古い書評:竹中千春『世界はなぜ仲良くできないの?―暴力の連鎖を解くために』:「古びない」現代史に伴う「古びた」主張の読み方

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この本から主に学ぶことができるのは、中東の現代史とその背景となる近代史です。フセイン氏の処刑やビン・ラディン氏の射殺より以前に書かれた本であり、したがってその分、当然古くなってもいるわけですが、にもかかわらず現代史・近代史の説明の箇所は古びていません。つまり早い話、著者があらかじめフセイン氏やビン・ラディン氏の運命を正確に予想していたとしてもおかしくない説明になっています。そして、その箇所はおそらくかなり「常識」でもあります。知っていると有利という知識ではなく、知らないとちょっと不利という知識です。しかも、そのわりに、マスメディアから学習することも難しいだろう知識でもあります。そういうわけで、その現代史の知識に関して、かなり信頼でき読みやすくもある良い本であることは間違い無いと思います。

にもかかわらずこの本は、それ以外の箇所に関しては古びてしまった観があります。つまり、この本を生産的に読むためには、「この本が書かれた時代(2004年)はこういう時代だったのだ」というふうに、それ自体歴史が刻印された本として読むことです。その点ではかなりすぐれた史料になっていると言えます。この本が古びてしまったのは、著者の力量のせいでは無論なく、要は、そのくらい情勢がすっかり変わってしまったということにほかなりません。

まずこの本では日本国のことをアメリカの「同盟国」と書いています。ここに「古びた」感じがうかがえます。2016年現在の日本で、日本をアメリカの同盟国と感じることは相当難しくなっているからです。どちらかと言えば「属国」「植民地」という感じ方のほうが通常のものだと思えるからです。著者は「ぼやぼやしていると日本国はアメリカの戦争に巻き込まれる」という感じ方を、「冷戦時代の、つまり過去のもの」として提示しています。しかし、この感じ方こそが過去のものになってしまっています。2016年現在の日本で「ぼやぼやしていると日本国はアメリカの戦争に巻き込まれる」という感じ方はまったくありふれた普通の感じ方だからです。つまりこの感じ方を冷戦下に特有のものとして過去化しているあり方が「古びた」在り方のように、現在では感じられるわけです。

著者が想定している読者は「日本は平和だ、良かった良かった」と感じているような若者といったあたりです。この読者設定も、当然過去のものになっています。そして、そのような想定読者に対して、テレビや新聞の報道する世界情勢から目を背けないことを著者は控えめに訴求しています。しかし、「世界情勢をテレビや新聞によって知る」ことを提案することには、古さを感じずにはいられません。2016年現在の感じ方としては、マスメディアは「強力な権力」によってコントロールされており、そこでの報道を無垢に受け止めてしまうことこそがきわめて危険なことだと感じられているからです。もしマスメディアの報道を、とりわけ暴力に関する報道を著者の訴えるように真に受けていたら、「正しい戦争はおこなうべきである」「正しい戦争をおこなう国家は正しい」という方向に誘導されてもおかしくないだろう、というのが現代のおおかたの感じ方だからです。

まあ、言い出せばきりがないところは在ります。たとえば、コロンブスという人物の歴史的評価が留保されていることと、合衆国の成立に関して何も述べていないこととは、なんらかの関係が在るかもしれません。つまり、アメリカとは「強盗殺人者」の子孫が過半を占める国家である、という事実から目を背けているのかもしれません。或いは、「原発を認めるか、さもなくば電気を消費しないか、どちらかだ」といわんばかりの二択を挙げることにも、少し違う話題に関連する事柄ですが、古さを感じます。今そんなことを言うのは既存の大手電力会社の回し者だけだからです。それは、原発が社会的弱者の居住地域に集中して立地されている事実とは独立に言えることです。

そういうわけで、この本にはおおまかにいって、三種類の叙述に分類してそれに応じて読む態度を変えるというのを推奨します。過去形で書かれている歴史的事実に関する箇所は、だいたい信用して良いと思います。わかりやすさという点でもかなりいい線を行っていると思います。この箇所は、コピーして、チェックペンで固有名をマークしまくって暗記するのも一法です。次に、現在形で書かれている「普遍的事実」に関する箇所は、半信半疑くらいでいいと思います。この本が書かれたときならそれで良かった、でも現在は違うかもしれない、という頭で読むことです。そして、未来に向けての提案や主張は、もちろん、現在の事実に照らして、あらためて考え直す必要が在る、という箇所として受け止めておくことです。ところで、この本は「なぜ仲良くできないの」という問いをかかげていますが、現在の視点だとこの問いも少々ミスリードな感じがぬぐえません。というのも、「戦争」よりも「一方的なジェノサイド」「一方的なテロ」の方が現在ではよほど問題である観があり、それは「なぜ一方的に殺すの」とでもいう問いがふさわしいからです。そして「なぜ仲良くできないの」という問いは「正当防衛として戦う」ことすらもいけない、と言っているかのようです。これはおかしいと思います。「反撃」「報復」と「正当防衛」とは違うのです。もちろん、過去には「正当防衛を装った」戦争も多いわけなので、著者は「正当防衛だ」という言い訳も許したくないのでしょう。でも、正当防衛を装うことと本当に正当防衛することとは違うのであり、著者の問いもあらためて問い直す必要が在ると思います。