二度目以降のアクセスの場合、リロードを推奨します。参考:ホームページを更新したのに「内容が変わっていない!」を解消するスーパーリロードとは
主に2015年以降、政治的状況・各種環境状況が徐々に或いは急激に変化しています。そのため以下の内容は(特にテレビ朝日系は)現実に少々または多々そぐわない場合が随所に見られるようになっています。ともあれ、「各放送局ごとの方針」と見なされうる特質というのも、「全体バランスを判断したうえで、何者かによって上手に調節された、程度の差に過ぎないガス抜き装置」だった可能性を念頭に置く必要が生じていると思います。(2020/02/22)
このページはテレ朝系局主題歌の男女平等(前半)の続きです。
前回「テレビ朝日は脱学校的で恋愛重視/保守系局は学校優等生重視であり恋愛には消極的・否定的」という假説を唐突に提案してみました。ところが実は、この假説にいっけん適合しないように見えるケースが在ります。
同じ原作に依拠した番組が、テレビ朝日系局とテレビ東京系局とで放映されたというケースが在り、これが適合しないと思えるケースです。さて、この主題歌映像を両局で比較してみると、「テレビ東京のほうがテレビ朝日よりも恋愛の要素がより強まっている」ように見えるのです。つまり假説にそぐわないように思えるのです。
以下はテレビ朝日のほうの主題歌映像です。
テレビ朝日のバージョンが別に特に「恋愛軽視」のように見えるわけではありません。ただし「恋愛の予感」こそ充分に在るにせよ、「恋愛未満」のようには見えます。すなわち、次に示すテレビ東京のバージョンと比較するとそう思えてきます。
テレビ朝日の映像と比べ、テレビ東京のほうがハートマークの強調や女子のおこなう(人形相手の)キスなど、恋愛の要素がだいぶ強まっていることがわかります。そもそもテレビ東京のほうは番組タイトルにもハートマークが入っているのです。
他の保守系局にもそのような映像が在ります。たとえばフジテレビの次に示す主題歌映像がそうです。女子の方からのキスシーンが在り男子もいくぶん嬉しそうです。
「保守局のほうが恋愛軽視であり、テレビ朝日系局のほうが恋愛重視である」假説を示すためには、以上のケースを適切に説明できる必要が在ります。なぜなら、これらのケースは假説に反しているように思えるからです。
結論から書いてしまいましょう。「思春期以前か思春期以降か」という区分、これです。大まかに言って「小学生くらいまでなのか、それとも中学生以上なのか」です。テレビ局は、恋愛や性愛的な要素を主題歌映像で流すときにこの点に大変こだわっている…と、そう推察するのが妥当なのです。そして、その区分のいずれに該当するかによって、恋愛・性愛の要素へのスタンスが同じ局でのものであっても対照的な結果になるのです。
したがって、登場人物が「小学生以下」の場合だと、通常と反対の傾向になります。つまり恋愛・性愛要素を小学生が肯定的に体現しているような主題歌映像は、保守系局のほうで見られることになるのです。それに対して、テレビ朝日系局ではそういう傾向は見られないようです。すなわち今回のケースも恋愛要素を否定はしていませんし予感はさせていますが、はっきりと描写はしていませんでした。はっきりと描かれているのは同志愛とか友愛のようなところまでだったと言えます。
ここで前回のコンテンツとの整合性を確認します。「テレ朝系局主題歌の男女平等(前半)」で恋愛重視と説明した『セーラームーン』は、設定では主要登場人物は小学生ということにいちおうなっているようです。とは言え主題歌映像では登場人物は制服を着ており、すでに中学生以上に見えます。見かけは大事です。また、恋愛の「相手」が同級生などではなく、「おとな」(青年)であることも示唆されているようです。なので、先に見たような「小学生どうし」のものとは区別する必要が在りそうです。つまり、テレ朝にとっては『セーラームーン』は、思春期以上の登場人物であり、したがって恋愛重視・恋愛肯定というスタンスで放映されてもおかしくない、ということになると判断できるのです。
