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私はこの分野に関して全く素人であり、それは想像以上であった。というのも、今しがた確認のために、高等学校の地理や現代社会の教科書を見たら、この著作のテーマに多々関係するような事柄が記載されていたが、そんなことが教科書に書かれているということも知らなかったからだ。特に地理の教科書(帝国書院と清水書院)に書かれている事柄を、「まさかその程度には記載されているなんて」ということすら知らなかった程度の素人である私は、まさにその素人視点を生かしたコメントをするしか手は無いだろう。要するに、「地理」という教科や、そもそも高等学校の社会科全般を私はよくは知らないのだ。
青柳の上掲書は、面白い著作だと思ったから、高校生向き図書館に推薦もした。だが、そのときには「高校生がどの程度知識が在るか」を知らずに推薦した。この件に関しては後述する。で、また、この本が面白い著作だといっても、まったくの素人が頭から普通に読んでいって面白いと思えるかは少々疑問である。まったくの素人の場合、読みながらいろいろと思うことが在るだろう。その疑念のような感覚を読了するまで保持していって、その後記載の順番や仕方を再編成したほうがこの著作は面白くなるのではないか、と素人読者なら思うだろう。この青柳の著作は言ってみれば、平凡な推理小説のような順番で情報提示されているのに近い。つまり、まず事件が発見され、捜索され、推理され、最後に犯人や真相がわかる、そういう情報提示の順番に近い。ただしこの著作には、「犯人」だの「真相」などといったものがさほど強い意味で存在しない点は違う。そんなふうに着地はしないのだ。いずれにせよ、このようなミステリ的な情報提示の順番は、どちらかと言えば玄人向けの情報提示なのだ。素人向けには、謎解きではなく、犯人が犯行を計画実行してそれが発覚していくという倒叙物ミステリのような情報提示のほうが向いているのだ。そのほうが頭に入りやすい。そうなってしまう主な理由は、この著作が扱っているのが、哲学や心理学のような日常的な「謎」ではなくて、外国の話題を中心とした「固有名詞」がふんだんに出てくる知識依存型の「謎」だからでもあろう。そして、固有名の知識のうち或る程度は読者は知っているものと見なされて、特に目立つようには言及され紹介されたりしないから、でもあろう。実際、私のような素人だと、この著作で提示されている各種の固有名詞の「言わんとすること」を本当に十全に受け取ることができているかは、すこぶる疑問だ。
ただし、文章は平明で読みやすい。この点は強調しておく。素人だからと臆する必要は無い。そして、文章は端正でもある。お行儀の良い文章なので、お手本にもなると思う。
私がこの著作を、高校生向け図書として面白い本だと思った理由というのは、こういうことだ。たとえば、レポート課題などで「事実と意見とを区別せよ」と指導されることがきっと高校生にも在っただろう。で、そういうときに「事実」というのは、「これが事実です」と言わんばかりの資料などに掲載されたものがそれである、と扱われることも多かっただろう。国勢調査の結果などというものも、その一つである。ところが、その国勢調査によって明らかになった事実というものの真偽はさておいて、そもそも国勢調査というものを誰かが発案し、企画し、実行し、そして結果をまとめるといった一連の作業が行われるという「事実」というものもまた、在る。「事実」というものは、「それを事実化するという事実」と常にワンセットになって在る。そのことがこの著作を読むととてもよくわかる。「ああ、事実というものはこうやって作られていくものなのだな」「こうやって作られているという過程もまた事実なのだな」という、そういうことがわかる。いやでもわかる。この著作はそういう著作である。そういうことを面白がれるという人は決して多くはないだろうが、まあ、居ないということもないだろう。また、通常の文系や理系の大学に進学する人の多くは、そういうことを少しくらいは面白がれないようだと、大学での勉強が苦痛になる。そういう試金石になる本かもしれない。ただし、そういうことを面白がる人は、もはや「国勢調査の結果というものは厳然たる事実である」などとは思わなくなるだろう。そういう代償はついてまわる。
