わかりにくい書籍を少しだけ解きほぐしてみる試み:苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』(中央公論新社;1995)

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最初に、私のこの文章を読むときのBGMに薦めたいものとして「YouTube:シェーンベルク:浄められた夜 作品4(弦楽合奏版)ブーレーズ 1973」を挙げておきたい。本書によると1992年に日本の大学生の文化的趣味についての社会学的調査を行なったところ、学生の親の社会的階層を問わずこの曲がぶっちぎりの不人気であったという結果が出ている。そこから日本の大学生は大衆的文化を好むという結果を導出しているのだ。ただそうは言っても、ぶっちぎりの人気であったビバルディ『四季』と、最も不人気であったシェ―ンベルク『浄められた夜』以外に、どういう曲が調査されたのかは全く不明である。まさかこの二曲だけではあるまいと思うが、どうだろう。ともあれ、この『浄められた夜』は著者は「高級文化」にきっと分類しているのだろうという推測が成立する。そこから、日本の大学生はエリートであっても「高級文化」には縁遠いと作者は言いたいのだ。

さて以下、一時代を築いたとも言える、わかりにくいがしかし重要な、苅谷剛彦氏のこの著作を、絡み合った糸を少しずつ解きほぐしておくかのようにして、解明しておきたい。

まず、この著作が「一時代を築いた」と言って良い状況を簡単に説明しておく。著者の意図と無関係に言えば、多くの読者にとってのこの著作のクライマックスに来る主張はおおむね次のようなものだ。以下私がかなり自由に言い換えなどしている「まとめ」である。つまり「引用」ではない。

東大その他の一流大学の合格者というのは金持ちの子が多く、都心部に住む私立中高一貫校の卒業生で寡占されているので、財力のある者が高学歴を獲得するのに有利であると思われている。しかし調べてみると、「東大入学に有利な階層の子どもたち」は、1970年代初頭には、財力をさほど要するとは思えない公立高校(都立日比谷高校・西高校など)を経て東大等に入学していたことになる。要するに二十年間ほど一貫して「東大等への入学に有利な階層の子どもたち」で占められていたことになる。つまり、「私立校に合格・在学できるような財力」のみによってその階層の有利さが成立していたわけではない。東大合格者が公立高校出身者で占められていた頃から、その階層の子どもたちによって東大その他の大学の学生は寡占されていたのだ。世間では「学歴を獲得できた/できなかったことに因る格差」というものばかりが取りざたされているが、実は「学歴を獲得するための段階での格差」というものも在る。だが不思議なことにそのような格差というものは話題にもならない。
これである。p64~p65あたりを参照されたい。

この著作が「一時代を築いた」というのは、その点であって、21世紀に入る頃から世間では「学歴を獲得するための段階での格差」というものが存在することに敏感になった。2025年の現在ともなれば、そちらのほうこそステレオタイプな認識だと言えるくらいに、格差への認識は一変した。その変化に苅谷のこの著作もきっと影響したに違いない。とりわけ2010年代以降なら苅谷のこの著作が、何が斬新だったのかわからない読者も多いことだろう。この著作が普及したことによって、この著作が「何が斬新だったのか」が不明になる程になった。それが「一時代を築いた」ということで私が言おうとした点である。

さて、この主張を脇から固めている主張を取り出してみよう。次の主張群は私には違和感が在る。「ところで、学歴社会の見方にしたがえば、受験教育は「役に立たない」知識を「暗記」することに終始する。」(p141)、「学歴取得競争の勝敗を分ける基準は、「受験学力」である。その中身は、「役に立たない」「暗記もの」の知識であるというのが通説である。」(p142)。この主張を苅谷氏が書き記したとき、和田秀樹氏の『受験は要領: 難関大学も恐くない たとえば、数学は解かずに解答を暗記せよ』(amazon)なども念頭におそらく置いていただろう主張である。ただこの主張は「通説である」という程度で流して良いとは私には思えない。「暗記に終始」していたのでは、東大や京大や難関医学部や難関大理工学部にはまったく合格などできない、と私には思えるからである。英語・数学・物理の三教科に関しては「暗記以外」の「練習」「計算」「問題演習」が受験勉強の中心を占めないと、合格はまったく無理ということだ。

