あらすじと要約の違い

Header of This Document


あらすじとアブストラクトの相違という話題を前回(「あらすじ・アブストラクト・要約」)書いた。その内容を踏まえつつ、以下、初出時から大幅に改稿した内容を書いておく。

あらすじと要約の違いというのは、次のようなものが基幹的だと思う。あらすじは「出来事の記述」を素材として形成されるのに対して、要約とは「主張」を素材として形成される。つまり、時間の経過ということがあらすじというのと関係が深いのに対して、要約というのはそういう要素が特に無いのだ。以下少し説明する。

あらすじの場合、こうだろう。「語り手は出来事A1が起きたと語った。語り手は出来事A2が起きたと語った。語り手は出来事A3が起きたと語った。…」というときに、そのA1、A2、A3…という出来事群の全体像や概要が知りたいなと思ったときに、その全体像や概要をあらすじと呼ぶことが多い。要するに「過去の出来事」群のおおまかなまとめである。このようなあらすじを「物語」と近似的に呼んで良いだろう。物語のような在り方は、フィクションの必要条件でも十分条件でもないが、しかし、或る程度以上の度合いで「フィクション≒物語」と言ってしまうこともできる。フィクションの場合、その出来事のかなりがまったくの虚構である場合が多いと思うが、事実と重なっている度合いが高いフィクションも在るし、フィクション以外のジャンルでの事実として起こった出来事の報告がもつ構造が物語の構造に漸近することもまま在る。たとえば、歴史に関する読み物や伝記などにそういった中間的な在り方が現れやすくもあるだろう(伝記などは「ほとんどフィクション」であるものが圧倒的多数派だと思うが)。さて、そのようなものを生徒に与えて教育者や養育者がその生徒の「理解度」を確かめたいと思ったときに「あらすじを書きなさい」という教育的対処を行なうことも在るかもしれない。また、この構造は、さらに「作者は『語り手は出来事A1が起きたと語った。語り手は出来事A2が起きたと語った。語り手は出来事A3が起きたと語った。…』と書いた」という枠内に含まれるので、これを(語り手ではなく)作者の書いた行為としてまとめることも可能である。その場合はアブストラクトになり、作者がその作品を書いたり公表したという行為全体の概要となる。

一方、論説文や説明文の場合、その概要は「あらすじ」とはあまり呼ばれない。たとえば「要約」と呼ばれたりする。これは「作者はB1であると書いた。作者はB2であると書いた。作者はB3であると書いた…。」というときに、そのB1、B2、B3…という主張群の全体像や概要が知りたいなと思ったときに、その全体像や概要を要約と呼ぶことが多い。Bnは主張である場合が比較的多い。主張は「事実についての主張」である場合も在るだろうし、「法則や理論や事象間の関係といったものの主張」である場合も在るだろうし、「価値や当為に関する主張」である場合も在るだろう。もしBnが主張というよりは「事実・出来事」の「報告」に近づくならば、それにつれて、その「要約」は「あらすじ」に漸近するだろう。また、この種の文章を書く著者が往々にして、「物語仕立て」や「会話形式」で著作を書く場合が起こる。こういったものは、物語のもつような「作者は『語り手は出来事A1が起きたと語った。語り手は出来事A2が起きたと語った。語り手は出来事A3が起きたと語った。…』と書いた」という枠をもつ点で共通することが多い。その場合「要約」には向かないこともあるし、かと言って「あらすじ」というのも当てはまりにくい。「問い」や「対話」や「議論」がまさに時間的な経過を伴って変化するというその在り方に作者が関心が深い場合が、例外的に「あらすじ」に近いまとめを要請すると言える。多くの場合はそうではなく、「物語仕立て」「対話体形式」での論説的文章はアブストラクトの形でまとめるのがいちばん向いているように思える。というのも、主張の全体像が時間的な構造を特にもっていないことのほうが多分多いからだ。また、登場人物の「せりふ」などがそのまま著者の見解であるなどと断定できるはずのない文章だからでもある。たとえばその種の啓蒙書のなかには「よく在る間違い」をせりふで述べるような登場人物が配置されていたりする場合が在る。

「あらすじ」が「出来事の時間的な経過」に関わるのに対して、「要約」は特に関わるわけではない。この違い方が、「あらすじ」と「要約」を作る側の違いにおそらく最も影響するだろう。それは「本文のなかの記載をそのまま使うことができるかどうか」に関わっている。標準的な論説文や説明文の場合(つまり物語仕立てや会話体仕立てではない場合)、その「要約」は本文に書かれているものの一部を抜き出して、ただ単に要領よくまとめたものが最善である場合が多い。ちゃんとした著者の書いたものなら、自動的にそうなる。また英語圏だと、そもそも「それ自体が段落ごとの要約」であるような文を決められた位置に配置して、読者に飛ばし読みができるように書かなければならない場合も在る。それは少し極端だし、真似することは無い。だが、書かれた内容の一部をそのまま抽出して言い換えなども特にしないで普通につなげたものが、最善の要約となりやすいはずのものであるのが論説文・説明文と呼ばれる文章であることが多いのは確かだ。一方「あらすじ」は時間的な経過を書くものなので、そうはならないことが多いだろう。そもそもフィクションの中に「その一文を読みさえすれば全体像がわかってしまう」文がむき出しに書かれていることが多いはずがない。だから、特にフィクションの「あらすじ」をまとめるときには、本文中の文をそのまま使う、というふうにはなりにくい。まとめる側が、概括したり再構成したりする手立てが要請されるのだ。

