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PISAの「読解力」部門の出題は要改善のものだった、特に「語彙の意味」という問題圏に関して要改善だった、だからPISA型学力という少し前までの流行も上滑りのものだっただろう、…という診断のもと、そういう過去を清算するためにこの文章を公表する。
その際に、『PISAの問題できるかな? -OECD生徒の学習到達度調査』(明石書店,2010)(amazon)を参照する。また、ウェブで閲覧でき保存できるリソースにPISA調査(読解力)の公開問題例(文部科学省)(PDF)が在る。
PISAの出題が要改善な理由には、もともとの原文での出題が要改善である場合と、日本語訳が要改善である場合とが、両方在ると思う。ただ、結局は、どちらなのかをはっきりと決めにくいものが多いと言える。いずれにせよ「PISA型学力」なる語の跋扈していた時代は「失われた教育の十年」を作ってしまった、というふうに私は診断する(例:言語力検定)。とりわけ石原千秋『国語教科書の思想』(2005,筑摩書房)(amazon)が知識階層の人々に予断をだいぶ与えてしまったはずである。なので、その修正をこの文章で図る。また、小中学生相手の教育現場では、むしろ「反-石原」的な連中によってPISA型学力の推進がなされた。そこでは、石原の著書の問題点を検討すること無く対抗意識だけが先走っており、かえって傷口を広げてしまった。
この元記事をはてなダイアリーに掲載していた際、紹介してくださった記事、【新共通テスト記述式】大学側が採点する方法に反対する-特に採点の観点から-,『rochejacmonmoの日記』に感謝したい。
この問題が解けるためには、次の「語用規則」によって問題文が書かれていることに気づく必要が在る。
“「水面」が「上昇」する”=“「水深」が「浅く」なる”=“「水位」が「低下」する”
つまり、出題中の「水位」という語が、日常的な使用法と正反対の仕方で定義されていることに気づく必要が在る。というのも、日常的な日本語の用法では、「水面が上昇」したときに「水位が上がった」と表現するからである。そして、その日常的な語用規則を忠実に持ち込むとこの出題は解けない。なぜこういう語用規則になるのかと言えば、グラフ上の数値に「負の数」を入れないためだと思う。数値は全部「正の数」(絶対値)にならないと、数学学習上の点で無理が在ると出題者が考えたからだろう。
で、たとえば上記の規則を理解していないと、問3を解くときしっくりした感じをもてない。問3は「湖の出現」を問うている。さて、湖という語の使用規則のひとつは、「地面より水面が低い場合」にしかそれを湖と呼ばない、ということである。もし水面のほうが(顕著に)高いなら、それは湖ではなく洪水とか津波(とか特殊なプール・ダム・噴水等)と呼ばれることになる。また、もちろん、そもそも水自体が存在しなければ、「湖の出現」は無い。というわけで「湖の出現」→「地面より水面が低くなり始めた時点」ということになるはずである。もし逆ならそれは「湖の出現」ではなく「洪水の発生」か「渇水」ということになる。…と、そういうことから、湖が存在するかしないかという関心に沿った形で「水面が地面よりどれだけ低いか」を「正(+)」方向にとった特殊なグラフができあがり(ここまではいい)、その値をこともあろうかこの出題文では「水位」と呼んでいるわけである。そして、問3を解くときは、グラフ上の「水位」の高低と実際の水面の高低とが真逆であることを理解しないと解けない。
問5の次の選択肢を検討するときにも、上記の語用規則を継続して理解している必要が在る。
B チャド湖の水位が最高だった期間の中ごろ
C チャド湖の水位が1000年間に渡って低下し続けた後
