二度目以降のアクセスの場合、リロードを推奨します。参考:ホームページを更新したのに「内容が変わっていない!」を解消するスーパーリロードとは
中川敏『異文化の語り方―あるいは猫好きのための人類学入門』(目次等)(amazon) (ブクログ) (読書メーター)
この本の中心にある問題意識はきわめて専門的なものであり、多くの読者の関心を引くものではないだろう。しかし、その専門的な問題意識に基づいて「あるべき文化人類学の姿」を構想しようと試みるその過程で、著者は専門外の哲学などの理説を援用しつつ各種の話題に言及もする。それらの話題というものは、決してつまらないものではない、と思う。頭の良く勘の良い著者なのだろう。そういう著者が、多少荒っぽい感じでざくざくと直観で述べていくありかたは、歯切れが良くなかなか見事である。そういう叙述スタイルが好きだという高校生もいるはずだろう。ただし「システム」という道具立てだと、結局は内容の妥当性の検証はできにくい。つまり、感覚的には正しそうなのだが、実際に検証することの難しい事柄を断定してしまっているように、どうしても見えるのだ。また、この著作も当然のことながら「他者を理解する」ということをテーマにしているため、同じようなテーマを扱う他の著作と重なるところも出てくる。野矢茂樹『哲学・航海日誌』の後半二章(つまり野矢茂樹『哲学・航海日誌』II(中央公論新社)(amazon)と重なるところもあるが、その場合、野矢本の知見も参照して良い。野矢のほうが哲学的議論の専門家でもあるし、後発なのでより議論が緻密になっているからだ。私のコメントは今のところ「高校生向けに推薦してしまった書籍(その2)」の後半あたりに記載している。
ところで、中川のこの著作では「子どもとおとな」といったタイプの問題は特に取り扱われていなかった。たとえば子どもが成長するというのは、同じ文化の中での成長に過ぎないのか、それとも異文化への参入ということになるのか、という問題である。この問題は中川が応答しなければならないものではない。そうではなく「他者を理解するとはどういうことだろう」のような漠然とした問題意識でこの本を読んでしまった読者の誰かが考えるような問題なのである。
たとえばp168の次の架空の例をみてみよう。
(前略)私が、「あした学校に行きます」とあなたに話したとしましょう。あなたは、友だちとの会話で、「先生はあした学校へ行く、と約束したよ」と語るかもしれません。もし、私がその翌日、学校へ行かないならば、あなたと友だちの間では、「先生は約束を破った」と噂されるかもしれません。私はその告発を受けて、「おれは『あした学校へ行く』と言っただけで、学校へ行くことを約束したわけではない。もし約束したんならば、行けなくなったと電話でもかけるだろう。しかし、おれは約束したんじゃないんだから、行けなくなったことを君らに事前に報告する義務なぞない!」と抗弁するかもしれません。争われているのは、間接話法と直接話法の違いなのです。あなたが「先生は約束した」と語ったその構成的規則にもとづく、すなわち言語システムにもとづく間接話法を「間違っている」と私は非難しているのです。
この架空の事例よりは、立場を逆にしたほうがよりわかりやすい。欠席した小学校低学年くらいの児童が「あしたは学校に行きます」と担任教師に電話か何かで話したとする。教師は「○○くんはあした学校へ来る、と約束したよ」と他の児童に語るかもしれない。ところがその〇〇くんは翌日学校に行かなかった。他の児童は「○○くんは約束を破った」を噂をした。担任が○○くんのところに電話をしたところ「ぼくは『あしたは学校へ行く』と言っただけで、学校へ行くことを約束したわけではないよ。」などと○○くんが言った。このとき、この小学校低学年くらいの○○くんをどのように理解すれば良いだろうか、という問題をひとまず提示することができよう。
ところで、上記のようにすると多少高級な哲学的その他の「他者問題」のように見えなくもないが、それは実際には、次のように変換された形で、世の中で出回ることになる。「子どもはどのようにして“約束する”という単語を理解し身につけるか」、とこのように国語科の学力の問題になってしまうのである。実際、2000年初頭頃に首都圏の一部で流行していた「コボちゃん作文」などは、この問題を「学力の問題」として扱い、そこで「約束する」とか「報告する」「非難する」「抗弁する」「告発する」などの言語行為表現をたくさん習得し使えるようになることを、小学校中学年相当の児童に「学力」として求めもした。しかもその自覚がないままに、何の方策ももたずに、であった。
