全体として伝えたい事

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2019年までの総括としての「全体として言いたい事」をまとめ直してみた。前回のものの大幅な改稿である。

全体として伝えたい事

どの程度の日本語の能力をつけることが小中高の十二年間で目標化されるのが良いのだろうか。筆者の考えでは、「文字で書かれた報道や世界情勢に関する文章」が或る程度読めて理解できるようになることと、「志望大学学部学科の教員の書いた著作」が或る程度読めて理解できるようになること、の二つがそれである。この二つは必要としている学習者が必ずいるからだ。この二つの到達目標から逆算するようにして、小中校の十二年間の、「国語科」をはじめとする教科学習は構想されるのが良い。ところが、このような学習目標は世間にはほとんど共有されていない。世間に共有されている学習目標は「大学入試」という、より容易な或いは玉石混交の課題だけである。或いはその過程では、国際標準の何かの学力テストや、民間の検定試験になるだろう。いずれにせよそのため、筆者が掲げるような学習目標に対しては「いかにしてその段階に達するのか」といった方法論やカリキュラムというものが、体系的に構築されていないのである。

上記の学習目標を含む達成のための能力のことをこのサイトでは「国語力」と假に呼んでいる。「国語力」とは読む能力だけでなく、書く能力なども含めた、総じて文字の日本語の運用に関する能力である。そして、それと或る程度区別するようにして「日本語力」という日常的な音声での会話や、音声での講義などを聴講のための能力を想定している。この区別はあくまで假のものであり、絶対視する必要は無い。ただし、肝腎なのは、「国語教師」や「レポート課題の担当教師」「記述式試験の採点者」のなかで、この二つが截然とかつ非対称に分けられていることである。音声で運用するような書き方を、学生・生徒はレポート課題や記述式試験にうかつに混入させてはならない、…この規範はかなり強固に存在する。このサイトで「国語力」と「日本語力」とを一定程度区別して用いるのも、その国語教師たちの世間での規範と対応したものとしてだ。

「必要な国語力」とは、語用に鋭敏な能力のことにほかならない

「国語力」とはほとんど何でも読解できることにほかならないから、通常は不可能な能力だ。ただ、高校生の「志望大学学部学科の教員の書いた著作」というふうに制限がかかっているため、かろうじて、世の中に十数人程度なら「国語力」の在ると言いうる人材も存在していることだろう。「どんな分野の著作でもまずまず読むことができる学者」なら存在するからだ。

ところで、「ほとんど何でも読解できる」ためにはどのような能力が必要だろうか。ここでは、「読解が必要になってしまう少し悪文」程度のものを想定している。つまり、読みやすさの点で最高度のものは想定していない。さてその際、語彙力等を筆頭に多様な能力が必要になることは間違いないし、それらを大まかに「読解力」と呼んで、それ以上追求しないことも可能ではある。しかし、その中にはそれでもどうしても、特筆して取り出しておきたい能力というか読解姿勢というものが在る。それはこうだ。「相手の使っている語が、どの用法に従っているのか」という問題があることを知っていて、かつ、その用法を明確に他人に説明可能であるという能力や姿勢である、これだ。

たとえば「こころの哲学」という書籍が指定され、「こころの哲学について論じよ。」という自由読解課題が出されたとする。ところが、ここでの「こころ」という語彙は、私たちが日本語で用いている「こころ」とは相当にずれまくっている、きわめて独特の語彙である。そのことが読んで30分もすればわかるように書かれている書籍だと假定する。で、このズレは、「こころ」という語彙が外国語からの翻訳語であり歴史や哲学の専門性を背負っている一方、日本語の語彙「こころ」のほうにも独自の役目があることから、来ているものだ。ともかく、その「こころの哲学」とやらの書籍を読んでいて、一章めのあいだに「あ、これは『こころをこめて奉仕をしよう』とか『お互いのこころをもっと語り合いましょう』とか『あの人は心ない人だ』などとは、だいぶ違うな」ということが理解できること、これは能力である。語用に鋭敏であるという能力である。そして「ほとんど何でも読解できる」ために必要な能力の中核の一つでもあると筆者は信じている。

