうでしょう」という含意のほうをもってしまいやすくなるのだ。

あくまで例えば…だが、あずまきよひこ『あずまんが大王』で「ちよちゃんは、よく頑張っているねえ」と誰かが発話すると、多くの読者はおそらく「別の誰かは頑張っていない」というふうに「対比の“は”」として受け止める。岩明均の『寄生獣』で「これは、俺はやってない」と容疑者が発話すると、警官は「じゃあ、別の事件はお前がやったんだな」と「対比の“は”」として受け止める。川原泉の『メイプル戦記』で「今のはわざとじゃない」と誰かが発話すると、登場人物たちはいっせいに「では、さっきのはわざとだったんだな」と「対比の“は”」として受け止める。このような発話解釈・文解釈の可能性というものが、かなり広範にみられるものとして、その傾向自体も日本語使用者に意識されている。「私はその出来事に大いに落胆した。」といった発話が困難であり、不自然な日本語に思える事情も、それと無関係ではあるまい。単に主格が「私」「私たち」しかありえないから、というだけではなく、「その言い方は私以外の別の者はそうではない」という含意までもってしまうから、そういう性能が「は」という語に備わっているからだ、という点も有るに違いない、ということだ。とりわけ述語が「心的状態語・心情語」の場合、「彼は」などのように直接的な形で述べることが文法的に許容範囲外であり実際の使用にもしかるべき状況が成立していることなどの制限がかかるのであるのだから、なおさらそうなるだろう。指摘以上のことは筆者には難しいが、一応述べておく。なお、上記のマンガ作品の三例はどれもフィクションのなかの「せりふ」からのものであり、「ナレーション」等の「語り手による語り」ではないことも付記しておく。

今一つ、次の論点も重要だと思う。たとえば「彼は悲しい。」という文字列を見たら、「彼は悲しいという心的状態にある。」という(とても下手な日本語だという)ふうに読まれるよりもむしろ、「彼という存在が悲しむべき存在である。」という(ひどくぎこちない日本語だという)ふうに受け取られやすいだろう。「私は悲しい。」ならばそんなことにはならない。「悲しいという心的状態にある」と受け取られるに決まっている。「彼は悲しい。」と「私は悲しい。」とは、同列の文法的構造をもつ文だとは見なされないわけだ。同様に、日常会話のなかで「私なんだか悲しくって(可笑しくって)」と述べた場合と、「彼ってなんだか悲しくって(可笑しくって)」と述べた場合とでは、「文意」は通常まったく違って受け取られる。つまり「主格・主語を入れ替えただけで、文意の方向性は同じ」にはまず受け取られないのだ。ところが、フィクションの場合は違う。一人称の語り手が「私はそのときなんだかひどく悲しかった。」と述べるのと、超越的な語り手が「彼はそのときなんだかひどく悲しかった。」と述べるのとでは、「主格・主語を入れ替えただけで、文意の方向性は同じ」と読者は受け取ることが可能になる。要するに、この種の表現のなかには、フィクションでまず習得するほうがあきらかに容易である、というものがいくつか有るのだ。その点も付記しておく。

ただし、フィクションで習得した「心的状態語・心情語」を、そのまま文脈無視に日常生活にダイレクトに使用すれば、それらのいくつかは、奇妙な日本語・奇妙な発話になってしまうに違いない。まず「文として、文法として正しくない」場合が有りうるだろう。それだけでなく、文としては正しくても、そのように述べて良い状況が成立してなかったりするなどの場合もまた有りうるだろう。「彼は落胆したようだった。」ではなく「彼は落胆していた。」と日常会話で述べて良い場合は確かに有る。たとえば何らかの「根拠」が提出可能な場合だ。だが、可能な状況が成立していない場合なら、その発話はやはり何かおかしい。だが、そもそもフィクションで「落胆」の語を学習も獲得もしていなければ、日常会話でそのような発話の誤りを犯すこともできなくなるし、その分「日常会話で使って良い日本語」の習得も言わば遅れることになる。「フィクションでは使って良い表現も、日常生活だといつも可能とは限らない」という学習は、あまりに遅すぎるとそのまま社会的な発達が大いに遅れることになろう。だから、その種の語彙や文法に関しては「まずフィクションで。それも児童であるうちにだ」が早道なのである。

なお、ここまでの説を述べるにあたって、西阪仰『相互行為分析という視点 文化と心の社会学的記述』(金子書房,1997)の「3章」の「心の透明性と不透明性」を検算的に参照している。この著作での主張と決定的に折り合わない主張は述べないようになんとか注意したつもりである。西阪のこの著作は筆者はおおむね支持できそうだからである。その整合性に関してここで特にふれない。ただここまで筆者が書いたことを「当たり前ではないか」と考えるようなタイプの学識を備えている人には、西阪の主張はかなり驚きのものであるはずなので、ぜひこの文献の当該箇所を参照してほしい、と思う。

結論:日常生活での「心的状態語・心情語」の用法は難しい、だから幼児や児童はフィクションから先にそれを学ぶのが手ごろである

結論は、今しがた節のタイトルに書いたとおりである。日本語で営まれる日常生活において「心的状態語・心情語」のごくふつうの当たり前の用法はひどく難しい。いわく、三人称だとしかるべく状況が成立しなければ断定できない、とか、一人称だと主格はむやみにつけてはいけない、とか「制限」が多すぎるのである。まして「大学生のレポート」などで「事実と意見を区別せよ」など言われようものなら、なおさらその用法は難しくなる。「心的状態語・心情語」を用いた文を「事実を事実として述べた文」として成立させることもが難しいし、場合によっては推測や仮説として述べることすら難しいだろうからだ。それに対してフィクションの場合、それらよりもずっと制限は緩い。仮に日本語以外の言語であればなおさら緩いだろうが、日本語でも相当に緩くなる。少なくとも三人称に関しては大幅に緩くなる。そして、この場合「緩い」というのは「文の文法構造がたいへんにシンプルになる」ということでもある。つまり「日本語の初学者向き」の構造の文になりやすいのである。幼児や児童が「心的状態語・心情語」の習得をするためには、日本語の場合、「超越的な語り手」によるものを中心としたフィクションが断然お得なのである。他の経路だと、それよりはずっと困難な道になるほかないだろう。ただし、フィクションでの習得を以て「心的状態語・心情語」の学習完了というわけにはいかない、このことは留意されるべきだろう。そう筆者は感じる。

なお当サイトでの、日本語の語彙の獲得に関連した文章は、他に、「子供の語彙習得を俯瞰する」「母語日本語の語彙を習得するのにどのような段階が有るか」などが有る。