全体として伝えたい事

このサイト全体として伝えたい事柄をまとめた文章が一つあった方が良いと思うので書いた文章です。似たような内容は他の個別のコンテンツでも何度も述べています。

一段落強ほどの加筆をし、その周辺の他の文も少しいじりました。今後もこのレベルの修正をし、かつアナウンスはいちいちしないことがありえます。(2019/04/20)

文系の学問が全体として軽視されているという日本社会の状態がまず、ある

日本社会とりわけ政府が「文科系の学問」全体を軽視・敵視しているという状態がまずあります。これは米国の軍隊を駐留させていて独立国家とは到底呼べないような日本国の情勢から言って、当然なりうる状態です。日本政府にとっては、文科系の学問を身につけて更にそれを生産しているような研究者というのは、傀儡政権と呼べるほどの国民無視の日本政府に対して批判的であることが多いため、居なくなって欲しいほどのものなのです。また、理科系の学問や芸術・スポーツと異なり、文科系の学問は軍事研究にも金儲けにも国威発揚にも役立たないからです。これを把握する一助となるものの一つに、ウェブページ「賛同者リストはこちら - 安全保障関連法に反対する学者の会」があります。その結果として、文部科学省が行なう大学を対象とした文教政策が、大学教員や研究者からみるとしばしば妨害としか感じられないほどのものになっていることが挙げられます。大学教員の「悲鳴」は特に二十一世紀になってから陰に陽に聞こえてくるのが実情です。

さて、その態度と連動しているのが経済の動向です。日本の大企業は文系の学問を身につけており更に学問を生産する側に回りつつある大学院修了者を喜んで雇用することはほとんどありません。日本の大企業が好んで雇用するのは、学問をほとんど身につけていなくて学問を生産どころか消費すらしないような大学学部新卒の者です。政府や経済界への従順さに加えて、英語力や統計スキルや一般的な事務処理能力やコミュニケーション力さえあれば良いというわけです。大卒でもとりわけ体育会所属の者や、アルバイトやサークル活動やインターンで人の数倍の好成績を上げた者が採用されやすいのも、その方が学問を身につけていないことがより明らかだから、でもあります。

文科系の場合大学院に進学するとかえって一般企業への就職が悪くなるため、大学院に進学する文系の者は「研究者や大学教員の子供」だらけになります。あるいは少なくとも、「既存の企業になんて就職しなくてもいいよ」というほどの理解者を保証人としてもつ者しか、大学院に進学することはできない状況になります。というのも、学問を生産する活動に従事している子供を見て、普通の親であれば「ぶらぶらしていないで働け」と感じるからです。それに加えての連動要因としては、大学が入学にあたって保証人を必ず要求するため、保証人の意向というものが進学にも前提になってくる、という制度的なものもあります。要するに、日本社会は「大学院生が研究する」という活動に対して「給料」を出さない社会であるがゆえに、文系に関してはそれがたやすく世襲化してしまう、あるいはそこまで行かなくても「優秀な大学生であればあるほど大学院に進学する、とは全くならない」という問題があるのです。学問の品質が落ちているのも世襲化によってである、と言いうる面もあることでしょう。

文系の学問の成果や知見は、高校までの教育内容にはほとんど反映していない

さて、ここからがこのサイトのテーマになっていきます。文科系の学問が日本社会の権力機構から軽視・敵視されていることによって、今一つ次の三つの結果を生みます。これらは、学校の生徒という立場から多少感じられるような結果でもあります。この結果を筆者は問題視したいのです。これは、2019年現在からみた今後の新カリキュラムの話と言うよりも、むしろ戦後数十年の今までのカリキュラムの話であることにも注意してください。

  1. 小中高で教わる文系科目に、「学問の成果や知見」がほとんど反映していない。
  2. 小中高で教わった内容では、「文科系の大学を志望校として選ぶための情報・前提知識」がほとんど得られないし、得られるジャンルに偏りがある。
  3. 小中高で教わった内容では、「報道・時事問題を理解するための見識」「選挙で投票するために有用になる見識」が得られない。