なぜ上記の規則を理解していないといけないか、というと、用法が日常的なものとは正反対だからである。つまり、この選択肢の文を読むときに、上記のことをすっかり忘れていると、選択肢の文意が「水位が最高だった期間」→「水面がもっとも低かった期間」、「水位が低下し続けた後」→「水面が上昇し続けた後」であることに気づかないからである。ただ、グラフとにらめっこしながら問3のことをすっかり忘れた頭で解くなら、この出題も案外間違えない。しかし、もし問3の記憶だけ引きずっていて語用規則のほうに意識的でないと、混乱すると思う。問3で「実際の水面の高さ」について想像する習癖がいったんついてしまっているからだ。この習癖を振り払って、グラフ上の高低だけを考えるようにしないと正解しづらくなるというわけだ。
で、これだけでも私は嫌な感じを受けたのだが、加えてもう少しまじめに検討してみると、これだけでは済まないことに遅まきながら気づいた。それは「水位」という語を日常的な使用規則に従って使われている設問が同時に出題されているという事実が存在することである。それが、8「贈り物」だ。
その後、川自体の水位は初めゆっくり上昇し、次に少し落ち着くと、引いていった。
今や水は土台のタール塗りの厚板にまで達し、水位はなおも上昇していた。
ここでの「水位」が日常的な用法であることを、受験者はどうやって確信すればいいのだろうか。
「チャド湖」の記憶が新鮮なうちはたぶん確信は無理だろう。反対に、チャド湖のことを都合よく忘れた頭で日常的な用法に何となく従えば、あまり迷わないだろう。だから、与えられた順番に従って解いていけば、あまり混乱は起こさないと思う。間に設問が何題も在るので、その間にうまく忘れることができるだろう。
もちろん第2段落には「洪水」という語も使われている。だから「洪水の水位」なら「地面より高いほうが、より“水位が高い”と表現するはずだ」と考えることも可能だ。第1段落の「水は道路を呑み込み」や、第2段落の「川は、土砂降りの雨に洗われて、その広がりのどこかに消えてしまった。」などの叙述と併せて考えて、「水は増え続けている」と信じることもできる。そしてそれに整合するようにして「水位が上昇する=水面が上がる」と捉えることも可能である。
さて、「チャド湖」→「贈り物」の順番で解けば、おそらくそれほど混乱することは無い、と言える。特殊な用法なのは「チャド湖」のほうであり、それはグラフとにらめっこで解くことで、意識しないまま正解できる可能性が在る。しかし、受験生のなかには「贈り物」→「チャド湖」の順番で解く者がいたかも知れない。しかも、直後にだとしよう。さて、その場合正解率はどうなったのであろうか。というのも、「贈り物」は日常的な用法でありふつうなら混乱しないが、しかしその直後に「チャド湖」を解けばこちらで混乱する可能性は飛躍的に高まるはずの出題でもある。なぜなら、当然のようにして「チャド湖」も「贈り物」と同じ語用規則で解こうとするはずだからである。
ここまでの叙述で、PISAの出題のなかに、「解く順番やインターバルによって正解率が変動しうる出題が在る」ということを指摘してきた。出題された順番に素直に従っていけば、「チャド湖」→「他の問題」→「贈り物」となって、用法の違いの影響は小さくできる。その反対に「贈り物」→「チャド湖」→「他の問題」などという順番で解けば、正解率に著しい影響が出うる。その展開は当然予想できることだ。というのも、用法の違いがもっとも影響するだろう順番だからである。
「チャド湖」の「水位」と、「贈り物」の「水位」とで原語で同じ単語だったのか、それとも違う単語だったのか、などそういったことはわからない。つまり日本語訳が問題在りなのか、出題のおおもとが問題在りなのかは、わからない。だがともあれ、「水位が上昇する」(「贈り物」)と「水位が低下する」(「チャド湖」)とがほぼイコールの文意であるような出題でありながら、そのことに一般に気づかれていない。そして出題側もおそらく関心を払っていない。…という、この出題はかなり拙劣である。意図的に「順序効果」を計測しているのなら別かもしれないが、しかしそういう話を聞いたことは特に無い。出題を検討している人も、出題された順番で検討していてたぶん気づいていないのであろう。ともあれ、以上の問題性を孕んでいながら、そのことに気づいていない多くのPISA信者は考えていなさ過ぎである。
おそらく原文そのもの以上に日本語訳のほうがひどすぎる。特に「消費者」・「代金」・「コミュニケーション」の3つがひどく、また「よい」という訳語も日本の生徒ならミスリードされうるものだ。
