コメント:水村美苗『増補 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』

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雑に読み流しただけの書籍なので、書評というよりは、この書をもとにした単なるエッセイを以下綴る。この書については発表当初膨大なコメントが読者から寄せられているはずだが、私は内容をまったく知らない。知らないまま、以下を書く。

自分が高校生のときには、全く知らなかったことを教えてくれた。それがこの本を高校生に推薦して良いと考えた理由だ。大学で取り扱われる学問の主流というものは、西洋あるいは欧米のものだ。本来なら、授業も欧米語で行なわれ、テキストもすべて欧米語で書かれていて良いものだ。これを筆者は高校生のときに、いやそれ以降もずっと気づかずにいた。だが、現代日本語という言語のほうが存外成熟しており、大学の教師や研究者にもやる気の在る人が多かったため、たまたま私の場合、ほとんどの学問には日本語のみで接することができた。そのような時代や状況に恵まれていたのは、筆者の場合偶然にすぎなかった。そのことがこの本が教えてくれたことの一つだ。21世紀の日本の大学は徐々にそうではなくなってきているようだし、大学の授業が英語で行なわれるのも当然だと考えている若いかたも多いことだろう。ただし補足すると、筆者が大学で接した「成熟した日本語」は、この書で言及された近代日本文学の日本語ではなく、それを前提としたより生育した、もっとずっとのちの現代日本語だ。たぶん大森荘蔵とか橋爪大三郎とかそんなあたりの人の仕事と関係在るものだろう。

さてしかし、大学制度のほうは私に対して牙をむき出しにした。日本語で出版物が読めそして日本語で論文を書くことも不可能ではない状況がこれだけそろっていても、大学というところは英語が一定以上できないと入学資格が得られないし、ドイツ語かフランス語の初歩を入学後にまず習得しないと、大学に入学した肝腎の目的である学問そのものに触れることすら、許されなかった。そして、文字での日本語を読み書きする力がそれに見合う程度に入学前に試験されるようにもなっていないのであった。少なくとも制度はそのように設計されていた。そして、水村のこの本を読むと、英語とドイツ語とフランス語とが同等に権威のある学問のための言語であった時代が、とうに過去のものになっているらしいことが私にはわかった。ここ十年・二十年以上は圧倒的に英語の時代だったのだ。

大学受験生のほうが「とにかくまず学問の中身を日本語で教えてくれ、でないと志望大学学部を選べないから」となどと考えているのとはうらはらに、大学のほうでは「とにかく英語とドイツ語かフランス語をまず習得してくれ。でないと多くの学問ができないから、教えるわけにはいかない」などと考えていたことがわかった。そしてほとんどの学生は、そこで羊のように従順に「まずドイツ語かフランス語を習得する。英語ももっと高度な内容を勉強する」ことを、学問にふれることなく行なう。そのときに「ドイツ語を選ぶかフランス語を選ぶか」ですでに、学問の中身や品質そのものを選んでしまうことにもなるのだが、そんなことを選ぶ権利などは学生には無いのであった。ともあれそのようにしてこの制度が維持されてきた。

もう一つ、まったくもって個人的な記憶をこの書によって喚起されたので、記載しておく。それは「さあ、英語という教科を始めよう」と中学一年生になるかならないかの頃に、最初に買ったのが私は和英辞典であったことだ。このことに象徴されるマチガイは、その後の自分の英語学習とは呼べない何かを決定づけた。英語を学習するというのは、すでに身につけている日本語をどのように英語に変換していくかを学ぶことである、というのが当時の筆者の漠然とした信念であった。英語の授業というものが、既有知識である日本語をどのようにして英語に翻訳していくのかを教えるものであったならば、筆者は嬉々として学習したかもしれなかった。しかし特に学校の英語の授業というものは、そうではなかった。いきなり中くらいの長さのまとまった英文が渡されて、「ほい、読んで」というものだった。これが筆者には全く理解できなかった。もちろん、筆者のこのマチガイを暗示するものとしてたとえば「では兄や弟は英語で何と呼ぶのか」といった問題圏も在ったが、当時はあまり気づかなかった。「elder brother,younger brother」などといったどうせ実際にはネイティブが使わないような表現可能性で満足していた。そして、学校の英語の授業が何をさせたいのか、なぜそうなのかがまったくわからなかった。数十年たってふりかえってみれば、いろいろわかる。中学受験というものの終了と同時に、「国語」という教科は、少なくとも現代日本語を学習する教科としては勝手に終了していて、あとは古文・漢文の学習ばかりで占められるのであり、現代日本語は大学入試も含めて露骨なおまけ教科でしかなかったこと、そして、英語というのは「既有知識である日本語」を置き換えて理解するものなのではなく、反対に、英語を学習することによってそれまで習得してしまった日本語に変革を迫るものであった、ということだ。現代日本語の源流になっている近代日本語がそのようにして「外国語を翻訳する」ことによって成立してきたのだから、当然なのだ。そのような筆者のマチガイをこの書での「近代日本語成立史」の叙述によっていわば「位置づける」ビジョンを得られたように思う。