また、これらと連動している、より下位の「結果」のほうがもしかすると学校の生徒さんにはなじみがあるかもしれません。

  1. 社会科という科目がたいていの場合暗記前提科目であり、その暗記の内容というのは固有名詞がほとんどである。
  2. 現代文という科目は、勉強してもしなくても、点数にあまり変わりがない。
  3. だから、高校のときの成績優秀者はほとんどが理系の人になる。そもそも優秀な人がめったに文系を進学先に選ばない(ただし超進学校だけは別)。
  4. 大学受験では「国語」特に「現代文」が全然主要教科ではない。また、慶應義塾大学のようにそもそも入試科目に「国語」が無い大学が、なぜか超一流大学としての扱いを受けている。
  5. 大学に入ってまず教わる「レポートの書き方」では「高校生までに教わった文章の書き方は間違っている」とか、いきなり否定される。
  6. 小中高の図書館に、「研究者」が書いた本がほとんど無いか、あっても小中高の科目に対応したものだけしか無い。また、ドイツ文学やフランス文学やロシア文学の定番作品にすらも、高校まででふれる機会が全く無い。
  7. 高校までのクラブ活動に、「文科系」の内容を単純に「研究」だけするようなクラブが理系と違って、ほとんど無い。

これらを「根本的な原因とそこから生じる結果群」というふうに把捉してもらえると幸いです。ここで、特に取り上げたい次の二つの点を述べておきます。

一つは、国語という教科で教わる「日本語の文法」(義務教育の中学校の内容)や「漢字」の知識や見識すらも、「学問の成果や知見」を多大に無視して成立している、ということです。専門家の知見や見識はまったくと言って良いほど取り入れられていません。そのため、「文法」や「漢字」すらも、むしろ「道徳」とか「マナー」といった科目のような、「言われた命令にただ従順に従うかどうか、教師の意図を忖度できるかどうか」で成績が決まるような単元になってしまっています。

今一つは、「現代文」という教科です。たとえば現代文で哲学の文章が出題されることがあります。しかしその「読解」を生徒に教える人は、哲学の専門知を備えた人では、ありません。哲学に限らずほとんど全部の文系の学問は、それを専攻しても「現代文の教師」にはなれないように、教育制度が作られているからです。(参考:取得可能免許一覧|法政大学教職課程センター|法政大学そして、文科系の学問のうちの半分くらいは、専攻してもそもそも高校の教師にすらほとんどなれません。仮になれても枠が「一校で一人しかいない」ような「政治経済」や「倫理」や「公民」しかありません。それ以外の教科の教師をやることも許されていませんし、ましてその教科内容の代りに教師が専攻した学問を生徒に伝えることも許されていません。また、文系の大半の分野の専攻者は、もし高校教師になろうと思ったら自分の専攻とは別に、歴史・地理を教える専門知をもあらためて習得しないといけないので、高校教員になることは事実上困難です。そして高校教員になれたとしても自分の本来専攻した分野を教える機会があるわけでもありません。また、もちろん小中の教員になることは完全に無理です。そして、その状態を横目で見ながら、高校の場合は「現代文の教師」を兼任している古文教師が本職である者が、また小中の場合は「国語教育学」を専攻した者が、「現代文」という枠で現代文教師自身が専攻していなかった内容を解説している、これが日本の小中高や受験の「現代文」の時間の風景なのです。もちろん、「現代文」の解説が専門軽視である事情の今一つの原因は、大学入試での「現代文」の出題者がその文の内容の専門家であるか否かが不明であり不問に付されている、という事情にも(こそ)あります。

