あらすじと要約の違い

あらすじとアブストラクトの相違という話題を前回書いた。ところで「文学作品のあらすじ」とは言われるが、その一方で「論説文のあらすじ」とはめったに呼ばれない。「論説文」の場合は通常、その“あらすじ”は「要約」と呼ばれるだろう。このような使い分けが、要約とアブストラクトとの混同原因の一つではある。しかしここではその点は問題とせず、文章ジャンルによって「あらすじ」と「要約」というふうに呼び方がなぜ変わるのかのほうを、検討したい。ここには特有の重要な問題が潜んでいるからだ。

ここで使い分けられているのは、実は、「文学作品」と「論説文とか説明文とか」との相違ではない。そうではなく、「語り手/登場人物」という二重構造になっているかいないかの相違である。だから戸田山和久『科学哲学の冒険』や野矢茂樹『論理学』のように、「語り手」がいて「登場人物とそのせりふ」が存在するような書籍に関しては、通常の文学作品と同様の思考経路で「あらすじ」を抽出することも不可能ではない。その場合、マンガ作文同様に「テツオが○○と言った」とそういう箇所は間接話法に改めなければ、「あらすじ」の一部として取り込むことはできない。登場人物の発言内容がそのまま「語り手」の見解であるとは全く限らないからだ。それを語り手が主張したことにしてはいけない。一方、昔のTBS『まんが日本昔ばなし』という番組のように大半がナレーションであり、登場人物のセリフもすべてナレーターが語るようなタイプの「文学作品」がもしあるなら、それは「論説文」にかなり近い構造をとっていると言える。登場人物のセリフの箇所だけ直接話法でも間接話法でも良いから、とにかくナレーションとして表現し直せば、それは通常の論説文や説明文と同じ形式になる。ただそういう文学作品やフィクションは決して多くない、というだけのことである。

ようするに「超越的な語り手」がおり「他の語り手(登場人物)」もいるというタイプの文章もあれば、「超越的な(?)語り手」のみの文章もある、というわけである。多くの文学作品やフィクションは前者であり、多くの「論説文」「説明文」は後者である、「随筆」だと両者が半々といった感じになるだろうか。そして、前者を概括したものが「あらすじ」、後者を概括したものが「要約」と呼ばれることが多い、というわけだ。

この意味での「あらすじ」と「要約」はしたがって、「作る方法・手続き」が根本的に異なる。「あらすじ」の場合、元の文章をそのまま使うことは通常できない。つまりまとめる側がいちいち言い換えていく必要がある。ナレーションの部分は言い換える必要がないし、むしろ言い換えない方が良い。そのようにして作ると、前回のトッキュウジャーの「あらすじ」のようなものが出来上がる。ナレーションの箇所は縮めたりはしても言い換え的な操作はほどこしていない。ナレーションはそのままあらすじの文に使えるのだ。

他方、この意味での「要約」は、むしろ本文中の表現を言い換えてはいけない。理想的には、本文の中から重要な箇所をつまみ出して、そのままつなげて作れるのこそが、良い「要約」である。つまり、自分の言葉でまとめ直したりしてはむしろいけない。また著者の用語法が独自であってもそのまま使うしかない。実際には著者の書き方が悪かったり、要約や縮約に適さない文だったりするときには、著者の使っていない用語や表現でまとめる側がまとめ直す必要が出てくる場合もある。しかしそれは例外的な措置や場合であり、通常は著者の書いたものから単につまみ出してただ単に機械的につなげたものが「正しい要約」である。この意味での「要約」に「まとめる側の意見や態度」はほとんど反映させることが不可能である。同じ理由で「要約」によって「生徒の理解度」を見ることができる度合いはごく小さい。

一方、まとめるときに「まとめる側の意見や態度」を反映させたければ、「要約」ではなく「アブストラクト」を書くしかない。生徒のそういう態度や理解度を見たい場合も、要約ではなくアブストラクトを書かせるしかない。「要約」には「適切な要約」と「不適切な要約」の区別があり採点も可能だと思うが、アブストラクトの場合、そこまで単純では全くない。

「あらすじ」と「要約」とが同じ態度で扱われ、「あらすじをまとめること」を「要約する」と呼んでいる限り、この違いは見えてこない。文学作品の専門家にのみ専一的に「論説文の教育」を行なわせる、つまりそのために「論説文」とか「説明文」という呼称を発明した、という文部省・文科省の政策はまったく見事というほかない、と言えるだろう。高校生は「大学受験」が終わるまでは、「要約せよ」から逃れることができないのである。そして「要約したことが理解したことになる」ような文章を読まされ、自分自身は「要約した文それ自体を明記せよ」というパラグラフライティングの手法で作文を書かされるわけだ。21世紀の児童や生徒が受けている日本語教育には「いい面の皮」という表現しか思いつかない。