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中学生は日本語の学習に時間を割くことがあまりできないはずだ。なぜなら、中高の期間は日本語なみの英語力をつけることが強く強く求められているからである。現代日本語の学習はだから、中高の期間はお休みである。…というのがこの国の暗黙のルールであった。だとすれば、日本語力のせめて小学生レベルの維持程度だけでも目標になってくる。そのためには、一つの重要な進む道がある、と筆者は思っている。それは、小・中学生の日常生活を描写する日本語を豊かにしていくことである。「日常会話」、これを描写するのである。そのためにはしかるべき語彙力が有用になってもくる。
日常生活の少なくない部分は、音声での会話によって構成されている場合が多いだろう。会話ができるということ自体が能力でもあるが、その会話をさらに描写したり報告することもまた場合によっては、重要な能力になってくる。その描写や報告の場面では、音声でのやり取りの描写や報告のなかに使われるような語彙というものもある。そこでそういった語彙を見通しよく知っておくことは中学生の語彙力のためになるのだ。ところがその種の語彙は放っておいても誰もが身につけてしまうというほどでもなさそうなのだ。通常は、「高等学校での英語学習」での「和訳」語として身につけていることが多いと思う。つまり、従来だといくぶん人為的な学習、それも高校英語の学習によって身につけてきたものを、中学生のうちに英語学習としてではなく日本語学習としてやってしまおう、というわけだ。
そこで、このページではそれらの語群をなるべく手際よく鳥瞰していきたい。その見通しを通じて、比較的労せずして重要な日本語の語彙力を身につけていくことができることを期待したいのだ。おそらく、日本で初めての試みであり、なかなかうまくはいかないだろう。しかしこれを誰かしらが試み、たたき台として提示することが有意義であることは間違いない。というのは、従来の国語科という教科では、「言語を操作する語」「言語を表現する語」といったタイプの語群はまったく手つかずであり、先にも述べたように「英語学習」で補われているのが実態だったからだ。その手つかずの語群のなかに「会話を描写・報告する語」もまた含まれる。
なおこのページは、既出の「コミュニケーション可能場面における、話者の発話自体への応接という要素:飯野勝己著『言語行為と発話解釈』への補足修正の提案」の続編という面もある。併せて参照するのも良いかもしれない。
会話であるということは、「ひとりごと」ではないということである。だから、ここでは誰かの発話に対して、別の者が発話で応じても構わない、という状況が基幹的なものとして想定されている。もちろん、結果的に「ひとりごと」になってしまうケースもあるのだが、それらは基幹的ではなく周辺的な事態という位置づけにしておきたい。
その際、「表明する/応接する」というペアが、会話というものの描写・報告のキーポイントになる、と筆者は思う。だがここでは、「表明」や「応接」というものを、ほとんど何でも含めることができるような広い概念として想定している。拡張的に用いているのだ。だからそうではない、通常での用法から確認しておきたい。
まず「表明する」である。
上掲のこの2例からうかがえるのは、こうだろう。「表明する」という語の典型的状況は「多くの人々を前にして、個人が何かなみなみならない意志などを発表する」といったものなのだ。これらは「宣言する」の要素ももち、「約束する」の要素もないわけではない。だが、ここで拡張的に想定している「表明する」はこのようなものものしいものではない。誰かが誰かに向かって何か言葉を発する、そういった場面の最大公約数のようなものとして設定した「表明する」である。そして、通常使われる機会がないだけであって、「表明する」をそのように単に「誰かが誰かに向かって何か言葉を発する」ように使っていけないわけではないのだ。単にそれだとその発話の種類を細かく特定できないから使わない、ということにすぎない。
多くの発話は、その聞き手に対していくぶんなりとも「促し」をしている。少なくともそのように受け取って構わない。まったくの「ひとりごと」ならそうではないだろうが、特定・不特定の相手に聞こえるようになされた発話には「促し」の要素があるといって良い。そのような点を捉えて、その種の発話を「表明する」という少し強い言い方で概括してみた。
つぎに「応接する」である。といっても、それこそ会話分析でもしようとか特殊な場面以外で、「応接する」という語が使われるのを私は見聞したことがない。なので、思い浮かぶのは「応接間」という単語だ。相手はちゃんとしたお客であり、そのお客の相手をすることを「応接する」と呼ぶのが似合うように感じる。だがここでは、「客間にお客が上がり込む」とでもいったイメージは無用である。ここでは、相手の発話に対して発話で応じること全般を「応接する」という語で代表させて用いることにする。きわめて多くの「表明」に対しては「応接」が接続することが自然であり求められてもいる。
