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主に2015年以降、政治的状況・各種環境状況が徐々に或いは急激に変化しています。そのため以下の内容は(特にテレビ朝日系は)現実に少々または多々そぐわない場合が随所に見られるようになっています。ともあれ、「各放送局ごとの方針」と見なされうる特質というのも、「全体バランスを判断したうえで、何者かによって上手に調節された、程度の差に過ぎないガス抜き装置」だった可能性を念頭に置く必要が生じていると思います。(2020/02/22)
このページでは、各放送局の傾向を手っ取り早く掴むためのテーマとして「子供と大人」という切口を設定してみました。この切口は、放送局ごとの傾向の違いを位置づけるために大変有効な切口であり、しかも「子供」の立場にとっても大変わかりやすいはずのテーマです。
このテーマで分析するために、「アニメ主題歌映像」を取り上げます。
ところで、「主題歌映像」をもとに分類や記述や分析をするときに、注意するべき事柄が在ります。それは、「或る種の映像や音声が無い」という場合、それが「単にたまたま無い」のと「意図的に回避したから無い」とのとで、区別がつきにくい、という点です。
たとえば「男性と女性が仲睦まじく抱き合っている映像」が無い、という場合、「単に無い」のか、「意図的に回避したから無い」のか、にわかには判断がつきにくい、というわけです。しかし、放送局の分析をする場合、比較的これは容易に判断がつきます。というのは、「女性に抱き付かれて男性がいやがっている映像」が二、三在る、という放送局が、「男性と女性が仲睦まじく抱き合っている映像」を好き好んで放送する、ということは考えにくいからです。…と、そういうふうに考えて構わないのです。或いは、中学生以上の男女だと「女性に抱き付かれて男性がいやがっている映像」が在るけど、小学生・幼稚園くらいの男女だと「男性と女性が仲睦まじく手をつないだりキスしたりする映像」が二、三在る、といったふうに規範が「使い分け」られていることも在ります。それは、対象年齢によって規範が異なる、という放送局の姿勢だ、ということになります。
ようするに、或る種の映像(や音声)が「単に無い」のと、「意図的に回避したから無い」、の違いは、「その正反対の映像(や音声)」の有無や頻度や強度でわかることが在る、というわけです。つまり、ここでは放送局をそれなりに首尾一貫した存在として扱う、というわけです。たとえば、或る種の映像を好まないことは、その正反対の映像を好むことと、しばしば連動しているだろう、というわけです。あとは「何だと正反対と言えるのか」という問題だけです。
以上のことから、何を私は言おうとしているのか、というと、こうです。たった一つでも「強烈な事例」が在った場合、それは放送局の「方針」「規範」を露骨に体現していると見て構わない、ということです。
なぜこのように断るかと言うと、たとえば、アニメが100あったとして、その中でたった1つの作品だけから抽出した「強烈な事例」について、通常の科学的分析では「例外」として扱われるはずだからです。それに対して、私は「それはたいていの場合、例外ではなく、典型である」と言いたいからです。というのは、「主題歌映像」というのは、作り手・送り手の入れたくない映像や音声は入れないことがいくらでも可能であるため、「例外的に、自身の方針や信条に反する」映像や音声がうっかり入ってしまった、なんてことは絶対に在り得ないことだからです。つまり、「相当に強烈な事例」というのは、どちらかといえば作り手か送り手が「本音では入れたくて入れたくてしようがない」ものだと見なしたほうがいいのです。100あるアニメのうち1つのアニメにのみ観察される「強烈な事例」というのは、そう見るべきなのです。たとえて言えば、ふだんは温厚な人が、天変地異に見舞われたとたん、まわりの人を突き飛ばして自分だけ助かろうとした場合、「その豹変した時間÷その人の全人生の時間」の割合がいかに少なかろうと、それこそをその人の「本質」と見なして構わない、のと同じようなものです。
