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PISAの出題は要改善のものだった 検討されない「語彙の意味」の後半で示唆されていた事柄が在る。その事柄とは、「納得させる」という単語の意味がもし日本語と英語とで著しく異なっていた場合、その単語が選択肢に含まれた試験成績の国際比較なんて本当にできるの?、というものだった。
たとえば、虹の色数からして言語体系によって異なることは周知の事柄である。或いは日本の青信号が緑色でありながらそうは表現しないことも周知の事柄である。また、昔は虫のなかに蛇も含まれていたとか、犬のなかに狼も含まれていたとか、いくらでもそういうことは言い募ることができる。日本語では「お湯を沸かす」と言うが、「水を沸かす」と表現する言語もきっと在るだろう。物的な事象ですらこうなのだから、まして「納得させる」という単語の意味用法が万国共通の取り違えようのない明確不動なものである、などと言えないことはあまりにも明らかだ。
さて以下では、そのことを述べるための典拠としては渡辺雅子著『納得の構造』(2004,東洋館出版社)はあまり役立たないのだ、というつまらない自論を述べる。ようするに、この本を根拠にして「“納得させる”の意味は日本語と英語とで違う」ということをきちんと述べることは無理だ、ということを述べる。非常に限られた読者以外にはなんの興味ももてない話題だと思う。
ところで…、以下の立論が少し唐突ですんなりとは読みにくいため、状況説明になるような補助的な内容をここに挿入する。
ここで私が念頭に置いていたのは次のような架空のケースです。
「浅田真央はアイドルである。」という主張が假に在ったとして、これに対して賛成の者と反対の者とに分かれて対立するというケースを想定してみる。すると、この対立の要因として、二種類のものを想定することができ、その二つはさしあたり区別しなければならない、が、しかし本当に区別できるのだろうか、という「問題」を提示することが可能なのだ。
対立の要因その一は、「アイドル」という語の使用規則に関する対立である。それに対してその二は「浅田真央」に関する事実認識についての対立である。それによって四通りの立論を考えることができる。それは次のようになる。
ここで多くの人が見た時に、まず立論の根拠となっている「事実認識」の部分に関して、立論1と4とには違和感を感じることが多いと思う。「浅田真央は実力が無い」とか「浅田真央は人気が無い」というのが事実と異なるように思えるからだ。これらの立論に対しては、まず事実認識の点で批判をしたくなるであろう。
それに対して、立論2と3とは、「事実認識」の点では問題無さそうに見える。しかしこの二つは結論が真逆になっている。その理由は「アイドル」という語の語用規則がこの二つで対立しているからである。
立論2が使用しているのは「Xに人気が在れば、Xはアイドルと呼んで良い」という語用規則である。それに対して立論3が使用しているのは「Xに人気と実力とが在る場合は、Xはアイドルとは呼ばない」という語用規則だ。そして、この規則が潜在させている、よりおおもとの規則というのはおそらく「Xに人気だけあって実力が無い場合になら、Xはアイドルと呼んで良い」というものだろうと推定される。いずれにせよ、立論2と立論3との対立は事実認識に関するものではなく、「アイドル」という語用規則に関するもののように思えるわけだ。
だから、議論における対立が在った場合に、その対立の要因が事実認識に関するものなのかそれとも語用規則に関するものなのか、その区別をつけることが重要であると言えるのだ。
ところが、この二つの違いかたが本当に根本的なものなのか実は少々疑わしいとも言うことができる。
というのも、上述の立論2と立論3との対立も、単に語用規則に関する対立というだけでなく、事実認識に関する対立を含んでいると言いうるからである。
立論2が使用していた語用規則は「Xに人気が在れば、Xはアイドルと呼んで良い」というものであった。ところがこの語用規則は実は「多くの人は、Xに人気が在れば、Xをアイドルと呼んでいる」または「多くの人がXをアイドルと呼んでいるときに、Xには人気が在る」という「語用に関する事実」を前提しているとも言うことができる。同様に立論3が使用していた語用規則「Xに人気だけ在って実力が無い場合になら、Xはアイドルと呼んで良い」も、「多くの人が、Xに人気だけ在って実力が無い場合に、Xをアイドルと呼んでいる」または「多くの人がXをアイドルと呼んでいるときに、Xには人気だけ在って実力が無い」という「語用に関する事実」を前提しているとも言える。そうすると、この二つの立論の対立もまた、事実認識に基づくものだと言うことができるわけだ。