同様に、小・中の国語科の「説明文」の単元で、理科的な内容を扱い、科学的に誤った仮説を出した生徒を(あえてではなくガチで)称賛する授業を行なうこともできます。それに対して理科の教員や自然科学の専門家からのクレームや異議もつきません。そういう授業報告は、国語科教員しか読まないような書籍にのみ書かれているだけだからです。確か武田忠とかいう人の書籍にそういう授業報告が書かれているのを見た記憶が筆者にはあります。しかし問題はむしろ、理科の内容だと、もし発覚すれば確実にクレームが来るような「説明文」の授業であっても、人文社会科学の範囲を扱って同様の不適切さがあっても、クレームがまず来ないし、人々も自然科学と違って関心をまず絶対もたないということのほうにあります。仮に生徒の保護者が人文社会科学を専攻した卒業生であっても、です。それだけ、理系の学問と違って、文系の学問はそれを学んだ者からすら軽視されているからです。

教育機関で日本語の運用能力がつく保証が無い

この結果として、直前にタイトルで書いたような「教育機関で日本語の運用能力がつく保証が無い」という結果が招来します。ただしこの言い方にはいろいろな注釈が必要です。いちばん肝腎なのは「そもそもどのような日本語の運用能力が必要なのか」というゴール設定からして、現在の状況では絶望的であるということです。日本の場合だとまず間違いなく「大学入試」がゴールに設定されます。しかしそれは間違っています。というのは、大学入試を突破することなどよりも、そもそも志望大学を内容本位で選ぶことのほうが、事実としても先行していなくてはならないし、しかもより高度の能力が要求されるからです。「少なくとも自分が入学する予定の学科・専攻の教員の書いた著書がある程度読めること」これが、高校卒業時までに身につけるべき「最低限のゴール」になります。そのような能力がつく保証が、小中高や受験制度に対応した塾・予備校という教育機関には全く無いのです。

「それは文系の大学を志望する人が主である話であって、他の大学志望者や、高校卒業後就職する予定の人には関係ない」と思うかもしれません。ですが、この人たちにとっても少なくとも一つのゴールは設定されるべきです。それは「報道や選挙のマニフェスト等を理解できる日本語能力」というゴールです。とは言え、現状ではマスメディアでの報道はむしろ事実を隠蔽し目を逸らすために行なわれているものも少なくないので、本当に大手だけの報道機関の報道を念頭に置くのでは不充分でしょう。また「それは社会科の目標であって、日本語能力や国語力のゴールではない」などという寝言を述べる人は、「現代文」を見直してください。「社会科のような内容」だって出題されていることに気づくはずです。あるいは、「社会科のような小論文」や「社会科のような作文課題」を国語教師が指導している場合も多いことに気づくはずです。

これで二つのゴールの案が提示されました。もっとも後者は前者に包摂されます。政治学や国際関係論や経済学などの志望者にとっての「志望校の教員の書いたものを理解できる日本語能力」というゴールが、ある程度以上、「報道や選挙のマニフェスト等を理解できる日本語能力」というゴールを兼ねるからです。そういうわけで、代表的な「大学の研究者(文科系分野)が書いた著作をある程度理解できる日本語能力」というものが、設定される「日本語力習得」の「ゴール」として小中高段階の生徒に対して設定されえます。とりわけ、政治経済や国際関係論に深い関係をもつ分野の文章を理解する能力が優先的に設定されえます。ただし、それを公教育の中で行なうことは不可能ですから、その外側で、しかも受験制度とも独立に行なうしかありません。

小学校や中学校の生徒という段階の生徒が日本語能力をつけようという場合も、そのようなゴールから言わば逆算するようにして、学習内容を設定するのが良いのです。

小学校・中学校段階での日本語能力の学習はどのように構想されるのが良いか その1

小学校での英語学習が義務化されたことからも推察されるように、今後の日本では政策主導で日本語能力の重要性が減じられていき、英語力がますます重視されるようになるでしょう。平たく言えば、「英語を公用語にする」時代、さらには「日本語を公用語から外す時代」までもが射程に入ってきているのです。その中にあって、日常用いる言語として、さらに学術に用いる言語としても日本語を必死で守りぬいていかないと、政策的に滅ぼされかねません。…と、そのような時代診断が可能であるのと裏腹に、日本語能力の学習に関しては課題が山積しています。仮に情勢が一切変化しなくても尚、現状維持すら困難なのです。その点を踏まえたうえで、日本語学習の課題を特に初期段階である小中でどのように行なうのかの議題設定をしておきましょう。