中川のこの著作は、その手の問題を「異文化理解」と定式化した。だが注意してほしい。この種の言語行為動詞を通常のように使えるようになることは、「異文化理解」のための必要条件ではあっても十分条件ではない。異文化理解の前提に過ぎないのだ。だから、いったんこれを文化人類学の問題から切り離したほうが良い。そうでないと、「同じ文化の中での子どもからおとなへの成長とか学力向上」というのも「異文化への参入」と見なされてしまうからだ。いや見なしても良いとは思うのだが、そこはもっと慎重に話を進めたほうが良い。
そこで先ほどの中川の提示した事例に戻す。このように、「大人」の側が「約束する」を何やら独自のしかたで理解しているらしい場合である。この場合も異文化とかいうよりも、まずは「正常/異常(・病理・障碍)」のようにして理解されることになる。実際、松井智子『子どものうそ、大人の皮肉――ことばのオモテとウラがわかるには』(2013,岩波書店)(amazon)に紹介される語用障碍はまさにこの次元が問題になっているように見受けられる。たとえば「ありがとう」と述べることによって「自分のうれしいという気持ち」を伝えるというコミュニケーションを理解していない人物が事例として紹介される。そのようなときに、先の「約束する」と「明日学校へ行く」との関係を独自に理解してしまっている(架空の)人との類似を筆者は感じる。
要するに、言えることは「言語行為」の特に発語内行為が問題になっているとき、たとえば「約束する」とか「感謝する」ということの理解が問題になっているときに、それは「同じ文化/異文化」という軸だけでなく、同じ文化のなかでの「成長/未成長」だったり「正常/障碍」だったりといった軸で捉えたほうが良いかもしれないわけである。
異文化という問題に接近するためには、むしろこの著作で言うなら「翻訳不可能性」という問題圏のほうがアプローチとしては近いかもしれない。「兄」という単語は、ちゃんとした形では英訳はできないと言いたくなるし(elder brotherという言い方は英語圏の相手は理解はしてくれるだろうが、彼らが自発的に使う語のようには思えないので)、反対に「sibling」という英単語は、ちゃんとした形では日本語訳はできにくい。「兄弟姉妹」という訳語はいかにも不器用だ。そして、この本で扱われている「翻訳不可能性」はこれよりもよほど強い意味でのものであったのだ。
この著作での「翻訳不可能性」を理解するためには、たとえば、次のような例を参照すると良いのではないかと思う。これはこの著作のなかで独自の意味規定で使われている「説明」と「理解」の違いという話題とも関連する。
おそらく翻訳不可能でありそうで、かつ「理解」を前提としている例として次の物件を挙げることができるように思う。ただし、この例は「理解」だけでなく「説明」の要素も備えている。ただ、それは結局は「翻訳不可能」に行きつくように思えるのだ。土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト―哲学論集』(amazon)所収の、「猫とロボットとモーツァルト」p30-32からである。
たとえばアントニオ・カルロス・ジョビンといいう作曲家の『ドリーマー』(譜例1)という曲を考えてみよう。この曲がなぜいい曲かを分析すればたぶんこうなるだろう。まず、三、四小節目の和音が意表をついている。メロディーからすれば一、二小節目と同じ和音を予想させるが、それを裏切っているからである。とくにベースの音が同じままであること、またここには示さなかったが、イントロの部分でCの次にCm7を配していることから、変化を予想してもCm7を考えるくらいであるので、いっそう意外の感を強くする。続く五小節目以降では、それまでの四小節と同じメロディーであることから、最初の四小節のような和音進行になっていることを期待する。しかし、七、八小節目ではさらにその期待を裏切ってまったく違う和音をつけ、後続の和音につないでいる。
この曲はさらに、テーマの後の即興演奏の部分にリフと言われる即興演奏風の合奏用メロディーが作られており(譜例2)、それがまた同じように予想を許さない構造になっている。三小節目は一小節目と同じリズムを使いながらメロディーだけを少し変化させている。続く五、六小節目は平凡なフレーズで緊張が解けるが、その流れから次の七小節目では一小節目と同じフレーズか、三小節目と同じフレーズが来るものと予想させる。七小節目に入って最初の二拍はこの予想を裏づけるもので、一小節目と同じメロディーが続くことを確信してしまう。その場合でも和音とは調和するし、一小節目と七小節目は同じメロディーで和音だけ違う、という好ましいパターンにはまるのであるからなおさらである。ところがその確信の裏を大きくかき、まったくこれまでとは違うパターンのフレーズが出現する。それでもなお、八小節目はBの音が来るだろうと予想すると、それを裏切って半音下の音がくる。さらに、七小節目から八小節目にかけての和音進行は、次の和音へ向けて盛り上がる進行であり、フレーズも音がたて込んできてもよさそうなのに、それも裏切って、心がせくところをじらすようにねばるような三連符のフレーズが登場するのである。このねばるような部分がこの曲のうちで最も盛り上がる部分であり、最も興奮させるところである。