「志望大学学部学科の教員の書いた著作」を読解できるためには、ふたつの語用問題に注意する必要が在る。ひとつは日常語と専門用語との語用の違いである。さきの「こころ」もそうだった。「知識」や「信念」などの語もそういう違いが起こりがちである。で、もうひとつは、学問分野や学派ごとの細かい語用の違いである。後者になると通常の人はお手上げになる場合も少なくないだろう。たとえばこの「感覚」という語は「知覚ではない」ことを意味するのだろうか、それとも「物自体ではない」ことを意味するのだろうか、さあわからない、というようなタイプのものだ。これはいかんともし難い。しかもできることなら、この区分がサクサクできて読解に苦労しない人には、読む側や教える側でなく、書く側、学問を生産する側に回ってほしいほどなのだ。そういうわけで「人材」は構造的に居ないことになっているわけだが、それでも「他人の書いたものがたいていのものなら読むだけなら問題なくできる」「自分は著述家として特に言いたいことは無い」という人もまれにはいるかもしれないので、そういう人に語用感覚をきたえてもらい教師になってもらうしかない。

「国語力」のために必要な要素は「半側評価語」になりやすい ではどうするか

「志望大学学部学科の教員の書いた著作」が読めるようになるためでなくても「読解力」向上を企図するのなら、たいがい能力向上の段階を設定するものだ。その場合に、「具体から抽象へ」が来るか「(論理的)思考力」が来るか、その二つが今までの場合多かっただろう。ところが、これらの特徴付けをする語には問題が多い。その点を筆者はかつて「00年代の国語力革命は評価語ばかりのずさんな掛け声で動いていた」でも述べた。これらの語を核にした学習カリキュラムは、カリキュラムを構築するものにとって都合の良いものになりやすいだけだ。たとえば「論理的とは論理的だと私が思えるもののことだ」のようになりかねない。こういった語を基幹としたカリキュラムを構築するのなら、「一般的にその語(例:論理的)がどう使われているか」を踏まえていること、「モレなくダブりなく」からはほど遠いというふうにならないこと、用法が首尾一貫していること、などが求められる。

その状況を横目に見ながら、それとは少し異なったタイプの能力向上の道筋を考案し始めてみた。「中学生の語彙力:会話を描写する語彙」という論考である。これは「少なくとも高校英語でなら使う日本語だろう」と思えるような語彙を中心としている。その一方で、語彙というよりは、「言い回し」に近いような語彙化されていない表現も含まれている。これらは、私たちの日常生活を「描写」したり「報告」したりするときに追々有用になってくるだろう語彙や表現である。これは「具体から抽象」でも「論理的思考力」でもない、まったく異なる発想での道筋である。会話をする能力自体が無いとこれらの語群の理解はできるわけがないので、会話をする能力発達とのなんらかの相関がある可能性は在る。

「会話を描写する語彙」といった動詞群が国語科という教科であまり扱われない事情はおおよそ想像がつく。国語科の目でみれば「批判」という名詞形のほうが基幹的であり、「批判する」という動詞形のほうが派生形に思えることだ。だが、国語という教科と関係なく構想すれば、「批判する」のほうが基幹的であって良い、と見なすことは全く自然だと思う。

「会話を描写する」「会話を報告する」といった学習目標もまた、半側評価語のようにも思えるかもしれない。「描写」や「報告」はできないよりはできたほうが良いし、「そんなものでは描写・報告とは呼べない」と評価することができるからだ。だが、それでも「抽象的」や「論理的」「思考力」といったタイプの語がもっているほどの過剰な強い評価性は帯びていない。そう言いたい。