この著作で扱っている内容というのは、たぶん、こういった話題に近いと思う。筆者は昔幼少の頃、何かで日本の地方の分類というものを聞いた記憶が在る。それによると三重県というのは近畿地方なのである。筆者は長いあいだそれを鵜呑みにしていた。しかし、実際に行ってみたことが在るが、その印象は違う。三重県というのは、どうみても愛知県の延長に在る県のようにしか見えないのだ、また、三重県と和歌山県は少なくとも違う地方でないとおかしいだろう、と思ったのだ。だからもし分類するのなら、三重県は中部地方でないとおかしい、あるいは地方の分類を「愛知県」を中心としたものに再編成しないとおかしい、と思ったのである。で、この「中部地方」とか「近畿地方」というこの分類項は「事実を表す」カテゴリーなのだろうか、という問題である。学校教育で知識として覚え込ませて良いカテゴリーなのだろうか、という問題でもある。この青柳の著作が扱っているのも、この種のタイプのカテゴリーにまつわるものが中心に来るのだ。
もう少しこのたとえ話を続けると、こうなる。日本国民に政府が地方ごとの人口を調べるアンケートをとるときに、「中部地方」というカテゴリーを選択肢に用意したとして、それが本当に意味が在るのだろうか、と思う人が決して少なくなさそうだと思う。「熱海」に住んでいる人は自分の地方を選択するときに「関東地方」あるいは「関東甲信越地方」を選択する人が多数出るかもしれない。また、三重県に住んでいる人は、居住地方を聞かれたときに「近畿地方」を選ぶ人と「中部地方」を選ぶ人とに割れてしまうかもしれない。それで政府のアンケート担当者が困って、「中部地方」というカテゴリーをやめて、「中京地方」にしたらどうか、あとついでに「北陸地方」というカテゴリーも作ろう、などと言って、会議がますます紛糾する。もちろん、ここでいちばん肝腎なのは、そもそもなんだって政府が国民にアンケートで「居住地方」を質問して調査しなければならないのかなのだ。この例の場合なら、馬鹿げているから特に問題は無い。だが、国家や政府がもう少し威信をかけて行なう調査の場合にも、同じようなタイプのことが起こるのだ。この著作が扱っているのは、そういう問題である、と思ってもらって良い。
なので、この青柳の著作も、「なぜ国家や政府がそんなことを国勢調査で調べたがるのか」を最初にまずドーンと提示してから、徐々に詳細の紹介をしていくほうが、品は無い(し、学術的にもなりにくい)が、しかし素人にわかりやすい本にはなる。
それは大要次のようなものになろう。「国勢調査というもので熱心に、人種だの民族だのを調査しようとする政府というものは、要は次のことを知りたいのだ。人種に関してはこうだ。1つは“純粋な白人”がどれだけいるか、“白人度100%”のような人間が人口のうちどのくらいいるのか、それを知りたい、というのがまず在る。もう1つ在る。それは“ほんのちょっとでも黒人の血が入っている者”がどれだけいるか、“黒人度0%でない者”がどれだけいるか、それを知りたい、というのがまず在る。人種に関して言えば要はこの2つなのだ。で次に、民族に関しては、p187の記述を援用してみよう。次のような記述が参考になる。
しかし現在複数のエスニック集団を擁している国々の大部分は、大航海時代以降に形成された場合が多い。たとえば植民地国家のように、もともとたくさんの異なる民族が住んでいた地域に、ある日突然欧米の列強が現れ、自国植民地として特定の地域を線引きしてしまった場合である。植民地の頚木を脱して独立を宣言しても、かつての植民地の領域を単位として独立する場合が多いので、新生国家の中には必然的に多数の民族が含まれることになる。これを第2の類型としよう。
そうすると、ここではその「欧米の列強、という民族」と「先住民族」とに分かれる。その先住民族も多様かもしれない。だが、いちばん重要なのは、その種の歴史をもつ国家の場合、まず「支配する側の民族」なのか「支配される側の民族」なのかだ。国勢調査で民族を調べるというのも、おおもとに在るのはまずその区分だ。ただ、この区分は往々にして、白人とそれ以外という区分と重なりやすいため、そのことが少し見えにくくはなる。いずれにせよ、結局は「あなたの先祖は支配する側の民族でしたか、それとも支配される側の民族でしたか」となって、ちょっとでも支配される側の民族の「血」が入っていると不純となり、先祖を遡ってもなお「支配する側の民族」の「血」が100%であるかどうか、でこの国勢調査の回答も決まることになるだろう。ただし、黒人であるか否かよりは少しこの尺度のほうは緩い場合もある。アメリカ合衆国の先住民の場合などは、「ポカホンタスの例外」(p51)などとこの著書で紹介されていて、アメリカ合衆国では「インディアンの血が1/16以下」だと「例外的」に白人として認められるというものである。また本来なら、同じ民族であるためには、「血がつながっている」必要は無く、養子などの親子関係でも構わないはずだろう、ということは言える。
