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テレビ朝日系放映番組「烈車戦隊トッキュウジャー」第02話での会話の構造を、少し明確にしてみたい。そして、その会話の構造をどのように「記述」「描写」してみるのが良いのかを検討したい。ここで「記述」や「描写」に用いられる語彙というものを、中学生以上なら使うことができて良い語彙として提示する試みである。趣旨の説明は「会話の構造(そして中学生の語彙力):烈車戦隊トッキュウジャー第01話」の最初の節を参照してほしい。
第02話は、上掲の会話に若干の改変を加えた箇所から第01話に後続するものとして再開する。
この二つの発話は、その後メンバー間で継続されているようだが、放映されている音声の焦点が、車掌のほうに合わせてあり、はっきりとは聞き取れない。そして、車掌からの応答も無い。車掌はチケット相手に話をしている。とは言え、ここで「死」や「幽霊」の話題が登場したことは、後続する場面のなかにも伏線的に活用されることにはなる。
この後の次の一連の発話は、連鎖をなしている会話の典型というのとは違うもののように思える。
ワゴンと車掌の発話の並びは、「提案-拒否」という隣接ペアを形成しているとも見なすことはできる。ただし提案した相手からの拒否というものではなく、その場に居合わせた第三者からの拒否である。その点で、典型的な連鎖をなしている会話という流れとは、少し異なると言える。また、車掌の発話が最後までなされていないためも在るだろうが、ワゴンから車掌への応答は、放映されている場面内には無い。この並びが、典型的な発話の連鎖と見えにくいのはそのためでもある。
一方、ワゴンとライトの発話の並びは、「提案-応諾」といった隣接ペアにも聞こえなくはない。だが、ライトの発話は、ワゴンに対して応答したというよりは、ワゴンにも聞こえるように言ったとでも見たほうが良いように思う。その次に後続する「弁当に行こう。いやサンド」という発話をするわけだが、そこがワゴンへの応接のようには聞こえず、「意思表示」のようにしか聞こえないからだ。またとりわけ「いや、まず食べる」の「いや」は、ワゴンではなくむしろ車掌の発話への応接である。応接ではあるが、これもまた、車掌の発話に対しての応答というよりは、むしろ車掌の発話を遮るといったものに近い。なので、ライトのこの発話は全体として、「誰かへの応答」というよりは「宣言」や「意思表示」のほうに近い印象を与える。
なお、ワゴンの「激しく」や「いやーん」などは口癖であり、文意に強い影響を与えるものではない場合がほとんどのようだ。
次の会話は、ワゴンが登場する直前に車掌がチケットに話していた内容に関連づけられている。つまり車掌はチケットの「死んだも同然」発言に対して、いわば「咎めた」「非難した」という言語行動をとっている。その発話は「御覧なさい彼らを。ひどいショックを受けてー…」といったフレーズを含むものだった。彼らとはトッキュウジャーの五人のことである。このフレーズを利用する形でチケットは次のように発言するのだ。そのタイミングは、ヒカリを除く他の四人が、皆ワゴンの提案に対して賛同し、「まず食事を買う」行動に立て続けに出た直後というものであった。
チケットの発話は「たしかに」という語で開始されるが、車掌その他に「賛同」しての「たしかに」では、全くない。「賛同の際に用いる“たしかに”」という語をいわば利用して、そこからでは予想できにくい方向へ話を進めているのだ。「ショック」という語が同じであることを利用して、車掌の発話ではショックを受けていたのは戦隊メンバーだったのだが、しかしチケットの発話ではショックを受けているのがチケット自身である、ということにすり替えているのだ。そして、チケットが何にショックを受けているのかと言えば、戦隊メンバーの多数がショックを受けているように到底見えない、それどころか楽観的にすら見えることに対してなのである、と述べているのである。このチケットの発話を結局どのように呼べば良いのかは、なかなか難しいと思うが、たとえば「嘆く」「嘆息する」とでも言いうるだろう。ただし、例によっての悪態をつく調子や、一種の皮肉や毒舌のようなトーンのなかでなされたものではある。相手に賛同するように期待させておいてそうではない展開をする言い方だからだ。
車掌の応答は、その点きちんと「嘆息する」「嘆く」というチケットの発話への応接になっている。つまり、「慰める」とか「なだめる」といった発話になっていると見なすことができるのである。隣接ペアを構成していると言っても良いだろう。ただしそれはチケットの発話内容に賛同するという形での慰めやなだめではなかった。そもそも車掌はチケットの「死んだも同然」発言に対してからして、批判的な態度であったわけだ。なので、結局、チケットが嘆いている点を、そのまま「それは長所である」というふうに価値転換をさせることによって行なわれている。つまり「お馬鹿」というふうに捉えるのではなく「悩まない」という言わば前向きな態度として捉えることを提案するという形での、慰め・なだめなのである。だから、それはチケットに対しての「説得」効果をもちうるものではなかった。実際、チケットはその慰めやなだめに対して、賛同したり説得されたりしていない。
その際に、チケットが「まあー」と、直前の車掌の発話と同じ語で開始する点がここでとても印象的である。「まあ」という語については第01話の時にも少し述べたが、「部分的是認」とでも呼びうる用法が存在する。そこでは「部分的になら是認できる」から「部分的にしか是認できない」というふうに、肯定的から否定的まで含意を広くもたせることができる。車掌の発話での「まあ」は、「部分的にしか是認できない」際のものに近いだろう。「まあ、チケットはそう言うだろうけど、それもわからんでもないけど、でも悩まないのは良いことだとも言えるだろう」といった感じの「まあ」だろうか。「あなたの気持ちはわかる」という「部分的是認」であり、部分的でしかない是認でもある。チケットがそれをうけて「まあー」と車掌と同じ語で発話を開始することも、この「否定的是認の“まあ”」の車掌の使用と関係在るかもしれない。
