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「“ジェンダー研究”って何するの?」ともし聞かれたら、「おとなが何をしているか・おとなの社会がどうなっているかを、若者のうちに勉強しておくための学問です」と今の私は答えると思います。ちゃんとした答でないことはわかっています。でも、ジェンダー研究に欠けているものが在るとすれば「子どもの素朴な疑問」という代物であることははっきりしています。そして、社会人になってから慌てて学ぶような内容でもありません。だから、「成人・社会人になってからおかしい・不思議だと感じるような問題を、社会人になる前に観察し考えるための学問です」とやはり答えたいと思います。「子どもの哲学」とかそういうものではないのです。そのうえで言うのですが、今回挙げた小平・氷見両氏のこの本はお薦めできる良い本だと思います。
「ジェンダー研究」は学問である、という印象をいまいちもちにくいところがそもそも在ります。大抵の学問が事実(法則など)や真理(数学的真理など)を扱っている割合が(いちおう)高いのに対して、ジェンダー研究だと「べき論」や「規範的表現」の含有率が高い、逆に言えば、「事実」について多くを学ぶことができにくい、ということが言えます。両氏の専門が社会科学寄りではなく、日本文学研究とアメリカ文化研究である、ということがもしかするとプラスに働いたのかもしれません。疑問形や断定回避型の表現が多く、したがってどこかやわらかい読後感をもたらします。鋭い洞察も時おり示されますが、あまり強硬に主張されるわけでもありません。つまり要するに、読者が自分で考えることがしやすいようになっているわけです。
ジェンダー研究が、文字通りのジェンダーの研究ではなく、「人類の歴史と同じくらい長い女性差別の歴史」を打ち破ることを目的とした「社会運動」であることは知っておいたほうが良いことでしょう。あくまでその運動に即する限りでのジェンダー研究なのです。もし現代の日本が女性に参政権の無い国家であるのなら、ジェンダー研究というのはそのまま政治の研究になり、あるいは選挙制度や情報公開についての研究になったはずです。ジェンダー研究というのは、たとえば「女性性」についての研究というよりは「女性が差別され疎外されている対象」についての研究だからです。しかし現代の日本では女性に参政権は在ります。なので、ジェンダー研究というのは、おもに「労働と経済」についての研究になります。女性が差別され疎外されているのがおもにその領域だとされているからです。ただしここでの「労働」には無論、家事・育児や、或いはたぶん夫との性交も含まれるでしょう。「企業から給料が支払われない」労働というわけです。したがって、ジェンダー論を勉強していくことはそのまま、社会人になることの予習を相当に含むことになります。少なくとも入口にはなります。ジェンダー論→「おとな入門」と言いうるゆえんであります。
ジェンダー研究が文字通りジェンダーそのものについての研究、とりわけ「子どもが抱くジェンダー的疑問」についての研究でないことははっきりしています。この本の中でも「女性がスカートを履けて男性がスカートを履けないのはなぜか?」という疑問を男性は持たない、ということにされていますし、これと大差無いことを(「男性学」と題する本のなかで)活字の形で述べた男性は、「上野という怖い人」に一蹴されて終わっています。そういったことが男性が発言しない理由なんですけどね。だからもちろん、「セーラー服は当初男性(水兵さん?)の制服だったのに、現代だと男性が着たら変態扱いされて終わる服にまで、なぜ変わってしまったのか」という事柄ももちろん扱われてはいません。さらには、学校での合唱の授業が変声期の男子にとっての「差別」と感じられていることも、ジェンダー論のなかで扱われることのおそらく無さそうな話です。発育の早い男子に音楽の成績が低く付いてしまうことなど、「労働と経済」とか、「人類の歴史と同じくらいの差別の歴史」の前には、まったくくだらない話だからです。
よく言われることですが、「男性は女性のヌード写真集を買い、女性は男性のヌード写真集を買う」という構図は成立していません。男性のヌード写真集を買うのはやはり(そういう嗜好の)男性なのです。そのとき、「なぜ女性は男性のヌード写真集を買わないのか」という疑問と「なぜ男性は女性のヌード写真集を買うのか」という疑問とを、対等に説明し、対等に扱うことができる学問こそが、おそらく「理想的なジェンダー研究」「真にアカデミックなジェンダー研究」だと私は考えます。現在のところのジェンダー研究はそういう意味での「真正の学問的な」ジェンダー研究とはなりえていません。あくまで社会運動だからです。しかし、だからこそ「おとな入門」としてなら役立つ。すごい役立つ。そのことを高く評価したいと思います。