ところで、そもそも本論全体の假説は「テレビ朝日系局のほうが保守系局よりも“男女平等”の程度がより高いレベルのものである」というものでした。「テレビ朝日は脱学校的でありしたがって恋愛重視/保守系局は学校優等生重視でありしたがって恋愛には消極的・否定的」という假説はその枠内の話だったわけです。なので、次のように整理可能です。「テレビ朝日系局は、男女の高いレベルの平等を描くための手段として、(中学生以上の)男女の対等な恋愛という映像を放映する。それに対して保守系局は、それをしない。」、ひとまずこんな感じにしておきましょう。そして「男女の対等な恋愛という映像」の否定形にはいろいろなパターンが在ります。
次のテレビ東京系の主題歌映像を一つの糸口にしてみます。これもその「対等な恋愛の否定形」の一つのパターンです。
以上は、小学生程度と見られる男子と女子の恋愛の「成就」が描かれている…と見ることが可能な映像です。ただし、この「成就」が当人たちの達成ではなく、「他力」であることの描写だった、というわけです。つまり、恋愛当事者によって恋愛が成就するのではなく、このぬいぐるみのようなキャラクターによる力業によって初めて恋愛が成就する、という映像だったわけです。そういうわけで、小学生以下の年齢層の恋愛要素を肯定的に描くテレビ東京系であっても、このような否定形方向の映像を放映しうる、…このことにひとまず注意しておきたいと思います。
片想いには二種類在ります。「片方が熱烈に想っている」という片想いと、「もう片方は、相手がまったく眼中に無い」という片想いと、です。この節では前者を取り上げます。そしてその片想いにも重点の置き方が大別して二種類在ります。「熱烈」というほうに重点が在るものと、「想っている“だけ”」というほうに重点が在るものです。まあ、いずれにせよ、「片方が想っている」という片想いの映像は保守系局の主題歌にときどき見られるものです。
以下の「奇面組」の映像は、勇気をふりしぼってラブレターを書くところまで到達したので、「想っている“だけ”」ではありません。「熱烈な片想い」の映像だと言えます。
以下のいくつかの番組の主題歌映像は、「想っている“だけ”」の映像だと見てもまあ良いと思います。あるいは「ジュエルペット」のように不特定相手の恋愛願望のみ描写されているものも在ります。そこでは「恋をしよう!」という前向き気分のみが示されているわけです。
ところでテレビ朝日系局の主題歌映像にも珍しくはっきりとした片想い映像が在りました。そして片想い映像としても大変異色のタイプです。さて、この映像はどのように位置づけると良いでしょうか。
ここでは筆者の想到した結論だけを独断的に述べます。この片想い映像が視聴者に伝達しているのは、「片想いしている」という事態だけではありません。少なくとももう一つの事態、すなわち「片想いしている仲間を援護する友達たち」という事態…をも伝達しているのです。片想いしているという事態を相手の青年に気づかれないように皆で援護した、という映像だったわけです。つまり「女の友情」という「積極的な精神」がこの映像の今一つの主題だった、というわけです。単に「片想いしている女の子がいる」という主題だけを伝達しているわけではなかったのです。
この主張は筆者の独断ではあります。ですが、このページの最後までテレビ朝日系列の主題歌映像を閲覧した後に再度立ち返れば、読者のかたにも同意していただける自信が在ります。
テレビ朝日系局と保守系局との相違がはっきり出るのが「両想い」映像です。なお、保守系局の映像の中には「これは両想いではないのでは」と思えるものも在りますが、あえて見本に入れておきます。
テレ朝系の両想い映像の例をいくつか以下に示します。まったく普通の両想い映像です。のみならず、もし登場人物の願望や妄想であり「物語内現実」の描写ではなかった場合であっても、その願望・妄想が肯定的に描写されています。
さて、以下の「タルるート」映像は、子供どうしの図と青年どうしの図とが繰り返し入れ替わり、一見さんには相互に区別することが難しく、また意図的に混線させているようにも思えてきます。そして、テレ朝では珍しい「子供どうしの両想い」映像の影響も在って、青年どうしのほうまでも両想いに見えてきます。…と、そのようにダブらせて視聴するように作られている映像だと解釈可能です。
保守系局の「両想い」映像は、男性が奇妙に大人ぶっているなど男女の温度差が看取されうる「両想い」映像が目立ちます。
次の「らんま」映像は男性と女性が意味なく身体を密着させているので「両想い」と筆者は判定します。
