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出口汪『出口式 はじめての論理国語 小1レベル』(amazon)を眺めていたら、非常に気になる箇所を発見した。気になるのは、他の箇所ではなされているような解説が、と或る例文には付いていなかったことである。出口という人が意図的に解説を回避したのか、それとも偶然だったのか、そこが気になってしまったのだ。というのも、その例文の中には、学校文法と日本語教育学とで全く異なった「解釈」をするだろうものが含まれていたからだ。p118には「好悪を問う」という節が在り、例文の一部分がそれに該当する。該当箇所のみ挙げる。抽出するのは一文未満なので、引用タグも使わない。
多くの人は、「なんとなく学校文法」に従って、次のようにこの文を「解釈」するはずだ。主語・主部は「わたしは」で、述語・述部が「すきです」で、目的語が「おにごっこが」である、というふうにだ。もしこの文章を英訳した文であるなら、これで「正解」で良いように私は感じる。多くの人の「なんとなく学校文法」も「無意識の英訳」をしたうえでのものである場合であることだろう。
だが、大卒者のほとんどはまったく授業を受けたことの無いだろう、日本語教育学・日本語記述文法に従った場合、そういう文法解説にはならないと思う。以下、素人ながら私が「解釈」してみる。
「すきです」の箇所は、「形容詞」を述べている。というのも、「すきです」とは言うが「好きます」とは言わない、というか、その場合は「好く」という動詞のことになってしまう。より一般に形容詞は「美しいです」とは言うが「美しいます」とは言わないし、動詞の場合は反対に、「愛します」とは言うが「愛しです」とは言わないのだから、これで正しいはずだ。なお、学校文法で形容動詞と呼ばれているものも、日本語教育学では「ナ形容詞」というふうに分類されるので、やはり形容詞である。
で、出口のこの書の他の箇所の流儀で行けば「で、この文の主語はなんでしょう」と「保護者向けの解説」で問題化するはずだろう。「主語」という用語は児童向けにはこの「小1レベル」では登場しないが、保護者や教育者向けのページではガンガン使っているからだ。出口がどう解釈するかは解説していないのでわからないが、学習する児童の多くの養育者は「わたしは」が主語だと解説するだろう。
だが、日本語教育文法・日本語記述文法ではそうはならないだろうと思うのだ。この文の「主語」は、強いて言うなら、その「すきです」という形容詞に対応した「おにごっこが」の部分になるしかないだろう。だからもしこの文を「主語+述語」のペアとして記述すれば「おにごっこがすきです」というふうにするほか無いのではないか。とそのように言うだろう。それに「おにごっこ+が」というふうに助詞「が」を使っているのだから、なおさら「主語」の資格が在る。では「わたしは」の箇所は何になるのか、と聞かれれば「それは“主題”に決まってるだろう」と即答されると思う。「わたし+は」なのだから、まずは主題になると考えるのが常識だろう。つまり、この「わたしは おにごっこが すきです。」という文は、「わたしは背が高い。」とか「象は鼻が長い。」と同型の文にほかならない。と結論されると思う。
念のために、日本語文法の構造を生かしたような英訳を探してみた。その場合、たとえばこうなるだろう。
問題はここからなのである。出口の「論理国語」を学ぶ児童たちが、上記のような日本語教育学のような解説を受けたり、そういうふうに回答したら、ほとんどの学校でも、或いは受験でも、「誤答」「劣等生」とされることは間違い無いからだ。子供のことを考慮した場合、児童に「わたしは」の部分は「主題」である、などと迂闊に教えてしまうと、その児童が学校生活において、劣等生になってしまう。小学校だけでなく、中学・高校と進んでも同じことだ。今までは学校文法は中学までであり、高校ではその知識を持ち出す必要が無かったわけだが、「論理国語」という枠で小学1年生から学校文法を教えるようになるとすれば、話は変わってくる。高校でも学校文法に違反できなくなるからだ。