チケットのここでの「まあー」はかなり独特だろう。とは言え、部分的是認という受け取り方を変える必要は無い。ここではチケットは「車掌は五人のメンバーにも良い所が在る、と述べた。その点は部分的に是認できる。確かに、五人のメンバーの中にもまともな者が居るので、そこは良い所だろう」という仕方で応答したと解しうるのだ。つまり実質的な内容としてみれば車掌が「ワゴンの提案に応じた四人には良い所が在る」と述べたのに対してチケットは「ワゴンの提案に応じなかった一人には良い所が在る」という仕方で応答したのだ。つまりこの「まあー」は部分的是認でしかない、というよりも、ほとんど是認していないのが文意・含意だが、しかしそこをあえて相手と同じように部分的是認の形で述べた、というのに近い。
「いやーん、召し上がれ」と「いっただっきまーす」とは、「挨拶」-「挨拶」とでもいうような隣接ペアをなしている。
「みんなとっても素敵な食欲。」という発話は、「話題の提供」という行為をなしていると見るのが良いと思う。この発話によって、たとえば「四人がワゴンについて話題にする」というふうにはならずに、その反対の「ワゴンが四人について話題にする」という展開になったからである。そのことで同時に、「感心の表明」という行為をなしてもいる。食欲に感心しているわけだ。いずれにせよ、このワゴンの発話は「こういうふうに応接され、終了するのが通常である」という強い規範性はあまり無いと言える。たとえば「感謝」という応答をしなければならない、というほどの強い規範性や慣習性は無い。
その「感心」の一部に対しての「強い肯定」という応接をトカッチはなした。つまり、四人のうち、ライトに関して言えば「とっても素敵な食欲」は全く当てはまるというふうに肯定したわけだ。その際に、この時点では席の離れたヒカリも含めた五人の共通の記憶・エピソードに言及し、それをワゴンに「紹介」してみせた。ライトがいつも学校給食をおかわりしていたというエピソードだ。その際にライトがトカッチの弁当から一品くすねた行動が、ワゴンの視点からそのトカッチの紹介内容が一段と真実らしく思えることともなった。
トカッチの紹介したそのエピソードを全面的に引き継いだうえで、そのなかでも特に鮮烈なタイプのエピソードを、ミオは紹介して話題を継続させることとなった。つまり、「自分の学級」だけでは量が足りずに、「隣の学級」までおかわりに行くほどのケースすら珍しくなかった、というエピソードだ。その際に、学級委員として自分が隣の学級担任に何か頭を下げるとかそういった行動をかつてとったのかもしれない。そのことをライトに一言言っておきたかったのかもしれない。ただ、それがミオの意味在りげな言い方の主な理由かどうかまではわからない。ミオの意味在りげな言い方は、「視聴者」に向けてのもののようにも思えるからだ。むしろそちらだろう。要は、この場面で聞き間違えようも無いくらいに、「ミオがかつて学級委員をやっていたことがある」ことが話題にのぼらされたのだ。
「ふーん、みんな同級生なのね」というふうに、ここまでの発話から帰結するだろう事柄を、ワゴンは手際よくまとめてみせた。帰結するだけでなく、ここまでの発話で四人がどういう話題を話したいのかがうかがえる、そのうかがえる点を考慮したまとめとしても手際が良い。要は「昔話」がやりたいのだ、再会して間もない五人に共通する「懐かしトーク」がやりたいのだ、とそういう受け取り方に沿ったしかたでの、話のまとめになっているわけだ。
ワゴンは「現在の目の前の四人の様子」を話題にすることで、話題提供を行なった。その話題提供は、話題の範囲内でどのように展開しても構わない、といったものだった。その結果として、「過去の四人の(五人の)共通の思い出話」という方向が、メンバーによって方向づけられた。それを受けて、ワゴンは「四人は(五人は)同級生」というふうに着地させてみせ、これを受けて新たな談話の展開がまたできるようにした。
ワゴンの話題提供から始まり、ワゴンの話題のまとめに終わる一連の会話は、いわゆる会話の連鎖といったタイプの要素はさほど強くない。ただ、ワゴンが「感心の表明」をしてみせたときに、トカッチがそれを部分的に「強く肯定」した箇所は、隣接ペアになっていると言って良いように思う。一方また、ミオの発言は、実質的にはトカッチの発言への肯定を前提にしており、発話行為としてはトカッチを肯定していると言える面も在る。ただ、それは言語的にはっきりと表明はされていない。その点で、ミオの発話は(通常の会話にはむろんなっているのだが)あまり連鎖を形成している感じは受けない。と、そういうわけだが、ワゴン自身が自分のなした話題提供に自分で区切りをつけている点も在って、また話題が一貫していたことで、この一連の流れはわりと「会話らしい会話」になっている、と筆者は感じた。
この直後の会話はまた独特のつながり方をしている。
四人が(五人が)同級生であることを知ったワゴンのリアクションはなかなか独特なものであった。トカッチのことを指差して「老けてる」ときっぱりと言い切ってしまう。(人造人間だから?)意図せずして、わざわざ失礼な言い方をしてしまっているわけである。尤も、この言い方が失礼に当たるのは、トカッチ本人がその点を気にしているからでもあるだろう。そうでなければ、さほど失礼ではなかったかもしれない。ともあれ、ワゴンのこの一連の発言群は、「評価する」とでも呼べる行為だろう。それに対して、ミオが「そう言えば」という常套句を用いて、話題をすり替えた。「そう言えば」という言い方は、今思い出したような仕方で、それまでと異なる話題を導入できる言い方だ。その際、ミオはまたしても「思い出話」を持ち出した。そのことによって、「思い出話」をすることができないワゴンの発言機会を封じることも可能になったとも言えるし、「現在の四人(五人)」という話題から離れることができるようになったとも言える。ともかくミオはここでワゴンの「四人への評価」という話題から離れるべく「ワゴンとは別の話題の提供」という行為を行なったと言える。或いはワゴンの発言群以前の話題につなげたとも言える。
ただし、ミオのその話題転換・話題提供によって、彼らが集団的な記憶喪失に陥っていることが明確化されてしまう展開となった。
このミオの発言からの発言群の多くにみられる特徴は、「誰かに次の発言機会を回す」言い方が多用されている点だろう。まずミオの「そう言えば、みんなでよく遊んだんだよねえー。」という言い方は、別にミオ自身がその話題を継続することも可能だが、普通に聞けば、他の誰かに発言機会を渡しているように聞こえる。その理由の一つは、文の文法的な形式としては「同意を求める」言い方になっているからでもあろう。ともあれ、ここで話題の転換・提起とともに、発言機会の譲渡も行なっているわけだ。