次の「ペルシャ」映像はハートマークによって人物たちが縁どられており、またデートに男性が応じる程度ではあるので、映像のつくり手は「両想い」と言いたいのだろう…と判定します。
次の「マジカルエミ」映像の二個目のダンス映像は「明日見る夢」の中のもののようであり、「現実」ではないことが同時に歌われる歌詞で示唆されています。
上掲の「パタリロ」映像は、一見さん(番組の放映許可をする人)は物語の基本設定をよく知らない状態で見るはずなので、その前提で以下判断します。そうすると、愛し合っている男女の映像のように、動画で見るとまずは見えます。ですが、静止画像を取り出してみると、右側の男性が陶酔しているように見えにくいです。特に一番目の静止画像は「相手を睨んでいる」ようにすらも見えます。ともかく左側の「女性」と右側の「男性」とで意外にも温度差が在るように見えるわけです。そして、ある意味ではこれは物語の基本設定とも矛盾しない印象なのです(右側の男性は浮気者)。なお、物語の設定では「実際」には両方とも男性です。ただその設定がレリバントであるような映像には全くなっていないので、このことを知ったうえで見る必要は在りません。
むしろ左側の「実は男性」の声を担当している声優は女性でありそのことも主題歌でテロップで伝達されますし、この主題歌も女性(かつ女声)によって歌われているわけです。のみならず「わたし」という一人称の語りの形をとった歌詞になってもいます。つまり一見さんが見たときは左側の人物を「女性」と認識しやすいように積極的に誘導している主題歌映像であると言えるわけであり、だからそう受け取るほうが優先的なのです。
男性に比べて女性のほうが積極的・能動的であるような構図を描いた主題歌映像はたくさん在ります。そして、テレビ朝日系局と保守系局できわだった相違傾向を一貫して見せています。
テレビ朝日系局の主題歌映像には、積極的である女性を肯定的に受け入れる男性を描くものが多いと言えます。
上掲の「一休さん」映像は、「小学生程度」の年齢の少年少女であるため、通常の朝日系局の傾向とは異なり、友愛レベルの親密さにとどまることが本来ならば予想されます。しかし、上掲の映像に限らず、歌詞なども冒頭から愛情100%とでも言ったような、常軌を逸した内容が女性の女声によって歌われてもいます。つまりこの画像の印象と、歌詞も含めた歌の全体の印象とは完全に吊り合っているわけであり、「単なる友愛レベル」とは思えないものです。
なぜ「小学生程度の男女」でこのような内容の主題歌を朝日系局が放送したのでしょうか。そう考えたときにまず思い当たるのは、この映像は少年の方が「宗教者」という設定であることです。そこがおそらくポイントだと思います。たんなる小学生どうしの関係ではなく、「片方が宗教者であるような関係を私たちならこう描く」という朝日系局の「回答」だというわけだと思います。しかもそれは社内の上司向け・経営陣向けの、放映許認可を取りつけるための模範回答でもあるのです。そういうわけなので、これは他の「小学生どうしの関係を描いた主題歌」と同列には見ないべきだと思います。むしろ以下に示す「中学生以上の男女の間柄を描いた主題歌映像」と同列に近いものだと見なしたほうが良いのです。
言わずもがなの注釈をしておきます。もちろん、少年の位置が幅一人分(実は映像ではその数倍)ほど手前左側に移動していることがポイントである映像なわけです。その移動距離によって「女子の積極性」が提示されている映像である、というわけなのです。
次の「コンポラキッド」も特殊ケースです。
「コンポラ」映像では少年のほうが8歳であり教師でもある、という設定が、わりと隠さずに提示されています。なので、これもまた「小学生どうしの男女」というよりは、むしろ「男性教師と(多分)女子児童」だと受け取るのが良いと思われます。しかも「愛を教える」という内容の歌詞まで提示されているのです。なので先の「一休さん」と同列に考えて「片方が教育者であるような関係を私たちならこう描く」という朝日系局の「回答」だと受け取って良いほどなのです。そういう関係性のなかでの「女性の積極性」と「男性の受け取り方」が肯定的に描かれている映像であるわけです。
次に示す「セイント・テール」映像もなかなか特殊です。男性は刑事であるのに対し女性は「犯人」である、というふうに見える映像です。