まず「消費者」。「ソフィアの手紙」のなかの「消費者」という語がとにかくわかりにくいのである。そしてこれは「落書きのための代金」という語句のわかりにくさと、ワンセットである。
落書きのための代金はだれが払うのでしょう。だれが最後に広告の代金を払うのでしょう。その通り、消費者です。
「消費者」というのが「何を消費したのか」がとにかくわかりにくい。すさまじい説明不足であるわけだ。そしてそれと連動しているのが。「落書きのための代金」「広告の代金」という表現のわかりにくさである。私は「解答例」を見るまで、完全に違う意味で捉えていた。結論から言うと、「広告の代金」というのは、「広告の提供者が広告を出す場の権利者に払う」金銭のことである。つまり、「広告を見た人が広告の提供者に払う」金銭のことではない。もしそうであれば、消費者というのは、広告の提供者のことなわけだから、「消費」するのは、「広告を出す場」になる。つまり、いっけんすると、ここでの「消費者」というのは、「広告を見る人」のことのように思われうるが、この場合は違うわけだ。そして、これと並列的な形で考えろということなのである。ならば「落書きのための代金」というのは、「落書きの提供者が落書きをした場の権利者に払う」金銭、つまり端的に「罰金」のことを指している。「落書きの消費者」というのは、だから、「落書きを見る」人ではなく、「落書きをした」人のことであることになる。
以上の解釈が「当たり前じゃないか」と思った人は、出題文が以下のようであった場合と比較せよ、と私は言いたい。
落書きのための代金はだれが払うのでしょう。だれが最後に映画の代金を払うのでしょう。その通り、消費者です。
このような場合「映画の消費者」というのは、通常だと「映画を観た人」だと思うだろう。だがそうではなく「映画を提供することによって映画館のスクリーンを“消費した”人、つまり映画の配給者」になる、というわけだ。なぜなら「落書きのための代金」というのが、落書きを見た人が払う代金ではなく、落書きをした人が払う代金のことだから、である。骨格を同じままにしておき変数だけ書き換えると、いかに出題文が「説明不足」なのかがよくわかる。映画だと観客が自分の意思で観に行くから完全に類比的にならないと思う人は、代わりに「大道芸の消費者」とか「街かど紙芝居の消費者」を想定していただきたい。
このように語意を確定するためには、「解答例」を私は必要とした。次のような文が問3の「正答」の一例とされていたことでようやくわかったのである。
ソフィア。落書きアーティストに罰金を科しておきながら、その一方でかれらのデザインをコピーして金もうけするのは偽善だと思う。
この解答例が「正答」とされていたことによって、はじめて私は文中に「罰金」の話題が在ったことに気づき、そのことから遡及的に推測して、上のような見解を得たのである。
「落書きのための代金」とは、「落書きをしたことによって支払うことになった金銭」の省略表現であった。つまり、「落書き作業単体にかかった経費(ペンキ代など)」のことでもなければ、「落書きを消すための必要経費」のことでもなかった(私は解答例を見るまではこう解していた)。「消費者」というのは、「場を消費した」人のことであり、したがって「落書きの消費者」というのは、「落書きを見ることによって消費した人」のことではなく、「落書きをすることによって消費した人」のことであった。
「コミュニケーション」という語もすごくわかりにくい。「コミュニケーションの問題ではないでしょうか」という言い方をするならばその場合、たとえば「落書きをする人が、事前に権利者に許可をとるコミュニケーション」のことも含んでも良いはずだが、そういうことは、文中では考慮されていない。ここで言う「コミュニケーション」というのは、もっぱら「落書きをした人が、落書きのメッセージを通じてそれを見る人に対して働きかける」というあり方に限定して指しているのである。それをそもそもコミュニケーションと呼ぶのかどうかからして議論の余地が在る。おそらくここでの「コミュニケーション」というのは事態を表現する語というよりは、評価を下すことに主眼の在る二次的評価語なのであろう。
