二度目以降のアクセスの場合、リロードを推奨します。参考:ホームページを更新したのに「内容が変わっていない!」を解消するスーパーリロードとは
主に2015年以降、政治的状況・各種環境状況が徐々に或いは急激に変化しています。そのため以下の内容は(特にテレビ朝日系は)現実に少々または多々そぐわない場合が随所に見られるようになっています。ともあれ、「各放送局ごとの方針」と見なされうる特質というのも、「全体バランスを判断したうえで、何者かによって上手に調節された、程度の差に過ぎないガス抜き装置」だった可能性を念頭に置く必要が生じていると思います。(2020/02/22)
リテラシー向上活動の一環として、テレビ局の傾向を把握するための假説検証という活動をかねてより提唱してきました。その一つに、テレビ朝日系局での「男女平等」を保守系局(フジテレビ系・読売系・テレビ東京系)のそれと比較する、というものを以前発表しました。今回はそれをいくぶん精密化した新バージョンを発表しようと思います。検証される假説は、テレビ朝日系局のほうが保守系局よりも「男女平等」の程度がより高いレベルのものである、というものです。
その目的のために、「子供向け」と昔だったら分類されるようなテレビ番組の主題歌映像を用います。一つの理由は、主題歌映像を用いると、少ない時間で多くの番組を検証することができるというメリットが在ることです。その際、主題歌映像というものの制作側にとっての意義・目的というものを想定しています。想定しているのは、放映局から放映許認可をもらうために制作しているのだ、というものです。というのも、放映許認可をもらう時点では、番組本編は一部しか制作されておらず、すでに完成している可能性が高いのは主題歌映像だからです。そういうわけで、主題歌映像というものを、放映局の上層部が認可をくだすように、放映局の理念や建前にかなったものとして制作しているはずだ、という假説を立てています。このことから、主題歌映像だけ見ても或る程度放映局のスタンスが示されているはずだ、ということが言えるのです。
映像の検証において重要なのは、極端な事例をどう扱うかです。たいがいの科学的検証の場合、極端な事例は例外と見なされるでしょう。ですが、とりわけアニメ映像の場合はそうではない扱いをするのが原則であると考えています。つまり、極端な事例とされるものは、通常のものよりもむしろいっそう典型的であると見なすのです。そのようにして良い理由は、アニメ映像の場合、制作側はいくらでも自由に作ることができるのであって、不都合な映像が出来上がるということは考えられないから、です。そうである以上、通常より極端に見える事例こそ、むしろ局の理念や建前にもっともかなったものである可能性が高いのです。もっとも今回の文章では、「違背のケースを典型ではなく例外と見よう」という主張もしています。後述しますが、それは映像ではなく歌詞の特徴だったからです。つまり、歌詞というのは映像からの独立性がやや高く、放映局の理念とも独立に制作される余地が在るのだ、という考えを今回提示しています。
実を言うと、2016年8月現在、男女の平等というテーマを考えることの転換期が来ているようにも思えます。政治的に保守とされる側もまた男女の平等というテーマを或る程度重視してきていると思えるようになったからです。そしてそのため男女の平等という思想や姿勢と、その他の思想や姿勢との間のつながりが以前より複雑になってきているかもしれないのです。ただそれは今後の課題であり、今は過去の事例を見つめることに専心します。
テレビ朝日系局と保守系局の違いは、女性戦闘員の顔の提示の仕方に表われることがしばしばです。
テレ朝系局の主題歌映像では女性戦闘員の顔を積極的に提示します。またそれだけでなく、男性と女性が対等であることが「1枚の絵」の中に構図で示されていることも多いと言えます。そして、保守系局とのこの違いは特に1970年代に著しいと言えます。
1970年代の保守系局は、女性戦闘員の顔をできるだけ目立たせないような映像に仕上げています。そして1980年代にはその傾向は少し変わります。その点については後述します。
人造人間であるという明示が在る場合が在ります。これすなわち「人間の女性ではないのだ」というわけです。この番組の場合は映像での明示です。そして、映像に限らず、「その女性は人間ではない」ということの明示は保守系局のほうがより頻繁に用いています。たとえば主題歌の歌詞やナレーションで言葉によって明示するパターンも在ります。
顔の描き方が中性的であることを逆手にとって、戦闘少女の性別を曖昧にした事例が在ります。フジテレビ系『リボンの騎士』です。主人公の顔だちは同じ作者の「ケンイチ」風であり(ケンイチ:キャラクター名鑑)、男性とも女性ともつかない顔だちであり、物語の設定では男装した女子なのです。さてリボンの騎士-Wikipediaによると、放映第5話前後までは主題歌映像の箇所は「王子編」のインストゥルメンタルであり、その後第25話までは主題歌は「王子編」だったそうです。つまり前半期は歌詞の一人称が「ぼく」だったわけです。その後第26話から第52話までは主題歌は「王女編」となります。すなわち歌詞の一人称が「あたし」になり、その「あたし」の正体はリボンの騎士であることまで明らかにするように、後半期ではなります。要するにこの番組は、初期の頃は主人公が男子であるようにミスリードしかねないように主題歌映像が制作されていたわけです。