小中高までの国語科は、日本文学の専門家が中心になってカリキュラムや出題を決めたりするので、どうしても「フィクションのあらすじをまとめるような態度で、論説文の要約をまとめる」というふうになりがちである…ように思う。つまり、論説文の要約においても、元の文の語を勝手に言い換えたり、別のしかたでまとめたりするほうに、教育者が評価を高く与えている可能性が否定できない。だが、そのやり方は多くの場合あまり良い要約文にならないと思う。要約する側が勝手に自分の言葉でまとめたほうが良くなるような場合は、元の文章が相当ひどいとか、入試問題などで勝手なしかたで切り取られたり加工されたものに限られるとか、そういう特殊な場合だけではないだろうか。普通の場合、そのように読み手の読みを前面に出してまとめたい場合は、或いは生徒の理解度を確認したい場合は、要約ではなくアブストラクトで行なうはずだろう。ただ、大学入試での「要約せよ」という設問が「アブストラクトの形式でまとめよ」という設問に変化でもしない限り、そのようなアブストラクトでまとめるのが当然とは、高校生以下の場合まずならないだろう。また、小中校の国語科や入試問題の枠内で与えられる論説文や説明文的なものの場合、「作者はB1であると書いた。」というときのそのB1のなかの語彙が端的に生徒になじみがないなどのケースこそが大いに含まれるはずだろう。この場合、「要約せよ」と言われて生徒が要約してみせたなかにそのB1がまるごと含まれていて、当人もその文意がさっぱりわかっていないとうふうにして、現象として現れる。だが、それは要約という方法を使っている以上、当然起こる「正しい」結果なのである。要約の仕方が悪いわけではない。そのことを以て、「その要約文はダメである」とはならないはずのものだ。かりに、そこでもっと易しい生徒向きの言葉に直した要約文というものを作れば、おそらく著者の意図や語彙体系と異なった「間違った要約文」になる可能性が高い。つまり要約文は、生徒の理解しきれない原文の難しい言葉を使ったままのほうが、「正しい」ものなのだ。要約という方法でその難しい文を理解できるようにするべきではない。別のやり方をしなければならないだけだ。

これで一応、言いたいことは不充分かもしれないが言った。さてあらすじと要約の違い方を一瞥したところで、「物語のあらすじ」に関して注意する点を少し述べる。三つほど在る。

一つは、「語り」と「あらすじ」との関係だ。たとえば、典型的なミステリがいちばん当てはまると思うが、「出来事の起こった順番」の通りに「語り」が行われるわけではない。典型的なミステリは、起こった出来事から、より過去の出来事を推測していくものだからだ。だから、ミステリのような読み物を与えて、生徒に「さああらすじをまとめてみなさい」と指示した場合に、大別して二通りのものが出てくるはずだ。一つは「出来事が起こった順番」に書かれたものである。もう一つは「作者が語った順番」に書かれたものである。このときどちらがより「あらすじ」らしいのか、は筆者にはわからない。教育的にどちらがより良いのかもわからない。

「語り」と「あらすじ」との関係で問題になりうるのは、語りの順番だけではない。清塚邦彦『フィクションの哲学(改訂版)』(勁草書房,2017)のp197以降で述べられているような「信頼のおけない語り手の問題」と呼ばれるタイプの現象も在る。その現象とは、フィクションのなかにはこの語り手はどうも信用できないという印象を読者に与えるものが在り、そのことによって読者は語られている内容とは異なる内容こそが作品世界での「事実」「真実」なのではないかと推測しながら読む、といったものだ。このタイプの読みを誘発する物語であるならば、そこでの「あらすじ」は、「書かれたもの」「語られたもの」の総和から導出される単純平均や概形といったものにはならないはずだ。前回このページに書いた内容を撤回することになるが、物語でのナレーションのなかにも「信頼のおけない語り手」ふうのものもときには存在する。その場合もまた、語られている内容とは異なった内容こそが作品世界の真実である、と読者は想定することにもなりうる。

注意する点の二つ目は、フィクションのなかで、「論説文や説明文のような長い文」がまるごと埋め込まれているタイプのものだ。このタイプのもので「あらすじ」をまとめようとしても、その「論説文や説明文のような文」をどのように位置づけて取り入れるかは対応がまったく難しい。「あらすじ」ではなく「アブストラクト」でまとめるしかないのではないだろうか。このタイプのものは、登場人物のセリフがまるごと演説や解説だったり、フィクションの語り手が突然論説的な主張をし始める、といったケースが在る。後者の場合、この語り手の主張が作者の主張である、などと断定できないのはもちろんだ(前者もそうだが、それは当然すぎる)。

注意する点の三つ目は、そもそも物語の全体というもの自体が、いくぶん恣意的である点だ。「どこから」の出来事を選択し、「どこまで」の出来事を選択するか、だけでも恣意的だからだ。たとえば女性の主人公が結婚したところで終わりにする物語と、そのあとさらに結婚後どのような出来事が起こったかをさらに書き続けた物語とでは、結婚以前の「同じ出来事」が起こっている箇所に関してすら、その「あらすじ」は同じものにはならない、ということが起こりうる。

このようにしてみると、フィクションに対する生徒の理解度を確かめるために、「あらすじ」を作らせるやり方にも、フィクションの理解という点でも、教育手法としても、一定の限度が在ることが想定できるはずだ。ただし「要約せよ」というのに比べると、「あらすじをまとめよ」というものが、教育的なやり方としてどの程度、教育現場で浸潤しているのかは、筆者にはわからない。入試問題にもあまり無さそうだ。たぶん、論説文と異なり、物語文の場合だと、入試問題の作成者も「一部だけを切り取って出題している」ことに対して、けっこう強い拒否感覚をもっていて、だからその切り取った箇所だけを読んで作られるような「全体のあらすじ」を受験生に提示させようとは思わないからであろう。

なお、本稿と少し関連のある文として、「心的状態語・心情語の児童期での獲得におけるフィクションの絶大な効用」も有る。