きわめつけは問4である。
手紙に何が書かれているか、内容について考えてみましょう。
手紙がどのような書き方で書かれているか、スタイルについて考えてみましょう。
どちらの手紙に賛成するかは別として、あなたの意見では、どちらの手紙がよい手紙だと思いますか。片方あるいは両方の手紙の書き方にふれながら、あなたの答えを説明してください。
「よい」がポイントであろう。解答例を見る前からこの「よい」は、「好い」「心地よい」の意味を含むのではないかと私はうすうす思っていたが、やはりそうだった。「善い」「良い」もアリなら、「好い」「心地よい」もアリなのだ。現に、次の回答が「正答」の例に入っていた。
ヘルガの手紙の方が好きだ。ヘルガの方が意見をはっきり述べている。
あともう一つ、採点側の態度がすごくよく現れているなあ、と思ったのは次の「正答」だ。
ソフィアは、強い議論を出しているが、ヘルガの手紙の方が構成がしっかりしている。
さて、確認しよう。最初の正答例では「意見をはっきり述べている」というのは、「内容ではなく書き方」の範疇に入ると解するほか無い。なぜなら設問が「書き方」にふれ」ることを要求しているのだから、これが「正答例」である以上、「意見をはっきり述べる」というのは「内容ではなく書き方」だと扱っていることになるからだ。
それに対して、二番目の正答例では「強い議論を出している」のは「内容」に該当し、「構成がしっかりしている」というのは、「書き方」に該当する、と解することができる。というか、そう解さないと「正答」にはならない。両方とも「書き方」に該当するのであれば、「どちらの手紙がよい」かの回答にはなっていないからだ。つまり「書き方」に言及しているほうを「よい」と見なしていると判断するしか無いからである。
「意見をはっきり述べている」というのは「書き方」であり、他方、「強い議論を出している」というのは「内容」である、という「正答」の基準は、いったい誰を納得させることのできる基準なのか。誰をも納得させることはできないではないか、と思う。言えることは、こんな出題に「無答」で報いた(そうせざるをえなかった)日本の受験生が「批評精神が無い」と言われる筋合いは無い、ということである。「批評精神が無い」のはどっちなのだ、と言ってもいいほどだ。
石原千秋が慨嘆していたのは、文章全体の目的をたずねる問3の誤答率が日本が顕著に高かった点についてであった。なので、この問いのみ検討しておく。ちなみに石原はこの文を「事件を解決した文」と紹介している(石原本:p50)が、これは誤りで、実際には「こういうふうな解決策をとっている」という(それこそ)「情報を伝える」文である。もし「解決した文」なら過去形の動詞が頻発していないとおかしいわけだが、この出題文では動詞は現在形ばかりが目立つ。
正答は「情報を伝えること」なのに対し、日本の受験生は「納得させること」の誤答が多かった、ということを石原は嘆いている。日本の教育事情を嘆くのはまあいいとして、この問いに対するコメントとしてはお粗末だ。
なぜお粗末なのかと言うと、ここでの「納得させる」というのはイコール「論証」「実証」である、ということが暗黙の前提になっていて、そのことが「試験問題に書かれていない」ことこそが問題だと思うからだ。この試験問題を作成した人の文化圏では「納得させる→論証・実証する」ことにほかならない。ということは、英単語なら「because」やその類語が文中に在るか無いかを調べれば正答は機械的に分かるのだ。「because」が使われていれば文の目的は「納得させる」こと、「because」が無ければ「情報を伝える」こと、という、その程度の設問なのである。もし「because」が形式的に使われていても、理由と主張とが内容的につながらないとしたらどうなのだ、と思う人もいるかもしれないが、この設問では「文章の作者の目的」を聞いているだけだから、その心配も無用である。作者の目的が実際に達成されているか、という設問なら、そういうことも考慮する必要が在るが、しかし、作者の目的を聞いているだけの設問なので、機械的・形式的に「because」相当の語句が使われているかだけのチェックで充分である。だからかどうか、この冊子においては正答の記号のみが記され、問題の「解説」は皆無である。
