準拠集団・学歴社会・「社会国語力」

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この文章は、「知られていなかった、中学受験実績が高くて住民平均寿命の長い地域」「「平均寿命」に表われる首都圏の居住地格差」「「東大に多く合格する高校の付属中学」に80年代に多く合格していた公立小学校の分布」等と関連があります。

「生まれ育ちの格差」の存在

日本社会は、「生まれ育ちの格差」が維持されやすい社会である。

すでに別稿でも述べたように、日本にはまず「自然災害リスク」の高い地域と比較的低い地域とがある。このため、居住地には不動産産業によってあらかじめ「値段」がつけられており、裕福な者でない場合だと「自然災害リスクの低い地域」に住居を買うことが困難である。と、そういう仕方で「生まれた家庭の所得格差」が維持されやすくなる。公立学校の「学区」もその地域格差を温存する装置として機能している。ようするに小学校受験や中学校受験に無理して参戦しなくても、その地域の学区の公立学校に子供を就学させていれば「自分と同水準の教育や所得の保護者をもつ子供たち」のなかで自分の子供を生活させることまでは保障されている。すごく雑駁に言えば「親が大卒であることが当然」であるような地域に育った子供は「大卒であることが当然」であるような行動様式やものの見方を生活のはしばしから無自覚的に学び取る。その反対に「親が高卒であることが当然」であるような地域ででもそうだし、もちろん、そのちょうど中間くらいの地域であっても、そうだ。公立学校の教師や教育の質とは別に、このような「家族を含め、直接対面する交流関係から学び取る社会的学習」による効果が、格差を一定程度温存することになるのだ。

もちろん、他にも米軍基地や原発や歓楽街や公営賭博場や大きな工業地帯などの、居住地の格差を産み出す要因になるものはまだある。さらに3.11以降は「相対的に福島原発の放射能被害を受けやすい地域」を作りだし、また「液状化しやすい地域」を可視化してしまったため、これも以降は格差の要因になっていくだろう。 こういった因果関係にはさまざまなものがあり、一口には言い切れないものがあるが、それでも「住民のなかの大卒者率」が日本でもっとも高い地域(神奈川県横浜市青葉区)はそのまま「平均寿命」が日本でもっとも高い地域でもある。このことが象徴するように、学歴の格差と、所得や生活の質の格差とにはある程度の相関があり、またそれは社会的に作り出されたものである観が、巨視的に見れば否めない。

これらは居住地の格差であるが、同じようなことがより一層強く、学歴格差や学校間格差についても言える。さらには、原因の特定がより一層困難ではあるが世代間格差等にもある程度言える。

「報道を理解する国語力」というもの

とは言え、これらの格差が本当のところ、どのような格差を新たに産み出しているのかは、かなり把握が困難な問題である。もともと「生まれ育ちの格差」というものがある、というのはいいとして、そのことによって「新たな格差(特に能力格差)」を産み出している、という因果関係がかなり把握困難なのだ。その理由はそこでの「能力」自体がかなりあやふやなものだからだ。

ここではいわゆる「国語力」に加えて「報道を理解する能力」のようなものとを想定している。「生まれ育ちの格差」との因果関係があやふやなのは、これらの「国語力+報道を理解する能力」のようなもののことである。「社会国語力」とでも仮に名づけることにする。

ここでは母語のある程度の運用能力は前提としよう。「非常に不利な環境」に生まれた場合、その前提から成立が困難だが、それはまた別の問題である。そこを仮にクリアしたとして、今度は「高学歴な人の国語力」と「低学歴な人の国語力」の格差のようなものが生まれるとして、それが何なのか、である。

おそらくそれは「社会国語力」とは別のものなのだ。つまり早い話高学歴者で国語の試験ができ、文章が書けるとしても、それは「報道を理解するような国語力」とはある程度以上別物なのである。国語科で新聞の報道文が教材として使われることはほとんど無いのだし、国語の入試問題で新聞の報道文が題材となることもまず無いのだから、当然そういうことはありうるはずだ。一方、「報道を理解する国語力」があるような人が、高学歴を取得できない(あるいはしない)ということもまた十分可能性としてありうる。