「会話を描写する語彙」以外にも、「志望大学学部学科の教員の書いた著作」が読めるようになるための課程というものは、いろいろと構想可能であろう。たとえば「子供の語彙習得を俯瞰する」も参考になると思う。或いは、「思考」や「論理」や「具体」などといった、或いは「暗記」や「思いつき」や「抽象的」など「それ自体肯定的・否定的な価値を含意させやすい」語という「半側評価語」を集中的に学ぶのも良いかもしれない。さてそこで、今一つの目標である「文字で書かれた報道や世界情勢に関する文章」が或る程度読めること、と並置してみる。そうすると、この両方を生徒に教えることのできるのは、「どちらかと言えば社会科学寄り」の学問分野を修めた者ということになるだろう。つまり、今まで「現代文」と呼ばれて、国語学や国文学を修得した者が中心になっていた教師群を、今一度再編成して、ずっと社会科寄りの方向で編成してみるのだ。「現代文(国語)」「現代文(社会)」といったように二つ(以上)の科目にしても良いが、実際にはその両者の中間的な専門家であり、どちらもこなすことができる人材もいるはずだ。ともかく、ここでそれらの達成目標と、「文学作品の鑑賞」とを切断しておき、「文学作品が読解できないと読解の教師になれない」というルートを切断することである。

そのように構想し直してみると、言えることは「知識」の重要性である。今まで「読解力」を上げるためにあれこれの方策が提案され実行されてきたが、それらに比べてずっと「知識の重要性」の度合いが高まるのだ。今までは読解は国語科で、知識は社会科でというふうに「分業」していたものを、編成し直すのだ。その場合結局、「現代文(国語)」「現代文(社会)」といったものになり、特に後者では「知識」のウェイトが増すことになるだろう。語彙の知識にとどまらず、内容的な知識も読解に必要だからだ。「読解力をつけるために知識を学ぶ」というのは、実際には高校生の間でも広範に行なわれているはずだが、そういう事柄が教育目標を語るような場面で言われたことは少なかったはずだ。だが、今後は「読解力」の要素のなかに、語彙の知識だけではなく「内容の知識」が大幅に増えてくることが理想なのである。

ともあれ必要とされている国語力・読解力は、単純な経路で達成されていくものではない、とひとまず思っておこう。単純なキーワードでそれを特徴づけることは概してうまくいかない。そういうふうにせずに、いくつかの有望そうな道をそれぞれ開拓しはじめておくしかないと思う。

「読解」と「論述」とを同時に教わることができない問題はどうするか

筆者が他のページでも述べているように、「読解」と「レポート」や「小論文」のような科目は、同時に同じ教師に教わることはできない。なぜなら、そうすると読解のときには「一文で要約したり、事実と意見とを解きほぐして読みなさい」などと教えられるのに、「レポート」等のときには、「内容を要約した一文を明記しなさい」「事実と意見とを明確に区別して書きなさい」などと教えられ、「いくらなんでもひどすぎる」と生徒は思うはずだからだ。教師だって、これらを伝えるときどんな顔をしたらいいかわからないだろう。国語等の課題や出題者がお客様で、生徒は、自分がそれへの無償のサービスでもさせられているような気分になるはずだ。

なので言えることは、「生徒が書くことが求められる」文章の特徴を大幅に逸脱した文章は、「読解」に用いてはならない。そういうことになる。読解に用いられる文章というのは、或る意味では「とてつもなく読みやすく書かれている」文章であって良いくらいだ。そうでないと、「読みやすい文章を書きなさい」などという指導をすることは不可能だからだ。だが、「とてつもなく読みやすく書かれている」文章だからといって、読解課題に使用できないわけではない。まず、読みやすさと分かりやすさとは異なる、という点から言える。読みやすいが難解な文章は存在する。取り扱っている問題・話題・知識の点で難しいが、しかし読みやすく書かれているという文章はやはり存在する。

せっかく良い文章が在りながら、「出題」の都合で加工しまくったり、必要な箇所を削除したりしている場合も多い。出題者によって加工されたことそれ自体を理解する能力が問われているかのようだ。こういったものをなるべくやめて、読むことが「読ませる文章」を書くことの呼び水になるような、そういった文章を読解では扱うのが理想だ。結局は「悪文」であっても読めなくては困ることになるのは確かだが、最初から出題加工によって悪文に仕立て上げた文章を読ませることはない。そしてもともとからの「悪文」の場合も、それがどこがなぜ悪文なのかがわかれば、そこから教訓を生徒が得ることもできるし、まるきり無駄というわけではない。