この文章は、現代の「西洋文化」の中で生きている人の多くが、かなり手厚く手ほどきさえすればたぶん「理解」できるものだ。その一方で、たとえば、江戸時代の日本人には手厚い手ほどきをしても「理解」できない箇所をたくさん残すことにたぶんなるだろうと思える。このとき、その「江戸時代の日本人」は「異文化」の住人であり彼らに対しては「翻訳不可能」な要素を残しているのだ、と思える。それは、「どういう和音だと調和しているように聞こえるか」とか「どういうフレーズが次に来そうかという期待や予想」の点で「同じ文化」を共有していなさすぎるからである。又理解のための音楽に関する語彙(「ドレミ」など)も相当不足しているだろう。
これと反対に、「翻訳不可能性」といったものが特に無く、「説明」の例として適切であろうものとして、次の物件がある。ただし厳密にはこれは「説明」ではなく「説明のパロディ」ではある。筒井康隆「寝る方法」(『エロチック街道』(amazon))の最初の箇所だ。環境依存文字はひらがなに変えて引用する。
寝る時は、まずベッド側面部を背にして立ち、ゆっくりと膝を曲げて尻をベッドの上に乗せる。この時、尻の最後部つまり尾てい骨より垂直におろした架空の直線がベッドの端から少くとも二十五センチは奥になければならない。また、出来得れば尻と共に大腿部の裏面にあたる部分も幾分かはベッドの上に乗せ得るほど深く掛けておくことが望ましい。何故ならば通常ベッドの上にはマットレス、シーツ、毛布といった睡眠用具が多くは固定されぬままで置かれているため、ベッド両側面から二人の人間が同時に寝ようと試みる場合を除いて、ベッドの端に尻を置くという行為が当人の上半身を極めて不安定な状態にするからである。特にマットレスはほとんどその弾力性によってのみそれ自身の価値を論じられ決定づけられているほどの製品であるから、人間の上半身の重量によってたやすく圧迫され、これはベッド表面の急激な沈下を促し、さらにシーツ、毛布といった滑りやすい布製品の急角度の傾斜を齎すのである。
このベッドの端に生じた傾斜によって当人は床に落ちるのであるが、この時人体が受ける落下の際の衝撃の強さはベッドの高さに比例する。即ちベッドの高さが床上三十センチに満たなければ、個人差はあるものの臀部自身の弾力によって衝撃が緩和され、多くは人体の損傷を免れる。ベッドの高さが約五十センチであれば骨盤最下部にある左右の座骨に軽度の打撃を受け、一メートルの高さから落下した場合は尾てい骨及び恥骨連合に受けた打撃が脊椎骨にまで達し、数分間は直立及び歩行が困難となる。二メートルであった場合骨盤の損傷は甚だしく、打撃が脊髄を通じて脳にまで及び、これは一時的な視力喪失、呼吸困難、言語能力不能、難聴などを招く。以下、高さに比例して人体の損傷はより大となり、ベッドの高さが十五メートル以上であった場合はほぼ確実に死ぬ。
ベッドの端に腰をおろす際、膝をゆっくり曲げながら掛けることに心がけなければならないことは前述の通りである。これはベッドあるいはマットレスが弾力性を問題とされる睡眠家具、睡眠用具である以上、多くは発条とかスプリングとか呼ばれるものが内蔵されているためであり、勢いよく上半身をおろすと、衝撃エネルギーの吸収を主要目的とする発条の第二の特性である復原性を触発させることになって、人体がベッドの上でとびあがり、危険だからである。勢いよく尻をおろせばおろすほど p=kx におけるpの数値はふえ、kは一定であるから、pはxと比例してしまい、より強くたわむことになる。このたわみの持つエネルギーは、 E=1/2kr^2=1/2Px であって、ざっと計算してわかりやすく述べるならば、今仮りに正常の動作で腰かけた時の復原力のエネルギーが人体を二十センチはねあげるとすれば、その三倍の勢いで尻をおろせばベッドは人体を六十センチもはねあげることになる。これが落ちてくる勢いはさらにその二倍であるからつまり六倍となり、ベッドはこれを一メートル二十センチはねあげ、三度めには二メートル四十センチ、四度めには四メートル八十センチの高さにはねあげることになる。これはその人体の天井への激突、天井にある照明器具の破壊、さらにはより激しい床への落下、床を構成している材料の破壊、人体による床の陥没といった、その他さまざまな事態を惹き起こすことになるのである。
このパロディである文章での「説明」はともあれ何かしらの「説明」になっているし、それは物理学ないし生命科学に還元することも可能な事柄である。なので、地球上のどこかの異文化だと翻訳できないとかそういった事が起こらない。回りくどくはなってもなんらかの方法で翻訳ができ、また実際に手厚く手ほどきをすれば説明は可能なのである。彼らの文化の語彙で理解可能なように説明できるのである。