「命題Aを納得させる」ということは、つまり「命題Aが正しいという理由・証拠を伝える」ということでもある。つまり、「納得させる」ならば「情報を伝える」の要素も含まれている。理由や証拠は情報だからだ。他方、「命題Bという情報を伝える」ことなら「命題Bの詳しい説明をする」ことも含まれ得るから、「納得させる」の要素を含まないとまでは言えない。詳しく描写すること、詳しく紹介すること、も、「納得させる」の一構成要素に入れても良さそうだからである。だから、本来ならば、「情報を伝える」と「納得させる」は、もっと迷って良いはずの二択だ。でもそうではない。英語圏の教育事情、常識からして、「納得させる→論証・実証する」であり、それは「because」等の有無で機械的に判断できることであるからなのである。
石原は、虹を7色と見なす言語体系と3色と見なす言語体系があった場合、どちらかがより優れた言語体系である、とは見なさない立場だったはずだ。ならば、「納得させる」とか「情報を伝える」についても同じことを想定してしかるべきであろう。つまり、英語圏での「“納得”させる」に匹敵する語と、日本語の「納得させる」という語とで、異なっていた場合、どちらか一方がすぐれた概念であり、もう片方が劣った概念である、とは石原は見なさないはずだ。そうであるならば、英語圏なら「納得させる」に匹敵する英語語彙が誤答になる試験であるからといって、日本語訳された試験においてもこれが誤答である、と見なすことは、単純にはできないはずだ、ということになる。念のため言っておくと、私は日本語での試験においても、「情報を伝える」が正答でいいと思う。そちらの方がまともだからだ。でも、「納得させる」が誤答である、というのならその判断こそが誤りだ。「納得させる」は誤答ではありえない。「情報を伝える」のほうが、より無難であり、何にも抵触しないで済むから、こちらが「正答」というので良い、ということでしかないのである。「納得させる」を誤答にしたければ、目的語を明記すべきである。「何を」納得させたのか書いていない以上、これを「誤答」と見なすことは独断でしかない。書いていないからだ。納得の目的語が書いていない以上、誤答と断定することもできないし、正答であると自信をもって回答することもできない、だから「情報を伝える」が正答でいいじゃないか、というのが私の判断である。
私は、PISAの出題や結果の総合的な診断には関心は無い。ただ、この学力調査に「読解力」という名前(和訳?)が付けられた、そのためかどうかわからないが、国語科教員の有資格者が推進の一翼を担ってきた。そのことの悪影響のようなものも生じていると思った。だからそれだけは清算しておきたかったのである。その悪影響は「語彙の意味」という論点に集中的に表れていた、と私は考える。だからここではそういう方面の検討だけ行なった。国語科教員の有資格者であり、国語科教科書の編集にもかかわっている石原が、「語彙の意味」という分野に弱点を抱えていたことはいっけん不思議のようであるが、私には何の不思議も無い。そのことはこの文章の姉妹編とも言える「ことばの意味」はどう教育されているかをお読みになると感得されると思う。国語科という教科の専門家が「語彙の意味」という分野をよく理解しないことは、実は構造的なものである。つまり、「ことばの意味」についての学術的な知見を学んだ人材が国語科教員になれないように設定されている、という構造的な問題が背景に在るのである。それはこのサイトで何回でも述べている話だ。
「警察」という出題文に関する新たな論点を「教科学習だけではつかない国語力」のなかの後半の節で書いた。節名は、「内容面での国語力の要その2:「出題者がどのような能力を測ろうとしているのかが理解できないと、出題文の重要語の語用規則が回答者にわからない、という出題において、出題者の意図を理解する能力」」である。併せて読んでほしい。(2020/01/05)