ここで私は自分の小学校時代の音楽の先生のことを思い出す。おそらく『新世界より』の第2楽章がテーマになっていたときのことだろう。ここで目だって使われている楽器は、コールアングレである。しかし文部省は(おそらく文科省も)これを「イングリッシュホルン」と呼ぶことを、児童に強制している。私のときの音楽の先生が立派だったのは、「この楽器は(コールアングレと呼ぶことも在りますが)イングリッシュホルンというふうに覚えてください。」とそういうふうな教え方をしたことである。つまり、こっそりと「コールアングレ」に小声で言及はしたのだ。立派な先生だと思う。私はこの件に限らず、学校と塾とで、或いは教師によって教え方が排反であるような場合、教師に合わせて「正解」を使い分けることができる子供だった。音楽のペーパーテストでも「イングリッシュホルン」と私は答えたと思う。だが、それは語句レベルの比較的単純な場合に限られている。日本語文法などという巨大な対象の正答・誤答が問題化したときに対処する能力は、当時の私には無かったことだろう。だとすれば、出口のこの書で学ぶ児童も当然そうである。日本語教育文法・日本語記述文法の成果を教えることが、非常にためらわれることになる。
日本語教育文法を学ぶのは、ほとんどの場合、「外国語を母語とする」人とその教師だけだろう。外国語を母語とするのだから、その母語習得に「主語」概念も含まれていた公算は小さくない。しかし日本語教育文法・日本語記述文法では「主語」は、目次にも索引にも登場することはまず無い。相手にしていない。その一方で「主題」は目次にも索引にも登場する、極めて根幹的な単元という扱いだ。しかし学習する「外国語を母語とする」日本語学習者の知識を考慮した場合、教育場面において日本語文法では「主語」をどう扱うか、ということが問題化しているだろうし、するべきだろう、と思える。その点を考慮したと思われる見解が庵功雄『一歩進んだ日本語文法の教え方〈2〉』(amazon)に散りばめられている。重要だと思う点をいくつか挙げてみよう。まずp85。
ここでは、主語を自明のように使ってきましたが、実は、ヨーロッパの言語においても、主語という語はいくつかの使われ方をしています。
まず、文法的主語(grammatical subject)というのは、本書で採用しているような文法的特徴に基づくものです。
一方、論理学的主語(subject in logical sense)というのは、主題のことです。ヨーロッパ言語には日本語の「は」と「が」のような形の上での違いがないため、主題の意味で主語と言うことがよくあり、そのことが議論を混乱させる原因の一つになっています。
最後に、論理的主語(logical subject)というのは、動作主のことです。例えば、直接受動文の主語は論理的に対応する能動文の主語であると考える場合、こうした言い方が使われます。
主語、主題、動作主という概念は、ヨーロッパ言語においても区別すべきものですが、「は」と「が」の区別を持つ日本語では真っ先に区別しなければならないものであると言えます。これらの概念の区別について詳しくは柴谷(1978)、角田(2009)などを参照してください。
と、このようにして、たとえば英文法をもとにして日本語文法を構想するのではなしに、反対に日本語文法から見た場合に欧米語の文法のほうを相対化するべきだ、ということが含まれた提言がなされている。現在の日本語を母語とする者の多くは、英文法を直接・間接に学ぶことによって、「英文法のような日本語文法」を使用・提言しがちだが、それは誤りである、とはっきりさせてくれている。
もう一つ、日本の小中学校などでは何かというと「主語」を明示せよと教育するために、庵がこの書で述べる「総記の“が”」をふさわしくない場面で使ってしまう児童生徒が出やすくなる、という場合が推察できる。「総記の“が”」に関しては、私は自己流に「排他の“が”」と呼び、「ぜひ小学生に使われて欲しい教材『ふくしま“一文力”』に改善の提案をする」で検討しているので、併せて読んでもらえると良い。で、庵の本書のほうに戻ると、p89の例文を改変してみると、たとえばこのようになる。