ただしもちろん、「条件Aを満たすときにXをMと多くの人が呼ぶ」などという事実は成立していないが、しかし私は「条件Aを満たすときにXをMと呼ぶ」という語用規則を使うのだ、というケースも在りうる。たとえば「流れに棹さす」は多くの人が間違って使っているはずだから、私は「辞書的に正しい」語用規則に従って使うのだ、という場合が在りうる。ただしこれはやや異例の事態であり、通常は語用規則は語用に関する事実に依拠していると想定されている、と見て良いと思う。
また反対に、立論1と4に見られる違和感というのも、単に事実認識の相違に起因するというだけでなく、実は「浅田真央という固有名詞」についての語用規則が食い違っている、というふうに述べることもあながち不可能ではない。ただし固有名の語用規則の場合、状況次第でころころ変わりうることも在るので、固有名でない普通の単語での語用規則ほどの安定性は無い、したがって固有名詞の語用規則というふうに捉えるのは適切ではない、というふうに主張することも可能かもしれない。
以上、丹治信春『言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ』(1996,勁草書房)(amazon)の基幹的な問題意識に基づく議論を定式化してみた。ただしここで与えている「解答」は、この書による論点よりもっと「手前」に位置するようなものに留まっている。
さて、今多くの読者が関心が在るとしたらたとえば次のような問題である。こうだ。現在の文章教育のなかには「結論を先に書け。パラグラフの最初を必ず結論にせよ」という教条が在る(例:倉島保美・戸田山和久…等)。何かものを述べるときはたとえば「浅田真央はアイドルである。なぜなら実力が無いからだ」というふうに書け、まちがっても「浅田真央は実力が無い。したがって浅田真央はアイドルである」とは書くな、ということになるわけだ。万が一皆さんは知らなくても、皆さんのお子さんのなかにはこのように教わっている(いた)生徒が必ず含まれている。だからこういう生徒の文章を眺めると「なぜなら」ばかりが頻発し、「したがって」「だから」「そういうわけで」といった接続詞はめったに見られないはずだ。段落冒頭文のみをつなげていく(つまり「飛ばし読みする」)時にしか登場しないはずなのである。
『納得の構造』に書かれているのも、それと類同的な事柄だろうと思う人がいるのかもしれない。たとえば、
上記のように書かれているという予断は、著者の渡辺が「叙述の順番」という語を折に触れて使うことから来ている。しかし渡辺は、「なぜなら/したがって」とか「because/therefore」とかの相違といったテーマに実際にはまったく触れていない。実際に登場するのは、「Aなぜなら(because)B」と述べるアメリカ人生徒と「Aそして(and)BそしてCそしてD」と述べる日本人留学生の対比に過ぎない。つまり、becauseを使った論文が認められて、thereforeを使った論文に対して「No Ability」と断定されたわけではない。「No Ability」と断定されたのは「Aそして(and)BそしてCそしてD」という叙述の仕方に関してだ。だからこれは叙述の順番とか、思考の順番という話題ではないことになる。「because」と「and」の違いに過ぎないのだ。つまり語順の話ではないのである。だから、もし日本人留学生が「therefore」を頻発して結論がパラグラフの最後に必ず来るように統一して書けば、「No Ability」と判定されなかった可能性は在るわけだ。
いや、まったくもって日本の生徒やその親が知りたいのは「therefore」を頻用して、結論を首尾一貫してパラグラフ最後に述べる論文がアメリカ人にどう判定されるか、であるのにもかかわらず、そういう関心には応えていない本なわけである。