いくつか例を挙げてみてみよう。
いきなり複雑な例を挙げてしまった。しかし話自体は簡易なものである。AさんとBさんとは上司部下や先輩後輩といった関係にあるのだろう。Aさんによって「命令」の表明がなされた。これに対してBさんは、その表明に対して言葉で「はーい」と言って応接した。この応接は「聞き届けた」とか「承諾した」といったあたりの語で表現できるだろう。それと同時に、Bさんは、実際に窓を開ける行動もとった。これは命令内容に対する、身体動作上での「応接」だと位置づけられる。
ここでは「返事をすることなど」と「窓を実際に開けること」という二種類の事柄が促されていた。会話について考えているので、まず必要なのは「返事をすることなど」といった言語的な応接である。そこに付加するようにして、「窓を実際に開けること」をも考慮すると良い。そうすると、ここでは「命令/承諾」とでもいった会話のペアを形成することになる。
実際の会話では大まかに分けて4通りの展開が想定可能だろう。「承諾の返事もあって、実際に窓も開ける」という展開、「承諾の返事があるのに、実際には窓を開けない」という展開、「承諾の返事などがないまま、無言で窓を開ける」という展開、そして、返事も窓を開ける行動も無いという展開、この4通りである。細かくしていけばまだ想定可能だが、ひとまずそういうふうに単純化して捉えておこう。
ここでは発話による「促し」が、発話上のものと行動上のものとに分かれていた。それらを独立に把握することができた。このように「行動上の促し」ないし「行動面での応接」が要素としてからんでくる会話の代表的なものとしては、次のようなものがあるだろう。たとえば、「命令する」「催促する」「要求する」「依頼する」「懇願する」「勧誘する」「推薦する」「提案する」などがそうだろう。「Aを命令する」というときに促されているのは、発話上の応接と、Aという内容の実行という応接とである。その他の例の場合も程度の差はさまざまだろうが、その二種類の促しを想定することができる。
次に、いっけん容易なように見えて、話としてはむしろややこしくなる例を挙げてみる。
何が難しくなっているのかというと、「発話上の応接」と「行動での応接」という区別ができなくなっていることだ。要求されているのはいずれも「発話での応接」だ。だが、そこには、「まず返事する」「まず聞き届けたことを伝達する」などといったタイプの応接と、そこで促されている「質問に答える」への応接との区別が、成立する。
ここでも4通りのケースを想定してみることが、考察の助けになるかもしれない。まず、Bさんが「はいわかりました」などと言って質問に答えるというケースがある。次に、Bさんが何も言わずに突然、Aさんの質問に対する回答だけを行なうというケースがある。次に、Bさんが「はい。そうですね」などとだけ言って、Aさんの質問には回答しないケース。最後は、Bさんが無言で何も答えない、たとえば無言でその場を立ち去るなど、といったケ―スである。すると最初の2つのパターンが、少なからぬ場合大差ないことがわかる。促されているのは、圧倒的に「質問に答えること」のほうであるというわけだ。
この発話の特徴は次の比較によってもわかるかもしれない。ここでは「Aさんは『私の質問に答えなさい』とBさんに言った。」というケースを想定した。それに対して「Aさんは『今何時?』とBさんに言った。」というケースと比較してみると良い。『私の質問に答えなさい』という言い方には、強い「促し」がある。それは「なぜ答えないのか答えなさい。」といったさらなる詰問や、「ちゃんと答えなさい。」という命令などが、組み込まれているからだろう。それに対して『今何時?』という質問にはそういった強い促しは見られない。もちろん音声での言い方次第では強い促しに感じさせることも可能だが、今はその場合は考慮しないことにしよう。
『今何時?』が「質問する」といった行為だとするのなら、『私の質問に答えなさい』はそれよりも強い「詰問する」とか「返答を要請する」「返答を要求する」「返答を命令する」などといった行為となろう。ともあれ、促されているものが「発話」でありそれがずいぶんと込み入っていたり、促す圧力や度合の高いものもまた、類型として多数存在する。
今しがた挙げてみた例は「返答を要請する」「返答を要求する」「返答を命令する」といったいくぶんぎこちない表現のものである。しかし、こういったもの以外でも「相談する」「提案する」「問題提起する」「議論する」「批判する」「非難する」「哀願する」「縋る」「訴える」などといったものを列挙することが可能だろう。先の例で言えば「窓を開ける」という動作に代わって、これらの語群ではそれ自体発話によって相手の促しに応接する必要が出てくるものである。それは『今何時?』『9時だよ。』といったやりとりよりは、どう考えても複雑だったり高度だったりするし、促されている度合も強い。