ここで興味深いのは、近代日本語の成立にあたって、「大学」が果たした役割と「文学」の重要性である。水村も述べるように、近代日本文学をつくりあげた、ということはつまり近代日本語そのものをつくりあげた者のほとんど全員に近い者たちが、大学を出ている者たちであることだ。大学は、外国語の学術文献を日本語に翻訳することを教える機関である。だが、自身の学問的成果(論文)を日本語で書くなどという学者はめったに居ない。学問をしたいのならば、その学者はやはり外国語で書き、外国語を読む読者に学問の成果を問うべきなのだ。ところが、文学作品の場合、むしろ日本人に読まれ日本語読者にこそ読まれる必要が在る。だから、学術的な著作よりもむしろ文学作品において、「外国語からの翻訳」を前提とした日本語というものが成立・成熟するようになった。戦後だと、学問と文学とはむしろ対立的に捉えることのほうが常態だと思うが、その一方で、戦前というか明治以降ではそうではなかった。日本人が学問的な著作を書くときはほとんど外国語で書いたのに対して、文学作品は日本語で書かれ日本語を育てることとなった。日本語をそこで育てたのは、「学問を日本語に翻訳する」教育機関からの影響というものにほかならなかったわけだ。学問と文学との関係が近代と、戦後以降とで全然異なるわけだ。これらはほとんど水村の述べていることの追認にすぎないかもしれないが、私には興味深い見解であった。

ところでこの本のなかでは「書き言葉」「話し言葉」という語が、キーワード的に規定されたわけでもなく、しかし頻発する。この書での使用もまた多くの人と同様に、厳密なものではなく場当たり的な用法である。たいていの場合は「書き言葉」は「書くための言葉・言語体系」か、あるいは「実際に書かれた言葉・文字列」であり、その両方が区別がつきにくい場合や混在している場合も在ると見なせば良いし、この書の場合それでさほどの問題が出るわけではない。「話し言葉」も同様だ。ただ一つ気になったのは、次のような用法だ。筑摩文庫版だとp383。

しかも、日本語という特異な<書き言葉>をもつ私たち日本人こそ、世界に向かい、まさに誰よりも声を大にして、「表音主義」を批判するべきだったのである。

日本語は<話し言葉>としては特別な言葉ではない。

この箇所をみると「書き言葉」というのは「日本語という言語体系のなかの一部である、書くための体系である部門」であり、「話し言葉」というのは「日本語という言語体系のなかの一部である、話すための体系である部門」とでも位置づけられているかのようだ。そしてもちろんそれでいて、重複も在って良いのだ。書くために使っても話すために使っても良いというタイプの「日本語の語句・語彙」もいくらでも在る、というそういう関係に在るようなのだ。こういう使い方は筆者は他の人の書いたものではあまり見かけなかったと思う。普通ならこんな回りくどい言い方などせずに、「文字言語」「音声言語」と呼べば済むのだし、「諸言語」のなかでの日本語という話題だからそれで良いはずだ。ところが著者がそういう言い方をしないために、この箇所に代表される用法は、読んでいてあまり考えることなく読み流して済ましてしまう箇所になりやすい。