まず、「漢字」の学習が必要になるが、この場合の重要度もまた、「大学の研究者(文科系分野)が書いた著作をある程度理解できる日本語能力」から逆算されるようにして決まるのが理想です。そして、日本語の場合「漢字が読めないと講義等の音声も聞き取れない」のですが、同時に「漢字が読める力さえあれば講義等の音声は聞き取れる、とは全く保証されない」のです。もちろん、「講義が理解できるかできないか」の次元を問題にしているのではなく、「そもそも講義で話された文を再生(同定)できるかできないか」の次元をここでは「聞き取れる」という言い方で問題にしているのです。要するに日本語の学習ということで講義を理解するための「日本語リスニング」の練習もまた必要なのです。そうでないと「文字だと同定が容易なのに、音声だと同定が困難である」というケースが必ず出てくるからです。

ここで今一つの問題が出来します。そしてそれは文字で書かれた日本語でも音声で話された日本語でも等しく言えることです。どういうものでしょうか。「理解できない」というときに「送り手の側の問題」なのかそれとも「受け手の側の問題」なのかは、にわかには判定できにくい、これです。従来の国語等の教科学習では、「全部受け手の能力の問題」として対処してきたはずです。しかし少し考えればわかるように、書かれた日本語が「送り手」の側にはまったく問題がなく、つまり改善の余地が無く、受け手の側の「能力」と「努力」だけで理解の度合いがすべて決まるのであれば、「現代文の試験」は成立しません。現在の現代文の試験というものは、書き手の側にもかなり問題があって「理解が困難」なものでなければ、なかなか出題文として使用できないからです。どうしてもという場合は、出題者の側で原文をわざわざ改悪したり理解に必要な部分をカットしてまでも、「試験に使えるような文章」に改作してしまうでしょう。むしろほとんどの場合はそちらの要因が大きいでしょう。だから現状の受験制度や教育制度では、「読み手に読解などを強いないほどに明快で良い文章」に国語科や現代文で生徒が接する機会がまず無いのです。というのも、「読解を強いない文章」では試験にも授業にも使えないからです。だから、「わかりやすく書きなさい」という教育的な指導自体が通用しません。「お手本」が与えられていないのだから、自然にそうなります。同じことが文字で書かれた文章だけでなく、音声でのやり取りでも言えるでしょう。音声の講義で「理解の不足や誤り」がある場合、従来だと「聞き手の能力」にすべて帰責されてきたはずです。だが実際には、種々の事情により「話し手の能力」こそが原因となって「理解の不足や誤り」が聞き手の側に生じることがあります。いや、誤りというよりも、むしろ「話し手は伝えたと思い込んでいる」が「実際には伝わりうる発話になっていない」場合こそが多いはずです。だけれどそうは見なされていないし、だからそこで「対策」も「教育目標」も特に検討されないのです。要するに「読解力」だの「聴解力」だのという概念は、もはやシンプルには維持し得ないものなのです。

そもそも一般的に言って、国語の記述式の試験での回答のお手本になるような書籍や文章や、小中高のうちに書かされるレポートや「論文のような文章」のお手本になるような書籍や文章や、といったものは世の中にあまり多くないのです。この説明のためには記述式の回答という場面を想定するのが手っ取り早いでしょう。たとえば文学作品の一部を読まされて、設問に対して回答する側はそこで「文学作品のような文章」で書いたら、採点官の印象は悪いでしょう。なぜなら「文学作品を読んで回答する記述式の設問」というのは文学作品のような文章でではなく、事典や辞典やマニュアル本のような文章で書かれないといけないからです。ただし、文学作品のなかにも、「登場人物が文学的な修辞ぬきで演説したり講演したりする」場面などでそれと同種の文章が登場するものもあります。そのタイプのものならお手本になるかもしれません。また対照的に、大学教員や研究者が小中高生向きに書く書籍等のなかには「会話体」や「話しかけるような文体」で書かれているものも少なくありません。これらはあまりお手本にならないのです。というのも、それをお手本として生徒が試験やレポートやその他の文章で書いても、文体の面で、評価する側に良い印象は与えにくいからです。

