コメント:阿辻哲次『漢字を楽しむ』

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阿辻哲次『漢字を楽しむ』(講談社)

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  • 中国文学の専門家が、ふと世の中を見回してみたらいろいろと不思議なことが起こっており、それに対して専門的見地からコメントする、という基調の本である。いい意味で少し世間の感覚とズレている所が在る、と今回再読して感じた。指摘・示唆されている問題を少しながめてみよう。
  • この本を高校生に推薦した最大の理由はもちろん、学校教育や進学塾などでの「漢字の書き取りテスト」の採点基準が専門家の見地からは奇妙である、ことを知ってもらうことに在る。ただし、よくよくみると必ずしも「ハネだのトメだのに対して寛大であれば良い」と著者は主張しているのだ、と言い切れない部分が在ることにも気づく。著者は「干」と「于」ならば「ハネ」の有無を見て採点するのが当然だ、ということも述べているからだ。すなわち「物于し竿」と書いたら「×」にして良い、というのが著者の立場だ。決して単なる寛容ではない。「木へんをハネたら×」とか「保の字の、右下の部分を“木”と書くと〇で、“ホ”と書くと×」といった一部世間での「異常な採点基準」にしても、「専門的にはそういう書き方も今まで(特に中国では)普通にされてきていたから」〇にしてよい、という話なのだ。専門家からすると、戦後内閣から告示された「当用漢字字体表」こそが問題ある字体であり、それを不動の根拠として書き取りテストで採点することこそが「間違い」である、という話に近い。
  • 漢字テストの採点基準に関連した話題でもう一つ重要なものに、「書体による字体の違い」というものが在る。これは著者によれば「読むための書体と、書くための書体とは違う」という話であり、たとえば小学校の検定教科書では、書くための書体である教科書体であるのに、中学校の検定教科書では、読むための(デザインにこだわった)書体である明朝体で書かれている、その結果としてたとえば「比」や「令」などのように書体によって字体が異なり、下手をすると「画数」テストにも影響しかねないことになるわけだ。「比」は教科書体なら画数は四画だが、明朝体なら五画にならざるをえない。同じような状況はしんにょうの「点」の数にもあらわれており、たとえば楷書体なら点は二つが正しいが、明朝体だと点は一つであり、なおかつ、常用漢字は無条件で(文科省によって?)点は一つと統一されている。これもまた、義務教育の外部では「画数」テストが実施できない状況を構成しているだろう。義務教育で行なわれる漢字テストならしんにょうの点の数は必ず「一つ」であるわけだが、世の中の出版物で特に楷書体で書かれたものなら、「二つ」が「正解」なので、ここでも混乱が生じうるのだ。ここでは、「漢字テスト」というものへの疑念と同時に、たとえば人名を卒業証書に記載するときに過剰に戸籍での字体に忠実にあろうとすることへの疑念もまた、提示されている。著者自身は卒業証書をもらってすぐに四つ折りにしてしまえるような人物だったようだが、世の中全体としては卒業証書というものはそのような扱いにはなっていない。人名の字体に過剰にこだわることも、それと無関係ではないだろう。そういう問題が示唆されることになる。
  • 「重箱読みと湯桶読み」に関しても少し述べられていた。世間の人は、ごく単純に「音読み」と「訓読み」との区別にほとんどこだわっていないし気にしていない。「絵(え)」とか「菊(きく)」が「音読み」だと言われると驚く、とかその程度である。そのことがわかるのは、子どもにつける名前の変遷のようなものを眺めるときである。戦前生まれなどでも重箱読みや湯桶読みの名前の人はおり、その点については二つ假説が想定可能だと私は思う。一つは「重箱読み・湯桶読みのほうがむしろ名前にふさわしい」「そうでないと、名前と一般的な熟語とが混在してしまう」というタイプの信念や感覚が存在している、というものであり、もう一つはその反対に「特に訓読み、せめて音読みで統一されているほうが名前にふさわしい」というタイプの信念や感覚もまた存在している、というものである。そして「隆史」と書いて「たかふみ」と命名する親は後者の信念・感覚に従って命名したのだろうな、と推察は可能だが、「隆史」と書いて「たかし」と命名する親がどんな信念や感覚に従って命名したのかは安易に推察はできないのである。「湯桶読みの方が名前らしい」という信念かもしれないし、単に音読み・訓読みの違いにこだわっていないだけかもしれない。で、本書での力士の醜名の話題、たとえば「豊真将」を「ほうましょう」と読ませる点なども、同じことが言えるのだ。単に音読み・訓読みの違いにこだわっていないだけかもしれないし、むしろ「ほうま」という重箱読みのほうが名前にふさわしいという信念や感覚が介在しているのかもしれない。そのあたりはわからないのである。一つ言えることは、人名だろうと醜名だろうと、「変化」を求めて変遷していくところが在るので、重箱や湯桶読みの方向に進みやすくはある、ということだ。訓読みの力士が少しずつ減っていることにもその事情はやはり介在しているように筆者には思える。で、「音読み」だの「訓読み」だのというのは、典型的な「字源の知識」であり、生活の中で有意味であることはあまり無いものだ。また漢字テストでもそんなに出題されないような知識でもあるように思う。なので、その点で専門家である著者が世間をみて、その感覚の違い方に少し驚いている、というようにこの件は見受けられた。