会話の描写や報告のために用いる動詞群のなかには、「態度表明を行なう」とでも呼びうる語群が存在している。「賛成する」とか「反対する」とか「同意する」とか「否定する」などというタイプのものが、その中核に来るだろう。このタイプの態度表明系の行為へは、なんらかの応接もまたごく自然に求められてくる。ただ、その応接のほうは、多様であり、パターン化が難しい。なので、まずは「態度表明」の側に照準して、少し検討してみよう。
「よい」や「悪い」、「よい」や「ダメ」といった二元論的な形容のしかたは、幼児のコミュニケーション習得段階からその基盤として想定されるのであった。既出の「幼児の言語獲得の、汎用性の高いモデル―清水哲郎の著作『医療現場II』に依拠して」)でもそのように扱った。その二元論的な構造ははきわめて原基的なものである。そうすると「賛成する」とか「反対する」とか「同意する」とか「否定する」などというタイプの動詞もまた、それらのごく自然な延長にあることが充分推察される。幼児ならば「お母さんがダメと言った。」と表現するところを、もう少し長じてくると「母は否定した(却下した・禁止した等々)。」などと表現するようになってくる、というわけだ。
そのことと関連して指摘できるのは次の点だ。「態度表明を行なう」系の語群には、「中立」的なものが多くなさそうである、これである。例外として「評価する」という言い方がある。この場合二つの用法が想定できる。「評価する」には「良く評価する」と「悪く評価する」との場合がどちらもありえ、そのどちらなのか話をよく聞いてみないとならない、という用法である。もう一つは「評価する」→「良く評価する」と決まりきっているという用法である。しかし、後者のように「決まりきっている」とすると誤解が起きやすいので、あまりこの用法は単独では使われにくいだろう。
また基本的には二元論的なのだが、もう少し細かく分化している場合もあるだろう。「禁止する」の「反対語」をアンケートで尋ねたなどした場合、「許容する」を答える人と「推奨する」を答える人とに分かれそうだ。前者が「弱い否定」、後者が「強い否定」だというわけである。「禁止する」の反対語なら「推奨する」だが、「推奨する」の反対語は「禁止する」ではない、と言いうることも関連しているかもしれない。
また「態度表明を行なう」という語群になりうる動詞は、かなり多様である。その多様さというのは、「言葉を用いる場合にのみ使う」とは限らない動詞が多いことからもわかる。「禁止する」ために言語とりわけ音声を用いた会話が必要とはちっとも限らない。特に幼児に対しては、無言のまま養育者は実力行使的に「禁止する」を行なうことも可能だ。このようにして、いわゆる言語行為論などで登場するような動詞ばかりにならないのも、この群の特徴の一つである。
主な例としてはここまでにも挙げた、「賛成する」「反対する」「同意する」「否定する」「(良く・悪く)評価する」「禁止する」「却下する」「推奨する」のほか、「賞賛する」「感謝する」などがあるだろう。
表明を行なうという発話のなかには、自分の「感情」や「見方」などを表明するというものがたくさんある。これらには、必ずしもいちいち動詞に名前がついていない場合もある。また、言語行為以外にも用いて良いものが多いのも、先ほどと同様である。
たとえば「○○感情の表明」とでも言えるような発話というものが種々想定できる。これらは二元論ではもはやない。「怒りを表明する」→「怒る」「怒ってみせる」や「悲しみを表明する」→「悲しむ」「悲しんでみせる」など、「〇〇感情」が種々想定されるようにして、これらの表明もまた発話での表出となるのである。それはきりがないほど想定できるに違いない。ただし、上にも示したように、「怒る」と「怒ってみせる」、「悲しむ」と「悲しんでみせる」とには違いがあり、ケースによっては区別の必要もある。感情の場合、それへの応接のしかたにもある程度のパターンが有る場合も多いだろう。「怒る」という発話に対しては、「なだめる」だったり「負けじと怒る」だったり、「泣き出す」だったりそのあたりはさまざまだ。類型自体はたくさんあるだろうが、感情への応接はいくぶん類型的ではある。
実例を考えてみたが、多くの場合「言葉を用いるときに限定して使う語」にはならないことがわかった。むしろ、その語が用いられていてもそこで会話がなされている保証はない、といったほうが良いくらいかもしれない。「感情を感じる」ことと「感情を表明する」こととは日本語の語彙のなかではあまり区別されておらず、区別するときには多少表現に工夫をしないとならない、という事情があるからだろう。ともあれ例を挙げてみると「怒る」「悲しむ」「笑う」「喜ぶ」「驚く」「苛立つ」「怖がる」「不安がる」「寂しがる」「嫉妬する」「感動する」「満足する」「切望する」など比較的普通の単語群が挙げられる。