「ぼく」という一人称の使用や、帽子を脱がないことで、作品世界を尊重しつつも、同時に女性が戦闘している映像に見えないようにもしているわけです。したがって、顔をあまり隠さないでも、隠したのと類似の効果をあげた事例である、と位置づけることができます。
テレビ朝日系局と保守系局の違いは、女性戦闘員の参加の仕方を映像化することで示される場合が在ります。
「女性が男性をリードする映像である」と無条件に言いうる物件は、戦闘系の番組ではたとえテレ朝系局であってもかなり稀少だと言いえます。しかし、それでも「そういう番組数がゼロではなかった」ということまでは言いうると思います。
そもそも保守系局は女性戦闘員の絶対数自体がテレ朝系局に比べて少ないのです。それは当然の前提としましょう。そして、それとは別に「女性は戦闘に参加していません」という明示の在る映像というものが在ります。
保守系局も、1980年代に入って少し傾向が変わります。その変化は青年向け番組に主に見られるようになります。
この「ビスマルク」では一見したところ、女性戦闘員が戦闘に参加しているような第一印象を持ちます。これは保守系局の映像としては大きな変化です。ですが、男性戦闘員のうち二人が発砲しているのに対して、女性戦闘員は銃を単に構えているだけです。また、男性三人が同等であり変身か搭乗もすることが暗示されているのに対し、女性は同等かどうかが不明であり変身や搭乗もするようには見えません。つまり「女性は戦闘に参加していません」と、第三者への言訳が利くようには出来ている映像なのです。
ところが、男女戦闘員がまったく対等に戦闘に参加しており、映像化も対等にされていて、さらに男女対等の構図も存在する映像、というのが保守系局の主題歌にも在ります。
その理由は、「戦闘番組で女性が活躍すると視聴者の購買行動に結びつく」ということが正当化の根拠として使うことができるようになったことだ、と考えることができます。つまり、戦闘もののアニメや特撮を視聴している青年男子が存在する、という命題が80年代に入って公然の事実となったからだ、と考えることができます。
この正統化は「商品化された女性像」を買うような「青年男性」という視聴層を重視する放送局でこそ通用します。なので、この傾向は保守系局の青年向け番組において現実化しやすくなります。またその一方で、保守系局であっても小学生向け番組においては現実化しづらいことが重要です。さて今回発見した主題歌映像は読売系の放送局のものでしたが、それはおそらく偶然ではありません。たとえば小学生向けの番組の比率の高いテレビ東京系よりは読売系のほうが、この種の映像がおそらく発見されやすかったのです。
また、このような正当化は、テレ朝系局においては通用しづらいものだと考えられます。というのは、男性が「商品化された女性像」を買う、という経済活動が「男女平等」という理念の表われだとは考えにくいからです。テレ朝系局で女性の戦闘場面の映像が正当化されていたのは、それが「現実の社会」での男女の平等につながる限りにおいてなのです。だから、女性の戦闘場面は低年齢の視聴者にこそ向けて発信することが正当化されていたし、「青年」向けに発信することは正当化しづらいのです。もしテレ朝系局が青年男子に向けて男女の対等を訴求したいなら、「戦闘場面」ではなく、別の状況を用いることになることが多いと考えるのが妥当です。そのためかどうか、1980年代以降はテレ朝系局では、戦闘もののアニメの絶対数が大きく減少しています。
1990年代には女性のみの戦隊による戦闘番組が登場し、その他の番組も含めて全体的に戦闘番組での女性比率が大きく高まります。そして、この種の番組においてもテレ朝系と保守系局とは著しい対比を示します。
『美少女戦士セーラームーン』は、女子のみの戦隊による戦闘もの番組の一種です。しかしもしタイトルに「戦士」の語が入っていなかったら戦闘ものだとすぐには判らないような主題歌映像になっています。つまり、往年の魔法少女ものの延長に在るように見える映像なのです。したがって、女子向け番組を見るような層に対して戦闘ものを見せることを意図している番組のように受け取ることができます。
『魔法騎士レイアース』は刀剣の明示をはじめとして、明らかに戦闘ものとわかるような主題歌映像になっています。つまりこれは、戦闘ものを視聴するような層に対して「戦闘する女性像」を与えるという意図が考えられる番組なのです。1980年代を通して「青年男子」を中心とした層に「商品化された女性像」を購買させる、というパターンが確立されており、そのマーケットに向けて発信された番組だと看て取れるわけです。併せて、女性の顔の描き方や服装などもどこか文化依存的であり、アニメやゲームの文化的な蓄積を享受している層に向けての番組であることも容易に看て取れます。