なので、上掲の抱きつきの直後に、男性は女性を捕縛しようとして失敗してまんまと逃げられた…という展開になっているように見えます。その際「犯人」である女性の方は相手が刑事であることを知りながら、逃走する直前に男性刑事の隙を突いて「抱きつ」いたわけです。なので、そこに女性の「積極性」が見て取れるというわけです。その一方で、刑事である男性のほうがその抱きつきを受け入れたというふうに見えるかどうかです。これはもう他局との比較によってそう見える、ということになります。他局ならもっと露骨に男性はいやそうな顔をします。そういう表情をこの男性刑事は呈しません。
以下の「SoltyRei」映像では、女性が裸体であるということが「女性の積極性」を提示している、と見なすことができます。
積極的な女性に対して嫌そうな顔を見せる男性を、保守系局の主題歌映像で提示されることが在ります。女性の側が独りよがりに見える映像です。
上掲の「ひばりくん」映像もまた、一見さん(番組の放映許可をする人)は物語の基本設定をよく知らないで見るはずなので、その前提で以下判断します。そうすると、積極的にアプローチをかけてくる女性を男性が少々いやがっているように見える映像である、ということになります。要するに、先の「ナデシコ」や「うる星やつら」と同種の映像であるという第一印象を形成しやすい映像だと言えます。ただし先の「パタリロ」とは異なり、いくぶん慎重な見方をする必要の在る映像ではあります。
この主題歌映像はいくつかの点で、「おや?」と思わせるようにできています。まず歌詞の一人称が「ぼく」であること。そしてタイトルにも在るように「くん」付けで主人公が呼ばれていること。このことが、金髪の人物を女性である、と即断することにブレーキをかけます。それに加えて、マンガの絵柄を多少見慣れたくらいの人なら「この金髪の人物はどうも美少女には見えにくい」と感じるようには描かれています。なので、これらから「この金髪の人物は、男子に憧れて自身が男子になりたがっている女子なのかな」くらいには思うかもしれません。ちなみに、設定では金髪の人物は男性であり、かつ恋愛の対象がこの困惑している顔の青年である、ということのようです。
なのでこの映像は「積極的な女性をいやがっている男性、という図に誤誘導しようという映像である」とまでは言いづらいところが在ります。とは言え、先入観なくしてこの映像を見ていれば「男子に憧れて自身が男子になりたがっているような、美少女というにはややクセのある金髪女性が積極的に迫るので、青年男性がいやがっている」という図くらいには見えると思います。
保守系局の主題歌映像には、男性に対して感情的・拒否的な女性の図がしばしば使われています。その典型的なものは、全体状況からすると女性の側の、男性に対する嫉妬や愛情飢餓感のようです。
朝日系局の主題歌映像では、男性の悪事や不実に対して毅然とした態度をとる女性の図を見かけることが在ります。そのほとんどは勧善懲悪もの番組であり恋愛はあまり関係無いことが多いです。そのことも在って、保守系局が感情的のように見えるのに対して、朝日系局のこの種の映像は毅然とした態度のように見えるという違いが在ります。
ところで、保守系局の次の「あかねちゃん」の映像と歌詞は、「女性が男性に無礼を働かない」という事態を描いている特異なケースです。この場合、映像と歌詞が(ある意味で)一体化しているので、そう受け取るのがふさわしいのです。
この主題歌映像を見ると二つの第一印象をもちえます。一つは「学校の教師に対していたずらする反権威的な少女」という印象。もう一つは「男子生徒に対してリーダーシップを発揮する少女」という印象です。ところが、この二つの印象は、実は映像の作り手によって誘導されたものである疑いが強いのです。つまり作り手によって「このように見えて欲しい」というその通りに見ているに過ぎないのです。そのことを以下説明します。
この主題歌には次のような構造をもつ歌詞が含まれています。
なので、次のような映像になることが期待できるはずです。
ようするに。こうです。並列を表す「も」という助詞によって、主人公の行なう行動MとM´とが同じ方向性の行動になることが期待できるような、そういう歌詞の構造になっている…というわけです。しかし実際の映像はそのようにはなっていません。
実際の映像に見られるのは単純化すればこういうことになっています。