第一、そもそももっと「一般的な国語力」すら、学歴取得とはある程度独立であり、高卒・中卒だが国語力はばっちり、という人はいるところにはいるものである。また、反対に、高学歴者であっても期待するほどには国語力が無い、ということも無いわけではない。入学試験での国語科が「国語力があるほど高得点」になるように設計されているというよりは、「国語力が無いものだけが低得点」になるように設計されていることが少なくない、という事情もあるだろう。国語科は「勝負科目」ではないのだ。

「高校英語」学習の効果

「社会国語力」に話を戻す。これらと国語力一般との関連をどう解釈すれば良いのか。筆者の大ざっぱな仮説はこうである。

まず「高校英語の学習というものをやらないよりはやったほうが“報道を理解する国語力”が、つきやすい」という相関関係が成立している。というのは、少なくとも報道を理解するために必要な単語の一部は、高校英語の学習を通じてその日本語訳を一度は記憶することが多いからである。またもちろん、そもそも日本語の漢字を用いた熟語の多くは欧米語の翻訳によって作られているという事情も大きい。とは言えしかしそれは「単語を読める・知っている」だけでしかないので、その理解力にはだいぶ幅がある。ただともあれ、そもそも記憶すらしていない語というのは理解などしようがない、ということは言える。だから高校英語の学習によって、「少なくとも一度は記憶した」段階になら達することができる語というものがたくさんあり、その後の理解もスムーズになりやすくはなる。

もちろん、そういった単語は高校英語の学習を通じてしかつかない、というものではない。日本語の書籍で社会科学や社会問題を扱った書籍を読む習慣をもつことによってもまた、つくことがある能力である。ただ、そういう習慣を奨励するような環境にいる高校生がきわめて少ないため、巨視的にはその影響は小さい、ということなのである。

「コミュニケーション能力」の諸相

また、「国語力」は難しい単語を理解したり用いる能力だけではない。他人の発言に適切に応答する能力や、わかりにくい文章を乱暴でも少し単純化して理解することができる能力や、小さい子供にわかりやすいように説明することができる能力など、実に多岐にわたっている。これらは教科としての国語科ではほとんど育成されることが期待される能力ではない。がかと言って、これらがどれもこれも「生まれ育ちの格差から生じた格差」だけで説明できるともとうてい言えない、ということもある。たしかに「生まれ育ちの格差」の中には「コミュニケ―ション環境の格差」もありその影響は絶大だが、しかし、これは所得や学歴の格差とはかなり独立の次元で成立しており、現在のところほとんど解明されていない側面である。そしてこの要因は「他人の発言に適切に応答する能力」の半分くらいには深く関与している。

とは言え、その「他人」が高学歴になればなるほど学歴要因の影響のほうが大きくなっていくとも言える。そちらの方面を重視すれば「生まれによる学歴や所得の格差」がコミュニケーション能力にまで影響している、とも言いうることになる。つまり、「コミュニケーション能力一般」ではなく「高学歴者・高所得者とコミュニケーションする能力」というものが大きく影響をもつようになる。これは事態の半面ではある。しかし、「学歴不問で採用する大手企業」が蓋を開けてみれば高偏差値大学の学生ばかり採用していることの背景には、この「事態の半面」こそが関係している。

また次のような要因も考慮して良い。家庭でついてしまう「コミュニケーション環境の格差」の一部に、ジェンダー要因がある、ということだ。とりわけあまりに男尊女卑的な家庭(や学校)である場合、そこで育つ子供のコミュニケーション能力には大きくマイナスになる可能性が高い。それは男尊女卑的な環境で権威的な態度や「生まれつきの性差」の影響を高く見積もる態度が形成されやすくなるからだ。そしてそれは「大学で主に教わる人文社会系の教養」の有無や程度の影響であることが多い。つまり、学歴との相関が少しある。「あまりに男尊女卑的な態度」は「学問」や「教養」によって緩和可能なのだ。他方で、あまりに母親・女性教師が「強すぎ」る家庭・学校というのも、これはこれで言葉は悪いが「母源病」的な影響を子供に与えやすくなるだろう。これはおそらく一世代前の家庭環境・教育環境が隔世的に子供に影響しているタイプだと言え、これもまた男尊女卑的環境からの回り回っての影響だと言えるように思う。

とにかく、ことほどさように、「生まれの格差」の影響を適切に見積もることは難しい。

「居住地格差」を覆い隠す首都圏の事情

以下あと二つの事項を述べておく。一つは「生まれの格差」を覆い隠す要因に関してである。もう一つは「生まれの格差から生じる育ちの格差」が、「社会国語力」のどんなところに影響するかについての指摘である。

