コメント:羽田正『新しい世界史へ――地球市民のための構想』

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羽田正『新しい世界史へ――地球市民のための構想』(岩波書店)

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  • 高校で教わる歴史科は2020年度から一変しているはずなので、不明の点も在る。だが、おそらく、この本は、「自分が世界史という名前で何を教わっているのか」の高校生の理解に寄与することは間違いないだろう。著者の提言している「新しい世界史」が学校や受験でのそれとあまりにもかけ離れているだろうからだ。
  • 「歴史科は流れを押さえることが大事」とか「歴史的事実の因果関係を把握することが大事」とか、そんなふうに教わって来た人も多かろう。そういう人が読んだら「見間違いじゃないか?」とこの本に対して思うと思う。というのも、この本が「ぜひ改革するべきだ」と提言していることの一つが、「時系列に沿っての理解」はやめよう、という方向性だからだ。なぜ著者はそのように提言するのか。川の流れというものを考えてみよう。「川の流れをよく観察することが大事です」というときに、それが「同じ川」であることが前提される。上流と下流と支流などで、「同じ川」かどうか断定しづらい場合であってもだ。著者が非難して止まないのは、この「同じ川であるという前提」である。たとえば「漢」と「唐」とは同じ「中国」であるか否か、という問題の立て方があり、著者はそういうのをやめよう、と言っているのである。
  • 著者の批判の矛先がまず集中的に向かうのは「ヨーロッパ」という語である。著者が何度も述べるように、「地理的な範囲としてのヨーロッパ」と「概念としてのヨーロッパ」とはしばしば混同される。ヨーロッパの一部にしか当てはまらないことを全部に当てはまるように述べたり、ヨーロッパ以外の地域の影響も無視できない場合であっても、ヨーロッパに特化して他の地域を排除した歴史記述を行なったりする。そのようなものは「概念としてのヨーロッパ」であるにすぎない。そういうのを無くしていきましょう、と著者は言う。「ヨーロッパ」以外にも著者の批判はなされるが、「概念としてのヨーロッパ」に対しては特別に紙面が割かれる。
  • 「概念としてのヨーロッパ」と「地理的な範囲としてのヨーロッパ」とを混同して、「同じ川」であると見なしたうえで、その「川の流れ」つまり「時系列に沿った歴史の流れ」というものを記述することは、他の「川」の場合よりも悪影響が大きい。というのも、ヨーロッパのいくつかの国では、「世界史」という名前で「ヨーロッパ(の一部)史」を事実上教えているにすぎないからだ。日本の「世界史」という科目が、「ヨーロッパ」も「アジア」も扱うのとは大違いなのである。「第一次世界大戦」という言い方にも表われているが、ヨーロッパのなかで支配的な見方というのは、「世界とはヨーロッパのことにほかならない。そしてヨーロッパ以外の遅れた国には進歩がなくしたがって「歴史」などない。だから世界史というのはヨーロッパの歴史にほかならない。」というものだ。この点が看過できないため、著者の批判の多くがこの点に向けられる。
  • 著者の目指しているのは「地球レベルでの対話ができるようになる、共通フォーマットとしての世界史」を新たに創ることだ。そのときに、「世界史=ヨーロッパ史」のように学校で教わっているような相手こそが、もっとも妨げになることは間違いない。もちろん、日本国での「世界史」にも、中国での「世界史」にも、それぞれなりに問題は在るのだが、フランスなどの「世界史」に比べれば比較にならない。彼らはヨーロッパとアメリカ以外多分何も知らずに「世界史を教わった」と堂々と言えてしまうのだ。そのような相手とでは、「地球レベルでの対話」はまったくできない。特にこのことが環境史について言えるだろう。地球環境問題のようなテーマに、現在の「世界史という教科」はまったく無力であるほか無い。「地球レベルで共有される世界史」というものが絶対に必要なのだ。だから、そこからトップダウン式に「時系列に沿って歴史の流れを掴む」といったものではない、歴史科の教育内容の提案がなされることになる。
  • 著者の遠大なビジョンがそうそうすぐに実現するはずもなかろう。比較的手軽にできるのは、まず「世界史という教科の歴史」を記述することだ。著者自身が第一章で行なっていることだ。それをもう少し詳しく、世界各国それこそまんべんなく調査し、まとめるのだ。それぞれの国なり集団では、どのようにして「世界史」という教科を作り上げてきたのか、その歴史と現状をまとめるのである。ただしここには「言語の問題」がからんでくるので本当は容易ではない。著者も述べるように、「地球レベルで共有される世界史」は「何語」で書かれるのか、という問題が在るからだ。それが「地球レベルで共有される世界史という教科の歴史」においてすでに顕在化するだろうからだ。決して安易な道ではないだろう。
  • 次にぜひ必要なのは、著者自身が批判してやまないような「概念としてのヨーロッパ」だったり、「漢民族中心主義」だったり「イスラーム世界という語彙」の、その歴史を描くことである。それらを単純に信じ込んで歴史記述を行なうのではなく、それを単純に信じ込んでいる人間集団の歴史を描くのである。これも著者自身もプロジェクトとして述べているが、私は強調しておきたい。たとえばどのようにして、人間集団は「概念としてのヨーロッパ」というものを思い描き、それに従って歴史を動かしてきたのか、「概念としてのヨーロッパ」が生み出してきた歴史を描くのである。「思っている」ものは、たとえば「歴史の年表」には記載することはできない。「行動したり、記録したもの」でないと「歴史の年表」には記載できない。その認識のうえで、「概念としてのヨーロッパ」というものがどのように人間集団を動かしてきたのかを記載しようとするのだ。「第一次世界大戦」という言い方が一世紀近く通用した、という事項もそこに入ることだろう。
  • そのうえで、著者は、「ヨーロッパ」とか「中国」という呼び方自体も変えたらどうですか、といったことまで提言していたと思う。「西方ユーラシア」「東方ユーラシア」などと呼んではどうでしょうか、と言っていたと思う。地名の呼び方の問題が絡んでくると、実は「歴史」と「地理」とを別教科にする理由も消失する。従来通りの「世界史」にせよ、著者の提案する「地球レベルの対話ができる世界史」にせよ、まず「地名」の学習からスタートするのは同じだからだ。「地球レベルの対話ができる世界史」の「第一章」は「地理」になるのかもしれない。そして、地域を呼ぶ「新しい呼び方」が盛り込まれるのかもしれない。