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「大学生のレポートの書き方」といった話題に、小中高の国語教育の専門家が首を突っ込むとどうも良くない、という印象をもっている人も居るだろう。「コボちゃん作文」などの暴走もそこから起きていた、という面もある。ともかく、ここでは「レポートの書き方」問題と「国語という教科」に関する問題との食い違い方というものを、一つだけ象徴的に提示してみたい。
それは「明智小五郎は実在する。」という命題から考察を開始するか否か、である。「レポートの書き方」という問題からスタートする人の過半数くらいはきっと「事実と意見の述べ方を区別せよ」という世界の住人だろう。その場合、「明智小五郎は実在しない。」という命題から考察を開始する人も、きっと少なくないだろう。というのも、言語哲学がそうだからだ。すなわち、「明智小五郎は実在しない、と一見思える。つまり、『明智小五郎が実在しない。』というのは事実命題なのだ、と素人考えだとなるはずなのだ。しかし本当のところはどうだろう」というふうに議論を進めていく。「事実と意見の述べ方を区別せよ」という世界の人は、おおむねこちらの側に与すると思う。(追記:この立場に近そうなものの例としては、清塚邦彦『フィクションの哲学(改訂版)』(勁草書房,2017)のp76-78で紹介されている「非主張説 Non-assertion-theory」が該当すると思う)
それに対して、小中高の「国語科」は名前こそ「国語」だが、実際にはその過半数は「日本文学」の世界の住人である。彼らのうちの多数派というのは、おそらく「明智小五郎は実在しない、と一見思える」というふうには、考察を開始しない人たちだろうと思う。というのも、文学作品のあらすじをまとめることと、論文や評論文などの「要約」をすることとを特に区別していないことが多いからだ。その「あらすじ」には「明智小五郎はお茶の水の開化アパートに住んでいる。」という文が登場しうるし、強く意図することなくこれを「事実を述べたもの」と同じ扱いできっと遇するだろうからだ。この世界の住人の多数派というのは、「実在するかしないか」「事実であるかないか」という点を問題としてとり上げたりそこで態度を区別したりしそうに、あまりないのだ。
「レポートの書き方」界と「国語という教科」界の住人の違い、というものがこの面に尽きるかどうかはわからない。だが、問題の所在をかなり端的に表示している事柄だとは思う。「論理国語」という新教科に関して限られた人がいろいろな事を述べているが、筆者は今のところそれには関心が無い。関心があるのは、この違い方のほうだ。「明智小五郎は実在する。」と「明智光秀は実在した。」とを特に区別せずに扱う世界の住人が、今後「論理国語」を担っていくことになる。そこで「大学生のレポートの書き方」界の人たちとの間に食い違いが起こることくらいは事前に予測できるに決まっている。その辺に対して、識者がどう考えているか、が隠れた争点になると思う。
なお、この内容に関連するページを新たに「心的状態語・心情語の児童期での獲得におけるフィクションの絶大な効用」として書いたが、おそらく整合しきれていない。なので、本稿には今後、修正をほどこす可能性が有る。