英語の学習に関しては、「知識の暗記」だけでは不充分である、たとえば「読解」や「聴解」や「作文」などは相当量の「練習」も必要である、という見方を採ることは充分に可能だ。そして、中学・高校段階での学習では英語が圧倒的に主要教科であるわけだから「通説」はかなり的外れであると思って良い。そうすると次の点も導出される。すなわち、著者が関連して説く「学校で獲得される文化は、どんな社会階層からもかけ離れた「中立的な」文化である」という主張が疑わしいということだ。なぜなら日常的な業務や生活で英語を読んだり聴いたりする者というのは、文系・理系を問わず一定数存在しており、それは「英語という外国語を普段の生活で用いる社会階層」と私なら呼びたくなるからだ。日本国のポジションからして特有な現象として、「海外の先進国の文化を学ぶ」者こそがエリートであり「高級文化の担い手」である、と見なす傾向は存在する。そしてそれはとりわけ中高の学習段階で「国語(日本語)の現代文」学習をおろそかにして(させられて)まで「海外の言語(英語)」を学ぶという形をとるのである。そして英語を日常的に用いる者というのは、「最先端の学問」「最先端の文化」「最先端の社会情勢」というものに取り組んでいる諸職業の従事者であり、これらの者を一括して一つの社会階層と見なして構わないと私なら思う。だから学校で学ぶ教科学習というのは、「中立的」ではない。海外の動向に注意を払う社会階層に大きく寄っているのだ。ただしここでは「英語という外国語を普段の生活で用いる社会階層」と一口に言っても「主に文字の読解」と限定したほうが良いかもしれない。英語が第一言語である者にとっても「音声の運用はエリートでなくてもできるが、文字の運用はエリートや学校秀才でないと難しい」という傾向が在るかもしれないからだ。

このように社会階層の概念を操作してみると、次の箇所も初読の時とは異なって見えて来るだろう。「日本では、高級文化、正統的な文化を身に付けている者が、高学歴者であるとはいえないのである。」(p22)。日本という国は、「正統的な文化」というものはたいてい「海外」に在る、という国である。なので、高学歴者というのは、その「正統的な文化」を身に付けるための手段を「文字での英語力」という形で備えているものだと見なすことができる。ただそうは言うものの、英語圏はクラシック音楽に関しては「正統な文化」が成立しているとは言い難い。ドイツ語圏や、或いはそれよりは落ちるがイタリア語圏やフランス語圏に比較して、英語圏のほうへのアクセスがしやすくなっている社会階層がクラシック音楽に関して「正統な」「高級な」享受ができる保証は全く無いのだ。先の調査でのシェーンベルクはドイツ語圏、ビバルディはイタリア語圏の作曲家であることを付記しておく。

この著作は次の点をデータを用いて論証しようとしてきた。つまり「これまでの章でも明らかにしたように、学校でどのような成績をおさめるか、どのレベルの学歴を取得するのかは、ある部分、「生まれ」に影響される。どのような親のもとに生まれるのかによって、学校での成績も、どのようなタイプの高校にいくのかも、大学に進学するかどうかも、ある程度規定されているのである。」(p145)である。しかしその具体的なメカニズムというものは、この著作では全くと言ってよいほど明らかにされない。ブラックボックスのままなのだ。たとえば「親から子へと家庭で伝達される階層文化を媒介として、社会的不平等が再生産される。」(p202)、「家庭で伝達される文化資本が学校での学力に変換されて、世代間の不平等が再生産されるしくみは、日本でもはたらいてきたのである。」(p202)と述べられるが、その「しくみ」は曖昧模糊としている。それはまず「父親と母親とどちらがより重要なのか?」という点に触れないことからわかる。普通に考えれば社会階層が高い、高学歴的特徴をもつ父親であれば、子どもへの影響を与える機会はかなり少ない。職業的に忙しいからであり、家庭を省みる余裕がかなり少ないだろうからである。なので、子どもへの影響が大きいのは専業主婦であるような母親のほうだろう。もし母親も仕事で忙しい場合、「家庭での文化資本の伝達」は相当に困難なはずだ。だが、この著作での調査はおそらく父親の学歴や職業という変数に限られているように思える。しかし、家庭で階層の再生産が行なわれると主張しながらも、それが主に父親によるのかそれとも母親によるのか、それは父親のほうである、と決めつけておいてそれだけで終わるのであれば、読者は得心できないままであるだろう。

