ぜひ小学生に使われて欲しい教材『ふくしま“一文力”』に改善の提案をする

「ケーキが食べたい。」という文に関する補足説明を末尾に付した。(2019/08/14)


ぜひ小学生に使われて欲しい教材を発見した。福嶋隆史著『AIに負けない基礎力がつく! ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集[一文力編] 』(2019,大和出版)(amazon)(作者のサイト)である。これを発見したのは以下の状況においてである。こうだ。小学生が「文章を書く」という課題に挑戦するという事に関して、筆者である私は、否定的・悲観的な見通しの文章を多く書いてきている。そのため、私のサイトの文章を読んだ現場の教育関係者のなかには絶望的な気分になる人もいるのではないか、…と、そのように私は心配するようになっていた。そんな状況下でこの書を見つけた。これで安心した。「さしあたりこの教材を薦めれば、良い」と思ったからだ。他に類書があるかは不明だが、筆者は見たことが無い。この書が役に立つという小学生(レベルの人)はおそらく決して少なくない。以上で、この書を推薦する行為は終わりにする。つまり「どこがどう良い本だと思ったのかの理由」は以下では特に書かない。以下書くのは、「ここは改善したほうが良い」と筆者が感じた箇所の指摘のほうである。内容的にやや踏み込んだタイプの話題が三つと、比較的表層的とも言えるが筆者の立場からは看過してはならないだろう話題が一つである。

追記しておくと、筆者である私は、このウェブページの存在を通知する電子メールを実名付記で著者福嶋氏にアップの翌日に送付してはいる。福嶋氏のほうにそれが届いて表示もされていて、かつ氏が開封しているかどうかまでは、全く定かではない。福嶋氏が「メールを送るならこうしてくれ」と述べている「条件」を確実に満たすことが困難だからである。尤も筆者は過去にも「重要な書籍の著者」には何人かに電子メールを実名で送付しているが、一度も返信が来た事は無い。まあそういうものなのだろう。

閑話休題。なお、このページと内容上の関連が高いページとして、他に「新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を補正するために必要な論点」「やはり、日本語は述部が最後に位置するので、最後まで文を辿らないと大意がわからない:寺村秀夫の書いた文章での検討」がある。関心のある方は併せて読んでくださるとありがたい。

「排他の“が”」は一文に二度出現できない。

まずはじめに言及するのは、「排他の“が”」は一文に二度出現できないという日本語文法の「規則」に関する出題である。と、言っても、そのような「規則」が成立しているのかどうかは、ずぶの素人である筆者つまり私には定かではない。日本語母語話者としての感覚から来た、脳内に浮かんだ観念である、ともあれ、その出題は以下のようになっている。

p27での出題へのp28での解説において、福嶋は「国語と算数点数高い人ほうが、最終的には有利になるでしょう。」という文は「まあまあ読みやすい文」であるのに対して、「国語と算数点数高い人のほう、最終的には有利になるでしょう。」という文は「かなり読みづらい文」である、…とそのような評価(正解)を前提とした内容を書いている。引用の強調は引用者である筆者が行なった。で、この評価自体はあまり問題ではないと思う。問題なのはそこに福嶋が与えた「理由」である。それによると、「の」が三回連続して出てくる文が読みづらさが生じているのに対して、「が」が三回連続して出てくる文が非常に不自然だということらしい。だとすれば、なぜその二つの間で前者が「まあまあ読みやすい文」となり後者が「かなり読みづらい文」となると位置づけられうるのか、である。その理由説明を福嶋はなし得ていないのである。そこで私が勝手にそれを試みたいのだ。

筆者である私の直感では「“が”が連続する」という状況はあまり関係無いだろう、というものがある。なぜなら“が”が連続しない「国語と算数点数高い人のほう、最終的には有利になるでしょう。」もまた福嶋によると「かなり読みづらい文」という評価になるからだ。「同じ助詞が連続するかどうか」は読みづらさにおそらく関係が無い。ではどう説明するか、だ。