この文はおかしい。主語であることを示すために助詞「が」を使うことができる場面は比較的限られている。その点が重要である。「彼が出かけた」はこの場面では通常使われることはなく、「彼」を際立たせたい場合のみ使うことができる。 本書では「雨が降っていたのに、彼は出かけた。
」という正しい文を紹介していて、「は」「が」を強調して学習者・指導者の注意を促している。
この本では、p92-p94で、「主語」であるための、助詞「は」と「が」の使い分けについて、明確に定式化している。
従属節では普通(無標)の場合、「が」が使われます。つまり、従属節の場合は、「が」を使って間違いになることはほとんどないということです。
次に、単文、主節の場合について述べられる。
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- a. 主語が3人称
- b. 述語が動詞で「いつも」の意味ではない
- c, 主語がそのテキストで初出
以上の条件を全て満たす主語は「が」で表されます。言い換えると、この場合以外は中立叙述の「が」は使えないので、(強調しない普通の場合は)「は」が使われるということです。
これは非常に重要です。つまり、単文、主節の場合(=従属節ではない場合)、強調しない普通の場合には、極めて例外的な場合を除いて「は」が使われるということであり、さらに言うと、単文、主節の場合は、「は」を使えばまず間違いになることはないということなのです。
少し込み入っている定式化のようにも思えるが、もともと「主語」という概念を排除してきた日本語記述文法に「主語」を押し込もうとすれば、多少は複雑にもなろう。
ところで、上記の基準でいくと「わたしは おにごっこが すきです。」は、主語は「は」で表すのでないとおかしい、ということになるように思える。ではやってみよう。
このようにしてみると、わたしはおにごっこは好きだが、何か別のものが嫌いだ、ということを含意してしまう。私の言い方で言えば「対比の“は”」になってしまう。状況によってはそれで良い場合もあるが、中立的な表現にしたいのならば、やはり「おにごっこが」にしないといけないのである、ということになろう。
なお、「主語がそのテキストで初出」という条件、換言すればテキストで或る語が初出か既出か、という事項が問題になった場合に限定して考えてみよう。その場合ならばヨーロッパ言語には日本語の「は」と「が」のような形の上での違いがない
とは言い切れなくなる。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』(2012,講談社)は、その点について英語でなら不定冠詞と定冠詞の区別と同様だと述べている。p153-154。
17)昔昔、ある村におじいさんとおばあさん( )住んでいました。ある日、おじいさん( )山へ柴刈りに、おばあさん( )川へ洗濯に、行きました。日本人であれば、最初の括弧には「が」を、その後の2つには「は」を入れたはずです。なぜ入れたのでしょうか。それは、まさに新情報と旧情報の違いによって入れ分けたからなんですね。(中略)
これは、じつは英語の不定冠詞(a/an)と定冠詞(the)の使い方とまったく重なっているんですね。(中略)
いかがですか。英語でもはじめて何かを紹介する場合は不特定となるので、“a/an”で表し、一度紹介されると、特定化され、次には、“the”で示すということになるんですね。「は/が」の使い分けとまったく同じでしょう。
以上の論点を追加しておく。
ところで、庵功雄のような日本語学にも関与している言語学者による定式化を参照してみたうえであると、最初のほうに私が書いた箇所にまたもや疑問が出てくるはずだ。
私はこの文を、形容詞文だと判定したわけだが、形容詞文の場合、「おにごっこが」を中立叙述的に述べることはできない。述べるとすれば「総記の“が”」と規定するしか無い。従って、私の定式化にはどこかおかしいところが在ることにもなろう。その点についての現時点での私の考えつくことができる回答は次のようにこじつけめいたものになる。それはこの例文が原テキストでは「質問に対する応答」であったことに着目したものだ。登場人物に名前が書いていないので、こちらで勝手にAさん、Bさん、Cくんとしておこう。
- Aさん
- あなたは おにごっこが すきですか?