「しくみ」や「経路」が曖昧模糊としているという点では、家庭で伝達されるというその中身である「能力」に関しても、同じ事が言える。「日本でも、家庭で伝達される文化資本が、学校での成功を左右していることはたしかである。文字や数字などの記号を操る能力、丹念に論理を追う能力、ものごとをとらえるうえで具体から抽象へと飛躍する能力。これらの能力の獲得において、どのような家庭のどのような文化的環境のもとで育つのかが、子どもたちの間に差異をつくりだしていることは否定しがたい。」(p204)。これらの諸能力がどこから突然この著作に登場したのかはよくわからない。そしてこういった能力を列挙していけば、きっと十個、ニ十個…と候補がいくらでも登場するだろう。そうすればたとえば「家庭の本棚に、多湖輝の『頭の体操』や、学研の学習マンガ、日本史の教材マンガなどが置いてあること」などが「家庭で伝達される文化資本」と認定されるのかもしれない。中高の英語学習でこれに匹敵するものが在るかどうかはわからないが、そういう候補もきっと必要なはずだ。しかしそれは、この著作で紹介・主張された事柄ではなく、私が今勝手に推測したものにすぎないのである。

「家庭で文化資本が伝達されることに因り、社会階層が再生産される」という主張は、結局メカニズムやしくみが曖昧なままで述べられており、また「社会階層」という概念が「どうとでもなる」概念でしかないだろう。先に述べた「英語という外国語を普段の生活で用いる社会階層」というのもそうであり、「どうとでもなる」概念だ。なので、そういった社会階層というものに人々が或る時期まで目を向けなかったのは当然のように私には思える。その一例として、「上層ノンマニュアル」という概念の曖昧さを挙げることができる。東大その他で、学生の多くがその出身であり続けてきたがその事が気づかれずにいた、というその階層にまつわる概念である。この著作によると、「上層ノンマニュアル」とは「医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職、および中小企業の経営者など」(p64)とのことであるが、なぜこの中に「中小企業の経営者」が挙げられているのかが私にはわからない。というのも、「医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職」になるためには多くの場合高学歴が必要であるのに対して、「中小企業の経営者」になるためには学歴は必ずしも必要ではなく、むしろ「実力」こそがものを言うからである。学歴に表れるような社会階層を問題にした調査であるのに、学歴不問の項目が一つだけ混ざっているというのは、私は全く腑に落ちない。納得できないのである。この点はたぶん、今までも読者の何割かはきっと感じていたことだろうと思う。