そのためには「排他の“が”」の用法に理解を深めておく必要がある。その際、筆者には「「対比の“は”」と「排他の“が”」とを比較してその違いかたを知っておくことが有用であった。回り道になるかもしれないが以下それを一瞥しておこう。

次の例文では、強調した「が」は通常の主格を表す「が」であるのに対して、強調した「は」は「対比の“は”」であると取りうる。

この場合、後者の文は次のような含意をもつと読みうる。それゆえに「対比の“は”」だと判断できる。おそらくこれは「対比の“は”」と「主題の“は”」との両方を兼ねているものなのだ。

他方次の例文では、強調した「は」は通常の「主題の“は”」であるのに対して、強調した「が」は「排他の“が”」である。

この場合、後者の文は次のような含意をもちうる。それゆえに後者のほうは「排他の“が”」だと判断できる。

ここで「対比の“は”」と「排他の“が”」とを直接比較できるような例を挙げてみよう。次のような例文どうしだと、強調されている箇所が「対比の“は”」と「排他の“が”」になりうるように、筆者には思える。(この「ケーキが食べたい」という文に関しては補足説明を末尾に付した。(2019/08/14))

上記の例だと、各文はそれぞれ次のような含意をもちうる。必ずではないが、そういうふうに読むこともできる。なぜなら、もし含意をもたないように言いたければ「ケーキ食べたい。」と言えば済むのに、そうしていないからだ。

この二例文の比較を通して、「対比の“は”」と「排他の“が”」との違いかたが、だいぶ掴めたように筆者には思える。「対比の“は”」の場合、対比する相手は何か特定のものなのだ。それに対して「排他の“が”」の場合、比べる相手は「他の全部」なのだ。…と、このように筆者はここで結論してしまいたい。これは、ずぶの素人である筆者が一時間ばかり専門書を眺めて得られた結論である。専門家から見て間違いかもしれないが、その場合はきっと誰かが教えてくれるだろう。ともかく先へ進みたい。

福嶋の出題した先の例文の強調した箇所がその「排他の“が”」ではないか、というのが筆者の推測である。しかもそれは「助詞“に”」を「排他の“が”」でとりたてたものであるだろう、という少し入り組んだ推測なのである。こういうことだ。福嶋の出題した四つの文に共通する最大公約数的な要素を抽出し、さらに述語に必須の補語・成分のみ入れると、次のようになるだろう。

この助詞の「に」を「排他の“が”」で取り立てることは後述のように、可能であるらしい。すると、次のようになる。

この点を示唆してくれた貴重な参考書は日本語記述文法研究会編『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』(2009,くろしお出版)(amazon)である。該当箇所はp83。強調は原文では下線のみ。

「が」で提示され、排他や限定の意味合いが感じられる成分には、次のようなものがある。

(中略)

格成分では、ガ格の格成分がとりたてられることが多い。

(中略)

そのほか、場所を表すニ格や、時を表すニ格の格成分がとりたてられることもある。

ここでとりたてられているのは、「場所」および「時」を表すニ格なので、その延長で「場合」を表すニ格も可能だと判断できるだろう、と筆者は考えたのだ。ここであらためて、文の述部「有利だ」の必須補語(必須成分)を明示して次のようになる。

さて、次に上記の「算国の高得点者」の箇所をどのように述べうるのか、である。ここであらためて出題文の文意が曖昧であることは指摘しておきたい。「ある教科の点数が高い」というのは、「他の教科の点数より高い」ということなのか、それとも「基準となる点数より高い」ということなのかが、まずわからない。また「国語と算数の点数が高い」というのは、「国語と算数の合計点数が高い」なのか「国語かつ算数の点数が高い」なのか「国語または算数の点数が高い」なのかが曖昧なのである。だが、前述のとおり文の一部の箇所は「“が”は排他の“が”である」と認定している。なので「排他の“が”を用いる文を選択する場合は、この出題の文意はおおむね次のようなものと受け取ることにしよう。