ともあれそうすると、この著作を読む限りだと、人種と民族との区別は国勢調査という点では、あまり意義が無い、ということになるだろう。A人種かB人種かどうかは、自分の父親と母親とがどちらの人種であるかで決まってくる、その父親と母親の人種はというと、さらにそれぞれの父親と母親がどうであるかで決まってくる、というそういう話になる。で、民族の場合もほとんどまったく同じようなのである。A民族であるかB民族であるかは、自分の父親と母親がいずれであるかによって決まってくるし、そのまた祖先をたどっていくというのも同じである。ただ民族の場合は、人種と違って、「血のつながった親子」であることは求める必要は元来は無いだろう。本当なら、養子関係でも一向にかまわない。ただ、いずれにせよ、国家によっては、上の「ポカホンタスの例外」のように「1/16だけインディアンの血が入っているか」程度は質問してくるし、回答することを求められもする。自分の祖先をその程度に把握していることが要求される、そこに国勢調査で熱心に人種や民族を質問してくる国家の「情念」がまあ成立しているように思えてくるわけだ。
と、そういう頭で高等学校の地理の検定教科書を見てみると、ちょっと気になるところが在ることに気づく。清水書院『高等学校現代地理A 新訂版』(2019年発行)のp26-27の「人種と民族」より。強調やルビは引用に反映させないで省略する。
人種とは、皮膚の色や骨格・身長など遺伝的な身体の特徴によって人類を区分したものである。しかし、身体的な特徴にもとづく人種の区分は絶対的なものではなく、皮膚の色のちがいも、長い年月の間に、その土地の気候条件に適応した結果であるといわれる。近代以降、ヨーロッパの白人は世界的に政治・経済の上で優位に立ち、その過程で白人以外の人種への偏見が生まれた。人種差別的な偏見は、白人の支配を正当化するために、人種間の優劣が宣伝(ママ)されてきたにすぎない。
それに対して、世界の人びとを、言語・宗教・歴史・社会制度などの文化的指標や共通の帰属意識で分けたものを民族という。なかでも言語は私たちが毎日使用している最も身近な文化であり、民族の分類に用いられることが多い。
主要な民族、つまり人口が多く、分布の範囲が広い民族は、アジア大陸の漢民族やマレー系民族、ユーラシア大陸中央部に広く分布するトルコ系民族、西アジアから北アフリカにかけて居住するアラブ民族、中・南アフリカのスーダン系民族やバンツー系民族などである。
一方、インド=ヨーロッパ語族の言語を使用する諸民族は、ヨーロッパおよびイラン高原からインド北部にかけて分布している。このうちヨーロッパに住む人びとは、英語・ドイツ語・スウェーデン語などのゲルマン系言語の民族集団、フランス語・イタリア語・スペイン語などラテン系言語の民族集団、ロシア語・ポーランド語などスラブ系言語の民族集団などに分けられる。これらの諸民族は16世紀ごろから世界各地に移住して、その分布範囲が大きく広がった。
「宣伝」はママ。おそらく「喧伝」が正しい。
で、何が気になったかというと、これだけ読むと、「自分がA民族であるかB民族であるかは、自分の父親と母親がいずれであるかによって決まってくる」というのが通常であることが、まったく伝わってこないのである。むろん、親が帰属している民族と異なった民族になる・なり替わることも可能かもしれないが、自動的になり替わるとかそういうものではないだろう。私がたとえば日本から海外に移住してそこの言語を身につけたから、はい、それで私の民族はその暮らしている国の言語を使う民族です、とはならない、少なくともなると決めてかかれない、ということが在るはずなのだが、それが伝わってこないのである。高校生がこのような教科書で勉強すると、青柳のこの著作を読んだときに「あれっ?」とちょっと躓く箇所が出てくるとすれば、ここだ。