コメント:永井均『マンガは哲学する』
永井均『マンガは哲学する』(岩波書店)
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今私はコメントを書けるような精神状態ではあまりない。生とか死とかそういう話題は今考えにくい状態なのだ。そのうえで、ごく簡単に書くと、「普通の人が普通に哲学だと思っているもの」とは少し違ったアプローチで、著者の哲学的思考が公開されている。この種の哲学は「役に立たないというしかたで役に立つ」ものなのではないかと思う。ただ、大学生が哲学レポートを書いたりする場面では、わりと直接的に役立ってしまうかもしれない本だ。とは言え、レポートを書くのには役立つが、この本のスタイルで「論文」は書けない。ともあれ、この著者の書いたもののなかでは、おそらくいちばん読みやすくとりつきやすい本でもあり、しかも内容が決して浅くはない。
「なぜ死ぬのが怖いのか」という問いに対して「痛そうだから」と答えた登場人物が的外れという扱いを著者によって受けている。そうだと思う。だがその種の的外れさをきわめて多くの人が必要としているとも思う。死に伴う痛みや苦痛や恐怖というものに対する恐怖といったものは、死そのものに直面しないために、役立つし、多くの人が役立てていると思う。多くの人は著者のように「強く」はない。「痛そうだから」というふうにして死から目を背けることがどうしても必要なのだ。そのように私は思った。そもそも2021年というこの時期に死についてごまかさずに真正面から考えるということができる人が世界的にもそう居るとは思えない。まあこの話題はこのくらいにしておこう。
著者が職業哲学者であることを知らない人が書店・図書館でこの本を手に取って読んでみたとき、たぶん感じるのは「SFのようなものを、哲学とこの著者は呼んでいるな」というものだ。SF以外の作品にもこれは当てはまることが多いだろう。そして、「SFのような哲学的思考」というものを何気なくインプットされることだろう。実生活にはちょっと役に立たない。しかし例外として、哲学のレポートを書くときはそれは役立つのだ。それが哲学のすべてであるはずもないし、すべての哲学がそうであるはずもないが、しかしそうなのだ。
主専攻と副専攻という区分を持ち出してみよう。哲学を副専攻にすることができるジャンルはほとんどないのではないか。社会学の半分以下くらいしかないのではないか、と思う。社会学者を除けば、哲学的な議論が理解できない他分野研究者が多いからだ。反対に、哲学のほうを主専攻にすることは容易そうだ。哲学者は他分野の研究を理解できる場合が多いからだ。そのくらいに、哲学は「哲学にするか別の学問にするか」の最初の二択になってしまう。なので、そのどちらにするにせよ、永井のこの本のように手っ取り早く哲学を感じとることができる書籍は貴重なのだ。この本が合うなら哲学にすればいいし、合わなそうなら別の学問分野を選べばいい。
「人生の意味って何?」とか疑問になったときに、この書が役立つかどうかはいくぶん疑問だ。むしろそういう読者を置いてきぼりにするタイプの書だと思ったほうが良い。たしかそういう生き方は著者は「ロボット」のようなものだと書いていたような気がする。人類のためや社会のためや未来のために生きるという生き方が、総じて「ロボット」のような生き方だと位置づけられていた。尤も、そう捉える見方は、『漂流教室』や星野之宣の諸作品の位置づけ方と、少し緊張関係に在ると思う。これらはどちらも「人類のため」であるがよりどちらが人類のためなのか、という問題であり、それならどちらをとってもロボットのような生き方にならないとおかしい、ロボットのような生き方のなかでの選択でしかないように思えるからだ。などと、疑問などをもちながら読むことができる。