以上の主張には、「例外」が在ります。それは、そのたった1つの「強烈な事例」と、ほとんど「正反対」の傾向が、他の99の作品の多くに見られる、という場合です。或いは、同じ程度に「強烈な」しかし「正反対の」事例が1つでも在る、という場合です。そうすると、ここでも「何が正反対なのか」そして「何が強烈な事例なのか」という問題だけが残ります。
ようするに、「統計的な分析」とは決定的に異なった姿勢での分析が、「主題歌映像」分析には有効だと言いたいのです。それは放送局というものが、存外首尾一貫しており、「矛盾した存在」にはなかなかならない、ということでもあります。
あともう一つだけ。別のページでも述べましたが、「主題歌映像」というのは、基本的には「作り手」が「送り手」に「放映許可」をもらう際に使われるだろう、というふうに私は見ています。ですから、「送り手=放送局の上層部」の承認を得られるような「優等生」的なコンテンツとして作られていることが多いだろう、ということが推論できます。そのため「アニメの本篇」を見ている人にとっては逆説的に盲点になるような事態に気付くことも、可能になるかもしれません。たとえば、「アニメの本編」に詳しい人は、「主題歌映像」に無いものを勝手に読み込んでしまって、「アニメを全く知らない人(放送局の上層部のメンバー)に見えているもの」を見落とす可能性が在ります。だからつまり、「アニメの本編」に詳しくないからといって良い分析ができない、とは言いきれないわけです。
前置きはこれくらいにして、各放送局の傾向を、抽出してみましょう。
テレビ朝日と対応している新聞は「朝日新聞」です。
もし不等号を用いて示すなら、テレビ朝日系列の放送局の方針は「子供>大人」です。だからこの不等号を守る大人が「素晴らしい」ということにもなります。反対に「大人>子供、という方針をもつ大人」は「素晴らしくない」ということにもなります。
この方針は、アニメや特撮を放送するという行為自体にも多大な影響を与えています。テレビ朝日は、まずもって「子供が視聴する番組」を「守る」ことを重視している放送局です。したがって、1980年くらいから、「ロボットアニメを見るのは大学生くらいのオタク」とか「魔法少女アニメを見るのは中年男性のオタク」とわかったとたん、そのジャンルから、半身くらいは退却したりしています。
さて、テレビ朝日系のこの面での象徴と言える作品は「クレヨンしんちゃん(ANB,1992)」となるでしょう。
家族の「絵」の事例としては、たとえば、「クッキングパパ(ABC,1992)」を挙げておきます。ただし、この「絵」だけでは「家族円満」という意味しか読み取れず、「子供>大人」とまでは言えないことには注意です。
テレビ朝日のスタンスが特に表れているのは「子供と学校」の関係においてです。この点で、テレビ朝日系列は、他局とははっきりと一線を画す独自性を示しています。すなわち「学校なんかに縛られない子供」とか、「子供を縛ろうとする学校的なるもの」を描こうとするのです。
例えば、「ふたりはプリキュア(ABC,2004)」には次のような映像が在ります。主題歌映像にこのレベルのものは、他局ではちょっと考えにくい、と思います。とりわけ女子生徒の場合にはそうです。
もっとより強烈であり、他局でいかにも在りそうにない映像としては、「おジャ魔女どれみ(ABC,1999)」の「生徒たちが教科書類を一斉に放り投げている絵」が在ります。このとき「音声」では「いやな宿題はごみ箱に捨てる」云々とまで歌っています。とはいえ、さすがに、テレビ朝日も「ごみ箱」の映像まではやりませんでした。それでも、他局では考えられないほどの「強烈な事例」ではあります。朝日の文科省に対するスタンスがうかがえます。
放送局のこういった姿勢をトータルに体現している例として、「あさりちゃん(ANB,1982)」が在ります。