一つめ、「生まれの格差を覆い隠す要因」に関してである。首都圏の場合話がわかりやすい。自然災害リスクの格差を覆い隠す要因がいろいろとあるのだ。

まず「東京都と神奈川県の区別」である。面積だけ見ればわかるように、この二つの都県は合計してようやく他の一県くらいの面積になる。にもかかわらず、この二つが別々の行政区分になっているとどうなるのか。こうだ。この二つの都道府県のなかに存在する「自然災害リスクの少ない巨大な領域」が、別々の都道府県に属することによって、一体化したものとして見えにくくなる、ということになる。たとえば港区(海側除く)と練馬区と横浜市青葉区とが「同じ一つの連続した地域」であることが見えにくくなる。この点に関してはたとえば首都圏学歴マップ&ランキングを参照されると良い。

次に「東京23区」という区分である。この区分によって、23区内と23区外の区別が暗黙のうちに引かれてしまい、たとえば「杉並区と武蔵野市や三鷹市とはほとんど同じような地域である」ことが覆い隠される。また23区内の格差ということばかりが問題になり、たとえば都区部の裕福でない区と同じような市部や隣接県のことが問題にならなくなる。たとえば「足立区の貧困」が問題になっても、同じことが埼玉や千葉の近接地域にも言えるかもしれないことが覆い隠される。あるいはまた、横浜市や川崎市という区分についても「東京23区」と同じことが言える。「横浜市と川崎市の違い」とか「神奈川県と東京都の違い」というほうに注意が向きやすくなってしまうのだ。あるいは横浜市や川崎市内部の格差のほうばかりに注意が向きやすくなってしまうのだ。たとえば80年代に起きた「金属バット殺人事件」は「川崎」で起きた事件であると紹介されることが多いが、その「川崎」というのが現在の「川崎市宮前区」(当時高津区)であることを知っている人は決して多くない。「川崎」という曖昧で特定力の低い地名だけが独り歩きしている例である。

他にもいろいろあるが「生まれ育ちの格差を覆い隠す要因」の最大のものは、おそらくいわゆる「相対的剥奪(不満)」によるものである。いちばんわかりやすいのは学校間のそれだ。生徒の半分が東大に進学するような学校にいると、早慶や一橋東工大に進学する層が自分のことを「劣等生だ」と思う可能性がある。一方、その真逆で、東大に進学した生徒が過去に誰もいないような高校だと、本当はその学力があっても進学先の候補に東大が思い浮かびもしない、ということも起こる。特に、前者のようなタイプの「きわめて高い階層に所属しているために謙虚になってしまう人」の存在によって、社会階層や学歴の格差というものの影響が相当に縮小され、いっけんしたところ目につかないものになりやすい。たとえば「高学歴者というものが云々」という主張を聞いたときに国際基督教大学や中央大学や首都大学東京の卒業生が「自分はその高学歴者に入っていない」と感じて他人事のように読んだりするかもしれない。早慶や一橋東工大の学生ですらそうなるかもしれない。そのような「効果」を生むという事態がありうる。

で、これと同じような判断が居住地についても行なわれがちなのではないかと推察される。一方では高級住宅街として有名な場所が少数ある。あるいは高級イメージをふりまく東急沿線のような沿線イメージをもつ地域群もある。あるいは高級住宅街ならそれにふさわしい駅前商店街のたたずまいであるに違いない、と思われているかもしれない。なので、そういった条件を満たさないが、しかし実質的には住民の社会階層が高い、というような居住地に住む者は、自分が「中の上以上」くらいに位置しているとは思わないかも知れない。「一部に高級住宅街があり、あとはどこも大差ない」というような「社会的分布」を漠然と前提している人であれば、自分の居住地の社会的位置づけを大きく見誤っている可能性は充分ある、というべきだ。また筆者の判断によると、多くの場合、住民の平均所得と、「住宅のこぎれいさ」すら必ずしも相関が高くないものだ。「安い土地」に「きれいな住宅」を作ることだって容易だし、「高い土地」に「みすぼらしい住宅」が建っているケースだってあるのだ。まして、「駅前商店街のきれいさ」と「住宅地のランク」との相関は更に低い。