或る程度思ったことは書いてきて、自分なりに「わかりやすく」書き換えても来た。あとは、次の箇所に関連して二点述べよう。それでいったん終了できると思う。

さらには、高校入試から偏差値がなくなっても、いっこうに影響を受けない人びとがいる。私立の中高一貫校に学ぶ生徒たちだ。彼らの中学受験に、元来公立小学校はほとんどかかわっていない。公立学校の外部で偏差値にもとづく厳密な進路指導が行なわれている。彼らは東大をはじめ「一流大学」の進学に有利な存在であり、大都市部を中心とした富裕な階層の出身者である。」(p210)。注意が必要な一点めは、私立の中高一貫校から東大に合格する者のなかに、「中高六年間」を過ごした者がどの程度含まれているのか、という点である。私が少し以前に、「撤回「新版:東京23区の格差を縮小していた東大入試」」で述べたことだがここでも書く。麻布高校・武蔵高校・駒場東邦高校の三校に関しては、東大に合格する者のうち「中高六年間」を過ごした者が、「合格者名簿」が入手できて氏名が判明した分だけですでに四割~五割弱と居り、充分に多い。特に武蔵高校は高校受験でも生徒を25%程度募集しているのに、完全中高一貫の麻布高校と、氏名まで判明した中学受験経験者の割合は大差無いほどである。完全中高一貫なのは麻布高校と駒場東邦高校であり、調査上の制約がもし無ければ、本来ならば東大に合格する者のうち「中高六年間」を過ごした者が十割になるはずなのである。だが、開成高校や巣鴨高校・海城高校といった中高一貫校ではその点が要保留である。開成高校だと、中学受験からの東大合格者は判明した限りでは三割前後であり、高校受験での入学者が東大合格者の中に相当に多いことが推測される。そもそも開成高校は昔から中学からの定員はずっと三百名だが、高校からの募集を或る時期から、五十名→百名と倍増させたらしい。それで東大合格者数も躍進したのだそうだ。で、開成高校よりも、巣鴨高校・海城高校のほうが中学受験入学者の割合がさらに一層少なくて、高校受験での入学者のほうが多数派であることが充分推測できるくらいなのだ。なので、苅谷氏のこの著作を読むときも「私立の六年一貫校」の有利さが繰り返し強調されるのだが、それを皆「中学受験で入学して六年間をその私立校で過ごした者」ばかりだと思い込むと、大変な間違いになる。

もう一つ注意したいのは、この著作の中ではまったく言及されていないが、「学校の教員」というのも何らかの社会階層に属している、という見方の必要性についてである。欧米の先進国の場合だと、学校の教員というのも「高級文化を分け持つ支配階層」の一員である、という見方をされるのだと思う。だが同じことは当然ながら日本の学校教員については言えないかもしれないのだ。とは言え、一般の高校教員や六年一貫校の中学教員というのは、言ってみれば特定科目の専門家であり、「学者」「研究者」に準じた存在であると言いうる。だから大学教員とその所属階層は近いと言いうるだろう。他方、一般の小学校教員というのは、特定科目の専門家であるという性格は弱い。彼らは「教育学部出身」「教員養成課程出身」という属性であり、「学者」「研究者」に準じた存在であるとは見なされていない。卒論などももし在っても形だけのものしか課されていない。そしてまた、教師と児童の保護者とでどちらの所属階層が「高い」かはわかったものではない。中学受験に公立小学校の教師はあまりかかわりが無いわけだが、その際に小学校教員が「教育学部出身という階層」「教員養成課程出身」に属していると見なすことができるかも知れないことには注意したい。他方、同じ小学校の学区での児童保護者どうしは、同じような社会階層に属する児童保護者となりやすいことも確かである。居住地というのも社会階層と縁が深いからだ。その意味では「中学受験に公立小学校は関与していない」というのも、無条件のものではなく、限定的な主張かもしれないことも念頭に置いておきたい。

そもそもこのサイトは「国語力」についてのものであるのに、なぜ東大だの格差だのという話をするかと言えば、そこには「国語力と呼ばれがちなもの」が食い込むようにして関与しているからだ。阿部幸大氏は次のように語る。「そりゃ受かるわ…「底辺校・宅浪・2浪」から東大に合格した研究者が語る「独学で最も重要なこと」とは?」」より。

(前略)東大に行こうと思って、過去問を見て最初に思ったのは、広い意味での「国語」の比重が極端に大きいということでした。東大って問題文がすごく短くて、でっかい解答用紙に長々と文章を書かされる。どの教科もそうです。それはつまり、日本語力がなければ読み解けないし、解答もできないということ。なので、まずは言語能力を鍛える訓練をしないと絶対に勝てないと思いましたね。

同じ事が、東大だけでなく(京大だけでもなく)、中学受験での特に麻布中学だの武蔵中学だのにも言える。「国語力」に関して関心の高い人は、大学受験や中学受験にも一定の関心をもたざるをえないのだ。