この著作が最初のほうがやけに専門的であり、多くの読者を門前払いしてしまう事情がここらへんにある。著者が取り組んでいる文化人類学上の課題というのは、上記の二つの「理解」(例:ジョビンの曲の理解)と「説明」(例:寝る方法の説明)との融合というところに置かれている。そのように融合して、翻訳不可能性をもった事象をいかにして「わたしたちの文化」で理解できるようにするか、という問題だったのである。
余談だが、子どもの教育目標に「五感から始まる作文」などといったものを掲げている人は、なぜだか知らないけど、まず絶対に上記の二つの例を区別していない。中川の問題系で言えば「理解」と「説明」の違いであり、文化依存的な事象と通文化的な事象との違いである。たぶん、「五感から始まる作文」のようなことを言う人が西洋文化を前提とし、その中での「五感」しか念頭に無いからだろう。ただし、自文化の音楽を聴くときにその自文化を相対化することは難しい。むしろ「いやでもメロディに聞こえてしまう」ほうが自然なのだ。音楽を聴くときに、周波数やら波形やら音量やらといった物理的に記述可能な要素に還元してのみ聴くことのほうが、よほど訓練が要るだろう。それは特殊な職業や目的の場合以外必要無い能力である。ただそちらの困難なほうこそが、「どんな文化の人であっても手ほどきさえすれば説明可能な」部分なのだ。だから見方・書き方によっては、「高度に自文化依存的な聴き方」と「通文化的な聴き方」という対立も、「特定文化/通文化」の対立軸というよりは「音楽文化/物理学・生理学文化」の対立軸だとみたほうが良いのかもしれない。その場合、「子ども」という学習者的存在を持ち出してきた場合、どちらが難しいかも単純ではなくなる。閑話休題。
言語行為で用いるような動詞を適切に理解できたり、使用したりできるという能力は、さしあたりは「異文化」という問題を切り離して論じることが可能である、と思う。まずは「子ども/おとな」とか「正常/障碍」などといった対立軸などと同等の一つの軸として、相対化することができる。そのうえで、たとえば「同じ文化」の中での、「説明と理解との融合」なら、たとえば社会学などの会話分析が或る程度達成しえている。それと同等のことが、異文化間つまり翻訳不可能性を伴う異文化間でなお可能か、ということになろう。
現在のところ「何が異文化か」という問題は、筆者は「会話分析が今有している道具立てで理解可能か否か」を考えると良いのではないかと思う。会話分析が通常のしかたでは可能でないような場合というのには、或る程度小さい幼児の場合とか、語用障碍やその他なんらかの精神医学的症状を呈する人の場合とかが在り、そして端的に異文化である場合もやはりそうなのだ。会話分析は一定の先進国を中心とした、大まかに言えば西洋文化の中での成人の会話のやり方の説明・理解の仕方であり、多少の翻訳上の細かいニュアンスを別にすれば翻訳不可能性のようなものもたぶん考えられていない。だが、中川がこの著作で紹介するように、或る種の文化の中では、「田中家の人が中川家の人に言う」のと「中川家の人が田中家の人に言う」のとでは、その社会的意義が異なっていたりすることが在る。こういう社会にはいきなり会話分析者だけが乗り込んでいってもダメであり、文化人類学者の協力が不可欠になるだろう。そして、文化人類学者でも未解明であるような文化も在るかもしれないし、その場合会話分析者はお手上げになるのかもしれない。その場合は、外観上は精神医学の重症の患者との会話にも似てくるのかもしれないが、異文化の場合はそれとは異なった合理性を備えているのだ。そして、筆者の直観として言えば、重度の精神医学上の患者ほどに理解が難しい異文化というのは、たぶんきっと無い。
中川がこの著作を出したときには、社会学や言語学の会話分析というものは、ほとんど知られておらず書籍も少なく、そして日本国ではまだ十分成熟はしていなかった。なので、この著作でも「異文化理解とは話がかみ合うことです」とまでは言えても、その「話がかみ合う」ということのさらなる根拠づけに会話分析という道具立てを用いることはできなかった。そしてそれとは別の話になるのだが、中川は「システム」という道具立てを用意した。この道具立てを持っている場合、たとえば日本語だと「約束する」と「約束を破る」に該当する場合を両方とも「約にする」という語彙で表現するという、(架空の)変な文化を扱うことがしやすくはなる。そして、その変な文化の中では、「約にする」のほかにも「誓う」という単語も在り、それはなぜか日本語の「誓う」および「約束を守る」とほとんど同義なのであった。…という、こんな変な文化はあくまで架空であるが、こういうものを扱うときには中川の導入した「言語システム」といった道具立てがぜひ有用になるはずだろう。ただ、それはこの著作のなかではあまり展開されなかった。