文章を書くことも漫然と行われるのではなく、「学術論文のようなもの」という一定の目標が存在するべきだ。そうでないと、「単なる実験レポート」のような、一種の報告書タイプの文章が目標になりかねない。或いは「自分の何か思うところ」をただ書くような文章が目標になりかねない。「学術論文」はどのみち書かなくてはならない生徒も多いものだ。だからそこから逆算するようにして、そこまでの文章学習を構想するべきだろう。

その際、「パラグラフライティング」という書き方に対する態度を決めておくことは必要だろう。パラグラフライティングには、「主張を一文でまとめた」トピックセンテンスの明示、および「問いかけ文」の排除、というところに特徴が在る。なので、論文というものを「問い」とその回答というふうにして構築する立場とは相容れない。論文は「問い」から構想するほうが書きやすいのが通常であるのに決まっているので、パラグラフライティングは論文には向かないと、筆者自身は考えている。

日本語文法の専門性

「現代文」という教科は、専門性を欠いていた。「志望大学学部学科の教員の書いた著作」が読めるようになるという目標が無かったのだから、しかたが無いとは言える。だが、ともかく、現代日本語文法の研究成果がまるでとりいれられていない教科であることは確かだ。この研究は、大学院等以外で接する機会が無いため、ほとんどの学生はそんなものが在ることも知らない。さしあたりは、「高校英語」に頼るのである。つまり、「高校英語」の和訳文などで比較的高度であるようなものを、假設的な目標として、日本語文法の成果を生徒に小中のうちから伝えていくのである。そうすれば、高校になって英文解釈の日本語訳が難しくてわからない、といったことは減る。

一方、文章を書くという課題においても、日本語文法は重要となりうる。特に、「断定しない」文章をいかにして書くか、という生徒が直面しやすい問題に対して示唆を与えるものになる。文法は知っておいたほうが良いものだ。また、或る程度の長さの文章を書いて破綻しないようにするためにも、文法は役立つ。たとえば「ねじれ文」を書いてしまったときにすぐにそれに気づき、修正をかけることができる。

今までは、「現代日本語文法」を研究してきた研究者には、研究者の道か日本語教師の道しかなかった。だが、それに加えて、小中高での「文章読解」「文章作成」の指導においてもその知見は大いに活用されて良い。されるべきものだ。そのことによって初めて、この「読み書き」を行なう科目に「専門性」とでもいったものが付与され、きちんとした科目になることも可能であろう。

「報道・世界情勢」に関する文章の読解にどのように上限をつけるか

「報道や世界情勢を理解・読解する能力」などというものには、きりが無いだけでなく、移ろいやすすぎて安定しない、という問題も在る。2019年の頭では2020年に書かれた「報道・世界情勢」についての文章はまったくついていけない。そこまで世界が激変することも在りうることなのだ。なので、あまりに時事や政局に寄った文章は、ここでは控え目にしたほうが良いことになる。それよりは、「社会のしくみ」についてなど、激変がめったに起こらないようなタイプの内容に方向づけたほうが良いだろう。

また、2020年になっていやでも顕在化したことだが、報道などのなかには、読者の心理に悪影響を及ぼし一種の症状をひきおこしかねないものもある。起こる出来事自体が人間の心理で受け容れられ難いほどなのだから、そうなる。なので、こういった「読んでいて気分が悪くなる」ようなタイプの時事問題も教材からは避けて、なるべく穏当な表現のものにとどめるのが良い。新聞やニュースは知れば知るほど良い、というものではないのだ。

また、これは2019年以前に言えることだが、報道はコントロールされており、たとえば別の報道を目立たせなくするために、ある種の事件を報道する、などといったことも時折見られることだ。時折どころではないかもしれない。なので、「世界情勢」について読むとか知るというときにも、その教材となるものは、いわゆる「マスメディア」から直接採るのではないほうが良い場合が多いこととなろう。

他にも述べたほうが良いことが在るかもしれないが、今はここまでとさせてもらう。