次のカグラの「うん、町探検したり秘密基地作ったり。」は、ミオの言う「よく遊んだ」内容が具体化されている。ここでは発言機会の譲渡は特には行なわれていない。ただ単に、この時点で話者が交代することが可能なような言い方をカグラがした、ということになる。
そこに話者として入ってきたライトの「そうそう、ほら、あの大っきな木。」という言い方は、「大っきな木=秘密基地」のように聞こえる点で、なかなか効率の良い言い方である。彼らが樹木を秘密基地として使って遊んでいたらしい回想映像はすでに番組内で提示されているので、そのことを視聴者に回想させることにもなろう。だが、その木が在った場所は「なんとか丘」しか思い出せず、その思い出せなさを活用して、トカッチを指名して発言機会をライトは回すことになる。しかしトカッチも「なんとか丘」以上のことが思い出せないことが判明する。
ライトの「なんとか丘に在った。なあ、トカッチ」という言い方は、単に次の発言者を指名しているだけでなく、「質問」に聞こえる。そしてトカッチの「ああ、なんだっけな?」はそれを「質問」として受け止めたうえでの応接に聞こえる(隣接ペア)。そして、「うーん」という発話で、その質問に対する答えを「思い出すということ」をしており、即答できないことが可視化される。
「町の名前と一緒じゃなかった?」とミオは言い、一歩前進するが、その町の名前をミオが思い出せないことも判明してしまう。その思い出せなさを活用して、今度はカグラを指名して発言機会を回す。しかしカグラも「なに町」かが思い出せないことが判明する。「カグラ、覚えてる?」というミオの発話は「質問」に聞こえる。そして、「えっとー、うーん。」というカグラの言い方もまた、トカッチと同様に「答を思い出すということ」をしていることから、ミオの言い方を「質問」と受け止めたうえでの応接(隣接ペア)であることがわかる。
ここで四人が行なっていることは、一種の「合議」とでもいうものに近い。事実関係を思い出そうとして、他のメンバーを指名したり、案を出し合ったりする、という営みの派生形のような会話になっている。ただ、そこで顕在化してしまったのは、さしあたり「固有名詞を誰も思い出せない」「そのことにメンバーが今気づいた」という事態にほかならなかった。過去の楽しいエピソードをいろいろと語ることができそうに見えていた、先ほどまでの会話とのコントラストが著しい。
その事態を、やけにはっきりとしたものの言い方をするのが特徴であるらしいワゴンがまたしても概括した。「いやーん。みんな記憶力ゼロ!」発言である。
「ええっ」というおそらくミオのものと思われる発話も、「今そのことに初めて気づいて動揺している」という点を表明している。
あえて四人に交わろうとしなかった、離れた席に居たヒカリが発言したのは、このタイミングでであった。つまり「固有名詞が思い出せない」ことにメンバーが気づいて、かつそのことが公然化されたというタイミングでであった。
ヒカリの「ねえ!俺たちさあ、一緒に遊んでいた頃のあとってどうなってる?」という、このものの言い方は二義的であり、明確とは言い難い。幼児に難しい語彙や漢字語の同音異義語を避けた結果として、こういう言い方になったかもしれない。ともあれ、二義的である。「あと」というのが「後」なのか「跡」なのか、つまり時期の話をしているのか、場所の話をしているのかが決定できない言い方だからだ。とりわけ「どうなってた?」や「どうしてた?」ではなく「どうなってる?」という、その「なる/ならない」の枠での、しかも現在を問う言い方が「跡」である解釈のほうを想起させやすい。だが、その点は会話のなかでは実効的な問題とはならず、「後」であったということが自明であるかのように話が進んでいく。つまり「昔よく遊んだ時期」より以降の時期の記憶を、ヒカリは問題として取り上げたわけだ。ミオが「遊んでた頃のあと?」と質問をするのも、「後」か「跡」かの決定のためのものではなく、発話全体の単なる(かな書きレベルでの)同定のためのものになっている。「ころ」や「あと」は前後の単語に紛れやすい語なので、その同定にも一定の発言意義が在るだろう。後続するヒカリの「そう。」はそれへの「回答」になっている。つまりここではミオとヒカリの発話で「質問-回答」という隣接ペアが形成されている。
さてヒカリの発言が二義的であり、同定のための質問も受けたためかどうか、ヒカリは最初「どうなってる?」と聞いた「あと」に連なる動詞を次の発話では「覚えてる?」という動詞に言い換えてみせた。この言い方でも「あと=後」に聞こえやすくなるわけではないが、それはその文意がわりと常識的でない文意、つまり「記憶喪失」に関するものだからでもある。「覚えてる?」に言い換えたことで、「あと」が「跡」のほうには少し聞こえにくくはなった。
ヒカリがここで行なっている発話行為も、また「問題提起」であり、かつ相手に問いかける表現をしているため、一種の「合議」を促しているとも言える。
「みんなさあ、もう少し今の状況に疑問持っても」というヒカリの発言は、四人が「固有名詞を誰も思い出せない」「そのことにメンバーが今気づいた」ことが公然化したときになされたことに注意したい。なので、ここでヒカリが行なっていることは、「思い出せないのは、皆の共通記憶に関するものだけではない。他にも在るだろう」ことの指摘である。その指摘を付加することで、皆に言わば「真剣に」なることを訴えようとしていたと言える。つまりここでのヒカリの発話は「訴え」でもある。
暗転した際の「ええっ、これって!?」というトカッチの発話は、まずは「驚きの表明」と定式化できると思うが、「質問」というふうにも言いうる。いずれにせよ、車掌が「そう、列車がシャドーラインに入ったんです。」という返答をすることで、「驚きの表明」に対しては落ち着いた調子で語ることで「なだめ」を返し、「質問」に対しては「回答」を返した、というふうに隣接ペアとして位置づけられるだろう。
「面倒なことにー、次の駅はシャドーラインに乗っ取られているようですねえ」というチケットの発話は、先行する車掌の発話を前提にした、より詳しい「状況説明」であると言えるだろう。「初心者」であるトッキュウジャーのメンバーに対しての必要な「説明」であるとして行なわれている。ただし、今回のチケットは「状況説明」をこの一言で済ませるつもりはなかったらしいことが、次のやり取りでわかる。