ただし、上記の規定や解釈は、もっと穏当な別のものでもいっこうに構わない。たとえば算国の合計得点が、絶対的な基準点やその都度の平均点より高い、といったものでも構わない。あるいは「算国が点数が高い」と見なすためには「理社の点数が低い」必要がぜひともある、などとしなくても良い。要は算数と国語以外は全部99点以下であれば成立する話なのだ。上掲の条件は出題文の文意の曖昧さを際立たせるための方便でしかない。そして、この種の曖昧さを撲滅することは誰にとっても不可能なことなのである。前後関係のない文章を出題文として突然持ち出せば、このようなことは全く起こりうることだ。そういうわけで以下は、上記の規定とあまり関係なく成立するような話をする。

「算国の高得点者」ということを言い表す場合、たとえば次のような言い表し方がある。

しかしこのうち「国語と算数点数が高い人」はダメだ。この言い方だと「国語と算数は点数が高いが、他に一つ点数が低い科目がある」という状況ならそれだけで成立してしまうからだ。たとえば、理科だけ60点であと全部100点であっても成立する。これはダメだ。国語と算数以外は最高でも99点でないと出題文の状況は成立しない。その条件が満たされることを保証しない文になってしまうのだ。

「国語と算数点数が高い人」という言い方は問題ない。だが、この「で」を「が」によってとりたてることはできないようだ。先ほどの『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』で、とりたてることができるケースは「助詞“に”」の場合しか記載していなかった。「国語と算数点数が高い人」という表現は、言いたい事はよくわかるが、表現形式としては成立していない言い方だ。だから、この場合も却下である。

「国語と算数点数が高い人」という表現はまったく問題が無い。ただしこの場合は、全教科が満点であっても通用するような言い方になるし、そもそも「排他の“が”」を用いていないのだから、国語と算数が90点で他が100点の場合でも使いうることになってしまう。つまり、文意自体が変わる。だからこの「の」は「排他の“が”」でとりたてることはできない。

以上検討してきたことから、次の重要な帰結が導出される。それは「国語と算数点数が高い人」および「国語と算数点数の高い人」というのは、福嶋の言うような「かなり読みづらい」表現なのではなくて、「そもそも日本語表現として現実に成立していない」表現であることだ。すなわち、その表現で言いたい事はとてもよくわかる、しかし、そんな表現は通常使われていない、という、そういう表現だったのだ。

ではなぜ福嶋はこの表現を「成立していない表現」ではなく「かなり読みづらい」表現であると見なしてしまったのだろうか。おそらくそれは次の二つを混同したからなのだ。

前者が成立するためには「国語と算数点数高い人のほう、最終的には有利になるでしょう。」という表現が成立する必要がまずある。これは成立する。しかしその「で」を「が」でとりたてるという表現はどうやら成立しない。他方、後者のほうは「国語と算数のほう点数高い人、最終的に有利になるでしょう。」という表現が成立する必要がある。この成立もかなり疑わしい。しかしこれが成立するのなら、「に」を「が」でとりたてる表現もまた成立する。後者のほうの「読みやすさ」は結局「国語と算数のほう点数高い人、最終的に有利になるでしょう。」の読みやすさにかかっている。これが相応に読みづらい表現であるのならば、「国語と算数のほう点数高い人、最終的に有利になるでしょう。」もまた、読みづらい表現であると判定されるはずだ。そういうことなのだ。

したがって、この出題文のなかで最初の二つは「そもそも成立すら疑わしい文」であり、次の二つが「日本語として成立している文」であることになる。強調は引用者による。

最後の一つが少し読みづらい理由は福嶋が言うように「の」が三回連続するからだが、それが読みづらさに帰結する理由というのは、そもそも「助詞“の”」が多義的であるからであろう。「助詞の“の”」は受け手にいくぶん「頭を使わせてしまう」要素なのだ。