100点をとる姉のほうが少し卑小なこずるい感じで描かれていること、その姉すらも妹とともにプロレスごっこに興じているということ、などが、歌をわざわざ「2番」まで繰り返すことで、強調して提示されています。言うまでもなく、「おしとやか」という規範から自由な子供たち、というわけです。あと、姉を投げ飛ばす妹のほうが、わりと高貴な表情をしているところがポイントかなと思います。
TBSと対応しているのは、「毎日新聞」です。
もし等号を用いて示すなら、TBS系列の放送局の方針は、「子供=大人」です。ただ、どことなく「“子供=大人”という理念を守る大人>“子供=大人”という理念を体現した子供」という関係がうっすらと見えるような気がしないでもありません。また、「子供=大人」といっても、その対等関係自体を表すことが目的というよりは、「“子供=大人”であるような集団は素晴らしい」ということを表すのが目的のようにも見えます。そしてその場合「“子供=大人”であるような集団>その集団の各個人」というふうに見えないでもありません。
ま、そういうわけで、「家族」「学校」「地域社会」といった「集団」それ自体を称揚し謳い上げるような番組を放送してきている局だと思います。ホームドラマや学園ドラマに特徴が在り、アニメには必ずしも強いと見なされていないと言えます。おそらく、それはTBSの学校好きの性質から来ています。学校というところはあまりアニメが好きではないからです。だから、或る時期まではあまりアニメを重視していなかったり、教育番組のようなアニメを放送したりしていました。
「家族」をもろに描いたものとしては、特撮の場合「ウルトラマン」シリーズが在り、ウルトラ兄弟やその両親までもが描かれ、一大ファミリーをなしていました。
アニメ主題歌映像では、まずは、普通に家族円満の絵を描いている「草原の少女ローラ(TBS,1975)」を挙げておきます。
遊んでいる絵は3つ目だけであり、最初の2つは「労働の絵」ですが、ともあれ、家族円満の絵であり、また、「子どもがのびのびとしている絵」ではあります。
家族を中心とした共同体を描く際に、「地球的なるもの」と重ね合わせて描くのがなぜだかTBS系列局は好きのようなので、そのような事例を2つほど取り上げておきます。理由や意味は不明ですが、見逃せない特徴のような気がします。
「子供=大人」の絵の事例を見てみます。たとえば家族の場合、次のような絵がその一例かと思います。
母親と息子が手をとりあってダンスをしようとしている絵です。親子が一緒にダンスを踊る…これまた、際立った「子供と大人の対等」の絵だと言えます。
学校に目を移すと、「生徒と教師の対等」の絵にはたとえば次のようなものが在ります。「出席簿」の明示がポイントです。
生徒たちに慕われ抱き付かれている教員の絵のように見えます。ただ、この抱き付きは一方的であるので、「“教師=生徒”という理念を守る教師」と「“生徒=教師”という理念を体現した生徒」の温度差を表しているようにもとれます。
アニメ本編の内容はいっさい知りませんけど、「生徒と一緒になって廊下を走っていて、校長に説教されている教師」のように、いちげんさんには見える映像だと言えます。「生徒と教師が同レベル」の絵というわけです。
テレビ東京と対応しているのは「日本経済新聞」です。
今回、調査不足ということもあって、「子供と大人」というテーマに関してのテレビ東京の傾向というものをはっきりと掌握することはできませんでした。ただ、TBS系列局が意地になって「学校の制服を着た登場人物」→中高生を主要登場人物としたアニメを量産しているのに対して、テレビ東京系列は小学生くらいを主要登場人物としたアニメを量産している感じがします。
テレビ東京の主題歌映像から、「子供と大人」の関係が読み取りにくいのは、おそらく「子供(主に小学生)」が「大人の役割」を代理的に遂行する、という番組が多いからです。大人があまり登場しなくてもいいようになっているのです。ということは「子供→大人」とでもいうような関係が前提されている、というふうに言えるのかもしれません。「子供は未来の大人である」というわけです。ただし、そういうときの「子供」はたいがい「男の子」です。ただし青年・大人向けの一部の本格的なアニメはまた別です。