「のっ、乗っ取られてる!?」というトカッチの発話に対して、「ちょっとー。一人前に驚いてますけど、分かってます?」とチケットは回答したという、このやり取りである。「いや…」というトカッチの返答に対して、「シャドーラインが自分たちの路線を拡げて、世界に闇を拡げようとしているんですよ。」とチケットは回答している。尤も、これが「乗っ取られている」ことの、より詳細な説明のようにはあまり思えないだろう。あくまで「乗っ取られる」という事態が、シャドーのどのような全体的な意図のなかに位置づけられているかの説明にとどまる。「乗っ取られると、その分世界に闇が拡がってしまうんですよ」ということを、どうやら訴えたかったようだ。
そのためかどうか車掌は「ま具体的に言うと、シャドーラインの列車がレインボーラインに乗り入れてシャドー怪人を降ろしていったんです。」と述べた。確かにいくらなんでもこちらのほうが具体的な説明だと言えるだろう。いずれにせよ、トカッチたちに対して、チケットも車掌も、「説明する」ことを行なった。
しかし後続する車掌の発話は、いっけんあまり「説明」とも思えないものであった。「人間の心から闇を生み出し、町を染めるために。」これだと、先ほどのチケットの「説明」と大同小異であり、あまり「具体的」とは思われない。その点「具体性の無さ」に関しては、聞き手である五人からは特に「質問」が出ているわけではない。その点への言及が特になされないのだ。また、話が進むにつれて、車掌のこの発話が案外と「具体的」であったこと、つまり「文字通り」「即物的」な説明であったことがのちに判明するが、この時点ではまだ五人には(視聴者にも)それはわからない。
そこにミオの質問が後続する。「そんなこと?どうやって?」。ここでも、番組の都合上だと思うが多少不自然であるにもかかわらず、会話では不自然さが問題化せずに、一義的な発話であったかのように展開している。こういうことだ。ミオの「そんなこと?」が車掌の発話のどの箇所を指示しているかがまず曖昧であり、そこをはっきりさせないと話が進まないはずのように思う。だが、ここでは「そんなこと」とは「人間の心から闇を生み出し、町を染める」のほうを指すことが自明とされて話は進む。「どうやって?」という疑問文も、いくぶん唐突である。「町を染める」などという言い方が、何を言わんとしたものかなど、一発でわかるわけが普通はない。まして、何を言っているのかわからない文に対して「どうやって?」という疑問は普通は持ちようが無い。だが、のちになってそれが存外文字通りであり即物的な表現であったことがわかるのであり、ここでは、それを先取り的に前提して、それに対しての疑問として提示されたかのように話は進められていく。要するに「町は文字通り暗く染まる」という理解が居合わせた者皆に共有されたかのように話は進んでいるのであり、「それはどうやって?」とミオが尋ねているというわけだ。いずれにせよ、ミオの発話は「質問」を行なっている。
「怒り、悲しみ、憎しみ、嫉妬に後悔、まあそんなところで人間の心を暗く沈めるってところですかね」というのがチケットの回答であり、これは回答するという行為であると言って良いが、これも「それをあらかじめ知らない相手」への回答としてはおよそわかりやすい情報提示のしかたではない。文の開始に際して接続詞も無いし、相手の発話に接続するような語句から開始するわけでもない。こういうことだ。いずれにせよ、「人間の心から闇を生み出し、町を染める」というのがシャドーの手口なのだから、「どうやって?」という疑問は、その「闇を生み出す」ことや「町を染める」ことに対しての「どうやって」とまずは受け取るだろう。だが、そのあたりはチケットにとっては自明のことなのだろう。なので、チケットの回答は「人間の暗くなった心から闇を生み出す」ための何か魔術的な方法の説明というものではなく、一般的な「人の心を暗くするやり方」の説明に過ぎなくなる。そのことが、チケットの発話が終わってみないとわからないようになっているのである。ただしとは言え、この説明が実は案外文字通りでそのままだったことも、また、物語が進むと初めてわかるようになっているのではある。
ともあれ、この一連のやり取りは、放映する側の都合によってだと思うが、無理に内容が詰め込まれた不自然な会話になっている。しかしにもかかわらず、会話の形式とか行為連鎖としては別に不自然ではないようになっている。だが中学生程度以上ならば、その不自然さのほうにも気づき、その不自然さを、説明も少しできて良いように思う。ともあれ、この箇所でも、放映する側が視聴者に伝えたい内容は、だいたい推察はできるようにはなっている。
早い話が、トッキュウジャーの五人がシャドーの駅に車掌らによって放り出されたという一連のやり取りである。
「へえー。なかなか恰好いい名前の駅だな」というライトの言い方は、「だな」という文末の語句によって発言を誘いかけている。別の誰かに発言機会の譲渡をする発話になっているのである。その内容は「評価する」或いは「提案する」とでもいう発話であった。
その「提案」「評価」に対してすぐに拒否したのがカグラであった。「怖いよ。決闘なんて」というものだ。ここでは「提案-拒否」の連鎖が成立していると言えるだろう。
「でも…、見た感じは普通の駅だね」というトカッチの発話は、そこでいったん完結してしまった連鎖を継続するのではなく、同じ話題のなかでの別の角度からの「提案」「評価」をするものであった。その際に「でも」という逆接で開始するのには、はっきりとした合理性が在る。というのは、先行での会話によれば、シャドーに乗っ取られた駅は「闇を生み出し、町を染める」ことの影響を蒙っていて、「異常」であるはずだからである。トカッチがホームの周りを見回したり、その外観を問題として提起することには、だから十分に合理性が在る。それを踏まえて、このトカッチの発話は「評価」や「提案」と呼んでも良いが、もう少し強めに「問題提起」であると定式化することができるものだろう。
「普通かどうか、駅を出てみればわかるでしょう。」という車掌の発話は、トカッチの発話を「問題提起」としてというよりは、「質問」や「疑問の提示」として受け止めて、それに対して「回答」をしようとしたものだと言えるだろう。「質問」「疑問」に対する直接的な回答ではないが、その「疑問の解消の仕方」を回答したものだからだ。ここでは、「初心者」である五人の間では「問題提起」になるような発言など「熟練者」にとっては「質問や疑問の提示」にすぎない、という経験値の非対称もうかがえる。