この出題文自体の検討はだいたい以上で良いと思う。確認して教訓化しておきたいのは、「助詞“が”」の登場頻度についてである。この助詞がそもそも一文のなかに何度も登場すること自体があまり無さそうな話なのだ。連続するかどうかはあまり関係ない。「助詞“が”」はそのほとんどは「主格の“が”」である。この助詞は一つの述語相当の箇所に対して一つしか登場できないはずだ。一つの文の中に述語相当の語が複数回使われる複文というものは当然ありうるが、そのそれぞれの述語相当の箇所に対して対応する主格は多くてもそれぞれにつき一回までである。(例:福嶋のこの書のp86にある例文「チーム内で意見が食い違う場面が増えた。」はこれを満たしている。)あとは、「助詞“に”」のとりたてで使われる「排他の“が”」か、順接条件節のとりたてで使われる「排他の“が”」しか可能性は無い。そして筆者がこのページを執筆する段になって突然思いついた揮発性の假説では「一つの文に排他の“が”は一回しか使えない」となるのだ。だってそうでしょう。次の例をみてほしい。

「一番」は一文に二つも要らない。そういうことだ。どっちかに絞るべきである。だから、一文のなかに「助詞“が”」は無闇に沢山は登場できないのだ。もし登場してしまった場合は、「言いたい事は理解できなくもないが、しかし現在の日本語としては成立していない文になってしまっている」可能性を想定するべきである、と教訓化できる。

ただし、上掲の例文を少し「厳密に」記載して次のように書くのは構わない。ここで増えたのは「主格の“が”」だからである。

この処理で残ったのが最初のほうは「排他の“が”」であり、あとのほうは「主格の“が”」であるから、「が」が二度登場しても、また假に連続する場合が発生しても、さして問題は無い。

「文法的に完全な文」という見方が無いと、二文の間の「結束性」はわからない。

前節の内容を書きながらも筆者が思ったことだが、著者の福嶋には「文法的に完全な文」という見方がおそらく無い。それは「一文力」を標榜するこの書の著者としては致命的すぎる欠陥である。ただ、それが露呈している箇所は多くない。これから言及する箇所は数少ないその箇所にあたる。著者がその欠陥を有しながらそれに気づかないその最大の理由は、専門家の間でもそのような見方は共有されていても、それを表現する概念が異なっていることにおそらくある。次の二冊の該当箇所を参照してほしい。表現する概念がいくぶん異なっていることがわかる。引用者による強調は原文では太字のみの強調。

しかしいずれにせよ「文法的に完全な文」という見方が存在しないと、「二文の間の結束性」を見落とすことになる。著者福嶋のその見落としがあらわれてしまったのが、p85での出題とp86でのそれへの解説である。p86のほうを引用する。

この三つは、特に違和感なく読めます。それは、前後が「当たり前」の関係にあるからです(一文目の当然の帰結として二文目が生じているわけです)。

と述べ、この三つの「違和感なく読める度合い」は同じ程度である、という判断を「正解」と福嶋は解説している。しかし、違和感の無さが同じ程度である、という判断は間違いである。福嶋は「文の内容」しか見ていない。文法的な側面をまるで切り捨てているのだ。文法的にはこの三つの文のつながり方は実は相当に異なっているのだ。

それを理解するためには、この三つのペアをひとまず「文法的に完全な文」に一度変換してみないとならない。通常はそれは「暗算」で行なうのだが、ここではあえて明示する。ただし、ガ格が「排他」用法に見えてしまうものは不自然に見えないように、ハ格「助詞ハを含む成分」に置き換える。すると、以下のようになる。

上掲の三つのペアの「つながり具合」は、筆者の判定では「ア´<イ´<ウ´」となる。ウ´がいちばん密接なつながりをもつ。日本語学や言語学等では「結束性」と呼ばれる割合強いつながり関係である。イ´は中くらいのつながり方である。ア´はつながり方は全然強くない。「つながってなどいない」と言ってもいいほどだ。以下説明する。

イ´は中くらいのつながり方だと言ってよいだろう。一文目と二文目との両方に共通する「私は」という要素をもつ。そして両方ともそれは「省略」されている。一文目と二文目との両方に「省略された」共通の要素をもつことによって、この二つの文には一定のつながり関係が見てとれるわけだ。