こうです。のみならず歌詞の「一番」だけを視聴すると「いたずら」する相手は「学校の教師」であるように印象づけられえます。なので、次のような第一印象をもちえます。
しかし放映されていた「二番」まで視聴すれば、この図式は次のように修正されることがわかります。
ようするにこうです。この映像の中には「女性教師」「女子生徒」「男子生徒」はいるのですが、「男性教師」だけは居ないのです。「居ない」ということが「助詞も」の並列機能によって提示されている…というそういう構図の歌詞だったのです。ですから主人公の少女が男性教師がいた場合、彼に対してどういう態度をとるのかは未知数です。
いずれにせよ、この主題歌映像は「女子主人公が、女性には無礼を働き、男性には無礼を働かなかった」という構図を明瞭に提示していました。そして、「男性教師の絵」が無いことによって、そのような「女性/男性」という対概念が曖昧にされていました。確実にわかることは「助詞“も”」によって並列になっているはずのペアが、映像ではちっとも並列になっていなかった、ということです。なので「女性には無礼を働き、男性にも無礼を働かなかった」という文が矛盾しているのと同様に「歌詞と映像とで矛盾した状態」が産出されていたのです。
さて、映像の中に「××が無い」ということの指摘は通常難しいものです。というのは、意図的に無いのか、偶然無いだけなのか、がわからないからです。それに対して、上掲の「あかねちゃん」映像は「女子主人公が男性に無礼を働く映像が無い」という映像になっていました。そして、それは意図的な操作によるものであると断定しても良いほどのものでした。なぜなら、無いと明らかに不自然なものが無かった、ということが指摘可能な映像だったからです。
さて、この映像を普通の態度で眺めているとなんとなく次のような印象に誘導されるのでした。一つは「学校の教師に対していたずらする反権威的な少女」という印象、もう一つは「男子生徒に対してリーダーシップを発揮する少女」という印象、でした。これらの印象にしても、テレビ朝日系局主題歌映像に通常見られやすそうなものであり、対照的なフジテレビという放送局の主題歌映像では、特殊な状況でもない限りまず見られにくいものです。たとえば「王政の王位継承者である少女が男性の臣民をリードする」とか「社会主義国の学校教師に対していたずらする“反権威的な”女子生徒」などといった、特殊な状況でもない限り、なかなか見られそうにありません。つまり通常ならフジに限らず保守系局ではこういった印象を与える映像はむしろ回避されているくらいなのです。だから、その回避されているパターンに誘導しようというこの「あかねちゃん」映像はさらに特殊です。つまり「女子主人公が男性に無礼を働く映像」はそうまでして回避されなくてはならなかったかのようです。そのことに注意を払っておきたいと思います。
たった今構造を確認した「あかねちゃん」主題歌映像は、保守局の他の主題歌映像とどのような関係に立つことになるのでしょうか。というのは、こうです。「男性に無礼を働く女性が居ない」という絵と、「男性に対して感情的・拒否的である女性」という絵とでは、いっけんしたところ方向性が逆のように思える、ということです。その双方が保守系局のものである、としたらこの両者の関係はどのようなものなのか、が疑問になるはずです。また、「男性に無礼を働く女性が居ない」という絵は、テレビ朝日系局の主題歌映像でもあっても通用するのは同じかそれ以上なほどです。なのでこの点にもぜひ積極的に説明がなされる必要が在ります。
現段階で私が想到している答はこうです。「男性に対して感情的・拒否的である女性」という保守系局に見られる絵が目指しているのは「女性像のイメージを悪くする」事である。それに対して、「男性に無礼を働く女性が居ない」という、「あかねちゃん」に見られた保守系局の絵が目指しているのは「女性像のイメージを悪くする」事ではあまりない、というものです。無礼を働かれた側の女性像(特に女性教師)のイメージは多少悪くなっていますし、それは映像の目的の一つだと思いますが、無礼を働くほうの主人公の少女のイメージを悪くしたりすることは、この映像ではあまり目指されていません。「男性に無礼を働く女性が居ない」という絵によって目指されているのは「男性像のイメージを悪くしない」事のほうなのです。