- Bさん
- はい、わたしは おにごっこが すきです。←なぜなら はしるのが とくいだからです。
- Cくん
- いいえ、ぼくは おにごっこが すきでは ありません。←なぜなら すぐに つかまってしまうからです。
この「わたしは おにごっこが すきです。」の箇所が、質問に対する返答になっていて、そのため少しだけ「強調」のニュアンスが入ったのである。そしてそのことが「おにごっこが」という「が」の使用によって表されていると見ることが可能ではないだろうか、…と思う。ただ一般にみられる「総記の“が”」がもつような排他性は確かに無いから、かなり周縁的な用法になってしまうだろう。
追記する。ここまでの問題に対して、私の立論とは相容れない点が在るが、ひとまずメモしておく。 yousei(2015)「文法の話3」,『文法の話3 | 赤門会日本語教師養成講座』には次のように記載されている。
「が」は二種類あります。専門用語を使ってしまいますが、「中立叙述」と「総記」です。典型的な中立叙述の用法は「今、ここ」で話し手がとらえた「新しい情報」です。外に出て、「あ!雨が降ってる!」。窓を開けて、「風が冷たい!」というような使い方です。その他には従属節の中の主語など、「弟が来たとき、私は記事を書いていた。」のような使い方です。
今、主語などと書きましたが、一部目的語にも「が」がつきます。一部の動詞(「わかる」、「できる」、「書ける」のような可能形)や形容動詞(「好き」、「嫌い」、「上手」、「下手」等)の目的語です。「ジョンさんは日本語がわかる。」、「山田さんも日本酒が好きだ。」のように。
もし主語はどれかと聞かれるならば、ここで一部目的語
と位置づけられているものこそが、それであるように私の語感では感じる。いずれにせよ、ここで形容動詞と呼ばれているものは、日本語記述文法・日本語教育文法でいうナ形容詞にほかならない。その場合の「が」は「中立叙述」であり、「総記」ではない、というふうに解説しているというふうに、勝手に受け取りたい。ついでに、動詞の場合も、「ジョンさんは日本語がわかる。」という文は、もしどうしても主語をというのなら、「日本語が」となり、この文の主述関係は「日本語がわかる。」ということになり、それを「ジョンさんは」という「主題」で包み込んでいる文のように思える。とにかく、ここでは、「わたしは おにごっこが すきです。」が「総記」ではなく、「中立叙述」の事例であるという解釈に接続しうるものとして、引用してみた。このブログの著者とは異なるだろう見解ではある。
「あなたは おにごっこが すきですか?」のような、多くの場面で不自然な言い方を奨励し、「とにかく主語を述べろ」というかなり強い主張をしているこの書は、ここ10数年の「日本全体の米軍による植民地化」と決して無関係ではない。小学校に英語教育を強行に導入するためには、日本語教育のほうもそれにふさわしい教育に変化していかないとならない、ということなのだろう。過去には三森ゆりかが行なっていた「国語教育」(外交官の子供向け日本語教育)とも通じるわけだが、今回ははっきりと文科省と歩調を合わせてその路線を突き進むつもりらしい。それに対応できるような準備をしている識者がいったいどれだけどこにいるのか、それとも絶滅したのかもわからない。で、この書のような内容は特に文法関係事項は今までも暗に強制はされていたのだが、今回「論理国語」という名前をまとってリニューアルしてきた。まさかこの名前でこの内容が来るとは思わなかった。だってそうでしょう?あなたは小学校のときに、教師の態度を「論理的だ」と感じていましたか。「そんな教師ほとんどおらんねん」という人が大多数であると思う。その教師たちに「論理国語」という名前で、旧態依然とした学校文法を中核に含む言語事項を教えさせるのだ。この人の影響力は、今まで批判的に扱ってきた著者たちより、数倍在るし、専門家のチェックもあまり行なわれそうにない。それに反論や反感に対する準備もかなりできている様子に見受けられる。論理学に造詣の深い哲学者も、「主語」には反対しないことも見えているし、有識者もだんだんパラグラフライティングになじみ始めている。とりあえず「学校文法と戦うには、一体どうすれば良いのか」とつぶやき、そしてこの教育を受けさせられてしまう子供たちのことを、ただただ思う。