ウ´は強いつながり方だと言ってよいだろう。一文目で提示された「信じられないようなひとこと」という語句を二文目で受けて、なおかつ、その箇所が省略されているからである。つまりもし省略しなければ「そのひとことに私はショックを受けた。」とでもなるところを、省略して「私はショックを受けた。」と述べることによって、一文目の存在に依存した省略を産出できているわけだ。この省略が省略であると感じないで済むのは、一文目でその要素を明示しているからである、というわけだ。

ア´は文法上のつながりは特に見られない。ここにあるのは語彙レベルのつながり、あるいは内容的なつながりだけなのである。すなわち「雨が止む」と「青空」との語彙レベル・内容レベルでのつながりだけなのである。そのつながり方はイ´やウ´にも多少あるのだから、結局ア´のつながり方は、イ´やウ´より弱いと判定するのが正しい。特に文法的なつながりなら「無い」と判定するのが適切だろう。

ただしさらに、次のようなことも言える。著者福嶋はこれらの例において出題文では接続詞を付している。そして、解説では「その接続詞がなくても自然に読める」という主旨のことを述べている。だがこの見解には筆者は強く反対したい。接続詞があるとないとでは、読みの印象が大違いだと思うからだ。その検討のためには、次の四つのペアを見比べてみるのが良い。

  1. それは信じられないようなひとことだった。だからそのひとことに私はショックを受けた。
  2. それは信じられないようなひとことだった。だから私はショックを受けた。
  3. それは信じられないようなひとことだった。そのひとことに私はショックを受けた。
  4. それは信じられないようなひとことだった。私はショックを受けた。

これらのうちのどれがより自然に読めるかという比較は、あまり単純でもないし出題に向かないとも言えるだろう。確かなのは「4つめのものだけは全然読みやすくないし自然でもない」ということだ。次いで、「1つめのものは少しくどいかも」ということだ。ここでわかるのは、結束性のように「何かの要素を明示しない」ことによって「つながる」というつながり方は、「何かの要素を明示する」ことによる「つながり」に比べて、ずっと意識されづらいということだ。それは二つの点で言えることだ。一つは「何かが欠けている」ことによるつながりはまさにそれが「現出しない」ことによって意識にのばらない。無意識的にしか通常感じないつながり方になるのだ。意識されるのは「何かが提示されている」ことによるつながりだ。たとえばそれが「そのひとことに」という共通の成分だったり、接続詞だったりするだろう。で、もう一つはこういうことが言える。「何かが欠けている」ことによるつながりというのは、文末まで読んだあとで初めて判明するものであることだ。だから受け手が読んだり聞いたりしている途中で感じるようなつながり方ではない。一文が終わってからようやく判明するものなので、えてして無意識のようなレベルでのみわかるつながりになりやすい。他方、接続詞や共通成分の明示によるつながりは、その登場した箇所ですぐに「あ、つながっている」とわかるつながりだ。この二点で、「何かの要素が明示されない」ことによる結束性によるつながりが読みやすさに与える影響は、「何かの要素が明示される」ことによるつながりよりも、文章・発話の理解という点では重要度が落ちる、と言えそうだと筆者は思う。

とは言え、このような内容が教材であるこの著書に登場したことは偶然ではないと思う。それは「学校の生徒や学生が課題として書くもの」やさらには日常的なコミュニケーションにおいては、「必要なことはすべて言え」という要求よりも「不必要なことはすべて削れ」という要求のほうがわずかに強い、というものだ。作文でも答案でもレポートでもそうだし、日常会話では尚更そうだが、「不必要なことを述べた文章や発話」というのは、とことん嫌われるのである。その理由はおそらく「そのほうが時間を奪われるから」なのだろう。それだったら「必要なことが少しくらい抜けている」ほうがまだましだ、となりやすいのである(ただしセキュリティや大きな責任が絡む「業務」だと反対になることがさすがに多いと思う)。一般的に言って、文章やコミュニケーションは必要最小限であることこそが求められるのである。