保守系局の主題歌映像ではだから「女性像のイメージを悪くする」ための絵と、「男性像のイメージを悪くしない」ための絵とが在り、その二つは両立可能なのです。そこを「女性像のイメージを悪くする」ための絵と「女性像のイメージを悪くしていない」絵とがある、と捉えると同じ放送局が両方放映することが矛盾のように思えてくるわけです。ですのでそう捉えないことで矛盾の印象を回避できるというわけなのです。また他方、テレビ朝日系局でももちろん「男性像のイメージを悪くしない」ための絵はふんだんに用いられていました。それは、ここまででいくつも見本を示してきた通りです。しかし、テレビ朝日系局で男性像のイメージを悪くしない絵が使われるのは、結局はその相方の女性像のイメージを悪くしないためだったのだとも言えます。そういうわけなので、「男性像のイメージを悪くしない」ための絵を保守系局とテレビ朝日系局がともに使用していても、そこにもまた矛盾が在るわけでない、と説明可能であることがわかりました。
「テレビ朝日系局は、男女の高いレベルの平等を描くための手段として、(中学生以上の)男女の対等な恋愛という映像を放映する。それに対して保守系局は、それをしない。」という假説を掲げてこのページは開始しました。ここで一つ疑問を感じる読者がいるかもしれません。こうです。
「なぜ女性のほうが積極的な絵」ばかりたくさん在って、「男性のほうが積極的な絵」というのはあまり無いのだろうか、これです。つまり「男女平等」ならば、「どちらが恋愛の主導権をもっているか」に関しても「平等」であってもいいはずなのに、そうはなっていないわけです。むろん「小学生程度の男女」の場合は特に理由がない限り、別扱いにするのでした。
この疑問に或る程度の答を与えておかないと、「テレビ朝日系局は、男女の高いレベルの平等を描くための手段として、(中学生以上の)男女の対等な恋愛という映像を放映する。」という假説がきちんと検証された感じがしないでしょう。
二つの答が想定可能です。一つはテレビ朝日系局にとっては「男女の平等」よりも「女性の積極性」のほうが、より描きたいものであり局是である、というのが一つです。もう一つは、「男女の対等な恋愛のためには、女性のほうこそが積極的でないと成立しない」という認識が在るから、というものです。この場合「女性の積極性」を描いた絵が「要因」であり、「男女の対等な恋愛」を描いた絵がいわば「結果」という位置づけになるわけです。この二つのうちいずれかが正しいのかどうか、とかそのあたりはわかりません。
ただテレ朝の局是であろうがなかろうが、思春期以降だと男性と女性のあいだには大きな体力差が在ります。なので「男性のほうが一方的に積極的でありながらそれが性犯罪にならないこと」も難しいし「女性のほうが積極的になったからといってそれが性犯罪になること」も難しいとは言えます。おそらくこの認識抜きに「男女の対等な恋愛」など構想できるはずもなく、テレビ朝日系局が「女性の積極性」のほうばかりを描きがちなのもその事情を結果的に反映していると言えるのです。
この事情は保守系局のほうについても言えます。たとえば「テレビ朝日系局が女性の恋愛積極性を描き、保守系局が男性の恋愛積極性を描く」という対比を形成しないのにも、先の事情が関与しています。保守系局は…特にフジ系局と日本テレビ系局は、「学校優等生」を好み、だから「学齢のうちは恋愛などご法度」という立場のほうにどちらかと言えば近いわけです。少なくとも番組放映の許認可を下す「局の上層部」はそうです。「男性の積極性」を推奨することがそのまま「性犯罪」の推奨につながってしまうのだから、なおさらです。なので主題歌映像もそのような相手に審査される前提で制作する必要が当然在ります。ですから、いわば男尊女卑傾向やミソジニー傾向が或る程度以上見られる保守系局においても「男性の恋愛積極性」が主題歌映像で描かれる可能性はごく低いと言えます。なので保守系局においては、「女性像のイメージが悪くなる」映像か、「男の沽券が守られる」映像になりやすい、と言えます。その状態がおそらく保守系局の上層部の考える「男女の平等」なのだと思われます。
やや簡単に過ぎましたが、以上で「テレ朝系局主題歌の男女平等」の後半を終わりたいと思います。
執筆に際して、つぎのウェブページに大きく依拠しました。
また、このシリーズを執筆するにあたって、歌手の堀江美都子氏と、あと動画サイトにかかわった多数の人々には、特に感謝したいと思います。