準拠集団の違いが議題設定格差と読者設定格差につながる

二つめ。「生まれの格差から生じる育ちの格差」が、「社会国語力」のどんなところに影響するかについて述べる。先にも言ったように、この影響はきわめて多岐にわたる複雑な経路で起こり、生まれの格差との関連はかなり見えにくいし、実際にその関連がすごく大きいとは言いにくい。だが、この格差は独特の形で影響し、また時には目に見えるものになる。それはこういうものだ。大きく言えば「準拠集団の格差」特に「ある程度大人に近づいてから所属・認識する準拠集団の格差」問題である。

一つはどちらかと言うと「能力」に関するもので、こういうものだ。たとえば書くものに表われることがある。「○○という風潮がある」「××とはよく言われることである」「皆がよくご存じのように▼▼である」「ふつうは◇◇するのが適切だ」とこういったタイプのフレーズがある。ここでは「風潮を形成している集団の存在」「言説を述べている集団の存在」「知識を共有している集団の存在」「正しさを共有している集団の存在」がそれぞれ前提されている。あるいは、こういったフレーズを仮に一切用いなくとも、文章はそれを読む読者を前提して書かれざるをえず、その読者が属するような「集団」をもある程度規定せざるをえない。そもそも言葉を用いること自体「ふつうはAという語彙はXというように使われる」という語用についての「ふつう」を前提するものだ、ところが「この、何かを述べるときに前提するような「集団」に関して、「格差」がありうるのである。さまざまな差がありうるわけだが、その中には「高い社会階層の存在を前提」して書かれる文章もあれば、その真逆であるような文章もある、という「格差」もまた産み出しうるわけだ。言わば「議題設定格差」と「読者設定格差」である。

たとえば「東大生なんて実は大したことないよ」という言い方は「身近に東大生がたくさんいる人」でないとなかなか産み出せない。と、そういう格差が一方では、ある。こういう言い方はしたくてもできない人がたくさんいる。他方で、「身近に東大生がたくさんいる人」にこのような言い方をわざわざする必要性は実はあまり高くない。それどころか、そういうことを言うと「身近に東大生がたくさんいる人」はむしろ若干「又か」とうんざりし、そういう言論を遠ざけたりするかもしれない。なので、ここでは読者層としてはむしろ「東大というものを知ってはいて憧れてもいるが、東大出身者があまり身近にはいない」といった層を前提していることになり、そういう層を想定できるかどうかという逆方向の「能力」の格差もまた存在しうることになる。まあそれはつまり周囲に「地方国立大」とか「明治立教学習院法政」あたりの出身者なら普通に存在している、というくらいの準拠集団ということであるだろう。

あるいは「××とはよく言われることである」というときに、「社会階層の高い人の間でよく言われること」を前提するのと「社会階層の低い人の間でよく言われること」を前提するのとでも「格差」が生じうる。たとえばメッセージを発信したときに、どのような社会階層に受け入れられやすくなるかの格差が生じうる。またとりわけ、社会階層の高い人からすると当たり前すぎることを「力説」して疎まれ受け入れられにくくなる、という「格差」が生じうる。たとえば「東大生だからといって大したことはない」というような言説は、高学歴者にとっては「聞き飽きた」フレーズなので、むしろ疎まれ受け入れられにくくなる。さらにまた、社会階層や学歴だけでなく世代格差やある趣味にどれだけ通じているかのようなものもまたこの種のフレーズにあらわれるだろう。ある特定の年代を過ごした人しか知らないような知識を前提するような言い方は、それを理解できない年代の人を産み出すことになる。そのことが場合によっては格差生成になったりもする。同様に、ある種の趣味がわかる人を前提する書き方も、そうでない人を排除し格差生成することになったりする。社会階層以外にもさまざまな水準で起こりうることではあるのだ。

政治的話題に影響する準拠集団

もう一つは「社会的事実」に関するものであり、とりわけ政治的な話題に関与する。それは「放っておくと左翼が○○するから、それを防がないといけない」とか「放っておくと政府が○○するから、それを防がないといけない」というタイプの文章にあらわれる。あるいは文章には表われなくとも、同じような未来予測をする読者を前提することになる。この点で、多くの人というのは、「特定のタイプの政治行動」に関してのみ予防的関心が高い。そして、全然別のタイプの未来予測には関心がなかったりする。そのため、「誰」「何」の未来に関心があるかによって、まったく政治的な話題でのコミュニケーションが成立しなかったりする。これもまた場合によっては格差を生みうる。「社会的階層の高い人々の関心のある政治的行動」に関心がある言論が受け入れられやすく、そうでないものだとあまり関心自体をもたれなかったりするからだ。