日本に住み日本語を話す人(たとえば、親が朝鮮の人である場合やヨーロッパの人である場合を想定してほしい)がもし国勢調査で「民族」や「エスニシティ」を質問されたとして、「大和民族です」と回答して良いようには、私には青柳のこの本を読んだ後だと、思えない。思えなくなっている。日本人に帰化することはできる。国籍を変えることはできる。でも民族は、私が何者かで決まるのではなく、私の父親と母親がどの民族に帰属するかで決まるものなのではないか、とそう思えるのである。少なくとも青柳のこの著作を読んだあとだと、そうとしか思えなくなっている。国勢調査が聞きたがっているのは、「要はあなたの祖先は何者?」なのだからだ。でも、高校の地理の教科書からはその辺の「国勢調査をやりたがる国家」の存在がどうも感じられないのだ。
ここで今さらのように書いておくと、青柳自身は、「人種」「民族」という語は国勢調査の記述に対してはほとんど用いず「レイス」「エスニック(集団)」という語でほぼ一貫させている。「人種」を用いないのはわかる。各国の国勢調査の中には、どう捉えても日本語の「人種」とは異なる含意をもつものも含まれているからだ。一方「民族」に関しては、青柳のほうも今さらのように、p167で次のように述べている。この点は踏まえておいたほうが良い。検定教科書に記載されている「民族」のみを想定して読むと、この本で扱う各国の国勢調査もかなり理解に苦しむものになるからだ。
ところでエスニック集団はしばしば民族とか部族と訳される。民族や部族とエスニックは同じであろうか。違うのであろうか。中国のチベット人やウィグル(通常部族と呼ばれることが多い)、あるいは紛争で有名になったルアンダのフチ(ママ)やフツ(通常部族と呼ばれることが多い)などは、そのままエスニック集団と言い換えることができる。つまりエスニック集団と民族あるいは部族は同じ文脈で用いられることもあるが、常に同じというわけでもない。それはエスニック集団という言葉が用いられる時、通常はそれらを包括する上位社会の存在が想定されているためである。上位社会とは現代でいうなら国家である。
「フチ」は「ママ」だが、単純な「ツチ」の誤植だろう。で、国勢調査の中には確かに「民族」というよりも「帰属する国家」を尋ねているように思える「エスニック」枠も見られるようなので、この青柳の記述も最初に知って念頭においておくほうが、上掲の検定教科書等で高校にて地理を学んだ人は混乱しないかもしれない。
ちなみに、日本国は青柳のこの著作から見る限り、たとえばアメリカ合衆国のほとんど対極に在る。その対極さが、逆にすごく似て見える。アメリカ合衆国が「黒人の血が1%でも入っているか」を極度に気にすることと、日本国が「日本列島の住人に、他民族が居るか」をいっこうに国勢調査で聞こうとしないこと、まるで「大和民族100%」ですと信じ込んでいるかのように聞こうとしないこと、とは対極の態度でもあるし、それゆえに逆にすごく似ているようにも思える。とこれは私のかなり主観的なコメントである。
あと、私が素人であるためだろうか、どうしてもわからなかった重要な点が在る。それは、アメリカ合衆国の国勢調査で、人種とは別立てでエスニック集団を尋ね、それが細かく分類するためでは何らなくて、「ヒスパニックであるか否か」だけを尋ねる、というその理由である。私はこの理由のヒントになりそうな箇所を、この著作から見つけることに成功しなかった。この点がわからないと、「なぜ国家というものは、国勢調査でエスニック集団というものを質問しがちなのか」のかなり肝腎な部分が不明のままになってしまう。上記の「支配する側かされる側か」という観点も関係ない。それは「インディアンの血がどのくらい混ざっているか」という「人種」のほうの項目で質問済だ。だから、アメリカ合衆国が「ヒスパニックであるか否か」だけを尋ねるという理由は、おそらく別の事情が絡んでいる。だが、それがわからなかった。わかる人にはわかるのだろうか。これはこの著作のなかでかなり中心を占める「謎」だと思うが、その「真相」らしいものを推察することもできなかった。追記します。その後、他のいくつかの書を眺めているときにわかったのは、「ヒスパニック」というのは「白人」のなかでは少し格下に見られているらしいことだ。この事情が関係している可能性が在る。