  • 「漢音と呉音と唐音」という話題も取り上げられていた。筆者(私)は最初この話題は「素人でも感覚的に区別できるだろう」と高を括っていたが、「楽」の字を「らく」と読むのも「がく」と読むのもどちらも「漢音」である、と調べて知って、少し慎重になった(本書の中でも著者によって暗示はされていた)。「音楽」と書いて読みが「おんらく」なら「漢音」、「いんがく」なら「呉音」などというふうに最初筆者は思っていたが、そんなことではないらしい。とは言え、これはわりと例外的なほうであり、大概の場合は、多くの人は直感的に「漢音」と「呉音」の区別がつく場合のほうが多いようにも思う。つまり、知らない漢字熟語に出会ったときに、まず試してみるのが「漢音」であり、次に試してみるほうが「呉音」、それすらめったにしないし思いつきもしないのが「唐音」である、というふうに、ひとまず大まかには言えると思うからだ。その程度のふわっとした感覚くらいはもっていないと、日本語の漢字熟語は習得が頭打ちになるはずだ。「平等」と書いてあって、一度は「へいとう」を先ず試してみて、それで間違いなら「びょうどう」とか、そういうふうにしてわりと普通に「漢音」と「呉音」の区別は生活に密着しているところが在り、「音楽」のように推察が難しいもののほうが例外だろう、とひとまずは言えると思う。そうすると、「人間」という文字列を初めて見たら、普通は漢音から試してみるのでまずは「じんかん」と読んでみて、それは間違いですとなったら次に呉音で「にんけん」そして「にんげん」と読んでみて「はい、正解」となる、というやや変則的なことになっていることもわかる。
  • 明治時代になって翻訳語として急造された多数の漢字熟語は、(呉音とかではなく)漢音で読む、というのが原則であるらしい。この漢字熟語たちに同音異義語が多くなりやすいのも、その事情も大きな原因の一つだろう。そして、漢音での読みこそが正統であるというのは、本書によれば桓武天皇の時代からのものであるらしいが、それが明治以降の「造語」にまで大きく影響して現在に至っている、というわけであるようだ。この点は勉強になった。
  • 私は、小学校のときに「自由研究」という枠での勉強で「形成文字」という概念が在ることを知って、非常に感銘を受けたことを記憶している。漢字を一定程度読み書きするようになっていた私は、自分のやっているその読み方に「名前がついている」ことに感心したわけだ。そして、今回この書を読んで、何でもかんでも形成文字のようにして読むことを「百姓読み」と呼ぶ、というふうにこれまたその行為にすでに「名前がついている」ことをも知った。この書には、漢字テストへの違和だけでなく、いろいろな気づきの可能性をもっている。ただ著者が博識すぎるため、一般人と少し感覚がズレているところも在る。それも込みにして、楽しむことができるだろう。
  • 「百姓読み」によって、「誤った読み方」が定着してしまっている例を著者はいろいろ挙げている。だがこの箇所は少々違和を私は感じた。たとえば「消耗」が誤って「しょうもう」という読みが定着してしまったのは、学校でそう教わるしそう書かないとテストで×になるからにほかならない。「輸入」を「ゆにゅう」と読む「誤り」も同じことだ。一方「垂涎」が誤って「すいえん」と読まれるのは、そんな人がいることすら知らないのだが、それは単に「百姓読み」の結果にほかならないだろう。「垂涎」に「すいえん」というルビを振っている出版物など見たことが無い。他方、「憧憬」が誤って「どうけい」と読まれるとしても、その誤りの責任は一般人には無く、出版社等に在るだろう。筆者が観察する限り、「憧憬」に振ってあるルビは、ほぼ正確に「しょうけい」と「どうけい」が半々だからだ。誰か調べてほしい。出版物にそうルビが振ってある状況であるのと、「垂涎」を「すいえん」と読むのとでは全く事情が違う。この点は少し声を大にして言いたい。だがそれは著者の専門というよりは、現在の言語使用のほうを研究する、言語学者の分担になるかもしれない。
  • なお、著者は、本文が漢字だらけにならないように、けっこうな注意を払って、或る種の語は漢字で書かないように気を配ってもいる。漢字の専門家がどういう箇所をかな書きにするのか、と、そんなところに注目して読むのも面白いかもしれない。