ただ、この話題で特徴的なのは、政治的話題に関してはまったく対称的に物事が成立している、というわけではない、ということだ。大ざっぱにいって「現在軍事力や経済力のある勢力」に対して批判的であるような関心のほうが、その論が書籍化・文字化されやすく、反対に、現状肯定的な関心は書籍化・文字化されにくい。したがって、どちらかというと現状批判的な論を理解するために一定の「社会国語力」のようなものが必要になる。しかもそれはまさにそうであるがゆえに、「義務教育」ではあまり形成されずむしろ疎まれる能力であることにもなる。それはこういう事態を帰結する。つまり、現在力のある勢力に批判的であるにもかかわらず、その勢力と同等かそれ以上の層、つまり現状肯定型であり学校に適合的なタイプと同等以上の「社会国語力」がないとその批判的な集団に入ることができないため、そしてそれは「義務教育」ではあまりつくことが期待できないため、結果的に少数派になってしまう、という帰結である。そして多くの人にとっては意外だが、たとえば高学歴者中の高学歴者であると思われがちな、東京大学にいたりするような学者がその層の中心ではある。学歴社会も含めた状態に批判的であるのに、そういったルールで勝ち上がってきたというように見えるわけだ。なのでと言うべきか、その層に近しさを感じる層は、むしろ高学歴でなく政権の恩恵を受けられない層であり裕福でもない場合も多い、というなかなかに逆説的な事態になってもいるのである。そして識字力以外の能力が高いとも全く限らない。

このような事態と深く関係しているのは、日本が学歴社会であるというとき、それは「大学入試突破能力」つまり「高卒能力」によって就職先の上限や所得の上限が決まってくるような社会であって、「大学教育を受けたことによる能力」つまり「大卒能力」によって就職や所得が決まる社会ではあまりない、特に文系は全然ない、ということである。学歴社会的な弱者に有用である知がむしろ学歴社会の頂点のような場所で生み出され教えられていることも、そのことの表れの一つである。同様に、「現在軍事力や経済力のある勢力」に対して批判的であるような関心が学問として研究され教えられているような大学のその学問上の「ランク」と、そこに入学するために要求される「高卒学力」との相関はすごく高いというわけではない、ことも言える。

さて反面、「現在勢力のある層」に対して援護するような層にむしろ「低学力」的な特徴が見い出されることも少なくない。いわゆる「ネトウヨ」である。識字力が低い、メディアリテラシーが低い、議論が出来ない、などさまざまな特徴が指摘される。この層は反対に「現政権に批判的な層」の影響力を異常に高く見積もる。ただ「ネオウヨ」には「本気」の者と、「雇われてそのような役目を果たしているだけの者」とが混在しており、その実態はかなり謎であるので、あまりこれ以上ここで考えてもしようがないだろう。そしてこういった層と、むしろ裕福であり識字やコミュニケーション能力も高いがしかし現政権にやはり肯定的といった層とが一体となって現状肯定的な勢力を作り出しているが、しかし棲み分けてはいる。そのため相互に関心が薄いというのが政治的言論の現状かもしれない。

その現状肯定型の一部の、特に理系にやや多いように思えるのは、「設計的知性をもった人によるコスト計算」に基づく政治的提言であり、とりわけ左派への無視である。左派が「反戦」とか「反原発」とか「憲法」について「正義」ばかり述べて、「成長経済」についての提言が何もなく「計算」もできない、ということに呆れ果て、まったく相手にしていない、という構図が一部にあるように思える。この動向に関して筆者はほとんど掴んでいないが、しかし気配だけは感じられる。この勢力は高学歴者の一部を為しており、所得や生活でも、ある程度上層の側についていることが推察される。何より言えるのは、理系大学出身の場合であっても、大学入試には「高校英語」の学力が文系と同様に求められるため、「社会国語力」に関しては「文系」と大きくは違わないはずであるということだ。ここにはさらに「数学的スキル」の話題が関連するが、これについては筆者には何も論じる準備は無い。ただその視点の必要性だけは予感はさせる。ただしこの層に関しては、学歴というか学力が深く関係はしていても、準拠集団的な観点で分析する必要があるかどうかはまったく不明ではある。なので、今回の話題のなかでは傍流に属する。