コメント:三浦雅士『身体の零度: 何が近代を成立させたか』
三浦雅士『身体の零度: 何が近代を成立させたか』(講談社)
(目次等)(amazon)(ブクログ)(読書メーター)
以下初出時のものを大幅に書き直している。その後微修正しているがいちいち断らない。
近代の成立にあたって、身体というものに関する大きな変動が在ったことを例証しようという論考である。身体というのは、他人・自己の身体を「外側」から見たり加工したりという経験も在れば、自分の身体を「内側」から感じるという経験も在る。そのため身体に対する関心というものも、多岐にわたることになる。それらの多岐にわたる身体にかかわる経験の変容が、近代に在ったという話だ。
三浦は「身体の零度」という概念が、そう呼ばれること無く、無自覚的・自覚的に近代以降求められ始めたことに注目している。加工されていない身体こそが、身体の自然の姿であるということだ。すると身体の零度というのは、「すっぴん」のようなものを考えると良いように思えるが、しかしそう単純でもない。現代人が「すっぴん」を想定するときには、頭髪・眉毛などがきれいに切りそろえられていて、もちろん服を着ているし、そもそも毎日入浴しているような身体になるだろう。しかし本書のどこかに書いてあったように、たとえば19世紀のフランス人は月に2回もシャワーを浴びているかからして疑わしいわけである。そういう状態で想定される「身体の零度」は現代人の考えるそれと、おそらく大幅に異なっている。ともあれ、人々の想定する「身体の零度」が近代以前と比較して、近代の真っ只中であるうちに大幅な変動を遂げてきて、そうして(比較的)現代に近い時代になってきた、というわけだ。この書自体が20世紀末の書籍なので、「現代」といってもまだだいぶ以前ではある。
「身体」に対して現代的な観点から興味をもつ経路はいろいろ在るだろう。「日本のダンスグループ「アバンギャルディ」が米AGTに出演。岩崎 宏美の「シンデレラ・ハネムーン」に乗せて独創的なダンスを披露し、会場から大喝采を浴びる。」という動画でのパフォーマンスは、三浦の想定している「身体の零度」をどこか突き抜けてしまった観が在る。なぜなら単に個体差を抹消するだけでなく、アバンギャルディは積極的にそっくりな外見の集団を形成しているからだ。「おそ松くん」の大群である。他方、「集団行動 2007」という動画でのパフォーマンスは、三浦のこの書での立論の自然な延長上にあるとも思えるが、ただし、こういったパフォーマンスがたとえば小中高の「体育」「ダンス」の時間や運動会などで、ますます生徒に課せられるようになりつつあることは、少し気にされて良いと私は思う。「ダンス」という教科が導入されたのはそのためではないかと思えるほどだ。また、長山靖生氏もどこかで言っていたと思うが、「正社員とアルバイトの身体所作の違い」ということに関心が在る人もいると思う。私自身も、企業の面接に来ていた正社員志望の人々の身体の動きがものすごくビシッとしていることに驚いたことが在る。あんな軍隊みたいな身体動作をしないと正社員に採用されないのだろうか。他方、そういった諸々と比較して、レイブにおける客の身体の在り方に関心をもつこともできる。単なる例だが、「DJ Ken Ishii」をレイブの身体の例として挙げておく。ロックバンドやアイドルのイベントの観客とはだいぶ違うことは判ると思う。ロックバンドの例:「SEX MACHINEGUNS/ファミレスボンバー(LIVE 2001)」
もちろん、美容整形とか痩身とか、他にもさまざまな関心の持ち方が在るだろう。そういった関心をもつ場合にも三浦のこの書は何かしらかの示唆を与えるかも知れない。纏足やコルセットによる身体加工から徐々に脱却するにつれて、人々は蠅のような自他の区分を無視して傍若無人に振舞う昆虫を忌み嫌うようになり、個人的な感情や表情といったものをもつようになっていく。今在るような「自己」というものが近代に入って確立されてゆく、というわけだ。こういったことを背景にして、身体への関心を位置づけたり考察することができるようになる。あと、農耕民族と騎馬民族の動作上の違いなどは、本格的に研究するに値するテーマであるように思わされたが、この書のなかではさわりに留められている。
三浦雅士は、日本の「知」のプロデューサーとしてトップクラスの人物である。当人自身は学術の研究者とは言い難いし、この書も研究者の書くものというよりは「評論」のような歯切れの良さをもつ。読みやすい。高校生に薦めるのもその理由が大きい。さてしかし、氏は学術研究者ではないにしても学術の動向には大変に詳しいし、研究者である書き手を発掘して機会を与えることで、学術を産み出してすらいる。そういう人は他にも富岡勝(勁草書房)とか上田哲之(講談社)が挙げられようが、彼らと比較しても三浦はさらに一段と年季が入っている代表者のように思う。私個人にとっては三浦雅士と富岡勝とは双璧であるが、三浦雅士のほうがより多くの分野にまたがって活躍しているようだ。
この書が書かれるさらに10年前の1980年代くらいからその後10年以上にわたって、身体をテーマにした学術的な論考は多かった。その一因はこういうことではないか。つまり、三浦の言い方で言えば「写真」というものが「文章」や「絵画」に比較して、「自明な事柄を省略しない」点ですぐれたメディアであり、そこで省略されない事柄、逆に言えば「文章」「絵画」などでは把握が難しいのが身体にほかならないからだ。それだけ身体というものの特に歴史的な研究は一定の限界が在るとも言える。なので、そこへのアプローチのヒントにこの書は満ちているというふうに思う。また、近代という時期についてイメージを形成するのにも有益である。そうすると人文系の学問に入りやすくもなる。これも高校生に推薦する理由の一つになる。
なお念のためにいちおう書いておくが、この書は特に前半の一部の内容は「読んでいて気分が悪くなる」ような叙述も散見される。デリケートなかたは注意したほうが良いと思う。