「子供は未来の大人」というわけなので、家族でも学園ものでも、あまり「子供/大人」というふうに対立項のように描かれたりはしないのが基調のようです。またこれは、TBS的な「子供=大人(対等の関係)」というのとも少し違いますが、その違いがはっきり主張されているわけでもありません。
家族の絵は、次のような感じです。
この「息子を抱きしめる母親」像というのは、他局の主題歌映像では案外見ない絵のような気がします。この辺にテレビ東京の特徴を突き止める鍵が在るかもしれません。
次の絵もそれと同じような関係性を、より洗練された形で描いているようにも思えます。
この関係は、学校に場面を移した場合にも維持されるようです。
歌詞の内容だけを見ると「生徒と教師の対等」という理念の一事例のようにも見えますが、前掲の事例と比較すると、むしろ「女教師」に「母親」の役割を期待している事例のようにも見えます。
また、「となりの関くん(TX,2014)」も、「女子生徒」が「母親の役割」を代理している絵のように、見方によってはとれなくもありません。「男子生徒」が授業中に常に奇抜な「内職」をしている設定なわけですが、主題歌映像に限ってみると、むしろ「仕事」をしているように見えるほどです。「怠けている」ように見えた、テレビ朝日の前掲の「居眠り女子生徒」映像と比較して、そう言えます。そのようにして「大人の役割を遂行する男の子」を「母親がわりの女子生徒」が気に掛ける、という図式にはまっているわけです。
日本テレビと対応しているのは「讀賣新聞」です。日本で(世界で)いちばん購読者数が多いはずの新聞でもあります。そして、日本テレビは、日本に原子力発電所を作り出した正力松太郎が作った日本最初の民放局です。
そういったことと関係在るかはわかりませんが、この局はある時期までアニメにあまり熱心ではありませんでした。その熱心でなかった時期に放映されたアニメのほうが、この局のスタンスをわかりやすく表していると思います。そのスタンスとは「父は素晴らしい」です。ですから不等号を用いて表せば当然「父>子供」です。
対極的な「父」像を提示した二つの番組をまずは見ておきましょう。
「元祖」のつくこの番組のほうが、後継番組なのですが、それはさておいて…、父親の存在感の在る家庭を描いた、この局の代表的なアニメと言えます。もう一つは、…。
とこれまた、父親の存在感しか無い、とまでつい言ってしまいたくなるような家庭を描いたこの作品が、この局の今ひとつの代表的なアニメだと言えます。どちらのアニメも形式的な主役は「子供」なのですが、そのことを忘れてしまうほど「父親」の存在感が在ります。
あと、日本テレビとフジテレビは或る程度以上スタンスが似ている局ですが、フジテレビのほうが、活躍する「ヒーロー」の平均年齢が高く、「壮年男性」であることも多く、日本テレビのほうが「少年がヒーロー」というパターンが多い気がします。この面での代表作は「名探偵コナン」(関連動画)でしょうか。
さて、この局のスタンスを大変よく示した映像を運よく見つけましたので、あと一つだけ作品を取り上げて、日本テレビの紹介を終えたいと思います。日本テレビの考える「理想の子供像」をとてもストレートに表現していて、ただただ感心するばかりでした。
「父親」がパイプを口にくわえている絵もとても気になりました。
フジテレビと対応しているのは「産経新聞」です。
この局のアニメのセールスポイントは、「三世代家族」です。爺さんの威厳だったり人間的魅力だったりによって家族全体がまとまっている「三世代家族」というものを、「当たり前の、在って当然の姿なのだ」と訴え続けることが、この局の使命と言えます。「昔は良かった」がこの局の云いたいことなのです。
不等号を用いて表せば、当然「爺さん>子供」です。
よく見ると、「血縁者」は年齢順に左から並んでいるようです。女性が割烹着とエプロンを着けたままであることも、気になります。
こちらの番組でも、やはり「爺さん」は平服で和服です。ジョギングする爺さんを孫が手助けする絵が印象的です。