またもちろん「したがって」「だから」といったいかにも自然な日本語の単語を段落冒頭文以外一切使ってはならず、使ってよいのは「なぜなら」などという単語感ゼロ(複合語感満載)の変な接続詞だけだ、という問題も扱ってはいない。別名、「“because”に対応する自然な日本語の訳語が存在しない問題」とも言いうる、そういう問題の存在に気づいている気配が無い本なのである。
この本に対してはほかにもいろいろ改善可能な箇所は在る。たとえば「因果律って言うのは誤りである。原因と理由とはきちんと区別してほしい」とか「演繹的作文というときの演繹的には必ず括弧をつけて“演繹的”作文とかいうふうに表記してほしい。だってそれって文字通りの演繹ではないはずだからだ」などが在る。ただ、いろいろな事柄を多く述べてもしようがないので、あと一点だけ述べる。
それは4コママンガとその説明文を読んで作文する出題に関してだ。渡辺はこの出題調査から、「日本人生徒は時系列的に物事を把握するのに対し、アメリカ人生徒は因果関係で物事を把握する」というような総論にもっていきたいようなのである。だがp29(やその周辺)の考察には違和感が在る。
出来事の省略に関して日米で統計上有意な差が認められたのは、二つの課題を合計した場合の最初の出来事(出来事#1)と最後の出来事(出来事#4)だった。二つの課題の合計において、日本の児童は最初の出来事を最も省略しないのに対して、アメリカの児童は最後の出来事を最も省略しない傾向が見られる。この対比から、日本の児童は最初の出来事を重視するのに対して、アメリカの児童は最後の出来事を重んじる傾向があると言える。この結論は、日本の児童が条件課題でも、最初の出来事から順番に述べてゆくのに対して、アメリカの児童は結果に近接することがら(出来事#4)を原因として、選択して述べるという先の実験で確認されたパターンと呼応している。
次に省略の数を単純に比較すると、両国の児童ともに、自由課題より条件課題で多くの出来事の省略が見られた。しかしながら、アメリカの児童が自由課題に比べて条件課題で十一倍の省略を行ったのに対して、日本の児童では五倍強にとどまった。この二つの課題間での省略の変化のパターンからは、アメリカの児童の方が、二つの課題の「語る目的の違い」を明確に意識して作文の構造に反映させていると言える。
しかしこの考察をそのままストレートに受け取ってはいけないだろう。というのは、出題文には次のような文言が記されているからだ。p19の図2の最後の文言である。
(書く前にまず四つの絵をすべて見てから書き始めて下さい。)
日本の児童だった人なら多くの人はまあわかると思う。↑こういう一言が書いてある課題で、どれかのコマを省略して書くことなど、よほどの度胸の在る生徒でないとまず無理だ。この一言は、「与えられた条件をできるだけ全部活かしなさい」という指示にほかならない、と日本の生徒なら受け取るはずだからである。そもそも一般に、日本の生徒は、「不必要な情報が書かれた試験」になじみが乏しい。なじみが在るのは、試験に記載された情報ならできるだけすべて活用して解かないとならない、という試験のほうなのだ。一方、アメリカの生徒はこの渡辺本の他の箇所から推察するに、その正反対である。アメリカの生徒なら「不必要な情報をきちんと省略できるかどうかを試す試験である」と決めてかかって読むだろう、と推察できるのだ。アメリカの生徒はそういう教育に慣れている。
ようするにここに在るのは、日米の試験の在り方の違いであって、物語理解における叙述の順序効果という話ではない。そういう疑いが強いわけだ。その疑念だけ指摘しておこう。もちろん同じ疑惑はPISAにも指摘可能なわけだ。というのも、PISAの出題にもまた、「与えられた情報をできるだけ活かそう」などと考えると脳がフリーズしてしまうような出題は在ったからだ。
「納得させる」という語(と等値される英単語との間で)もきっと、日米とでその意味用法はしかるべく異なっていることだろう。しかし、それについての知見を『納得の構造』から抽き出すのは無理が在る。だから、パラグラフライティングの擁護にも批判にもこの本の分析結果は役立てることはできそうにない。
なお、この件に関連する話を「教科学習だけではつかない国語力」のなかの後半の節「内容面での国語力の要その2:「出題者がどのような能力を測ろうとしているのかが理解できないと、出題文の重要語の語用規則が回答者にわからない、という出題において、出題者の意図を理解する能力」」に書いた。多少参考になるかもしれない。