以上の点を考慮すると、次のようなことが言えます。これらは「日本語能力のゴール」や「手段」を設定する困難を指摘したものですが、同時にこの困難それ自体を生徒に豊富な題材で解説し理解してもらうことこそが日本語能力の向上につながる、とも言えるのです。そもそも「読解を強いないほどに明快でわかりやすい文章」だと試験にも授業にも使えない、と考えるのは「それを資源として生徒の能力を判定しないといけない」という要請が強く存在するからです。しかしその要請を無視さえすれば、端的に「明快な文章」が「なぜそれが明快なのか?」、さらに「明快でない文とどう違うのか?」といった事柄を、それ自体として生徒に説明する授業が成立するし、その説明を理解すること自体が日本語能力の向上に役立つのです、…と、そう捉えた方が良いのです。同様に、「文学作品を読んで、それに対して説明文のような文章で回答を書かないと評価されない」「したがって記述力のお手本というものがなかなか無い」という事柄も記述式という方法や試験制度に付随する必要悪と捉えるのではなくて、それ自体をまるごと解説することが日本語能力向上のための機会になる、と捉えるのが良いのです。同様に、文学作品の中の「演説や講演」の文が「お手本」として存外活用できることや、反対に、学者の書いた書籍の「会話調」や「語りかけ調」の文体では「お手本」にはなりにくい、という事情も、同様にそれ自体の解説が日本語能力向上のための資源として活用できるのです。このように「試験によって生徒の能力を評価しなければならない」という要請さえなければ、いくらでも「機会」や「資源」はある、とそのように把握し直すことができるのです。またこれらは文字で書かれた文章だけでなく、音声にも適用できる事柄でもあります。

小学校・中学校段階での日本語能力の学習はどのように構想されるのが良いか その2

ここまでではまだ「難しい単語をどう理解するか」という課題には特に言及していません。そもそも従来の国語科ではそういった課題自体があまり重視されてきていないとも言えます。国語科では「難しい漢字」にせよ「難しい単語」にせよ「字典・辞典をひきなさい」で終わり、それ以上の対策はあまり真剣に行なわれていないことが多かったはずです。すなわち、理解するとは「字源や語源を知ること」と「定義・事例を知ること」とであり、「それで充分なのか」とか「その解説文や事例が理解できない場合どうするのか」とかはあまり真剣に対策を検討されてはいないのです。それどころか、教育できちんと教えたりすることも無いまま、「いきなり生徒に説明をさせて、説明できるかどうかで理解度をみる」のようなことすら行なわれつつあるようにも感じられます。要するに「難しい単語」問題は「全部生徒に丸投げ」に近いのです。

「難しい単語」問題に関して、21世紀初頭頃の「喪われた20年」の間に力を持った考え方の一つは「具体から抽象へ」といったものです。だが、ここで詳述はしないですが、このキャッチフレーズはかなり良くないです。というか、このキャッチフレーズを振りかざす人が、「では何が具体の事例となる単語であり、何が抽象の事例となる単語か、できるだけ多くの単語を分類してみせる」ことを一向にしなかったのです。「ほとんどの単語」がそのどちらにも入らないのでは、このフレーズの効力は無いも同然になります。つまり結局「具体的な単語というのは易しい単語のことであり、抽象的な単語というのは難しい単語のことである」以上のことがほとんど言えていないのです。あるいは説明し出すと、「具体」「抽象」の意味内容が事例に都合が良いように転変するだけです。このような状況が少し以前にはありました。