なので、「学校の生徒」が「教材」として学ぶ内容には、文を構築する際に「どのようなものがぜひ省略されなければならないか」という事項が含まれるべきであり、それに関係する事項の一つが「結束性」なのである。上掲の4つのペアのうち、2番目のものが一番自然だ、と感じるようならわかると思う。そこで重要な役目を果たしているのが(接続詞の明示とともに)一文目と共通の要素の省略という事項なのである、というわけだ。それは「文の内容を正確に理解するため」の事項ではなくて、「文の受け手によけいな負荷を掛けないため」の事項なのである。そして「結束性」という事項を理解するための最低条件というのが、「文法的に完全な文」という見方を知っていること、及び、「文法的に完全な文」を必要に応じて構築したり再生したり、それへと変換できる日本語能力なのである。

結束性というテーマはまだ全然未開拓の要素が大きいテーマであり、研究書もあることはあるが、どこまで国語科教育に役立つかは筆者には定かではない。庵功雄『日本語におけるテキストの結束性の研究』(2007,くろしお出版)(amazon)。p9-10などに関係のある内容が書かれている。

読みやすい語順は「内容」だけでは決まらない

p98-99での出題とその解説において、「“いつ”“どこで”を表す要素を文のはじめに位置させるほうが、概して読みやすい文章になる」といった主旨のことが述べられている。しかし、著者がこのように言えるのは、ここで提示された文例で「だいたい同じくらいの長さの要素」の並べ替えしか扱っていないからであろう。「いつ」「どこで」が先に来るほうが概して読みやすい、というのは少なくとも文章の書き方の「定説」ではない。「長い要素から短い要素へ」というのが「定説」だろうと筆者は思う。「いつ」「どこで」が先に来るのが良いというのは、その条件の範囲内の話だろう。

この件に関しては、筆者自身の書いた「やはり、日本語は述部が最後に位置するので、最後まで文を辿らないと大意がわからない:寺村秀夫の書いた文章での検討」や、そこで参照している酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために 第2版』(共立出版,2017)(amazon)の第4部などを見ていただきたい。

ただし読みやすさは一文だけでの読みやすさだけでなくて、その前からの接続からくる読みやすさも考慮した方が良い。あるいは少々読みやすさが劣るとしても、「いつ」「どこで」が文頭に書かれているほうが「頭を使わないで済む」ということは主張可能かもしれない。ともかく、その種の判断は総合的になされる必要があるだろう。

「因果関係」の語は専門的に使って欲しい

前出の箇所でも著者は「因果関係」という語をたびたび用いているが、その使いかたに筆者はかなり強い違和感を感じた。おそらくその違和感のおおもとにあるのは、「因果関係という語はある程度専門的な語だろう」という筆者の認識である。これを著者の福嶋は共有していないように思える。「原因」という語なら日常的に、多少ラフに使っても良いかもしれない。たとえば「この火災の原因は現場に酸素が存在していたからである。」というように「原因」という語を使うことも許されるだろう。「酸素があるからといって常に火災が起こるわけではないが、しかし火災が起こったのならそこには酸素が存在していたはずだろうとは言えるから」だ。「なら、原因ではなくて条件と言え」というような厳密な言い方ばかりが日常使われているわけでは、全くないだろう。これは「酸素」の代りに「殺意」を、「火災」の代りに「殺人」を代入しても同様のことが言える。「殺意を感じた者がかならず殺人を犯すわけでは何らないが、しかし殺人を犯した者はかなりの割合で殺意を感じていただろうとは言えるから」というわけだ。だがそのような条件関係を表すために「因果関係」という語を使って良い、というほどにラフな使われ方はあまりしていないように、筆者の語感では思われるのである。

「因果関係」というのは、科学全般や科学哲学、法学や刑法、仏教の「専門用語」に準じた概念として流通していることは間違いないだろう。だから、それらの用法のどれかが規範や基準となって一般人の日常的な用法の適不適が判定される、といったタイプの語だろう。専門家でない者が半可通でもしそれを使えば「それは因果関係ではなくて相関関係だろう」と指摘されたり、「理由-帰結関係」や「手段-目的関係」や「条件-結果関係」やあるいは「数学や論理学などでの論理関係」と厳密に区別することが求められうる、といったものだろうと筆者は思うのだ。