車掌の答に対しての「えっ?」という五人の再度の疑問の提示に対しては、返答が無かった。言わば「言うべきことはすべて言った」とでもいう車掌の考えなのだろう。ここから先は、五人が列車から閉め出される展開となる。
「はい、発車しまーす」とチケットが車内放送として、まず述べる。これに対して、ミオ(たち)が「えっ、もう?」と言った。これは「宣言」に対して「介入」しようとしたと定式化することも可能だろう。とは言え、「介入」などという語から想定できるような余裕などはミオたちには無く、ただひたすら慌てていたというのが実際であった。
ミオたちのその慌てぶりに対して、落ち着いた調子で「シャドーラインに長く停まっているのは危険なんです」と車掌は答えた。これは、彼らが車外に降りる前にあらかじめ教示しておくのではなく、わざと手遅れになってから知らせているのである。その点を踏まえると、この発話もたとえば「説明」とかというよりは、「宣言」と定式化しても良いように思う。最初からそのつもりであった意図的な行為のようにしか思えない態度だからだ。
「さっさと白線まで下がってくださーい。ドア、閉まりまーす」というチケットの発話も、これは普通に「宣言」とか「告知」と呼ばれるタイプのものである。実際に交通機関で行なわれているものと同じ行為である。通常、不特定多数に向けて言われるものであり、その度合いが高いほど、会話の連鎖のようなものはほとんどの場合構成しない。
「はげしく、頑張ってねえー」というワゴンの発話は、「励まし」や「応援」の形をとってはいる。確かにとってはいるのだが、その状況が「ドアが閉まるわずかの隙をついて」言われる点で、どうしても素直にそうは受け取りにくい。また、「頑張れ」と応援や励ましをしているというよりは、「頑張らなくてはいけなくなる」という「予告」「宣告」をしているように聞こえる点も大きい。
「ちょっ!頑張るって何を?!」とトカッチは大いに慌てて、「質問」をしている。これは文字通り「質問」として定式化しても良いと思う。ワゴンの発言を「予告」「宣告」と受け止めたうえでの「質問」というわけだ、ただ、もちろんそれへの「回答」などは何も無かったのである。とは言え、この駅にシャドー怪人が降ろされていることは判っているのだから、少なくともそれへの対処は予告されたと言ってよいだろう。なおまた、トカッチの行為を「動揺する」「慌てる」という行為として定式化することにもまったく問題は無い。
ライトがここでなした発話は「指摘する」とでもいうような行為だろう。すでにどのような話題に注目すれば良いかは、さきほどプラットホームでの会話で判明している。つまり、シャドー怪人が及ぼしていている影響や兆候を探すことが、話題になるとわかっている。それを踏まえたうえでの、「指摘」として定式化するのが良いだろう。
ミオの「でも」という逆接で開始する応答はライトの指摘への「異論」として定式化できる。ここでは「指摘」-「異論(の指摘)」とでもいう隣接ペアが構成されている。「異論」なので、拒否だけでなく、「新たな観点」の「提案」でもある。
「臆病者にしてはなかなかやるじゃないか」という怪人の発言は、素直に受け取れば「条件付きの肯定的評価」ないし「条件付きの、感心の表明」といったところだろう。「臆病者にしては」というのが前提条件として提示されているので、「半分程度ほめた」といったところだろうか。と同時に、戦闘の最中にこのように述べる行為自体が「余裕の表明」でもあるわけだ。
「誰が臆病だって?勝手に決めるな」とライトが述べたのは、その相手の付けた条件に対しての反論である。つまり「ほめてない方の半分」に対しての反論である。ここでは怪人と1号のあいだに「評価」-「反論」とでもいった隣接ペアが成立していると言って良いだろう。と同時に、「戦闘中に話しかけるだけの余裕が在るという表明」に対しても、1号のほうも同様に余裕であることを表明し返したとも言えるだろう。
「誰が臆病だって?勝手に決めるな」という1号の反論は、質問形式でもある。その質問に答えるようにして、怪人のほうは「お前は決闘しなかった」「それは臆病だからだ。」というふうにわりとちゃんと回答している。もちろんその主義主張に賛同できる者はきわめて少ないだろうが、それでも、言いたいことはわかる理由付けだ。なので、ここでは1号と怪人のあいだで「質問」-「回答」という隣接ペアが構成されている。
怪人はそれに続けて「臆病者は消えろ。」と述べたあと爆撃を仕掛け、その後「それが決闘ヶ原のルールだ」と述べる。これは言わば「今からとどめを刺そうとしている相手に聞かせる宣告」のようなものだろう。言わば「死亡宣告」に近い。
ところが1号には攻撃の効果があまり無かったようであり、すぐに立ち上がり、また他のトッキュウジャーメンバーも集まって来た。そして1号が開口一番「待てよ。そんなの教えといてくれなきゃ、わかんないだろ。」と怪人に言った。これによって、怪人のここまでの発言の前提部分を、否定したわけだ。「そもそもそんなの知らなかったよ」というわけである。なので、怪人の「宣告」に対して、1号は「前提の否定」というしかたで、発話の連鎖を構成していると言える。ただ、この1号の反論のしかたは興味深いものがあるので、もう少しだけ、補足する。
1号は「そんなの教えといてくれなきゃ、わかんないだろ」と言うわけだが、むろんのことだが、1号たちにもし事前に教えておけばその「ルール」に従ったりしたわけではない。そもそも「臆病者は消えろ」とか「決闘しないのは臆病だからだ」という怪人の信念を、トッキュウジャーチームの者が認めるはずもない。なので、発話のやり取りの形式としては「宣告-その前提への否定」という形をとっているやり取りだが、実際にはたとえば戦闘態勢を立て直すための「時間かせぎ」のような機能のほうが意図されていたのかもしれない。少なくとも結果的に時間かせぎにはなっている。怪人は一度「へ?」と言い、戦闘を止め、また、それへの返答に時間を費やすことになったからだ。
トカッチやカグラの反応は、このやり取りとは直接のかかわりはもたないが、ライトのその、相手の前提への否定発言によって「まさかほんとうにそんな発言で時間が稼げてしまう敵だとは思わなかった」驚きを表明しているとも、見なすことができる。少なくとも、或る種の「正論」じみた発話に応じるタイプの敵である、という意外さへの驚きの表明ではある。