「難しい単語」問題に対して、筆者もまださほどの見るべき知見を確立はしていません。が、一つだけその喪われた二十年の教育の迷走を見ていて思ったことがあります。それは、少なくとも「半側評価語」だけは、それとして一度はまとめて学習した方が良いだろう、というものです。「半側評価語」というのは筆者の造語であり、野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」で説明しています。たとえば「感情的」というのは非難や嫌悪の表明のときに用いられるものであり、「感情的」が「良い意味」「褒める意図」で用いられることは通常無いです。同様に「感動的」と言えば、称賛や好意の表明のときに用いられるものであり、「感動的」が「悪い意味」「非難する意図」で用いられることは通常無いです。「論理的」も「思考力」も同様に通常の非専門的な場面で用いられる場合は「褒め専用」の語であり、内容によって規定されている語であるというよりも、はるかにその「評価」の機能によって規定されている語です。他にたとえば子供の語彙習得を俯瞰するで例として用いた「チャンス」という語もまた、半側評価語の一種であり、「チャンス」と言えば必ずそれは「誰かにとって望ましいもの」なのです。すなわち「誰にとっても望ましくないもの」を指して「チャンス」とはまず言わないのです。このような、半側評価語が内容よりもその評価機能によって規定されている、というそのあり方は人々の言語使用のあり方が大きく変化すれば伴って変化しうるものであり、いくぶん流動的ではあります。が、現状かなりのコンセンサスを伴って使われていることもまた確かであり、一定程度抽出可能で、学習可能です。そして、これらの半側評価語と「事実を表すために使う」単語とは、ある程度は区別可能であり、また区別すべきです。ただし「おいしい」という片側評価語でもある単語を少し考えればわかるように、「皆がおいしいと思うはずであろう」というときにも「たとえ思うのが私一人であってもおいしいものはおいしいのだ」というときにも、どちらでも「おいしい」という単語は用いることができます(西阪仰『相互行為分析という視点 文化と心の社会学的記述』金子書房,1997)。そして前者のほうは確実に「一般的な事実を述べようとするときに使う単語」としての用法に漸近してもいます。ただし、これが言えるのは知覚・感覚を表す語の場合であり、「感動的」などには当てはまりません。ですがともかく、半側評価語の用法というのは「難しい単語」の理解や習得という問題に関しても、留意すべき点なのです。またその際、半側評価語を使えるようになるかならないか、という「習得」状況だけに注目するというよりは、半側評価語にまつわる上記のようなあり方をそれ自体解説として生徒が見聞きし理解すること自体が、「難しい単語」の理解にも有益であるのだ、と見なした方が良いです。

「難しい単語」問題の今一つの側面として、「同じ語が複数の用法で使われ、その用法が社会的なグループによって棲み分けられている」という語用的事実もあります。これも「難しい単語」の難しさを増幅しています。たとえば「思考力」が半側評価語として用いられるのの延長で「思考」という語も半側評価語的に用いられることもあります。だが、他方で、そうでなくてある程度の「事実」を表す語としても用いることが可能です(ただし「思考」という語でしか表現できないわけではなく「意識」とか「内言」といった語でも構わない)。このように、同じ語にも複数の異なった用法が併存していることは稀ではありません。同様にしてたとえば「抽象的」というのも、半側評価語として「けなし専用言葉」として用いられる場合と、「どちらかと言えば褒めに使う」くらいの場合とが、並存しています。これも「具体から抽象へ」というキャッチフレーズが良くない事情に関係しています。特にその「抽象」という語の使い方が、二つの用法の都合の良いほうを持ち出してくるなどして使い分けられて、恣意的になりやすいのです。もちろん、他でも述べたように「論理的」も複数の用法が成立しており「褒め専用」の用法と、何らかの形で論理学を踏まえた用法とが併存し、棲み分けられています。このようなタイプの語も、「難しい単語」問題の難しさの一翼を担っているのです。