1970年代までは女子の戦闘映像は「男女の平等」を提示するためのものでした。それが1980年代に入って、青年男性視聴者への商品価値を生むためのものにもなりうることが公然の事実となりました。ちなみにこれは魔法少女の映像でも同じことが言えます。そのため、想定視聴者をどこにおくか、男女のどちらの視聴者を重視するか、視聴者の想定年齢はどのくらいか、などが放送局の姿勢を示す指標になったのです。
女子のみ戦隊の場合、「男女の平等」という映像を出す必要もとりたてて無く、そもそも男性があまり登場しない場合も多いわけです。そのため、視聴者の想定を映像によって提示しておくことが重要になります。とりわけ重要な要素の一つが「絵柄」であり、これだけで視聴者の想定がうかがえることも多いと言えます。
女子中心の戦闘ものの場合、大まかに言ってテレ朝系局はいくぶん以上年少の女子視聴者を重視し、保守系局は青年の男性視聴者を重視している、と言えそうです。たとえば保守系局のなかでは年少の視聴者を重視している割合の高いテレビ東京であっても、女性の多い戦闘チームが活躍する番組というと、青年向けの番組のほうが想起しやすいということが言えます(『エヴァンゲリオン』『ナデシコ』など)。ですがこれはあくまで傾向なので、細かく論じるときには個々に見ていく必要がもちろん在ります。
さてそこで早速ですが、『セーラームーン』に関しては事柄はそれほど単純ではなかったりします。その理由は、このシリーズの歌詞では、相当に保守的・受動的な女性像が謳われていることがまま在ることです。保守系局の『レイアース』のほうがよほどその点慎重というか、中立的なスタミナソングの歌詞になっているのと好対照です。この点をどう説明するか、が争点になりえます。
『セーラーム―ン』シリーズの主題歌歌詞の例:恋の行方を占いに委ねているムーンライト伝説(歌詞タイム)、愛「してくれる」人を「待って」いるプリンセス・ムーン(歌詞タイム)。主題歌以外だと、恋の主導権を相手に委ねている好きと言って(J-Lyric.net)があります。『レイアース』シリーズの主題歌歌詞の例:ゆずれない願い(歌詞タイム)、明日への勇気(歌詞タイム)、キライになれない(歌詞タイム)、ら・ら・ば・い?優しく抱かせて?(歌詞タイム)。
結論としては、歌詞は主題歌映像から或る程度独立しており、放送局の傾向だけを考えて作られているわけではない、ということが言えそうです。作詞者というものが厳然として居り、それ自体が独立した制作物だからです。すなわち歌詞のみを手掛かりにして放送局の傾向を論じることはできないと考えられるのです。主題歌映像の制作者にできることは、歌の「二番や三番は放映しない」とかそういったレベルの措置です。その措置で、歌詞の保守性が多少は緩和されています。
その上で、さらに次の点を補足しておきます。一つは、年少の視聴者向けに恋愛をテーマにした歌詞を発信する行為自体が非保守的である、という可能性が在ることです。というのも、年少者は恋愛などに関心をもつべきではない、と考える大人の方が、そうでない大人より「保守的」である、ということは言えるからです。たとえば、テレ朝系局と保守系局の女子向け番組の場合、「学校優等生である」ことを重視する保守局と、むしろ脱学校的であろうとするテレ朝局という対立軸が見出せます。すなわち、このテレ朝系局の脱学校的指向の一環として「恋愛の重視」という指向が在り、その普及のためなら少々保守的な恋愛観であっても構わない、という立場が想定できるわけです。
今一つ言えるのは、この保守的な恋愛観の訴求は、「青年男性視聴者の撃退」につながるのではないか、それによって「年少女子視聴者の保護」につながるのではないか、という点です。たしかに受動的な恋愛観は「現実の恋愛」において作動するなら保守的かもしれませんが、その一方で「現実の恋愛から疎外されている層」を撃退しやすくなるという点で、「男性の消費行動」から女子視聴者を守ることができるのではないか、と言えます。現実の保守性を持ち込むことで虚構作品としてはむしろ非保守的に働くわけです。保守的な恋愛観だと「男性の能動性・積極性」を要求するわけですが、「現実の恋愛」から疎外されている男性層にはこれこそがうっとおしいわけです。したがって主題歌の歌詞からして青年男性視聴者が視聴しづらくなり、年少女子視聴者が守られやすくなる、という効果が期待できるのです。この番組が「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」のほぼ直後のものであることを考慮すれば、この推察は必ずしも牽強付会であるとは言えないように思います。とは言え、もちろん推察ではあります。しかしともあれ、テレ朝系局が歌詞の保守性を容認した理由説明にはなっているのです。この番組以降の番組主題歌では、そういった保守性がなりをひそめることも、推察を補強します。
以上、「テレ朝系局主題歌の男女平等」の前半でした。テレビ朝日系局主題歌の男女平等(後半)に続きます。執筆に際して、つぎのウェブページに大きく依拠しました。