総評は以上です。以下はこの本が「子ども向けアニメ」に言及している箇所に限定しての、批評をおこなっておきます。興味の在るかただけ御覧いただければと思います。とりわけ斎藤美奈子『紅一点論』に関心の在る方にです。
たとえば加藤秀一氏の「知らないと恥ずかしい」著書で、ジェンダー論という観点から扶桑社や産経新聞社のことを低く評価している箇所が在ります。そしてその内容を朝日新聞社から出版しています。ということは、ジェンダーという点に関して、産経新聞社と朝日新聞社とは、或る種の対照的或いは対抗的な関係に在るわけです。その事実を著名な社会学者・ジェンダー研究者が身を以て示した格好になるわけです。ところが、テレビアニメに言及したとたんに、ジェンダー研究者はこの関係性を忘れてしまうようなのです。つまり、フジテレビとテレビ朝日とをジェンダーという観点からまるで同列の存在のように扱って平気でいられるのです。斎藤美奈子氏の『紅一点論』はまさにそういう著作であり、小平・氷見両氏のこの著作もまた、その幣から免れていないのです。
初心に還ってみれば、「魔法使いサリー」も「秘密のアッコちゃん」も「キューティハニー」も「キャンディ・キャンディ」も「花の子ルンルン」も「美少女戦士セーラームーン」も(そして「プリキュア」も)全部テレビ朝日系列の番組なわけであり、假にもジェンダーについてテレビアニメを題材に考えようという人が看過できる事実では、これはありません。こういう事実を見落とすことを「木を見て森を見ず」と言うのではありませんか。そういう事実を見落としたまま「分析」をすると次のようなことを書いてしまうのです。p102-103。
男の子向け番組の主人公キャラクターはいつも、科学技術に支えられた壮大な軍事大国の中で、スケールの大きな冒険をするヒーローでありながら、たいていは巨大な組織の末端の1人として描かれてきた。対照的に、男の子向け番組の女の子キャラは、通信係や看護婦など、補佐役やケア係にされている。おまけに彼女たちは、実は○○長官の娘だの××教授のお孫さんなどである場合が多い。つまるところ、巨大組織が受け入れる女性隊員は、身元の確かな「いい家のお嬢さん」なのである。ひるがえって女の子向け番組のヒロインはというと、ご近所の誰かが困っているのを放っておけないやさしい少女で、実は魔法使い。活躍の場を小さな地域社会に限られるカワイイ小学生である。学校が終わると魔法で人気歌手に変身するなど、二足のわらじを履いていることもある。
皆さんの子ども時代に見ていた番組を思い浮かべてほしい。うんうん、こういう感じだったなあと納得するんじゃないだろうか。(中略)
これらヒーロー/ヒロインの姿に夢中で見入っていた各世代の子どもたちは、番組を通じて、男の子/女の子のあり方のパターンを学習してしまったかもしれない。男の子には行動力が大切。少しくらい大胆でなくちゃ。女の子は細やかに気がつき、人の悩みに寄り添うべき存在、などというふうに。
「あれ?(アルプスの少女)ハイジはどこに?」という感じがします。「だってあれは女の子専用番組ではないだろう」と返事が返ってくるかもしれません。それですよ、それ。そもそも女の子専用番組をたくさん作っている局とあまり作っていない局という根本的な対立軸を見落としているじゃありませんか。そういうことなんですよ。フジテレビはあれを「女の子向け」のつもりで当然作っています(番組内容は知らないですけど、おそらくいわゆる「良妻賢母思想」)。それを「両性向け」番組と認定しているのは、分析者の側です。「紅一点論」とかいう企画も同じことです。そもそもテレビ局レベルの座標軸では“「紅ゼロ点」か、それとも「紅一点」か”というところで対立軸ができているわけです。そこで「紅一点」番組ばかりを選定すれば、そのこと自体がメディア上での偏りを見落とすことになるわけです。そのうえで「男の子専用番組」と「女の子専用番組」という比較をすれば、「送り手は女の子向けに作っているつもりの、しかし分析者は両性向けだと思っている番組」を大量に見落とします。もちろん「女の出番なんて無い」という番組だって大量に分析から漏れます。
「うんうん、こんな感じだった」というふうに「感じる」人がたくさんいるとき、多くの人が同じように「感じる」とき、その感じる内容は、解明の根拠ではなく、それ自体が解明の対象です。つまり、「なぜそのように同じように感じるのか」を解明するのこそが学問というものです。その感じを解明の対象ではなく根拠にするのは、かなり「浅い」と言わざるをえません。