「難しい単語」の今ひとつの側面として、筆者はすでに「不特定動作動詞」といったものを造語として提案しています(子供の語彙習得を俯瞰する)。これはたとえば、「調べる」とか「扱う」とか「処分する」のような、「特定の身体動作や物理的状態を表すのに用いるのではないが、同時に何らかの身体動作や物理的状態を伴ってはいる、というときに使う動詞を指します。同じようにして「不特定状態形容詞」や「不特定状態名詞」だっておそらく考案できるでしょう。たとえばこれらの動詞の名詞形や形容詞形からもその例が作り出せるでしょう。名詞なら「調査」「取り扱い」「処分」などといったようにです。ともかく、その適用の基準が、語の指示対象だけを眺めてもさっぱりわからないような、そういった語というものがあり、それもまた「難しい単語」の一側面なのです。これらに関しては、その習得というのは「その語を使っても良い場面」をいうものを多数経験することによって、徐々に為されていくのではないか、と筆者は推測しています。つまり、初めは「その語をそのように使って良い」という場面をいくつか経験し、そのことによって「その語はあのようには使っては間違いだ」とか「あのように使って良いのはむしろ別のあの語だ」といった事も何となく習得していく、というものになるだろう、と推測しています。

小学校・中学校段階での日本語能力の学習はどのように構想されるのが良いか その3

現在までの公教育で文法の教育はほとんど抛棄されているも同然なのです。中学校での学校文法は、高校での古典文法の学習のための準備という意味合いしかありませんし、現代日本語の理解に特に役立つということはあまりありません。だからたとえば「あなたが知っている事を私は知っている。」と「あなたが知っているという事を私は知っている。」との識別といった能力が特に問題になることはありません。この事例での区別が問題になるのは英語学習においてです。あるいは、「世界における生物の出現と、宇宙における生命の発現とは、並行して論じることのできるテーマである。」といった翻訳調の文章の理解が特に問題になることもありません。

小学校・中学校段階での日本語能力の学習はどのように構想されるのが良いか その4

その日本語の文章が英訳されたときに英語圏の教師や上司が飛ばし読みできるように文章を書け、という規範が、21世紀の日本の子供には一部で課せられるようになってきています。飛ばし読みできるように書け、ということは、飛ばし読みしないとズタズタに寸断されて読みづらい文章にもなりかねない、ということにもなっています。このような英語圏での規範に適応できるか否か、というのも現在だと「日本語能力」の一つとされかねません。それに対抗して「飛ばし読みできてもできなくても、とにかく普通に連続して読んだときにこそ読みやすいように書く」という規範もありえますが、現在の日本だとそれを真剣に追求する教育はあまり行なわれやすくないように思います。しかしともあれ、そのような教育が行なわれ、その目標にかなった「飛ばさずに連続して読んだときに読みやすい文章」を書く能力もまた、日本語能力の一つである、と生徒に伝えることは重要になります。

おわりに

私の知り合いに、日本語の文章の教育をネイティブ日本人の生徒に行なっているらしい人がいます。その人から「もっとわかりやすい教育の実例を考案してほしい」と昔言われたことがあります。しかし「実例」では、現行すでに強行され、あるいは今後より強行されそうなもろもろの教育方針に「対抗」できません。対抗するためには、どんな考え方やどんなやり方というものがありえ、それらがどのような関係になっているかを、まず全体として見てとらないといけません。「文章を書く能力」というものも、それだけでシンプルに成立はしません。現在の日本で「文章を書く能力」を培おうとすることは、「お手本なしに教師や採点者が気に入るように書け」ということにほとんど直結します。つまり、ここにあるのは「文章を書く能力の欠如」ではなくて「お手本の欠如」こそが問題である、という事態です。「家庭の文化資本」すらあまり関係ありません。そのことを踏まえないで「生徒の記述力を高めよう」などという教育課題を掲げてはいけないのです。