「ここは決闘の町。合図があればいつでもどこでも誰でも決闘するのがルールだ。次は必ず決闘しろ。いいな」と怪人は、トッキュウジャーメンバー5人に、あらためて「命令」をした。この発話は「宣告」というよりは「命令」と言ったほうが近いだろう。
その宣告的な命令に対して1号は「面白い。絶対決闘してやる。お前とな!」と、真向から「拒否」した。相手の命令に従ったような言い方をしておいて、その最後に「お前とな!」と言うことで、文意を「拒否」にすり替えてしまったというわけだ。なので、ここでは怪人と1号の間では、「命令」-「拒否」という隣接ペアが成立している。と、同時にこの1号の発話は単なる拒否だけでなく、「挑発」をも行なうこととなった。ただ怪人のほうは意外にも、この「挑発」には乗らずに、「ふん」とだけつぶやいて、その場を去っていった。言わば「黙殺」である。また、トッキュウジャーメンバーも怪人を追わなかった。おそらく、怪人のほうはシャドーという上位組織から命じられた業務がまだいくらでも在るからだろうし、トッキュウジャーメンバーのほうは少年の保護をしなければならないからだろう。
少年は、トッキュウジャーのメンバーが怪人をいったん退散させる一部始終を見ていた。なので、少年が申し出てきた「助けてくれてありがとう」は単なる感謝というだけではないと見なすべきだろう。「助けてください」という「縋る」「訴える」行為でもあるのだ。
ミオがまず緊急性の高い怪我の有無という点から「心配」という対処をしてみせた。続いてカグラが、少年の今置かれている状況に対する質問をした。この質問も、先のミオのものと同様「心配という対処」でもある。これらに対して、少年はまっすぐに「回答」をしてみせた。と同時に、カグラの質問に対しては、絶望に近いような態度をとり、かつより一層直接的な兆候である「心の闇が一定量身体から発散され続ける」という反応を示したのだ。
それは誰かに「おっ」という発話をさせる程度には顕著な現象であった。先行する場面で、町の他の人々(犠牲者)からもこれが同様に発散される現象を、トッキュウジャーメンバーはすでに目撃している。それらと目の前の現象とは、すぐに、先行していたチケットや車掌からの示唆とも結びつけて、メンバーに理解されることとなる。ただし、それはさほど直接的には進まなかった。その点は次に述べる。
「怪人が言ってた。これがもっと拡がったら、町は消滅したのも同然で、住んでる人は…死んだも同然だって」という少年の発話に、メンバーは言わば「言葉を失う」ような受け取り方をし、しばらく考え込ませることになる。ただ、それは少し回り道のような仕方でである。メンバーはここで「死んだも同然」という語句に大いに拘泥することになるのだ。
「死んだも、同然」とトカッチがつぶやいたことからも、その状態が想定可能である。
「死んだも同然」という曖昧な文言が、チケットが五人を形容するときと、怪人が町の人々を形容するときとに、ともに使われたことがおそらく原因だろう。この曖昧な語をめぐって、ヒカリとライトのあいだに、状況認識の対立が生じたというくだりである。
ヒカリは前回中断した話題を開始する。それは「死んだも同然」という語句を、五人の「過去の記憶の曖昧さ」とを等値する、というしかたで「問題提起」をすることによってであった。「死んだも同然」という語句は曖昧なので、どうとでも解することができる。そして、五人の集団的な記憶喪失状態はきわめて顕著な現象である。「死んだも同然」という語句は当初チケットが五人を形容したときに使ったものなのだから、それを「記憶喪失」と結びつけることとは、自然な論であると言える。ただしヒカリが問題にしているのは、共通の体験が在るはずの固有名詞の記憶の無さではなく、それ以外の個々人の体験の記憶の無さのほうである。
トカッチは「死んだも同然」という語をもう少し即物的に解して、自然科学的で生命的な現象として、それに反論しようとするが、それはライトに止められてしまう。
ライトがトカッチの発言を止めさせた理由は、当人が語っている。「とにかく今はあの決闘怪人を倒すのが先だ。」これである。実を言うと、この点こそが争点になっているのであった。というのは、後述するように、ヒカリは「こんな“死んだも同然”のままでは怪人など倒せない」というふうに考えているからである。
ライトは、ヒカリのなした「問題提起」に対して「大丈夫だって。(↓)」と応じた。「問題提起の拒否」である。その根拠は「とにかく今はあの決闘怪人を倒すのが先だ。」という現実的なものであった。「異論」「別種の問題提起」をすることで、ヒカリの問題提起を拒否したわけである。そしてヒカリの肩を叩いて「行くぞ」と強い「誘いかけ」をして、さっさと駆け出してしまった。
「何で!」とヒカリは強くライトを止めるべく叫んだ。発話内容だけだとそうとも言い切れないが、ヒカリ自身がその場を動こうとしなかった点を考慮すれば、この「何で!」は「誘いかけ」に対する「拒否」であると定式化して良い。と同時に「制止」でもある。もしこれでライトが走るのを止めなければ、さらにヒカリは何かを言っただろうはずだからだ。
「どうしてライトはすぐ先に行っちゃうかなあ。また何かポジティブな事をイメージしてるのかもしれないけど、この状況はそんな事でどうにかなるもんじゃないと思うよ」とヒカリは続けて言った。まずライトの日ごろのやり方に対する「不満」という形でその拒否内容を述べ始める。続けて日ごろのライトの得意とするのだろう「ポジティブな事をイメージする」ことに言及し、そこの箇所を否定する。それに対してライトが「そうか?」と疑念を呈した。ヒカリの発言が理由抜きの断定なのだから、疑念は当然である。そこでヒカリは次に、その理由に或る程度該当するものを提示する。
ヒカリは言った。「俺。根拠の無い想像はできないから。」。この点こそがずっとヒカリの問題提起の根拠になっているものにほかならなかったのだ。イマジネーションを武器とするトッキュウジャーは「想像」ができることが必須である。その想像の根拠になるものが無いということに、「過去の記憶の無さ」は相当することになるのではないか、少なくとも自分はそうだ、とヒカリはずっと考えていたのだ。そのことがここで明らかとなった。ともあれ、自分のなした問題提起に「論拠の付与」を行なったことになる。