主題歌映像では「三世代家族」であることは訴えていませんが、爺さんの出番はとても多いと言えます。
これらの番組を、私は少しずつなら知っていますが、どれも「婆さんの影が薄い」ということが言えます。
またこれらの番組では目立たない脇役である、「ワカメちゃん」や「たまちゃん」のほうを主人公にしたようなアニメもまた、この放送局は星の数ほど放送し続けてきています。
このアニメの内容は知りませんけど、主題歌のタイトルが「おしえて」であり、それは「おじいさん」に対して投げかける言葉なのです。上掲のものはちょうど「おしえておじいさん」を連呼しているあたりの映像です。「おじいさん」がまったく主題歌映像に出てこないので、本編に対して興味を喚起するように作られている、というわけでしょうか。
「おしえて」を逆側から見たような映像は、たとえばこちら。
普通の戦闘ロボットアニメのようですが、どさくさに紛れてこういう映像を忍び込ませていました。爺さんでこそありませんが。
「お爺さん」というのは、一方では社会関係を表す概念(子がいて孫がいる)ですが、他方では実年齢を表す概念として用いられることも在ります。男性で、老人であるような年齢に達している、ということですね。フジテレビは、血縁的な爺さんではなくても、男性の老人が素晴らしい、というメッセージを発している番組もまた流しています。
で、あと、主題歌映像というのはアニメの内容をよく知らない相手に対して見せるものでもあるので、「いちげんさん」には「男性の老人」に見えなくもないような人物が、中心的存在であるような主題歌映像も在ります。私はこういうのも「爺さんは素晴らしい」番組の一種であると分類します。
では、これらのアニメ主題歌映像で「子供」がどうなのか、ですが、すでに見ていただいた「爺さんを助ける孫」「勉強を教わる少年」のほかに、あとひとつ、次のものが在れば放送局のスタンスは充分わかるのではないでしょうか。
「厳しいお父さん、でも、大好き!」といったところでしょうか。厳しさが「身体的」な種類のもの(「体罰」)であるというところもポイントです。別の局ならもっと「言葉」でわからせようとするはずです。第一、若草物語で有名なのは、教壇に立たせる罰であり、尻たたきなど原作に在るかもわからないくらいです。そうまでして毎週この映像を流していたわけです。で、フジテレビが「二世代家族」を描くときには、日本テレビとだいたい同じような方向性になることがわかります。
放送局ごとに「子供と大人」という点でスタンスやポリシーの違いが在ることがうかがえたと思います。ここで書いた見解の多くは、或る程度「常識的」なものでしかないとも言えますが、それでも気付いていない人も案外多い見解でもあります。
子供はテレビのチャンネルは時に選べても、親は選べず、育てる親の購読新聞や支持政党を選ぶこともできません。そういうことの「格差」や「再生産」を問題にする論者も、まあ、いません。今回のテーマによって、そのことの「格差」が、自分の生まれ育ちのあちこちに影響していることがわかった、という人もいるかと思います。
世の中のたいがいのことは、価値観の違いというものが支配しています。「私は価値観にとらわれない」とか「あらゆる価値観を尊重する」という人は、たんに「そういう価値観」(価値相対主義や多元主義)に縛られているか、さもなくば、その人にとっての「自然なあり方と思えるもの」(価値観の違いではなく事実の問題である、と思えるもの)に縛られていくか、です。そして、価値観というのは、特に意識しなければ、きわめて少数の既存のありふれた立場のどれかに収まっていくのです。無論、このページの作者である私だってそうです。テレビ局の提示する「価値観のセットメニュー」だけが価値観では無論ありませんが、ぼおっとしていれば、そのどれかに似通ってくることもしばしばでしょう。
皆さんも、このページを参考にしつつ、身の回りの事柄を分類する、もっと良い類型を見つけ出してください。
執筆に際して、つぎのウェブページに大きく依拠しました。