ただし、上記の謎は謎として、それ以外のことはいろいろと言える。たとえば、アメリカの国勢調査で「ヒスパニック(スペイン系/ヒスパニック/ラティーノ)であるか否か」を質問することによって、国勢調査の回を重ねるごとに、その項目にイエスで回答する者の数が増えている、ということらしい(p189)。或いはイギリスにおいては、「その他」の項で「コーニッシュ」と回答する者という層が、まとまった頑強な形で存在しているらしい。「国勢調査でエスニック集団を尋ねるならコーニッシュという選択肢を作れ」と言わんばかりであるほどのようである(p194-195)。この著作が描き出している国勢調査というものの、今一つの重要な性質として、「国勢調査によってエスニシティへの帰属意識が強化されたりする人々や、帰属意識が強いからそれを国勢調査の設問や結果にも反映させるべきだと考える人々も多い」といったタイプの事柄であろう。言うなれば、国勢調査についての謎には「なぜそう調査するのか」だけでなく、「その調査の結果どのようなことが起こるのか」というものも在り、後者に照準すると、上記のような種類の事柄が関係の在るものとして、浮かび上がってくる、ということだ。後述する「カレンジンという民族」についても同様だ。
さて、この著作は淡々と書かれているからこそ、面白い話題というのは印象に残る。いくぶんランダムに紹介的に、この本から拾った話題を書いておこう。
「ヌエル族」という呼び方は、当人たちはしないということ。当人たちは自分たちの集団を「ナース」と呼び、彼らを「ヌエル族」と呼ぶのは、隣の「ディンカ」族であるということ。という話題に軽くふれられていた。書いてなかったけどこれは南スーダンでのことであるらしい。(p30)
ニュージーランドでは国勢調査での「エスニック集団」の項目で、総人口の11%もの者がおそらく他の選択肢をかえりみることなく「その他」を選択したうえで「ニュージーランド人」と回答したということだ。「先祖がヨーロッパ人であるとかないとか、先住民の血が入っているかとか、そんなことはどうでも良い」というそういう回答者が急増している、ということのように私には思える。青柳自身も言うように、「ニュージーランド人」という回答は、民族や人種での答え方ではない。単に国籍を回答したのとほとんど同じことだ。つまり、用意されている選択肢を無視しての回答であるわけだ。(p181-184等)
ケニアでは、ナンディ語族として分類されていた、ナンディ、キプシギス、トウゲン、マラクウェット、ポコットなどのいくつかの民族が政治的にかつ自発的に「カレンジン」という一つの民族に統合するという運動が学生主導で行なわれ、ついには国勢調査の項目にも採用され、ケニアの五大民族の一つにまで成長したという話題も在った。少数民族のままでいるよりも、統合して或る程度のサイズの民族となるほうが、おそらく政治的に有利とかそういった事情が在るのだろう。このように、人工的にしかも自発的に民族が作られることも在る。
ともあれ、国勢調査は、質問に答える側にそのカテゴリーが理解され共有されていないと、有効にはならない。いくら国家や政府が、特定のカテゴリー分類で分類しようとしても、それが回答する側に理解されない選択肢や、とうてい受け入れられない選択肢だと、望むような調査はできない。とは言え、ニュージーランドのように「その他」の項目を活用することで、回答する側がするような「自己主張」がいつでもできるとは限らない。用意された選択肢以外に回答しても無効扱いされてしまえばそれまでである。そういうふうに処理していそうな国家も見受けられたし、きっと多いだろうとも思える。中華人民共和国やベトナムだと、国家に掌握されていない超少数民族の場合だと、選択肢が無いので回答しても無効扱いになるだけだろう。
事実というものが、別に不正などしなくとも或る程度「操作」可能であること、或いは調査の結果がやり方次第で大いに変わってきてしまうということ、或る種の「不正」的な操作が国家の政治的な都合で行なわれることも時には在るということ(p146-155に記載されているレバノンのケース)、そういうもので得られた結果が、けっこう「ちゃんとした事実」扱いされやすいということ、そういった感覚がこの著作で得られれば良いと思う。無論、個別のいろいろな話題にもまだ興味深いものがいろいろと在るのである。たとえば「北海道だけ他と違って、なぜ細かく県が分かれていないのだろう」などと疑問に思ったことの在る人ならば、この本に出会ったことで、何かヒントの破片くらいは得たような気分になれるはずだ。