それに後続する「俺たちは今、過去も未来も無くただ列車で漂ってるだけ。言ってみれば幽霊列車の幽霊だよ。」という発話によって、「ほかの皆も自分と同じように、記憶の無さがイマジネーションの無さにつながるのではないか」と示唆し「問題提起」をしたことになる。また、ここで「幽霊」という語が登場したのは、(放映では聞き取れなかった)車内でのかつての会話の続きという事情がおそらく在ろう。そこに対して「自分たちは比喩的になら幽霊だ」とヒカリは結論づけたわけである。
「幽霊列車かあ」というライトの発話は、ヒカリの発話を受けてのいわば「再考」の実演である。そのうえで「いいなあ、それ」というふうに、ヒカリのなした問題提起での定式化の仕方を変えてみせた。「悪い」とされているものを「良い」と定式化し直したのである。その理由は直後に述べられる。
「ほら、幽霊なら家にお盆には帰るだろ。町のことを覚えてなくても自動的にそうなるのかもしれない。いや。帰れる、って今俺が決めた。」とライトは述べた。これは「記憶の無さなど問題はないのだ」という「反論」につながることになる。その際に、ヒカリが再活用した「幽霊」という比喩を、あえて文字通り受け取って、それを根拠にして述べているのだ。もちろんこの種の会話は、スコラ談義や神学論争のようなもので、いくら続けようが、きりがないし解決しない。ライトがなした「いや。帰れる、って今俺が決めた。」という発話は、そのきりのなさを断ち切るような効果をもちうる。
「ヒカリ。これは根拠の在る想像だと思うぞ」とライトはヒカリに言った。ここでのライトの発話は「根拠の在る/無い想像」というのは、ヒカリが問題にしていた次元とは、全く異なる次元でのものにすり替わっている。ヒカリが「俺は根拠の無い想像はできない」と発話したのは、「過去の記憶という根拠が無い。だからイマジネーションを要する戦闘はできない」ことを意味しうるものであったし、おそらくヒカリはその点を訴えていた。だがそのことを適切に訴えることはヒカリはしていない。だからここでライトは、それこそヒカリの言ったまさに「ポジティブなイメージ」相当のものを提示してきて「どうだ、これで根拠の在る想像になっているだろう」と問題次元をすり替えた。そしてヒカリはうまいこと反論ができなかったし、他の三人のメンバーはそのライトの「ポジティブなイメージ」のほうを支持するようなそぶりを見せていた。
要するにライトはここで、「終わりのない神学論争」のようなものに、相手の使った語彙・語句を活用したうえでの代案を提示することで、「論争」に早くけりをつけようとした。そしてそのことにまず成功したと言って良いだろう。
ヒカリは、ミオにも説得されてライトへの再説得を諦めた。ここでミオはライトのキャラクターを理由に持ち出しているが、それは言ってみれば建前で(も)あり、本当はミオも含む三人はすでにライトのほうを支持していた。その空気を読んだためだろうと思うが、ヒカリはライトへの再説得を断念した。ただここでのそのヒカリの「再説得の試み」や「断念」は発話の形をとっていない。なので、ここでミオのセリフを特に採録はしなかった。ミオの発話が単独でなされただけの格好になっているからだ。しかしミオの行なっている発話が「説得」であることはあまりにも明瞭であろう。
ヒカリが突然、安易に宗旨変えしてしまう場面である。とは言え、その契機に「戦闘」が大きく寄与していることは間違いないだろう。ヒカリが自分のことを「死んだも同然」とか「幽霊」というふうに感じることから離れるにあたって、敵との戦闘というものがどうやら「ありありと生きているという感じ」を与えていて、それが影響したようなのである。
3号(ミオ)が4号(ヒカリ)の独り言に対して「変わらないのはヒカリもだよ」と発話した。これは相手の発話を是認したうえでの、「指摘」あるいは「論点の追加」であると定式化して良いだろう。
4号が「へ?」とごく小声で発話する。これは、「3号の発話がそもそも自分に向けられたもの」であることへの「確認」ではあるだろう。4号のほうは独り言のように述べただけだからだ。それに加えて、「発話の促し」というふうにも定式化できる。「へ?」とだけ述べることは、発話の順番を言わば「パス」する行為でもあるからだ。それによって、4号に発話の続きを促すことができるわけである。
「ライトってどんどん風船みたいに飛んでっちゃうから、私たちもついつられるんだけど、ヒカリがちょっと重しになってくれるでしょ。」という4号の発話内容は、実質的には前回ヒカリの、ライトへの再説得を諦めさせたときのものと、大差は無い。ただ、それが昔の習慣であるというだけでなく、現在でも変わらない特徴であることの指摘であった、その説明にほかならない。また、前回は「だからライトの説得は諦めたほうが良い」という主旨だったが、今回は「だからヒカリのような存在が必要だ」というふうに、肯定的なものに主旨が変わっている。その点で、以前の発言への微修正をはかってもいることになる。ともあれ、3号は4号を「ほめる」ことをしており、その理由をも述べていることになる。
4号の「ここだけの話、俺ほんとは高い所は苦手だから。あんまり飛ばれてもねえ。」という発話は、実は文字通りの意味合いも在ることが後に判明するのだが、普通はここでは比喩上の話と聞くはずのものだろう。実際、比喩上の話として受け取って構わない。とは言え、それだとごく単純に「ライトと自分は水と油の関係だ」と述べていることにもなりかねない。ともあれ、「ライトを食い止める役目」をいつも自分に期待されてもそれはちょっと困るという、軽い「異議申し立て」くらいではあろう。3号が「ほめた」内容に対する「異議申し立て」である。
4号の「幽霊飛行機じゃなくて良かった」という発話は、「高い所は苦手」が文字通りでもあることを、まずは含意できる言い方だ。また、「自分たちは幽霊のような存在である」という見方から離れていないことも、示唆することができる言い方でもある。この発話自体は、「問題提起」というほどの訴求性は無いが、しかし「話題の提供」くらいなら、なしていると言える。
その提供された話題に、すぐさま5号(カグラ)が応接した。「わたしたち幽霊じゃないよ。こーんなにくっきりしてるもん。」これは、4号の発話が示唆していた「自分たちは幽霊のような存在である」という見方への「否定」である。
後続する2号(トカッチ)の「町の記憶は曖昧でも、そこだけははっきりしてるよ」という発話は、まずは5号のなした「否定」に対する「賛同」である。その際に、「こーんなにくっきりしてるもん。」の箇所を肯定し、また、「町の記憶は曖昧」であることはこの点にさほど関与や影響はしないと述べた。つまり、ヒカリが拘泥していた点は大したことではない、と述べたことになる。もちろん理由や説明は抜きでではある。