話を戻して、この書のメリットについて述べる。この書は、さまざまな問題提起をしており、議論を喚起するのに適している書であるだろう。いろいろな異論や反論も思い浮かびやすい。だが、この書が書かれた頃のまだ相当呑気だった時代のことを忘却せずに済む点でも、この書は良い。この点は後述する。

で、私自身が感じたのは、「国語という授業で近代日本文学を読ませる」ということの重要性を訴えるのと同じ程度に、教科名は何でも良いので「漱石や一葉の文学作品についてレポートで論じたり筆記試験で回答したりするための記述する現代国語力をつける授業」を高校で行なうことこそが火急だろう、というものだ。そして、その授業は、音声での授業でないほうが良いだろう。文字を読むことが中心になる。音声での授業を中心としているあいだは、漢字力を中心とした現代日本語の能力や、句読点をもつ「一文」という単位を基礎とする現代日本語文法の能力はつきようもないからだ。そこで目指されるのは、新聞等の報道やオピニオンを読んだり、ビジネス文書やレポート類を書いたりするといったことだし、何よりもまず、文系の大学進学者が、最低でも志望学部学科の教員の書いた著作くらいは事前に読んでおけるようにすることなのだ。大学入試の現代文や小論文などがゴールではない。その教科の設計のためには、言語に関係する諸学問の知見を総動員する必要が在り、かなり高度な知性・専門性が必要である。専門ごとに、また文章の内容ごとにも、さらに細かく教科を分けるほうが良いかもしれない。ともかく、そういった味気ない文章もまた大量に読む必要が在り、かつ生徒には読む機会がほぼまったく無く、だからこそ余計に書けるようになる必要も在るのである。

著者水村が理想とする日本語での授業を高等学校までの課程で行なおうと企図するならば、その分何かを削る必要が必ず出てくる。水村はそれを英語だと考えている。筆者も、現在の英語教育はそれを受ける者のために行われているものとは到底思えないので、その点で同感だ。筆者は、「読むための英語」にほぼ限定して教育を行ない、音声でのやり取りを行なう英語力はそれが必要な生徒が他に機会を設けて行えば良いと思う。だが時代が呑気でなくなったというのは、まさにそれであり、為政者は正確にこれと正反対の事態こそを想定・切望しているだろうことがうかがえるのだ。日本国の為政者は、全国民に「まず音声でのやり取り(主に命令に対しての服従)をアメリカ人とできる英語力」こそを、それだけを身につけさせたいのだ。というのは、いずれ日米関係がそのような、宗主国と属国のような主従関係になっていく未来が為政者に強く望まれているからだ。それに為政者は、多くの日本人には英語がすらすら読めるようにはあまりなって欲しくもないだろう。読める言語が日本語だけである国民で占められているほうが、情報的に鎖国状態にしやすく統治しやすいからだ。2019年に首都圏の一部大型書店をめぐってみての、日本語の「堅い書籍」の凋落ぶり(下手すると以前の10%以下程度の量しか無い)や、そもそも大型書店の店舗自体がここ十年ほどで大幅に減少したことをみると、この想像もまんざら外れとは言えないだろう。「堅い本」や「まともな内容の書籍」は日本語では書かれなくなったか、または読まれなくなったのだ。下手すればその両方かもしれないほどだ。水村のこの書には、まだ現在みられるようなそのレベルでの切迫感は無い。

水村の書では、英語が「普遍語」の位置をいやおうなく占めていて、その趨勢が不可逆であることが述べられている。このあたりの事情説明はたぶんかなり的確なものだろう。知っておいて良かったと筆者は思う。と同時に、日本政府が英語教育をより重視する理由はその点には無い、ということも2019年までの情勢からはうかがえる。日本政府にとっては英語というのは普遍語なのではなくて、あくまで宗主国の言語なのだ。だから音声でのやり取りができるように、もっといえばアメリカ人さらには米兵の部下に日本人がなることができるように、というふうな形で重視し教育しようとする。そこへ「普遍語としての英語」を音声中心で習得させたい者が同調したりもする。なので、そのような政治的事情によってもまた、水村の理想はおそらく敗北することになる。そのような読後感を私はもった。