「見方の表明を行なう」という発話もまた、きりがないほどある。「次に来る事態はこうだと見なすよ」ということを表明すれば、「予測する」「推察する」などと表現することができる。「次の点に気をつけたほうが良い」ということを表明すれば「注意を喚起する」「指摘する」などと表現することができる。これらの語群は「主張する」という語である程度一括して押さえることもできる。「〇〇を主張する」というタイプの表明として一括することが可能なのだ。ただし強度の差がかなりあることは注意してよい。「主張」というと相当に強いが、この場合の「主張」はそこまで強いとは全く限らないからだ。「明日雨かもなあ」と発話するのも「明日は必ず雨になる」と発話するのも、どちらも「予測する」ではある。しかし、その強度には相当の差がある。描写・報告する場面によっては、そのあたりをきちんと細かく区別したほうが良いかもしれない。「明日雨かもなあ」の場合は「彼は明日の天気を臆断した。」や「直感で予想した。」程度の表現にしておくのがよいのかも知れない。それに対して、「明日は必ず雨になる」は、「彼は明日の天気を断定的に予測した。」などと表現するのがよいのかもしれない。
例としては、「予測する」「推察する」「断定する」「指摘する」「言及する」「定式化する」「要約する」「概説する」「解説する」「説明する」「分析する」「問題提起する」「論証する」「例示する」などを挙げることができよう。追記:「報告する」「連絡する」「伝達する」などの語群もここに含めて良いと思う。その報告内容もまた「見方」だというふうに扱うことにするのだ。
会話を描写・報告することのできる動詞のなかには、「話題」や「会話」や「発言権」などを中心にして把握すると良いタイプのものもまた、ある。たとえば「話題を変える」という表現があるだろう。そうすると、「話題を導入する」や「話題を終了させる」という表現、「話題を元に戻す」という表現や、「話を逸らす」「会話を一時中断する」といった表現、なども使うことができることがわかる。これらは「一語での日本語の語彙」で表現できないため、語彙学習で扱われることはまずないだろう。というただそれだけの理由で従来扱われてきていない。特にこの群をグループとして見なすことができるのも、その事情があるだろう。だが、これらの表現も「一語で表現できる語彙」と同等に並べて、配置してみても良い程度に使用されうるものだ。先のグループで例として挙げた「問題提起する」はこの群に含めても良いかもしれない。要するに、本質的には先の群とあまり変わらない内容の群なのだ。ただ、こちらのほうがより「日本語の自然な語彙」らしくない、ということにすぎない。
なお、この群の語が表明された場合、その応接もまた、同じようなタイプの語になることが多いと思う。たとえば「話題を変える」という発話に対しては、「(変えた)話題を引き継ぐ」などといった発話が応接しうる。或いは「発言権を行使した」という発話に対しては、「発言権をパスした」といった発話が応接しうる。「それじゃね」という発話に対して「うん」とだけ述べて応接する場合などだ。この「うん」は他の事も言えるのに言わなかった、つまり発言権をパスしたものと解されるのだ。
日本の中学生というものを、「日本語の学習を放置されている」存在であると見なしたうえで、そこでの日本語学習の課題というものを提案してみた。上記の話題にかなったような語彙や表現のしかたは当然まだまだあるに違いない。それらを上掲の分類軸も参考にしつつ、語彙を増やしていくのである。これらは、日頃行なっている行為である場合が多く、わざわざ新たに何かを学習するような負担は少ないだろう。
日本語の場合、語彙を増やすということに「漢字」を媒介として用いることができる。「表明する」という語を学んだときに「表」の字が使われていることに着目して「表出する」という語も併せて学んだり、「発表する」「公表する」などと同じ字が使われていることをあらためて確認してみることができる。同様に、「表明する」の「明」の字に注目して「言明する」という語も併せて学んだり、「説明する」「解明する」などと同じ字が使われていることをあらためて確認してみることができる。このようにして、「音声を用いた会話を描写・報告する語」という観点からだけでも、日本語の語彙力を拡げていくことができるのである。
言語行為や日常会話の語彙の分類として、上掲のものが最善であるはずはない。おそらくまだまだ不充分な点を残しているだろうし、例として挙げることのできる語彙や表現もまだたくさんあるに違いない。しかし、こういう分類軸を提示した過去の事例はおそらくない。世界初であるかもしれないものだ。そのような新しくかつ未熟な体系であることを踏まえて、読者諸賢の役に立てられることを祈りたい。