4号はこれらに対して「そうだね」とだけ述べ、戦闘態勢に入っていく。これを「賛同」と定式化して良いか、が問題となるだろう。何しろ戦闘しながらの会話なのだから、「議論」や「合議」などがまともにできるはずもないのだ。この「そうだね」はだから、これだけ単独でみれば、どの程度の「賛同」なのか、そもそも「やり過ごした」だけの発話なのかは決定できない。後続の発話からの遡行的な推測で、「賛同」や「肯定」であったことが言いうるにとどまる。
会話とは言えないだろうが、後続の段階で戦闘態勢に区切りをつけた4号は「俺たち五人は、確かにここに居る」と力強く言った。こんなにも安易に宗旨変えしたのは、やはり「戦闘」というものが与えるリアリティが大きく影響したということだろう。「記憶が無ければ根拠の在る想像つまり戦闘ができない」という判断は、「戦闘ができる→根拠が在る→それはありありとした現在だ」というふうに転化しうるからだ。
4号は「提案」をし、1号が「快諾」(と「感謝」)した。そういう隣接ペアが成立している。
この種の怪人は、自分の勝利を確信すると、しばしばすぐに「勝利宣言」を行なうものだ。少し前の場面でもこの怪人はやはりその種の「宣告」を行なっていた。
1号の「どうかな。」はその「宣言」「宣告」に対する「再考の促し」であり「疑念の表明」でもある。続く「なあ、ヒカリ」は、その「疑念」に関して「同意を求める」という働きかけをヒカリにする行為である。だから、「発話順番の譲渡」でもある。
ヒカリは「ああ。俺には見えている。根拠の在る勝利のイメージ。」と、ライトに対して同意をするよりもよほどさらに強く肯定的な返事をしてみせた。「怪人が勝利する」のが疑わしいというどころではなく、「自分たちのほうが勝利する」ということがイメージできているというのだ。具体的にどのような「根拠」なのかはいっさい説明されないので、ここでは「とにかく相手を強く肯定した」という「強い同意」の態度が目立つことになる。
1号は「だってさ。俺にも見えた。お前の終着駅。」と発話した。まず「だってさ。」の箇所は、怪人を相手にした発話である。文字だけだとわかりにくいが、これは、理由の「だって」ではなく、引用・言及の「だって」である。これは、怪人が「確信」を提示している事柄に関して、まったくの真逆の確信を提示することで、言わば「やられた分だけやり返す」とでもいうような発話をしている、と見なす。宣言への応酬ということである。この場合、ヒカリの発話に言及することで「他人からはそう見えてるってさ」とでも言い換えられるような言い方をしたわけだ。続けて「俺にも見えた。お前の終着駅。」と、今度は自分自身の見解として、やはり「勝利の確信」に関する、応酬・やり返しを行なった。このフレーズは1号の口癖のようで、他の回でも多用される。
とは言え、この時点では戦況は圧倒的に怪人に有利であり、1号はいくぶん危機的ではある。なのでそのことを踏まえたようにして「えいっ。負け惜しみはあの世で言え。」と怪人は1号に言った。これは1号の応酬に対して否定した、というふうに隣接ペアが成立していると言えるだろう。一連の怪人と1号とのやりとりを概括すれば、「宣言」-「それへの疑念・応酬」-「その否定」とでもいうようにして会話は連鎖を構成している。
車掌が発話する前段階で五人の誰かが、そのような推測を披露したのであろう。その推測に対する車掌の発話は、言わば、引用的に繰り返すことで、「確認」の発話となっている。まず「なるほど」という言い方から開始し、推測の披露に対して、その披露行為自体への是認を与えている。その是認のうえでの、確認の発話とでも言えよう。特に「ないか…と。」で発言を切っている点が特徴的である。このような確認の発話には、通常何かしらのきちんとした体裁の応答が後続することが多い。なので、言わばその「応答の予告」にもなりうる発話である。
「ヒカリの推測ですけど、ぴったりはまりますよね。」というトカッチの発話は、どちらかと言えば、視聴者向けの要素も強いが、ここまで番組で提示されてきたいくつかの手掛かり(車掌やチケットの発言、怪人の発言として聞いた町の少年の証言)とは整合していることの主張である。これは抜き差しならない要素を提示することで、より強く車掌の応答を促している行為である、と言える。「応答の促し」である。
「どうなんですか」というミオの発話も、応答を促している点では同じである。というのも、ここまでのやり取りで、車掌は五人の反対側を向いていたのである。
総じて言えば、車掌は五人の方を反対側を向いたまま話しており、それに対して五人は言わば「詰め寄る」とでもいうような態勢で、応答の促しを行なってきたのである。ともあれ、ミオの発話の直後に、車掌(とチケット)とは、五人の方と対面するように向き直した。その際に「そうですねー」と車掌は発話したのである。これは「応答の予告」にほかならない。
五人が車掌に対して「応答の促し」を行なってきたことに対して、車掌は「応答の予告」でまずは応接した。次には、車掌は「当たり」と言い、チケットは「ハズレ」と言い、ともあれ五人の「質問」に対する「回答」もすることになり、五人が「どっち?」と疑念を呈するわけだが、この点は第三話に持ち越しとなる。
この回では、シャドー幹部のあいだでの会話らしい箇所は一ヶ所だけである。
この二人はどうやら「上司と部下」の関係であるようだ。とは言っても、それは幹部級の間でのランクの差のようだ。なので、ネロがことさらにシュバルツに向かって話しかけを行なわない場合であっても、そこにシュバルツが居れば、その発話は聞こえたもの、さらには応答したほうが良いものとして扱われることにもなるだろう。
「なるほど」という発話は、先述と同様に、まずは相手の発話行為への是認を含む。シュバルツは部下とは言っても、そこまでランクが低いわけではないので、このような言い方が許容されるのであろう。その後、ネロの発言を踏まえたうえでの、「賛意の表明」を含む、「約束」を行なった。部下の側からのこのような未来予告は「約束」と定式化して良いと思う。全体的に、ネロの発言に対して、「全面的な賛同」やお世辞のようなものを特に行なってはいない点に特徴がある。
第02話の主な会話の箇所の記述・描写は、可能な箇所はまだ在ったと思うが、主要なものはだいたい行なったと思うので、ここで終わらせたい。