しかし著者の福嶋の立場というものも、筆者にはなんとなく理解できる。ようするにそれらの厳密で専門的な区別というものは、それこそ「内容的」なものであって、文法や語法での言語レベルの現象にそういう区別が対応しているというものではないのだ。たとえば、「原因-結果関係のとき」と「条件-結果関係のとき」や「手段-目的関係のとき」とで、使う接続詞や接続助詞を区別しなければならない、などという言語レベルの区別が存在していないのだ。その区別は国語教師の分担ではないのである。そういうことだろう。ただ、その事情はわかるとしても、一読者として、あるいは執筆している他のコンテンツの内容からして、著者の「因果関係」という語の用法に対する、筆者の「強い違和感」だけは表明しておきたい。

この教材の使い方の提案

以上述べてきた以外の点では、この教材に違和感や異論はあまり無かったと思う。あったとしても上記の事項よりは重箱の隅レベルであるし、それよりはこの教材が小学生などに広く使われるほうを筆者は望んでいる。この教材の内容にちょうど対応したような日本語の習熟ぐあいの生徒はきっと少なくない。

一つだけ提案しておく。小学生くらいだと問題集というのは「解いて終わり」「正解できるようになったら終わり」だろう。その使い方はこの教材にはあまり向かないと思う。というのはそれだと内容を片端から忘れてしまうだろうからだ。つまり、この教材で扱われているのはふだんから使っている日本語であり、「わざわざ習得する知識」と違ってすぐに忘れてしまうだろうと推測できるのだ。そうではなくてこの教材は、誤答した箇所や重要な箇所だけでもいいので、「丸おぼえ」することが理想だと思う。どういうことか。それは「こういう日本語の文は間違っています」という文をまるごと覚えて、いつでも思い出せるようにする、ということである。普通、そういう学習は推奨されない。特に外国語だと推奨されない。「間違った文を覚えてしまって、試験でそちらしか思い出せなかったらどうするの?」というわけだ。だが母語である日本語なら心配いらない。「間違った日本語の文」をしっかり覚えて思い出せるようにして「これは間違った文だ」ということも強く意識するようにする。もちろん「正しい文」も同様に覚えてしまえればそれに越したことはない。ともかく、これが実践的な日本語文法習得の早道である、と筆者は思う。日本語の文法を生徒に教えることのできる人というのは、何よりもまず「間違った日本語の文の例」というものをずらずらと100でも1000でも並べ立てて、しかもそれを要領よく整理してみせることもできる人にほかならないからだ。その能力はほとんどの人には無い。とても専門的な職能なのだ。それを小学生も少し真似することで、日本語の文を受けとることも発信することも、より高度にできるようになる、と筆者は期待したい。

初出後に以下のコンテンツを追加した。

「ケーキが食べたい。」の「が」をどのように位置づけるか

上記のコンテンツにおいて「ケーキ食べたい。」の「が」を「排他の“が”」と位置づけた。この事例はおそらくかなりデリケートな事例である。なので、本当なら「排他の“が”」とは言えない、というのが正しいのかもしれないが、しかし、それにしてもなかなか微妙であり、「排他の“が”」ではない、と断定するのも少しためらわれる、というケースなのだ。その点が判明したので、以下説明する。

「助詞“が”」で取り立てて排他の用法になるのは、「助詞“に”」を取り立てた場合と順接条件節の場合とが主であり、そのほかの格成分はとりたてにくいと、日本語記述文法研究会編『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』(2009,くろしお出版)(amazon)のp83に記載されていた。なので「ケーキ食べたい。」の「を」を「が」で取り立てて「排他」の用法にする、という説明にはしないほうが良いように思える。しかしそう単純でもないようだ。たとえば、グループ・ジャマシイ編『日本語文型辞典』(1998,くろしお出版)(amazon)のp180の【たい】という語の項目では、次のような説明がなされている。

(1)ああ、暑い。なにか冷たいものが飲みたい。
(中略)

話し手(疑問文の場合は聞き手)の行為の実現に対する欲求、強い願望を表す。形容詞と同じ活用。(1)のように対象を強調するときは、助詞「を」を「が」に変え、「…がR-たい」を使う。(後略)

と、あるので、例文「ケーキを食べたい。」と「ケーキが食べたい。」との関係は「助詞“を”を“が”に変えた」という関係であると見て良いことになりそうだ。その場合、少し文法体系の異なるこの辞典では「強調」の用法と位置づけている。素人目には「排他の“が”」と大きくは違わない、連続的な用法のように思える。

ただし、このようなケースが成立するのはおそらく「○○したい」という語の性質に大きく依っている。これとまるで異なる動詞や形容詞で同じような置き換え関係が成立するとは思えない。その点を次に述べる。

まず、この「○○したい」というタイプの文の位置づけである。この種の文を「表出的な文」と以下の参考書では位置づけている。日本語記述文法研究会編『現代日本語文法4 第8部モダリティ』(2003,くろしお出版)(amazon)p19。強調は原文では下線のみ。

「たい」や「てほしい」のように希望を表す文も、感情を表す述語と同様、表出的な文であり、その主体は話し手に限られる。

ということは、この種の文では「AがBたい。」というときに、この「Aが」が「主体」「主格」であることは通常ありえないことになる。述べる必要が全く無いからだ。どうしても主格を強調したいときは、それこそ「主題の“は”」を使って文全体の主題として表すことになる。…と、そのように想定することが可能なように思う。

「AがBたい。」という文のパターンで、助詞「が」が「主格」ではなく「対象」を表すことができることは、以下の参考書に記載されている。併せて「助詞“を”」で表現することも可能であると記載されている。日本語記述文法研究会編『現代日本語文法2 第3部格と構文 第4部ヴォイス』(2009,くろしお出版)(amazon)、p43。強調は原文では下線のみ。

話し手の願望を表す「たい」を述語とする文も対象を「が」で表すことがある。

これらの文の対象を「を」で表すこともできる。

この説明だと、「が」で表すほうが原則的であって、「を」で表すほうは派生的であるように読みうる。だが、そこにはこの箇所に先行する箇所での説明事項の影響もあるのだ。この箇所は「助詞“が”」の用法で「心的状態の対象」という項目での説明である。先行する箇所には次のように記述されている。

「うれしい」「悲しい」「好きな」「嫌いな」「ほしい」「心配な」のような感情を表す形容詞の対象は、「が」で表される。

(中略)

「好きな」「嫌いな」「ほしい」では、対象を「を」で表す例も見られるが、あまり一般的ではない。ただし、次の例のように、これらの述語が複文の従属節内で用いられている場合や、「になる」が続く場合などには、「を」を用いることもある。この場合「が」も自然である。

…というように、「ほしい」等の述語では対象を「が」で表すほうが通常であり、「を」で表すというのは異例である、という説明がまずなされていた。それに後続する説明であるため、「たい」を述語とするときの対象も、まず「が」で表すことができ、次に「を」で表すことができる、という順序で説明されているわけだ。「飲みたい」「食べたい」などの述語を「ほしい」等の述語と同タイプのものだと見なすとそのようにも思える。だが、次のように位置づけることもできる。この場合「を」で表すほうが原則的であり「が」で表すほうが派生的のようにも見える。

そういうわけなので、「○○たい」というタイプの述語をもつ文に関しては、対象を表す「助詞“を”」を「助詞“が”」で置き換えて、それを排他や限定の用法とほとんど同じようにして「強調」に用いる用法も可能である、とそのように説明することが不可能ではないことがわかった。いずれにせよ、このケースは述語の性質によるやや例外的なケースではあった。だが例外的なケースとして、「排他の“が”」に近い用法として位置づけることも可能であるようなものでもあった。そのようにまとめたい。